銚子の晴明伝説
千葉県銚子市で「天狗湯」なる銭湯のあった場所を探し、銚子駅の東側を細かく散策してきました。
そして、この銚子に伝わる一つの伝説に何故だか興味がそそられてきました。
銚子に伝わる伝説といえば犬吠崎や犬岩などに残された「源義経伝説」がありますが、これはこの銚子市の中でも一部の海岸などに伝わっているものです。
しかし、陰陽師安倍晴明伝説は銚子市の西北端から東南端まで幅広く晴明が動き回っているのです。
では、この晴明伝説を紹介しましょう。
千葉県の銚子の一つ手前「松岸駅」に近い垣根町の海上小学校のとなりに「長者山仁王尊阿弥陀院(根本寺)」というお寺があります。
入り口の門柱にも「長者山」と書かれています。
ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたことによります。
この長者にまつわるお話です。
この長者屋敷は「垣根の長者屋敷」と呼ばれていました。
長者の名前は「根本右兵衛義貞」といいました。
垣根の長者、海上郡随一の金満家であった根本右兵衛義貞には一人娘「延命姫」がおりました。

(垣根町にある長者屋敷跡に建つ 長者山仁王尊阿弥陀院 仁王門)

(阿弥陀院の阿弥陀堂)
平将門の乱討伐のために筑波に足を運んでいた右大臣藤原師輔に見いだされた安倍晴明は、時の天皇に寵愛され才能を発揮します。
しかし、天皇を取り巻く政争にまきこまれ、 身の危険を感じた阿倍晴明は都を脱出し 故郷の筑波山麓にもどっていました。
西暦986年 、筑波に戻っていた阿倍晴明はさらにこの銚子に逃れてきてこの長者屋敷に泊まりました。
そこで垣根の長者の延命姫と出会い、姫が晴明に一目惚れしてしまったのです。

(阿弥陀院境内に立つ 延命姫供養塔 隣りに長者供養塔もある)
しかし延命姫は、生まれながらにして顔の左ほほ全面にアザがあったのです。
父の義貞は、裕福な資産家であり、娘のために安倍晴明に自分の財産を全て提供し、娘との結婚を願い出ました。
都から逃れてきていた安倍晴明は、最初はしぶしぶ延命姫との婚姻を約束するも、やはり次第に後悔しはじめ、延命姫のもとから逃げ出してしまいました。
晴明は、垣根屋敷から利根川に添って少し下流の「今宮」にやってきました。
そして、そこから対岸の波崎にわたろうとしましたが、海(川)が荒れていて渡れません。
そのため、晴明は飯沼観音へ逃げて、更に東の和田不動尊(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。

(飯沼観音)

(和田山不動尊入口)

(和田山不動堂)
それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。
姫は常世田薬師堂(常灯寺)に 三日三晩 籠もり、晴明がいる場所を知らせてほしいと願掛けをしたのです。

(常世田薬師堂 比較的最近まで茅葺屋根の立派なお堂でしたが銅版葺き屋根に改修されました。)

(薬師堂の横の土壁には奥へ続く洞窟があります。その側壁にはたくさんの薬師様が祀られています。)
晴明は、逃げても逃げても延命姫が追ってくるので、ついに屏風ヶ浦の小浜の地(現在の銚子市と旭市との市境に近い海岸)まで逃げたところで一計を案じたのです。
自分が死んだように見せかければ姫もきっとあきらめると考えたのです。
屏風ヶ浦の「通漣坊(つうれんぼう)」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の明王山真福寺に身を隠しました。
追ってきた延命姫は、通漣坊にぬぎすてられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。
この真福寺には、晴明が隠れたといわれる小さなお堂(晴明堂)が遺されています。(お堂はあとから建て直されたものでしょう)
また、姫が海に飛び込んだことを知った晴明が罪滅ぼしのためにここで荒行をしたといわれています。
また延命姫が身を投げた「通漣坊」は、 千葉縣海上郡誌に「潮漣洞」として下記のように紹介されています。
「豊岡小浜磯見川の河口にあり、潮汐 沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
一洞崩壊すれば、随って一洞を生ず。 世俗之を「延命淵」と称す。
数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出するが如く、実に奇観なり。
遠近伝えて奇異の顕象となし、夏季観客常に絶えずという。」」
また、ここの名前の「延命が淵」については、この安倍清明伝説をそのまま紹介して、この空洞はこの延命姫が身を投げたときにできたものだとの伝説を紹介しています。
この「通蓮洞」は、「旭市」との市境にあり、銚子市小浜側の「男竃」は「小浜通蓮洞」、旭市上永井側の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていたそうですが、「男竃」は侵食により明治30年代に消滅し、「女竃」も昭和30年代まで一部が残っていたそうですが今は見ることが出来ません。
また岩が潮を噴き上げる壮観な景観の場所であり、素晴らしい風光明媚な場所であったそうです。
現在も歩いてこの海岸淵に下りられますが、昔の洞窟などはなくなってしまっているようです。

(飯岡灯台:刑部岬)

(東洋のドーハー:屏風岩)
さて、海に身を投げた延命姫の髪の毛は銚子川口の岩(千人塚の付近)にからみつき、歯と櫛が川口の地に打ち上げられたのです。
そして、その歯と櫛を川口の丘に埋めて祀られました。これが現在の川口神社です。
この川口神社は伝承によれば最初「歯櫛明神」とよばれ、それがいつしか「白紙明神」と名が変わり、明治3年には現在の「川口神社」に改名されたといいます。
この延命姫は顔にアザがあったのですが、この川口神社に櫛や鏡などを納めて祈願すれば、女性は美しくなり、神社にある「白」をつけるとアザがきえると信仰されてきたそうです。

