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フクロウ神社に不苦労を願って!

 昨日5月1日に大子の方に又行く用事ができ、茨城県と栃木県の県境にある天日鷲命(あまのひわしのみこと)を祀る「鷲子山上神社(とりのこさんじょうじんじゃ)」へ立ち寄りました。

ここは「フクロウ神社」として知られ、参拝客も増えているようです。
この日は、フクロウグッズ好きで現在闘病中の友人に何かお土産でも買い求めようと立ち寄ることにしました。
途中「みわ道の駅」で少し遅めの昼食でもと思ったのですが、道の駅の駐車場が一杯で、そのまま神社に向かいました。

神社は山の上にあるので、その上り口に旗が一杯たっていました。お祭でもあるのだろうかと思っていたら、次々に数台車が上って行きます。

それに釣られて後を追いかけて上り始めました。
山道ですのでそれほど広い道ではありません。頂上付近になると、ここから一方通行の表示が・・・・。

そして神社前から栃木県側に少し下った所に駐車場があり、多少スペースがありました。

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この神社は今までに何度か訪れています。
今回はこれから大子の方に買い物の用事の途中ですからあまり時間が有りません。
神社の入口鳥居の前にはよく知られた「茨城県と栃木県の県境を」示す看板が置かれていました。

このすぐ手前に神社社務所とみやげ物店などがあります。
また金色の開運大フクロウの像もあります。

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今回はフクロウグッツを1つ買うことだけが目的でしたので、社務所で小さな石に彫られたフクロウお守り(1000円)を購入しました。
それにしてもこの社務所の前は行列が出来ていました。
珍しいものだと思っていたのですが、この日は各所の神社で、この日の日付の入った御朱印を求める人たちがたくさんいたとの報道があり、納得しました。
まあ、偶然でしたが、よい記念になりました。

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病気回復と金運も同時にお願いしましたよ。

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鷲子・美和・高部 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/02 10:01

城里町花の寺一番「龍谷院」

 石岡から真っ直ぐ北にまっすぐ進み、内原のイオンモール横を通って、「くれふしに里」、古墳公園」「木葉下(アボッケ)」を通過して城里町の石塚というところに出ます。

ここから大きな崖となっていて、かなりの落差を下りますが、この坂も「手這坂」とも言っているようです。

そしてそこから那珂川沿いに北上して阿波山、大山を過ぎた少し先を左に入った山の麓にこの「龍谷院」という曹洞宗の禅寺があります。

案内板に従って通りから山側に向かうと一面の田んぼが広がり、一面に水が張られ、田植え直前でした。

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寺はこの石段を登った上にあります。
ここは花めぐりの寺 札所一番に名があり、この階段わきにももう少ししたら紫陽花が咲き乱れるのでしょう。

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この紫陽花の咲く頃がこの寺も一番美しい時期と思います。

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寺の入り口には「開運 はなの寺めぐり」の看板と、二匹の猫

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いつも仲良くこうして参拝者をお迎えしているようです。

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寺の境内は正面に本堂と、左手に観音堂。

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この観音堂には奥に金色の千手観音像が祀られていました。
そして花の寺めぐり」のスタンプ台が置かれていました。

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 境内にはおおきなツツジの花と石楠花が見事に咲いていました。

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上から下を見ると一面に水が張られた田んぼが見下ろせます。
地図にもあまり表示されないお寺ですが、550年の歴史を持つ禅寺で、石岡の根小屋にある泰寧寺(たいねいじ)もこの寺の支院だったそうです。

水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/04 07:04

ムギ畑と足尾山

 10連休はさすがに長いですね。
日本人は皆が一斉に休みになると行楽地にでかけ、どこにこんな人がいっぱいいるのかと思うようにぞろぞろ歩きまわってくたくたになる。

なんだか・・・  里山もあっという間に田植えが終わり、水の張られた田んぼはかわいらしい緑の苗が規則正しく並んでいた。

機械が田植するので、今は昔懐かしい田植え風景はほとんど見られない。

そんな季節に麦もだいぶ育った。 青々と真っ直ぐにピンと立った麦畑に筑波山系の山並みが美しい。

ここは山﨑南交差点近く。
北海道の富良野を彷彿させる景色が広がる。

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里山の風情 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/07 08:46

