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茨城の難読地名(その48)-烟田

難読地名48

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

烟田 【かまた】 鉾田市

烟田【かまた)】という地名は現在の郵便番号簿には他に出てきません。
また「烟」という漢字はあまり見かけませんが、「烟=煙」で、烟る=けむる、けぶると読み、音でも「えん」としか辞書には出てきません。
どうしてこの漢字で「かまた」と読むのでしょうか?

角川の日本地名大辞典によれば、北浦に注ぐ巴川河口東部に位置する。縄文中・後期の烟田貝塚や寺前古墳がある。
となっており、この「烟田村」の地名は鎌倉期にすでにみられるという。

また、常陸(平氏)大掾氏の一族である鹿島氏の祖、成幹の子の親幹が徳宿郷に拠点をもち、親幹の子が秀幹が徳宿秀幹を名乗り、その子の朝秀が、烟田・大和田・富田・生井沢の4か村を譲られて、烟田(かまた)氏を名乗っています(13世紀)。

そのため、すでに13世紀には「烟田村」があり、「かまた」と読んでいたことがわかります。

ただ、平凡社の「茨城県の地名」にはこの鎌倉期の村の名前は「鎌田村」と書かれており、ここを烟田氏が支配しており、烟田城があったとなっています。

仮設ですが、鎌田村が元々あって、そこを支配した鹿島氏の一族である徳宿朝秀が「烟田朝秀」と書いて、烟田(かまた)氏となり、地名も「烟田村」と書かれるようになったのかもしれません。

「烟田」という漢字の意味は「煙るような土地、霞がかかった土地」というような意味合いがありますので、田畑によく霞がかかるようなうな土地だったのでしょう。

元の「鎌田」や「蒲田」という名前は、各地にたくさんあり、地名の由来も、「泥深い田地、湧水がある窪地地帯」というような地形説が強いようです。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/01 06:00

茨城の難読地名(その49)-鹿窪

難読地名49

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

鹿窪 【かなくぼ】 結城市

鹿の字を「か」と読むことは「鹿島」などでよく使われますが、「かな」または「かね」などと読ませる地名がかなりあります。
「鹿」には「金=かね、かな」「鉄=かな、かね」などと同じような意味合いがあるのではないかと指摘されています。

古代の製鉄跡(タタラ製鉄)などと関係がありそうです。
タタラ製鉄は砂鉄を使って鉄をつくる製法です。

また「窪」や「久保」などという地名も単に窪地という意味合いもありますが、砂鉄の製鉄跡などにもよくつけられています。


この結城市の「鹿窪(かなくぼ)」について、角川日本地名大辞典には、「下総台地北西部、鬼怒川と田川の合流点右岸に位置する。縄文早期の向原遺跡、鹿窪古墳群がある。慶長8年(1603年)の覚書書に「結城かのくほ」と見える。」とあります。

また、平凡社の茨城県の地名の方が少し詳しくて、1596年の文書に「結城領鹿窪村内」との文字があるとも書かれており、かなり古くからの遺跡がある場所で、古くから人が生活していたと思われます。

石岡市に「鹿の子」(かのこ)という地名がありますが、ここから、常磐高速道路建設時に地下から奈良時代から平安時代初期の大規模な遺跡が発掘されました。
奥州の蝦夷征伐のための武器製造していた工場跡、製鉄所跡ともみられています。

鹿の子=金(鉄)の子 との解釈が強い地名です。

また、余談ですが、鹿は線路に侵入して鉄をなめるといいます。鉄分不足を補うのだそうです。

<鹿をカナと読む地名>
茨城県結城市鹿窪 (かなくぼ)
埼玉県さいたま市岩槻区鹿室 (かなむろ)
福井県福井市鹿俣町 (かなまたちょう)
熊本県人吉市鹿目町 (かなめまち)

<鹿の子地名>
宮城県気仙沼市本吉町鹿の子 (かのこ)
茨城県石岡市鹿の子 (かのこ)
兵庫県神戸市北区鹿の子台 (かのこだい)

<カナクボ地名>
茨城県結城市鹿窪 (かなくぼ)
埼玉県児玉郡上里町金久保 (かなくぼ)





茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/02 06:03

茨城の難読地名(その50)-関本肥土

難読地名50

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

関本肥土 【せきもとあくと】 筑西市(旧関城町)