(川口神社:白神明神)
さて、安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。
大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)で生まれたとする説もかなり有力なのです。
晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
平将門がいたのもこの近くです。
この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。
坂東三十三観音の霊場は、
第25番 筑波山 大御堂(つくば市)
第26番 南明山 清瀧寺(土浦市)
第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)(銚子市)
と土浦市の筑波山の麓よりこの銚子の飯沼観音へと続いており、昔は水路で人の流れもつながっていたように思われます。

そして、この銚子に伝わる一つの伝説に何故だか興味がそそられてきました。
銚子に伝わる伝説といえば犬吠崎や犬岩などに残された「源義経伝説」がありますが、これはこの銚子市の中でも一部の海岸などに伝わっているものです。
しかし、陰陽師安倍晴明伝説は銚子市の西北端から東南端まで幅広く晴明が動き回っているのです。
では、この晴明伝説を紹介しましょう。
千葉県の銚子の一つ手前「松岸駅」に近い垣根町の海上小学校のとなりに「長者山仁王尊阿弥陀院(根本寺)」というお寺があります。
入り口の門柱にも「長者山」と書かれています。
ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたことによります。
この長者にまつわるお話です。
この長者屋敷は「垣根の長者屋敷」と呼ばれていました。
長者の名前は「根本右兵衛義貞」といいました。
垣根の長者、海上郡随一の金満家であった根本右兵衛義貞には一人娘「延命姫」がおりました。

(垣根町にある長者屋敷跡に建つ 長者山仁王尊阿弥陀院 仁王門)

(阿弥陀院の阿弥陀堂)
平将門の乱討伐のために筑波に足を運んでいた右大臣藤原師輔に見いだされた安倍晴明は、時の天皇に寵愛され才能を発揮します。
しかし、天皇を取り巻く政争にまきこまれ、 身の危険を感じた阿倍晴明は都を脱出し 故郷の筑波山麓にもどっていました。
西暦986年 、筑波に戻っていた阿倍晴明はさらにこの銚子に逃れてきてこの長者屋敷に泊まりました。
そこで垣根の長者の延命姫と出会い、姫が晴明に一目惚れしてしまったのです。

(阿弥陀院境内に立つ 延命姫供養塔 隣りに長者供養塔もある)
しかし延命姫は、生まれながらにして顔の左ほほ全面にアザがあったのです。
父の義貞は、裕福な資産家であり、娘のために安倍晴明に自分の財産を全て提供し、娘との結婚を願い出ました。
都から逃れてきていた安倍晴明は、最初はしぶしぶ延命姫との婚姻を約束するも、やはり次第に後悔しはじめ、延命姫のもとから逃げ出してしまいました。
晴明は、垣根屋敷から利根川に添って少し下流の「今宮」にやってきました。
そして、そこから対岸の波崎にわたろうとしましたが、海(川)が荒れていて渡れません。
そのため、晴明は飯沼観音へ逃げて、更に東の和田不動尊(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。

(飯沼観音)

(和田山不動尊入口)

(和田山不動堂)
それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。
姫は常世田薬師堂(常灯寺)に 三日三晩 籠もり、晴明がいる場所を知らせてほしいと願掛けをしたのです。

(常世田薬師堂 比較的最近まで茅葺屋根の立派なお堂でしたが銅版葺き屋根に改修されました。)

(薬師堂の横の土壁には奥へ続く洞窟があります。その側壁にはたくさんの薬師様が祀られています。)
晴明は、逃げても逃げても延命姫が追ってくるので、ついに屏風ヶ浦の小浜の地(現在の銚子市と旭市との市境に近い海岸)まで逃げたところで一計を案じたのです。
自分が死んだように見せかければ姫もきっとあきらめると考えたのです。
屏風ヶ浦の「通漣坊(つうれんぼう)」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の明王山真福寺に身を隠しました。
追ってきた延命姫は、通漣坊にぬぎすてられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。
この真福寺には、晴明が隠れたといわれる小さなお堂(晴明堂)が遺されています。(お堂はあとから建て直されたものでしょう)
また、姫が海に飛び込んだことを知った晴明が罪滅ぼしのためにここで荒行をしたといわれています。
また延命姫が身を投げた「通漣坊」は、 千葉縣海上郡誌に「潮漣洞」として下記のように紹介されています。
「豊岡小浜磯見川の河口にあり、潮汐 沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
一洞崩壊すれば、随って一洞を生ず。 世俗之を「延命淵」と称す。
数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出するが如く、実に奇観なり。
遠近伝えて奇異の顕象となし、夏季観客常に絶えずという。」」
また、ここの名前の「延命が淵」については、この安倍清明伝説をそのまま紹介して、この空洞はこの延命姫が身を投げたときにできたものだとの伝説を紹介しています。
この「通蓮洞」は、「旭市」との市境にあり、銚子市小浜側の「男竃」は「小浜通蓮洞」、旭市上永井側の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていたそうですが、「男竃」は侵食により明治30年代に消滅し、「女竃」も昭和30年代まで一部が残っていたそうですが今は見ることが出来ません。
また岩が潮を噴き上げる壮観な景観の場所であり、素晴らしい風光明媚な場所であったそうです。
現在も歩いてこの海岸淵に下りられますが、昔の洞窟などはなくなってしまっているようです。

(飯岡灯台:刑部岬)

(東洋のドーハー:屏風岩)
さて、海に身を投げた延命姫の髪の毛は銚子川口の岩(千人塚の付近)にからみつき、歯と櫛が川口の地に打ち上げられたのです。
そして、その歯と櫛を川口の丘に埋めて祀られました。これが現在の川口神社です。
この川口神社は伝承によれば最初「歯櫛明神」とよばれ、それがいつしか「白紙明神」と名が変わり、明治3年には現在の「川口神社」に改名されたといいます。
この延命姫は顔にアザがあったのですが、この川口神社に櫛や鏡などを納めて祈願すれば、女性は美しくなり、神社にある「白」をつけるとアザがきえると信仰されてきたそうです。

