石岡地方のよもやま話(その8)-白鹿
現在石岡市内には「府中誉」さん、東大橋に「石岡酒造」さん、高浜に「白菊(廣瀬商店)」さんが比較的大きく酒造りをしています。
この酒造りの歴史は結構古く、江戸時代から続いています。
この歴史を証明するような出来事が昭和の裁判にありました。
現在の「石岡酒造」さんは、ここ府中(石岡)で200年~300年前から酒造りを行なってきた蔵元4社(白鹿、冷水、しばのや、大徳」が合併して昭和47年に創業されました。そして、その中心銘柄は「白鹿」でした。
この「白鹿」という名前は灘の酒が有名ですね。
実は、この灘の酒造会社(辰馬本家酒造)から「白鹿」の名前を使うことを差し止める訴訟が昭和29におこされました。
まだ石岡の酒造会社4社が合併する前です。
灘の会社に比べれば石岡の白鹿などかなり小さい会社だったのです。
この裁判の焦点は「どちらが先にこの名前を使い始めたかという酒造りの創業の歴史」でした。
しかしこの決着はなかなかつかず、裁判は約15年間続きました。
その裁判の決着はほぼ石岡の白鹿に軍配が上がったと言ってよいでしょう。
その内容は、歴史的にはどちらも古く、どちらが先かを判断できないため、ラベルとして区別するために 石岡の白鹿は横書き「白鹿」、灘の白鹿は縦書きで「黒松白鹿」にするというものでした。
今でも石岡の白鹿は作られていますが、かわいい子鹿のマークとともに横文字の白鹿が入れれています。
白鹿は大衆酒の分類でしたので、今の石岡酒造さんでは山田錦などの酒米を使った大吟醸「筑波」などのブランド酒が中心となっています。

ではそれぞれの白鹿の名前の由来を見てみましょう。
1)灘の白鹿(辰馬本家酒造)
「中国の唐の時代(617-917年)、玄宗皇帝の宮中に白鹿が迷い込み、仙人によりこの白鹿が千年前から生きている鹿であると看過されました。またこの鹿から1000年以上前の漢の武帝時代の銅牌が発見され、それ以降白鹿が大変愛養されたとの故事により命名されました」(辰馬本家酒造ホームページより抜粋)
2)石岡の白鹿
「元禄年間創業の白鹿醸造本店の先祖が鹿島神社に詣でた際、白い鹿に乗った神人が夢枕に現れて酒の製法を伝授したという言い伝えによっています」
この鹿島神宮の鹿ですが、奈良公園の鹿ととても縁があるのです。
もともと奈良の地には自然の日本鹿が多くいたとも言われておりますが、白鹿は神の使いとみなされており、各地でさまざまな伝説が伝わっています。
奈良の春日大社は藤原氏が建てた神社ですが、神社の創建は、鹿島神宮の神である武甕槌命が白鹿に乗って降臨した(768年)とされています。
奈良に鹿が多くいたことは7世紀後半から8世紀後半に詠まれた歌集「万葉集」にも鹿の啼く様子が、詠まれていることから推察できますが、鹿島神宮での鹿の歴史も古く、現在30数頭の日本鹿が飼われている神宮境内にある「鹿園(ろくえん)」の説明書きによると、出雲の国譲りの際に、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿が神の使いとされているとのことです。
また、「春日大社の創建」の時(767年)には、白い神鹿(しんろく)の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行った伝えられています。
この鹿の移動は陸路で送られたようで、鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っているとされているといわれています。
そのため奈良地方にも元々鹿は棲んでいたが、少なくとも春日大社には鹿島神宮の鹿が渡ったと考えても良いのではないかと考えられます。
また、鹿島(香島)神宮も常陸風土記では「香」が使われていますが、他の古い文書などではすべて「鹿」の字が使われています。
この歴史も古く、養老7年(723年)頃といわれています。
鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けていると現地の説明板には書かれています。
また、春日大社側の記録によると、948年に常陸国府(現石岡市)より鹿7頭が春日大社へ送られています。春日大社の鹿も長い年月の間に絶滅の危機もありましたが、その時代ごとに、鹿の保護に力が入れられてきました。しかし、鹿島の鹿は絶滅の危機が訪れ、春日大社の鹿を譲り受けて現在に至ったようです。
この酒造りの歴史は結構古く、江戸時代から続いています。
この歴史を証明するような出来事が昭和の裁判にありました。
現在の「石岡酒造」さんは、ここ府中(石岡)で200年~300年前から酒造りを行なってきた蔵元4社(白鹿、冷水、しばのや、大徳」が合併して昭和47年に創業されました。そして、その中心銘柄は「白鹿」でした。
この「白鹿」という名前は灘の酒が有名ですね。
実は、この灘の酒造会社(辰馬本家酒造)から「白鹿」の名前を使うことを差し止める訴訟が昭和29におこされました。
まだ石岡の酒造会社4社が合併する前です。
灘の会社に比べれば石岡の白鹿などかなり小さい会社だったのです。
この裁判の焦点は「どちらが先にこの名前を使い始めたかという酒造りの創業の歴史」でした。
しかしこの決着はなかなかつかず、裁判は約15年間続きました。
その裁判の決着はほぼ石岡の白鹿に軍配が上がったと言ってよいでしょう。
その内容は、歴史的にはどちらも古く、どちらが先かを判断できないため、ラベルとして区別するために 石岡の白鹿は横書き「白鹿」、灘の白鹿は縦書きで「黒松白鹿」にするというものでした。
今でも石岡の白鹿は作られていますが、かわいい子鹿のマークとともに横文字の白鹿が入れれています。
白鹿は大衆酒の分類でしたので、今の石岡酒造さんでは山田錦などの酒米を使った大吟醸「筑波」などのブランド酒が中心となっています。