角川日本地名大辞典では、「本郷ともいう。鬼怒川中流左岸に位置する。肥土は川沿いの肥沃な低地の意。」とある。
関本肥土村は江戸期の常陸国真壁郡にあった。

またこの関本だが、平凡社の茨城の地名では、「古代には常陸国の最西端の要地として新治関が設置したと考えられる。」と書かれており、この関の中心だったと思われます。
江戸時代には関本村がいくつかに分離し、上、上中、中、分中、肥土、下などになり、肥土(あくと)は本郷とも呼ばれました。

この地域は肥沃でかなり大きな村でしたが、鬼怒川の氾濫も多く被害も多かったようです。

この「肥土(あくと)」ですが、これについては柳田國男の地名の研究に全国の「アクツ、アクト」などの地名が調べられています。
これによると、阿久津は常陸国志巻三、那珂郡常石郷の条に、「阿久津は常陸の俗に低き地をさして呼ぶ名にて、多くは川に添ひたる所なり」とかかれているものを引用し、圷の漢字もハナワを塙と書くのと同様に、共に近世和製の合意文字であらう。としています。

また、阿久津、圷の地名は関東の限られた県(茨城、千葉など)に多く見られ、その他の県では、「阿久戸、悪途、悪土、悪田、安久田、悪太原、芥川」などの地名を挙げて考察をしています。

「悪」の字が使われた経緯については、昔は水害頻繁におき、耕作には適しない地であったためにつけられたが、次第に堤防の術も進み、排水も行われ、交通も便がよくなり人々が集まりだしたのではないかと書かれています。

関本肥戸(あくと)も、古代は悪戸などと同じ川沿いの低地で耕作には適していなかったが、次第に交通の要でもあり、堤防・排水技術などで逆に耕作に適した地に成っていたことから「悪土 ⇒ 肥土」と書く様になったものと思われます。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/02 06:36

茨城の難読地名(その51)-曲田、百家、泊崎、古高、結佐

難読地名51

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

曲田 【まがった】 常総市(旧石下町)
百家 【はっけ】 つくば市(旧豊里町)
泊崎 【はっさき】 つくば市(旧茎崎町)
古高 【ふったか】 潮来市
結佐 【けっさ】 稲敷市(旧東村)

今まで、稲敷市の古渡(ふっと)、常総市の国生(こっしょう)、土浦市の乙戸(おっと)、結城市の水海道(みっかいどう)、阿見町の追原(おっぱら)など詰まった読み方をする地名を取り上げていますが、似たような詠み方をする地名を拾ってみました。
上記以外にもまだたくさんありそうですが、少し読み難いものだけを集めてみました。

これらの地名が何故このような読み方が踏襲され、残されてきたのかはわかりませんが、

1)茨城特有のことばを短くつめて発音したものがそのまま地名に反映された。
2)普通は訓読みのところを音読みで読んだためにつまった発音になった。
3)もともとは音だけで残されてきた地域の地名を、あとから漢字を当てはめた。

などということが考えられます。
地名辞典などで由来などが書かれているものを載せてみます。

<曲田 【まがった】>
 角川日本地名大辞典には、地名は小貝川の湾曲部にのぞんでいたことから曲り田(まがりた)に由来するとも。(趣味の結城郡風土記)、豊田城の南に位置することから豊田の「豊」の字の上部をとり曲田と称するようになったともいう(新石下村沿革誌)
と書かれている。慶長17年(1612)に開発された村という。
<全国の曲田地名>
岩手県八幡平市曲田 (まがた)
秋田県大館市曲田 (まがた)
秋田県大仙市大曲田町 (まがりたまち)
福島県河沼郡会津坂下町曲田 (まがりだ)
茨城県常総市曲田 (まがった)
栃木県那須烏山市曲田 (まがった)
埼玉県深谷市曲田 (まがった)

茨城、栃木、埼玉県の「曲田」の読みが同じであることに共通性は?

