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乳房稲荷神社

 行方市浜の霞ケ浦岸辺近くに「乳房稲荷」と書かれた神社がある。

なかなかドッキリするような神社の名前であるので先日立ち寄ってみた。

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確かに鳥居の扁額には「乳房神社」と書かれている。
ただ名前を想像させるようなものは置かれていない。
キツネの像があるのでいわゆる「お稲荷さん」である。

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場所は霞ケ浦水運が発達していた頃の浜の船着き場あたりだろう。
鹿島参宮鉄道を作る計画時には石岡駅(初期計画は高浜駅)からこの「浜」までが大正15年に開通している。
そしてこの浜から 汽船参宮丸、霞丸、鹿島丸という蒸気船により浜 - 麻生 - 牛堀 - 潮来浜町 - 鹿島大社への船が昭和2年から運行された。

一方鉄道の方は早いうちから鹿島神宮への計画をあきらめてこの先の玉造から鉾田へ延伸した。
今となってはこの計画が良かったのかどうかも分からないが、今では鉄道は廃止され、汽船も運行されていない。

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浜の湾(船着き場)から霞ケ浦大橋の方を望んだ。
高い塔は、霞ヶ浦ふれあいランドの「虹の塔」(高さ60m)
ここから対岸まで霞ケ浦大橋がある。

この大橋ができる前まではこの浜から対岸の柏崎まで渡し船が運行されていた。
学校の子供たちの通学にも使われていたという。

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乳房稲荷は近くの素鵞神社の支社、または天台宗の「東福寺」の支社あたりかもしれない。
あまりよく調べてはいない。

名まえを見て驚くが、結構このような神社は各地に存在するが、稲荷神社の性格からしても、それぞれの地域で

・豊作祈願・商売繁盛・家内安全・子育て安心・健康祈願・病気除去

などと言った素朴な願いの村の鎮守様だったのだと思う。
乳房神社などという名前からしてもおそらくは「子安神社」と性格的には同じだと思う。

牛久・竜ヶ崎にまたがる「女化神社」にしても、この名前になったのは比較的新しい。
たんなる「稲荷社」などと呼ばれていた時期が長いようだ。

近くの家の門の前に個人的と思われる神社が建てられていた。
名前は書かれていないが、最初はこのような形であったのではないかと思う。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/01 07:20

霞ヶ浦の渡し舟

 かすみがうら市の旧出島の先端(田伏)から対岸の行方市玉造までの「霞ヶ浦大橋」が完成したのは昭和62年(1987)だった。
この橋も地元の念願が叶い実現し、当初は有料の橋だった。
当初計画よりも早く採算が取れて、当初の計画を前倒しにして、2005年(平成17年)に無料になった。

この橋が完成した昭和62年春まで、下の地図で白い破線で示した区間を船が運航されていた。
(常陽リビング記事: ⇒ こちら 
(なめがたヒストリー 【霞ヶ浦大橋 その歴史と変遷】: ⇒ こちら )

霞ヶ浦大橋2

この浜と柏崎を結ぶ定期船(出島丸?)は高校生も通学で使っていたそうだ。
この場所の先にそれぞれ「素鵞神社」が残されており、恐らく明治始めまでは「天王社」であったのだと思う。
行方市、小美玉市にはこの素鵞(そが)神社結構多い。

昨日載せた「乳房稲荷神社」の場所も記しておいた。
両素鵞神社については明日にでも載せておきたいと思う。

今日はこの桟橋のあたりと思われる場所を訪れたので写真をUPしておきたい。

まずは出島地区の柏崎の桟橋付近

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ここは今もモータープールとして利用されているようだ。

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何艘かの舟が留まっていた。

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ではそこから霞ヶ浦大橋を渡って玉造に向かう。

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行方市浜の桟橋は現在のモータープールのようなところを考えてみたが、もう少し北側にある桟橋であったかもしれない。


