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疲れたら少し休めと野の花に言われた。

我が師である白井啓治さんが亡くなられて10日ほどが過ぎた。

先週はなんだか力も湧かず、またいろいろなことで忙しい一週間であった。
風の会の会報の編集からその印刷、またその間に仕事でまた銚子にも車を走らせ、東京には2日続けて行った。
どうにか今週は少し気分的にはのんびり出来そうだ。
自作本も在庫が少なくなってきてしまい、昨日から又少しずつ印刷・製本を始めた。

東京では大学時代の友人との懇親会もあり、10人ほどの気心の知れた友人の集まりであるこの会も15年ほど続いている。
最初は年1回年末に集まったが、最近は暑気払いと称して2回の集まりが続いている。
まだ現役のように仕事をしているものが半分ほどいる。多くが東京近辺に暮らしており、私は遠い方だが、それでもほとんど欠かさず出かけている。
そして皆の変らぬ様子を見て、聞いて何だかほっとした気分になる。

茨城の地域興し的な話になるとつい熱が入り自分の本を無理やり押し付け差し上げているがいやな顔もせずに受け取ってもらい、後でお礼のメールまで頂戴し、「○○さんの郷土愛に感動した」などといわれて一人悦に入っているのである。

何故、それまで文学や歴史などに何の興味も無く、ましてや造詣も深くない分野にのめり込んでしまったのだろうか。
自分でも不思議である。

しかし、このような分野も理屈屋の理系人間である自分のような者にも意外とあっているのかもしれない。
結構おくが深い。

近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/07/10 06:35

風に吹かれて「一行文」

 ふるさと風の会の白井啓治先生が亡くなり約2週間が過ぎた。

この会も残されたメンバーでまだ続けていかねばならないが、これが結構難しい。

白井先生の存在があまりにも大きすぎるからだ。

奥さまから師の残された遺品をお預かりした。

今までに作られたことば座の脚本、公演のCD、風の会の会報などの原稿USBなどさまざまお預かりした。
中でもこの茨城(石岡)の地にやってきて1年後くらいから書き始めた「風に吹かれて」の一行文が実にたくさんある。

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2005年頃から亡くなる直前まで毎日のように綴られていた。

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小林一茶が残した句は22000句ほどあるというが、それを意識されたのかどうかはわからないが、5000件以上はありそうだ。
どれだけあるかはこれから整理することになるが1万件くらいあるかもしれない。

15年x365日x1件/日=5250件であるから、毎日1件~2件くらいのペースで書き残していたものだろう。

さて、これからどのようにこれをまとめていこうか思案のしどころだが、時間があまり採れないのが悔しい。

先生少し時間を下さいね。

もしかしたら1年や2年では終わらないかもしれません。

まずはすべてパソコンに入力してデータベース化からはじめます。

先生も途中まで入力を始めていた様子ですが、ところどころ変更された形跡がありました。
また同じダブっている文もありそうです。

やっと、種田山頭火や小林一茶にのめり込んでいったということがわかってきましたよ。



ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/15 07:04

志筑(しづく)の下池

 かすみがうら市志筑地区は石岡のとなり。
恋瀬川を渡ったところにある。

その昔、志筑城のあったところには、最近まで志筑小学校があったが、数年前に下の街中に新しく校舎を建てて移っている。

そして昔の城跡近くにはやはり池があり、500羅漢で知られる長興寺がある。
多分そちらが上池で、この少し下にある池が「下池」なのだろう。

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春は池の周りに桜がきれいに咲くが、今は池一面に水草が覆っていて、緑でいっぱいだ。

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この水草の種類はわからないが、横を通るたびに気になっている。
小さな蓮のような葉ではあるが、白い蓮の花は咲いていない。

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池のそばの古木の下に「二十三夜尊」の石碑や小さな祠が置かれていた。

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/15 23:05

池花池のひつじ草

石岡の北、 石塚街道を北上した小美玉市部屋に池花池という池がある。

ここには冬にはたくさんのハクチョウが飛来することで知られているが、今の時季には池一面に「ひつじ草」の可憐な花が咲く。

ひつじ=未 で時刻は午後2時ころを意味し、今日もこの時刻頃に丁度この近くを通った。
一面にびっしりと葉が水面を覆い、可憐な花が咲いていた。

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「ひつじ草」は「琵琶湖周航の歌」の原曲の題名であったようなので、琵琶湖にもきっとたくさん咲いていたのだろう。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/15 23:25

