潮来長勝寺の桜
今日は暖かくなった。暑いくらいだ。
銚子に行く途中で潮来の古刹長勝寺に桜を見に立ち寄った。
この寺は源頼朝ゆかりの寺と言われている。

山門は江戸初期に別な寺の門を移したものだが、やはりこの寺にマッチしている。

立派な方丈(本堂)はいつみてもどっしりと構えていて素晴らしい。

ここの桜は後から並木として植えられたものだが、今ではすっかりなじんでいていつも桜の時期には来てみたくなる。
でも今年の桜は少しおかしいようだ。
桜の美しさが足りない気がする。 咲方が少しまばらなのだろう。
それとも満開がこれからなので少し早いのかも知れない。

銚子に行く途中で潮来の古刹長勝寺に桜を見に立ち寄った。
この寺は源頼朝ゆかりの寺と言われている。

山門は江戸初期に別な寺の門を移したものだが、やはりこの寺にマッチしている。

立派な方丈(本堂)はいつみてもどっしりと構えていて素晴らしい。

ここの桜は後から並木として植えられたものだが、今ではすっかりなじんでいていつも桜の時期には来てみたくなる。
でも今年の桜は少しおかしいようだ。
桜の美しさが足りない気がする。 咲方が少しまばらなのだろう。
それとも満開がこれからなので少し早いのかも知れない。

稲荷山の桜と潮来の街
潮来の街の裏山に稲荷神社があり、稲荷山と呼ばれています。
町からは階段を上り神社に出ますが、国道51号線がこの山の上を通るので、国道からはそのまま山の上から入れます。

お稲荷さんの赤い旗が上り階段両脇にたくさんはためいていました。
そしてその先の桜の花の向こうに潮来の街が見渡せます。

国道側からの神社入り口にも鳥居と少しの参道がありますが、神社の本殿は町の方を向いていますので、本殿裏にでます。

この稲荷山からは潮来の街とその先の常陸利根川が見渡せます。

潮来の街はどうしても「アヤメ」の時期にしか観光客が訪れず、いろいろ模索しているようですがやはりその他の時期は人も閑散としているようです。

神社の横の高台に「野口雨情と中山晋平」の歌碑が立派な岩に彫り込まれて置かれています。
この碑に書かれているのは「船頭小唄」です。
船頭小唄が野口雨情の作詞なんですね。
調べてみると、野口雨情が民謡「枯れすすき」として詩を書いたものに、中山晋平が曲を付けたというようです。
この碑のすぐ横には「潮来町立女子技芸学校跡」の碑があります。
この山にあった女子技芸学校というのにも興味がわきますね。
この学校も女学校に変わり、その後今の県立潮来高校になったようですよ。

町からは階段を上り神社に出ますが、国道51号線がこの山の上を通るので、国道からはそのまま山の上から入れます。

お稲荷さんの赤い旗が上り階段両脇にたくさんはためいていました。
そしてその先の桜の花の向こうに潮来の街が見渡せます。

国道側からの神社入り口にも鳥居と少しの参道がありますが、神社の本殿は町の方を向いていますので、本殿裏にでます。

この稲荷山からは潮来の街とその先の常陸利根川が見渡せます。

潮来の街はどうしても「アヤメ」の時期にしか観光客が訪れず、いろいろ模索しているようですがやはりその他の時期は人も閑散としているようです。

神社の横の高台に「野口雨情と中山晋平」の歌碑が立派な岩に彫り込まれて置かれています。
この碑に書かれているのは「船頭小唄」です。
船頭小唄が野口雨情の作詞なんですね。
調べてみると、野口雨情が民謡「枯れすすき」として詩を書いたものに、中山晋平が曲を付けたというようです。
この碑のすぐ横には「潮来町立女子技芸学校跡」の碑があります。
この山にあった女子技芸学校というのにも興味がわきますね。
この学校も女学校に変わり、その後今の県立潮来高校になったようですよ。

桜花も一気に満開(1)
今日はふるさと風(会報)の印刷日。
朝早く一部先に準備をして、その後茨城空港へ妻を迎えにいった。
神戸の娘のところへ今週手伝いに出かけていたが、早朝の便で帰ってきた。
石岡から空港まで約30分。
スカイマークの神戸8:00発で茨城到着が9:15ということでギリギリに間に合ったが、飛行機はすでに到着し、乗客はすでに荷物を受け取ってゲートを出てきたところだった。
やはり羽田から伊丹経由よりずっと便利だし、価格もかなり安い。
間際に予約しても却って安い券がある。 ANAなどの正規運賃の半額程度。
新幹線より2~3割も安い。
風の会の会報印刷にその後に参加して、今回は11時ころに終了。
午後から会報を配りに出かけた。
途中桜の花盛りで、少しカメラにおさめてきた。
昨日今日の暖かさで一気に花が開いた感じだ。

柏原池公園の桜もかなり咲いていた。
そしてかなり多くの人が来ていた。

桜の木の下にゴザを引いて、楽しそうにしている家族連れが多かった。
東京のような酒盛りや騒ぐ人たちはあまりいないようだ。

池にはカモが集まり、盛んにえさやりをする人も・・・

暖かな昼下がりで、池の周りをウォーキングする人の姿もある。
朝早く一部先に準備をして、その後茨城空港へ妻を迎えにいった。
神戸の娘のところへ今週手伝いに出かけていたが、早朝の便で帰ってきた。
石岡から空港まで約30分。
スカイマークの神戸8:00発で茨城到着が9:15ということでギリギリに間に合ったが、飛行機はすでに到着し、乗客はすでに荷物を受け取ってゲートを出てきたところだった。
やはり羽田から伊丹経由よりずっと便利だし、価格もかなり安い。
間際に予約しても却って安い券がある。 ANAなどの正規運賃の半額程度。
新幹線より2~3割も安い。
風の会の会報印刷にその後に参加して、今回は11時ころに終了。
午後から会報を配りに出かけた。
途中桜の花盛りで、少しカメラにおさめてきた。
昨日今日の暖かさで一気に花が開いた感じだ。