常陸風土記の丘と藤

 ゴールデンウィーク終盤の土曜日に息子夫婦が孫娘(2歳)を連れて遊びに来ました。
どこも人が一杯でまずは近くの「常陸風土記の丘」の曲り屋でそばを食べて公園を散策。

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公園内の桜は最後のボタン桜もほぼ終わりでしたが新緑が美しい。
また藤棚には紫と白の藤の花が・・・・・・・・・・・。
遠く筑波山をながめました。

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曲り屋の前にも藤棚があり、こちらの藤の方がきれいでした。
藁ぶき屋根の古民家を移築した蕎麦処曲り屋で蕎麦を注文して、この藤棚の下で食べました。

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時の門の広場では丁度野点のサービスが・・・
良い天気なのにあまり人がいません。
もったいないですね。

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子供はどこでも大喜びで走り回っていました。
奥の獅子頭の公演には滑り台などの遊具もあり小さいながら頑張って遊んでくれました。

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たくさんの小さなシャボン玉の泡が青空に向かって飛んでいきました。

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風土記の丘近辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/10 06:49

菩提樹(ボダイジュ)の花

 潮来の長勝寺は源頼朝ゆかりの寺で、寺紋も笹竜胆(ささりんどう)だ。

この大きな藁ぶき屋根の本堂 の手前にこの「菩提樹の木」がある。
釈迦がこの木に下で悟りを開いたとされる木だ。

しかし、今日本にある菩提樹は中国原産の木でインドの聖地に伝わる菩提樹とは少し違うようだ。

また沙羅双樹の花の色と平家物語に書かれているシャラの木も日本ではまったく別な「夏椿」を指しているという。

こちらは釈迦が入滅した時、沙羅の木が、まるで鶴の羽のように真っ白に枯れたといわれている。

これは、兵庫県加古川市の古刹・鶴林寺(かくりんじ)の名前の由来になっている。

平家物語に書かれている「沙羅双樹の花の色」はこの白く変じた由来によると思うが、日本ではこの沙羅双樹の木が温室でないと育たないといわれ、「ナツツバキ(夏椿)」のことと書かれた文献が多い。

この夏椿は白い大きな花で開花すると1日でその花がしぼむ前に開いた花のまま落下する。
これが「沙羅双樹の花の色 盛者必滅の 理をあらはす」というイメージに合致するということで後から言われるようになったものだろう。

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訪れたのは5月8日だったが、まだボダイジュの花は咲いていなかった。

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樹の下には無縁仏の供養塔が置かれていた。

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桜も終わり、境内は新緑で美しい。

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前に訪れた時のボダイジュの花です。(6月中旬)

潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/13 07:21

利根川河口

 茨城県と千葉県との県境は大きな利根川が流れている。
これも徳川家康が江戸湾に流れ込んでいた川を東遷させてつけかえたもので、江戸時代はこの川を使って江戸への物資輸送が行われ、輸送の大動脈になった。

この利根川は太平洋にそそぐ先端は日本の東の端にあたり、茨城県は波崎(神栖市)、千葉県は銚子となる。
この波崎のある神栖市には息栖神社があるが、鹿島コンビーナートができてからは、このコンビナートの恩恵を受け、鹿島工業地帯の玄関口として発展を遂げ、無味乾燥の広い道路ができている。

常陸国風土記などにうたわれた鹿島の郡(こおり)にでてくる童女(うない)の松原でのカガイが行われたというのもこの波崎地区と考えられている。

最近銚子市の財政はなかなか苦しいという記事を時々見かけるが、その中に銚子市に勤務する多くの若い世帯が、銚子市よりも神栖町の方が住みやすいとこちら側に住む人が多くなったという。

確かに神栖はアパートが多くなり、家賃も安いし、公共料金も安く、子供の養育費も安いようだ。
両市にまたがる橋は東から「銚子大橋」「「利根かもめ大橋(有料)」「常陸川・利根川大橋」の3本だが、東京の多摩川のような混雑は見たことがない。ほとんどの時間帯でスイスイと流れる。

銚子側もこのままでは「銚子は日本のとっぱずれ」などといわれて、ますます人口も減る恐れがある。
銚子には漁港があるといっても、漁港の収益があまり市には還元され無いようだ。