笠間きらら館にて

 笠間の芸術の森入口にある「きらら館」での外山亜基雄、高橋協子二人展を見てきました。

いつも忙しくしているのに高橋さん お会いできてうれしかったです。

写真をUPしておきますね。 今回は猫がテーマのようです。

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きらら館

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二人展はその一階の分かれた展示スペース。

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お二人の素敵な作品が並びます。
猫ばかりでなく、この狸、キツネの酔いどれぐい飲みも展示してありました。
からす天狗さんは新しいバージョンでしょうか。

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猫の小皿も可愛いですね。

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こちらは外山さんの作品

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きらら館は結構人も多く来ていました。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/16 00:15

天狗湯を探せ!(その一)

 天狗湯を探せ! っていったい何? と思いますよね。

実は今回から数回に亘って千葉県銚子市で、「天狗湯」というもう大昔に無くなってしまった銭湯を探した探訪記を載せようと思います。
これは、私の記録的な内容ですので興味のある方はお付き合いください。

<プロローグ>

 江戸時代の終わり頃(文政3年:1820年)、江戸の街中に天狗に攫(さら)われて数年して戻ってきたという少年が現れた。
少年の名は「寅吉」といい、戻ってきたときは15歳であった。

当時、神道思想の研究をしていた国学者の「平田篤胤(あつたね)」はこれを知って、すぐにこの少年を家に招いた。
そして少年の話す天狗の世界の体験談を聞き取り、これを『仙境異聞』という書物にまとめたのだ。

寅吉少年の話によると、寅吉は江戸下谷池の端七軒町のたばこ売り越中屋與惣次郎の子であり、7歳の時に上野池の端の五条天神前で遊んでいると、そこで不思議な男が毎日のように丸薬を売っていた。この男は仕事が終わると小さな壺に道具と共に自分も入って、その壺ごと、どこかに飛んで行ってしまった。
あまりの不思議さに、この術を知りたくなった寅吉は、数日後また薬売りにやってきていたこの男に話しかけ、誘われるままにこの男と、この小さな壷に入ってしまった。
そしてたどり着いた場所が、茨城県の南台丈(現難台山)で、その後に近くの岩間山(現:愛宕山)に連れて行かれた。
そして、ここには13人(疋)の天狗が暮らしており、この男はその13天狗の首領で「杉山僧正」といった。

そして、この岩間山で天狗と共に約8年間過ごし、この間に、この杉山僧正から天狗界(神仙界)の話を聞き、天狗の修行もし、また天狗に背負われて世界各地の見物をしたという。そして、15歳に時に浅草観音堂前にもどされたという。

戻ってきた寅吉少年の話を聞き取ってそれをそのまままとめたかたちで書かれている仙境異聞(1822年刊行)だが、寅吉少年は、それからもちょくちょく岩間山にも戻っていたらしく、この本には篤胤が、この杉山僧正宛てに手紙を書き、それを寅吉少年に託したという手紙も含まれている。

平田篤胤は、この約20年後の1843年に他界しているが、この寅吉少年がその後どうなったかということを調べた人がいる。

心霊研究で知られる浅野和三郎氏だ。
浅野氏は明治7年に利根川下流の現茨城県河内町の医者の家に生まれ、東京帝国大学英文学科を卒業後海軍学校の英語教師をしていた。
しかし、大正4年に三男が原因不明の熱病になり、多くの医者にかかっても治らず、三峰山の女行者の言葉により快癒した事から熱心に心霊研究をするようになったといわれています。

この浅野和三郎氏がこの寅吉少年のその後を調べ、さらに門下の河目妻蔵氏によって追跡調査がなされ、大正14年10月の「心霊と人生」誌(10号)に「寅吉の晩年」と題して発表された。

それによると、寅吉は天狗の首領である杉山僧正からもらった名前「嘉津間」を名乗り(石井嘉津間)、平田篤胤の弟子のひとりの五十嵐という神職を兼ねた医者からの要請で、千葉県笹河村の諏訪神社(香取市笹川の諏訪大神)で神職をしながら、天狗直伝の法術で病気治しを行っていたのだそうです。