ではそれぞれの白鹿の名前の由来を見てみましょう。
1)灘の白鹿(辰馬本家酒造)
「中国の唐の時代(617-917年)、玄宗皇帝の宮中に白鹿が迷い込み、仙人によりこの白鹿が千年前から生きている鹿であると看過されました。またこの鹿から1000年以上前の漢の武帝時代の銅牌が発見され、それ以降白鹿が大変愛養されたとの故事により命名されました」(辰馬本家酒造ホームページより抜粋)
2)石岡の白鹿
「元禄年間創業の白鹿醸造本店の先祖が鹿島神社に詣でた際、白い鹿に乗った神人が夢枕に現れて酒の製法を伝授したという言い伝えによっています」
この鹿島神宮の鹿ですが、奈良公園の鹿ととても縁があるのです。
もともと奈良の地には自然の日本鹿が多くいたとも言われておりますが、白鹿は神の使いとみなされており、各地でさまざまな伝説が伝わっています。
奈良の春日大社は藤原氏が建てた神社ですが、神社の創建は、鹿島神宮の神である武甕槌命が白鹿に乗って降臨した(768年)とされています。
奈良に鹿が多くいたことは7世紀後半から8世紀後半に詠まれた歌集「万葉集」にも鹿の啼く様子が、詠まれていることから推察できますが、鹿島神宮での鹿の歴史も古く、現在30数頭の日本鹿が飼われている神宮境内にある「鹿園(ろくえん)」の説明書きによると、出雲の国譲りの際に、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿が神の使いとされているとのことです。
また、「春日大社の創建」の時(767年)には、白い神鹿(しんろく)の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行った伝えられています。
この鹿の移動は陸路で送られたようで、鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っているとされているといわれています。
そのため奈良地方にも元々鹿は棲んでいたが、少なくとも春日大社には鹿島神宮の鹿が渡ったと考えても良いのではないかと考えられます。
また、鹿島(香島)神宮も常陸風土記では「香」が使われていますが、他の古い文書などではすべて「鹿」の字が使われています。
この歴史も古く、養老7年(723年)頃といわれています。
鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けていると現地の説明板には書かれています。
また、春日大社側の記録によると、948年に常陸国府(現石岡市)より鹿7頭が春日大社へ送られています。春日大社の鹿も長い年月の間に絶滅の危機もありましたが、その時代ごとに、鹿の保護に力が入れられてきました。しかし、鹿島の鹿は絶滅の危機が訪れ、春日大社の鹿を譲り受けて現在に至ったようです。
石岡地方のよもやま話(その9)-頼朝が石岡に来て歴史が変わった?
よもやま話のタイトルとしては大げさだが、源頼朝が常陸国国府(石岡)にやってきたことが鎌倉時代の吾妻鏡に記されている。
来たのは1180年11月始め。
源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑となったのは1160年の3月、まだ14歳くらいの時だ。
そして1180年の4月に後白河法皇の皇子「以仁王」が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。
しばらく静観していた頼朝が兵を挙げたのが、同年8月であった。
しかし石橋山の戦いに敗れ安房国(千葉県東部)へ船で逃れることになる。
この安房国で勢力を立て直そうと上総・下総で権力を持っていた「上総介広常」と「千葉常胤(つねたね)」に援護を要請します。
この両名の援護を受けて、下総国国府(市川市)に入り、坂東平氏を見方につけて10月6日に鎌倉に入ります。
都の平家から差し向けられた平維盛の軍を10月20日に打ち負かしました。
そして、そのまま京の都に攻め入るのではないかと思えたときに、この上総介広常と千葉常胤は後方の常陸国にまだ源氏に従わない武将がいるので、この憂いを絶つべきだと進言したのです。
この憂いとなっていたのが常陸国の北部を支配していた佐竹氏です。 佐竹氏は現常陸太田に居を構え、奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。
1180年11月4日、源頼朝はこの進言を受け入れて、佐竹氏追討のため常陸国府(石岡)にやって来ました。
佐竹氏には頼朝への帰順勧告が届けられておりましたが、佐竹氏は当時、都の平家とは仲が良く態度が明確ではなかったのです。
当時、太田の城の城主は佐竹隆義(佐竹氏2代当主)でしたが、隆義は京にいて留守でした。 そして常陸の城は2人の息子にまかせていたのです。
常陸国府(石岡)にやってきた上総介広常はこの2人の息子(義政・秀義)に会見を申し入れました。
佐竹隆義の長男義政は上総介広常が縁筋にもあたるため、誘いをむげに断ることも出来ずに部下をつれて常陸国府に向かいました。
一方弟の佐竹秀義は危険を察知して、山城である「金砂城」に立て籠もりました。
さあ、常陸国府に向かった佐竹義政は国府の入り口である園部川に架かる「大矢橋」までやって来ました。
一方これを出迎えに上総介広常もこの大矢橋に部下を引き連れてやってきました。
大矢橋をはさんで両軍勢は向かい合います。そして互いに1対1で橋の上で会うこととなり、上総介広常と佐竹義政は大矢橋の半ばに駒を進めました。
そしてその出会いざまに広常は義政を切り殺してしまったのです。
橋の向こう側で待機していた佐竹の部下たちはこれを見て、一斉に逃げ帰ってしまったのです。
現在この大矢橋の麓に「佐竹義政の首塚」が残されており、看板が建っています。義政の胴も川の下流の行里川(なめりがわ)の付近まで流され、そこに胴塚が築かれたといいます。
またこの大矢橋は道路のバイパス工事などで新しく移動し、常磐自動車道の「石岡・小美玉スマートインター」が目の前に出来ました。現在はこのインターから茨城空港までの道路新設工事も急ピッチに進められています。
園部川も大きな川ではなく、当時の大矢橋もそれほど大きな橋ではなかったと思われます。
歴史はここで大きく動いていきます。
金砂城に立て籠もった弟の佐竹秀義を頼朝・広常軍が攻め、秀義は更に山奥に敗走させ、関東には反対勢力はなくなったとして頼朝は京の平家を討伐に向かったのです。
この大矢橋事件が無ければ、鎌倉幕府は成立しなかったかもしれません。
でも何か腑に落ちない気もします。
それは「上総介広常」、「千葉常胤」「常陸大掾(だいじょう)」ともにすんなりと源氏の「頼朝」の見方となっていますが、かれらは坂東平氏、常陸平氏といわれる桓武平氏の系列で、伊勢平氏といわれる平清盛などの平家とは同属なのです。
一方の佐竹氏は源氏の系列です。
頼朝が八幡太郎源義家の直系なら、佐竹氏は甲斐の武田氏と同じ八幡太郎の弟の新羅三郎(しんらさぶろう)義光の直系です。
佐竹氏は義光の長男、甲斐武田氏は義光の次男が興しています。
この事件の430年後に、この佐竹氏によって常陸大掾氏も滅ぼされることになるのですからおかしなものですね。

