本年もよろしくお願いします
年明けの朝、息子夫婦と孫を連れて初日の出に行ってきました。
霞ケ浦に飛び出た旧出島町の先端「歩崎公園」へ
朝6時50分頃に昇る日の出を待ちました。
そして6時55分頃に日が昇り始めました。

静かで寒い朝ですが、土手にはたくさんの人がいました。
今までで一番多い人です。 100人くらいいたようです。 駐車場もいっぱいでした。

寒い寒いと言いながらあっという間に日が昇りました。

そして、開いていたカスミキッチンで温かいコーヒーやホット梅などを飲んで帰ってきました。
今年も良いことがありますように!
霞ケ浦に飛び出た旧出島町の先端「歩崎公園」へ
朝6時50分頃に昇る日の出を待ちました。
そして6時55分頃に日が昇り始めました。

静かで寒い朝ですが、土手にはたくさんの人がいました。
今までで一番多い人です。 100人くらいいたようです。 駐車場もいっぱいでした。

寒い寒いと言いながらあっという間に日が昇りました。

そして、開いていたカスミキッチンで温かいコーヒーやホット梅などを飲んで帰ってきました。
今年も良いことがありますように!
大洗マリンタワー
昨日午後どこかに行こうと大洗にやってきました。
元旦で結構人も来ていました。
大洗磯前神社yにでも行こうと思ったのですが、歩くのも面倒だし・・・・・・
初詣は別にして、マリンタワーに登ってみました。

360度周りをながめられます。 素晴らしい眺めです。
室蘭・苫小牧港との間のサンフラワー号が停泊しています。

下の写真は水戸方向です。
左手の奥の方のタワーの見えるのが水戸の街です。
右手前の木が生い茂っているあたりは日下ヶ塚古墳、車塚古墳あたりだろうか。
このあたりも古墳が多い。

筑波山や加波山も眺められる。

鹿島方面。 残念ながら富士山は見えなかった。

1歳半の孫娘と正月を過ごした。

天気も良く良い正月でした。
元旦で結構人も来ていました。
大洗磯前神社yにでも行こうと思ったのですが、歩くのも面倒だし・・・・・・
初詣は別にして、マリンタワーに登ってみました。

360度周りをながめられます。 素晴らしい眺めです。
室蘭・苫小牧港との間のサンフラワー号が停泊しています。

下の写真は水戸方向です。
左手の奥の方のタワーの見えるのが水戸の街です。
右手前の木が生い茂っているあたりは日下ヶ塚古墳、車塚古墳あたりだろうか。
このあたりも古墳が多い。

筑波山や加波山も眺められる。

鹿島方面。 残念ながら富士山は見えなかった。

1歳半の孫娘と正月を過ごした。

天気も良く良い正月でした。
千葉県の難読地名(1)
茨城県の難読地名を調査し、調べ上げて1冊の冊子を昨年作成した。
次はこのシリーズはやらないつもり(やれない)であったが、今年になって隣の千葉県に興味が移ってしまった。
茨城は常陸国と言われるが、南西部は下総国でもあった。
また常陸平氏の流れは九十九里浜側からの流れがあり、これらが地名にどのようにかかわっているかを知りたくなった。
そこでどうしても手元に置いておかねばならない角川と平凡社の地名辞書本を手に入れた。

角川書店本は茨城県、千葉県はほぼ同じ分量で価格も一緒。
それに対し、平凡社(日本歴史地名大系)本は千葉県の方がかなり分量が多い。
また価格も2倍近い。

茨城県の場合は水戸の地名や地元石岡の地名などの本をかなり調べたりしたが、千葉県はそれはあまりできそうにない。
書いているうちに疑問となったものを後から調べるしかないだろう。
でもこの分量の違いが気になる。
郵便番号簿住所を調べても
茨城県:2849件
千葉県:3587件
と約26%多い
さてどうなりますか。
今年中に終わるでしょうか?
暇にまかせて少しずつやっていきましょう。
こうして正月に目標ができれば今年1年を無事に過ごすことができるでしょう。
それにしても結構高い本だね。もちろん中古ですが・・・・
今はデジタル版アーカイブもあるのだけれど毎月の会費もバカにならない。
次はこのシリーズはやらないつもり(やれない)であったが、今年になって隣の千葉県に興味が移ってしまった。
茨城は常陸国と言われるが、南西部は下総国でもあった。
また常陸平氏の流れは九十九里浜側からの流れがあり、これらが地名にどのようにかかわっているかを知りたくなった。
そこでどうしても手元に置いておかねばならない角川と平凡社の地名辞書本を手に入れた。