これが近隣はもとより遠方まで評判を呼んでいたといいます。

そして53歳の時に奉公していた女中しほとの間に男の子が生まれ、「嘉津平」と名付けました。

この後、寅吉は安政6年(1859年)12月に「僧正からの急なお召だ」と言いながら死去したそうです。
その際に、天狗秘伝の薬の処方箋とともに薬湯をはじめよとの遺言を残し、子孫は銚子で二神湯(通称:天狗湯)という銭湯を始めました。

そしてこの湯は皮膚病や火傷、冷え性に薬効があると評判になり昭和30年代頃まであったそうです。

では、この「天狗湯」がどのような場所で営業されていたのか、調べてみようというのがこの「天狗湯をさがせ!」のテーマです。
なんだか頼りない情報ですが、銚子には毎月3回ほど通っています。

午後一番からは仕事の打ち合わせで、この湯の探索は昼飯を含めた1回午前中1時間ほどの時間しかありません。
しかし、調べていくうちに銚子の歴史の足跡を追いかけているような不思議な気持ちになりました。
もう、天狗湯にあまりこだわるのではなく、そこに生活をしている方達との会話などの方がとても気持ちよく感じました。

ここからは、あまり知られていない銚子の歴史などにも触れた記録を残して行きたいと思います。
単なる紀行文としての面白さが表現できるようになるといいのですが。

次回から数回に分けて書いていきます。

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(岩間山の飯綱神社裏手の十三天狗を祀った祠と六角殿)

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岩間山の13天狗の民話については以下のサイトなどを参照ください。

茨城の民話Webアーカイブ:http://bunkajoho.pref.ibaraki.jp/minwa/minwa/no-0801200005
笠間市(『いわまの伝え話』岩間町教育委員会):https://www.city.kasama.lg.jp/page/page000170.html
愛宕神社(岩間)-十三天狗の杜:http://www.rekishinosato.com/iwamaatago.htm
長楽寺の天狗: http://www.rekishinosato.com/essayW_16.htm


<天狗湯を探せ!> シリーズ全体は ⇒ こちら から


天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/20 15:15

天狗湯を探せ!(その二)

<西広(にしびろ)家>

 さて、寅吉の遺言で天狗直伝の薬草とその製法を子孫に伝え、薬湯の銭湯を始めることになった寅吉の息子(嘉津平)ですが、何故その銭湯が銚子に作られたのでしょうか?

その理由は、笹川で神職につきながら、この天狗秘伝の医術でいろいろな難病の回復があったとされ、その中に銚子の富豪の子供の眼病を治したという。
この富豪が「西広重源」という方だそうで、この人のお世話により銚子の風光明媚な場所にその薬湯銭湯「天狗湯」ができたとされています。

また、場所としては港町の東部本銚子町の中央、松林の別荘帯に位置して常陸の鹿島に面し、利根川河口をのぞむ風光絶佳の地」と書かれていました。

さて、これだけ情報があれば50年以上前にすでに廃業となっていてもすぐにわかるだろうとたかをくくっていたのです。
しかし、実際は場所が特定されるまで4~5回も足を運んでしまいました。

そして思わぬことにそれがとても面白く、探すことの楽しさを味わうことになりました。

その顛末を数回に分けて書いてみたいと思います。

まずは「西広重源」なる富豪ですが、合致する方はわかりませんでした。しかし「重源(ちょうげん?)」という名前は奈良の東大寺を再興した僧の名前と同じであり、法名のようなものかもしれません。となると「西広」という名前を頼りに調べてみました。
西広という名前は全国にあまりおらず、銚子を中心とした千葉県と広島県にほとんどの方が集中している事がわかりました。

また銚子の中を調べていると銚子市川口町にある「西廣(にしびろ)家住宅」が国の登録文化財に指定されていることが判明しました。
その文化財登録の名称は日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」となっています。

登録の説明には、
 『西廣家は江戸時代末期に紀州(和歌山県)から移住し、銚子の漁業を支えた代表的な漁家のひとつ。かつお節や缶詰などの加工品の生産に乗り出したことでも知られる。』 とあり、

