我が家にも春が・・・
手入れをしていないささやかな我が家の庭にもどうやらやっと春が来たようです。
街中を散策すればあちこちで梅の花が咲き、桜が咲くのもそう先ではなさそうです。

さてこの花は何の花かわかりますか?

アップすると結構きれいに見えますね。
馬酔木(アシビ)の花です。
可愛いですよね。
先日から咲き始めました。
昨日は気温も春で、今日は逆に天気も曇って寒くなりました。
我が家では馬酔木の木の上に、梅の花がやっと咲きだしました。


春が来たと感じるのはこんな花に囲まれた時でしょうか。
五輪真弓の「少女」 に
♪ 暖かい陽の当たる 真冬の縁側に
少女はひとりで ぼんやりと坐ってた
確か、五輪真弓のデビュー曲だったか? (こちらで聞けます)
街中を散策すればあちこちで梅の花が咲き、桜が咲くのもそう先ではなさそうです。

さてこの花は何の花かわかりますか?

アップすると結構きれいに見えますね。
馬酔木(アシビ)の花です。
可愛いですよね。
先日から咲き始めました。
昨日は気温も春で、今日は逆に天気も曇って寒くなりました。
我が家では馬酔木の木の上に、梅の花がやっと咲きだしました。


春が来たと感じるのはこんな花に囲まれた時でしょうか。
五輪真弓の「少女」 に
♪ 暖かい陽の当たる 真冬の縁側に
少女はひとりで ぼんやりと坐ってた
確か、五輪真弓のデビュー曲だったか? (こちらで聞けます)
冬の雨の日はどこか寂しげだ
先週木曜日に続いて昨日月曜日も銚子に行った。
昨日は朝方から一日雨の降る憂鬱な日だった。
神栖の片側3車線の真ん中を走っていたら両側の車線を大きなトラックがかなりのスピードで走ってきた。
6本もある大きなタイヤから水しぶきをかけられ、一瞬だが前が見えなくなった。
トラックも運転席は高いからあまりとなりの乗用車などは気にしないのだろうが、もう少しスピードを落としてくれと言いたい。
片側だけならまだしも両側に挟まれるとやはり怖いと思う。
雨の日の運転はやはり気分も憂鬱だ。

銚子港も船だまりはどんよりとしてカモメもどうしているのか・・・・

渡ってきた銚子大橋をながめた。
銚子の財政は火の車らしいが、この先どうなるのか。
市立病院もあるが、千葉科学大学(加計学園)も重荷のようだ。
地域復興というのも難しい。
4日の日曜日に、わが「ふるさと風の会」の白井主査の病院へ見舞いに行ってきた。
2月初めに入院して1か月近くになるが、抗がん剤や放射線治療に大分難儀をしていたらしく心配していた。
お会いして少しやせられたが比較的元気で一安心。
友部の県立病院に入院されているが、インフルエンザの流行で1月半ばから外部の人との面会が禁止となっていた。
しかしこれが3月から禁止が解除されたと聞いていってきた。
やはり入院も少し長くなるかもしれないが、3月号の原稿もいただいたし、会報の原稿は入院中もまだ続けられるだろう。
病状などは3月号に書いておられるので、ご心配の方はそちらを読んでいただきたい。
今週末の3月9日(土)に印刷をし手配布し、またふるさと風の会のHPにも載せます。
昨日は朝方から一日雨の降る憂鬱な日だった。
神栖の片側3車線の真ん中を走っていたら両側の車線を大きなトラックがかなりのスピードで走ってきた。
6本もある大きなタイヤから水しぶきをかけられ、一瞬だが前が見えなくなった。
トラックも運転席は高いからあまりとなりの乗用車などは気にしないのだろうが、もう少しスピードを落としてくれと言いたい。
片側だけならまだしも両側に挟まれるとやはり怖いと思う。
雨の日の運転はやはり気分も憂鬱だ。

