三昧塚で一休み
昨日は朝から仕事でまた銚子へでかけました。
家を出ると朝冷え込んだせいか、雲がきれいで変わった形をしていました。
また月も白く薄く残っていました。
石岡の町中へ出ると信号が消えています。 市街地の信号が皆消えて、クルマの多い処では警察官が手信号で誘導していました。あまり広い範囲ではなかったのですが、何故こんなことになったのでしょう。1~1.5時間くらいこの市街地だけが停電していたようです。
霞ヶ浦の湖岸辺りからこの雲を眺めたらなどと思いながら車を霞ヶ浦北岸沿いの355号線を走っていましたが、雲はかなりの速さで右から左に動いていき、徐々にその形を変え、ほぼ普通の雲に変わっていきました。
まあでも、こんな日には行方市に入ってすぐの街道沿いにある「三昧塚古墳」で少し遊んでいくことにしました。

古墳は芝生がきれいに盛られ、形も人工的に整えられた様になっていますが、開放的で、このような天気の日には眺めていると気持ちよくなってきます。

少しの時間でしたが、古墳を一回りして裏側から古墳と上に浮かぶ雲を写真に撮って置きました。
真ん中の雲は何か蒸気が昇ってできたように薄い筋がふわふわの柔らかい肌触りの羽根を思い浮かべます。

古墳に近付くと芝生の上には蒲公英のような綿毛や、そのたくさんの小さな茎が天に向かって延びています。

だあれもいない古墳に一人・・・・・・
結構通りからも見られているでしょうし、一人でなにやってんのかな? などと笑われているかもしれませんね。

モンシロチョウが飛んできて、ゆらゆらと飛びながら去っていきました。

この丘の向こうには何があるのでしょうか?
ちょっとそんな気持ちにさせられました。
ふわっとした雲が近い・・・・。

今日もいいことがありますように!!
家を出ると朝冷え込んだせいか、雲がきれいで変わった形をしていました。
また月も白く薄く残っていました。
石岡の町中へ出ると信号が消えています。 市街地の信号が皆消えて、クルマの多い処では警察官が手信号で誘導していました。あまり広い範囲ではなかったのですが、何故こんなことになったのでしょう。1~1.5時間くらいこの市街地だけが停電していたようです。
霞ヶ浦の湖岸辺りからこの雲を眺めたらなどと思いながら車を霞ヶ浦北岸沿いの355号線を走っていましたが、雲はかなりの速さで右から左に動いていき、徐々にその形を変え、ほぼ普通の雲に変わっていきました。
まあでも、こんな日には行方市に入ってすぐの街道沿いにある「三昧塚古墳」で少し遊んでいくことにしました。

古墳は芝生がきれいに盛られ、形も人工的に整えられた様になっていますが、開放的で、このような天気の日には眺めていると気持ちよくなってきます。

少しの時間でしたが、古墳を一回りして裏側から古墳と上に浮かぶ雲を写真に撮って置きました。
真ん中の雲は何か蒸気が昇ってできたように薄い筋がふわふわの柔らかい肌触りの羽根を思い浮かべます。

古墳に近付くと芝生の上には蒲公英のような綿毛や、そのたくさんの小さな茎が天に向かって延びています。

だあれもいない古墳に一人・・・・・・
結構通りからも見られているでしょうし、一人でなにやってんのかな? などと笑われているかもしれませんね。

モンシロチョウが飛んできて、ゆらゆらと飛びながら去っていきました。

この丘の向こうには何があるのでしょうか?
ちょっとそんな気持ちにさせられました。
ふわっとした雲が近い・・・・。

今日もいいことがありますように!!
銚子港のお昼時
千葉のとっぱずれという銚子に月に数回来ているが、昼前に銚子港あたりをうろうろすることが多い。
銚子港と言っても銚子駅前から真っ直ぐに行った突き当りにある公園は昔に江戸・東京との船便が停泊した湊だ。
今の銚子港はもう少し東側。
ここはまだ利根川の河口部分でこの少し先が太平洋になる。

茨城県の神栖市波崎と銚子を結ぶ「銚子大橋」
最初は有料だったが、もう30~40年くらい前に無料になった。そして数年前に改修・建て替え工事が完了した。
最近はこの神栖側からこの橋を渡って銚子に来ることが多くなった。
橋を渡っていると地元民ではないが、銚子の町並み、丘の上の風車などの風景が懐かしく感じるようになってきた。

この利根川の向こう岸が神栖市の波崎。 やはり風車が2基みえる。
波崎港はこの先の岬を回った外洋(鹿島灘)側の入江部分にある。

この先が太平洋にあたる。
銚子漁港は外川港の外洋側にできたのは始まりだが、この利根川河口部分に堆積した平地に広がり、江戸時代には大いににぎわった。

港は朝が早い。
昼時に来るとどこものんびりと時間が流れている気になる。
漁船もみな停泊中だ。

公園でもライダーがのんびり港をながめて休憩中。
銚子港と言っても銚子駅前から真っ直ぐに行った突き当りにある公園は昔に江戸・東京との船便が停泊した湊だ。
今の銚子港はもう少し東側。
ここはまだ利根川の河口部分でこの少し先が太平洋になる。

茨城県の神栖市波崎と銚子を結ぶ「銚子大橋」
最初は有料だったが、もう30~40年くらい前に無料になった。そして数年前に改修・建て替え工事が完了した。
最近はこの神栖側からこの橋を渡って銚子に来ることが多くなった。
橋を渡っていると地元民ではないが、銚子の町並み、丘の上の風車などの風景が懐かしく感じるようになってきた。

この利根川の向こう岸が神栖市の波崎。 やはり風車が2基みえる。
波崎港はこの先の岬を回った外洋(鹿島灘)側の入江部分にある。

この先が太平洋にあたる。
銚子漁港は外川港の外洋側にできたのは始まりだが、この利根川河口部分に堆積した平地に広がり、江戸時代には大いににぎわった。

港は朝が早い。
昼時に来るとどこものんびりと時間が流れている気になる。
漁船もみな停泊中だ。

公園でもライダーがのんびり港をながめて休憩中。
銚子での芭蕉と一茶の句碑(浄国寺)
銚子駅近くで少し時間があったので、公園の案内板に書かれていた松尾芭蕉と小林一茶の碑があるという「浄国寺」へいってみることにしました。
浄国寺は銚子駅からすぐ南側の少し奥まった住宅街にある浄土宗のかなり敷地の広い大きなお寺でした。

入口には「2つの句碑」の案内看板が置かれていました。

山門をくぐるとすぐ左手にかなり古い無縁仏(墓標)がぎっしりと並べられていました。
そして少し本堂の方に進むと左手に芭蕉の句碑がおかれていました。

芭蕉は鹿島紀行で鹿島や潮来へは来ていますが銚子には来たかどうかはわかりません。
ただ門人もいたようですので来たかもしれませんが、この浄国寺に来た記録はありません。

