FC2ブログ

茨城の難読地名(その6)-河内

難読地名2
 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

中河内 【なかがち】 水戸市
上河内 【かみがち】 水戸市
上河内 【かみがち】 那珂市
東河内 【ひがしごうど】 日立市
西河内 【にしごうど】 常陸太田市
油河内 【ゆごうと】 常陸大宮市

もともと「河内」は 【かわのうち(川の内)】が ⇒ 【かわうち】 ⇒ 【かわち】(一部ではコウチ)となったものでしょう。

いっぽう、茨城県の県北地方に「がち」「ごうど」なたは「ごうと」と読ませる地名も存在します。
その成り立ちを少し調べてみましょう。

まず水戸市にある「中河内町=なかがちちょう」、「上河内町=かみがちちょう」ですが、この場所は古代官道が常陸国国府の石岡から台渡里(渡里町)まで真っ直ぐにひかれていましたが、この台渡里に馬を常駐させる駅家(うまや)がありました。
そして那珂川(古代は粟川)を挟んで対岸側がこの「河内」地区です。

ここにも馬を常駐させておく駅家(うまや)があり、河内駅家(かわちのうまや)が置かれていました。
そして何時頃からかこの地は「河内村」と呼ばれていました。

「今昔水戸の地名」(堀口友一著)によると、この「河内村」は「カチ」と呼ばれており、これは「カワチ」の急呼だといいます。
カワチをせっかちな水戸っぽが呼んで「カチ」となったのでしょう。

そしてそれが上、中、下などとわかれ、「上河内=カミガチ」「中河内=ナカガチ」となったものと思われます。
この上河内町ですが、水戸市にある町ですが、一部が隣の那珂市にもまたがっているところがあるようです。

一方やはり里川の少し上流地域にも「河内」という地名があり、東側は日立市で「東河内(ひがしごうど)」、西側は常陸太田市で「西河内(にしごうど)」と呼んでいました。

しかし現在は常陸太田市の西河内(にしごうど)との呼称は「西河内(にしごうど)上町」「西河内(にしごうど)中町」「西河内(にしごうど)下町」などと分かれ、一部が市町村合併が繰り返されたため、旧水府村の領域に入っていた 「西河内上」は合併で「河内西(かわちにし)町」と変更になりました。

また常陸大宮市の国道293号線を常陸大宮から北上し、「道の駅みわ」の手前の小舟地区から「やすらぎの里公園」方面に進み、すぐに「油河内川(ゆごうとがわ)」という小舟川の支流があります。この川を西にさかのぼった先に「油河内」と書いて「ゆごうと」という地名があります。

「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、河内とは川を中心とした狭い平地を意味し、沢に温湯の湧く所があり、湯河内と名付けられ、後に油河内に改められた。(水府志料) と書かれています。
しかし、現在温泉のような施設も見当たりません。

河内を「ごうど」「ごうと」と読む由来についてはあまりはっきりしません。
ただ「河」は「こう」「ごう」とも読み、「内」も音読みでは「ない」「だい」「どう」ともよむため、「ごうどう」などとなり、「ごうど」とつまってなったものと考えられます。

しかし奈良時代に書かれた常陸国風土記の久慈郡には、「郡家(旧水府村付近)の西北二十里のところに、河内の里あり、もとは古々の村といった。(「ここ」は猿の鳴声からきたといふ。)里の東の山に石の鏡があり、昔、鬼が集まって鏡をもて遊んでゐるうちに、鬼は消えてしまった。「恐ろしい鬼も鏡を覗けばおのれを滅ぼす」といふ。そこの土は、青い色をしてゐて、良質の絵具として使へる。「あをに」とも「かきつに」ともいふ。朝廷の仰せで、都に献上しゐる。この里は、久慈河の源にあたる。」(口訳・常陸風土記)

とあり、猿の泣き声から「ここ」といい、「古々」となり、それが「河内」変わったと書かれています。

また参考までに、兵庫県には「染河内(そめごうち)」などと呼ばれる地名もあります。

その他茨城県にも「河内村(かわちむら)」などと呼ばれたところは数多くあるようです。
いまでも南部には稲敷郡「河内町(かわちまち)」がありますし、昔の真壁郡に「河内村(かわちむら)」(「かっちむら」とも呼ばれる)が存在していました。いまは関城町に組み入れられ、筑西市となり村名は無くなっています。