銚子港も船だまりはどんよりとしてカモメもどうしているのか・・・・

渡ってきた銚子大橋をながめた。
銚子の財政は火の車らしいが、この先どうなるのか。
市立病院もあるが、千葉科学大学(加計学園)も重荷のようだ。
地域復興というのも難しい。
4日の日曜日に、わが「ふるさと風の会」の白井主査の病院へ見舞いに行ってきた。
2月初めに入院して1か月近くになるが、抗がん剤や放射線治療に大分難儀をしていたらしく心配していた。
お会いして少しやせられたが比較的元気で一安心。
友部の県立病院に入院されているが、インフルエンザの流行で1月半ばから外部の人との面会が禁止となっていた。
しかしこれが3月から禁止が解除されたと聞いていってきた。
やはり入院も少し長くなるかもしれないが、3月号の原稿もいただいたし、会報の原稿は入院中もまだ続けられるだろう。
病状などは3月号に書いておられるので、ご心配の方はそちらを読んでいただきたい。
今週末の3月9日(土)に印刷をし手配布し、またふるさと風の会のHPにも載せます。
重盛の墓
茨城県城里町にある「小松寺」の裏山には、平重盛(清盛の長男)といわれる墓があります。

寺の本堂と観音堂とをつなぐ渡り廊下の下をくぐって裏山に向かいます。
裏山には急な石段があり、山の中腹まで100段ほど登ります。
途中の中段に幾つか石塔などがありますが、更に上に昇ると木の柵があります。

その柵から中に入ることが禁止され、その上に3つの墓標があります。

一番右に少し高くなった場所にある宝篋印塔が重盛の墓といいます。
また少し低くなった上の写真の真中が重盛夫人の得律禅尼の墓(五輪搭)で、その左に平貞能(さだよし)の五輪搭がある?
しかし見えるのは頭が丸くなった一般では、お寺の住職が使う墓石です。

重盛の墓という宝篋印塔も苔むして・・・

そしてその左側の少し下にあるのが、右の五輪搭が重盛夫人の墓。この寺にかくまわれ、少し北に相応院という尼寺を建て、尼として過ごした・・・・。
そして承久元年(1219)九月十一日に69歳で亡くなったとされています。
この重盛婦人は貞能の姉であったとも言われています。
また平貞能も建久九年(1198)二月十三日に89歳で亡くなってここに葬られたとされています。
ただこの貞能(さだよし)の墓(五輪搭?)が草に覆われて見えないのか、それともこの左の(頭の丸い)墓標(無縫塔)をさすのかは定かではありません。
この寺の2世といわれる大掾義幹の息子の墓ではないかとも考えられます。

山の中腹から下を見下ろすとこんな感じです。
本堂が右にあり、左には立派な観音堂があります。
重盛の持念仏とされる小さな額に彫られた如意輪観音像が安置されているそうです。
ここにあるいきさつについては真偽も含めてはっきりしませんが、概ね以下のように言われています。
平貞能(さだよし)は、平清盛にもっとも信頼された腹心の家来でした。1167年に清盛が家督を長男の重盛に譲ると、この重盛につき、重盛の次男の平資盛(すけもり)の補佐役となり、九州などに出向き、平家の勢力拡大に奔走します。
しかし、1179年に42歳という若さで重盛が他界してしまい、1180年には源平合戦(治承・寿永の乱)が始まり、1181年に清盛が死去すると家督は清盛の三男・平宗盛が継ぐことになりました。
源氏に対して劣勢となった平家の宗盛は1183年に都を捨てて九州へ撤退することを決めます。
しかし、九州の情勢に詳しい貞能はこの九州行きには従わず都での決戦を主張します。
しかし、九州行きが決定すると、単独でも関東へ落ち延びることを決めました。
そして貞能は、一門が都を捨てた後、源氏に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こし、その遺骨を髙野山に分骨し、辺りの土を川へ流して、残りの骨を持ち重盛夫人を伴って関東へ逃げたといわれています。
そして関東では清盛たちの本家である常陸大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)を頼ったのです。
この大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)はつくば市北条にある多気太郎といわれている人物です。
多気(大掾)氏はこのあと、鎌倉時代になると小田氏の換言により鎌倉に呼び出されて、お家没収となりました。
石岡の大掾氏はこの後、多気大掾氏の支族で水戸にいた吉田氏が継いで国府のあった石岡に住むようになったものです。
さて、多気大掾・義幹は、この地(茨城郡金伊野村白雲山)を貞能に譲り、重盛の遺骨を山中に埋めてここに寺を建立したのです。
そしてその後、義幹の二男をこの寺の僧(2世)とし、重盛の霊をとむらったとされています。
いろいろこの頃の話は伝説として語られ、各地に平家の落人伝説が残されています。
この話もそんな一つと捉えるのも勝手ですが、真実味もおびた話しだと思います。
『 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ
・・・・・・・・・』
平家物語の冒頭文は本当に名文ですね。
重盛が生きていればもう少し情勢は変わっていたかもしれません。
小松寺は小松殿と呼ばれた清盛の嫡男・平重盛をまつる寺です。