この「枯枝に からすのとまりけり 秋の暮れ」 または 「枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮れ」 という句は、芭蕉は何度か書き換えながらいくつもの書物に残しています。
鹿島神宮の要石の脇にもこの句が石碑としておかれています。

あたりはお寺の墓地の一角ですが変わった墓を紹介しておきましょう。
上の写真は「歯の供養塔」です。

こちらの写真は「酒佛 鈴木玄庵」となっており、鈴木玄庵という医師の墓で、徳利、お猪口などをかたどった墓石です。

一方一茶の句碑はすぐ側には無く、何度も探してしまいました。
本堂裏の墓地の一番奥です。
ここは 望西台と呼ばれていた場所で、かつて日観亭という庵があり、俳人たちが集まっていたといいます。
小林一茶は1817年5月27日に潮来から船で銚子に入り、6月1日に俳友桂丸と李峰の三人でこの浄国寺を訪れています。
一茶の日記には「一晴 南風 返田浄国寺登望西台 桂丸 李峰同」と記されています。

「此臺の清風たゝちに心涼しく西方仏土もかくあらんと 本とゝす 爰をさること 遠からす 一茶坊」
と彫られています。
浄国寺は銚子駅からすぐ南側の少し奥まった住宅街にある浄土宗のかなり敷地の広い大きなお寺でした。

入口には「2つの句碑」の案内看板が置かれていました。

山門をくぐるとすぐ左手にかなり古い無縁仏(墓標)がぎっしりと並べられていました。
そして少し本堂の方に進むと左手に芭蕉の句碑がおかれていました。

芭蕉は鹿島紀行で鹿島や潮来へは来ていますが銚子には来たかどうかはわかりません。
ただ門人もいたようですので来たかもしれませんが、この浄国寺に来た記録はありません。

この「枯枝に からすのとまりけり 秋の暮れ」 または 「枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮れ」 という句は、芭蕉は何度か書き換えながらいくつもの書物に残しています。
鹿島神宮の要石の脇にもこの句が石碑としておかれています。

あたりはお寺の墓地の一角ですが変わった墓を紹介しておきましょう。
上の写真は「歯の供養塔」です。

こちらの写真は「酒佛 鈴木玄庵」となっており、鈴木玄庵という医師の墓で、徳利、お猪口などをかたどった墓石です。

一方一茶の句碑はすぐ側には無く、何度も探してしまいました。
本堂裏の墓地の一番奥です。
ここは 望西台と呼ばれていた場所で、かつて日観亭という庵があり、俳人たちが集まっていたといいます。
小林一茶は1817年5月27日に潮来から船で銚子に入り、6月1日に俳友桂丸と李峰の三人でこの浄国寺を訪れています。
一茶の日記には「一晴 南風 返田浄国寺登望西台 桂丸 李峰同」と記されています。

「此臺の清風たゝちに心涼しく西方仏土もかくあらんと 本とゝす 爰をさること 遠からす 一茶坊」
と彫られています。
平家ゆかりの寺・萬福寺(その1)-仁王門
行方市羽生に萬福寺という天台宗の古寺がある。
ここは「平家ゆかりの寺」といわれているが、あまり知られていないようだ。
前にも訪れてはいるが、久しぶりに立ち寄ってみた。

行方市羽生地区の国道355線からすこし山側に入った住宅街の奥に鎮座している。
入口にそれほど大きくは無いが立派な藁葺き屋根の山門(仁王門)がある。

現地案内板を見てみよう: 萬福寺 仁王門(県指定有形文化財)
この仁王門は天正6年(1578年)に稲敷市小野(旧新利根町)の逢善寺(ほうぜんじ)に建立されたもので、享保9年(1724年)逢善寺で新たに仁王門を建立するにあたり、当時萬福寺住職であった快尊(かいそん)が、以前逢善寺の留守住職をしていた縁故から、古くなった仁王門を譲り受け、解体して霞ヶ浦を船で運びここに移築されたものです。
形式は三間一戸の単層で、屋根は萱葺き、入母屋造り、組み物には種々の彩色を施した彫刻があります。また、金剛柵に囲まれて安置されている仁王像は平成23年5月26日に市文化財に指定されています。細部に唐様式を認める室町時代末期の作柄を持つ貴重な建造物です。 (これは市のHPに記載されたもので、上の看板と少し違いがあります)




茨城県の文化財ということで文化財のHPより仁王像の写真をお借りしました。
1719年(江戸時代)に作られたヒノキ材の寄木造り
仁王門がここに移された時期に近い。
では、移される前にあったという稲敷市の小野にある「逢善寺」を見てみよう。
この小野もおそらく小野川の名前の由来となったのだろう。
稲敷市小野の逢善寺(ほうぜんじ)は茨城県でもかなり古い大きな寺で小野の観音様として知られる寺です。
以前に記事を書いていますので興味があれば見てください。
以前書いた記事: 逢善寺(1)⇒ こちら1、 逢善寺(2)⇒ こちら2、 逢善寺(2)⇒ こちら3

<逢善寺仁王門>
仁王門は、明治2年(1869)に東京麹町の日枝神社山門を移築したもので、太田道潅が文明年間(1469~87)に建造したものと伝えられています。
八脚門で、屋根は切妻造の銅板葺であり、柱、壁などすべて朱漆塗りで、蟇股の彫刻には彩色が施されています。
現在の仁王門は、解体修理が行われ、中世の均整美が再現されています。
と説明には書かれています。
江戸の日枝神社山門を明治初期の廃仏毀釈の時に移築したというのでかなり立派なものだ。
こちらの行方市に仁王門を移して、作ったという山門(仁王門)がその前にはあったと思うが、その記録はわからない。

稲敷市逢善寺仁王門の仁王像
こちらも江戸の日枝神社仁王門と同時に移されたものと考えられている。
像の墨書銘から応永9年(1402)の作であることがわかっています。
萬福寺の仁王門・仁王像と稲敷市の逢善寺の仁王門・仁王像を比較してみました。
ここは「平家ゆかりの寺」といわれているが、あまり知られていないようだ。
前にも訪れてはいるが、久しぶりに立ち寄ってみた。

行方市羽生地区の国道355線からすこし山側に入った住宅街の奥に鎮座している。
入口にそれほど大きくは無いが立派な藁葺き屋根の山門(仁王門)がある。

現地案内板を見てみよう: 萬福寺 仁王門(県指定有形文化財)
この仁王門は天正6年(1578年)に稲敷市小野(旧新利根町)の逢善寺(ほうぜんじ)に建立されたもので、享保9年(1724年)逢善寺で新たに仁王門を建立するにあたり、当時萬福寺住職であった快尊(かいそん)が、以前逢善寺の留守住職をしていた縁故から、古くなった仁王門を譲り受け、解体して霞ヶ浦を船で運びここに移築されたものです。
形式は三間一戸の単層で、屋根は萱葺き、入母屋造り、組み物には種々の彩色を施した彫刻があります。また、金剛柵に囲まれて安置されている仁王像は平成23年5月26日に市文化財に指定されています。細部に唐様式を認める室町時代末期の作柄を持つ貴重な建造物です。 (これは市のHPに記載されたもので、上の看板と少し違いがあります)