さて、先日銚子を訪れた時に、先端の銚子大橋を渡ったが、その手前で利根川沿いを少しドライブしてきた。

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上の写真の奥に見えるのが「銚子大橋」 数年前に建て替えできれいになった。

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ここから対岸には銚子の街が広がる。 飯沼観音の五重塔やポートタワーなどが良く見える。

波崎地図

波崎漁港と言われるのはこの利根川沿いにも多少あるが、太平洋(鹿島灘)に面したところに「波崎新漁港」があり、こちらから外洋に出る大きな船が出入りする。

利根川河口部に「はさきかもめ公園」という公園がある。
あまり人も行かないようだが、ここからの眺めもこの地形を観察するにはよい場所だ。

この公園の駐車場は公園裏手にある。

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公園の真ん中にコンクリートでできた船のモニュメントがあり、この上から向こう側の銚子の街や利根川河口の様子がよくわかる。
利根川の真ん中に大きな三角形の中州があり、外洋からの影響が、川の方にはあまり来ないようになっている。
むかし学校で習った親潮と黒潮がこの先の外洋でぶつかり合い、流れは陸から沖に急速に流れているはずだ。

昔は船がこの流れを越えられなくて数々の遭難の歴史がある。
南北朝時代の北畠親房もここを北に越えられずにここから筑波の方に流れていったのだろうし、国木田独歩も銚子沖で遭難した父親が、銚子に住むことになって生まれた子供であった。

写真の遠くに見えるタワーは銚子ポートタワーだ。

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また銚子の市街地も眺められる。

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そしてこの公園に立ち寄ったもう一つの目的は、この「竹久 夢二の歌碑」にある。

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あまり知られていないが、とても興味深い。

「つまつまと ぱんに 鰯をそへてくふ 伯林(ベルリン)の冬に あがなじみけり」

調べていくとこの句もとても興味深くなる。

ここには竹久 夢二が昭和6年から昭和8年まで回遊したときの句と書かれているが、夢二は昭和6年にアメリカに渡り、昭和8年正月にベルリン移って半年ほど滞在した。

この頃描いた絵なども残っており、興味深いが、ヒットラーが台頭し始めた時で、時代背景と、ベルリンでの暮らしぶりなどを調べていくととても興味深いのです。

鰯(イワシ)はベルリンあたりでもパン挟んだりして食べることはよく行われていたようです。
こんな食文化にも興味が行きますね。


神栖 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/05/15 07:45

三味線で 鴫を立たせる 潮来かな

 潮来の街中に西円寺とい寺がある。
ここに変わった石碑が置かれている。

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小林一茶の句を夏目漱石が書を書いて、そこに小川芋銭がしゃれた絵を描いた「三愚集」から

 「三味線で 鴫(しぎ)を立たせる 潮来かな」 

の句をえらび、この石碑に写したものだ。

以前来たときにはこの石碑はかなり見づらくなっていたが、今回きれいに修復したようだ。

この三愚集はなかなか面白い。 土浦でつくられた本だ。

もっとも一茶はこの潮来に来ているが、句を作ったのは潮来ではなかったという。

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デジタルアーカイブにデータがあったので全句を知ることができたので、自前用に復元してみたい。

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この句の石碑が何故、この寺にあるのかというと、潮来は江戸時代は有名な遊郭があった。

その時代に亡くなった身寄りのない遊女も、この寺では丁寧に弔い墓を建てた。
その遊女の墓があるからだろう。

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三愚集 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/16 23:05

日本と韓国の人口

このブログも昔お蔵入りとなった記事の整理をしようと、書きかけのものを削除しようと見ていた。
その中に2015年5月24日 (今から4年前) の記事があった。
4年も経ったが、この頃に比べて今は日韓関係も最悪だと。 改善していないとなあ・・・・
とのことで、当時思っていたことを残しておくことにした。

-------------2015.05.24 作成--------------
 日韓関係がかなり悪化している。
あれほど韓流ブームと騒がれていたのが嘘のようだ。

まだテレビなどでは韓流ドラマが毎日のように放送されているが、一時期に比べたらかなり減った。
残念ながら私は韓国ドラマはどうも苦手で見たことはほとんどない。

戦後生まれの人がほとんどになった時代に「日本が悪い。謝れ!」と言われても、もう前に謝り謝罪し、賠償金も払って和解したのになぜこうもいつまでも叫び続けるのか?というのは多くの国民の気持ちだろう。