<百家 【はっけ】>
 角川日本地名大辞典によれば、江戸初期の慶長年間には石高約400石で百姓は40人ほどであったようだ。また壱本松と内原という2つの集落があったが途中で、壱本松はほとんどの農家が潰れて、内原に移ったとある。
結構古くからある村のようだが、昔100軒程の家があったということも確認できなかった。
ハッケ(崖下などという古アイヌ語などか)のことばが先で、百家という漢字が後から当てはめられたものかもしれない。
<参考までに百家の付く地名>として下記があります。
奈良県御所市五百家 (いうか)


<泊崎 【はっさき】>
 泊崎は牛久沼の西北側の谷田川と西谷田川にはさまれ、牛久沼に飛び出した先端部分(岬)に位置します。
岬の先端には弘法大師が大同年間(806~810)にこの地を訪れて座護摩を修めたといわれる「泊崎大師堂」があります。
古くから人が生活していたようで、縄文時代の小山台貝塚、下岩崎古墳群などがあり、1396年に岡野宮内少輔康朝が築城した「泊崎城(はっさきじょう)」があったとなっています。
江戸時代の村名としては「泊崎村」が見られませんので、元々地区の名前にあった「ハッサキ」が城の名として「泊崎城」として使われ、後に地区の名前も「泊崎(はっさき)」としたのかもしれません。

<古高 【ふったか】>
 角川の日本地名大辞典によれば、「古高村(ふったかむら)」は江戸時代初期から存在していたが、天保年間(1831~45)以降延方(のぶかた)村の一部となったとあります。現在の古高(ふったか)は延方の少し北側です。
その北側に築地とか大生(おおう)などの常陸国風土記に出てくる多氏(大氏)が住み着いたという古い集落があります。
茨城いすゞ自動車のHPにこの古高地区の昔話「古高のわらび」(旅の僧侶がわらびに法力でアクを取り除き、すぐに食べられるようにしたため、それ以来この地方のワラビが柔らかくすぐに食べられるようになった。とする話)が収録されていました。
また、別なサイトでは古高に「蛇妻坂」と呼ばれる坂があり、「近所の嫁を取るなど村を困らせた片岡池の大蛇が討伐され、坂途中に埋められた。」という伝承が紹介されていました。かなり古い時代からの民話なども豊富なようです。

<結佐 【けっさ】>
 角川の日本地名大辞典によれば、結佐地名は室町期から見られる地名で、「ケツサ」と書かれていたそうです。
地名の由来としては「結作神社」に由来するとも言うとなっています。
平凡社の茨城の地名によれば、村としては、江戸初期の1620年に開発されたと見られ、1680年の水神社再建棟札には「結砂村」とあるという。また、江戸時代に利根川の水運が発達し、利根川が当地で石納(こくのう)に向かって直角に曲がっていたため、結佐の曲目(まがりめ)と称され、航行に危険が多く船頭に恐れられていた。と書かれています。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/03 06:44

茨城の難読地名(その52)-土師

難読地名52

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

土師 【はじ】 笠間市(旧岩間町)
下土師 【しもはじ】 茨城町


土師(はじ)については、土師器などと昔の土器などに時々使われていますので、それほどの難読漢字とはいえないかもしれません。

茨城県に残された2つの土師地名は涸沼川沿いにあり、上流側が笠間市「土師」で下流側が「下土師」です。

平凡社の茨城の地名には、笠間市の土師地区には六万部・東ヶ峰に縄文遺跡、鍛冶ヶ谷には古墳時代から平安時代の製鉄遺跡があり、高麗神社古墳群など九つの円墳(古墳)があると書かれている。

下土師について、角川の日本の地名大辞典では、地名は古代土師部集団の居住地であったことに由来するとあり、地内から「土師神主」と墨書された土師器が出土。縄文時代の下土師遺跡、小山台古墳群などがある。と書かれています。
また、室町時代(1435年の文書)には「下土師郷」という郷名があったことがわかっています。

基本的には土師氏の集団が笠間市の「土師」あたりに住んでいて、こちらの下流側にもその同じような集団が住んでいたと考えられます。
土師氏は古代の古墳時代にその造営や埴輪の制作、神事儀礼などの儀式を執り行った豪族集団で、野見宿祢を祖先としていると考えられています。
下土師の少し南には埴輪を制作していた(焼いていた)釜などがある「小幡北山埴輪製作遺跡」があります。