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霞ヶ浦ふれあいランドのタワーがよく見える。
大橋が出来た時に水の遊び場として造られた。

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このタワーの近くから大橋が始まっている。

行方ヒストリーの記事に、この橋ができる当時の記録がある。
ここに高浜入りの干拓事業計画の話が載っていた。

以下記事の一部を抜粋させていただきます。

-----------以下抜粋-------------------
【高浜入干拓事業】
干拓

実は現在の霞ヶ浦大橋のある場所のあたりは干拓される予定でした。
昭和35年には農林省が計画を発表し、昭和42年には高浜入干拓建設事務所が旧玉造町に設置され工事の着工が決定されました。

この頃の日本は米を増作させる方針であり、八郎潟などの干拓工事を行っていた時期でした。この干拓はちょうどその流れに高浜入も入ったということなのでしょうね。

しかし工事の着工は決定したものの時代の流れが変わり、米の増産は減反へと転じており、昭和48年にはオイルショックもあり、この高浜入干拓事業は昭和53年に中止になりました。

この干拓事業と平行して多くの論議をよんだ事が霞ヶ浦架橋計画です。
埋め立てて繋げるのか。橋を架けて繋げるのか。この論議が激しかった時代がしのばれます。
------------抜粋 ここまで-----------------------

このような今としては馬鹿げた干拓計画が立てられ、極端な話では霞ヶ浦を全部埋めたってしまえ!なんていう話も出たことがあったそうです。
そしてその埋め立ての土には筑波山を削ればいいなどという無茶なことも平気で議論されたそうですので恐ろしいことです。


霞ヶ浦周辺の田んぼでは今年は早くて、すでに稲刈りが始まっています。
黄金色に実った稲を刈るコンバインの姿があちこちに見られます。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/01 14:18

2つの素鵞神社

 昨日、霞ケ浦大橋ができる前にあった渡し船の話を書いた。
これは行方市(旧玉造町)浜とかすみがうら市(旧出島村)柏崎を結んでいた。

霞ヶ浦大橋2

この2つの桟橋位置から道をまっすぐに行った突き当たりにそれぞれ素鵞神社があります。
しかし神社庁のデータベースでの読みは 柏崎の素鵞神社 は「すがじんじゃ」 浜の素鵞神社 は「そがじんじゃ」と読みます。

霞ヶ浦大橋2_1 霞ヶ浦大橋2_2

何故同じ名前の神社なのか少し気になりますね。
そこで両方を訪ねてみて感想などを書いておきましょう。
実は柏崎の素鵞神社は数年前にも調べて書いたことがあります。
記事は: 出島散歩 ⇒ こちら
      柏崎素鵞神社の絵馬 ⇒ こちら
      柏崎素鷲神社(2) ⇒ こちら

それではそれぞれを見てみましょう。結構大きな神社でした。
昔はもっとこの地の鎮守様として中心的な神社であったと考えられます。

1、かすみがうら市 柏崎素鵞(すが)神社

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桟橋から少し横の道をまっすぐ言った突き当たりに鎮座しています。
しかし記録によれば神社はもう少し高台にあったことがこの神社に奉納されている額画で知ることが出来ます。

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拝殿裏にある本殿はきれいな彩色が施されていました。
本殿横には「稲荷神社」が並んでいました。

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境内の大きな木の根の間に祭られた祠は「道祖神」の文字が読めます。

2、行方市 浜素鵞(そが)神社

こちらも地域では比較的大きな神社です。

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鳥居をくぐった先に上に昇る階段があります。

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山の中腹といった所に拝殿があります。
境内は少し傾斜していて山の斜面がまだ残っていて、丸い物を落としたりしたら石段下の鳥居辺りまで転がってしまいそうです。

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こちらが本殿です。

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更に境内から先に山を上る道がありその道端に置かれた祠です。