(川口神社:白神明神)
さて、安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。
大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)で生まれたとする説もかなり有力なのです。
晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
平将門がいたのもこの近くです。
この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。
坂東三十三観音の霊場は、
第25番 筑波山 大御堂(つくば市)
第26番 南明山 清瀧寺(土浦市)
第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)(銚子市)
と土浦市の筑波山の麓よりこの銚子の飯沼観音へと続いており、昔は水路で人の流れもつながっていたように思われます。

平田篤胤と銚子
天狗小僧の子孫が天狗湯を始めたのが千葉県の東端の銚子。
銚子の名前は酒を注ぐ銚子口に利根川河口の形状が似ているからだという嘘のような本当の話だ。
もっとも銚子の名前が使われだしたのは江戸時代のことなのでそれほど古い話ではない。
さて、この銚子周辺を今までに何回も歩き回っていると、天狗小僧寅吉の話(仙境異聞)を書いた国文学者の平田篤胤の名前を見ることがあった。
やはり何か関係があるのか?
私はあまりこの平田篤胤のことは知らない。
本居宣長の後継者的国文学者で復古神道の確立者といった事くらいがぼんやりと浮かぶくらいだ。
さて少し調べてみよう。
Wikipediaによれば、生まれたのは、秋田(出羽)の久保田藩の大番組頭(大和田清兵衛祚胤)の四男だというので、これは茨城(常陸国)とは関係が深い。
秋田の久保田藩は常陸国を制した佐竹氏が移った土地であり、代わりにそれまでの秋田氏などは常陸国にやってきた。
秋田の美人は皆茨城県から連れて行ったなどとのつまらぬ噂も広まった。
篤胤は秋田では養子に出され、父母の手で育てられず苦労して20歳になると、脱藩・出奔して国もとを飛び出し江戸にやって来た。
江戸でも苦学の連続だったようだが、25歳の時に備中松山藩士で山鹿流兵学者の平田藤兵衛篤穏(あつやす)に認められて養子となったとある。
26歳で結婚し、本居宣長の死後初めて国学を知り、国学の勉強を始めたというからかなり遅いスタートだ。
ただ、すぐに本居宣長の門人と自称したというからかなりの才覚の持ち主だったのだろう。
文化9年(1812年)37歳で愛妻を亡くし、幽界研究に興味をもち、復古神道研究に没頭していったようだ。
やはり愛するものを失ったことが霊界を信じる入口になったようだ。
篤胤は江戸での私塾だけでは物足りなく、その門人を広げる思いもあり、文化13年(1816年)に下総・上総を巡っている。
まず、船橋から神崎神社を廻り、東国三社(香取神宮・鹿島神宮・息栖神社)を訪れた。
そこから銚子・飯岡を廻って、天之石笛(あまのいわぶえ、いしぶえ)を手に入れて持ち帰り、これが現在代々木の平田神社に保存されている。

長さが50cmほどの石笛で石に空洞が空いて笛のように左右に穴がある。風が吹くと笛のように鳴るらしい。
ただこれは本当に笛のような形だが、この地方で見つかっている石笛はこのような形の物は少ないようだ。
銚子の少し南の玉崎神社はこの平田篤胤も神社裏に祀られているが、旭市の天然記念物として神社に置かれている「天の石笛」は次のようなものであった。

平田神社に大切に保管されている「天之石笛」については、篤胤の弟子が著した 「天石笛之記」にこれを取得したいきさつが書いてあるという。
要約すると、篤胤が不思議な笛を手に入れる夢を見たという。
そして東国三社(香取・鹿嶋・息栖)参りの旅に出て、その足で銚子にやってきたときに、神社で夢に見たのとそっくりな石を見つけた。それは、神社に近所の海岸で見つけた村人たちが奉納したものだった。
それがほしくてたまらなくなった篤胤は神主に何度も頼み込んで譲ってもらったものだという。
そして、江戸にもどった篤胤は、屋号を「伊吹乃屋(気吹舎)」に改名したという。
「天の石笛」については飯岡などで昔話として語り続いている話がある。日本昔ばなしに収録された話が以下のサイトにある。
日本昔ばなしデータベース:天の石笛(あまのいしぶえ)
時化の時にそれを知らせてくれた石笛だという。
自然にできた穴に大風が吹き始めるとそれが笛のように鳴ったという。
篤胤はこの三社めぐりの翌年も下総などの旅をしている。
天狗小僧寅吉にあったのは三社めぐりの翌々年であった。
篤胤が江戸で屋号を「伊吹乃屋(気吹舎)」に改名したというのがこの笛を得たことだというが、息栖神社境内に置かれた芭蕉の俳句もきっと頭にあったことだろう。
『 この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し 』 (芭蕉)
この気吹戸主は江戸時代はこの息栖神社の祭神で 黄泉の国から逃げ帰ったイサナギが汚れを水の流れで洗い流した時に、その流れから生まれた神という。
息栖神社はこのように汚れた土地を清浄化して蘇生回復の力があるのだという。
東国三社は直角三角形の頂点に配置された神社で、鹿島・香取の両神宮を弓の弦として息栖神社から矢を射ると石岡、筑波、岩間方面に矢は飛んでいく。
岩間山の十三天狗が活動していたあたりに行く。 これも何かの関係がないとは言い切れない。
もっともこの直角三角形に配置したのは息栖神社を大同2年(807年)に少し移動したからで、人工的に配置されたものだ。

