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石岡地方のよもやま話(その9)-頼朝が石岡に来て歴史が変わった?

 よもやま話のタイトルとしては大げさだが、源頼朝が常陸国国府(石岡)にやってきたことが鎌倉時代の吾妻鏡に記されている。
来たのは1180年11月始め。

源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑となったのは1160年の3月、まだ14歳くらいの時だ。
そして1180年の4月に後白河法皇の皇子「以仁王」が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。
しばらく静観していた頼朝が兵を挙げたのが、同年8月であった。

しかし石橋山の戦いに敗れ安房国(千葉県東部)へ船で逃れることになる。

この安房国で勢力を立て直そうと上総・下総で権力を持っていた「上総介広常」と「千葉常胤(つねたね)」に援護を要請します。
この両名の援護を受けて、下総国国府(市川市)に入り、坂東平氏を見方につけて10月6日に鎌倉に入ります。
都の平家から差し向けられた平維盛の軍を10月20日に打ち負かしました。
そして、そのまま京の都に攻め入るのではないかと思えたときに、この上総介広常と千葉常胤は後方の常陸国にまだ源氏に従わない武将がいるので、この憂いを絶つべきだと進言したのです。

この憂いとなっていたのが常陸国の北部を支配していた佐竹氏です。 佐竹氏は現常陸太田に居を構え、奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。

1180年11月4日、源頼朝はこの進言を受け入れて、佐竹氏追討のため常陸国府(石岡)にやって来ました。
佐竹氏には頼朝への帰順勧告が届けられておりましたが、佐竹氏は当時、都の平家とは仲が良く態度が明確ではなかったのです。

当時、太田の城の城主は佐竹隆義(佐竹氏2代当主)でしたが、隆義は京にいて留守でした。 そして常陸の城は2人の息子にまかせていたのです。
常陸国府(石岡)にやってきた上総介広常はこの2人の息子(義政・秀義)に会見を申し入れました。

佐竹隆義の長男義政は上総介広常が縁筋にもあたるため、誘いをむげに断ることも出来ずに部下をつれて常陸国府に向かいました。
一方弟の佐竹秀義は危険を察知して、山城である「金砂城」に立て籠もりました。

さあ、常陸国府に向かった佐竹義政は国府の入り口である園部川に架かる「大矢橋」までやって来ました。
一方これを出迎えに上総介広常もこの大矢橋に部下を引き連れてやってきました。

大矢橋をはさんで両軍勢は向かい合います。そして互いに1対1で橋の上で会うこととなり、上総介広常と佐竹義政は大矢橋の半ばに駒を進めました。
そしてその出会いざまに広常は義政を切り殺してしまったのです。

橋の向こう側で待機していた佐竹の部下たちはこれを見て、一斉に逃げ帰ってしまったのです。

現在この大矢橋の麓に「佐竹義政の首塚」が残されており、看板が建っています。義政の胴も川の下流の行里川(なめりがわ)の付近まで流され、そこに胴塚が築かれたといいます。

またこの大矢橋は道路のバイパス工事などで新しく移動し、常磐自動車道の「石岡・小美玉スマートインター」が目の前に出来ました。現在はこのインターから茨城空港までの道路新設工事も急ピッチに進められています。

園部川も大きな川ではなく、当時の大矢橋もそれほど大きな橋ではなかったと思われます。

歴史はここで大きく動いていきます。

金砂城に立て籠もった弟の佐竹秀義を頼朝・広常軍が攻め、秀義は更に山奥に敗走させ、関東には反対勢力はなくなったとして頼朝は京の平家を討伐に向かったのです。

この大矢橋事件が無ければ、鎌倉幕府は成立しなかったかもしれません。

でも何か腑に落ちない気もします。

それは「上総介広常」、「千葉常胤」「常陸大掾(だいじょう)」ともにすんなりと源氏の「頼朝」の見方となっていますが、かれらは坂東平氏、常陸平氏といわれる桓武平氏の系列で、伊勢平氏といわれる平清盛などの平家とは同属なのです。
一方の佐竹氏は源氏の系列です。

頼朝が八幡太郎源義家の直系なら、佐竹氏は甲斐の武田氏と同じ八幡太郎の弟の新羅三郎(しんらさぶろう)義光の直系です。
佐竹氏は義光の長男、甲斐武田氏は義光の次男が興しています。

この事件の430年後に、この佐竹氏によって常陸大掾氏も滅ぼされることになるのですからおかしなものですね。

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(佐竹義政の首塚)
上記写真の大矢橋は、石岡・小美玉スマートインターが完成する前ですが、すでに新しい道路が出来て架け替ええられたものです。この写真の右下にその前にかかっていた小さな大矢橋がありましたが、これは現在取り外されています。

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/12/03 11:34
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