国民性の問題もあるが、いくらおとなしい日本人でも良い気持ちを持たなくなるのは当然で、何故前向きな方向を向いて仲良くできないのかと思う。

昔韓流ブームが始まるより大分前だが勤務先の大型機械の注文とりの仕事でソウルに行った。
向こうの人とはかなり親密に話せたしお互いに悪い感情は持たなかったと思う。

しかし最後にひっくり返った。ヨーロッパ企業に発注された。

何がいけなかったかとその頃考えたが相手は日本と韓国の両方の資本を持つ合弁企業で、その韓国側の首脳陣が主導権を持っており、どうもあまり日本に良い思いを持っていなかったらしいことを知らされた。

ソウル近郊の土産物屋などでは日本人相手に「社長、社長」などとすぐ寄ってくる場所もかなりあったが、表面の態度と心の奥に持っている隠された感情が違うのではないかと感じるようになった。

ソウルの金浦空港まわりも緑の少ないハゲ山でこれも戦争のせいだと聞いたこともやはりショックであった。

母などからむかし歌ったという「紀元二千六百年」などという歌を良く歌ったと聞いたことがあったが、これは昭和十五年に皇室が2600年を迎えるということを祝って作られた歌というが、戦後教育を受けたものにはあまりにも滑稽で内容はとても信じられるものではないが、皇室が朝鮮半島からやってきたということはほぼ間違いのないところで日本人も韓国人も似た人種なのだ。

しかし日本人のDNAを調べると1万年以上前からこの島に住んでいたという縄文人と韓国や中国などのDNAをかけ合わせた

戦後生まれの者にとって教育の違いもあるが私は昔から日本と韓国の人口の違いに注目している。

日本の総人口が約1億2700万人(2015年)。それに対して韓国は人口約5000万人弱(2006年)と日本の半分以下。
 高齢者の割合で見ると65歳以上は日本が25%強、韓国は約10%とまだかなり余裕がありそうに見える。
しかし、韓国は人口の多くが首都ソウル近郊に集中しており、高齢化も急速に進んでいる。

日銀の黒田総裁が先日シンガポールの欧州中央銀行の会合で「日本の労働人口の減少が、日本の潜在的な経済成長力に対し、大きな脅威となる」と言ったという。
現在まわりを見ても年寄りばかりで、女性もある年齢以上の人はほとんど働いていない。
(働く人というのはちゃんと税金を納めている人ということ)

これはいつも感じることで、これだけの長寿国になったら働く人口を確保しなければどうにもならないのであるから、やむを得ないことで、働けない人は別として働かないとこの国はやっていけないということだ。

私もこの春からほぼ年金の生活になってしまったので「まだ働けるぞ!」と気持ちはあれど仕事はそんなに思うようにはならない。

70歳くらいまで(あと3年)は元気なので何処かで働きたいものである。

さて、それはともかくとして、この日本の人口が1億人を切ると大変なことが起こると思っている。
老齢人口の増加もあるがそれ以外にも日本は独自の文化をもっていて、現在アニメだの歌舞伎だの独特の文化を世界に発信しているが、これが人口1億を切ると成り立たなくなると感じているのだ。

携帯電話も日本独自の発達を遂げガラパゴスなどとも言われるが、これは人口が1億以上いるから内需があり成り立つのだ。

韓国は人口が日本の半分以下であり、国内消費だけではこのような文化は成立しない。

人口をこのようにとらえないとこれからの政策は全く間違った方向に行きかねない。
老人福祉などにやさしい国は当然必要だが、働けるものはもう少し働いてそれが消費にも回るように仕組みを変えてほしいものだ。
そうでなければ完全な福祉国家を目指すしかないが、資源の乏しい日本では現状ではやはり物を作って輸出していかなければ三流国にならざるを得ないだろう。