3、神社の奉納額画

柏崎の素鵞神社の奉納額画については以前のブログで書きましたが、今一度ここに紹介させていただきます。
以前のブログでは「素鵞神社」を「素鷲神社」などと間違ってきていました。
ソガ神社、スガ神社のガは「ワシ」ではなく「ガチョウのガ」でしたね。
阿波からやってきた天日鷲命(あまのひわしのみこと)の鷲だとばかり思い込んでいたのですから困ったものです。
どうもそれは間違いで、出雲系ではないかということをいまさらながら知ることに成りました。これは次に述べたいと思います。

<柏崎素鵞神社の奉納額画>

柏崎額

これはとても興味深い画なのです。
この絵が奉納されたのは明治28年10月です。当時の風物描写にとても面白いものがあります。

1)当時この神社が今の位置ではなくてもっと高い山の上の方にあった様子がわかります。
2)霞ヶ浦が見下ろされ、そこに高瀬舟や外輪船(銚子丸)が描かれています。
3)港からこの神社に上る道には祭りの行列が描かれています。そしてこのお祭りは祇園祭でしょう。
4)柏崎集落が賑わっていた様子が描かれています。

この奉納額(絵馬)はこの素鷲神社の竹切り祇園の祭事を丹念に描写したものなのです。
当時の様子が目に浮かぶようでとても興味深いですね。

<浜素鵞神社の奉納額画>

拝殿の中の正面に飾られていた奉納額画ですが、隙間から取らせていただいたのであまりはっきり撮れていません。

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さて、素鵞神社、須賀神社とは一体どういう神社でしょうか。
祭神はほとんどのところが「 素戔嗚尊=スサノオノミコト」です。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟でヤマタノオロチを退治した伝説でよく知られていますね。
妻は「奇稲田姫(くしなだひめ)」です。

この素鵞神社、須賀神社はほとんどの所が江戸時代には「天王さま」「天王社」と呼ばれていました。
祭神はインドの祇園精舎の守護神と言われる「牛頭天王」です。

この天王社の総本社は三重県津市にある「津島神社」です。
津島の名前も恐らく「対馬」から来ていると思われますが、朝鮮半島から対馬を通って渡って来た神、仏で、神仏が合わさった(習合した)江戸時代までは寺としてみなされてきました。

しかし、神・仏の分離が叫ばれ、天王社の名前はほとんど消えてしまいました。
そして誕生したのが「素鵞神社」、「須賀神社」であり、また同じ祇園を祀っていた「八坂神社」などと名前が変わり、祭神も牛頭天王から「スナノオ」や「クシナダヒメ」などに変わっていきました。

私は今まで明治はじめの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動がその端を発したのだと思っていました。
しかし、どうも水戸藩ではもう少し早い時期にこの運動があったようです。

第9代水戸藩の藩主、徳川斉昭(とくがわ なりあき)の天保11、12年頃にこの柏崎、浜などの天王社が「素鵞神社」に代わって言ったようです。水戸藩では黄門様の徳川光圀が「義公」、この斉昭が「烈公」と呼ばれて特別に親しみを込めて呼ばれています。

大きな神社では旧小川町(小美玉市)の素鵞神社がありますが、ここも旧水戸藩です。

茨城県の素鵞神社、須賀神社を神社庁のHPから拾ってみました。

<素鵞神社=そがじんじゃ>
素鵞神社 そがじんじゃ 常陸太田市里川町524番地
駒形素鵞神社 こまがたそがじんじゃ 常陸大宮市山方741番地
素鵞神社 そがじんじゃ 常陸大宮市諸沢1264番地
素鵞神社 そがじんじゃ 那珂市瓜連1276番地
新宮素鵞神社 しんぐうそがじんじゃ ひたちなか市三反田2975番地
素鵞神社 そがじんじゃ 水戸市上河内町547番地
素鵞神社 そがじんじゃ 水戸市大串町137番地
素鵞神社 そがじんじゃ 東茨城郡茨城町越安938番地
素鵞神社 そがじんじゃ 小美玉市小川1658番地
素鵞神社 そがじんじゃ 行方市浜723番地
素鵞神社 そがじんじゃ 潮来市上戸31番地
素鵞熊野神社 そがくまのじんじゃ 潮来市潮来1337番地