茨城県の文化財ということで文化財のHPより仁王像の写真をお借りしました。
1719年(江戸時代)に作られたヒノキ材の寄木造り
仁王門がここに移された時期に近い。
では、移される前にあったという稲敷市の小野にある「逢善寺」を見てみよう。
この小野もおそらく小野川の名前の由来となったのだろう。
稲敷市小野の逢善寺(ほうぜんじ)は茨城県でもかなり古い大きな寺で小野の観音様として知られる寺です。
以前に記事を書いていますので興味があれば見てください。
以前書いた記事: 逢善寺(1)⇒ こちら1、 逢善寺(2)⇒ こちら2、 逢善寺(2)⇒ こちら3

<逢善寺仁王門>
仁王門は、明治2年(1869)に東京麹町の日枝神社山門を移築したもので、太田道潅が文明年間(1469~87)に建造したものと伝えられています。
八脚門で、屋根は切妻造の銅板葺であり、柱、壁などすべて朱漆塗りで、蟇股の彫刻には彩色が施されています。
現在の仁王門は、解体修理が行われ、中世の均整美が再現されています。
と説明には書かれています。
江戸の日枝神社山門を明治初期の廃仏毀釈の時に移築したというのでかなり立派なものだ。
こちらの行方市に仁王門を移して、作ったという山門(仁王門)がその前にはあったと思うが、その記録はわからない。

稲敷市逢善寺仁王門の仁王像
こちらも江戸の日枝神社仁王門と同時に移されたものと考えられている。
像の墨書銘から応永9年(1402)の作であることがわかっています。
萬福寺の仁王門・仁王像と稲敷市の逢善寺の仁王門・仁王像を比較してみました。
平家ゆかりの寺-萬福寺(2)-重盛
行方市の埴生にある萬福寺の続きです。
このお寺は「平家ゆかりの寺」と書かれる場合が多いのですが、あまり知られていないですね。
寺伝では、源平合戦に敗れた平家一門が都落ちした際、平家の重臣であった平貞能(さだよし)が、平清盛の長男で早死にした平重盛の遺骨とその守護仏の阿弥陀三尊像を携えて東国に落ち延びてきて、この寺にその三尊像と重盛の遺骨を奉じたとされています。
貞能は東国を流浪した末、同じ平家一門である行方次郎(平忠幹:たいらのただもと)を頼りに芹沢に庵を構え、安置したのがこの寺にある阿弥陀三尊立像だといわれています。この萬福寺は芹沢にありましたが1698年にここ埴生の地に移されたといわれています。
また寺の境内には平重盛や貞能の墓と言われる墓標もあります。
さてどこまでが真実でしょうか?
というのもここ常陸国以外にも宇都宮、仙台にまで平重盛と貞能伝説が残されているからです。
では少しこの寺の阿弥陀三尊と阿弥陀堂(共に茨城県の指定文化財)を見てみましょう。

山門をくぐるとすぐ上にのぼる階段があり、登り切った正面に古い藁ぶき屋根の立派なお堂が目に入ります。
これが阿弥陀堂です。

なかなか立派な造りです。

萬福寺 阿弥陀堂(県指定有形文化財) 現地看板(上)と市の説明(下記)
この御堂は、阿弥陀如来立像と両脇侍像を納めた厨子を安置しており、唐和様折衷形式で、廟建築を加味した珍しい建物です。
三間四方の寄せ棟造り、四手先萱葺きで念仏三昧を修める常行堂様式に造られています。
内部の格天井鏡板には三頭の龍の図が色彩で描かれており、寄進銘に「貞亭四年(1687年)芹沢氏高幹」とあります。
高幹は、芹沢氏7代目で水戸徳川家に200石で仕えています。
元禄11年(1698年)水戸藩の宗教政策により、萬福寺は芹沢から羽生に移されました。
阿弥陀堂の内部には厨子に入った阿弥陀三尊像が安置されていますが、普段拝観することができませんので、紹介されている資料から詳細を書き出してみましょう。

阿弥陀如来立像は、96センチメートルの像高を有し、螺髪(らはつ)は細い針金をより合わせ一つずつ植付けにしています。玉眼入りの上品な顔立ちで、口をわずかに開き、歯が見える全国でも数少ない歯吹像です。衣紋には衣紋椽(えもんてん)を施してあり、足裏にまで仏足石にならい輪棒華瓶(りんぼうけびょう)の截金(きりかね)を施しているなど地方には稀な作となっています。
また、観世音菩薩と勢至菩薩の両脇侍像の像高は、72センチメートルで阿弥陀如来立像とともに、阿弥陀堂にある厨子の中に安置され、この三尊は室町時代中期の秀作といわれています。

それほど大きな像ではありませんが室町時代中期の作と見られていますの「平重盛の守護仏」というのは少し無理があるかもしれません。
しかしかなり古く歴史ある仏像で一度拝顔したいですね。
さて、平重盛と言えば清盛の嫡男で跡目を嘱望されていましたが清盛より先に病死してしまい高野山に葬られたといわれています。
源平合戦で平家が九州目指して都落ちするときに、部下であった平貞能(さだよし)は自らが九州にての鎮圧活動などを通して九州での平家の援護は難しいことを知っており、一門が西国に逃げた時に重盛の墓を掘り起し、まわりの土は川に流して京をさり、東国に向かったといわれています。
この時にこの遺骨と、重盛夫人を伴って東国の平氏を頼って偲んでやってきたとされますが、これに伴い各地にいくつもの伝説が残されました。
茨城県城里町には「小松寺」という大きなお寺があります。
ここは重盛が京都六波羅の小松に屋敷を構えていたことから「小松殿」と呼ばれていたことから重盛ゆかりの寺とされ、「小松寺」と名付けられています。
ここにも平貞能が常陸国の平氏(大掾氏)を頼って、やってきて、この寺に重盛夫人と共に隠れていたとされます。
そのため、寺の裏山には重盛、重盛夫人、貞能の3人の比較的小さな五輪塔が残されています。
ではこちらの萬福寺はどのようないきさつがあったのでしょうか?
それには「芹沢氏」が関係しているようです。
芹沢氏は幕末の芹沢鴨などの名前でよく知られていますが、常陸大掾(だいじょう)氏の多気(北条)大掾氏(平氏)から出た家柄です。
多気大掾であった平義幹(多気太郎)が八田氏(小田氏)の換言で頼朝より駿河国の岡部氏に蟄居となり、この義幹の次男が芹沢氏の祖となった平茂幹です。
その後常陸大掾となった大掾馬場資幹が平茂幹を常陸国に呼び戻すことに成功し、その後の常陸大掾の補佐役をしてきました。
そして1590年の戦国末期に豊臣秀吉に取り入った佐竹氏が常陸国の統一を任され、最後には南方三十三館の平氏系の館主が捨て呼び出されてすべて殺されてしまいました。
この三十三館の中に芹沢氏はいなかったのです。呼び出しを受けたようですが行かなかったといわれています。
当然他にも呼び出しに応じない館主もいたのですが、佐竹氏はこれを攻め滅ぼしてしまいます。
ところがこの芹沢氏だけは佐竹氏との関係が良かったようで、逢えて攻め滅ぼされずに済んだといわれています。
当初、この芹沢氏が住んでいた「行方市芹沢」にこの萬福寺は建てられました。
現在地に移ったのは1698年です。
おそらくこの阿弥陀三尊像はこの芹沢氏の守護仏なのでしょう。
さて、この萬福寺には市指定の阿弥陀如来像がもう1体あり、こちらは阿弥陀堂の裏手にある寺の本堂に安置されています。