(佐竹義政の首塚)
上記写真の大矢橋は、石岡・小美玉スマートインターが完成する前ですが、すでに新しい道路が出来て架け替ええられたものです。この写真の右下にその前にかかっていた小さな大矢橋がありましたが、これは現在取り外されています。
来たのは1180年11月始め。
源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑となったのは1160年の3月、まだ14歳くらいの時だ。
そして1180年の4月に後白河法皇の皇子「以仁王」が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。
しばらく静観していた頼朝が兵を挙げたのが、同年8月であった。
しかし石橋山の戦いに敗れ安房国(千葉県東部)へ船で逃れることになる。
この安房国で勢力を立て直そうと上総・下総で権力を持っていた「上総介広常」と「千葉常胤(つねたね)」に援護を要請します。
この両名の援護を受けて、下総国国府(市川市)に入り、坂東平氏を見方につけて10月6日に鎌倉に入ります。
都の平家から差し向けられた平維盛の軍を10月20日に打ち負かしました。
そして、そのまま京の都に攻め入るのではないかと思えたときに、この上総介広常と千葉常胤は後方の常陸国にまだ源氏に従わない武将がいるので、この憂いを絶つべきだと進言したのです。
この憂いとなっていたのが常陸国の北部を支配していた佐竹氏です。 佐竹氏は現常陸太田に居を構え、奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。
1180年11月4日、源頼朝はこの進言を受け入れて、佐竹氏追討のため常陸国府(石岡)にやって来ました。
佐竹氏には頼朝への帰順勧告が届けられておりましたが、佐竹氏は当時、都の平家とは仲が良く態度が明確ではなかったのです。
当時、太田の城の城主は佐竹隆義(佐竹氏2代当主)でしたが、隆義は京にいて留守でした。 そして常陸の城は2人の息子にまかせていたのです。
常陸国府(石岡)にやってきた上総介広常はこの2人の息子(義政・秀義)に会見を申し入れました。
佐竹隆義の長男義政は上総介広常が縁筋にもあたるため、誘いをむげに断ることも出来ずに部下をつれて常陸国府に向かいました。
一方弟の佐竹秀義は危険を察知して、山城である「金砂城」に立て籠もりました。
さあ、常陸国府に向かった佐竹義政は国府の入り口である園部川に架かる「大矢橋」までやって来ました。
一方これを出迎えに上総介広常もこの大矢橋に部下を引き連れてやってきました。
大矢橋をはさんで両軍勢は向かい合います。そして互いに1対1で橋の上で会うこととなり、上総介広常と佐竹義政は大矢橋の半ばに駒を進めました。
そしてその出会いざまに広常は義政を切り殺してしまったのです。
橋の向こう側で待機していた佐竹の部下たちはこれを見て、一斉に逃げ帰ってしまったのです。
現在この大矢橋の麓に「佐竹義政の首塚」が残されており、看板が建っています。義政の胴も川の下流の行里川(なめりがわ)の付近まで流され、そこに胴塚が築かれたといいます。
またこの大矢橋は道路のバイパス工事などで新しく移動し、常磐自動車道の「石岡・小美玉スマートインター」が目の前に出来ました。現在はこのインターから茨城空港までの道路新設工事も急ピッチに進められています。
園部川も大きな川ではなく、当時の大矢橋もそれほど大きな橋ではなかったと思われます。
歴史はここで大きく動いていきます。
金砂城に立て籠もった弟の佐竹秀義を頼朝・広常軍が攻め、秀義は更に山奥に敗走させ、関東には反対勢力はなくなったとして頼朝は京の平家を討伐に向かったのです。
この大矢橋事件が無ければ、鎌倉幕府は成立しなかったかもしれません。
でも何か腑に落ちない気もします。
それは「上総介広常」、「千葉常胤」「常陸大掾(だいじょう)」ともにすんなりと源氏の「頼朝」の見方となっていますが、かれらは坂東平氏、常陸平氏といわれる桓武平氏の系列で、伊勢平氏といわれる平清盛などの平家とは同属なのです。
一方の佐竹氏は源氏の系列です。
頼朝が八幡太郎源義家の直系なら、佐竹氏は甲斐の武田氏と同じ八幡太郎の弟の新羅三郎(しんらさぶろう)義光の直系です。
佐竹氏は義光の長男、甲斐武田氏は義光の次男が興しています。
この事件の430年後に、この佐竹氏によって常陸大掾氏も滅ぼされることになるのですからおかしなものですね。