角川書店本は茨城県、千葉県はほぼ同じ分量で価格も一緒。
それに対し、平凡社(日本歴史地名大系)本は千葉県の方がかなり分量が多い。
また価格も2倍近い。

茨城県の場合は水戸の地名や地元石岡の地名などの本をかなり調べたりしたが、千葉県はそれはあまりできそうにない。
書いているうちに疑問となったものを後から調べるしかないだろう。
でもこの分量の違いが気になる。
郵便番号簿住所を調べても
茨城県:2849件
千葉県:3587件
と約26%多い
さてどうなりますか。
今年中に終わるでしょうか?
暇にまかせて少しずつやっていきましょう。
こうして正月に目標ができれば今年1年を無事に過ごすことができるでしょう。
それにしても結構高い本だね。もちろん中古ですが・・・・
今はデジタル版アーカイブもあるのだけれど毎月の会費もバカにならない。
石岡地方のよもやまばなし(その15)-府中経塚
石岡地方のよもやま話などとして前回書いてから1か月近くにもなってしまいました。
この調子ではいつ終わるかもしれません。
先日は「千葉県の難読地名を今年は書く」などと宣言して、調べ始めたら、これがまた大変そうで・・・・ どうしよう??
でもあまり間をあけては忘れられそうなのでこちらの「よもやまばなし」すこしずつ書いていきたいと思います。
今迄にも書いた内容なのですが、今もあまり知られていないことを少し書いておきます。
今日は府中経塚(きょうづか)です。
経塚(きょうづか)というと、末法思想が平安時代後半から鎌倉時代に流行り、浄土教(浄土宗や浄土真宗)の教えが広がり、阿弥陀如来さまにすがって死んだら浄土世界に連れて行ってもらう・・・などとなりました。
末法思想は仏様(釈迦)が入滅後2000年で真の仏法が衰えてしまい、世が乱れてしまうとされていて、それが平安時代末期の1052年から始まるといわれていたのです。
このため、お寺などでは経文を金属製や陶器製の筒などに入れて土の中に埋めて、1000年先の世の中が安定するまで仏法の経典を残そうとしたのです。いわゆるタイムカプセルのようなものです。
石岡にもギター文化館のすぐ前の畑のところに「経筒(石櫃付き)」出土地」の看板があり、もう一か所「北谷経塚」というものが確認されています。
でも今回の話はこの経塚とは少し違い、一字一石経といわれるものです。
平べったい小石に「阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経」の全二万六千六百字あまりを一石に一文字ずつ書いて埋めるのです。
これは怨霊などで苦しむ場合に、その霊を鎮めるために行われていたものです。

(この石は、このようなものです。)
ではここから府中経塚のお話です。
「その昔、文字の書かれた小石がザクザクと出てくる畑があり、「府中経塚」と呼ばれていました。
その場所は、石岡市の小目代で、ここに親鸞聖人の伝説が残されていたのです。
その昔この近くに農家があり、そこの嫁さんが親鸞聖人の教えを受けて、毎晩講中に出かけていました。あまりにも続くので、そこの舅は嫁に男ができたものと早合点して、ついには言い争いになり、挙句の果てには、刀で嫁を袈裟がけに切りつけました。
からくも一命を取り留めましたが、その傷がもとで後に亡くなりました。
その後、不吉なことがいくつも続くようになり、ある時に嫁が信仰していた名号「南無不可思議光如来」の掛け軸を開いてみると、掛け軸は見事に袈裟がけに切れていたといいます。
それが今、本浄寺の寺宝として伝わる掛け軸「袈裟懸け名号」です。
また、江戸時代後期、春の日に巡礼がやって来て、経塚から経石を掘り出し持ち帰りました。
それを知った農夫たちも石を掘るようになりました。
領主がそれを聞き、みだりに掘ることを禁じました。
大正時代になり、街道の道路改修工事が行われ、この経塚が道路にかかることが分かり、この遺跡を新道の脇に移すこととなり、「親鸞聖人御旧蹟」と刻まれた大きな石碑が建てられました。
右には「聖跡御経塚」、左には「聖徳太子尊」、中央の前には小さな石が置かれ、仏説無量寿経が記されています。
建設には、本浄寺のほか9ヵ寺、400名近くの信徒たちが名を連ね、大正14年2月1日の完成だといいます。」
(茨石通信「わくわく通信」2010年12月号記事より)