また、『西廣家は銚子市を代表する船主で、江戸時代末期に紀州から移り住み、初代が質屋を営みながら質種として土地を取得し大地主となりました。そして、2代目治郎吉(じろきち)氏が漁業を始めました。
  船名は信仰していた長野県の御嶽山からとった「御嶽丸(おんたけまる)」で、屋号は漁業を始めた2代目の名前をとり、「治郎吉」になります。現在でも主屋の玄関上部にその表記が見られます。
1877年(明治10)に建てられた木造平屋桟瓦葺、寄棟造の本館と1937年(昭和12)に総檜、洋館が建てられました。豪壮な本館と、付書院に犬吠埼の風景をあしらうなど細部意匠をこらす増築部分が対照的です。
昭和初期に、痛みの早い鰯を保存することを目的として、水産缶詰工場が稼働を開始しました。木造2階建て部分と洋小屋組木造トラス(一部鉄骨) の工場部分が連結する形になっています。 木造2階建ての部分の一階は土間で工場と連続し、2階部分は地方からやってきた従業員の居住スペース確保するために1935年(昭和10)に建てられました。 元の平家部分の南側には、獲れた魚の鮮度を保つため氷漬けにするためのコンクリート造りの水槽が置いてありました。』 と書かれています。

また、歴史的には、銚子の街は太平洋戦争で大きな被害を受け、飯沼観音も焼け、街中の主要な建物が焼失してしまいました。
しかし、この街のはずれにあった西広家の建物は幸いにも空襲で焼けずに残った貴重な建物だったようです。

要約すれば、銚子は驚くほど和歌山出身者が多く、西広氏も和歌山から江戸時代末期にやってきて、質屋で財をなし、多くの土地を手に入れた。そして2代目「治郎吉」が漁業をはじめ、船主となったが、痛みの早いイワシを新鮮なうちに加工してしまおうと缶詰工場を建てた。これが成功して大きくなった。ということでしょうか。

ではまずはこの西広家住宅を見ることから始めましょう。

場所は銚子第二漁港(川口漁港)の海寄りの道から少し入った旧道の五叉路の直ぐ北側です。
この五叉路というだけで、地元民には比較的によくわかるようです。

「こころ」という料理屋がある近くで、ここにはこれまで何回かお邪魔しています。
ではまず手はじめに西広家住宅と「こころ」のランチを目指してみることにしました。

西広(にしびろ)家住宅は、登録文化財に指定されていても現地には何も説明看板はなく、個人宅のため公開もされていません。
ただ、現地の工場や倉庫跡は出入りは出来ました。
古びた木造建築の建物が数棟ならんでいます。

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昭和13年に建てられた木造の缶詰工場(入口シャターは昭和30年にとりつけられたもの)で、この洋風2階建ての建物は地方からやってきた従業員の居住スペースです。工場はこの建物の裏手につながっていました。

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この工場と母屋の道路側はこのような赤レンガの塀で囲まれています。
これも登録文化財の一つで、大正末期から昭和の初め頃に造られたものだそうです。
大谷石と銚子石(砂岩)製の石積基礎上、上部に煉瓦をイギリス積されています。


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こちらは比較的新しい治郎吉倉庫です。現在も使っている?


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1段高くなっているところに登録文化財の倉庫(北倉・南倉)があります。
江戸末期の慶応年間(1865年~1868年)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物です。
その後は貯蔵庫として使われていました。

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現在では漁網の他、船舶を補修するための器具や、建具や高膳などが置かれる物置となっています。
中心部が2階建てになっており、中心をコの字型に囲む造りになっています。

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この倉の直ぐ横に大きな鳥居があります。
倉庫の敷地はこの手前で区切られています。

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さて、江戸末期の倉庫のすぐ横にあった大きな鳥居が気になり敷地を出て、廻っていってみました。

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この鳥居はどちらを向いているのでしょうか?
この北側に「西宮神社」という社があります。
そのいりぐちからこの鳥居まで参道の様につながっています。
この配置からすると、鳥居はこの西広家を祀るために置かれていると言えるでしょう。

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このすぐ横に「西宮神社」がありました。
そしてこの神社の裏手が森になっていて、遊歩道が造られています。
名称は「東部不動ヶ丘公園」でした。
地図を見ると南側の「和田山不動堂」の森につながっているようです。

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後に知ることになるのですが、ここは川口神社(白紙神社、歯櫛神社)から御嶽神社を経て、お不動様(和田山不動堂)の森をつなぐ場所でした。