寺の本堂と観音堂とをつなぐ渡り廊下の下をくぐって裏山に向かいます。
裏山には急な石段があり、山の中腹まで100段ほど登ります。
途中の中段に幾つか石塔などがありますが、更に上に昇ると木の柵があります。

その柵から中に入ることが禁止され、その上に3つの墓標があります。

一番右に少し高くなった場所にある宝篋印塔が重盛の墓といいます。
また少し低くなった上の写真の真中が重盛夫人の得律禅尼の墓(五輪搭)で、その左に平貞能(さだよし)の五輪搭がある?
しかし見えるのは頭が丸くなった一般では、お寺の住職が使う墓石です。

重盛の墓という宝篋印塔も苔むして・・・

そしてその左側の少し下にあるのが、右の五輪搭が重盛夫人の墓。この寺にかくまわれ、少し北に相応院という尼寺を建て、尼として過ごした・・・・。
そして承久元年(1219)九月十一日に69歳で亡くなったとされています。
この重盛婦人は貞能の姉であったとも言われています。
また平貞能も建久九年(1198)二月十三日に89歳で亡くなってここに葬られたとされています。
ただこの貞能(さだよし)の墓(五輪搭?)が草に覆われて見えないのか、それともこの左の(頭の丸い)墓標(無縫塔)をさすのかは定かではありません。
この寺の2世といわれる大掾義幹の息子の墓ではないかとも考えられます。

山の中腹から下を見下ろすとこんな感じです。
本堂が右にあり、左には立派な観音堂があります。
重盛の持念仏とされる小さな額に彫られた如意輪観音像が安置されているそうです。
ここにあるいきさつについては真偽も含めてはっきりしませんが、概ね以下のように言われています。
平貞能(さだよし)は、平清盛にもっとも信頼された腹心の家来でした。1167年に清盛が家督を長男の重盛に譲ると、この重盛につき、重盛の次男の平資盛(すけもり)の補佐役となり、九州などに出向き、平家の勢力拡大に奔走します。
しかし、1179年に42歳という若さで重盛が他界してしまい、1180年には源平合戦(治承・寿永の乱)が始まり、1181年に清盛が死去すると家督は清盛の三男・平宗盛が継ぐことになりました。
源氏に対して劣勢となった平家の宗盛は1183年に都を捨てて九州へ撤退することを決めます。
しかし、九州の情勢に詳しい貞能はこの九州行きには従わず都での決戦を主張します。
しかし、九州行きが決定すると、単独でも関東へ落ち延びることを決めました。
そして貞能は、一門が都を捨てた後、源氏に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こし、その遺骨を髙野山に分骨し、辺りの土を川へ流して、残りの骨を持ち重盛夫人を伴って関東へ逃げたといわれています。
そして関東では清盛たちの本家である常陸大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)を頼ったのです。
この大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)はつくば市北条にある多気太郎といわれている人物です。
多気(大掾)氏はこのあと、鎌倉時代になると小田氏の換言により鎌倉に呼び出されて、お家没収となりました。
石岡の大掾氏はこの後、多気大掾氏の支族で水戸にいた吉田氏が継いで国府のあった石岡に住むようになったものです。
さて、多気大掾・義幹は、この地(茨城郡金伊野村白雲山)を貞能に譲り、重盛の遺骨を山中に埋めてここに寺を建立したのです。
そしてその後、義幹の二男をこの寺の僧(2世)とし、重盛の霊をとむらったとされています。
いろいろこの頃の話は伝説として語られ、各地に平家の落人伝説が残されています。
この話もそんな一つと捉えるのも勝手ですが、真実味もおびた話しだと思います。
『 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ
・・・・・・・・・』
平家物語の冒頭文は本当に名文ですね。
重盛が生きていればもう少し情勢は変わっていたかもしれません。
小松寺は小松殿と呼ばれた清盛の嫡男・平重盛をまつる寺です。
重盛の念持仏
平重盛の墓がある城里町の小松寺。
そこにこの重盛の念持仏といわれる如意輪観音像があります。
一般に念持仏というと身近なところに置いて日常的に拝んだり、持って歩ける程度の小型の仏像ですが、この像は白檀を使った檀像です。
白檀(びゃくだん)はインドや中国・唐などでは香木として珍重され、彫刻に多く用いられましたが、日本には自生木がなく、ヒノキやカヤなどが使われました。