(高浜街道 貝地にある親鸞聖人旧跡碑)
どこまでが真実なのかはわかりませんが、親鸞聖人は越後での流罪が解けた後、常陸国にやってきて布教に努めました。
そして稲田(笠間市)に草庵を構えて、この石岡地方にもたびたびやってきました。
稲田から板敷峠を越え、高浜から舟で鹿島神宮へよく通っていたといわれています。
さて、この話に出てくる「袈裟懸け名号」の掛け軸の話ですが、これは水戸市河和田にある(歎異抄を書いたといわれる)唯円が開いたといわれる「報仏寺」の話とそっくりです。
こちらは「血染めの御名号」と呼ばれています。
こちらの話の概略は、河和田に平次郎という男が住んでいた。大酒のみで仕事もろくにしないどうしようもない男であった。
しかし、彼の妻は信心深く夫の目を盗んでは稲田の親鸞聖人の話を聞きに出かけてたのです。
あるとき、夫の平次郎は妻がこっそりと隠し持っていた御名号を見つけ、よからぬものを持っていて、浮気しているのではないかなどと疑い、とうとう刀で妻の肩から切りつけて殺してしまったのです。
妻の死体を裏の竹林に埋めて、家に戻るとそこには殺したはずの妻がいました。
驚いて、遺体を埋めたはずの土を掘り返すと、そこには死体ではなく「帰命尽十方無碍光如来」と書かれた御名号が出てきました。
しかも「帰命」のところから袈裟懸けに切れ、しかも血で染まっていました。
平次郎はそれから先、心を改め、親鸞聖人の弟子となり「唯円房」となったのです。
親鸞は長いこと常陸国で布教や経典のまとめに時間を費やしてきましたが、後を息子の善鸞に任せて、京に戻りました。
しかし、善鸞が自分の教えとは異なる考え方に染まっていってしまい、破門してしまいます。
そしてその時に、そばの弟子たちに説いて話した内容を書きまとめたのが「歎異抄」(異端の考え方を嘆く)です。
この歎異抄を書いた人物が唯円(ゆいえん)だといわれています。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
有名な一説ですね。私の中学の国語の先生もこの表現法が好きでした。
「0=∞ ゼロイコール無限大」などとよくわからないことを言っていました。
この調子ではいつ終わるかもしれません。
先日は「千葉県の難読地名を今年は書く」などと宣言して、調べ始めたら、これがまた大変そうで・・・・ どうしよう??
でもあまり間をあけては忘れられそうなのでこちらの「よもやまばなし」すこしずつ書いていきたいと思います。
今迄にも書いた内容なのですが、今もあまり知られていないことを少し書いておきます。
今日は府中経塚(きょうづか)です。
経塚(きょうづか)というと、末法思想が平安時代後半から鎌倉時代に流行り、浄土教(浄土宗や浄土真宗)の教えが広がり、阿弥陀如来さまにすがって死んだら浄土世界に連れて行ってもらう・・・などとなりました。
末法思想は仏様(釈迦)が入滅後2000年で真の仏法が衰えてしまい、世が乱れてしまうとされていて、それが平安時代末期の1052年から始まるといわれていたのです。
このため、お寺などでは経文を金属製や陶器製の筒などに入れて土の中に埋めて、1000年先の世の中が安定するまで仏法の経典を残そうとしたのです。いわゆるタイムカプセルのようなものです。
石岡にもギター文化館のすぐ前の畑のところに「経筒(石櫃付き)」出土地」の看板があり、もう一か所「北谷経塚」というものが確認されています。
でも今回の話はこの経塚とは少し違い、一字一石経といわれるものです。
平べったい小石に「阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経」の全二万六千六百字あまりを一石に一文字ずつ書いて埋めるのです。
これは怨霊などで苦しむ場合に、その霊を鎮めるために行われていたものです。