<素鵞神社=すがじんじゃ>
素鵞神社 すがじんじゃ 久慈郡大子町田野沢570番地
素鵞神社 すがじんじゃ ひたちなか市足崎1766番地
素鵞神社 すがじんじゃ かすみがうら市柏崎1590番地

<須賀神社=すがじんじゃ>
須賀神社 すがじんじゃ 水戸市鯉渕町4705番地1
須賀神社 すがじんじゃ 東茨城郡大洗町永町磯鼻918番地
須賀神社 すがじんじゃ 小美玉市下玉里2284番地
健田須賀神社 たけだすがじんじゃ  結城市結城195番地
須賀神社 すがじんじゃ 石岡市三村1880番地
須賀神社 すがじんじゃ かすみがうら市中志筑1277番地
須賀神社 すがじんじゃ かすみがうら市上稲吉22番地
須賀神社 すがじんじゃ 稲敷市古渡250番地
須賀神社 すがじんじゃ 稲敷市信太古渡515番地
須賀神社 すがじんじゃ 稲敷市伊佐部1234番地
須賀神社 すがじんじゃ 稲敷市阿波崎1763番地
須賀神社 すがじんじゃ 稲敷市下太田1番地

ソガ、スガなどと発音されますが、その正体は何なのでしょうか。
「須賀」は川の土砂などが堆積された「洲」の場所が発祥の起源などとも考えられていますが、もう少し別な見方をすれば「蘇我氏」の存在が影響しているとも考えられそうです。

出雲大社の本殿真後ろに素戔嗚神(すさのおのかみ)を祀る社があり、これを素鵞社(そがのやしろ)というそうです。 
また「素鵞社」の名前は、素戔嗚神の最初の宮である「須賀」に由来するといわれているそうで、須賀=素鵞となったのでしょう。

また飛鳥(あすか=「ア+スカ(須賀)」)であり、荒川区にある素盞雄(スサノオ)神社では、スサノオと共に「アスカ大神」が祭られています。

どうですかなかなか興味深いですね。
藤原氏から嫌われた「蘇我氏」との関係ももう少し調べれば意外な姿が見えてくるかもしれません。

江戸時代の愛宕山天狗の話などにはよく「津島の祇園」を見に行く話がでてきます。
天狗が親や子供に目隠しをして空を飛んであっという間に華やかな祇園祭を見せに連れて行くのです。

津島の祇園祭では大小色とりどりの船が海に浮かびにぎやかな祭りが行われていたようです。
今でも津島神社で祭りは継承されているのでしょうが、昔はもっと華やかな祭りとして全国に知れ渡っていたのでしょう。

石岡地区でも三村の須賀神社の祭り、柿岡の八坂神社の祭り、皆これらは天王社から始まっている祇園祭りです。
石岡のお祭りも元を辿れば中町にあった天王社(明治後に八坂神社となり総社宮に合祀)の祭りを復活させた新しい祇園祭です。

行方市の「天王崎」にある八坂神社も元は当然天王社です。
でも岬には地名で残されましたが神社名は変わり、今ではあまり知られなくなっているようです。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/03 15:49

東福寺(行方市浜)

 霞ヶ浦の旧桟橋を見てきたが、浜(玉造)の桟橋近くに大きなお寺があった。
素鵞神社は知っていたが、この近くにこのような大きなお寺があることは知らなかった。

「瑠璃光山 薬王院 東福寺」という天台宗のお寺だ。

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現在の薬師堂(本堂)は1848年に建造されたといいます。

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仁王門の仁王像は大きくて立派だが、文化財指定などがされていないために制作年代などわからない。