小松寺の本堂は8年前の東日本大震災の時に破損が多くあり、浄財を募って建て替えがされていました。
今年はこの境内のしだれ桜もきっときれいに映えるでしょう。
この桜は本当に見事です。
この桜の下に「元禄6年(1693)に67歳の水戸光圀がお手植した桜跡」(現在石塔が置かれています)もあります。

そしてその隣にあるのが立派な観音堂(茨城県文化財)です。
この観音堂は1194年の鎌倉時代初期に白雲山頂に建立されたといわれ、それを水戸光圀が現在地に移したものと言われています。
屋根は元は杮(こけら)葺きでしたが、銅板葺きに改築されています。
内陣の来迎柱には登り龍が彫刻されており、壁画には唐獅子、天井絵は草花が描かれているそうです。
この観音堂の本尊は像高2.27mの平安時代後期のノミ跡が残る(蛇彫り)一木造りの十一面観音立像で、城里町文化財となっています。

(十一面観音立像 城里町教育委員会HPより)


(縦8.5cm,横7.8cm,厚さ1.3cm )
この浮彫如意輪観音像(国の重文)は、白檀(びゃくだん)の木に観音像を浮彫にしたもので、表面に漆のようなものが塗られています。
制作年代については、平安時代後期説と中国唐時代の遺品とする説があるようですが、製作技法や白檀の自然木が日本になかったことなどからも中国晩唐時代(9世紀末頃)の作で、日宋貿易などによる渡来品との味方が強まっています。
裏面に貞享4年(1687)の徳川光圀と陰刻した修理銘があるそうです。
光圀は中国からの僧との交流もあり、この頃に日本にもたらされたのかもしれません。
数珠を持つ指先などが失われておりますが、平重盛の念持仏というのにもふさわしい風格を持っています。
寺では秘仏ですが、毎年1月1日にご開帳されているそうです。
そこにこの重盛の念持仏といわれる如意輪観音像があります。
一般に念持仏というと身近なところに置いて日常的に拝んだり、持って歩ける程度の小型の仏像ですが、この像は白檀を使った檀像です。
白檀(びゃくだん)はインドや中国・唐などでは香木として珍重され、彫刻に多く用いられましたが、日本には自生木がなく、ヒノキやカヤなどが使われました。

小松寺の本堂は8年前の東日本大震災の時に破損が多くあり、浄財を募って建て替えがされていました。
今年はこの境内のしだれ桜もきっときれいに映えるでしょう。
この桜は本当に見事です。
この桜の下に「元禄6年(1693)に67歳の水戸光圀がお手植した桜跡」(現在石塔が置かれています)もあります。

そしてその隣にあるのが立派な観音堂(茨城県文化財)です。
この観音堂は1194年の鎌倉時代初期に白雲山頂に建立されたといわれ、それを水戸光圀が現在地に移したものと言われています。
屋根は元は杮(こけら)葺きでしたが、銅板葺きに改築されています。
内陣の来迎柱には登り龍が彫刻されており、壁画には唐獅子、天井絵は草花が描かれているそうです。
この観音堂の本尊は像高2.27mの平安時代後期のノミ跡が残る(蛇彫り)一木造りの十一面観音立像で、城里町文化財となっています。

(十一面観音立像 城里町教育委員会HPより)


(縦8.5cm,横7.8cm,厚さ1.3cm )
この浮彫如意輪観音像(国の重文)は、白檀(びゃくだん)の木に観音像を浮彫にしたもので、表面に漆のようなものが塗られています。
制作年代については、平安時代後期説と中国唐時代の遺品とする説があるようですが、製作技法や白檀の自然木が日本になかったことなどからも中国晩唐時代(9世紀末頃)の作で、日宋貿易などによる渡来品との味方が強まっています。
裏面に貞享4年(1687)の徳川光圀と陰刻した修理銘があるそうです。
光圀は中国からの僧との交流もあり、この頃に日本にもたらされたのかもしれません。
数珠を持つ指先などが失われておりますが、平重盛の念持仏というのにもふさわしい風格を持っています。
寺では秘仏ですが、毎年1月1日にご開帳されているそうです。
強風にも海鳥は元気
昨日は大震災から8年目ということでテレビではいろいろな特集が組まれていた。
銚子に行く予定が早まり急遽昨日出かけることになったが、朝はかなり風雨が強く、予報では銚子あたりは一日風雨が強い予報が出ていた。
お昼少し前に銚子に着いたが、すでに雨は止み、青空が沖合から迫ってきていた。