(この石は、このようなものです。)
ではここから府中経塚のお話です。
「その昔、文字の書かれた小石がザクザクと出てくる畑があり、「府中経塚」と呼ばれていました。
その場所は、石岡市の小目代で、ここに親鸞聖人の伝説が残されていたのです。
その昔この近くに農家があり、そこの嫁さんが親鸞聖人の教えを受けて、毎晩講中に出かけていました。あまりにも続くので、そこの舅は嫁に男ができたものと早合点して、ついには言い争いになり、挙句の果てには、刀で嫁を袈裟がけに切りつけました。
からくも一命を取り留めましたが、その傷がもとで後に亡くなりました。
その後、不吉なことがいくつも続くようになり、ある時に嫁が信仰していた名号「南無不可思議光如来」の掛け軸を開いてみると、掛け軸は見事に袈裟がけに切れていたといいます。
それが今、本浄寺の寺宝として伝わる掛け軸「袈裟懸け名号」です。
また、江戸時代後期、春の日に巡礼がやって来て、経塚から経石を掘り出し持ち帰りました。
それを知った農夫たちも石を掘るようになりました。
領主がそれを聞き、みだりに掘ることを禁じました。
大正時代になり、街道の道路改修工事が行われ、この経塚が道路にかかることが分かり、この遺跡を新道の脇に移すこととなり、「親鸞聖人御旧蹟」と刻まれた大きな石碑が建てられました。
右には「聖跡御経塚」、左には「聖徳太子尊」、中央の前には小さな石が置かれ、仏説無量寿経が記されています。
建設には、本浄寺のほか9ヵ寺、400名近くの信徒たちが名を連ね、大正14年2月1日の完成だといいます。」
(茨石通信「わくわく通信」2010年12月号記事より)