(関連地名)
・入四間 【いりしけん】

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/01 07:55

茨城の難読地名(その7)-廻戸

難読地名07

 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

廻戸 【はさまど】 阿見町

「廻戸」と書く地名は東北の方には結構あるようです。
福島県では、喜多方市に「東廻戸=ひがしまわりと」、南会津町に「糸沢廻戸=いとざわまわりつと」「川島廻戸=かわしままわりつと)」、昭和村に「野尻廻戸=のじりまわりと」、二本松市に小字で「廻戸=まわりと」などがあり、宮城県にも丸森町に「峠廻戸=とうげまがりど」、岩手県にも西和賀町川尻に「廻戸=まっと」などがあります。
しかしこれらはいずれも「まわりど」が語源の基であり、「まっと」などというのも言葉が詰まったことでそのようになったものと考えられます。

こちらの阿見町の「廻戸」は【はさまど】と読みます。

「角川日本地名辞典(茨城)」によれば、「迫戸とも書いた。霞ケ浦の南西岸に位置する。地名は海に挟まれた土地に由来するという(阿見町の生い立ち)。縄文時代の廻戸貝塚がある。」と書かれています。
また、江戸時代初めの慶長11年(1606)「常州知行目録」では「波佐間戸」との記載があり、江戸時代末期の「天保郷帳」には「波佐間戸村」とあり、古は廻戸村とあります。

ところが、阿見町教育委員会のまとめた「阿見の昔ばなし その6」によると、
慶長7年(1602)の検地帳には「廻戸村」とでてきており、それ以前は「波佐間戸」と書かれたり読まれたりしていたとなっています。

どうも大昔は「波佐間戸=はさまど」で、江戸の初め頃から「廻戸=はさまど」に変わったのでしょう。
でも江戸時代には「波佐間戸」も「廻戸」もどちらも使われていたのかもしれません。

また、阿見の昔ばなしの説明では、旧道をたどってみると谷津をはさむ坂道など曲がりくねった細い道だったことがわかるため、
廻戸の「廻」は、あたりをぐるぐるめぐる、まわるという意味があり、このようなところからとったのかもしれません。
また、「戸」は、霞ケ浦沿岸、利根川、その他の沼や川の近くの入りくんだ所に「戸」のついた地名を見つけることができます。
廻戸と向かい合う霞ケ浦対岸に「折戸」という所がありますが、「戸」は、昔入りくんだ地で河岸のあった所が多く、廻戸も河岸があったとされていますので、舟のつく所からきているのではないでしょうか。

と書かれています。

実際に行ってみました。この場所は国道125号線沿いに予科練平和記念館があり、その反対側の高台になっている場所です。
登ってみると高台と低地が入り混じった地域といえます。

坂道に沿うように住宅が並んでいて、裏手の山が中世に「廻戸城」があったという高台になっています。
上の台地の一角に「まほろば」という施設があり、そこから霞ケ浦が良く見渡せます。
また、この施設の入り口横に「廻戸貝塚」の説明看板がおかれていました。

この山一帯が中世の廻戸城の跡で、城の城主は土岐大善太夫(江戸崎の城主)の家臣「高野次郎八郎」という。

さてざっと見てきて「廻戸=はざまど」の名前の持つ意味を考えてみた。

霞ケ浦がまだ海だったころを想像してみるとこのあたりの地形はどんな様子だったのでしょうか。
恐らく、このあたりも入り江が入り込んだ地形で、一部は島のようになっていたのかもしれません。

入り江に舟着き場があって、ここから漁に舟が出て、島を廻っていたのではないでしょうか。
戸は江戸などと同じ戸口(河口)と思われます。

地形的にはこのような名前なのだと思います。

(関連地名)
・十三間戸 【じゅうさんまど】

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/01 12:34

茨城の難読地名(その8)-七五三場

難読地名08
 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

七五三場 【しめば】 結城市

この七五三は人のお名前(苗字)にも使われており、知っておられる方も多いかもしれません。
「しちごさん」ではなく「しめ」と読みます。

しめ縄(注連縄)の「しめ」です。
昔、しめ縄には三本、五本、七本というように紐をぶらさげたため、しめ縄のことを「七五三縄」とも書いていました。

この地が何故この名前になったのでしょう。
「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、鎌倉時代ころに毛呂(もろ)郷の南域に「志目波(しめは)郷」という郷名があったという。
また、戦国末期の秀吉が山川晴重に与えた知行目録には「志めは」と見えるとあります。

このため七五三場村(しめばむら)という名前は江戸時代初め頃から使われだしたようです。

「志目波」が「七五三場」に変わったいきさつが書かれたものは見つかりませんが、縁起の良い名前にしようとして変えたものと推察されます。

この地名が直接神社に結び付く記録は見つかりません。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/01 19:38
 | HOME |