(説明板)
萬福寺の本尊であり、本堂に安置されています。来迎印(らいごういん)を結び蓮華座(れんげざ)上に立つほぼ三尺の阿弥陀如来像です。
本像は、大粒の螺髪(らほつ)をあらわし、肉髻(にっけい)は低く、地髪の鉢が張り、髪際が中央でややさがる表現や、強い現実的な顔立ち、偏衫(へんさん)に衲衣(のうえ)をまとう衣文(えもん)の太くかつ動きをもった襞(ひだ)の彫り口や左肩に大きく折り返される衣端の表現など、鎌倉時代後半の作風を示しています。
割矧(わりはぎ)造り。玉眼。像高84.9センチメートル。
このお寺は「平家ゆかりの寺」と書かれる場合が多いのですが、あまり知られていないですね。
寺伝では、源平合戦に敗れた平家一門が都落ちした際、平家の重臣であった平貞能(さだよし)が、平清盛の長男で早死にした平重盛の遺骨とその守護仏の阿弥陀三尊像を携えて東国に落ち延びてきて、この寺にその三尊像と重盛の遺骨を奉じたとされています。
貞能は東国を流浪した末、同じ平家一門である行方次郎(平忠幹:たいらのただもと)を頼りに芹沢に庵を構え、安置したのがこの寺にある阿弥陀三尊立像だといわれています。この萬福寺は芹沢にありましたが1698年にここ埴生の地に移されたといわれています。
また寺の境内には平重盛や貞能の墓と言われる墓標もあります。
さてどこまでが真実でしょうか?
というのもここ常陸国以外にも宇都宮、仙台にまで平重盛と貞能伝説が残されているからです。
では少しこの寺の阿弥陀三尊と阿弥陀堂(共に茨城県の指定文化財)を見てみましょう。

山門をくぐるとすぐ上にのぼる階段があり、登り切った正面に古い藁ぶき屋根の立派なお堂が目に入ります。
これが阿弥陀堂です。

なかなか立派な造りです。

萬福寺 阿弥陀堂(県指定有形文化財) 現地看板(上)と市の説明(下記)
この御堂は、阿弥陀如来立像と両脇侍像を納めた厨子を安置しており、唐和様折衷形式で、廟建築を加味した珍しい建物です。
三間四方の寄せ棟造り、四手先萱葺きで念仏三昧を修める常行堂様式に造られています。
内部の格天井鏡板には三頭の龍の図が色彩で描かれており、寄進銘に「貞亭四年(1687年)芹沢氏高幹」とあります。
高幹は、芹沢氏7代目で水戸徳川家に200石で仕えています。
元禄11年(1698年)水戸藩の宗教政策により、萬福寺は芹沢から羽生に移されました。
阿弥陀堂の内部には厨子に入った阿弥陀三尊像が安置されていますが、普段拝観することができませんので、紹介されている資料から詳細を書き出してみましょう。

阿弥陀如来立像は、96センチメートルの像高を有し、螺髪(らはつ)は細い針金をより合わせ一つずつ植付けにしています。玉眼入りの上品な顔立ちで、口をわずかに開き、歯が見える全国でも数少ない歯吹像です。衣紋には衣紋椽(えもんてん)を施してあり、足裏にまで仏足石にならい輪棒華瓶(りんぼうけびょう)の截金(きりかね)を施しているなど地方には稀な作となっています。
また、観世音菩薩と勢至菩薩の両脇侍像の像高は、72センチメートルで阿弥陀如来立像とともに、阿弥陀堂にある厨子の中に安置され、この三尊は室町時代中期の秀作といわれています。

それほど大きな像ではありませんが室町時代中期の作と見られていますの「平重盛の守護仏」というのは少し無理があるかもしれません。
しかしかなり古く歴史ある仏像で一度拝顔したいですね。
さて、平重盛と言えば清盛の嫡男で跡目を嘱望されていましたが清盛より先に病死してしまい高野山に葬られたといわれています。
源平合戦で平家が九州目指して都落ちするときに、部下であった平貞能(さだよし)は自らが九州にての鎮圧活動などを通して九州での平家の援護は難しいことを知っており、一門が西国に逃げた時に重盛の墓を掘り起し、まわりの土は川に流して京をさり、東国に向かったといわれています。
この時にこの遺骨と、重盛夫人を伴って東国の平氏を頼って偲んでやってきたとされますが、これに伴い各地にいくつもの伝説が残されました。
茨城県城里町には「小松寺」という大きなお寺があります。
ここは重盛が京都六波羅の小松に屋敷を構えていたことから「小松殿」と呼ばれていたことから重盛ゆかりの寺とされ、「小松寺」と名付けられています。
ここにも平貞能が常陸国の平氏(大掾氏)を頼って、やってきて、この寺に重盛夫人と共に隠れていたとされます。
そのため、寺の裏山には重盛、重盛夫人、貞能の3人の比較的小さな五輪塔が残されています。
ではこちらの萬福寺はどのようないきさつがあったのでしょうか?
それには「芹沢氏」が関係しているようです。
芹沢氏は幕末の芹沢鴨などの名前でよく知られていますが、常陸大掾(だいじょう)氏の多気(北条)大掾氏(平氏)から出た家柄です。
多気大掾であった平義幹(多気太郎)が八田氏(小田氏)の換言で頼朝より駿河国の岡部氏に蟄居となり、この義幹の次男が芹沢氏の祖となった平茂幹です。
その後常陸大掾となった大掾馬場資幹が平茂幹を常陸国に呼び戻すことに成功し、その後の常陸大掾の補佐役をしてきました。
そして1590年の戦国末期に豊臣秀吉に取り入った佐竹氏が常陸国の統一を任され、最後には南方三十三館の平氏系の館主が捨て呼び出されてすべて殺されてしまいました。
この三十三館の中に芹沢氏はいなかったのです。呼び出しを受けたようですが行かなかったといわれています。
当然他にも呼び出しに応じない館主もいたのですが、佐竹氏はこれを攻め滅ぼしてしまいます。
ところがこの芹沢氏だけは佐竹氏との関係が良かったようで、逢えて攻め滅ぼされずに済んだといわれています。
当初、この芹沢氏が住んでいた「行方市芹沢」にこの萬福寺は建てられました。
現在地に移ったのは1698年です。
おそらくこの阿弥陀三尊像はこの芹沢氏の守護仏なのでしょう。
さて、この萬福寺には市指定の阿弥陀如来像がもう1体あり、こちらは阿弥陀堂の裏手にある寺の本堂に安置されています。


