茨城の難読地名(その18)-天下野

難読地名18

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天下野 【けがの】 常陸太田市

「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、当地の獅子舞は徳川光圀に「天下一」と賞されたことから、江戸で「天下一」の標旗を掲げていたが、将軍に天下一の呼称は身分を越えたものとされ、光圀が「天下野村で一番の意である」と弁明したとことにより、天下野と称するようになったと伝える。また当地名は大阪の天下茶屋、美濃の天下原とともに日本の三地名の1つという(水府村史) と書かれている。
また、水府村史によると、元禄12年(1699年)に常陸国久慈郡の下高倉村が改称されて「天下野村(けがのむら)」となったと記されています。
徳川光圀が亡くなったのは1701年ですからその少し前です。

江戸期には「天下野村」「上高倉村」「下高倉村」の三村があり、明治22年に三村が合併して「天下野村」となりましたが、明治29年には再び天下野村と高倉村(旧上と下の両方が一体となった領域)に分離し、昭和31年にまとまって「水府村」になっています。

この天下野村(けがのむら)の領域は常陸太田市でも北部の山間の地域で、常陸大宮市との県境である阿武隈山系の麓の領域です。今では観光で有名になった「竜神橋(大吊橋)」があります。

地名の由来には上に書いた水戸黄門(光圀)の話が紹介されているだけで、それ以上細かな話は残されていません。

天下一と賞されたという獅子舞は地元の説明では「散々楽」(ささら)だといいます。ささら舞は獅子(鹿)の姿をした被り物を被って踊るものが東北地方では知られていますが、茨城県は主に「棒ささら」が多いようです。
三匹のささら(棒に獅子の人形を取り付けたもの)を下から人が操作して踊ります。
ささら舞を「散々楽」と書くのは、水戸の台渡里あたりのささらを呼んでいるようですが、この天下野のささらが今でも行われているのかどうかわかりませんでした。

光圀が地名を変えた話は各地にあり、「板久」を「潮来」(いたこ)に変えた話などが有名です。

ただ、この地を天下野と書くという前には恐らく別な漢字で「けがの」と呼ばれた地域がこのあたりにあったと考えられます。
それを探るために「けがの」という地名を探してみました。

和歌山県橋本市慶賀野(けがの) がありました。

この橋本市の慶賀野という場所は、地図でしらべると大阪から高野山に向かう参拝道である「高野街道(こうやかいどう)」沿いにある町で、大阪府側から和歌山県側に入るときに「紀見峠(標高400m)」を越えて、下った麓にある町です。高野山にはそこから橋本市の街中を通ってまた山に登ります。

地形を見ていると常陸太田市の天下野と少し似ているように思われます。
意味合いはよくわかりませんがこちらの天下野もその昔は「慶賀野」または何か別な漢字で書かれていたのかもしれません。

「毛野、毛ヶ野」または「穢野」なんて漢字で書かれていたのかもしれませんね。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/10 05:53

茨城の難読地名(その19)-先後

難読地名19

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先後 【まつのち】 小美玉市

この先後の読み方ですが、現在の登録されている住所表記には「まつのち」となっていますが、地元では「まつのち」は言いづらく、昔から「まずのち」と呼ばれています。
通常の会話では、このあたりのことばとしては濁った発音で、「まず」などとよく言いますよね。

また、「角川日本地名大辞典(茨城)」には、地名の読みは「まずのち」となっています。(旧美野里町)
平成の市町村合併前の美野里町の頃は「まずのち」と呼ばれていたようです。
それを濁らない「まつのち」に変えたのには何か理由があるのでしょうか?

地名の由来について、この地名大辞典では、
1) 伏見(京都府)・松崎(千葉県)と当村の3稲荷が京にのぼり位階を受ける時、伏見が最初に受け、そのあと当村の稲荷に勧めたところ、松崎を推し、私は「まずあとにしよう」といったので先後とした。
2) 松崎稲荷の分霊を祀ったので「マツザキ」に対して「マツノチ」とした。
などの伝承がある(美野里町史編集資料) となっています。

まあ伏見稲荷は有名ですので別格として、もう一つの松崎神社ですが、この神社は千葉県香取郡多古町にある坂上田村麻呂が蝦夷征伐に出かけるよりも前の西暦772年創建が伝えられる古い神社で、「坂東稲荷本宮」などとも称していた神社です。

この1)の話は地元の神社などに掲げられた地名由来の話とほぼ同じです。
伏見稲荷と、松崎神社の2社に同列でこちらの神社の位を論じるのは少し不適切に感じます。
このため、上記の説では2)の方が可能性は高いかも知れませんね。
そうすれば「まず」ではなく「松=まつ」というのが正式名称というのはうなづけます。

さて、この場所は小美玉市(旧美野里町)の6号国道が隣の茨城町に入るすぐ手前の低地で、巴川上流左岸にあります。まわりは田んぼが広がっており、先後新田と呼ばれていますが、江戸後期の天保年間までは「前後新田」と記載されています。
また先後稲荷(まつのちいなり)は徳川光圀が、西郷地村(すぐ東となり)の刺賀飛護念(ひがひこね)の社(現石船神社)に合祀されたといわれます。(県神社誌)

全国に「先後」という地名は見つかりませんでしたが、「前後(ぜんご)」という地名はあります。

愛知県豊明市前後(ぜんご)  これは名鉄名古屋線の駅名にも成っていますので、知っている方も多いのではないかと思います。

地名「前後」の由来としては

1) 昔、桶狭間の戦い(1560年)で織田信長が今川義元を破った時、この戦いで亡くなった兵士たちの首を「前後」に並べたところからつけられたとの伝承からついたという説。

2) 「前後村」という名前は、明治になってからつけられた名前で、それまでは「五軒家新田村」と言われていました。その「五軒家新田という名前も、その前をさかのぼると、江戸時代初期には「間米(まごめ)村」といわれ、中心となる「本郷」のほかに、17世紀に「五軒家」、「八ツ屋」、「三ツ谷」という3.つの集落ができました。これらの集落が本郷の南にあるため、「前郷(ぜんごう)」と呼ばれたのが、「前後」に変わったものという説。

3) 桶狭間のなまえの元になっているように、このあたりは狭い谷が迫っているところで、狭い所を意味する「せこ(狭処)」が変化して、「せんこ」になり、それが「ぜんご(前後)」に変わったものとの説。

などの説があります。

小美玉市の「先後」について、地形によりつけられたという話しは見つかりませんでしたが、何かありそうな気もします。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/10 14:20
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