港ではまだ風が強かったが、先日の雨の時と違って、カモメもその強風と戯れるように飛んでいた。
向こう側に見えるのは茨城県側で銚子大橋と波崎の街。
銚子も波崎も昔からイワシ漁などが盛んだとか。

波崎側にも風車が見えます。
鹿島灘側には海岸に沿ってたくさん並んでいます。
つまつまと
ぱんに鰯(いわし)を そへてくふ
伯林(べるりん)の冬に あが なじみ けり
竹久夢二は晩年の昭和六年からアメリカへわたり、昭和八年正月にベルリンへわたり半年ほどいた。
これは3月に読んだもの。ヒットラーが台頭し始めようとしていた時期だ。
また、このあたりのイワシが懐かしかったのでしょう。
波崎の公演に夢二の歌碑が置かれている。
(前の記事: こちら 参照)

こちらはウミウでしょうか。 いつもは、あまり見かけない気もしますが・・・。
銚子に行く予定が早まり急遽昨日出かけることになったが、朝はかなり風雨が強く、予報では銚子あたりは一日風雨が強い予報が出ていた。
お昼少し前に銚子に着いたが、すでに雨は止み、青空が沖合から迫ってきていた。

港ではまだ風が強かったが、先日の雨の時と違って、カモメもその強風と戯れるように飛んでいた。
向こう側に見えるのは茨城県側で銚子大橋と波崎の街。
銚子も波崎も昔からイワシ漁などが盛んだとか。

波崎側にも風車が見えます。
鹿島灘側には海岸に沿ってたくさん並んでいます。
つまつまと
ぱんに鰯(いわし)を そへてくふ
伯林(べるりん)の冬に あが なじみ けり
竹久夢二は晩年の昭和六年からアメリカへわたり、昭和八年正月にベルリンへわたり半年ほどいた。
これは3月に読んだもの。ヒットラーが台頭し始めようとしていた時期だ。
また、このあたりのイワシが懐かしかったのでしょう。
波崎の公演に夢二の歌碑が置かれている。
(前の記事: こちら 参照)

こちらはウミウでしょうか。 いつもは、あまり見かけない気もしますが・・・。
民話語り(こんこんギャラリー)
今日は八郷地区の「こんこんギャラリー」で行われた 高橋協子さん(狐)と伏見伏見香央里さん(龍)の陶二人展と同時に行われた、ことぶきゆめこさんの民話語りに行ってきました。

民話語りは、陶芸にも合わせた河童・鬼・龍といった茨城地方(一部新潟)のお話が中心でした。

いつもかわらぬことぶきゆめこさんの軽妙な話術にすっかりはまってしまいました。

河童の話は「やはりいると信じた方がいいのかも・・・」と思えてきます。
銚子にあるカッパハウスも休みの日には開くようになったというので、今度機会があれば立ち寄ってみようと思います。

協子さんの狐もおどっています。

昨年に続いて今年も楽しいお話ありがとうございました。

高橋さん このキツネの絵皿も気に入っています。ありがとうございました。
ちょっとおつまみでも入れて楽しむのもいいですね。


民話語りは、陶芸にも合わせた河童・鬼・龍といった茨城地方(一部新潟)のお話が中心でした。

いつもかわらぬことぶきゆめこさんの軽妙な話術にすっかりはまってしまいました。

河童の話は「やはりいると信じた方がいいのかも・・・」と思えてきます。
銚子にあるカッパハウスも休みの日には開くようになったというので、今度機会があれば立ち寄ってみようと思います。

協子さんの狐もおどっています。

昨年に続いて今年も楽しいお話ありがとうございました。

高橋さん このキツネの絵皿も気に入っています。ありがとうございました。
ちょっとおつまみでも入れて楽しむのもいいですね。

梅花散りて、春も色鮮やかに・・・
今日は春分の日。朝から雨も降るどんよりとした日になりました。
家を出るとき、庭の梅の花が風に舞ってひらひらと舞い落ち、地面は白く変わっていました。
早咲きの桜の花はもう大分あちこちで咲いています。
「暑さ寒さも彼岸まで」などといわれますが、今年はあまり寒い日が少なくこの言葉も少し軽く感じられます。
でも春はいいですね。心があたたかくなります。

黄スイセンもすっかり春爛漫といったところで、目に飛び込んできます。
何故こんな色をしているのでしょうか?
これも生きるため?