銚子の安倍晴明伝説をたどると出てくる場所でした。 こちらはまた後ほど機会があれば載せます。

さて、西広住宅(治郎吉漁業倉庫)を後にして、本日のランチはいままでに数回お邪魔している「こころ」さんでランチと情報収集です。

「こころ」さんは知る人ぞ知る銚子の隠れ料理屋さんですが、つい先日テレビ東京の昼メシ旅で紹介され、この日は結構混んでいました。
次の仕事の都合もあり心配しましたが、何とか1人前だけ先に受けてくれました。
おまかせ定食1000円です。

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今回は混んでいたので女将さんも一人で料理作っていますので手が回りません。
でも、天狗湯の情報を探るべく早速聞いてみました。

「そう、この近くには確か3軒ほど銭湯があったのだけれど、みんな昔にやめてしまったの。
この東側に1軒、そこの五叉路の西側にたしか2軒あったはず。
西側の二股に分かれた道路の左手の大きな不動の入り口に1軒あり、もう1軒は右側に行った方だった。
不動に入口はたしか「滝の湯」という名前だったようだけれど、天狗湯はそのことかな?
もう一つの右側の湯はあまり記憶になくはっきりしないわね」
とのこと。

仕事に間に合わなくなるので、散策の続きは次回にして、美味しい料理を食べてこの港町を後にしました。
でもここのお刺身などはおいしいです。
建物は昔のスナックをそのまま使っているようですが、混んでいなければ、いろいろ要望も聞いてくれるし、魚も目の前でさばいてくれます。

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(2019年5月27日)

天狗湯を探せ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/07/20 23:33

天狗湯を探せ!(その三)

<庚申様>

前回の銚子訪問から1週間後にまた銚子にやってきました。

しかし、生憎の梅雨模様であまり天気も良くありません。
散策には不向きでした。
まあ少しの情報を追加しておこうと前回の五叉路の西側の2本の道を右(海寄り)を少し散策してみることにしました。

 前回、西広家住宅を見学後に訪れた「こころ」での情報から、川口の五叉路を右側(銚子駅側)に2つの銭湯があったと聞いていたからです。
また別の方よりも同じような情報を得ていました。

右側の2本の道の左側には滝の湯という銭湯があったことはほぼ間違いなさそうなのでもう1本の道を探索してみることにしました。

こちらの道はすぐに「通町(とおりちょう)」となり、そのまま進むと飯沼観音の南側のロータリーに出る道で、今は海(利根川)に沿った道がメインですが、昔はこちらの通町の通りが銚子の商店街にもつながっていました。

別なところで聞いた話で、この道を少し行った床屋さんの近くに昔銭湯があったようだとの情報もあったので床屋さんを探して行きました。

しかし、この通りも昔の面影はなく、かなりさびしい道となってしまっていました。
昭和30年頃というと、もう60年以上も前ですよね。
天狗湯を知っている方も70歳以上ではないでしょうか?

私も小学校の前半は家に内風呂がなく、銭湯に通っていました。
その銭湯も結構遠く、家から1駅離れた所で、母親と歩いて通っていたと思うのですが、その場所を聞かれたら大体の場所はわかりますが、そんな細かな場所までとても覚えていません。
やはり銭湯の近くに住んでおられた方に聞かなくてはダメだと思います。

まずは大雑把でも覚えている方を探さねばなりません。
名前を憶えている方は何人かわかったのですが、あの辺だとか、この辺だとか大雑把で意外に特定できなかったのです。

それで、その候補地の1つがこの通町の方でした。

でも、開いているお店も少なく、天候が良くないと歩いている方もあまりおりません。

そんな中少し変わったお宮を見つけました。
「庚申(こうしん)様」と鳥居の額に書かれたお宮です。
地図では旧道と港沿いの道が最も接近した場所です。

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銚子には各地に「庚申様」を祀った神社やお宮、石塔が数多く残されているようです。

庚申塚などは道教信仰の一つとされているようで、各地で道祖神などと同じように祀られています。

茨城の方でも庚申塚とか庚申塔といったものは結構ありますが、このようにお宮として祀られたものはあまり見かけません。

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中に祀られていたのはこの庚申塔です。
見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の上に青面金剛?が置かれています。
江戸時代には結構各地で流行ったようです。
60日おきにやってくる庚申の日に、体の中に棲む虫が天帝様に自分の悪事を夜中に知らせに行かれないように眠らずに番をするのだそうです。