埴輪を作る職人だったので「はにし」と呼んでいたようですが、これに「土師」と漢字を当て、やがて「はじ」と読むようになった。
しかし、地域によっては「はぜ」になったり、また人の名前などでは「どし」などと読む人も現れたといったところでしょうか。

全国の「土師」地名を調べてみました。すると、「ハジ」と読むところと「ハゼ」と読む所がきれいに2つに分かれました。
「ハゼ」地名は三重・京都・大阪・兵庫という旧畿内(五畿内:山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)地域です。
それ以外の地域は「ハジ」だけでした。

<土師=ハジ>
茨城県笠間市土師 (はじ)
茨城県東茨城郡茨城町下土師 (しもはじ)
鳥取県八頭郡八頭町土師百井 (はじももい)
岡山県岡山市北区建部町土師方 (はじかた)
岡山県瀬戸内市長船町土師 (はじ)
広島県安芸高田市八千代町土師 (はじ)
福岡県嘉穂郡桂川町土師 (はじ)
長崎県諫早市土師野尾町 (はじのおまち)
大分県豊後大野市大野町中土師 (なかはじ)

<土師=ハゼ>
三重県鈴鹿市土師町 (はぜちょう)
京都府福知山市土師 (はぜ)
京都府福知山市土師 (はぜ)
大阪府堺市中区土師町 (はぜちょう)
兵庫県姫路市香寺町土師 (はぜ)
兵庫県たつの市揖西町土師 (はぜ)

何故こんなきれいに分かれるのか不思議です。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/04 06:40

潮来祇園祭に遭遇して

 昨日は銚子から少し早めに帰り路についた。

8月になったが、日が暮れるのは18時40分過ぎとまだ遅いが、段々沈んでいく真っ赤夕日に向かって車は進む。
神栖から潮来にさしかかった鰐川あたりで、太陽は大分地平線に近づいていった。

あと少しなどと思っているとあっという間に日が沈む。

そして、いつものように潮来の駅横を通りぬける予定で潮来駅近くに来て、立ち往生。

8月3日(金)から3日間地元の素鵞熊野神社のお祭りが始まっていました。

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駅前線路のガードレールの高さギリギリに山車がくぐります。
まさに人形の頭を下げてスレスレです。

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ガードレールをくぐった山車はこちらに近づいてきてUターン。

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またこの山車のUターンが結構大変。
車は廻らないので、男衆が少しづつ担いでまわします。

佐原と潮来は近いので少し似ているか?
佐原は回すのに長い丸太を車輪下に挿入して山車を浮き上がらせて回転する。
これも担ぎ手の心意気とばかりに・・・・・。

潮来の祇園祭は素鵞熊野神社の祭礼です。

この素鵞神社はその昔は天王社でした。
牛頭天王を祀る神社(元はお寺)です。
なかなか大きな神社ですよ。


潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/04 19:44

茨城の難読地名(その53)-潮来

難読地名53

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

潮来 【いたこ】 潮来市

読みづらい地名も見慣れてしまうと、あっさり読めてしまう。
でもどこかその由来もわかっているようで判らない。
そんな地名はよくありますね。この「潮来」などはその代表でしょうか。

「潮来」は【いたこ】と読みますが、江戸時代始めは「板久」や「板来」と書いていました。
それをこの地が水戸藩領ということで、この地を視察した徳川光圀(みつくに:水戸黄門)が1698年に「潮来」に改めさせました。

歴史的に判っていることを順に記しておきましょう。

< 常陸国風土記>【板来】【伊多久】
 1) 「此より南十里に板来の村あり。近く海浜に臨みて、駅家を安置(お)けり。此を板来の駅と謂ふ」
   この板来駅家(いたこのうまや)は常陸国国府(現石岡)から鹿島までの官道として馬を常駐した駅として利用されたが、弘仁6年(815年)12月22日に廃止された。この駅家のあった場所は旧板来村または旧辻村(津知村)と考えられており、現在、潮来にある長勝寺の境内に「板来駅家の跡」の碑が置かれている。ただ実際は辻(津知)村であった可能性も高いと思われる。
 2) 「建借間命(たけかしまのみこと)、騎士をして堡(とりで)を閇(と)ぢしめ、夜より襲ひ撃ちて、尽に種族を囚へ、一時に焚き滅しき。此の時、痛く殺すと言ひし所は、今、伊多久(いたく)の郷と謂ひ」
 このように常陸国風土記では、ヤマト朝廷の東国進出時に、この潮来周辺にいた現地人(国栖:くず)の夜尺斯(やさかし)、夜筑斯(やつくし)という2人の種族が強力に抵抗したため、これを策略をもっておびき出して皆殺し(焼き殺し)にしたという言い伝えから、痛く殺したということで地名が「伊多久(板来)」となったとしています。