ではこちらの白い純白のスイセンは?
植物学的に考えずに文学的に捉えるのも大切なのかとも思います。

こちらのシクラメンですが、昨年の3月始め頃に、たくさん花を咲かせていた鉢植えの花を、今の事務所もって来たものです。
花が枯れ、葉も枯れて落ちていきましたが、それでもまだ緑の葉の部分が残っていたりしたので、時々水をあげていました。
冬場になると葉の緑が復活して、葉だけでも楽しめると思ってあまり水を絶やさぬように、またやり過ぎないように注意していたら、3月始め頃から花が咲き始めました。
鉢植えのまま2年目を迎えたシクラメンです。

殺風景な事務所が明るくなりました。
最近ブログの更新が途絶えています。
確定申告を2件。15日までに終わらせて、知り合いに頼まれて、比較的小さな会社の経理事務を少し手伝うことにしました。
はじめたばかりですが、この年になっていろいろ学ぶものも多いですね。
またハローワークへはじめていってみました。これも経験しないと分からないものですね。
次の人が見つかるまでの1年~1年半位といわれていますが、割と時間も自由が利きそうですので少し続けてみたいと思います。
でもやりがいのあまり感じられない仕事を自給で割り切るというのでは続かないでしょうね。
何か合理化出来ないかを工夫してみたいものです。
家を出るとき、庭の梅の花が風に舞ってひらひらと舞い落ち、地面は白く変わっていました。
早咲きの桜の花はもう大分あちこちで咲いています。
「暑さ寒さも彼岸まで」などといわれますが、今年はあまり寒い日が少なくこの言葉も少し軽く感じられます。
でも春はいいですね。心があたたかくなります。

黄スイセンもすっかり春爛漫といったところで、目に飛び込んできます。
何故こんな色をしているのでしょうか?
これも生きるため?

ではこちらの白い純白のスイセンは?
植物学的に考えずに文学的に捉えるのも大切なのかとも思います。

こちらのシクラメンですが、昨年の3月始め頃に、たくさん花を咲かせていた鉢植えの花を、今の事務所もって来たものです。
花が枯れ、葉も枯れて落ちていきましたが、それでもまだ緑の葉の部分が残っていたりしたので、時々水をあげていました。
冬場になると葉の緑が復活して、葉だけでも楽しめると思ってあまり水を絶やさぬように、またやり過ぎないように注意していたら、3月始め頃から花が咲き始めました。
鉢植えのまま2年目を迎えたシクラメンです。

殺風景な事務所が明るくなりました。
最近ブログの更新が途絶えています。
確定申告を2件。15日までに終わらせて、知り合いに頼まれて、比較的小さな会社の経理事務を少し手伝うことにしました。
はじめたばかりですが、この年になっていろいろ学ぶものも多いですね。
またハローワークへはじめていってみました。これも経験しないと分からないものですね。
次の人が見つかるまでの1年~1年半位といわれていますが、割と時間も自由が利きそうですので少し続けてみたいと思います。
でもやりがいのあまり感じられない仕事を自給で割り切るというのでは続かないでしょうね。
何か合理化出来ないかを工夫してみたいものです。
茨城の民話Webアーカイブ
このたび「茨城の民話Webアーカイブ」サイトが登録されました。
⇒ こちら

検索サイトは ⇒ こちらをクリック
この中に私が書いた本「石岡地方のふるさと昔話」「茨城のちょっと面白い話」の2冊の本に収録した話が全て載っています。
「未来のこどもたちに語り継ぎたい、いにしえの物語。
このホームページは、茨城県に伝わる数々の民話を集めたアーカイブサイトです。」
とあるように茨城地方に伝わる昔話をアーカイブとして蓄え、これを公表して皆さんに活用していただくというのが狙いです。
ただ、現在許可を得られたもののみということですが、現在282件の話が載っています。
今年度の目標200件を大きく上回りました。
取りまとめをされた小松崎様のご苦労に感謝いたします。
興味がございましたら是非ご覧ください。
⇒ こちら

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この中に私が書いた本「石岡地方のふるさと昔話」「茨城のちょっと面白い話」の2冊の本に収録した話が全て載っています。
「未来のこどもたちに語り継ぎたい、いにしえの物語。
このホームページは、茨城県に伝わる数々の民話を集めたアーカイブサイトです。」
とあるように茨城地方に伝わる昔話をアーカイブとして蓄え、これを公表して皆さんに活用していただくというのが狙いです。
ただ、現在許可を得られたもののみということですが、現在282件の話が載っています。
今年度の目標200件を大きく上回りました。
取りまとめをされた小松崎様のご苦労に感謝いたします。
興味がございましたら是非ご覧ください。
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