このあたりのことは昔書いた下記の記事などを参照ください。(まあ大昔の記事で内容も恥ずかしいが)
常陸から見た日本の夜明け:
銚子の名前は酒を注ぐ銚子口に利根川河口の形状が似ているからだという嘘のような本当の話だ。
もっとも銚子の名前が使われだしたのは江戸時代のことなのでそれほど古い話ではない。
さて、この銚子周辺を今までに何回も歩き回っていると、天狗小僧寅吉の話(仙境異聞)を書いた国文学者の平田篤胤の名前を見ることがあった。
やはり何か関係があるのか?
私はあまりこの平田篤胤のことは知らない。
本居宣長の後継者的国文学者で復古神道の確立者といった事くらいがぼんやりと浮かぶくらいだ。
さて少し調べてみよう。
Wikipediaによれば、生まれたのは、秋田(出羽)の久保田藩の大番組頭(大和田清兵衛祚胤)の四男だというので、これは茨城(常陸国)とは関係が深い。
秋田の久保田藩は常陸国を制した佐竹氏が移った土地であり、代わりにそれまでの秋田氏などは常陸国にやってきた。
秋田の美人は皆茨城県から連れて行ったなどとのつまらぬ噂も広まった。
篤胤は秋田では養子に出され、父母の手で育てられず苦労して20歳になると、脱藩・出奔して国もとを飛び出し江戸にやって来た。
江戸でも苦学の連続だったようだが、25歳の時に備中松山藩士で山鹿流兵学者の平田藤兵衛篤穏(あつやす)に認められて養子となったとある。
26歳で結婚し、本居宣長の死後初めて国学を知り、国学の勉強を始めたというからかなり遅いスタートだ。
ただ、すぐに本居宣長の門人と自称したというからかなりの才覚の持ち主だったのだろう。
文化9年(1812年)37歳で愛妻を亡くし、幽界研究に興味をもち、復古神道研究に没頭していったようだ。
やはり愛するものを失ったことが霊界を信じる入口になったようだ。
篤胤は江戸での私塾だけでは物足りなく、その門人を広げる思いもあり、文化13年(1816年)に下総・上総を巡っている。
まず、船橋から神崎神社を廻り、東国三社(香取神宮・鹿島神宮・息栖神社)を訪れた。
そこから銚子・飯岡を廻って、天之石笛(あまのいわぶえ、いしぶえ)を手に入れて持ち帰り、これが現在代々木の平田神社に保存されている。

長さが50cmほどの石笛で石に空洞が空いて笛のように左右に穴がある。風が吹くと笛のように鳴るらしい。
ただこれは本当に笛のような形だが、この地方で見つかっている石笛はこのような形の物は少ないようだ。
銚子の少し南の玉崎神社はこの平田篤胤も神社裏に祀られているが、旭市の天然記念物として神社に置かれている「天の石笛」は次のようなものであった。

平田神社に大切に保管されている「天之石笛」については、篤胤の弟子が著した 「天石笛之記」にこれを取得したいきさつが書いてあるという。
要約すると、篤胤が不思議な笛を手に入れる夢を見たという。
そして東国三社(香取・鹿嶋・息栖)参りの旅に出て、その足で銚子にやってきたときに、神社で夢に見たのとそっくりな石を見つけた。それは、神社に近所の海岸で見つけた村人たちが奉納したものだった。
それがほしくてたまらなくなった篤胤は神主に何度も頼み込んで譲ってもらったものだという。
そして、江戸にもどった篤胤は、屋号を「伊吹乃屋(気吹舎)」に改名したという。
「天の石笛」については飯岡などで昔話として語り続いている話がある。日本昔ばなしに収録された話が以下のサイトにある。
日本昔ばなしデータベース:天の石笛(あまのいしぶえ)
時化の時にそれを知らせてくれた石笛だという。
自然にできた穴に大風が吹き始めるとそれが笛のように鳴ったという。
篤胤はこの三社めぐりの翌年も下総などの旅をしている。
天狗小僧寅吉にあったのは三社めぐりの翌々年であった。
篤胤が江戸で屋号を「伊吹乃屋(気吹舎)」に改名したというのがこの笛を得たことだというが、息栖神社境内に置かれた芭蕉の俳句もきっと頭にあったことだろう。
『 この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し 』 (芭蕉)
この気吹戸主は江戸時代はこの息栖神社の祭神で 黄泉の国から逃げ帰ったイサナギが汚れを水の流れで洗い流した時に、その流れから生まれた神という。
息栖神社はこのように汚れた土地を清浄化して蘇生回復の力があるのだという。
東国三社は直角三角形の頂点に配置された神社で、鹿島・香取の両神宮を弓の弦として息栖神社から矢を射ると石岡、筑波、岩間方面に矢は飛んでいく。
岩間山の十三天狗が活動していたあたりに行く。 これも何かの関係がないとは言い切れない。
もっともこの直角三角形に配置したのは息栖神社を大同2年(807年)に少し移動したからで、人工的に配置されたものだ。

このあたりのことは昔書いた下記の記事などを参照ください。(まあ大昔の記事で内容も恥ずかしいが)
常陸から見た日本の夜明け:
なつぞら(夏空)
昨日は朝から夏空が広がり、大きな雲が沸きだしていました。
霞ケ浦はスッキリとした空で遠くまでよく見えました。