(高浜街道 貝地にある親鸞聖人旧跡碑)
どこまでが真実なのかはわかりませんが、親鸞聖人は越後での流罪が解けた後、常陸国にやってきて布教に努めました。
そして稲田(笠間市)に草庵を構えて、この石岡地方にもたびたびやってきました。
稲田から板敷峠を越え、高浜から舟で鹿島神宮へよく通っていたといわれています。
さて、この話に出てくる「袈裟懸け名号」の掛け軸の話ですが、これは水戸市河和田にある(歎異抄を書いたといわれる)唯円が開いたといわれる「報仏寺」の話とそっくりです。
こちらは「血染めの御名号」と呼ばれています。
こちらの話の概略は、河和田に平次郎という男が住んでいた。大酒のみで仕事もろくにしないどうしようもない男であった。
しかし、彼の妻は信心深く夫の目を盗んでは稲田の親鸞聖人の話を聞きに出かけてたのです。
あるとき、夫の平次郎は妻がこっそりと隠し持っていた御名号を見つけ、よからぬものを持っていて、浮気しているのではないかなどと疑い、とうとう刀で妻の肩から切りつけて殺してしまったのです。
妻の死体を裏の竹林に埋めて、家に戻るとそこには殺したはずの妻がいました。
驚いて、遺体を埋めたはずの土を掘り返すと、そこには死体ではなく「帰命尽十方無碍光如来」と書かれた御名号が出てきました。
しかも「帰命」のところから袈裟懸けに切れ、しかも血で染まっていました。
平次郎はそれから先、心を改め、親鸞聖人の弟子となり「唯円房」となったのです。
親鸞は長いこと常陸国で布教や経典のまとめに時間を費やしてきましたが、後を息子の善鸞に任せて、京に戻りました。
しかし、善鸞が自分の教えとは異なる考え方に染まっていってしまい、破門してしまいます。
そしてその時に、そばの弟子たちに説いて話した内容を書きまとめたのが「歎異抄」(異端の考え方を嘆く)です。
この歎異抄を書いた人物が唯円(ゆいえん)だといわれています。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
有名な一説ですね。私の中学の国語の先生もこの表現法が好きでした。
「0=∞ ゼロイコール無限大」などとよくわからないことを言っていました。
石岡地方のよもやまばなし(その16)-弁円懺悔の地
親鸞は越後での流罪が許されたのち、師・法然の提唱した浄土教(浄土往生)の布教のために常陸国にやってきました。
そして小島草庵(下妻市)をへて、稲田草庵(現笠間市稲田 西念寺)で、常陸国各地の布教や、親鸞自らの経典『教行信証』をまとめたといわれています。
1214年から1235年頃までの約20年間、常陸国に暮らしたとされていますが、その多くがこの稲田草庵でした。
当時(鎌倉時代初期)、東国では山伏などの修行念仏僧などによる布教が各地で行われていました。
また当時、仏教の経典などはこのあたりでは「鹿島神宮」に多くが集まっていました。
このため、稲田から鹿島神宮などには頻繁に通っていたのです。
稲田から鹿島神宮に行くには、板敷峠を越えて府中(石岡)を通り、高浜から舟に乗っていくのが最短ルートです。
もちろん陸路(霞ケ浦の北岸など)も通っていました。
親鸞はまた村々の辻などでも教えを伝えていて、徐々にその教えに信者が増えていきました。
そして親鸞の評判がいろいろなところで聞かれるようになったのです。
これが面白くなかったのは、今までこの地で布教活動や講を行って、信者を獲得していた山伏たちです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、いつもの通り道である板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて、親鸞を呪い殺そうとします。
またもしこの道を親鸞が通ったら襲って殺そうと待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけましたのです。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。
東国における親鸞の弟子は24人で、二十四輩と言われており、弁円はその中の「明法房」です。
親鸞の弟子になった弁円(明法房)は親鸞について歩き、布教の手伝いや、各地をで自ら親鸞の教えを広めるために活動しました。
そしてしばらくたったある日、弁円は親鸞聖人と板敷峠を越えて現在の大覚寺のあるところへ降りてきたのです。
久し振りに板敷峠を通った弁円は、かつてここで親鸞を襲おうと待っていたことを思いだし、ハラハラと涙をこぼしたといわれています。
そして詠んだ歌が、
歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」
です。
この地に「「山伏弁円懺悔の地」と彫られた石碑にこの歌が彫られています。
この場所は昔の板敷峠越えの道のため、現在は通る人も少なく、草が生い茂ったりしていますが、石岡では忘れてほしくない場所です。

また、稲田の草庵と言われたところには「西念寺」という寺が残されておりますが、この寺にも弁円の歌が書かれた碑があります。
そこには、弁円詠歌 として
「あだとなりし弓矢も今は投げ捨てて 西に入るさの山の端の月」
「山もやま道も昔に変らねど 変わりはてたるわがこころかな」
の2つの歌が載っています。

また板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
そして小島草庵(下妻市)をへて、稲田草庵(現笠間市稲田 西念寺)で、常陸国各地の布教や、親鸞自らの経典『教行信証』をまとめたといわれています。
1214年から1235年頃までの約20年間、常陸国に暮らしたとされていますが、その多くがこの稲田草庵でした。
当時(鎌倉時代初期)、東国では山伏などの修行念仏僧などによる布教が各地で行われていました。
また当時、仏教の経典などはこのあたりでは「鹿島神宮」に多くが集まっていました。
このため、稲田から鹿島神宮などには頻繁に通っていたのです。
稲田から鹿島神宮に行くには、板敷峠を越えて府中(石岡)を通り、高浜から舟に乗っていくのが最短ルートです。
もちろん陸路(霞ケ浦の北岸など)も通っていました。
親鸞はまた村々の辻などでも教えを伝えていて、徐々にその教えに信者が増えていきました。
そして親鸞の評判がいろいろなところで聞かれるようになったのです。
これが面白くなかったのは、今までこの地で布教活動や講を行って、信者を獲得していた山伏たちです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、いつもの通り道である板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて、親鸞を呪い殺そうとします。
またもしこの道を親鸞が通ったら襲って殺そうと待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけましたのです。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。
東国における親鸞の弟子は24人で、二十四輩と言われており、弁円はその中の「明法房」です。
親鸞の弟子になった弁円(明法房)は親鸞について歩き、布教の手伝いや、各地をで自ら親鸞の教えを広めるために活動しました。
そしてしばらくたったある日、弁円は親鸞聖人と板敷峠を越えて現在の大覚寺のあるところへ降りてきたのです。
久し振りに板敷峠を通った弁円は、かつてここで親鸞を襲おうと待っていたことを思いだし、ハラハラと涙をこぼしたといわれています。
そして詠んだ歌が、
歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」
です。
この地に「「山伏弁円懺悔の地」と彫られた石碑にこの歌が彫られています。
この場所は昔の板敷峠越えの道のため、現在は通る人も少なく、草が生い茂ったりしていますが、石岡では忘れてほしくない場所です。