日本企業はまだヨーロッパなどに比べ合併などが少ないようだ。
私の知っているヨーロッパの大きな企業もあっという間に統合されたり吸収されて名前が変わっていった。

サンヨーがパナソニックになり、シャープが大幅資本金減額。
資本金を減らせば外国資本に吸収されてしまうリスクは大幅に増す。

電気業界の再編はまだ途についたばかりなのかもしれない。
昔心配したことが現実になってきている。

地元石岡市の「まちおこし」などということでも、やはり街中に活気がないというのは他所からの働く人口の流入が少ない事が最大の問題点だと思う。

市のキャッチフレーズも「古都1300年の歴史と郷の文化に出会える街」といわれるが、今年から「石岡市子ども・子育て支援事業計画」も始まった。

古都の歴史ゾーン、里山田舎暮らしゾーンだけではなく、企業を誘致して子育て働く人たちを増やすことも最重要課題だと思う。

自分でできることはわずかであるが、これからは少しずつこれらの活動にも積極的に目を向けていきたいと思う。

-----------ここまで------------------

さて現在は私も70歳を超えてしまったが、この頃からあまり変っていない。反省です。



雑感 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/18 11:52

デジカメの破損でしばらく写真なし。

 昨日、ミラーレスカメラのレンズキッドが一部壊れた。
落としたりしたわけでもないのに・・・・

いつもブログに写真を入れているが、しばらく無しでもいけるか・・・・・

昨日も仕事で銚子へでかけた。
本当は銚子市内を少し調べたいことが出来ていたので立ち寄るところも決めていたが、カメラが無ければ・・・
今はスマホでもとの考えもあるだろうけど、スマホを持っていない人間にはどう対処してよいか・・・・

まあ、いつもよりこのカメラの様子を調べていて出発が少し遅くなった。
街道脇にはきれいに植えられたかわいい苗の行列と、水面に映る景色を楽しみながら進んだ。

潮来を過ぎ、広い道路を神栖町へ入る手前で、急に渋滞が始まった。
珍しいことだ。 なかなか前に進まない。

渋滞の原因は車の衝突事故であった。
乗用車と中型トラックが衝突し、乗用車はかなり破損がひどかった。
事故処理のため、車線規制がされての渋滞で、15分くらい遅れただろうか?

この道はまっすぐ平らな道で、片側2車線~3車線の道路なので、どうしてもスピードが上がる。
しかし、そんなにスピードを出さなくても時間もそれほど変らない・

沿道では銀色のチガヤ(茅)の穂が車の風で白くきらきらと輝く。
風がないとまだ出たばかりの穂は白よりは銀色に近い。
しかし、それが風になびくと白く太陽の光を反射して光り輝く。

銚子漁港の旧家「西広(にしびろ)家」を少し見てくるつもりだったが、これは次回に譲ろう。
西広という名前はここ銚子を中心とした千葉県と、広島県にのみ集中しているようだ。
銚子の西広家は江戸時代後期に和歌山県からやって来て、銚子で漁業(船主)をしていたようだが、そのごイワシの缶詰製造で財をなしたという。
イワシ=鰯 と書くように痛みが早く(足が早い)新鮮なイワシを東京に送るのに缶詰生産を思いついたという。

まあ、川口神社に近いようなのでもう少し調べてから現地を見てみよう。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/18 12:28

キリギリス

 先日、潮来の西円寺に置かれていた句碑を紹介した。
これは「三愚集」として大正九年に木版による画帖仕立ての俳画集として土浦の秋元梧樓氏によって非売品で製作されたもので、小林一茶の俳句27句を夏目漱石が書し、小川芋銭が俳画を描いたものです。
非売品のため何冊作られ他かもわかっていない。ただこの土浦の秋元家には版画の原画なども残され、復刻もされている。

その中に面白いのがあったので紹介しておきたい。

三愚集_07P

★ きり/\す今日や生れんすみれさく 

 これは一茶の七番日記に 「蛬けふや生れん菫さく」 という句がある。

この句に対して 芋銭が描いた絵は次の絵だ。

三愚集_08P

なかなかウィットに富んだ洒落た絵だ。

調べてみるとキリギリスの句は一茶の句にかなりあり、次のようなものがあった。

★ 小便の身ぶるひ笑えきりぎりす
★ 小便をするぞ退け退け蟋蟀(きりぎりす)
★ 涼風や力一ぱいきりぎりす

やはりこれらの句を意識して描かれた絵ですね。



三愚集 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/05/19 09:57
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