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寺伝によると、1351年に比叡山の東範僧正(とうはんそうじょう)が草創(そうそう)したという。当時は薬王院といった。
その後一時廃れていたが、江戸時代の1692年に法印典信(てんしん)が寺を中興して東福寺とした。
それから毎年年に一回1週間の開張法会を行い、ここで昔は新市というのが開かれていたといいます。
そこには、近隣から800人ほどの豪商が集まったといわれています。

しかし、1828に火事で寺が焼け、次第に衰退したという。

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大きくて立派な薬師堂(本堂)は火災で焼失後20年で再建された。

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境内のモミジの緑が美しい。

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その下におかれた石仏もまた美しい。

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このすぐ隣に小山があった。
東福寺古墳というそうだ。

径は20mくらいの円墳だが、築造された時期など調べてみたがよくわからなかった。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/04 11:49

秋の気配

 昨日まで妻の母の葬儀で四国徳島へ行っていました。

風の会の会報印刷にも参加できませんでしたが、刷り上がっていた会報を今日配ってきました。

関西方面はあまり天気は良くなかったのですが、こちらは今日も夏の暑い日が照りつけて残暑も厳しいようです。

でも八郷方面から筑波山の向こうまで車を走らせたらそこはもう秋の気配が・・・・。

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小町の里では夏雲と秋の雲がまじりあっていました。

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あたりには赤とんぼがたくさん飛んでいました。

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見上げた山の上には秋の雲と高い青空が。
まだ暑さが残っていますが、季節は間違いなく秋へ突入です。

少し疲れましたが、また平常に戻しましょう。

まだまだ私もボケてはいられませんね。
まだ私にはやっておかなければならないものが残されているように思います。



近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/09 14:39

常陸国風土記と地名(1)-常陸

風土記地名01

 西暦713年から721年にかけて編纂された常陸国風土記は藤原不比等の三男の藤原宇合(うまかい)が常陸国国守であった時に、部下の高橋虫麻呂と共に取りまとめたといわれています。

そこには当時の古老から聞き取った話や、地名由来が書かれており、時の権力者の考え方も見てとれます。

奈良時代の初めに書かれたこの地誌には、当時の伝承などが多く書かれています。
しかし、その数百年も前からあると思われる地名については必ずしも真実とはとても思われない内容も多く含まれています。

それをどのように読み解くかは、専門家でもかなり難しいでしょう。

ここでは茨城県の難読地名を少し取り上げてきましたので、その理解するヒントになるのではないかと考え、この常陸国風土記に書かれている内容を書きだしてみたいと思います。
また地名の由来については、この風土記に書かれている内容を紹介するにとどめ、あまり深堀りするのは避けたいと思います。

まずは「常陸」(ひたち)の名前です。

昔は、相模の国の足柄の坂より東はすべて、「吾妻の国」といい、新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(く じ)・多珂(た か)の小国には、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されていた。まだ常陸という国はなかった。

後に、孝徳天皇の時代に足柄の坂より東を八国に分け、その一つが常陸の国となった。

「常陸」の名前の由来は

1)、行き来するのに、湖を渡ることもなく、また郷々の境界の道も、山川の形に沿って続いているので、まっすぐ行ける道、つまり「直通(ひたみち)」といふことから、「ひたち」の名がついた。

2)、倭武の天皇(やまとたける)が、東の夷の国を巡ったとき、新治の県を過ぎるころ、国造のひならすの命に、新しい井戸を掘らせたところ、新しい清き泉が流れ出た。輿をとどめて、水を褒め、手を洗おうとすると、衣の袖が垂れて泉に浸った。
袖をひたしたことから、「ひたち」の国の名となった。

と2つの名前の伝承が書かれています。

2)についてはあくまでも伝承であり、本当とは思われませんが、1)の説を歴史書や各種書物などでは本当であるかのように書かれているものを多く拝見します。 しかし、他の解釈もたくさん存在しています。