柏原池公園の桜もかなり咲いていた。
そしてかなり多くの人が来ていた。

桜の木の下にゴザを引いて、楽しそうにしている家族連れが多かった。
東京のような酒盛りや騒ぐ人たちはあまりいないようだ。

池にはカモが集まり、盛んにえさやりをする人も・・・

暖かな昼下がりで、池の周りをウォーキングする人の姿もある。
桜花も一気に満開(2)
風の会の会報を配りに八郷地区から朝日トンネルを通って(土浦市)小町の里へ。
そこから(つくば市)北条へ。
北条の町に向かう途中で、北条大池の桜を愛でていこうと思い立ち寄りました。

北条大池は筑波山の麓。昔の筑波郡の郡衙である平沢官衙のあった場所。
ここから峠を越えて常陸国国府のあった石岡への道がとおっている。
このあたりから見る筑波山は男体山(向かって左)、女体山(向かって右)がかなり離れて見える。
石岡の恋瀬橋あたりからはかなり接近して見える。
八郷地区側からは女体山1つしか見えない場所が多い。


明日あたりが満開か?
水曜日は雨と言われているので、その頃になると散ってしまうかもしれない。

そこから(つくば市)北条へ。
北条の町に向かう途中で、北条大池の桜を愛でていこうと思い立ち寄りました。

北条大池は筑波山の麓。昔の筑波郡の郡衙である平沢官衙のあった場所。
ここから峠を越えて常陸国国府のあった石岡への道がとおっている。
このあたりから見る筑波山は男体山(向かって左)、女体山(向かって右)がかなり離れて見える。
石岡の恋瀬橋あたりからはかなり接近して見える。
八郷地区側からは女体山1つしか見えない場所が多い。


明日あたりが満開か?
水曜日は雨と言われているので、その頃になると散ってしまうかもしれない。

国分尼寺跡と桜
いよいよ桜も満開のようです。
自宅近くの「常陸国分尼寺跡」の桜を見に行ってきました。
国の特別史跡です。茨城県では3か所のみ。
その2つが石岡にある国分寺跡と国分尼寺跡です。
まあもっとも、昔は国分尼寺の存在が確認されていた場所が少なかったので、はっきりとわかっている場所として、特別史跡に指定されたものです。

国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」です。
総本山は法華寺です。 国分寺の方の総本山は東大寺です。

ここもただ広場が広がっているだけで、その真ん中に大きな桜の木が2本あるのです。

でもこの桜の木は大きくなって少し危険になってしまったのでしょう。
張り出していた枝と上に伸びていた幹も少し切られてしまったようです。
まあ桜(ソメイヨシノ)の寿命も短いようですね。

この敷地の隣りが「府中小学校」で、この学校との境界に桜の木が何本もあり、きれいな花を咲かせていました。
その下にテーブルを出してのんびり花見をしている人もいました。

このあたりに広がる原っぱは「尼寺ヶ原」=にじがはら(=虹ヶ原)と呼ばれています。
小学校の子供たちは虹が良く出て、見える原っぱと信じている子がたくさんいるので、歴史も教えて行かなければいけないと以前ここの校長先生が話していました。
今はみんな理解しているのでしょうね。

自宅近くの「常陸国分尼寺跡」の桜を見に行ってきました。
国の特別史跡です。茨城県では3か所のみ。
その2つが石岡にある国分寺跡と国分尼寺跡です。
まあもっとも、昔は国分尼寺の存在が確認されていた場所が少なかったので、はっきりとわかっている場所として、特別史跡に指定されたものです。

国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」です。
総本山は法華寺です。 国分寺の方の総本山は東大寺です。

ここもただ広場が広がっているだけで、その真ん中に大きな桜の木が2本あるのです。

でもこの桜の木は大きくなって少し危険になってしまったのでしょう。
張り出していた枝と上に伸びていた幹も少し切られてしまったようです。
まあ桜(ソメイヨシノ)の寿命も短いようですね。

この敷地の隣りが「府中小学校」で、この学校との境界に桜の木が何本もあり、きれいな花を咲かせていました。
その下にテーブルを出してのんびり花見をしている人もいました。

このあたりに広がる原っぱは「尼寺ヶ原」=にじがはら(=虹ヶ原)と呼ばれています。
小学校の子供たちは虹が良く出て、見える原っぱと信じている子がたくさんいるので、歴史も教えて行かなければいけないと以前ここの校長先生が話していました。
今はみんな理解しているのでしょうね。

