三味線で鴫を立たせる潮来かな No.21
≪三愚集≫No.21 三味線で鴫を立たせる潮来かな(小林一茶)
八番日記に 「三味線で鴫(さぎ)を立たする潮来哉」 とある
三愚集の27句ある一茶の俳句の21番目は最初に載せたこの潮来の句です。(紹介がダブリますがお許しください)
潮来は江戸時代には鹿島神宮を中心とした三社めぐりなどの拠点であり、歓楽街でもありました。
そのためたくさんの芸子さんたちがおり、江戸の情報もいち早く伝わってきていました。
この句は当時の潮来の花街としてのにぎやかさを伝えてくれます。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
小川芋銭の絵は一茶の句をそのまま見事に表現した絵となっています。
一茶は熱心な浄土真宗の信者だったようで、潮来の浄土真宗の西円寺には、江戸時代に身よりのない遊女などを供養した「遊女の墓」があり、またこの三愚集の句の石碑(平成13年建立)が置かれています。
一茶が潮来を訪れたのは、「七番日記」に書かれている、文化14 年(1817)5月26 日、旧北浦村の八反田、根木田、旧大洋村の札、旧大野村の武井を通り鹿島神宮を参拝して、大船津より舟(64文)にのり板久 の俵屋に泊まる(150 文)」とあり、当時の旅の様子や代金がわかります。
この一茶の句は七番日記にはなく、その後の八番日記に記載されており、詠んだのは故郷長野でのことのようです。
潮来でのことを思いだして詠んだのでしょう。
また、小川芋銭も銚子・海鹿島にある石岡・高浜の笹目氏の別荘に逗留していて、潮来とも縁は深そうだ。
夏目漱石もまた潮来に来ていたようです。
八番日記に 「三味線で鴫(さぎ)を立たする潮来哉」 とある
三愚集の27句ある一茶の俳句の21番目は最初に載せたこの潮来の句です。(紹介がダブリますがお許しください)
潮来は江戸時代には鹿島神宮を中心とした三社めぐりなどの拠点であり、歓楽街でもありました。
そのためたくさんの芸子さんたちがおり、江戸の情報もいち早く伝わってきていました。
この句は当時の潮来の花街としてのにぎやかさを伝えてくれます。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
小川芋銭の絵は一茶の句をそのまま見事に表現した絵となっています。
一茶は熱心な浄土真宗の信者だったようで、潮来の浄土真宗の西円寺には、江戸時代に身よりのない遊女などを供養した「遊女の墓」があり、またこの三愚集の句の石碑(平成13年建立)が置かれています。
一茶が潮来を訪れたのは、「七番日記」に書かれている、文化14 年(1817)5月26 日、旧北浦村の八反田、根木田、旧大洋村の札、旧大野村の武井を通り鹿島神宮を参拝して、大船津より舟(64文)にのり板久 の俵屋に泊まる(150 文)」とあり、当時の旅の様子や代金がわかります。
この一茶の句は七番日記にはなく、その後の八番日記に記載されており、詠んだのは故郷長野でのことのようです。
潮来でのことを思いだして詠んだのでしょう。
また、小川芋銭も銚子・海鹿島にある石岡・高浜の笹目氏の別荘に逗留していて、潮来とも縁は深そうだ。
夏目漱石もまた潮来に来ていたようです。
明月の御覧の通り屑家かな No.22
≪三愚集≫No.22 明月の御覧の通り屑家かな(小林一茶)
文化五年八月句日記に 「明月の御覧の通り屑家(くづや)也」 とある
小林一茶は故郷長野(柏原)の父の遺産を巡って1801年から1814年までの長い間、腹違いの弟との間で財産をめぐって争いが続いた。これは結構どろどろした話し合いとなったとされています。
そして財産を分けて柏原(豪雪地帯)の土蔵を得たという。
この土蔵で一茶は亡くなっています。
上の俳句は裏にこの得た家はこんなボロ屋だと言っているかもしれません。
わびさびなどの趣を句に感じますが、一茶の気持ちとしてはどんなだったのでしょうか。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