これも夜中に飲食をするのも目的になったのでしょうか。二十三夜塔などの似たようなものでしょうか。


この庚申様のある場所から少し狭くなった旧道(横道)があり、何か由緒ありげな建物が残されています。
これが天狗湯の跡などと言われたら、そう思い込みそうです。
近くを通る人も見つからないのでとりあえず今回は散策だけで戻ります。

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苔むした廃墟のような建物。 
壁からは何本もの小さなボイラー用煙突が出ており、もしかしたらなんて思いましたが違っているようです。
その前は地図には「クレープ屋」の文字があるのですが、店はやっていないようです。

こうして歩いてみるとこのあたりの家も空き家が結構ありますね。
もうだいぶ前から空き家となっていると壁が壊れたり、草木が生い茂ったり、蔦で覆われていたりしています。

昔こちらは本銚子町(もとちょうしまち)となっており、銚子町に組み込まれて一緒になったのは1933年(昭和8年)だそうです。
この頃の地図ではまだ港沿いの道路は無かったようです。

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ここは川口漁港まですぐです。
銚子第一漁港と違って少し大型の舟が多く停泊していました。

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通町の道を銚子駅方面に進み、飯沼観音横へ出ました。
ランチは入梅イワシを食べたくなり観音食堂「丼屋七兵衛」さんにお邪魔しました。

「真イワシの漬丼(単品)」800円でした。
漬丼ならここが一番おいしいです。
銚子を活性化したいと始めたお店です。

冬場なら鯖が美味しいですよ。

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(2019年6月3日)


天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/21 11:49

天狗湯を探せ!(その四)

<和田山不動堂と滝の湯>

 天狗湯の近くにもう一つあったという「滝の湯」の場所はすぐに分かったので今回はまずこちらへ行ってみることにした。
川口に五叉路を西に行く左側の道方向にあるという。
それも道路が坂を登る直ぐ近くで、その近くに大きなお宮があるという。

少し車を走らせると右は次第に左にカーブし、登り坂となった。
ここに地図では「不動堂」と書かれた場所があるはずだが、郵便局と小学校がすぐに表れて、その手前にあるはずの大きな不動堂への入り口がない。

また戻ってみると、少し手前に斜めに入る道があった。

入口に大きな石灯篭がありました。

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入口が通りから入りにくくなっていて、最初に入口がわかりませんでしたが、入口に入ってみるとなかなか大きなお不動さんのようです。

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この階段を上った先に不動堂があり、森が広がっています。
しかしこの上には小学校や団地もできています。
昔はこの森が川口神社の方まで続いていて、次第に上の方が開発されて小学校(明神小学校)、中学校(第一中)や団地(植松町市営住宅)ができたようです。

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この石段の入り口に石橋が架けられており、下には水が溜まっています。

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 右手に刀に巻き付いた蛇の像があり、その上の方に水が落ちる口のようなものが見えます。
しかし、今はここから水は落ちていないようで、これが昔(江戸時代?)人口でつくられた滝だということがわかりました。
この滝があったので、近くにできた銭湯が「滝の湯」という名前であることに納得しました。

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波切不動尊です。 
波の荒い海岸近くによくみかけます。

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この不動堂をかなりのパワースポットという雰囲気がします。
色々な石仏などが所狭しと道沿いに並んでいます。

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ここが不動堂の本堂のようです。立派な建物があります。

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入口に置かれた狛犬もなかなか面白い表情です。

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首が落とされた石仏がいくつもありました。
廃仏稀釈で壊されて物でしょう。

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虚空蔵

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ここも新四国霊場の一つなのでしょうか

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この不動堂から遊歩道のように森の中に整備された道が続いています。
ここがこのまま西広家の方の西宮神社へつながっているのでしょうか。

夏場にはこの不動堂のまわりでお祭りが開かれているといいます。

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では滝の湯の場所を近くの食堂に入って確かめることにしました。
地図を調べても食堂はこの1軒だけです。もう50年ほどはやっているらしい。

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親子丼(700円)をいただきました。
まあ昔ながらの味でしょうか。

早速、女将さんに聞いてみました。
「この近くに昔 滝の湯 という銭湯があったと聞いていますが、ご存知ですか?」
「はい知ってますよ」
「場所はどのあたりですか?」
この通りの左へ坂を下りたところに魚屋さんがあるけど、その前にあったですよ。」
「いつごろまであったの?」
「そうね。もうずっと前に辞めてしまったから・・  ・40年くらい前かしら?」