笠間六体仏を求めて・・・
今日は花冷えというよりは真冬に戻ったような寒い日となりました。
満開となった桜が散ってしまうか、それとも持ちこたえて週末頃まで楽しめるかといったところでしょうか。
今年は桜見物も程々にあまり出かけませんでしたが、4月8日のお釈迦様の誕生日はいろいろ行事がありますね。
近くでは国分寺で甘茶祭り(花祭り)が開かれ、縁日も出て賑やかで、丁度桜も満開でした。
しかし、この日しか見ることの出来ない文化財の仏像が全国に結構あります。
その中でも茨城にもすばらしい仏像があることを知り、昼過ぎから急いで笠間へ行ってきました。
お目当ては、弥勒教会(みろくきょうかい:石寺)、楞厳寺(りょうごんじ:片庭)、岩谷寺(いわやじ:来栖)の3箇所です。
3箇所ともに笠間氏初代の笠間時朝が像立したとされる笠間六体仏の現存する3体の仏像(国の重要文化財)が安置されています。
この仏像は秘仏で、3箇所ともに4月8日の日と、笠間市の秋の文化財公開日(隔年の10月末頃)に行われています。
この公開日は以前は毎年行われていたのですが、去年から隔年(2年に1度)となり、去年は実施されず、今年(2019年)は実施予定となっています。
最近はブログを書くペースが極端に遅くなってきてしまいました。
このため、記事のUPも少し間隔が開いてしまいますが、幾つかに分けて、ひとつひとつのんびりとUPしていきたいと思います。

楞厳寺から岩谷寺へ向かう途中の岡の上を走る道路から左右に連なる山並みが見えました。(西北側)
これは楞厳寺(りょうごんじ)の山名である「仏頂山」に連なる山並みです。

車は、こんな高台を走りました。

東南側も山並みが連なっています。

のどかですね。
今回は3箇所ともにはじめて訪れる場所であり、少し分かりにくい山の方や田んぼ道のような中にあるために、カーナビに頼ることになりました。
カーナビで行くと、まわりの地形や位置関係があまりよくわからなくなります。
こうしてブログを書くに当たってやはり全体を掌握しておかないといけないように思います。
3箇所を地図に書き記しておきます。

こうしてみると3箇所は時朝の城「笠間城」を取り巻くようにあるんですね。
次回から3箇所を順に紹介します。(のんびりと)
関連記事 その一 : 笠間六体仏を求めて・・・(今回)
関連記事 その二 : 弥陀教会
関連記事 その三 : 楞厳寺
関連記事 その四 : 岩谷寺
満開となった桜が散ってしまうか、それとも持ちこたえて週末頃まで楽しめるかといったところでしょうか。
今年は桜見物も程々にあまり出かけませんでしたが、4月8日のお釈迦様の誕生日はいろいろ行事がありますね。
近くでは国分寺で甘茶祭り(花祭り)が開かれ、縁日も出て賑やかで、丁度桜も満開でした。
しかし、この日しか見ることの出来ない文化財の仏像が全国に結構あります。
その中でも茨城にもすばらしい仏像があることを知り、昼過ぎから急いで笠間へ行ってきました。
お目当ては、弥勒教会(みろくきょうかい:石寺)、楞厳寺(りょうごんじ:片庭)、岩谷寺(いわやじ:来栖)の3箇所です。
3箇所ともに笠間氏初代の笠間時朝が像立したとされる笠間六体仏の現存する3体の仏像(国の重要文化財)が安置されています。
この仏像は秘仏で、3箇所ともに4月8日の日と、笠間市の秋の文化財公開日(隔年の10月末頃)に行われています。
この公開日は以前は毎年行われていたのですが、去年から隔年(2年に1度)となり、去年は実施されず、今年(2019年)は実施予定となっています。
最近はブログを書くペースが極端に遅くなってきてしまいました。
このため、記事のUPも少し間隔が開いてしまいますが、幾つかに分けて、ひとつひとつのんびりとUPしていきたいと思います。

楞厳寺から岩谷寺へ向かう途中の岡の上を走る道路から左右に連なる山並みが見えました。(西北側)
これは楞厳寺(りょうごんじ)の山名である「仏頂山」に連なる山並みです。

車は、こんな高台を走りました。

東南側も山並みが連なっています。

のどかですね。
今回は3箇所ともにはじめて訪れる場所であり、少し分かりにくい山の方や田んぼ道のような中にあるために、カーナビに頼ることになりました。
カーナビで行くと、まわりの地形や位置関係があまりよくわからなくなります。
こうしてブログを書くに当たってやはり全体を掌握しておかないといけないように思います。
3箇所を地図に書き記しておきます。

こうしてみると3箇所は時朝の城「笠間城」を取り巻くようにあるんですね。
次回から3箇所を順に紹介します。(のんびりと)
関連記事 その一 : 笠間六体仏を求めて・・・(今回)
関連記事 その二 : 弥陀教会
関連記事 その三 : 楞厳寺
関連記事 その四 : 岩谷寺
くれふしカタクリの里
昨日は常陸大子の方に行く用事があり午後から出かけました。
片道75~80km位でしたが車の往復で4時間半~5時間かかってしまいました。
銚子へ行くより片道で10kmほど短いのですが、時間は片道15分くらい余分にかかりました。
石岡から石塚街道を真っ直ぐ北上して、内原のイオンモール横を通って、国道50号線を横切り、そのまま山の方に進みます。
途中の桜はまだかなり咲き誇っているところも多く、道端にはあちこちに菜の花の黄色絨毯が広がり、またピンクの芝桜があちこちに彩りを添えていました。
8年前に東関東大震災の後にやはり同じ道を車で走ったことを思いだしました。
その時に書いたのが ⇒ どこに行っても日本の春(2011.4.18)
⇒ どこに行っても春爛漫(1)(2011.4.16)
⇒ どこに行っても春爛漫(2)(2017.4.17)
もうあれから8年経つのですね。 この春から原発避難者たちへの支援も打ち切りになってしまうようです。
いわき市の仮設住宅に避難していた人たちは、災害復興住宅やその他の場所に家を建てた人などで、ほとんどがいなくなり、大熊町や双葉町など一部帰還できない場所を除いて戻り始めました。
でも復興と言っても原発事故の被害を受けた人たちも戻るのは年寄りばかりで、町の活性化や真の復興には程遠いです。
家内も7年半にわたり現地に行っています。
以前は毎週1回でしたが、今は隔週。 でも「いわき」よりも遠くなって待っていてくれるとはいえ、体の負担も大変です。
今日も午後から行きます。戻るのは明日の夕方。
さて、内原のイオンモール横から国道50号線を突っ切って進むとそこは、「くれふしの里」と言われる場所で、常陸国風土記に出てくる「クレフシ山」ゆかりの場所とされています。
クレフシ山も石岡の竜神山との説もあるのですが、声の大きなところには勝てず、今はこの近くの「朝房山」がそのクレフシ山だとされています。
この近くには「大足(オオダラ)」という地名があってダイダラボッチ(大男)が日当たりが悪いので、この朝房山を動かしたとの伝説が残っています。
そのくれふしの里にある古墳公園手前の山間に「カタクリの里」と言われる場所があります。
少しだけ横に入った場所なので見ていくことにしました。