<和名抄>(平安時代の辞書)【坂来郷】(板来郷の間違いか)
 「坂来郷」とあり、読みは書かれていない。 新編常陸誌はこの「坂来」は「板来」の書き間違いだとしている。

<南北朝時代>【いたく】
 応安年間頃の海夫注文に「いたくの津」とある。

<江戸時代>
 ・水戸領郷高帳(1635年)、元禄郷帳(1700~1702年):【板久村】
 ・水戸光圀による改名(1698年)【潮来】
 元禄11年(1698)、鹿島に「潮宮」があり、常陸の方言で「潮」を「いた」と読むことに興味をおぼえたため、「板来」⇒「潮来」に改名した。

これによれば、江戸時代初期頃は「板久村」と書かれており、1700年頃から正式村名が「潮来」に変わっていったと考えられます。
また光圀が気になった名前という「潮宮(いたみや))」は、鹿島神宮の摂社に「潮宮」があり、神社としては正暦3年(992年)に小美玉市倉数地区に遷祀したとされ、現在もこの倉数地区に残されています。

現在の鹿島神宮にはの境外末社に潮宮があり、この潮宮(いたのみや)を祀っている「潮社(いたのやしろ)」が高天原地区にあります。

さてここまでは判っている内容で、地名由来も常陸国風土記に書かれている「痛く殺したので板久となった」というのが本当だろうと思ってしまいます。
しかし、これもあくまでも風土記の書かれた8世紀初頭の地域に伝わる伝承です。

では実際はきっともっと違った意味合いがあるのだと思われます。
「イタコ」「イタク」などとの発音にあった解釈を探すと、やはり地形により古アイヌ語になりそうです。
・「痛んだ場所=痛(イタ)・処(ク) という地形から「イタク」と呼ばれた。
・古代は伊良虞(いらご)と呼ばれ、このイラゴが「イタコ」に変化した。 イラゴ、イラコとは「粗い砂粒」を示すのではないかと言う。

いっぽう「久」と「来」が両方出てきますが、どうもこれは古代の地名には「久」と「来」は同じような発音だったのかもしれません。
恐らく「来」は「コ」ではなく「ク」と発音していたものと考えられます。「板来=いたく」です。

常陸国風土記の信太郡のところに、「碓氷から西に行くと高来(たかく)の里がある」という記述があります。この「高来(たかく)」は現在の阿見町の「竹来(たかく)」とみなされています。「来=ク」です。
この考え方だと伊良虞(いらご)説は「く」とは読みづらいですので、地名由来としては考えにくいですね。

では実際はというとよくわかりません。
青森県恐山のイタコという死んだ人を呼び寄せる(口寄せ)という巫女がおりますが、この言葉の由来としてはアイヌ語のイタクが「語る」という意味であり、この「イタク」が「イタコ」になったとする説があるといいます。

こちらもイタクがイタコになっていますので、同じ意味合いがあるのかもしれません。
ただ、これを裏付けるものはありません。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/05 06:32

茨城の難読地名(その54)-小堀(取手市)

難読地名54

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小堀 【おおほり】 取手市

小堀(おおほり)の渡しとして有名な場所です。

平凡社の茨城の地名には、小堀(おおほり)村は、利根川北岸に位置する井野村の飛地で、明治17年(1884)に独立して小堀村となった。また明治40年代の利根川改修によって村域は利根川の南岸となった。とあります。
また、江戸時代初期には井野新田といわれ、利根川の水運の基地として小堀河岸(おおぼりがし)が栄え、船頭などが500人もいた船頭のたまり場になったそうです。