(佐竹義政の首塚)
上記写真の大矢橋は、石岡・小美玉スマートインターが完成する前ですが、すでに新しい道路が出来て架け替ええられたものです。この写真の右下にその前にかかっていた小さな大矢橋がありましたが、これは現在取り外されています。
歴史っていったい何か?
歴史っていったい何か?
企業の定年が間際に迫ってきた頃から、地元の埋もれた歴史に関する記事などをブログのテーマにしているが、いまだにこの「歴史」ということがわからない。
私は元々理系人間で中学生の頃から学校での歴史授業は好きではなかった。
暗記すべき年代や人物名などがたくさんあり、これを覚えなければテストでは良い点数が採れない。受験勉強のためにやむなく勉強したに過ぎない。特に途中からは世界史の専攻になったので、日本史はいまだにチンプンカンプンだ。
今思えばこの歴史授業がどこかおかしいのだという気がしてならない。
こんな名前や年代などは調べればわかることであり覚えなくてもよいのではないかと思う。
「歴史(れきし)」は「暦史(れきし)」であり、大昔は「暦(こよみ)」の記録に過ぎない。
中国の「史記」が歴史書のはじめといわれるように「史」そのものに現在でいう「歴史」の意味があったという。
しかし、歴史学なるものが出来て、また「歴史認識」などというわけのわからない言葉に置き換えられ、益々混迷してしまっている。
自分の都合の良いように歴史の事柄を変えたり、追加したり、無視したりする時の権力者や歴史家と称する人が大昔から現在まで数多く存在し、教科書などもどこまで信用してよいのかまったく見当も付かない。
また、国家レベルでも、どこの国も自国の都合の良いようにしたがる。
地方で言えば、市史や行政の説明看板、パンフレット、ちらし、ホームページなどに書かれていれば全て事実と思いがちになる。異なった事実が明らかになっても、行政や有名な教育者の話などが先にあれば正しいと思い込む。特に読み手の都合の良いことだけを信じようとする。書かれている事柄の自分なりの検証をすることをしない。
最近この地方の「よもやま話」などを書き始めたが、どうにも筆が進まない。
まあでもこの地に来て12年ほどになる新参者ではあるが、この間に知り得たことを少しでも残しておけば後の世に何か役に立つのではないかと思う。当然私の書いているものもどこかで事実を捻じ曲げられた事柄にすぎないものもあるかもしれないが・・・・。
企業の定年が間際に迫ってきた頃から、地元の埋もれた歴史に関する記事などをブログのテーマにしているが、いまだにこの「歴史」ということがわからない。
私は元々理系人間で中学生の頃から学校での歴史授業は好きではなかった。
暗記すべき年代や人物名などがたくさんあり、これを覚えなければテストでは良い点数が採れない。受験勉強のためにやむなく勉強したに過ぎない。特に途中からは世界史の専攻になったので、日本史はいまだにチンプンカンプンだ。
今思えばこの歴史授業がどこかおかしいのだという気がしてならない。
こんな名前や年代などは調べればわかることであり覚えなくてもよいのではないかと思う。
「歴史(れきし)」は「暦史(れきし)」であり、大昔は「暦(こよみ)」の記録に過ぎない。
中国の「史記」が歴史書のはじめといわれるように「史」そのものに現在でいう「歴史」の意味があったという。
しかし、歴史学なるものが出来て、また「歴史認識」などというわけのわからない言葉に置き換えられ、益々混迷してしまっている。
自分の都合の良いように歴史の事柄を変えたり、追加したり、無視したりする時の権力者や歴史家と称する人が大昔から現在まで数多く存在し、教科書などもどこまで信用してよいのかまったく見当も付かない。
また、国家レベルでも、どこの国も自国の都合の良いようにしたがる。
地方で言えば、市史や行政の説明看板、パンフレット、ちらし、ホームページなどに書かれていれば全て事実と思いがちになる。異なった事実が明らかになっても、行政や有名な教育者の話などが先にあれば正しいと思い込む。特に読み手の都合の良いことだけを信じようとする。書かれている事柄の自分なりの検証をすることをしない。
最近この地方の「よもやま話」などを書き始めたが、どうにも筆が進まない。
まあでもこの地に来て12年ほどになる新参者ではあるが、この間に知り得たことを少しでも残しておけば後の世に何か役に立つのではないかと思う。当然私の書いているものもどこかで事実を捻じ曲げられた事柄にすぎないものもあるかもしれないが・・・・。
石岡地方のよもやま話(その10)-八郷盆地
八郷地区はこのあたりでは珍しい山に囲まれた盆地のような地形をしています。
昔は山根地区と言っていました。
最近つくば山系のジオパーク登録によってこの地域の地図が国土地理院から発売されました。
鳥瞰図的な地図で、この地域の特徴がよくあらわされています。
まるで火山の火口のカルデラ湖のようなです。


いったいこの地形はどのようにしてできたのでしょうか。
ジオパークの説明では
八溝山地の南端部をなす筑波山地は深成岩体が地の変動によって隆起し、深成岩の上の地層もそのまま一緒に隆起し、その隆起の後に、この地形が河川によって浸食されたものだそうです。
八郷盆地は大きく分けて3段の高さに分かれています。
標高50~70mの上層部、27~45mの中層部、12~28mの低層部です。この下層部は恋瀬川の沖積低地です。
大昔は竜神山や富士山などの岩石は筑波山系の岩石と同じかなり古い岩石で、このあたりに海が入り込んでいた時代にはこの竜神山や富士山は島だったと考えられています。
そして、柿岡地区には昔大きな湖(柿岡湖)があったといわれています。
そして恋瀬川の柿岡湖の出口には滝があり、その滝が崩れて現在の平野になったとも言われています。
ただこれも何時頃のことかはっきりしませんが、このようなことを考えて、この地形図をながめてみるのも良いでしょう。
八郷盆地の山の麓は良く朝霧が発生します。
幻想的な風景が今も見られるのはこのような特異な地形が関係しているのでしょう。
八郷盆地では、放射冷却により発生した冷気が滞留し,霧が発生し、その霧が筑波山に添って流れていきます。
昔は山根地区と言っていました。
最近つくば山系のジオパーク登録によってこの地域の地図が国土地理院から発売されました。
鳥瞰図的な地図で、この地域の特徴がよくあらわされています。
まるで火山の火口のカルデラ湖のようなです。