一面に可憐なカタクリの花が咲き、山菜の「ここみ」もありました。

カタクリは斜面一面に下向きにかわいらしく咲いていました。 小さな花ですね。

ここは道路沿いです。 このように水路があり、山には柵があってはいれません。

時期的には少し遅いのでしょうか? でも結構、たくさん咲いていました。


そして私は元の通りに戻って、北へ進みました。
たくさんの古墳が残る(水戸)古墳公園を横目で見ながら山の方へ入っていきます。
そこが茨城の難読地名で有名な「木葉下」です。
読み方は「アボッケ」です。

小山を越して向こう側の通りに出た所の信号がこの「木葉下」です。
さて、この先はまた明日にでも書きます。
片道75~80km位でしたが車の往復で4時間半~5時間かかってしまいました。
銚子へ行くより片道で10kmほど短いのですが、時間は片道15分くらい余分にかかりました。
石岡から石塚街道を真っ直ぐ北上して、内原のイオンモール横を通って、国道50号線を横切り、そのまま山の方に進みます。
途中の桜はまだかなり咲き誇っているところも多く、道端にはあちこちに菜の花の黄色絨毯が広がり、またピンクの芝桜があちこちに彩りを添えていました。
8年前に東関東大震災の後にやはり同じ道を車で走ったことを思いだしました。
その時に書いたのが ⇒ どこに行っても日本の春(2011.4.18)
⇒ どこに行っても春爛漫(1)(2011.4.16)
⇒ どこに行っても春爛漫(2)(2017.4.17)
もうあれから8年経つのですね。 この春から原発避難者たちへの支援も打ち切りになってしまうようです。
いわき市の仮設住宅に避難していた人たちは、災害復興住宅やその他の場所に家を建てた人などで、ほとんどがいなくなり、大熊町や双葉町など一部帰還できない場所を除いて戻り始めました。
でも復興と言っても原発事故の被害を受けた人たちも戻るのは年寄りばかりで、町の活性化や真の復興には程遠いです。
家内も7年半にわたり現地に行っています。
以前は毎週1回でしたが、今は隔週。 でも「いわき」よりも遠くなって待っていてくれるとはいえ、体の負担も大変です。
今日も午後から行きます。戻るのは明日の夕方。
さて、内原のイオンモール横から国道50号線を突っ切って進むとそこは、「くれふしの里」と言われる場所で、常陸国風土記に出てくる「クレフシ山」ゆかりの場所とされています。
クレフシ山も石岡の竜神山との説もあるのですが、声の大きなところには勝てず、今はこの近くの「朝房山」がそのクレフシ山だとされています。
この近くには「大足(オオダラ)」という地名があってダイダラボッチ(大男)が日当たりが悪いので、この朝房山を動かしたとの伝説が残っています。
そのくれふしの里にある古墳公園手前の山間に「カタクリの里」と言われる場所があります。
少しだけ横に入った場所なので見ていくことにしました。

一面に可憐なカタクリの花が咲き、山菜の「ここみ」もありました。

カタクリは斜面一面に下向きにかわいらしく咲いていました。 小さな花ですね。

ここは道路沿いです。 このように水路があり、山には柵があってはいれません。

時期的には少し遅いのでしょうか? でも結構、たくさん咲いていました。


そして私は元の通りに戻って、北へ進みました。
たくさんの古墳が残る(水戸)古墳公園を横目で見ながら山の方へ入っていきます。
そこが茨城の難読地名で有名な「木葉下」です。
読み方は「アボッケ」です。

小山を越して向こう側の通りに出た所の信号がこの「木葉下」です。
さて、この先はまた明日にでも書きます。
常陸風土記の丘の桜
今年から桜のシーズンに駐車場が有料となり、入口が少し迂回するようになりました。
まあ今朝早くにお邪魔してきました。まだ駐車場はかなりすいている時間帯。(8時前)
今朝は朝から晴れて穏やかな陽気です。
駐車場の脇のソメイヨシノの花は少しの風でも白い花びらが陽を浴びてキラキラ輝いていました。

ピンクのしだれ桜のトンネルも、盛りを少し過ぎていましたが見事です。

上の展望デッキ(藤棚のところ)のベンチに腰を下ろして、のんびりとこの里山の風景をのながめました。

絵のようなという表現がぴったりするのでしょうか?
山は笑い、桜の花が咲き誇り、遠くに筑波山が見えます。
このあたりから見る筑波山は1つの峰だけしか見えません。
女体山です。 男体山は後ろに隠れてしまっています。