三昧塚古墳に立ち寄り、雲を見上げて少しのんびりした気分になりました。

暑い日が続いていますが、今日8月6日は立夏らしいです。
まあ暑くても当然ですね。

筑波山も、霞ケ浦もクッキリした気持ちの良い眺めでした。
霞ケ浦はスッキリとした空で遠くまでよく見えました。

三昧塚古墳に立ち寄り、雲を見上げて少しのんびりした気分になりました。

暑い日が続いていますが、今日8月6日は立夏らしいです。
まあ暑くても当然ですね。

筑波山も、霞ケ浦もクッキリした気持ちの良い眺めでした。
笹川の諏訪大神
銚子での天狗湯を探せの関連で少し記事を追加しています。
昨日銚子に出かける途中で、東庄町(とうのしょうまち)にある「諏訪大神」に立ち寄ることにしました。
天狗小僧寅吉が後にここで神社の神職をしながら妙薬による治療などもしていたと書かれていたので、数年前に何度か訪れたことがあるのですが、改めて立ち寄ることにしたのです。
「大神」とありますが、この地方は大きな神社は皆「大神」と表記されています。
銚子に行くときに最近は神栖の先端 波崎から銚子大橋を渡ることが多いのですが、今回は潮来の手前から国道51号線で利根川を渡り、佐原(香取)から利根川沿いに千葉県側を走りました。
佐原、小見川(共に現在は香取市)を過ぎ、東庄町(とうのしょうまち)に入り、成田線を横切る手前に「わが町に 相撲がある」という看板が目にとまります。
東庄町は平成の大合併では合併せず、香取市と銚子市に挟まれた場所に位置しています。
もともと中世に東の荘園があったようですが、千葉氏の一族「東氏(とうし)」がこの地を治めていました。
そしてここの少し内陸にある「東大神・東大社(とうだいしゃ)」がこの町の中心の神社です。
この東大社と銚子の雷神社、 香取市(旧小見川町)の豊玉姫神社の三社の間で20年に1度の式年三社神輿渡御が行われています。

東庄町の諏訪大神は国道356線(利根水郷ライン)沿いの笹川の中心地にあります。
かなり大きな神社です。
前に訪れた時に比べ駐車場も最近きれいに整備されています。

広い境内の奥に拝殿が見えます。
辺りは静かで近くの木々から盛んにミンミンゼミの鳴声が聞こえてきました。

拝殿の裏手が本殿ですが、かなり大きな本殿です。

やはり諏訪大神の名前の通り、長野県の諏訪大社の系列でしょうから出雲系なのでしょう。
香取神宮にも近い場所ですが、結構、ここのほかにも近くに諏訪神社があります。

拝殿の入り口横には「澪つくし(みおつくし)」の醤油が奉納として置かれていました。
普通はお酒が多いですが、これはNHKの朝ドラ「澪つくし」の撮影場所となった醤油場(江戸時代から続く)が近くにあるのです。

そして左手には「神楽殿」があり、その奥に立派な土俵が見えます。
これが「わが町の相撲場」です。
出羽海部屋の夏合宿がここで行われます。

夏合宿(稽古)の予定は8月10日~22日の朝です。御嶽海が最後の2日間参加するようです。
チラシは下記をご覧ください。
土俵のまわりにはテントなどが張られていました。

神社では昔は相撲が奉納されていた歴史がありますが、ここの相撲も歴史が長いようです。
テントに隠れるようになっていましたが、相撲の始祖といわれる野見宿禰の石碑が置かれています。
この碑を設置したのがここ笹川の親分「笹川繁蔵」のようです。
大利根河原で銚子の隣りの飯岡の助五郎との決闘は浪曲や三波春夫の詩でも大昔に流行ったので年配の方はご存じでしょう。
三波春夫など前回の東京オリンピックのテーマ曲が有名なくらいですからもうだいぶ昔ですね。
ここでは「天保水滸伝」として語り継がれています。

神社境内には「天保水滸伝伝承館」が置かれています。

天保水滸伝については ⇒ こちら を参照してください。
昔歩き回って調べたことがあります。

笹川繁蔵がこの神社の境内で日本の大親分(清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎など)たちを集めて大花会を開いたという。
これも、天保の大飢饉で財政的にも困っていた人たちを救うための資金集めだったようです。
天狗小僧寅吉がここにいたかどうかはよくわかりませんが、平田篤胤は東国三社(香取・鹿嶋・息栖)めぐりの時にここにも来ているようです。
地元の有力者などを集めて学問を教えているようです。
1816年:平田篤胤、東総をめぐる
1818年:江戸に天狗小僧が現る
1838年:大原幽学(おおはらゆうがく)が農協を世界で初めて創設(平田篤胤の教えた人もこれに参加していたという)
1844年:大利根河原の決闘(飯岡助五郎勢を打ち破るが、助五郎は十手を預かる身で、繁蔵は笹川を離れる)
1847年:笹川に戻った笹川繁蔵が助五郎一味に暗殺される
この諏訪大神のすぐ横に「延命寺」というお寺があり、ここに笹川繁蔵の供養塔があり、両脇に子分・勢力富五郎の供養碑と大利根河原の決闘で死去した平手造酒の墓があります。
繁蔵も暗殺されたときに死体はなく持ちされれていました。当時は仕方なく土を持ち帰り供養塔を建てたのですが、最近になり銚子や飯岡で首や胴が埋葬されていたことが判明し、こちらに遺骨を返却したようです。

延命寺にある笹岡繁蔵の碑

延命寺は諏訪大神のすぐ隣ですが、あまり目印もなく小さなお寺です。
寺の裏手は神社と繋がっています。
昨日銚子に出かける途中で、東庄町(とうのしょうまち)にある「諏訪大神」に立ち寄ることにしました。
天狗小僧寅吉が後にここで神社の神職をしながら妙薬による治療などもしていたと書かれていたので、数年前に何度か訪れたことがあるのですが、改めて立ち寄ることにしたのです。
「大神」とありますが、この地方は大きな神社は皆「大神」と表記されています。
銚子に行くときに最近は神栖の先端 波崎から銚子大橋を渡ることが多いのですが、今回は潮来の手前から国道51号線で利根川を渡り、佐原(香取)から利根川沿いに千葉県側を走りました。
佐原、小見川(共に現在は香取市)を過ぎ、東庄町(とうのしょうまち)に入り、成田線を横切る手前に「わが町に 相撲がある」という看板が目にとまります。
東庄町は平成の大合併では合併せず、香取市と銚子市に挟まれた場所に位置しています。
もともと中世に東の荘園があったようですが、千葉氏の一族「東氏(とうし)」がこの地を治めていました。
そしてここの少し内陸にある「東大神・東大社(とうだいしゃ)」がこの町の中心の神社です。
この東大社と銚子の雷神社、 香取市(旧小見川町)の豊玉姫神社の三社の間で20年に1度の式年三社神輿渡御が行われています。