いったいこの地形はどのようにしてできたのでしょうか。
ジオパークの説明では
八溝山地の南端部をなす筑波山地は深成岩体が地の変動によって隆起し、深成岩の上の地層もそのまま一緒に隆起し、その隆起の後に、この地形が河川によって浸食されたものだそうです。
八郷盆地は大きく分けて3段の高さに分かれています。
標高50~70mの上層部、27~45mの中層部、12~28mの低層部です。この下層部は恋瀬川の沖積低地です。
大昔は竜神山や富士山などの岩石は筑波山系の岩石と同じかなり古い岩石で、このあたりに海が入り込んでいた時代にはこの竜神山や富士山は島だったと考えられています。
そして、柿岡地区には昔大きな湖(柿岡湖)があったといわれています。
そして恋瀬川の柿岡湖の出口には滝があり、その滝が崩れて現在の平野になったとも言われています。
ただこれも何時頃のことかはっきりしませんが、このようなことを考えて、この地形図をながめてみるのも良いでしょう。
八郷盆地の山の麓は良く朝霧が発生します。
幻想的な風景が今も見られるのはこのような特異な地形が関係しているのでしょう。
八郷盆地では、放射冷却により発生した冷気が滞留し,霧が発生し、その霧が筑波山に添って流れていきます。
石岡地方のよもやま話(その11)-太田三楽斎、秀吉を怒らせる。
太田三楽斎(資正:すけまさ)は戦国末期に石岡の片野・根小屋地区にある「片野城」の城主であった。
いまでもこの地にて行われている「排禍ばやし」という祭りは、この三楽斎が禍を取り払うために始めたという。
しかし、この戦国武将のことは、石岡や八郷地区の地元の人々の間であまり話題にならない。
戦国武将としては大きな城は取れなかったし、攻め取った埼玉県の岩付城も息子に裏切られて城から追い出されてしまった武将である。
しかし、これも義に篤く、越後の上杉氏、直江兼続などとの信を貫き、北条氏と対抗したことによる。
行き場を失った山楽斎を北条氏と対抗していた佐竹氏が拾い上げて、常陸で勢力争いをしていた小田氏と対抗するための要所となった片野城へ入れた。
そして見事に手這坂で小田軍を打ち負かす大活躍をした。
この戦いで小田氏は小田城をも攻略され、佐竹氏に奪われてしまった。
やはり、北条氏との覇権争いで、味方となる兵を大勢集めて大軍で小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に呼ばれて、三楽斎は秀吉に会いに行った。
秀吉に接見した時の話は、元禄年間に書かれた軍記物「奥羽永慶軍記」に詳しく書かれている。
秀吉はこの常州片野の住太田三楽斎について、東国に隠れなき武勇の老武者であり、天下広しと言えどもいまだに城が採れていないのは不思議だと言った。
そして、今の小田原城攻めのことを聞かれて、三楽斎は天下人の秀吉に対し、臆することなく自分の考えを次のように言った。
「この小田原城は一方を荒海に面し、三方は山に囲まれており攻めるには困難な名城である。またこの城を築いた北条氏康も地の利を得ており、氏康・氏政親子二代の間に関八州の内の5か国を味方につけている。この城に立て籠もって、中の軍勢が5~6万にいてもこれから先10年は困らないくらいの兵糧を貯めているだろう。
今のような多勢での力攻めでは、この城を攻略することは到底かなわない。 ここは計略をもって、攻め取るのがよろしい。」
と今の城攻めに注文を付けたのです。
すると、秀吉は途端に機嫌が悪くなり、「三楽斎はこの数年北条と戦い、負け続けた。その時から臆病神に取り付かれてしまったようだ」といい、三楽斎はその場を去り、隣りの陣にいた石田三成、増田長盛にむかって次のように言った。
「今殿下に小田原攻めについて尋ねられたので、愚案を申し上げたところだ。 この三楽は確かにここ数年北条と相戦ってきたが、その武功は他の者たちと比べて決して劣ることなどない。この小田原城を計略なくしてして攻め落とすことができたならこの入道(三楽斎)の命を懸けても良い。 今私の評判がこのように損ねているようだが、これも卑怯なことは何一つしていない。天運が尽き、敵に領土を奪われて、今かかる不詳の身となってしまったのは面目ないことだ」
この小田原城攻めは、その後三楽斎の言うとおり計略で落ちた。
軍記にはこのようなことが記されていますが、この三楽斎がこの時に片野の小さな城にいたのです。
これだけの知将と言われていますが、自身でいったように義に篤く、上杉家との恩を最後まで裏切ることはなかったといわれています。
大掾(だいじょう)氏の本拠城である府中城が佐竹氏によって攻め落とされたとき(1590年)、この三楽斎はこの片野城にいました。
しかし、その前に、この大掾氏との間でも血縁関係もありあまり目立つ戦いは仕掛けていません。
府中城が落ちた後、佐竹氏はこの城を三楽斎に預けようとしたといいます。
しかし、三楽斎はもう老骨の出る幕ではないとしてこれを固辞したのです。
結果、府中城は佐竹義重の弟の佐竹義尚(よしひさ)に預けられました。
三楽斎はこの翌年静かにこの片野で亡くなりました。
太田三楽斎(資正)は太田道灌の曾孫といわれています。
また日本で初めて軍用犬と呼ばれる「三楽犬」を使った事でも知られます。
いまでも片野地区の山の中に片野城の跡とこの三楽斎の墓と言われる五輪塔が眠ったようにあります。

いまでもこの地にて行われている「排禍ばやし」という祭りは、この三楽斎が禍を取り払うために始めたという。
しかし、この戦国武将のことは、石岡や八郷地区の地元の人々の間であまり話題にならない。
戦国武将としては大きな城は取れなかったし、攻め取った埼玉県の岩付城も息子に裏切られて城から追い出されてしまった武将である。
しかし、これも義に篤く、越後の上杉氏、直江兼続などとの信を貫き、北条氏と対抗したことによる。
行き場を失った山楽斎を北条氏と対抗していた佐竹氏が拾い上げて、常陸で勢力争いをしていた小田氏と対抗するための要所となった片野城へ入れた。
そして見事に手這坂で小田軍を打ち負かす大活躍をした。
この戦いで小田氏は小田城をも攻略され、佐竹氏に奪われてしまった。
やはり、北条氏との覇権争いで、味方となる兵を大勢集めて大軍で小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に呼ばれて、三楽斎は秀吉に会いに行った。
秀吉に接見した時の話は、元禄年間に書かれた軍記物「奥羽永慶軍記」に詳しく書かれている。
秀吉はこの常州片野の住太田三楽斎について、東国に隠れなき武勇の老武者であり、天下広しと言えどもいまだに城が採れていないのは不思議だと言った。
そして、今の小田原城攻めのことを聞かれて、三楽斎は天下人の秀吉に対し、臆することなく自分の考えを次のように言った。
「この小田原城は一方を荒海に面し、三方は山に囲まれており攻めるには困難な名城である。またこの城を築いた北条氏康も地の利を得ており、氏康・氏政親子二代の間に関八州の内の5か国を味方につけている。この城に立て籠もって、中の軍勢が5~6万にいてもこれから先10年は困らないくらいの兵糧を貯めているだろう。
今のような多勢での力攻めでは、この城を攻略することは到底かなわない。 ここは計略をもって、攻め取るのがよろしい。」
と今の城攻めに注文を付けたのです。
すると、秀吉は途端に機嫌が悪くなり、「三楽斎はこの数年北条と戦い、負け続けた。その時から臆病神に取り付かれてしまったようだ」といい、三楽斎はその場を去り、隣りの陣にいた石田三成、増田長盛にむかって次のように言った。
「今殿下に小田原攻めについて尋ねられたので、愚案を申し上げたところだ。 この三楽は確かにここ数年北条と相戦ってきたが、その武功は他の者たちと比べて決して劣ることなどない。この小田原城を計略なくしてして攻め落とすことができたならこの入道(三楽斎)の命を懸けても良い。 今私の評判がこのように損ねているようだが、これも卑怯なことは何一つしていない。天運が尽き、敵に領土を奪われて、今かかる不詳の身となってしまったのは面目ないことだ」
この小田原城攻めは、その後三楽斎の言うとおり計略で落ちた。
軍記にはこのようなことが記されていますが、この三楽斎がこの時に片野の小さな城にいたのです。
これだけの知将と言われていますが、自身でいったように義に篤く、上杉家との恩を最後まで裏切ることはなかったといわれています。
大掾(だいじょう)氏の本拠城である府中城が佐竹氏によって攻め落とされたとき(1590年)、この三楽斎はこの片野城にいました。
しかし、その前に、この大掾氏との間でも血縁関係もありあまり目立つ戦いは仕掛けていません。
府中城が落ちた後、佐竹氏はこの城を三楽斎に預けようとしたといいます。
しかし、三楽斎はもう老骨の出る幕ではないとしてこれを固辞したのです。
結果、府中城は佐竹義重の弟の佐竹義尚(よしひさ)に預けられました。
三楽斎はこの翌年静かにこの片野で亡くなりました。
太田三楽斎(資正)は太田道灌の曾孫といわれています。
また日本で初めて軍用犬と呼ばれる「三楽犬」を使った事でも知られます。
いまでも片野地区の山の中に片野城の跡とこの三楽斎の墓と言われる五輪塔が眠ったようにあります。