「今は何か残っていますか?」
「いや何も残っていないね」

「もう一つ天狗湯というのがあったと聞いているのだけれど ご存じありませんか?」
「そうね。 ねえ!(常連の年配のおじさんに) 知ってる?」

年配のおじさん:「ああ知ってるよ!」
「え! どこにあったのですか?」
「この店を出て右に少し上ったところの交差点を右に行ったところにあったよ。」
「え! 通町の方ではないのですか?」

「いや、全然違うよ。 駅の方にその道を行って右側だよ。今も建物が残っているよ。」
「え! 本当に。 ありがとうございます。探して行ってみます。」

その道は、清水坂上から御飯町を通って銚子の街に至る道です。

さて、食事が終わったので、まずは滝の湯の跡を見てきましょう。

P6110088s.jpg

少し左に戻って坂を下ったところに魚屋さんがありました。

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この前にあったというのですが、今は一般の住宅が建っています。
写真に見える奥の森が 和田山不動堂の森です。

滝の湯

下谷(したや)食堂で有力情報をゲットしましたので 調べに行きたいのですが、今日の時間はあまりなくなってしまいました。

長くなってしまいましたのでこの先は次回に回しましょう。

(2019年6月11日)


天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/24 07:55

天狗湯を探せ!(その五)

<清水町>

 前回の和田山不動堂近くにあった「下谷食堂」にいたお客さんより得た天狗湯の情報は、その前に数人に聞いていた情報とは違う場所の方向でした。

でも半信半疑で言われた方向を探してみることにしました。
食堂前の道を港とは逆方向に上るとすぐに少し広い道と交差します。
そこを右に行った右側だといわれましたので早速行ってみましょう。

すぐに「清水坂上」という信号になり、その少し先に「清水坂下」という信号のある比較的交通量のある道です。
この道は銚子駅の南を走る香取(佐原)方面から利根川沿いを通っている国道をそのまま東に進んだ道です。
国道は飯沼観音を過ぎて「御飯町」信号で2つに分かれます。
右に行くと銚子電鉄の線路を越えて、犬吠埼方面に行きます。
ここを曲がらずに真っ直ぐ進むと,道幅が少し狭くなって坂を登るような感じでこの道に出ます。

そして黒生(くろはえ)海岸へと続く道なのです。
この御飯町から少し上りとなり崖の中腹に添うように走る道です。
昔からある道のような気がしません。

また、天狗湯のあったらしき場所とみられる清水坂上から清水坂下信号間の海寄りは崖のようになっていてあまり家はありません。

でも、教えていただいたので半信半疑でそれらしき建物や空き地を探してみました。

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通り沿いにある古びた建物を探していると見つけたのはこんな廃墟。
車を近くに停めて中を覗き込むとここにはカラオケスナックのような施設があったことがわかりました。
この飯沼観音(坂東33観音霊場、飯沼は銚子にあった陣屋の名前)は江戸時代から非常に参拝客が多く、一つ手前の霊場札所が、土浦の清滝観音ですからかなり離れており、宿泊客も多かったようです。
そのため、昔から呑み屋さんの数は多かったようです。

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高台のため、このあたりからは湊の街並みが良く見渡せます。
天狗湯の場所も「利根川の向こう岸も良く見渡せる風光明媚なところ」とありましたからイメージにはよく合います。

さて、この日はもう時間がないので探すのは次回以降にすることにしました。
通りの右側にそれらしき建物や銭湯をやっていたらしき面影の場所があまりないのです。
何しろすぐ崖が迫っていて、下へ降りる舗装階段もいくつかりますので、この階段を下りるのかもしれません。

また、何せ、もう60年も前に廃業したらしい銭湯がまだ建物が残っているというのもあまり信用できそうにないんです。
もう少し周りを固める必要がありそうです。

また、この先御飯町から犬吠埼に向かう街道沿いの右側にも銭湯があり、こちらは一昨年の年末まで営業していたので、それと勘違いしているということも考えられそうに思えたのです。

少し自信がなくなりましたので、ある程度地形を頭に入れて後日また訪れました。

もう一度庚申様1のある港近くにやって来ました。
すると一軒の食堂が目に入りました。
地図を見て来ていたのですが、地図にも載っていない食堂です。
看板もなく、入口の暖簾が風にはためいて店の名前もわかりません。

