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常陸国風土記と地名(7)-香島

 香島郡については、常陸国風土記の記述だけが「香島」であり、他の書物などではは「鹿島」が使われています。
香島郡の成立については、風土記に「大化五年(649年)に、下総の海上国(うなかみのくに)の軽野(かるの)より南の一里と、那賀国の寒田(さむた)より北の五里とを合併し、新たに神の郡を置いた。」と書かれていますが、香島の名前の由来は「香島の天の大神」とあるだけで、特に書かれてはいません。

・軽野:現在の神栖市軽野あたり
・寒田:この場所は特定されていないが、香島郡ができる前は那賀の国の南端であるので、軽野の少し北側であろう。
どこまでが香島郡になったのかというと、昔は涸沼がもっと大きな内海であったからこのあたりまでだと考えられます。
この内海は「阿多可奈湖(あたかなのみなと)」と呼ばれていたようです。この沼を寒田と呼んでいたのかもしれません。

風土記地名07

香島の天の大神:
 高天原より天降って来た大神の名を「香島の天の大神」という。(中略)神の宮を造らせ、式年に改修されている。 毎年七月に、舟を造って、津の宮に奉納している。
 社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。この沼で採れる蓮根は、他では味はへない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食ふと、たちどころに癒えるという。鮒や鯉も多い。ここは以前郡家のあった所で、橘も多く、良い実がなる。
・・・現在「鹿島神宮本宮・沼尾神社と坂戸神社」の三社をもって「 香島天大神」と称しています。

高松の浜:
 郡家の東二、三里のところに高松の浜がある。むかし東の大海から流れくる砂や貝が積もって、小高い丘ができた。やがて松の林が繁り、椎や柴も入り混じって、今ではもうすっかり山野のようである。
・・・現在の鹿嶋市平井付近か、高松緑地公園がある。

若松の浜:
 ここ( 高松の浜)から南の軽野の里の若松の浜までの三十里あまり一帯に、松の山がつづき、マツホド、ネアルマツホドなどの薬草も毎年採れる。この若松の浦は、常陸と下総の国堺の安是の湊(現、利根川河口付近)の近くである。剣を作るのに砂鉄を使うのはよいが、香島の神山なので、みだりに入りこんで松を伐ったり砂を掘ったりすることはできない。
・・・この若松の浜は常陸国の南端で、下総国に近い鹿島神宮領域であり、鹿島灘の南部(日川付近)をそう呼んでいたのかもしれません。ここで砂鉄による剣づくりが行われていたことを示していることは大変重要です。

童子女(うない)の松原:
 常陸国風土記には鹿島郡は2つの国から少し土地を分けてもらって香島の大神の国を作ったとあり、この2つ(軽野と寒田)の場所にいた男女の恋の話が載せられている。2つの国の少年・少女(「いらっこ」と「いらつめ」)が歌垣に集い、恋におち朝が来るのも忘れて松林の陰で語り明かした。気が付いたら朝になり2人は恥ずかしくなって、「奈美松」と「古津松」という松の木となってしまった。 古津松神、古津松神となり、現在の手子后(てごさき)神社などに祀られています。また童子女は神に仕える男女ということで髪の毛を後ろに束ねて縛った形「うない」と読むようですが、神栖市の「童子女の松原公園」は「おとめ」と読ませています。

白鳥の里: 郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しずつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。そして天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。・・・現在の鉾田市中居にある白鳥山大光寺 照明院や、鉾田市札にある普門寺あたり

角折の浜: 以下の2つの伝承が書かれている。
(1)大きな蛇がいて、東の海に出ようと浜に穴を掘った時に、蛇の角が折れてしまったため。
(2)倭武の天皇(ヤマトタケル)がこの浜辺に宿ったとき、御饌を供へるに水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまったため。
さて、角のある蛇がいるかどうかはよくわからないが、行方郡のところでも「夜刀の神」のことが書かれており、これには蛇で角があるとされています。もっともこれは逸話として書かれたようで現地人のことかもしれません。 ・・・現在の鹿嶋市角折

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/12 06:03

常陸国風土記と地名(3)-筑波

風土記地名03

常陸国風土記の筑波郡の記述には、

「筑波の県は、昔、紀(き)の国といった。
美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に、采女臣の一族が、筑箪命(つくはのみこと)を、この紀国の国造として派遣した。
筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といって、旧名の紀国を筑箪国と改め、さらに文字を「筑波」とした。」

とあります。

これによると 筑波は「紀の国」といったが、遣わされた国造の筑箪命が自分の名前を残したくて「筑箪」とし、文字を変えて「筑波」としたということになる。
筑箪を「つくは」と読むかどうかは怪しいが、「箪」は箪笥(たんす)のタンであり、訓読みなら「ハコ」だろう。

また国造(くにのみやっこ) として派遣されたとされる「筑箪命」は、3~4世紀初め頃の崇神天皇の時代に派遣された人物ではないかと考えられています。
さらに「紀の国」というと紀州和歌山を思い浮かべますが、「紀」は、柵または城に由来することばで、大和朝廷が対蝦夷を攻めていたときにその最前線に置かれた軍事基地を意味するものと考えられます。

この風土記に書かれている筑波の地名由来も、地名が先にあって、あとから考えたものかもしれません。
実際に、筑波の地名由来はいろいろな説があります。
しかしここではその先には深入りしないでおきましょう。

昔から人の名前はその人が住んでいた地名から呼ばれる場合がほとんどで、人の名前から地名になるものは少ないと思われます。もちろんある所に住んでいた豪族がその土地の名前で呼ばれていて、その部族が別な地に移って名前を変えずに、その新たに開拓した地がその人の名前と同じになるということはいくつか例があります。

さて、筑波山ですが、当時は
「西の頂は、高く険しく、雄をの神(男体山)といって登ることは出来ない。
東の頂(女体山)は、四方が岩山で昇り降りはやはり険しいが、道の傍らには泉が多く、夏冬絶えず湧き出てゐる。」
とされ、女体山では男女が山に登り、歌垣で歌を詠み楽しんでいたことが書かれています。

現在の「つくば市」周辺は「河内郡」ですが、風土記には「河内郡」の記載はありません。

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/12 06:10
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