FC2ブログ

乳房稲荷神社

 行方市浜の霞ケ浦岸辺近くに「乳房稲荷」と書かれた神社がある。

なかなかドッキリするような神社の名前であるので先日立ち寄ってみた。

P8300061s.jpg

確かに鳥居の扁額には「乳房神社」と書かれている。
ただ名前を想像させるようなものは置かれていない。
キツネの像があるのでいわゆる「お稲荷さん」である。

P8300062s.jpg

場所は霞ケ浦水運が発達していた頃の浜の船着き場あたりだろう。
鹿島参宮鉄道を作る計画時には石岡駅(初期計画は高浜駅)からこの「浜」までが大正15年に開通している。
そしてこの浜から 汽船参宮丸、霞丸、鹿島丸という蒸気船により浜 - 麻生 - 牛堀 - 潮来浜町 - 鹿島大社への船が昭和2年から運行された。

一方鉄道の方は早いうちから鹿島神宮への計画をあきらめてこの先の玉造から鉾田へ延伸した。
今となってはこの計画が良かったのかどうかも分からないが、今では鉄道は廃止され、汽船も運行されていない。

P8300058s.jpg

浜の湾(船着き場)から霞ケ浦大橋の方を望んだ。
高い塔は、霞ヶ浦ふれあいランドの「虹の塔」(高さ60m)
ここから対岸まで霞ケ浦大橋がある。

この大橋ができる前まではこの浜から対岸の柏崎まで渡し船が運行されていた。
学校の子供たちの通学にも使われていたという。

P8300051s.jpg

乳房稲荷は近くの素鵞神社の支社、または天台宗の「東福寺」の支社あたりかもしれない。
あまりよく調べてはいない。

名まえを見て驚くが、結構このような神社は各地に存在するが、稲荷神社の性格からしても、それぞれの地域で

・豊作祈願・商売繁盛・家内安全・子育て安心・健康祈願・病気除去

などと言った素朴な願いの村の鎮守様だったのだと思う。
乳房神社などという名前からしてもおそらくは「子安神社」と性格的には同じだと思う。

牛久・竜ヶ崎にまたがる「女化神社」にしても、この名前になったのは比較的新しい。
たんなる「稲荷社」などと呼ばれていた時期が長いようだ。

近くの家の門の前に個人的と思われる神社が建てられていた。
名前は書かれていないが、最初はこのような形であったのではないかと思う。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/01 07:20

霞ヶ浦の渡し舟

 かすみがうら市の旧出島の先端(田伏)から対岸の行方市玉造までの「霞ヶ浦大橋」が完成したのは昭和62年(1987)だった。
この橋も地元の念願が叶い実現し、当初は有料の橋だった。
当初計画よりも早く採算が取れて、当初の計画を前倒しにして、2005年(平成17年)に無料になった。

この橋が完成した昭和62年春まで、下の地図で白い破線で示した区間を船が運航されていた。
(常陽リビング記事: ⇒ こちら 
(なめがたヒストリー 【霞ヶ浦大橋 その歴史と変遷】: ⇒ こちら )

霞ヶ浦大橋2

この浜と柏崎を結ぶ定期船(出島丸?)は高校生も通学で使っていたそうだ。
この場所の先にそれぞれ「素鵞神社」が残されており、恐らく明治始めまでは「天王社」であったのだと思う。
行方市、小美玉市にはこの素鵞(そが)神社結構多い。

昨日載せた「乳房稲荷神社」の場所も記しておいた。
両素鵞神社については明日にでも載せておきたいと思う。

今日はこの桟橋のあたりと思われる場所を訪れたので写真をUPしておきたい。

まずは出島地区の柏崎の桟橋付近

P8300014s.jpg

ここは今もモータープールとして利用されているようだ。

P8300016s.jpg

何艘かの舟が留まっていた。

P8300017s.jpg

ではそこから霞ヶ浦大橋を渡って玉造に向かう。

P8300055s.jpg

行方市浜の桟橋は現在のモータープールのようなところを考えてみたが、もう少し北側にある桟橋であったかもしれない。


P8300057s.jpg

霞ヶ浦ふれあいランドのタワーがよく見える。
大橋が出来た時に水の遊び場として造られた。

P8300058s.jpg

このタワーの近くから大橋が始まっている。

行方ヒストリーの記事に、この橋ができる当時の記録がある。
ここに高浜入りの干拓事業計画の話が載っていた。

以下記事の一部を抜粋させていただきます。

-----------以下抜粋-------------------
【高浜入干拓事業】
干拓

実は現在の霞ヶ浦大橋のある場所のあたりは干拓される予定でした。
昭和35年には農林省が計画を発表し、昭和42年には高浜入干拓建設事務所が旧玉造町に設置され工事の着工が決定されました。

この頃の日本は米を増作させる方針であり、八郎潟などの干拓工事を行っていた時期でした。この干拓はちょうどその流れに高浜入も入ったということなのでしょうね。

しかし工事の着工は決定したものの時代の流れが変わり、米の増産は減反へと転じており、昭和48年にはオイルショックもあり、この高浜入干拓事業は昭和53年に中止になりました。

この干拓事業と平行して多くの論議をよんだ事が霞ヶ浦架橋計画です。
埋め立てて繋げるのか。橋を架けて繋げるのか。この論議が激しかった時代がしのばれます。
------------抜粋 ここまで-----------------------

このような今としては馬鹿げた干拓計画が立てられ、極端な話では霞ヶ浦を全部埋めたってしまえ!なんていう話も出たことがあったそうです。
そしてその埋め立ての土には筑波山を削ればいいなどという無茶なことも平気で議論されたそうですので恐ろしいことです。


霞ヶ浦周辺の田んぼでは今年は早くて、すでに稲刈りが始まっています。
黄金色に実った稲を刈るコンバインの姿があちこちに見られます。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/01 14:18
 | HOME |