東庄町の諏訪大神は国道356線(利根水郷ライン)沿いの笹川の中心地にあります。
かなり大きな神社です。
前に訪れた時に比べ駐車場も最近きれいに整備されています。

広い境内の奥に拝殿が見えます。
辺りは静かで近くの木々から盛んにミンミンゼミの鳴声が聞こえてきました。

拝殿の裏手が本殿ですが、かなり大きな本殿です。

やはり諏訪大神の名前の通り、長野県の諏訪大社の系列でしょうから出雲系なのでしょう。
香取神宮にも近い場所ですが、結構、ここのほかにも近くに諏訪神社があります。

拝殿の入り口横には「澪つくし(みおつくし)」の醤油が奉納として置かれていました。
普通はお酒が多いですが、これはNHKの朝ドラ「澪つくし」の撮影場所となった醤油場(江戸時代から続く)が近くにあるのです。

そして左手には「神楽殿」があり、その奥に立派な土俵が見えます。
これが「わが町の相撲場」です。
出羽海部屋の夏合宿がここで行われます。

夏合宿(稽古)の予定は8月10日~22日の朝です。御嶽海が最後の2日間参加するようです。
チラシは下記をご覧ください。
土俵のまわりにはテントなどが張られていました。

神社では昔は相撲が奉納されていた歴史がありますが、ここの相撲も歴史が長いようです。
テントに隠れるようになっていましたが、相撲の始祖といわれる野見宿禰の石碑が置かれています。
この碑を設置したのがここ笹川の親分「笹川繁蔵」のようです。
大利根河原で銚子の隣りの飯岡の助五郎との決闘は浪曲や三波春夫の詩でも大昔に流行ったので年配の方はご存じでしょう。
三波春夫など前回の東京オリンピックのテーマ曲が有名なくらいですからもうだいぶ昔ですね。
ここでは「天保水滸伝」として語り継がれています。

神社境内には「天保水滸伝伝承館」が置かれています。

天保水滸伝については ⇒ こちら を参照してください。
昔歩き回って調べたことがあります。

笹川繁蔵がこの神社の境内で日本の大親分(清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎など)たちを集めて大花会を開いたという。
これも、天保の大飢饉で財政的にも困っていた人たちを救うための資金集めだったようです。
天狗小僧寅吉がここにいたかどうかはよくわかりませんが、平田篤胤は東国三社(香取・鹿嶋・息栖)めぐりの時にここにも来ているようです。
地元の有力者などを集めて学問を教えているようです。
1816年:平田篤胤、東総をめぐる
1818年:江戸に天狗小僧が現る
1838年:大原幽学(おおはらゆうがく)が農協を世界で初めて創設(平田篤胤の教えた人もこれに参加していたという)
1844年:大利根河原の決闘(飯岡助五郎勢を打ち破るが、助五郎は十手を預かる身で、繁蔵は笹川を離れる)
1847年:笹川に戻った笹川繁蔵が助五郎一味に暗殺される
この諏訪大神のすぐ横に「延命寺」というお寺があり、ここに笹川繁蔵の供養塔があり、両脇に子分・勢力富五郎の供養碑と大利根河原の決闘で死去した平手造酒の墓があります。
繁蔵も暗殺されたときに死体はなく持ちされれていました。当時は仕方なく土を持ち帰り供養塔を建てたのですが、最近になり銚子や飯岡で首や胴が埋葬されていたことが判明し、こちらに遺骨を返却したようです。

延命寺にある笹岡繁蔵の碑

延命寺は諏訪大神のすぐ隣ですが、あまり目印もなく小さなお寺です。
寺の裏手は神社と繋がっています。
朝焼け
今日は台風が不快な暑さをもたらすようですが今のところ風がありこちらは比較的心地よいです。
被害にあわれた地域の方にはお見舞い申し上げます。お盆休みで帰省されていた方のも無事戻られることを祈念します。
こちらは娘一家が戻り、ちびっ子台風が過ぎました。しかしまた明日から息子一家の帰省です。
今朝は久しぶりに朝焼けが東の空をきれいに染めました。

被害にあわれた地域の方にはお見舞い申し上げます。お盆休みで帰省されていた方のも無事戻られることを祈念します。
こちらは娘一家が戻り、ちびっ子台風が過ぎました。しかしまた明日から息子一家の帰省です。
今朝は久しぶりに朝焼けが東の空をきれいに染めました。

海静寺(銚子)
7月に天狗湯探しで立ち寄った本銚子(もとちょうし)駅近くの高台にある浄土宗の海静寺を紹介します。
この本銚子駅も奥まった狭苦しい場所にありますが、このお寺も今では車が始終通るような場所でもないため、あまり知られていないお寺のようです。
ただ銚子の東側の高台にあるため、銚子漁港(川口漁港)やその先の波崎の方まで上からは良く眺められました。

通り横に寺の駐車場がありそこに車を止めてこの階段を上ります。

上った所の正面に寺のコンクリートで造られたお堂(観音堂?)があります。
本尊の十一面観音菩薩像が祀られています。
この像はHPなどには
「往昔、常陸鹿島浦の海中より漁夫の網にかかって上がったもので、漁夫たちにより寄進されたものであると伝える」
と書かれています。
データによれば、寺の創建は江戸初期の1694年に幻譽鐵應上人が悪夢により創建したとありますが詳細はよくわかりません。