(説明板)
萬福寺の本尊であり、本堂に安置されています。来迎印(らいごういん)を結び蓮華座(れんげざ)上に立つほぼ三尺の阿弥陀如来像です。
本像は、大粒の螺髪(らほつ)をあらわし、肉髻(にっけい)は低く、地髪の鉢が張り、髪際が中央でややさがる表現や、強い現実的な顔立ち、偏衫(へんさん)に衲衣(のうえ)をまとう衣文(えもん)の太くかつ動きをもった襞(ひだ)の彫り口や左肩に大きく折り返される衣端の表現など、鎌倉時代後半の作風を示しています。
割矧(わりはぎ)造り。玉眼。像高84.9センチメートル。
つくば市北条の町へ
昨日行方市の萬福寺を紹介しました。 そしてそこが「平家ゆかりの寺」とも言われていることも・・・
そして芹沢氏の影響があることも・・・・
1週間前に「ふるさと風の会」の機関誌を配りるため北条の町に行ってきました。
毎月1回ここを訪れています。
それももう数年欠かさずに来ています。

途中の宝篋山(ほうきょうさん)もきれいに山が見えます。
最近登山客でにぎわっています。
この日も何組もすれ違いました。
写真は極楽寺跡近くです。
極楽寺は鎌倉時代に小田氏のもとにやってきた忍性が建てた七堂伽藍を有する大きな寺でした。
今は山の中腹に大きな五輪塔が残されているだけでそれほど残されているものはありません。

風の会の機関誌は北条の町の中心部にある「北条ふれあい館(田村家)」に置かせていただいています。
ここも土日祝日しか開いていませんが、何時も気持ちよく迎えてくださいます。

北条も2012年の竜巻被害でかなりの家が壊されたりして悲惨な感じでしたが、今ではすっかり復興されたようで、こうして休みの日にはイベントも時々行われています。
つくばから多くの人が応援に来ています。(ほうじょう市:北条ふれあいまつり)

この日は表の通りで「抒情歌 のぶ」さんのライブが行われていました。
つくばの方の各地でライブもされているようです。
さて、北条はすぐ裏に「多気山」があります。
そこに鎌倉時代の初めまで常陸平氏の主流であった多気大掾(だいじょう)氏が城を構えていました。
現在の街中に水路がめぐらされているのもこの多気氏(多気太郎=平義幹)が行ったものでした。
しかし小田氏の祖である八田知行による換言で鎌倉に呼び寄せられ、領地を没収され、身柄は駿河国の岡部氏に預けられたのです。
行方市の芹沢に入った芹沢氏はこの多気義幹の血縁で、出生はわからない部分がありますが、相模国の芹沢に住んで「芹沢氏」となり、常陸府中の大掾氏(吉田氏)を補佐するために常陸国に戻されたといわれています。
昨日の萬福寺では多気太郎こと平義幹の子供と書いたのですが、このあたりは少し異なった説がいくつかあるようです。
東国にやってきた平氏は「平氏」であり、平清盛もこの常陸平氏から伊勢に渡った「伊勢平氏」で、頂点に登って「平家」と呼んで区別しています。
どちらにしても北条と石岡はとても関係が深いところですので、北条が元気になればそのうち石岡も元気になることだと思っています。
ここで「ふるさと風の会」の会報が目にとまれば、何故石岡の会報誌がここにあるのだろうなどと知らず知らずに思ってくれる人が1人でもいてくれたらよいと思います。
そして芹沢氏の影響があることも・・・・
1週間前に「ふるさと風の会」の機関誌を配りるため北条の町に行ってきました。
毎月1回ここを訪れています。
それももう数年欠かさずに来ています。

途中の宝篋山(ほうきょうさん)もきれいに山が見えます。
最近登山客でにぎわっています。
この日も何組もすれ違いました。
写真は極楽寺跡近くです。
極楽寺は鎌倉時代に小田氏のもとにやってきた忍性が建てた七堂伽藍を有する大きな寺でした。
今は山の中腹に大きな五輪塔が残されているだけでそれほど残されているものはありません。

風の会の機関誌は北条の町の中心部にある「北条ふれあい館(田村家)」に置かせていただいています。
ここも土日祝日しか開いていませんが、何時も気持ちよく迎えてくださいます。

北条も2012年の竜巻被害でかなりの家が壊されたりして悲惨な感じでしたが、今ではすっかり復興されたようで、こうして休みの日にはイベントも時々行われています。
つくばから多くの人が応援に来ています。(ほうじょう市:北条ふれあいまつり)

この日は表の通りで「抒情歌 のぶ」さんのライブが行われていました。
つくばの方の各地でライブもされているようです。
さて、北条はすぐ裏に「多気山」があります。
そこに鎌倉時代の初めまで常陸平氏の主流であった多気大掾(だいじょう)氏が城を構えていました。
現在の街中に水路がめぐらされているのもこの多気氏(多気太郎=平義幹)が行ったものでした。
しかし小田氏の祖である八田知行による換言で鎌倉に呼び寄せられ、領地を没収され、身柄は駿河国の岡部氏に預けられたのです。
行方市の芹沢に入った芹沢氏はこの多気義幹の血縁で、出生はわからない部分がありますが、相模国の芹沢に住んで「芹沢氏」となり、常陸府中の大掾氏(吉田氏)を補佐するために常陸国に戻されたといわれています。
昨日の萬福寺では多気太郎こと平義幹の子供と書いたのですが、このあたりは少し異なった説がいくつかあるようです。
東国にやってきた平氏は「平氏」であり、平清盛もこの常陸平氏から伊勢に渡った「伊勢平氏」で、頂点に登って「平家」と呼んで区別しています。
どちらにしても北条と石岡はとても関係が深いところですので、北条が元気になればそのうち石岡も元気になることだと思っています。
ここで「ふるさと風の会」の会報が目にとまれば、何故石岡の会報誌がここにあるのだろうなどと知らず知らずに思ってくれる人が1人でもいてくれたらよいと思います。
銚子黒生海岸
今週始めに銚子に行ったときに銚子港の先の太平洋側に突き出している先に行ってみた。
そこは観光エリアとしては「銚子マリンタワー」とお魚市場などがある程度であまり見るところはない。
しかし「黒生(くろはい)」と呼ばれる地名があり、この名前の由来が気になったからでもある。
この地名の由来は良くわからないので、追って調べて見ようと思うが、近くを走る銚子電鉄の駅名「笠上黒生駅(かさがみくろはええき)」は企業にネーミングライツ権を譲渡し、2015年~2018年までに「髪毛黒生駅(かみのけくろはええき)」に変わっています。
大変インパクトある名前ですが、企業名は育毛のスカルプケアの会社です。
こんな駅の切符などを持っていれば髪の毛も生えてくるかもしれませんね。