石岡地方のよもやま話(その12)-柿岡サーカス
柿岡曲馬団というサーカス団が昔あった。
名前の通り馬などをつかって曲芸をしたりするサーカス団で人気を博していた。
そのサーカスの団長であった柿岡春二郎の墓が石岡市柿岡の善慶寺(曹洞宗 禅寺)にある。
昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
木下サーカスやキグレサーカスや、モスクワのボリショイサーカスなどが年配者には懐かしく思われるだろうと思う。
その中でこの柿岡曲馬団は明治時代後期から昭和初期まで人気の大きなサーカス団でした。
柿岡と名前がついていますが、本名は荒川春二郎です。
この柿岡の地にお墓があるので、この地の人かと思うと、これは少し違うようです。
春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来ました。 当時多くの会津人が青森に逃れてきたといいます。
一家は貧しく、春二郎は、若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。
そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になりました。
大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。
出し物は、「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などです。
当時の写真絵葉書などに「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」などのものがあります。
大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップが柿岡曲馬の名前となっています。
柿岡春二郎は大正三年に分家して、現石岡市の柿岡に戸籍を移します。
柿岡曲馬団という名前は前から使っていましたので、同じ地名のこの地に縁を感じていたのかもしれません。
しかし主に住んでいたのは宇都宮だったといいます。
ただ、吉生(よしう)から養女をもらい、一座はほぼ活動は終わっていた戦後になってこの柿岡に移ってきました。
昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石です。
この善慶寺は柿岡城跡に建つ柿岡小学校のすぐ隣にあります。
このお寺は、1590年に佐竹氏族の長倉氏(長倉義興)が、常陸大宮市の長倉城から柿岡城に移ってきたときに、やはり長倉にあった善慶寺がこちらに移ってきたといわれています。
現在長倉(御前山と那珂川を挟んで反対側)のその寺のあった場所には「蒼泉寺」というお寺が建っています。
しかし、この長倉義興(よしおき)は些細なことで佐竹義宣に逆らい、慶長4年(1599)常陸太田の正宗寺に幽閉され、1600年4月に死んだが、その死因は毒殺された可能性があるとされます。
これにより柿岡の長倉氏は滅んでしまいましたが、同じ年に、佐竹義宣も家康により出羽石(秋田)へ転封になってしまいました。
このように柿岡も佐竹氏系の長倉氏が治めていた期間は短い(10年)のですが、現在の柿岡のお祭「八坂神社の祇園祭」はこの長倉義興が始めたものだといわれています。

(サーカス集団「柿岡曲馬団」の柿岡春二郎の墓:亀の背に乗っている)

(善慶寺)
名前の通り馬などをつかって曲芸をしたりするサーカス団で人気を博していた。
そのサーカスの団長であった柿岡春二郎の墓が石岡市柿岡の善慶寺(曹洞宗 禅寺)にある。
昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
木下サーカスやキグレサーカスや、モスクワのボリショイサーカスなどが年配者には懐かしく思われるだろうと思う。
その中でこの柿岡曲馬団は明治時代後期から昭和初期まで人気の大きなサーカス団でした。
柿岡と名前がついていますが、本名は荒川春二郎です。
この柿岡の地にお墓があるので、この地の人かと思うと、これは少し違うようです。
春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来ました。 当時多くの会津人が青森に逃れてきたといいます。
一家は貧しく、春二郎は、若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。
そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になりました。
大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。
出し物は、「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などです。
当時の写真絵葉書などに「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」などのものがあります。
大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップが柿岡曲馬の名前となっています。
柿岡春二郎は大正三年に分家して、現石岡市の柿岡に戸籍を移します。
柿岡曲馬団という名前は前から使っていましたので、同じ地名のこの地に縁を感じていたのかもしれません。
しかし主に住んでいたのは宇都宮だったといいます。
ただ、吉生(よしう)から養女をもらい、一座はほぼ活動は終わっていた戦後になってこの柿岡に移ってきました。
昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石です。
この善慶寺は柿岡城跡に建つ柿岡小学校のすぐ隣にあります。
このお寺は、1590年に佐竹氏族の長倉氏(長倉義興)が、常陸大宮市の長倉城から柿岡城に移ってきたときに、やはり長倉にあった善慶寺がこちらに移ってきたといわれています。
現在長倉(御前山と那珂川を挟んで反対側)のその寺のあった場所には「蒼泉寺」というお寺が建っています。
しかし、この長倉義興(よしおき)は些細なことで佐竹義宣に逆らい、慶長4年(1599)常陸太田の正宗寺に幽閉され、1600年4月に死んだが、その死因は毒殺された可能性があるとされます。
これにより柿岡の長倉氏は滅んでしまいましたが、同じ年に、佐竹義宣も家康により出羽石(秋田)へ転封になってしまいました。
このように柿岡も佐竹氏系の長倉氏が治めていた期間は短い(10年)のですが、現在の柿岡のお祭「八坂神社の祇園祭」はこの長倉義興が始めたものだといわれています。

(サーカス集団「柿岡曲馬団」の柿岡春二郎の墓:亀の背に乗っている)

(善慶寺)
久し振りに昔の友達ちに会いに東京へ
毎年12月は学生時代の友人たちと東京で飲み会をやっている。
もうかれこれ15年以上続いている。
そのため東京や銀座などの夜のイルミネーションを毎年のように見て来ている。
人ごみはどんどん苦手になってきて、若い人が多くて元気があるのは良いのだがあまり長くいると息苦しい気もする。
石岡からは高速バスが出ているので便利だ。
休日はバスに揺られてウトウトしていれば東京駅に着く。
去年まで土曜日も平日と同じで浅草と上野経由だったが、今年は直接高速のままで東京駅(日本橋口)に1時間くらいでついてしまう。