文化五年八月句日記に 「明月の御覧の通り屑家(くづや)也」 とある
小林一茶は故郷長野(柏原)の父の遺産を巡って1801年から1814年までの長い間、腹違いの弟との間で財産をめぐって争いが続いた。これは結構どろどろした話し合いとなったとされています。
そして財産を分けて柏原(豪雪地帯)の土蔵を得たという。
この土蔵で一茶は亡くなっています。
上の俳句は裏にこの得た家はこんなボロ屋だと言っているかもしれません。
わびさびなどの趣を句に感じますが、一茶の気持ちとしてはどんなだったのでしょうか。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
初雪がふるとや腹の虫が鳴く No23
≪三愚集> No.23 初雪がふるとや腹の虫が鳴く(小林一茶)
七番日記に 「はつ雪が降とや腹の虫が鳴る」 とある
(文化7年末 1810年 一茶 48歳)
この年、長野に帰京して遺産分け交渉するも不調。
故郷の冬は雪深い地方だ。
友人宅に泊まり、持ち金を紛失したこともあり、心も少し落ち込んでいたようだ。
○ ちる花や已(すで)におのれも下り坂
○ 生きて居るばかりぞ我とけしの花
などと句がある。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ 腹の虫しかと押へてけさの雪
★ 初雪や故郷見ゆる壁の穴
★ はつ雪をいま~しいと夕哉
★ はつ雪のひつゝき安い皺手哉
★ はつ雪や朝夷する門乞食
★ はつ雪や犬なき里の屑拾ひ
七番日記に 「はつ雪が降とや腹の虫が鳴る」 とある
(文化7年末 1810年 一茶 48歳)
この年、長野に帰京して遺産分け交渉するも不調。
故郷の冬は雪深い地方だ。
友人宅に泊まり、持ち金を紛失したこともあり、心も少し落ち込んでいたようだ。
○ ちる花や已(すで)におのれも下り坂
○ 生きて居るばかりぞ我とけしの花
などと句がある。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ 腹の虫しかと押へてけさの雪
★ 初雪や故郷見ゆる壁の穴
★ はつ雪をいま~しいと夕哉
★ はつ雪のひつゝき安い皺手哉
★ はつ雪や朝夷する門乞食
★ はつ雪や犬なき里の屑拾ひ
老木やのめる迄もと帰り花 No.24
≪三愚集≫No.24 老木やのめる迄もと帰り花(小林一茶)
七番日記に 「老木やのめる迄もとかへり花」 とある
帰り花(かへり花)は冬の季語である。
辞書には11月頃の小春日和に、桜、梅、梨、躑躅などの草木が本来の季節とは異なって咲かせた花のことを言うと書かれている。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ 凩に匂ひやつけし帰花 (松尾芭蕉 『後の旅』)
★ かへり花暁の月にちりつくす (与謝蕪村 『夜半叟句集』)
★ あたら日のついと入りけり帰り花 (小林一茶『享和句帖』)
七番日記に 「老木やのめる迄もとかへり花」 とある
帰り花(かへり花)は冬の季語である。
辞書には11月頃の小春日和に、桜、梅、梨、躑躅などの草木が本来の季節とは異なって咲かせた花のことを言うと書かれている。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ 凩に匂ひやつけし帰花 (松尾芭蕉 『後の旅』)
★ かへり花暁の月にちりつくす (与謝蕪村 『夜半叟句集』)
★ あたら日のついと入りけり帰り花 (小林一茶『享和句帖』)
もうすぐ梅雨だが・・・・
昨日(6/3)の銚子港の昼
朝方は結構涼しかったが昼に近づくにつれて天気は良くなった。
ここは大新河岸付近 海ではなく利根川沿い。
小型漁船のプール
大型船はもう少し東の川口町(第2漁港?)側に停まっている。
波は静かだ。
今は昔から有名なイワシの漁時??
梅雨時期になるとやはり食べたくなる。
昼飯には、ここ2回続けてイワシの刺身や漬丼を食した。