黒生町=クロハイチョウ なのだが、どうしても「クロナマ」でビールを思い浮かべてしまう。
しかしこのビールには何も関係していない。
県道254号線はこの先端部分をバイパスして少し高台を通っているのでなかなかこちら側には来ない。
ポートタワーに立ち寄ったが、平日でまた天気もあまりよくなかった為かどうか知らないが、あまり客はいなかった。
閑古鳥が鳴くようなお魚センターの店を冷やかしながらタワーの2Fにあるレストランの入口を覗いて、あまり価格と内容が魅力的ではない気がしてパスしてしまった。
そして更にその先の先端まで行ってみた。
岩がごろごろ、また波消しの防波堤がたくさん沖のほうまで置かれていた。

ここで引き上げたが、この先に少し行くと、「一山いけす」という銚子では比較的有名な魚料理屋がある。
私のランチで行くような店ではないのでいつもパスしている。
この一山いけすの店の近くにこの銚子黒生海岸沖で遭難した美加保丸の碑が立っている。
地元におかれた碑には
「慶応4年(1868年)8月に、戌辰戦争の過程で幕府の海軍の副総裁・榎本武揚の指揮のもとに北海道へ逃亡を企てた幕府軍艦8隻は銚子沖で暴風雨に遭い、その中で美加保丸が黒生海岸で沈没しました。死者は13人に上り漂着の場に葬られました。その後、明治15年(1882年)に、美加保丸の遭難碑が地元民の手で建立されました。目の前には太平洋の素晴らしい景色が広がります。」
この碑の下には遭難した人々の遺骨や当時の武器などが埋められているといわれています。
いずれにしても銚子沖は歴史的にも何艘も船が座礁したり沈没しています。
古くは南北朝時代に南朝方の北畠親房が東国に支援を求めるためにやって来て、ここから先に進めずに香取の海の内海に入って稲敷郡の東條浦に上陸しています。
また、慶応4年に播州龍野藩の神龍丸が銚子沖でしました。
この船に乗っていた国木田専八は銚子に住むことになり、新生村(現在の銚子市新生町)に住んでいた「まん」と知り合い、生まれた子供が国木田独歩です。(明治4年7月生まれ)
いろいろな歴史的な出来事が起こっており、歴史に影響を与えています。
そこは観光エリアとしては「銚子マリンタワー」とお魚市場などがある程度であまり見るところはない。
しかし「黒生(くろはい)」と呼ばれる地名があり、この名前の由来が気になったからでもある。
この地名の由来は良くわからないので、追って調べて見ようと思うが、近くを走る銚子電鉄の駅名「笠上黒生駅(かさがみくろはええき)」は企業にネーミングライツ権を譲渡し、2015年~2018年までに「髪毛黒生駅(かみのけくろはええき)」に変わっています。
大変インパクトある名前ですが、企業名は育毛のスカルプケアの会社です。
こんな駅の切符などを持っていれば髪の毛も生えてくるかもしれませんね。

黒生町=クロハイチョウ なのだが、どうしても「クロナマ」でビールを思い浮かべてしまう。
しかしこのビールには何も関係していない。
県道254号線はこの先端部分をバイパスして少し高台を通っているのでなかなかこちら側には来ない。
ポートタワーに立ち寄ったが、平日でまた天気もあまりよくなかった為かどうか知らないが、あまり客はいなかった。
閑古鳥が鳴くようなお魚センターの店を冷やかしながらタワーの2Fにあるレストランの入口を覗いて、あまり価格と内容が魅力的ではない気がしてパスしてしまった。
そして更にその先の先端まで行ってみた。
岩がごろごろ、また波消しの防波堤がたくさん沖のほうまで置かれていた。

ここで引き上げたが、この先に少し行くと、「一山いけす」という銚子では比較的有名な魚料理屋がある。
私のランチで行くような店ではないのでいつもパスしている。
この一山いけすの店の近くにこの銚子黒生海岸沖で遭難した美加保丸の碑が立っている。
地元におかれた碑には
「慶応4年(1868年)8月に、戌辰戦争の過程で幕府の海軍の副総裁・榎本武揚の指揮のもとに北海道へ逃亡を企てた幕府軍艦8隻は銚子沖で暴風雨に遭い、その中で美加保丸が黒生海岸で沈没しました。死者は13人に上り漂着の場に葬られました。その後、明治15年(1882年)に、美加保丸の遭難碑が地元民の手で建立されました。目の前には太平洋の素晴らしい景色が広がります。」
この碑の下には遭難した人々の遺骨や当時の武器などが埋められているといわれています。
いずれにしても銚子沖は歴史的にも何艘も船が座礁したり沈没しています。
古くは南北朝時代に南朝方の北畠親房が東国に支援を求めるためにやって来て、ここから先に進めずに香取の海の内海に入って稲敷郡の東條浦に上陸しています。
また、慶応4年に播州龍野藩の神龍丸が銚子沖でしました。
この船に乗っていた国木田専八は銚子に住むことになり、新生村(現在の銚子市新生町)に住んでいた「まん」と知り合い、生まれた子供が国木田独歩です。(明治4年7月生まれ)
いろいろな歴史的な出来事が起こっており、歴史に影響を与えています。
石岡地方のよもやま話-はじめに
茨城の難読地名として6月末から2ヶ月間に67件ほどの記事を書いてきたが、これをまとめて索引をつけたり編集しなおしたりして本の形にまとめた。約250ページほどになってしまった。
今月中に表紙を作って、完成させたいと考えているが自作本などで、全て自分でやるとなると手間がかかってしまい、まったく趣味の世界といってよいだろう。
でもこれはきっとこれからも、ある程度地域に残されていくのではないかと思っている。
そこで次なる目標だが、タイトルにある地元の歴史的な出来事などをかいつまんで「よもやま話」として短くまとめてみたいと考えている。