入口の戸を開けると年配のご夫婦が迎えてくれました。

「やっていますか?」
「はいよ!」というわけで土間のテーブル席の椅子に腰かけました。
座敷にはテレビが点いており、マンガ本が無造作に積んであります。
いかにも港町の漁船に乗り込んで作業をしているあんちゃんたちが使っていそうなお店です。

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ちょっと通っただけではわからなかった食堂です。
すぐこの先が銚子の第二漁港(川口漁港)です。
源長食堂と言います。 上の写真の手前右側です。
の線だけがわずかに食堂で営業中ということがわかります。

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一般的な中華屋さんといったメニューです。

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肉ソバ(600円)を注文しました。

「ここ昔からやっているのですか?」

「はいもうだいぶなりますね」

「大昔に近くでやっていたという”天狗湯”というのを探しているのですがご存じありませんか?」

「ああ、知ってるよ。たしかにあったね。」
「え! どのあたりですか?」

「この先駅の方に向かって行って、最初の信号を左に曲がる。すると正面突き当りに千号があり、そこを左に行って100m位のところだ」
「まだ建物はあるんですか?」
「いや、もうだいぶ昔だから残っていないんじゃないかな」

またまた貴重な情報をゲット。やはりご年配のご主人と奥さまに感謝!

この言われたところはまさに前の時に聞いた場所と同じです。
突き当りの信号というのが「清水坂下」信号です。この左側だそうです。
じゃあヤッパリあの崖っぷちにあったのだろうか。

そこでまたその場所へ行ってみました。

天狗湯へ1


清水坂下と清水坂上の中間あたりのようです。
ここには割烹いとうという料理屋さんがあります。このあたりなのでしょうか。
割烹と聞くと昼時に一人で入るのは少し気が引けます。
(後で調べるとそうでもなさそうだし、評判も良いようですが入りませんでした)

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(割烹いとう:魚料理がおいしいらしい)

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割烹料理屋さんの駐車場からの眺め 天気が良ければ波崎の方までよく見渡せそうだ。

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少し先に行くと道が二股の分かれており分かれ道の角にお宮があった。

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お宮の中には邪気を踏みつけた金剛像のような石像が2体。
これもやはり道祖神や庚申塔などと同じなのか。
地図にはやはり庚申様となっていました。

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わかれ道ということで石の大きな追分が置かれていた。
「左 ふとう 川口明神」?? と書かれているのか?
もう一つの面には「四国同行」と彫られていた。
ということは結構昔からこの道もあったのか?

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また何本かこのように坂を下りていく道もあります。
この少し下りたあたりなのかもしれません。

また、この通りから少し下がったところに数軒の木造の気になる建物がありました。

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この気になる門の建物は結構古そうです。
昔の誰間の別荘のような気もします。
今は誰もおらず、草ぼうぼうで、よく見ると昔塾をやっていたような貼り板があります。

聞くところによるとこの塾の建物は昔文化財に登録する動きもあったらしいが、そのままとなり今では結構あれてしまったとのこと。
でもほかにはそれらしき建物がない。

やはり昔この湯に通ったらしい近くの人を探すのが一番だろう。

ところで、「清水町」という中江は昔は泉がわきだしていたところだという。
海寄りに真水の泉がわきだすところはかなり貴重だったはずで、この泉があったから天狗湯もここにできたのだろうことは容易に推察できる。

もう次回は少し周りも固めておこう。

(2019年6月24日)

さて、このブログの目的は、只、昔懐かしい天狗湯の場所を足しかけて終わりなのでしょうか。
どうもこの天狗湯探しをしているうちに目的も少し変わってきたように感じます。
あまりすぐ見つかっては面白くないと思えてきたのです。
見つかってしまえばこのような場所に足を運ぶことはもうないかもしれません。
何かもったいないんですよね。
埋もれた歴史の小さな跡などを掘り起こすのが本来の私のブログテーマだったはずです。

探して行くうちにそこに眠った昔話なども見つけてみたいですよね。
ではもう少し続きます。

本日(7/25)はまた銚子に出かけます。
でも仕事だし、記事書いていると仕事の宿題(プログラミング)が終わりません。

また帰ってきたら続きを書きます。


天狗湯を探せ | コメント(1) | トラックバック(0) | 2019/07/25 07:58
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