朝方は結構涼しかったが昼に近づくにつれて天気は良くなった。
ここは大新河岸付近 海ではなく利根川沿い。
小型漁船のプール
大型船はもう少し東の川口町(第2漁港?)側に停まっている。
波は静かだ。
今は昔から有名なイワシの漁時??
梅雨時期になるとやはり食べたくなる。
昼飯には、ここ2回続けてイワシの刺身や漬丼を食した。

三昧塚古墳も・・・今
国道沿いの三昧塚古墳。
横を車で月に数回通っている。
先日から黄色いタンポポのような花がいっぱい咲いている。
これはブタナというらしいが、もう少ししたらきっと刈り取られてしまうだろう。
まあ今のうちに・・・・・ 少し戯れておきたい。


横を車で月に数回通っている。
先日から黄色いタンポポのような花がいっぱい咲いている。
これはブタナというらしいが、もう少ししたらきっと刈り取られてしまうだろう。
まあ今のうちに・・・・・ 少し戯れておきたい。


必や湯屋やすみて初時雨 No.25
≪三愚集≫No.25 必や湯屋やすみて初時雨(小林一茶)
七番日記に 「必や湯屋休みてはつ時雨(しぐれ)」 とある

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
芋銭はこの「湯屋」と「初時雨」(冬の季語)でこのような絵を描いた。
何とも洒落た感じである。
江戸の街というよりは一茶の故郷(長野)の田舎を想像したのかもしれない。
一茶は故郷長野では湯田中温泉によく通ったという。
特に江戸との行き来の途中には、この湯田中を通っていたために必ず利用したようだ。
そのため、現在湯田中温泉の裏山には「一茶の散歩道」と名付けられた遊歩道があるそうです。
★ 座敷から 湯にとび入るや初時雨
★ 雪ちるやわきすててある湯のけぶり
★ 子どもらが雪喰いながら湯治哉
七番日記に 「必や湯屋休みてはつ時雨(しぐれ)」 とある

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
芋銭はこの「湯屋」と「初時雨」(冬の季語)でこのような絵を描いた。
何とも洒落た感じである。
江戸の街というよりは一茶の故郷(長野)の田舎を想像したのかもしれない。
一茶は故郷長野では湯田中温泉によく通ったという。
特に江戸との行き来の途中には、この湯田中を通っていたために必ず利用したようだ。
そのため、現在湯田中温泉の裏山には「一茶の散歩道」と名付けられた遊歩道があるそうです。
★ 座敷から 湯にとび入るや初時雨
★ 雪ちるやわきすててある湯のけぶり
★ 子どもらが雪喰いながら湯治哉
大根引大根で道を教へけり No.26
≪三愚集≫No.26 大根引大根で道を教へけり(小林一茶)
七番日記に 「大根引(だいこひき)大根で道を教へけり」 とある
この句の意味は 畑で大根を採っている人に道をたずねたら、引き抜いて手にしていた大根で行く方向を指し示して道を教えた、という句である。
まあそれだけの句で、その情景はすぐに浮かんでくるが、小川芋銭の書いた絵は
二股大根を手にして振り回している武将のような姿
の絵である。
芋銭はこの句から何を想像したのだろうか。
「大根役者」などという言葉を思い描いたのだろうか。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
この武士の姿は、その姿から歌舞伎の隈取りをした役者の姿という。
でもいわゆる大根役者ではない。
歌舞伎に歌舞伎十八番の代表作として有名な「矢の根」という演目がある。
蘇我兄弟の仇討を描いたものだが、弟の曽我五郎が父の仇(工藤祐経)を討つために正月でも矢の根(ひじり)を研ぐというものだ。
この中に有名なシーンとして大根が出てくる。
ある日、五郎の夢に兄の十郎が現れ、「祐経に捕らえられた、助けてくれ」とさけぶのである。
五郎は驚いて飛び起きると、そこにたまたま大根を売りに来た馬子から、馬をむりやり奪って乗り、そして大根を鞭にして馬を急がせ、兄のもとへと向かう
というシーンを思い浮かべたものらしい。
まあ、三愚集は一茶の27の句に書を夏目漱石にたのみ、絵を小川芋銭に書いてもらったものだが、それぞれに句の内容を調べて想像しながら書いたようだ。
かなり奥が深いともいえる。
残るはあと1句。
七番日記に 「大根引(だいこひき)大根で道を教へけり」 とある
この句の意味は 畑で大根を採っている人に道をたずねたら、引き抜いて手にしていた大根で行く方向を指し示して道を教えた、という句である。
まあそれだけの句で、その情景はすぐに浮かんでくるが、小川芋銭の書いた絵は
二股大根を手にして振り回している武将のような姿
の絵である。
芋銭はこの句から何を想像したのだろうか。
「大根役者」などという言葉を思い描いたのだろうか。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
この武士の姿は、その姿から歌舞伎の隈取りをした役者の姿という。
でもいわゆる大根役者ではない。
歌舞伎に歌舞伎十八番の代表作として有名な「矢の根」という演目がある。
蘇我兄弟の仇討を描いたものだが、弟の曽我五郎が父の仇(工藤祐経)を討つために正月でも矢の根(ひじり)を研ぐというものだ。
この中に有名なシーンとして大根が出てくる。
ある日、五郎の夢に兄の十郎が現れ、「祐経に捕らえられた、助けてくれ」とさけぶのである。
五郎は驚いて飛び起きると、そこにたまたま大根を売りに来た馬子から、馬をむりやり奪って乗り、そして大根を鞭にして馬を急がせ、兄のもとへと向かう
というシーンを思い浮かべたものらしい。
まあ、三愚集は一茶の27の句に書を夏目漱石にたのみ、絵を小川芋銭に書いてもらったものだが、それぞれに句の内容を調べて想像しながら書いたようだ。
かなり奥が深いともいえる。
残るはあと1句。
庭の花
もうすぐ梅雨の気配です。
我が家でも紫陽花が咲き始めました。
つい2~3日前まではまだつぼみも小さかったのに・・・・・。
各所でもきっと咲き始めたことでしょう。