(風のことば絵 : 兼平智恵子作)
先日「信州夜這い秘話」と「信濃よもやま100話」という本を貸していただいて読んだ。
どちらも「郷土出版」という出版社から出版されているが、このように土臭くてほのぼのとしたような話が後世に残されていくということに興味をおぼえた。
まあ夜這いの話は、よくこの本が出版されたと思うが、今のエロ本などとはまったく別物で、民族学的な郷土の風習を残す上で大変貴重なものだと感じた。
1988年出版というのではそれほど古いものではないが、私などよりは更に1世代は前の話であり、都会ではなく田舎の閉鎖的な空間でのこのような話はとても興味深いものであった。
江戸時代における「お伊勢参り」や「観音札所めぐり」など宗教的な信心ばかりのように感じていたが、庶民の娯楽などがあまりない時代に何日もかけてお寺などを巡ったのも信心ばかりではなったようだ。
信心:1~2割、遊び:8~9割などと見た方がよいのではないかとも思われる。
観音札所の裏は歓楽街であったり、途中の宿場にもいろいろな遊びの要素がふんだんにあった。
どうもまじめに物事を考えすぎるのかもしれない。
そこで、自分のすんでいる地方のこれから先の人達に何かを書き残すのも悪いことではないと思い、今まで埋もれた歴史などと称した記事の中にもたくさんのよもやま話が眠っているように思えてきた。
地元の方とお話してみても驚くほどご存じないことが結構ある。
そんなお話を少ししてみると意外なほど喜んでいただけたりする。
講演にして話をするなんてこともできないし、書き物にしておけば何かの役に立つこともあるかもしれない。
そこで、たわいもない話でもすこしでも残しておきたい話を出来るだけ短く抜き出してまとめておきたいと思う。
そして、そのうちに「よもやま話100」とか「よもやま話200」とかにまとめてみるときっと意味があるものになりそうに思う。
まあ何時まで続くかはわからないが、まあ途中で途切れたらそれでおしまいということにしたい。
今月中に表紙を作って、完成させたいと考えているが自作本などで、全て自分でやるとなると手間がかかってしまい、まったく趣味の世界といってよいだろう。
でもこれはきっとこれからも、ある程度地域に残されていくのではないかと思っている。
そこで次なる目標だが、タイトルにある地元の歴史的な出来事などをかいつまんで「よもやま話」として短くまとめてみたいと考えている。

(風のことば絵 : 兼平智恵子作)
先日「信州夜這い秘話」と「信濃よもやま100話」という本を貸していただいて読んだ。
どちらも「郷土出版」という出版社から出版されているが、このように土臭くてほのぼのとしたような話が後世に残されていくということに興味をおぼえた。
まあ夜這いの話は、よくこの本が出版されたと思うが、今のエロ本などとはまったく別物で、民族学的な郷土の風習を残す上で大変貴重なものだと感じた。
1988年出版というのではそれほど古いものではないが、私などよりは更に1世代は前の話であり、都会ではなく田舎の閉鎖的な空間でのこのような話はとても興味深いものであった。
江戸時代における「お伊勢参り」や「観音札所めぐり」など宗教的な信心ばかりのように感じていたが、庶民の娯楽などがあまりない時代に何日もかけてお寺などを巡ったのも信心ばかりではなったようだ。
信心:1~2割、遊び:8~9割などと見た方がよいのではないかとも思われる。
観音札所の裏は歓楽街であったり、途中の宿場にもいろいろな遊びの要素がふんだんにあった。
どうもまじめに物事を考えすぎるのかもしれない。
そこで、自分のすんでいる地方のこれから先の人達に何かを書き残すのも悪いことではないと思い、今まで埋もれた歴史などと称した記事の中にもたくさんのよもやま話が眠っているように思えてきた。
地元の方とお話してみても驚くほどご存じないことが結構ある。
そんなお話を少ししてみると意外なほど喜んでいただけたりする。
講演にして話をするなんてこともできないし、書き物にしておけば何かの役に立つこともあるかもしれない。
そこで、たわいもない話でもすこしでも残しておきたい話を出来るだけ短く抜き出してまとめておきたいと思う。
そして、そのうちに「よもやま話100」とか「よもやま話200」とかにまとめてみるときっと意味があるものになりそうに思う。
まあ何時まで続くかはわからないが、まあ途中で途切れたらそれでおしまいということにしたい。
石岡地方のよもやま話(その1)-古東海道の終点
石岡地方のよもやま話の第1回目は「石岡は古東海道の終点都市」です。
これは私がこの石岡に住み(2006年)、地域紹介などのHP「1300年の歴史の里 石岡ロマン紀行」やブログ「まほらにふく風に乗って」を書くきっかけになった話でもあります。
常陸国は大和朝廷の東国進出に伴い、大化の改新(645年)の直後、またはもう少し後の7世紀後半頃に成立した国と考えられています。
そして大和朝廷は大和の五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)から七街道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)という大和朝廷の勢力範囲にあった国々を結ぶ街道を整備しました。この街道はそれぞれの国の国府をつなぐものとなっていました。
常陸国はこの中の東海道(江戸時代の東海道と区別するために古東海道と呼びます)の国となり、現在の石岡が常陸国国府であったため、石岡(常陸国府)は古東海道の終点都市となりました。
古東海道の国とその国府は、伊賀国(伊賀市上野)、伊勢(三重県鈴鹿市広瀬町長者屋敷)、志摩(三重県阿児町)、尾張(愛知県稲沢市)、三河(愛知県豊川市)、遠江(静岡県磐田市)、駿河(静岡市)、伊豆(三島市)、相模(海老名市)、甲斐(笛吹市春日居町または三坂町)、武蔵(東京都府中市)、安房(千葉県南房総市(旧三芳村)府中)、上総(千葉県市原市)、下総(千葉県市川市)、常陸(茨城県石岡市)となります。
江戸時代の東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までですから中間部を除くとかなり違いがあります。
また大きな違いは東京湾を船で渡っていたことや、富士山の噴火で一時ルートがかわったこと、また武蔵国は最初は東山道に属していましたが、行き来に不便であることなどから東海道に組み入れらえました。
東京湾は横須賀市の走水から千葉県の富津岬、木更津あたりに渡っていたようです。このため奈良などの都に近い側が上(かみ)となり上総国となり遠い側が下総国となりました。
これらのルートは大化の改新(645年)より前の4~5世紀頃から徐々に固定されていったようです。
こうした事実を知っていくと今の歴史の見方が変わってきますので面白いですね。
これが歴史嫌いの筆者が、「埋もれた歴史」などを探る原点だと考えています。