ベンチに座って子供たちや観光客の話し声などを聞きながらのんびり30分程時間を過ごしました。
私はタバコをすいませんが、こうしていると一服したいような気持ちも理解できますね。
まあ今朝早くにお邪魔してきました。まだ駐車場はかなりすいている時間帯。(8時前)
今朝は朝から晴れて穏やかな陽気です。
駐車場の脇のソメイヨシノの花は少しの風でも白い花びらが陽を浴びてキラキラ輝いていました。

ピンクのしだれ桜のトンネルも、盛りを少し過ぎていましたが見事です。

上の展望デッキ(藤棚のところ)のベンチに腰を下ろして、のんびりとこの里山の風景をのながめました。

絵のようなという表現がぴったりするのでしょうか?
山は笑い、桜の花が咲き誇り、遠くに筑波山が見えます。
このあたりから見る筑波山は1つの峰だけしか見えません。
女体山です。 男体山は後ろに隠れてしまっています。

ベンチに座って子供たちや観光客の話し声などを聞きながらのんびり30分程時間を過ごしました。
私はタバコをすいませんが、こうしていると一服したいような気持ちも理解できますね。
石岡より星信仰の民族は北極星を目指して?
大昔、常世の国(常陸国)に暮らしていた古代人はどこへ行ったのでしょうか。
大和民族に虐げられたり、従属させられたり、捕まって都に送られたり、または新たな土地を開拓したりして行ったのでしょう。
もし逃げ出したとしたら、どこを通ってどのように逃げたのでしょうか?
その中に星や森を信仰して暮らしていた人々が多かったようです。もちろん暮らしは今から見れば原始的な暮らしで、穴を掘って暮らしている人たちも多かったようです。
また皮膚には刺青をしていたといわれています。
大和からやってきた人々は山猿とか、野の佐伯、山の佐伯などとこの人たちを呼びました。
大和朝廷に抵抗して戦った、星を信仰していた星のカカセオなどという部族の長もいました。
捕まって奈良の都に送られた佐伯たちは、四国などに送られ、砂鉄を掘り、佐伯部という集団が出来、優れた人物も誕生しました。
空海(弘法大師)はこの佐伯氏の出とも言われています。
さて、常陸の都「石岡」から真北へ北極星を目印に北上をしてみましょう。
まず、石塚街道をまっすぐに進み、イオンモール(赤塚)を通り、有賀神社、古墳公園、クレフシ山(朝房山)脇を通って木葉下(アボッケ)を通ります。
そして、その先に小松信号があり、少し入った所に平重盛の墓のある小松寺があります。

小松寺の入口には大きなシダレ桜があり立ち寄りましたが、すでに花は終わってしまったようです。

境内のシダレ桜も、とても小さな花ビラですが、ほぼ散っていました。
境内にはオオアラセイトウ(花ダイコン、諸葛菜、紫金草)の紫色の花が1区画にまとまって咲いていました。

更に北上すると、御前山近くで那珂川大橋を渡り、さらに北上すると旧美和の「鷲子」という信号に出ます。
鷲子と描いて「トリノコ」と読みます。
鷲子山上神社は最近はフクロウ神社といわれるようになりました。フクロウグッツがいっぱいあります。
フクロウ=不苦労というわけです。
しかし、この信号のそばに「三浦杉」という天然記念物の大杉があります。

入口に三浦杉公園があり、その駐車場に車を停めて、神社に参拝していきます。
この公園はアヤメを植えた公園で、もう少ししたらアヤメもきれいに咲くことでしょう。

100段ほどの石段を上ります。

100段ほどの石段を上ります。
神社の拝殿前には、参道の両脇に本当に見事な2本の杉の木が天に向かって伸びています。
数年前からこの杉の木の下は枝が落下したりすると危ないということで通行止めとなっています。
手前に遥拝所が設けられて、その左記は進入禁止です。神社の方も脇のほうの道から行くようです。

三浦杉の名付け親は水戸黄門さんといわれています。
三浦半島の豪族三浦氏の三浦大介が那須の悪狐(九尾狐)退治に勝利して、この杉の木を奉納したと伝えられるからです。

さて、私はここから更に山道に入り袋田(大子)方面に向かいます。
ここは常陸大宮市と大子町の境に「タバッコ峠」という日本に数少ないカタカナ地名の峠を越えます。
ヤビツ峠とタバッコ峠 どうですか? なかなか地名も面白いですよね。
大子町は「栃原」という集落を通ります。
山は新芽がふきだしだいぶ春色になって来ました。
林業が今でも盛んで、このように杉の木などの木材がトラックで運ばれています。

この栃原には佐竹氏の残した隠れ金山といわれた「栃原金山」がありました。
一時は観光金山としても脚光を浴びた時期も合ったようですが、今では廃墟となり道も悪く、金山跡を訪れる人は滅多におりません。
この栃原で絶品の奥久慈手づくりコンニャクを仕入れて、帰りは上小川駅近くに出て、久慈川沿いに水戸方面に出て帰ってきました。
昔は何度もこの道を通りましたが、数年ご無沙汰でしたが、今年は2度目です。
大和民族に虐げられたり、従属させられたり、捕まって都に送られたり、または新たな土地を開拓したりして行ったのでしょう。
もし逃げ出したとしたら、どこを通ってどのように逃げたのでしょうか?
その中に星や森を信仰して暮らしていた人々が多かったようです。もちろん暮らしは今から見れば原始的な暮らしで、穴を掘って暮らしている人たちも多かったようです。
また皮膚には刺青をしていたといわれています。
大和からやってきた人々は山猿とか、野の佐伯、山の佐伯などとこの人たちを呼びました。
大和朝廷に抵抗して戦った、星を信仰していた星のカカセオなどという部族の長もいました。
捕まって奈良の都に送られた佐伯たちは、四国などに送られ、砂鉄を掘り、佐伯部という集団が出来、優れた人物も誕生しました。
空海(弘法大師)はこの佐伯氏の出とも言われています。
さて、常陸の都「石岡」から真北へ北極星を目印に北上をしてみましょう。
まず、石塚街道をまっすぐに進み、イオンモール(赤塚)を通り、有賀神社、古墳公園、クレフシ山(朝房山)脇を通って木葉下(アボッケ)を通ります。
そして、その先に小松信号があり、少し入った所に平重盛の墓のある小松寺があります。