家の入り口に大きな柘榴(ザクロ)の木がある。
今の時期にこのような赤い可憐な花をつける。
「万緑叢中紅一点」というが、この紅一点の花が一面緑の草原の中の柘榴の赤い花1点だという。

我が家でも紫陽花が咲き始めました。
つい2~3日前まではまだつぼみも小さかったのに・・・・・。
各所でもきっと咲き始めたことでしょう。


家の入り口に大きな柘榴(ザクロ)の木がある。
今の時期にこのような赤い可憐な花をつける。
「万緑叢中紅一点」というが、この紅一点の花が一面緑の草原の中の柘榴の赤い花1点だという。

年花や四十九年の無駄あるき No.27
≪三愚集≫No.27 年花や四十九年の無駄あるき(小林一茶)
七番日記に 「月花や四十九年のむだ歩き」 とある
1811年(文化8年) 一茶が49歳の時の句だ。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
三愚集に選ばれている一茶の27句の最後の句です。
夏目漱石は「年花や」と書き、 七番日記には「月花や」とある。
月だ花だとそれを愛でて句などを書き、旅を続けてきたが・・・・・・・・
故郷での遺産問題が、10年もの期間を費やしてようやく決着を見た時の心境か?
芋銭の絵も 旅で訪れた道祖神や神社などを思わせる。
擦り減らした草鞋を取り換えたのだろうか・・・・
三愚集は一度自分なりに見てみたかった。
これから自分用に手元に置く本にでもしてみようかと思う。
まとめたら、また紹介しましょう。
七番日記に 「月花や四十九年のむだ歩き」 とある
1811年(文化8年) 一茶が49歳の時の句だ。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
三愚集に選ばれている一茶の27句の最後の句です。
夏目漱石は「年花や」と書き、 七番日記には「月花や」とある。
月だ花だとそれを愛でて句などを書き、旅を続けてきたが・・・・・・・・
故郷での遺産問題が、10年もの期間を費やしてようやく決着を見た時の心境か?
芋銭の絵も 旅で訪れた道祖神や神社などを思わせる。
擦り減らした草鞋を取り換えたのだろうか・・・・
三愚集は一度自分なりに見てみたかった。
これから自分用に手元に置く本にでもしてみようかと思う。
まとめたら、また紹介しましょう。