東京駅の中に入り八重洲側に通路を歩いていたが、トイレに立ち寄るために地下に下りた。
お店がたくさんあり何度もこの地化も来ているが、そこには人の波が一杯だ。
トイレも女性用は長蛇の列。
地下の屋根はあまり高くないが、そこには無数のイルミネーションが覆っていた。

会合場所は日本橋であったので、八重洲の北口からそちらに向かうが、まだ時間が早かったので、丸善書店と高島屋へ行ってみた。
今年も店のウィンドウにはいろいろな飾り付けがされていた。
それに外にボタンがありタッチすると動く仕掛けもされていて、小さな子供たちが喜んでいた。

デパートの1階は化粧品売り場などと代替は決まっているが、正面入ったところにきらきら輝いた回転木馬が回っていた。

馬に乗れるのは小学生以下で、小さい子供は親が脇についていなければいけないようだが、これも親子連れが並んでいた。
なにか今年は子供連れが増えている気がする。

夕方暗くなってきて「日本橋さくら通り」に一斉にイルミネーションが点った。
時間は5時半だ。





もうかれこれ15年以上続いている。
そのため東京や銀座などの夜のイルミネーションを毎年のように見て来ている。
人ごみはどんどん苦手になってきて、若い人が多くて元気があるのは良いのだがあまり長くいると息苦しい気もする。
石岡からは高速バスが出ているので便利だ。
休日はバスに揺られてウトウトしていれば東京駅に着く。
去年まで土曜日も平日と同じで浅草と上野経由だったが、今年は直接高速のままで東京駅(日本橋口)に1時間くらいでついてしまう。

東京駅の中に入り八重洲側に通路を歩いていたが、トイレに立ち寄るために地下に下りた。
お店がたくさんあり何度もこの地化も来ているが、そこには人の波が一杯だ。
トイレも女性用は長蛇の列。
地下の屋根はあまり高くないが、そこには無数のイルミネーションが覆っていた。

会合場所は日本橋であったので、八重洲の北口からそちらに向かうが、まだ時間が早かったので、丸善書店と高島屋へ行ってみた。
今年も店のウィンドウにはいろいろな飾り付けがされていた。
それに外にボタンがありタッチすると動く仕掛けもされていて、小さな子供たちが喜んでいた。

デパートの1階は化粧品売り場などと代替は決まっているが、正面入ったところにきらきら輝いた回転木馬が回っていた。

馬に乗れるのは小学生以下で、小さい子供は親が脇についていなければいけないようだが、これも親子連れが並んでいた。
なにか今年は子供連れが増えている気がする。

夕方暗くなってきて「日本橋さくら通り」に一斉にイルミネーションが点った。
時間は5時半だ。





黄色の絨毯も寂しげ
今週は急に寒くなりました。
月曜日に銚子に行く途中でまた行方市の西蓮寺にイチョウを見に出かけました。
もう少し遅いだろうと考えておりましたが、黄色の絨毯が一面に広がりきれいでした。

毎年2本の千年イチョウの木は12月の第1週くらいが紅葉のピークなのです。

前回来たときには奥の1本がまだ葉は青かったのですが、すっかり黄色になりだいぶハエアハラと舞っていました。

毎年この黄葉の落ち葉もしばらくこのまま敷き詰められています。
寺での清掃は良くされているのですが、この落ち葉はあえて楽しませてくれているようです。

でもやはり寒くなるとどこかさびしいですね。
もう数日で終わりでしょう。(撮影は10日の月曜日)

近くの保育所(?)の小さな子供たちが写真撮影に訪れていました。

小さな子供の笑顔を見ていると自然に顔がほころんできます。
月曜日に銚子に行く途中でまた行方市の西蓮寺にイチョウを見に出かけました。
もう少し遅いだろうと考えておりましたが、黄色の絨毯が一面に広がりきれいでした。

毎年2本の千年イチョウの木は12月の第1週くらいが紅葉のピークなのです。

前回来たときには奥の1本がまだ葉は青かったのですが、すっかり黄色になりだいぶハエアハラと舞っていました。

毎年この黄葉の落ち葉もしばらくこのまま敷き詰められています。
寺での清掃は良くされているのですが、この落ち葉はあえて楽しませてくれているようです。

でもやはり寒くなるとどこかさびしいですね。
もう数日で終わりでしょう。(撮影は10日の月曜日)

近くの保育所(?)の小さな子供たちが写真撮影に訪れていました。

小さな子供の笑顔を見ていると自然に顔がほころんできます。
石岡地方のよもやま話(その13)-府中の祇園まつり
石岡のおまつりは常陸国総社宮の例大祭の行事であるという。
しかし、江戸時代には総社宮でこのような祭りは行われていなかった。
この話はまた別な機会とするが、今回は旧石岡の市街地(府中)にて行われていた祇園まつりについて記録を調べて残しておきたいと思います。
江戸時代には各地に天王社と呼ばれる社が数多く存在しました。
この社ではインドの祇園精舎の守護神といわれている牛頭天王(ごずてんのう)を祀っています。
また、インドの神ですので神社でなくお寺に分類されていました。
このインドの神は朝鮮半島から対馬を経由して日本にはいってきたのですが、愛知県津島市に総本山(天王社、現在の津島神社)ができ、現在も全国に3000社も分社があるのです。
当然牛頭天皇はインドの祇園精舎の守護神ですから、この天王社の祭りは「祇園まつり」と呼ばれています。
京都の八坂神社の祇園まつりも、神社の祭神がスサノオノミコトとなってはいますがルーツは同じです。
江戸時代に東国ではこの天王社の夏のお祭り(祇園まつり)が各地の庶民の間で争うように行われてきました。
ここ府中でもこの天王社が中町の矢口本陣の近くにありました。
この祭りも宝暦から明和期(1751年~1772年)の江戸中期の頃がもっとも盛んであったようで、府中の町の各町が出し物を出して、町を練り歩いたといわれています。
この祭りは旧暦6月14日に行われていました。出し物は、
一番 冨田のささら
二番 中町のやたいおどり
三番 香丸の子供おどり
四番 守木の子供おどり
五番 木之地のみろく(弥勒人形)
六番 泉町のふし
七番 幸町の田打おどり
八番 青木町のほうさい(泡斉:念仏踊り、ちえんちえんちえん 人形)
九番 若松町のかたかた
十番 中之内のほろ
十一番 金丸の人ささら
(石岡市史 下巻より)
となっていたと記録にはありますが、実際にどのようなものだったのかは多くのところが踏襲されていないためにわからなくなっています。
冨田のささらは今の祭りでも先頭で、これを明治35年に総社の祭りとして復活させたのが今の「石岡のおまつり」です。
もともと総社宮では例大祭と相撲などが行われていただけで、祇園祭などは行われていませんでしたので、この祭りが八坂神社などで行われている「祇園祭」と同じだというと少しおかしく感じるかもしれませんね。
また、この天王社の祇園祭に加えて、木之地町の愛宕神社のお祭りが7月2日に行われていました。
この2つの祭りも続くために財政的は各町が厳しくなり、江戸の終わり頃には隔年でやったりしていたようです。
明治になり廃仏毀釈で天王社は八坂神社に名称を変え、存続していましたが、天狗党の乱、明治維新の混乱期で祭りは立ち消え、神社もいつの間にか姿を消し、この八坂神社(天王社)は総社宮に合祀されました。