小松寺の入口には大きなシダレ桜があり立ち寄りましたが、すでに花は終わってしまったようです。

境内のシダレ桜も、とても小さな花ビラですが、ほぼ散っていました。
境内にはオオアラセイトウ(花ダイコン、諸葛菜、紫金草)の紫色の花が1区画にまとまって咲いていました。

更に北上すると、御前山近くで那珂川大橋を渡り、さらに北上すると旧美和の「鷲子」という信号に出ます。
鷲子と描いて「トリノコ」と読みます。
鷲子山上神社は最近はフクロウ神社といわれるようになりました。フクロウグッツがいっぱいあります。
フクロウ=不苦労というわけです。
しかし、この信号のそばに「三浦杉」という天然記念物の大杉があります。

入口に三浦杉公園があり、その駐車場に車を停めて、神社に参拝していきます。
この公園はアヤメを植えた公園で、もう少ししたらアヤメもきれいに咲くことでしょう。

100段ほどの石段を上ります。

100段ほどの石段を上ります。
神社の拝殿前には、参道の両脇に本当に見事な2本の杉の木が天に向かって伸びています。
数年前からこの杉の木の下は枝が落下したりすると危ないということで通行止めとなっています。
手前に遥拝所が設けられて、その左記は進入禁止です。神社の方も脇のほうの道から行くようです。

三浦杉の名付け親は水戸黄門さんといわれています。
三浦半島の豪族三浦氏の三浦大介が那須の悪狐(九尾狐)退治に勝利して、この杉の木を奉納したと伝えられるからです。

さて、私はここから更に山道に入り袋田(大子)方面に向かいます。
ここは常陸大宮市と大子町の境に「タバッコ峠」という日本に数少ないカタカナ地名の峠を越えます。
ヤビツ峠とタバッコ峠 どうですか? なかなか地名も面白いですよね。
大子町は「栃原」という集落を通ります。
山は新芽がふきだしだいぶ春色になって来ました。
林業が今でも盛んで、このように杉の木などの木材がトラックで運ばれています。

この栃原には佐竹氏の残した隠れ金山といわれた「栃原金山」がありました。
一時は観光金山としても脚光を浴びた時期も合ったようですが、今では廃墟となり道も悪く、金山跡を訪れる人は滅多におりません。
この栃原で絶品の奥久慈手づくりコンニャクを仕入れて、帰りは上小川駅近くに出て、久慈川沿いに水戸方面に出て帰ってきました。
昔は何度もこの道を通りましたが、数年ご無沙汰でしたが、今年は2度目です。
笠間六体仏を求めて・・・(その二)弥陀教会
4月8日のお釈迦様の誕生日に笠間のお寺で笠間時朝が造立したといわれる六体の仏像(六体仏)が公開されると知って出かけました。
記事のUPがなかなかできていなくて遅くなってしまいましたが、今回最初の一つをUPします。
関連記事 その一 : 笠間六体仏を求めて・・・
関連記事 その二 : 弥陀教会(今回)
関連記事 その三 : 楞厳寺
関連記事 その四 : 岩谷寺
先日NHKの水戸放送局の番組でもこの仏像(3体)を取り上げていました。先を越されてしまいました。
私は今までこの笠間氏初代の笠間時朝の名前は知っていましたが、あまり理解してこなかったように思います。
この茨城の地方でこのように仏像などに熱心で、文化的な雰囲気を持った人物はあまりいないかも知れません。
仏像についてはここ1~2年少し調べ始めたりしていますが、この笠間時朝を有名にしているのは、京都三十三間堂の千躰(実際は1001体)の千手観音像(国宝)のうちの2躰の仏像が、この笠間時朝の寄進によることがわかっており、この寄進者の名前が分かっているのはこの2体だけといわれていることでしょう。
千躰の仏像の製作者は京の都の彫刻師集団である運慶・快慶などの慶派の仏師や院派、円派などの仏師が協力して制作した仏像ということが重要なこととされています。
流派が違えばあまりこのように一緒に作業することはないのですが、一致協力して短期間に千躰の千手観音像を制作したのはきっと画期的だったのだと思います。
最初に作られた平安時代の像は、現在124体しか残されておらず、残りが鎌倉時代に再興されたものですが、これが運慶・快慶などの作になるのです。
鎌倉時代に笠間の佐白山には正福寺という大きな寺があり、100坊もの僧侶軍団が住んでいました。
そして、この少し北の七会村には300坊もの僧侶がいる徳蔵寺という寺との間で勢力争いが続いており、この両者の争いに和って入ったのがこの笠間時朝だということを以前調べて知っている程度でした。
笠間時朝は宇都宮氏の養子(元は塩谷氏)に入った人物で、宇都宮氏が藤原氏の出身ですから藤原時朝と名乗っていました。
笠間に入って、この佐白山に山城を築き、笠間城の主となり、18代続く笠間氏の初代となった人物です。
でもこの人物は歌を詠み、仏像を像立し、鎌倉御家人としてもかなりの出世を遂げています。
鎌倉幕府の公式行事の20回以上に名前が書かれています。
鹿島神宮にも参拝しており、その時に詠んだ句が息栖神社に句碑があります。