このお寺の変わったところは寺の裏山に金比羅宮(神社)があり、神仏混清ということでしょう。

特に金比羅堂(阿弥陀堂)の中には阿弥陀仏と大物主命が祀られており、現在でも金刀比羅大祭には、僧侶と宮司が一緒に祈祷しているそうです。

この金比羅堂の横に一つの石碑が建っています。
「吉田東吾博士の終篇碑」
です。
吉田東吾博士は幕末に新潟県生まれであまり学校教育も受けられずに苦学の上教員免許を取得し、特に考古学や人類学、民俗学などに興味を持ち、北海道に渡りいくつも論文を発表します。
その後読売新聞社に入り、歴史考的な連載を手がけ歴史家として知られるようになりました。
その後13年かかって「大日本地名辞書」(11冊)を書き上げています。
日本歴史地理学会の創設者の一人だといいます。
この銚子は肝臓を患い静養先として選んだそうです。気候も温暖でよかったのでしょう。
大正7年1月から飯沼観音前の吉野旅館で静養していましたが、間もなく意識不明で倒れ、そのまま息を引き取ったそうです。
翌年にこの石碑がここ海静寺に建てられました。

この金比羅堂のある高台の少し下った場所には小さなお宮があります。
両脇に狐像がおかれているのでお稲荷様なのでしょうか。
扁額には「三峯神社」となっています。
でも秩父の三峯神社って狛犬は神犬で狼(山犬)が置かれているのでこれも「狼」なのか・・・

元々は狐像だと思いますが、左右両方ともに鼻の部分がありません。

まわりには銚子の砂岩の石がいくつもあります。

この高台からの銚子漁港と銚子大橋が良く眺められます。
この本銚子駅も奥まった狭苦しい場所にありますが、このお寺も今では車が始終通るような場所でもないため、あまり知られていないお寺のようです。
ただ銚子の東側の高台にあるため、銚子漁港(川口漁港)やその先の波崎の方まで上からは良く眺められました。

通り横に寺の駐車場がありそこに車を止めてこの階段を上ります。

上った所の正面に寺のコンクリートで造られたお堂(観音堂?)があります。
本尊の十一面観音菩薩像が祀られています。
この像はHPなどには
「往昔、常陸鹿島浦の海中より漁夫の網にかかって上がったもので、漁夫たちにより寄進されたものであると伝える」
と書かれています。
データによれば、寺の創建は江戸初期の1694年に幻譽鐵應上人が悪夢により創建したとありますが詳細はよくわかりません。

このお寺の変わったところは寺の裏山に金比羅宮(神社)があり、神仏混清ということでしょう。

特に金比羅堂(阿弥陀堂)の中には阿弥陀仏と大物主命が祀られており、現在でも金刀比羅大祭には、僧侶と宮司が一緒に祈祷しているそうです。

この金比羅堂の横に一つの石碑が建っています。
「吉田東吾博士の終篇碑」
です。
吉田東吾博士は幕末に新潟県生まれであまり学校教育も受けられずに苦学の上教員免許を取得し、特に考古学や人類学、民俗学などに興味を持ち、北海道に渡りいくつも論文を発表します。
その後読売新聞社に入り、歴史考的な連載を手がけ歴史家として知られるようになりました。
その後13年かかって「大日本地名辞書」(11冊)を書き上げています。
日本歴史地理学会の創設者の一人だといいます。
この銚子は肝臓を患い静養先として選んだそうです。気候も温暖でよかったのでしょう。
大正7年1月から飯沼観音前の吉野旅館で静養していましたが、間もなく意識不明で倒れ、そのまま息を引き取ったそうです。
翌年にこの石碑がここ海静寺に建てられました。

この金比羅堂のある高台の少し下った場所には小さなお宮があります。
両脇に狐像がおかれているのでお稲荷様なのでしょうか。
扁額には「三峯神社」となっています。
でも秩父の三峯神社って狛犬は神犬で狼(山犬)が置かれているのでこれも「狼」なのか・・・

元々は狐像だと思いますが、左右両方ともに鼻の部分がありません。

まわりには銚子の砂岩の石がいくつもあります。

この高台からの銚子漁港と銚子大橋が良く眺められます。
香勢堂
お盆明けの16日に今年もそろそろ代田、井関方面の大人形(ダイダラボッチ)を見ようかと、石岡市内から三村方面に車で向かった。
途中に思い出してこの「香勢堂墓地」に立ち寄ってみた。
何時もは素通りするのだが、前に私が書いた記事を読んで電話をくれた方がいたことを思いだしたから・・・
この墓所も、昔に図書館で読んだ本にあったので、行ってみようとして場所がわからずに近くをうろうろしてしまったが、わかってしまえば非常にわかりやすい場所にある。
また三村城の城主であった平常春(府中大掾氏の弟)の墓(五輪塔)もその頃何度となく探し回ったことなどを思い出していた。

ここでは、府中(石岡)の大掾氏が小川の園部氏や土浦の小田氏などと争っていた戦国末期に事件が起こった。
詳しくは前に書いた「三村城秘話」に詳しく載せてある
三村城秘話は ⇒ こちら

燃え落ちる味方の三村城を恋瀬川の対岸に眺め、府中城より援軍に駆け付けた兵士300名がこの近くで自害したとされる。
そして後に、ここに 一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれておりましたが、時が過ぎ、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に六地蔵作られ、現在の場所(崖の下 北根本)に移されたものと考えられます。
香勢堂=高野勢堂=国府(こう)勢堂 ではないかと言われています。
この六地蔵の裏には197名と記載されており、昔の記録にあった300人とは違っています。
もっともこの頃の兵士がこのことで自害して見な果てたなどというのもどの程度の信ぴょう性があるかは不明です。
府中城が佐竹・園部氏らにより攻められて落城したのは三村城落城(1574年)から16年後(1590年)のことであった。
それにしてもこの三村城落城秘話に出てくる「大鷲と大鰻の格闘」の話は、昔話として実に面白い話(とても具体的で)なのだが・・・・・
あまり評判を呼ばないのは何故かな~
まあ、「鷲塚」「鰻塚」と呼ばれた古墳は高浜付近に常磐線の鉄道を通す時に削られて、湿地の埋め立てに使われてしまったので一緒に話も埋められてしまったのかもしれない。
また掘り起こしてみても面白い話だと思う。
途中に思い出してこの「香勢堂墓地」に立ち寄ってみた。
何時もは素通りするのだが、前に私が書いた記事を読んで電話をくれた方がいたことを思いだしたから・・・
この墓所も、昔に図書館で読んだ本にあったので、行ってみようとして場所がわからずに近くをうろうろしてしまったが、わかってしまえば非常にわかりやすい場所にある。
また三村城の城主であった平常春(府中大掾氏の弟)の墓(五輪塔)もその頃何度となく探し回ったことなどを思い出していた。