1)の解釈として まだ大和朝廷による律令制が行われていた時は、その勢力範囲はこの常陸国が最北で、その先の東北地方はまだ蝦夷地でした。
この東北地方と接する常陸国は、東北地方を「道奥(みちのおく)の国」と言っていたときは、常陸国までが中央朝廷にとって道が続いていたところであり、直道(ひたみち)と書いていたが、東北地方を「陸奥(みちのく)(むつ)」と書くようになって、直道⇒常陸となったというような解釈がされています。

確かに、この常陸国は平野が続き広々と、ここに入るまでは湖や山もありますが、この国に入ると真っ直ぐ道が続いているといってよいでしょう。

ここではこの風土記の記述を調べるだけでとどめたいと思います。

常陸国風土記と地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/09/10 08:28

常陸国風土記と地名(2)-新治

風土記地名02

常陸国風土記の「新治郡」に 郡衙は旧協和町あたり。(現筑西市古郡〈ふるごおり〉)

新治(にいはり):
新治の国造の祖先となったひならすの命を遣はした。
ひならすの命がこの地で新しい井戸を掘ると、清き水が流れ出た。新しい井を治(は)ったことから、新治の名がついた。
(これは常陸の名前の一説としても書かれている)

笠間(かさま):
郡家より東五十里のところに、笠間の村がある。

葦穂山(あしほやま):
郡家より笠間に行くときに越える。 昔は「小初瀬山(おはっせやま)」と言った。
・・・平安時代の10世紀初めに醍醐天皇が足尾神社を置き、足尾山に変更された。

新治の名前の読みについても「ニイハリ」「ニイバリ」の2つがある。

平安時代の辞書『和名類聚抄』には「爾比波里(にひはり)」とあり、

『古事記』にある倭建命(やまとたけるのみこと)の歌に邇比婆利(にひばり)とある。

・・・・新治(にひばり)筑波(つくは)を過ぎて幾夜か寝つる
   (原文:邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流)

参考:

茨城県筑西市新治      にいはり
茨城県かすみがうら市新治 にいはり
神奈川県横浜市緑区新治町 にいはるちょう
滋賀県甲賀市甲南町新治 しんじ
京都府京丹後市峰山町新治 にいばり
福岡県うきは市吉井町新治 にいはる
大分県日田市新治町     にいばるまち
群馬県には新治(ニイハル)村(現 みなかみ町)があった

古代の新治郡と現在の新治地名には場所がかなり移り変わっています。
それについては7年ほど前に書いた記事(茨城の県名(5)-地名の変化:⇒ こちら)を参照ください。

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/11 06:37

徳島阿波おどり空港

 四国徳島も今年は阿波踊りの運営で大もめでしたね。観光客も減ったとのこと。

この阿波踊りは基本は盆踊りで、徳島市内ばかりではなく県内各地で踊りが行われおり、外から来た人もその中に入って踊る「踊るあほう」になるのが魅力でした。

街中に有料の桟敷席などを設けて、いくつものプロの阿波踊り連などができて、踊りを見る楽しさは確かに広がったと思いますが、祭りとしての魅力はどうなのでしょうね。

本四連絡橋が完成し、神戸まで高速で100kmほどの距離ですので1時間とちょっとで行くことができますが、地方はどこに限らず人口減少と高齢化で徐々に疲弊しています。

阿波踊りの観光などは一時的なものですので徳島はジャストシステムや青色ダイオードの日亜化学工業などのIT関連も強いのでこのような分野がもっと伸びればと思うのですが、東京の一極集中はあまり変わらないですね。

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この徳島名産のスダチ(酢橘)を戴いて飛行機で帰ってきました。 これからのシーズンはサンマの塩焼きにこれを絞って上から少しかけただけで断然味が変わってきますね。