(風のことば絵 兼平智恵子 作)
これは私がこの石岡に住み(2006年)、地域紹介などのHP「1300年の歴史の里 石岡ロマン紀行」やブログ「まほらにふく風に乗って」を書くきっかけになった話でもあります。
常陸国は大和朝廷の東国進出に伴い、大化の改新(645年)の直後、またはもう少し後の7世紀後半頃に成立した国と考えられています。
そして大和朝廷は大和の五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)から七街道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)という大和朝廷の勢力範囲にあった国々を結ぶ街道を整備しました。この街道はそれぞれの国の国府をつなぐものとなっていました。
常陸国はこの中の東海道(江戸時代の東海道と区別するために古東海道と呼びます)の国となり、現在の石岡が常陸国国府であったため、石岡(常陸国府)は古東海道の終点都市となりました。
古東海道の国とその国府は、伊賀国(伊賀市上野)、伊勢(三重県鈴鹿市広瀬町長者屋敷)、志摩(三重県阿児町)、尾張(愛知県稲沢市)、三河(愛知県豊川市)、遠江(静岡県磐田市)、駿河(静岡市)、伊豆(三島市)、相模(海老名市)、甲斐(笛吹市春日居町または三坂町)、武蔵(東京都府中市)、安房(千葉県南房総市(旧三芳村)府中)、上総(千葉県市原市)、下総(千葉県市川市)、常陸(茨城県石岡市)となります。
江戸時代の東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までですから中間部を除くとかなり違いがあります。
また大きな違いは東京湾を船で渡っていたことや、富士山の噴火で一時ルートがかわったこと、また武蔵国は最初は東山道に属していましたが、行き来に不便であることなどから東海道に組み入れらえました。
東京湾は横須賀市の走水から千葉県の富津岬、木更津あたりに渡っていたようです。このため奈良などの都に近い側が上(かみ)となり上総国となり遠い側が下総国となりました。
これらのルートは大化の改新(645年)より前の4~5世紀頃から徐々に固定されていったようです。
こうした事実を知っていくと今の歴史の見方が変わってきますので面白いですね。
これが歴史嫌いの筆者が、「埋もれた歴史」などを探る原点だと考えています。

(風のことば絵 兼平智恵子 作)
石岡地方のよもやま話(その2)-石岡と正岡子規
俳人正岡子規は大学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。
当時水戸までは小山経由で鉄道で行けましたが、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。
本郷から千住-松戸-我孫子を通って藤代の2軒しかない旅籠の1軒である銚子屋という宿に1泊しました。
しかし、夜は寒くて早く、宿の待遇もあまりよくなく、枕が堅く寝心地も悪かったと書かれています。
翌日は小雨で傘をさして牛久-土浦-中貫-稲吉を通って石岡の萬屋(よろずや)に泊まりました。
雨で寒くて気分も滅入っていたのですがこちらの宿は前の晩に比べて待遇がよく、大いに喜んでいます。
この様子は東京に戻ってから書いた「水戸紀行」の中に詳しく書かれており、当時の石岡の様子がよくわかります。
「・・・ 石岡は醤油の名處也 萬屋は石岡中の第一等の旅店也 さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす ・・・・」
当時、まだ常磐線は通っておらず、石岡の町は高浜から霞ヶ浦を経由して東京まで汽船(高浜汽船)が周航していました。このため、多くの商人たちも石岡の宿に宿泊し、街には醤油工場や酒造所の大きな煙突が何本も聳え立っていました。
当時の萬屋(よろずや)旅館は水戸街道沿いにありました。今の石岡駅前の大通り(御幸通り)の突き当たりにあるカギヤ楽器さんです。
明治34年に発行された「石岡繁昌記」(平野松次郎著)には「旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」と書かれていて、この本店が子規が泊まった場所です。
支店は石岡駅ができて(明治28年)、駅前に支店を作ったと思われます。
しかし、時代が流れ、鉄道が運行されるとしだいに人や物の流れも代わり、汽船が廃れ、この萬屋旅館も止めてしまい、鍵屋玩具店さんとなり、現在のカギヤ楽器とピノキオトーイというおもちゃ屋さんとに分かれました。
正岡子規は水戸では親友の菊池謙二郎氏が入れ違いで東京に出て行ってしまったために会えずに舟遊びなどをして帰路は水戸線経由で上野まで列車に乗っていますが、元来体の弱い子規は帰京一ヶ月後の5月9日に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています。
子規は石岡の宿を出立した時は天気は回復して筑波山を左手に見ながら水戸へむかい、次の歌を残しています。
・二日路は筑波にそふて日ぞ長き
(歌碑が中町通りの金刀比羅神社境内にあります)
・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體
水戸の学友菊池謙二郎さんは正岡子規の学生時代の数少ない親友の一人で、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、後に旧制水戸中学校(現水戸第一高校)校長をつとめました。
学生たちには大変親しまれていましたが、当時の天皇中心や家長制度などによらずに個人の独立を説いた思想が上層部に反感を買い学長を辞しています。

(風のことば絵 兼平智恵子 作)
当時水戸までは小山経由で鉄道で行けましたが、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。
本郷から千住-松戸-我孫子を通って藤代の2軒しかない旅籠の1軒である銚子屋という宿に1泊しました。
しかし、夜は寒くて早く、宿の待遇もあまりよくなく、枕が堅く寝心地も悪かったと書かれています。
翌日は小雨で傘をさして牛久-土浦-中貫-稲吉を通って石岡の萬屋(よろずや)に泊まりました。
雨で寒くて気分も滅入っていたのですがこちらの宿は前の晩に比べて待遇がよく、大いに喜んでいます。
この様子は東京に戻ってから書いた「水戸紀行」の中に詳しく書かれており、当時の石岡の様子がよくわかります。
「・・・ 石岡は醤油の名處也 萬屋は石岡中の第一等の旅店也 さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす ・・・・」
当時、まだ常磐線は通っておらず、石岡の町は高浜から霞ヶ浦を経由して東京まで汽船(高浜汽船)が周航していました。このため、多くの商人たちも石岡の宿に宿泊し、街には醤油工場や酒造所の大きな煙突が何本も聳え立っていました。
当時の萬屋(よろずや)旅館は水戸街道沿いにありました。今の石岡駅前の大通り(御幸通り)の突き当たりにあるカギヤ楽器さんです。
明治34年に発行された「石岡繁昌記」(平野松次郎著)には「旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」と書かれていて、この本店が子規が泊まった場所です。
支店は石岡駅ができて(明治28年)、駅前に支店を作ったと思われます。
しかし、時代が流れ、鉄道が運行されるとしだいに人や物の流れも代わり、汽船が廃れ、この萬屋旅館も止めてしまい、鍵屋玩具店さんとなり、現在のカギヤ楽器とピノキオトーイというおもちゃ屋さんとに分かれました。
正岡子規は水戸では親友の菊池謙二郎氏が入れ違いで東京に出て行ってしまったために会えずに舟遊びなどをして帰路は水戸線経由で上野まで列車に乗っていますが、元来体の弱い子規は帰京一ヶ月後の5月9日に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています。
子規は石岡の宿を出立した時は天気は回復して筑波山を左手に見ながら水戸へむかい、次の歌を残しています。
・二日路は筑波にそふて日ぞ長き
(歌碑が中町通りの金刀比羅神社境内にあります)
・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體
水戸の学友菊池謙二郎さんは正岡子規の学生時代の数少ない親友の一人で、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、後に旧制水戸中学校(現水戸第一高校)校長をつとめました。
学生たちには大変親しまれていましたが、当時の天皇中心や家長制度などによらずに個人の独立を説いた思想が上層部に反感を買い学長を辞しています。

(風のことば絵 兼平智恵子 作)