(神栖市にある息栖神社境内におかれた句碑脇の説明看板)
またこの時朝は身長が178cmほどあったと言われ、当時としてはかなり大柄な体格だっと思われます。
この時朝が1247年に自分の体格にあわせたような仏像を6体像立させて、笠間の寺に1体ずつ奉納したとされています。
ただし、6体のうち現在残されているのは3体(弥勒教会、楞厳寺、岩谷寺)のみで、残りの3体は「阿弥陀院の地蔵菩薩、花蔵院の毘沙門天、蓮台寺の不動明王」だといわれていますが、現存していません。
ではその1体目は、まず、弥勒教会(みろくきょうかい)の弥勒堂(みろくどう)に安置されている「弥勒仏立像」です。
笠間市石寺という場所にあり、ここには元は石寺といわれるお寺があったようです。記録では、ここには馬頭院石城寺という寺があり、この寺の本尊として祀られた仏像です。
この弥勒教会というのは、キリスト教の教会ではなく、この仏像を保存するために地元の人々が結成した宗教法人(真言宗)名です。

山間を車で走り、石寺のバス停より西に入って、少し開けた民家や田んぼが・畑が広がる道に入っていきます。
そして、このお堂のある所に石の門柱が立っており、そこを車1台がやっと通れるほどの道(参道)を数十メートル進んだ所に白山神社という古びた神社へ出ます。手前や脇に車は数台は置けます。
そこから少し上のほうにこのコンクリ-トで出来たお堂(仏像収納庫)があります。

4月8日のこの日はこのお堂の管理をしてくださっている村の方達数名がお堂の前に集まっておられました。
私が訪れたのは午後少したったころで、他に参拝客はおりませんでした。
堂内にはこの大きな弥勒仏がどっしりと安置されていました。
そして「撮影禁止」の立て看板、張り紙が置かれていました。
そしてお釈迦様の誕生日ですから入口横には小さな釈迦誕生仏がおかれ、甘茶をかける様におかれていました。


一人でしばらく拝んでいると、地元のおばあさんたちが3人ほどやってきました。
そして毎年来ていると話されていました。
足元が少し危ないお年よりもおられましたが、こうして歩いてお参りを続ければ、きっと元気で長生きできることでしょう。


お堂のすぐ下にある白山神社です。
これも神仏分離の名残なのでしょうか。

下の写真は神社をお堂のある上から眺めたものです。

仏像は江戸時代には運慶作とされて登録していたようです。
江戸中期の1750年に社寺役所に提出された「境内差出帳」には 名称が「弥勒菩薩」となっていて、作者も運慶となっていました。しかし今では年代から運慶の作ではなく、像も弥勒「菩薩」ではなく、弥勒「如来」像とされています。
文化財の登録も「弥勒仏」となっています。
この像も笠間時朝が鎌倉で、同じ慶派の仏師に依頼して制作されたものかもしれません。
堂内は撮影禁止となっていたので、仏像の写真はほかよりお借りしています。

説明は笠間市の文化財紹介のパンフレットから
国指定重要文化財「木造弥勒仏立像」
製作:法治元年(1247)
像高:175.2㎝
光背高:194㎝
台座高:44㎝
指定:大正9年8月16日
本像は、ヒノキ材の寄木造であり、漆箔が施され、玉眼嵌入です。
螺髪(らほつ)は各粒を大きめにつくり、その各々には旋毛(せんもう)を彫出しています。
肉髻(にっけい)は低くて地髪の鉢が張り、その髪際はゆるい波形となっています。
衲衣(のうえ)の衣紋は複雑であり、この時代に流行した中国宋朝の様式と鎌倉彫刻の様式が確立された 13世紀中ごろの一典型をあらわす作品であると考えられます。
光背は二重円光で頭光心(ずこうしん)八葉、台座は蓮肉(れんにく)一材で蓮弁は打付け、敷茄子(しきなす)は二枚矧(にまいはぎ)であり、光背、台座ともに造立当時のものであると考えられます。
像内墨書銘により、造立の願主として笠間時朝の名前がみられます。
また、右足枘(ほぞ)内側には「□時朝同身(之)弥勒」とみられることから、時朝と同じ背丈であることがわかります。
では次に笠間市方庭にある楞厳寺(りょうごんじ)へ向かいます。
記事のUPがなかなかできていなくて遅くなってしまいましたが、今回最初の一つをUPします。
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先日NHKの水戸放送局の番組でもこの仏像(3体)を取り上げていました。先を越されてしまいました。
私は今までこの笠間氏初代の笠間時朝の名前は知っていましたが、あまり理解してこなかったように思います。
この茨城の地方でこのように仏像などに熱心で、文化的な雰囲気を持った人物はあまりいないかも知れません。
仏像についてはここ1~2年少し調べ始めたりしていますが、この笠間時朝を有名にしているのは、京都三十三間堂の千躰(実際は1001体)の千手観音像(国宝)のうちの2躰の仏像が、この笠間時朝の寄進によることがわかっており、この寄進者の名前が分かっているのはこの2体だけといわれていることでしょう。
千躰の仏像の製作者は京の都の彫刻師集団である運慶・快慶などの慶派の仏師や院派、円派などの仏師が協力して制作した仏像ということが重要なこととされています。
流派が違えばあまりこのように一緒に作業することはないのですが、一致協力して短期間に千躰の千手観音像を制作したのはきっと画期的だったのだと思います。
最初に作られた平安時代の像は、現在124体しか残されておらず、残りが鎌倉時代に再興されたものですが、これが運慶・快慶などの作になるのです。
鎌倉時代に笠間の佐白山には正福寺という大きな寺があり、100坊もの僧侶軍団が住んでいました。
そして、この少し北の七会村には300坊もの僧侶がいる徳蔵寺という寺との間で勢力争いが続いており、この両者の争いに和って入ったのがこの笠間時朝だということを以前調べて知っている程度でした。
笠間時朝は宇都宮氏の養子(元は塩谷氏)に入った人物で、宇都宮氏が藤原氏の出身ですから藤原時朝と名乗っていました。
笠間に入って、この佐白山に山城を築き、笠間城の主となり、18代続く笠間氏の初代となった人物です。
でもこの人物は歌を詠み、仏像を像立し、鎌倉御家人としてもかなりの出世を遂げています。
鎌倉幕府の公式行事の20回以上に名前が書かれています。
鹿島神宮にも参拝しており、その時に詠んだ句が息栖神社に句碑があります。