昔は利根川がこのあたりで大きく蛇行していて、川の改修によって蛇行していた川の北側にあったこの河岸が改修したら南側に成ったというものです。

今は、利根川の少し離れて南側に「古利根沼」があり、この沼と利根川に挟まれた位置にあります。
そして、ここには川の名残、また堤防が決壊した時などにできた小さな沼(お堀)があり、そのお堀を「おっぽり」と地元の人達が呼んでいて、それが「小堀=おおほり」となったといわれています。

また利根川を利用した江戸まで物資を運ぶ水運においては、この小堀河岸は大きな役割があっといいます。
利根川を上流の関宿まで大きな船が航行するのが困難な季節(水量が少なかったりして)があり、このようなときには、この船着場で底の浅い高瀬舟に荷を積み替える場所として使われたそうです。

また現在もこの場所には利根川の両岸を結ぶ渡し舟が運行されています。
これは南北に分断されてしまった小堀村の住民有志で始めたものだったようですが、今も定員7名ほどの小さな船ですが、1日7便(1時間に1本程度)が運行されています。(平成30年現在) (自転車も載せることが可能)

取手の名前については、ここに武将大鹿太郎左衛門の砦があったことによるとされています。
また大鹿の名前も、平将門の子孫で承久の乱に功績のあった織部時平の愛馬白鹿をこの地に埋葬したことに由来すると伝えられています。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/06 05:19

潮来の北部「川尾池」

 潮来と言えば水郷にあやめでしょうが、北部に大生(おおう)、築地(つきじ)、古高(ふったか)という結構古い場所があります。
水郷地帯は江戸時代の水運と芸者などで江戸の文化も伝わった町ですが、大生などは古代の多氏などが住み着き、開拓され、古墳時代ころに栄えた場所。 その中間部は潮来郷校や延方など教育も熱心に行われたが、幕末の天狗党の爪痕が今も深く残る。

茨城の難読地名を調べていて、「古高(ふったか)」などが気になった。

そして地図を見ていて、築地団地の脇に「川尾池」という比較的大きそうな池があった。

百聞は一見にしかずであるので、近くに行った時に寄り道をして見に行った。

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池は一面、睡蓮の葉に覆われていました。

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結構広いのですが、誰もいません。
池をぐるりと廻る周遊の道路は草で覆われて通行不能です。

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まあ釣り人がたまに来るくらいなのでしょう。
池の直ぐ上は築地団地で住宅が立ち並んでいます。


潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/06 16:26

茨城の難読地名(その55)-直鮒

難読地名55

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

直鮒 【すうぶな】 龍ケ崎市

龍ケ崎の駅の南側の低地。 西側が入地【いれち】という。
古代の地形を考えるとこのあたりは内海が広がっていたはず。

利根町側の「押戸」あたりから舟で今の市役所や流通経済大のあたりまで渡っていたと考えられる。

するとこの直鮒【すうぶな】という地名はどこからついたものなのだろう。

入地は土を盛って埋め立てた所か?  でも直鮒を「スウブナ」とは読めないが、どういう意味か?
説明はどこを探しても見つからなかった。

鮒(ふな)と付く地名を探してみよう。

秋田県能代市二ツ井町仁鮒(にぶな)
茨城県龍ケ崎市直鮒(すうぶな)
静岡県富士宮市羽鮒(はぶな)
三重県南牟婁郡紀宝町鮒田(ふなだ)
長崎県対馬市豊玉町貝鮒(かいふな)
大分県豊後大野市緒方町鮒川(ふながわ)
・・・・みな「フナ」「ブナ」ばかり。

<直をスの音で始まる読みの地名>

山形県飽海郡遊佐町直世(すぐせ)
茨城県龍ケ崎市直鮒(すうぶな)
新潟県三条市直江町(すぐえちょう)
富山県富山市直坂(すぐざか)
岐阜県大垣市直江町(すぐえちょう)
岐阜県羽島市足近町直道(すぐみち)

やはり「すぐ」とは読んでも、「すう」と読む地名は見つからなかった。
当て字なのか、それとも方言での違いなのか?
また、角川、平凡社の地名辞典、そのどちらにも載っていない。

フナ=鮒 という言葉の語源を調べてみると、フ=田んぼ ナ=魚 だとして、田んぼの近くにいる魚だという。
魚に付くと書くのは、フナがお互いにくっついて泳ぐとか、釣るのに食い付きがよい魚だとか言われています。



茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/08/07 06:39
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