また、稲田の草庵と言われたところには「西念寺」という寺が残されておりますが、この寺にも弁円の歌が書かれた碑があります。
そこには、弁円詠歌 として
「あだとなりし弓矢も今は投げ捨てて 西に入るさの山の端の月」
「山もやま道も昔に変らねど 変わりはてたるわがこころかな」
の2つの歌が載っています。

また板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
三昧塚には、北風に吹かれて昨年の重文指定の旗はためく。
昨日今日の土日は冬でもかなり暖かく風も穏やかだ。
しかし金曜は北風がかなり強く吹いていた。
国道355号線(笠間から香取)を石岡から東へ。
先日NHKの水戸放送局で355号線の紹介をしていたが、何か物足りなかった。
どうも私と今のNHKの若い記者では歴史の認識がかなりずれていることを感じてしまった。
霞ケ浦が昔、江戸と結ぶ重要な船の航路があったことに思いが至らないことがその主なずれとなっていた。
まあしょうがないけど、こうして少しずつ書いていることも何かに役立つこともあるんじゃないかなどという気がしている。
街道沿いのこの三昧塚古墳などとても目立つので何も気にならないのかな?
北風が強く、古墳のところに立てられていた旗がかなり激しく揺れていた。

「平成30年国指定重要文化財指定」と書かれている。
これはこの古墳で発見された「金銅馬形飾付透彫冠等」が国の重要文化財に指定されたことを示す旗だ。
馬に乗ってこの冠を被ると、冠のまわりにつけられた馬の飾りが動くたびに揺れるという騎馬民族特有の冠だ。
とても気になるものだがあまり知られていない。
現在水戸の歴史館で保管されている。
展示もされているが、それはレプリカだという。

古墳の上にのぼってみた。
上に置かれている石板には、古墳で発掘された石棺や人骨の方位などがわかる図形が描かれている。

遠く筑波山が良く見える。

霞ケ浦までの距離も近く、この日は湖面に白波が立っていた。
「ああ、波乗りうさぎがいる・・・・」
何かそんな風に見えた。
しかし金曜は北風がかなり強く吹いていた。
国道355号線(笠間から香取)を石岡から東へ。
先日NHKの水戸放送局で355号線の紹介をしていたが、何か物足りなかった。
どうも私と今のNHKの若い記者では歴史の認識がかなりずれていることを感じてしまった。
霞ケ浦が昔、江戸と結ぶ重要な船の航路があったことに思いが至らないことがその主なずれとなっていた。
まあしょうがないけど、こうして少しずつ書いていることも何かに役立つこともあるんじゃないかなどという気がしている。
街道沿いのこの三昧塚古墳などとても目立つので何も気にならないのかな?
北風が強く、古墳のところに立てられていた旗がかなり激しく揺れていた。

「平成30年国指定重要文化財指定」と書かれている。
これはこの古墳で発見された「金銅馬形飾付透彫冠等」が国の重要文化財に指定されたことを示す旗だ。
馬に乗ってこの冠を被ると、冠のまわりにつけられた馬の飾りが動くたびに揺れるという騎馬民族特有の冠だ。
とても気になるものだがあまり知られていない。
現在水戸の歴史館で保管されている。
展示もされているが、それはレプリカだという。