(木之地のみろく:わずかに残された人形から復活したもの)

(冨田のささら:三匹の獅子人形 棒を操って踊る。棒ささら) (人がかぶって踊るのが人ささらだがこの獅子は棒ささらである。ヤタガラスのマークをつけていて、行列を先導する)
しかし、江戸時代には総社宮でこのような祭りは行われていなかった。
この話はまた別な機会とするが、今回は旧石岡の市街地(府中)にて行われていた祇園まつりについて記録を調べて残しておきたいと思います。
江戸時代には各地に天王社と呼ばれる社が数多く存在しました。
この社ではインドの祇園精舎の守護神といわれている牛頭天王(ごずてんのう)を祀っています。
また、インドの神ですので神社でなくお寺に分類されていました。
このインドの神は朝鮮半島から対馬を経由して日本にはいってきたのですが、愛知県津島市に総本山(天王社、現在の津島神社)ができ、現在も全国に3000社も分社があるのです。
当然牛頭天皇はインドの祇園精舎の守護神ですから、この天王社の祭りは「祇園まつり」と呼ばれています。
京都の八坂神社の祇園まつりも、神社の祭神がスサノオノミコトとなってはいますがルーツは同じです。
江戸時代に東国ではこの天王社の夏のお祭り(祇園まつり)が各地の庶民の間で争うように行われてきました。
ここ府中でもこの天王社が中町の矢口本陣の近くにありました。
この祭りも宝暦から明和期(1751年~1772年)の江戸中期の頃がもっとも盛んであったようで、府中の町の各町が出し物を出して、町を練り歩いたといわれています。
この祭りは旧暦6月14日に行われていました。出し物は、
一番 冨田のささら
二番 中町のやたいおどり
三番 香丸の子供おどり
四番 守木の子供おどり
五番 木之地のみろく(弥勒人形)
六番 泉町のふし
七番 幸町の田打おどり
八番 青木町のほうさい(泡斉:念仏踊り、ちえんちえんちえん 人形)
九番 若松町のかたかた
十番 中之内のほろ
十一番 金丸の人ささら
(石岡市史 下巻より)
となっていたと記録にはありますが、実際にどのようなものだったのかは多くのところが踏襲されていないためにわからなくなっています。
冨田のささらは今の祭りでも先頭で、これを明治35年に総社の祭りとして復活させたのが今の「石岡のおまつり」です。
もともと総社宮では例大祭と相撲などが行われていただけで、祇園祭などは行われていませんでしたので、この祭りが八坂神社などで行われている「祇園祭」と同じだというと少しおかしく感じるかもしれませんね。
また、この天王社の祇園祭に加えて、木之地町の愛宕神社のお祭りが7月2日に行われていました。
この2つの祭りも続くために財政的は各町が厳しくなり、江戸の終わり頃には隔年でやったりしていたようです。
明治になり廃仏毀釈で天王社は八坂神社に名称を変え、存続していましたが、天狗党の乱、明治維新の混乱期で祭りは立ち消え、神社もいつの間にか姿を消し、この八坂神社(天王社)は総社宮に合祀されました。

(木之地のみろく:わずかに残された人形から復活したもの)

(冨田のささら:三匹の獅子人形 棒を操って踊る。棒ささら) (人がかぶって踊るのが人ささらだがこの獅子は棒ささらである。ヤタガラスのマークをつけていて、行列を先導する)
今年の1冊「茨城の難読地名」を作成
今年夏ごろからブログに書いてきたこのテーマの内容を「茨城の難読地名」本としてまとめました。
A5版240ページほどの本です。
石岡のまちかど情報センターさんに数冊置いています。
また下記からも購入可能です。
ショップ「まほらの里」URL:http://artec.cart.fc2.com/
販売ページ:http://artec.cart.fc2.com/ca0/32/p-r-s4/
今年はこの1冊だけとなってしまいました。
今後テーマを決めて年末に1冊発行していければいいと思いますが、どうなることか・・・
ブログから内容をまとめ直し、目次を作って・・・・・・・・ やはりかなり手間です。
また本の作成もすべて手作りですからまったく自己満足の世界です。
でもこれが将来も残っていくと思うとやりがいはあります。
どうやって皆さんに知ってもらうことができるのか。 これから考えるのですが、これが一番問題ですね。
今回の内容は自分では結構面白いと思っています。(笑)



結構この地名の由来が曲者ですね。
A5版240ページほどの本です。
石岡のまちかど情報センターさんに数冊置いています。
また下記からも購入可能です。
ショップ「まほらの里」URL:http://artec.cart.fc2.com/
販売ページ:http://artec.cart.fc2.com/ca0/32/p-r-s4/
今年はこの1冊だけとなってしまいました。
今後テーマを決めて年末に1冊発行していければいいと思いますが、どうなることか・・・
ブログから内容をまとめ直し、目次を作って・・・・・・・・ やはりかなり手間です。
また本の作成もすべて手作りですからまったく自己満足の世界です。
でもこれが将来も残っていくと思うとやりがいはあります。
どうやって皆さんに知ってもらうことができるのか。 これから考えるのですが、これが一番問題ですね。
今回の内容は自分では結構面白いと思っています。(笑)



結構この地名の由来が曲者ですね。