こちらの方では結構な高値がついています。

ところで徳島空港は以前は国内線のみで国産旅客機のYS11が大阪伊丹と東京羽田を結んでいました。しかし今では大阪便は高速道路で結ばれたのでなくなり、羽田には大型の旅客機ANA、JALの2社の飛行機が飛んでいます。(福岡便も少しある)
羽田には1日に11便もあります。

また空港名が「徳島阿波おどり空港」などとなっています。これは2010年に一般公募で愛称がついたようです。

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そして空港前には阿波踊りのモニュメントが置かれ、

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空港内の壁にも一面に阿波踊りの図案が描かれています。

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そして写真も・・・・ 「踊らんで」 は 「さあ踊りましょう!」とか「一緒に踊りませんか?」というような意味でしょう。

今回初めて知ったのですが、この空港は海上自衛隊との共用空港だそうです。
茨城空港が航空自衛隊の百里基地との併用空港であるのと似ています。

でも茨城空港の年間利用者数が2016年は61万人だったのに対し、こちらは107万人でした。
ただほとんどが国内客ですので、茨城空港は格安航空会社の国際線利用客が15万人ほどいるのでこれを増やしていくことで活路を見出す必要がありそうです。

それにしても石岡は外人の少ない街です。どうしてなのでしょうか。
観光協会の職員も外国語のできる方の採用が今年から始められました。

やっとというような気がしますが、どんどん積極的に進めてほしいものです。
石岡のおまつり見学には毎年かなりの外国人の姿も見かけるようになってきましたので、普段でももう少し来ていただけるような工夫も必要ですね。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/11 12:09

常陸国風土記と地名(7)-香島

 香島郡については、常陸国風土記の記述だけが「香島」であり、他の書物などではは「鹿島」が使われています。
香島郡の成立については、風土記に「大化五年(649年)に、下総の海上国(うなかみのくに)の軽野(かるの)より南の一里と、那賀国の寒田(さむた)より北の五里とを合併し、新たに神の郡を置いた。」と書かれていますが、香島の名前の由来は「香島の天の大神」とあるだけで、特に書かれてはいません。

・軽野:現在の神栖市軽野あたり
・寒田:この場所は特定されていないが、香島郡ができる前は那賀の国の南端であるので、軽野の少し北側であろう。
どこまでが香島郡になったのかというと、昔は涸沼がもっと大きな内海であったからこのあたりまでだと考えられます。
この内海は「阿多可奈湖(あたかなのみなと)」と呼ばれていたようです。この沼を寒田と呼んでいたのかもしれません。

風土記地名07

香島の天の大神:
 高天原より天降って来た大神の名を「香島の天の大神」という。(中略)神の宮を造らせ、式年に改修されている。 毎年七月に、舟を造って、津の宮に奉納している。
 社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。この沼で採れる蓮根は、他では味はへない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食ふと、たちどころに癒えるという。鮒や鯉も多い。ここは以前郡家のあった所で、橘も多く、良い実がなる。
・・・現在「鹿島神宮本宮・沼尾神社と坂戸神社」の三社をもって「 香島天大神」と称しています。

高松の浜:
 郡家の東二、三里のところに高松の浜がある。むかし東の大海から流れくる砂や貝が積もって、小高い丘ができた。やがて松の林が繁り、椎や柴も入り混じって、今ではもうすっかり山野のようである。
・・・現在の鹿嶋市平井付近か、高松緑地公園がある。

若松の浜:
 ここ( 高松の浜)から南の軽野の里の若松の浜までの三十里あまり一帯に、松の山がつづき、マツホド、ネアルマツホドなどの薬草も毎年採れる。この若松の浦は、常陸と下総の国堺の安是の湊(現、利根川河口付近)の近くである。剣を作るのに砂鉄を使うのはよいが、香島の神山なので、みだりに入りこんで松を伐ったり砂を掘ったりすることはできない。
・・・この若松の浜は常陸国の南端で、下総国に近い鹿島神宮領域であり、鹿島灘の南部(日川付近)をそう呼んでいたのかもしれません。ここで砂鉄による剣づくりが行われていたことを示していることは大変重要です。