古墳の上にのぼってみた。
上に置かれている石板には、古墳で発掘された石棺や人骨の方位などがわかる図形が描かれている。

遠く筑波山が良く見える。

霞ケ浦までの距離も近く、この日は湖面に白波が立っていた。
「ああ、波乗りうさぎがいる・・・・」
何かそんな風に見えた。
霞ケ浦に波高く・・・・
霞ケ浦近くに住む人にとっては当たり前なのだろうが、どうも霞ケ浦は湖で、水門もあってあまり波立つことを想像しづらい。
金曜日のことですが、北風が強く吹いて遠くから湖面に波立つのが気になって湖へ・・・
立ち寄ったのは麻生の天王崎(公園)。 ここはむかし風土記に書かれている「新治の洲」と言われた場所と推定されています。
霞ケ浦に飛び出した岬で、新治や筑波山が遠くに見える絶景ポイントでもあります。

湖面は激しく波立って、湖岸の壁に激しく打ち付けます。 遠くに筑波山が見えています。
やはり白波は江戸時代の文様「波乗りうさぎ」を思い出します。
この「波乗りうさぎは」神社などの灯篭などによく描かれていますね。
海の航海で波が逆巻いていて、月の輝る夜など、ウサギが波乗りしているような感覚になったのではないかなどと昔を想像している。
神社では海上安全のお守なのだろうと勝手に思っている。

そして近づくと水しぶきがとんできて、カメラも濡れてしまいます。

天王崎からそのまま湖岸の道路を麻生港へ。
麻生港ではだいぶ波は静かになっていました。
そして手前の波のない湖面にはたくさんの鴨がいます。

そしてその先の潮来、香取側は高い波はほとんどありません。
午前中でしたので東側に太陽がまぶしく、湖面が光っています。
光る水、光る海などとよく言われますね。
金曜日のことですが、北風が強く吹いて遠くから湖面に波立つのが気になって湖へ・・・
立ち寄ったのは麻生の天王崎(公園)。 ここはむかし風土記に書かれている「新治の洲」と言われた場所と推定されています。
霞ケ浦に飛び出した岬で、新治や筑波山が遠くに見える絶景ポイントでもあります。

湖面は激しく波立って、湖岸の壁に激しく打ち付けます。 遠くに筑波山が見えています。
やはり白波は江戸時代の文様「波乗りうさぎ」を思い出します。
この「波乗りうさぎは」神社などの灯篭などによく描かれていますね。
海の航海で波が逆巻いていて、月の輝る夜など、ウサギが波乗りしているような感覚になったのではないかなどと昔を想像している。
神社では海上安全のお守なのだろうと勝手に思っている。

そして近づくと水しぶきがとんできて、カメラも濡れてしまいます。

天王崎からそのまま湖岸の道路を麻生港へ。
麻生港ではだいぶ波は静かになっていました。
そして手前の波のない湖面にはたくさんの鴨がいます。

そしてその先の潮来、香取側は高い波はほとんどありません。
午前中でしたので東側に太陽がまぶしく、湖面が光っています。
光る水、光る海などとよく言われますね。
天王崎にまた立ち寄って・・・

天王崎から新治、筑波を眺める。

肉眼でも筑波山がよく見える。

そして対岸は浮島地区の和田岬。
和田公園はチューリップで有名になっている。
昔ここを渡ったのか?
麻生の馬は浮島を通って、どのようにして下総の地に連れてきたのだろうか?
この距離をどのようにして渡したのだろうか?
浮島(稲敷市)には「馬渡(まわたし)」という地名もある。

この天王崎は霞ヶ浦に飛び出しているので、潮来や銚子側も見えるが、こちらには山が無いのでわからない。
ただ、この天王崎の名前も「牛頭天王」から来ているはず。
ここにある八坂神社も昔は天王社と呼ばれていたはずだ。
景行天皇が印波の鳥見の丘に上って眺めた「香澄の郷」はこのあたりだといわれる。
霞ヶ浦も昭和40年頃までは泳げたという。
この天王崎にも海水浴場や砂浜があって、海に滑り台まで設置されていた。
現在砂浜の復活もかなり進み、水遊びくらいは夏場にはできるようになった。
泳げる日もそう遠くないのかもしれない。
しかし水質はまだまだ泳ぐには汚すぎる。
この日は一週間前の風の強い日と違って比較的穏やかであったが、やはり少し波立っていた。
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