(神栖市にある息栖神社境内におかれた句碑脇の説明看板)
またこの時朝は身長が178cmほどあったと言われ、当時としてはかなり大柄な体格だっと思われます。
この時朝が1247年に自分の体格にあわせたような仏像を6体像立させて、笠間の寺に1体ずつ奉納したとされています。
ただし、6体のうち現在残されているのは3体(弥勒教会、楞厳寺、岩谷寺)のみで、残りの3体は「阿弥陀院の地蔵菩薩、花蔵院の毘沙門天、蓮台寺の不動明王」だといわれていますが、現存していません。
ではその1体目は、まず、弥勒教会(みろくきょうかい)の弥勒堂(みろくどう)に安置されている「弥勒仏立像」です。
笠間市石寺という場所にあり、ここには元は石寺といわれるお寺があったようです。記録では、ここには馬頭院石城寺という寺があり、この寺の本尊として祀られた仏像です。
この弥勒教会というのは、キリスト教の教会ではなく、この仏像を保存するために地元の人々が結成した宗教法人(真言宗)名です。

山間を車で走り、石寺のバス停より西に入って、少し開けた民家や田んぼが・畑が広がる道に入っていきます。
そして、このお堂のある所に石の門柱が立っており、そこを車1台がやっと通れるほどの道(参道)を数十メートル進んだ所に白山神社という古びた神社へ出ます。手前や脇に車は数台は置けます。
そこから少し上のほうにこのコンクリ-トで出来たお堂(仏像収納庫)があります。

4月8日のこの日はこのお堂の管理をしてくださっている村の方達数名がお堂の前に集まっておられました。
私が訪れたのは午後少したったころで、他に参拝客はおりませんでした。
堂内にはこの大きな弥勒仏がどっしりと安置されていました。
そして「撮影禁止」の立て看板、張り紙が置かれていました。
そしてお釈迦様の誕生日ですから入口横には小さな釈迦誕生仏がおかれ、甘茶をかける様におかれていました。


一人でしばらく拝んでいると、地元のおばあさんたちが3人ほどやってきました。
そして毎年来ていると話されていました。
足元が少し危ないお年よりもおられましたが、こうして歩いてお参りを続ければ、きっと元気で長生きできることでしょう。


お堂のすぐ下にある白山神社です。
これも神仏分離の名残なのでしょうか。

下の写真は神社をお堂のある上から眺めたものです。

仏像は江戸時代には運慶作とされて登録していたようです。
江戸中期の1750年に社寺役所に提出された「境内差出帳」には 名称が「弥勒菩薩」となっていて、作者も運慶となっていました。しかし今では年代から運慶の作ではなく、像も弥勒「菩薩」ではなく、弥勒「如来」像とされています。
文化財の登録も「弥勒仏」となっています。
この像も笠間時朝が鎌倉で、同じ慶派の仏師に依頼して制作されたものかもしれません。
堂内は撮影禁止となっていたので、仏像の写真はほかよりお借りしています。

説明は笠間市の文化財紹介のパンフレットから
国指定重要文化財「木造弥勒仏立像」
製作:法治元年(1247)
像高:175.2㎝
光背高:194㎝
台座高:44㎝
指定:大正9年8月16日
本像は、ヒノキ材の寄木造であり、漆箔が施され、玉眼嵌入です。
螺髪(らほつ)は各粒を大きめにつくり、その各々には旋毛(せんもう)を彫出しています。
肉髻(にっけい)は低くて地髪の鉢が張り、その髪際はゆるい波形となっています。
衲衣(のうえ)の衣紋は複雑であり、この時代に流行した中国宋朝の様式と鎌倉彫刻の様式が確立された 13世紀中ごろの一典型をあらわす作品であると考えられます。
光背は二重円光で頭光心(ずこうしん)八葉、台座は蓮肉(れんにく)一材で蓮弁は打付け、敷茄子(しきなす)は二枚矧(にまいはぎ)であり、光背、台座ともに造立当時のものであると考えられます。
像内墨書銘により、造立の願主として笠間時朝の名前がみられます。
また、右足枘(ほぞ)内側には「□時朝同身(之)弥勒」とみられることから、時朝と同じ背丈であることがわかります。
では次に笠間市方庭にある楞厳寺(りょうごんじ)へ向かいます。