童子女(うない)の松原:
 常陸国風土記には鹿島郡は2つの国から少し土地を分けてもらって香島の大神の国を作ったとあり、この2つ(軽野と寒田)の場所にいた男女の恋の話が載せられている。2つの国の少年・少女(「いらっこ」と「いらつめ」)が歌垣に集い、恋におち朝が来るのも忘れて松林の陰で語り明かした。気が付いたら朝になり2人は恥ずかしくなって、「奈美松」と「古津松」という松の木となってしまった。 古津松神、古津松神となり、現在の手子后(てごさき)神社などに祀られています。また童子女は神に仕える男女ということで髪の毛を後ろに束ねて縛った形「うない」と読むようですが、神栖市の「童子女の松原公園」は「おとめ」と読ませています。

白鳥の里: 郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しずつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。そして天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。・・・現在の鉾田市中居にある白鳥山大光寺 照明院や、鉾田市札にある普門寺あたり

角折の浜: 以下の2つの伝承が書かれている。
(1)大きな蛇がいて、東の海に出ようと浜に穴を掘った時に、蛇の角が折れてしまったため。
(2)倭武の天皇(ヤマトタケル)がこの浜辺に宿ったとき、御饌を供へるに水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまったため。
さて、角のある蛇がいるかどうかはよくわからないが、行方郡のところでも「夜刀の神」のことが書かれており、これには蛇で角があるとされています。もっともこれは逸話として書かれたようで現地人のことかもしれません。 ・・・現在の鹿嶋市角折

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/12 06:03

常陸国風土記と地名(3)-筑波

風土記地名03

常陸国風土記の筑波郡の記述には、

「筑波の県は、昔、紀(き)の国といった。
美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に、采女臣の一族が、筑箪命(つくはのみこと)を、この紀国の国造として派遣した。
筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といって、旧名の紀国を筑箪国と改め、さらに文字を「筑波」とした。」

とあります。

これによると 筑波は「紀の国」といったが、遣わされた国造の筑箪命が自分の名前を残したくて「筑箪」とし、文字を変えて「筑波」としたということになる。
筑箪を「つくは」と読むかどうかは怪しいが、「箪」は箪笥(たんす)のタンであり、訓読みなら「ハコ」だろう。

また国造(くにのみやっこ) として派遣されたとされる「筑箪命」は、3~4世紀初め頃の崇神天皇の時代に派遣された人物ではないかと考えられています。
さらに「紀の国」というと紀州和歌山を思い浮かべますが、「紀」は、柵または城に由来することばで、大和朝廷が対蝦夷を攻めていたときにその最前線に置かれた軍事基地を意味するものと考えられます。

この風土記に書かれている筑波の地名由来も、地名が先にあって、あとから考えたものかもしれません。
実際に、筑波の地名由来はいろいろな説があります。
しかしここではその先には深入りしないでおきましょう。

昔から人の名前はその人が住んでいた地名から呼ばれる場合がほとんどで、人の名前から地名になるものは少ないと思われます。もちろんある所に住んでいた豪族がその土地の名前で呼ばれていて、その部族が別な地に移って名前を変えずに、その新たに開拓した地がその人の名前と同じになるということはいくつか例があります。

さて、筑波山ですが、当時は
「西の頂は、高く険しく、雄をの神(男体山)といって登ることは出来ない。
東の頂(女体山)は、四方が岩山で昇り降りはやはり険しいが、道の傍らには泉が多く、夏冬絶えず湧き出てゐる。」
とされ、女体山では男女が山に登り、歌垣で歌を詠み楽しんでいたことが書かれています。

現在の「つくば市」周辺は「河内郡」ですが、風土記には「河内郡」の記載はありません。

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/12 06:10
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