ここでは、府中(石岡)の大掾氏が小川の園部氏や土浦の小田氏などと争っていた戦国末期に事件が起こった。
詳しくは前に書いた「三村城秘話」に詳しく載せてある
三村城秘話は ⇒ こちら

燃え落ちる味方の三村城を恋瀬川の対岸に眺め、府中城より援軍に駆け付けた兵士300名がこの近くで自害したとされる。
そして後に、ここに 一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれておりましたが、時が過ぎ、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に六地蔵作られ、現在の場所(崖の下 北根本)に移されたものと考えられます。
香勢堂=高野勢堂=国府(こう)勢堂 ではないかと言われています。
この六地蔵の裏には197名と記載されており、昔の記録にあった300人とは違っています。
もっともこの頃の兵士がこのことで自害して見な果てたなどというのもどの程度の信ぴょう性があるかは不明です。
府中城が佐竹・園部氏らにより攻められて落城したのは三村城落城(1574年)から16年後(1590年)のことであった。
それにしてもこの三村城落城秘話に出てくる「大鷲と大鰻の格闘」の話は、昔話として実に面白い話(とても具体的で)なのだが・・・・・
あまり評判を呼ばないのは何故かな~
まあ、「鷲塚」「鰻塚」と呼ばれた古墳は高浜付近に常磐線の鉄道を通す時に削られて、湿地の埋め立てに使われてしまったので一緒に話も埋められてしまったのかもしれない。
また掘り起こしてみても面白い話だと思う。
ダイダラボッチ(大人形)
今年も石岡市井関・関川地区で厄除けにまちかどに飾られる大人形ことダイダラボッチ人形を見てきました。
江戸時代から続いていたものが途中でいったん途絶え、また4か所(代田、長者峰、古酒、梶和崎)で再開され続いてきましたが、昨年古酒(ふるさき)地区が取り止め、今年は梶和崎地区も取り止めになってしまいました。
それでも代田、長者峰地区の2か所で飾られていました。

代田地区の大人形です。
飾られて1週間程でしたが、日が当たる場所なので杉の葉の先の一部がすでに茶色く変色していました。


上の写真は8月16日の昼ごろに撮影したものです。
昨年作成されたものが、1年間このまちかどに置かれていたものです。
まだ原型を保っています。

こちらは長者峰の大人形です。
頭や体を構成するの杉葉の量はかなり多く、青々としています。
置かれている場所が山の入り口の日陰部分にあり、直射日光が当たりませんので、葉の色の変色もあまり進まないようです。

少し薄暗い場所にありますので、知らない人が通るときっとドキッとしますね。


でも1年間この町を守り続けた大人形もこのような形になります。
これは昨年夏に飾られた人形で、今年取り換えられる前の最後の姿です。(8月16日昼ごろ)
新しい人形に取り換え、このお役御免になった人形は丁寧に燃やされます。
以前から何度も訪れていますが、この伝統もできるだけ続けてほしいものです。
地区も人が減り大変でしょうが・・・・・・・
過去の「ダイダラボッチの里」と題した記事は ⇒ こちら (20件あります)
江戸時代から続いていたものが途中でいったん途絶え、また4か所(代田、長者峰、古酒、梶和崎)で再開され続いてきましたが、昨年古酒(ふるさき)地区が取り止め、今年は梶和崎地区も取り止めになってしまいました。
それでも代田、長者峰地区の2か所で飾られていました。

代田地区の大人形です。
飾られて1週間程でしたが、日が当たる場所なので杉の葉の先の一部がすでに茶色く変色していました。


上の写真は8月16日の昼ごろに撮影したものです。
昨年作成されたものが、1年間このまちかどに置かれていたものです。
まだ原型を保っています。

こちらは長者峰の大人形です。
頭や体を構成するの杉葉の量はかなり多く、青々としています。
置かれている場所が山の入り口の日陰部分にあり、直射日光が当たりませんので、葉の色の変色もあまり進まないようです。

少し薄暗い場所にありますので、知らない人が通るときっとドキッとしますね。


でも1年間この町を守り続けた大人形もこのような形になります。
これは昨年夏に飾られた人形で、今年取り換えられる前の最後の姿です。(8月16日昼ごろ)
新しい人形に取り換え、このお役御免になった人形は丁寧に燃やされます。
以前から何度も訪れていますが、この伝統もできるだけ続けてほしいものです。
地区も人が減り大変でしょうが・・・・・・・
過去の「ダイダラボッチの里」と題した記事は ⇒ こちら (20件あります)
サルスベリ
早くも明日で8月も終わりです。
最近特に日が短くなってきたのを感じます。
昨日はまた銚子のほうまで行って来たのですが、1週間前に比べて稲が黄金に色つき、一部の田では稲刈りも終っているところや、始める寸前のところなどが目立ちました。
またハス田もまだ、大きな蓮の花があちこちで咲いて、霞ヶ浦周辺の風情を感じることが出来ました。
ただ蓮の花は、先週のほうが目立っていましたので、もう終わりなのでしょう。これからはレンコンの収穫が始まるようです。
また道沿いの家々には百日紅(サルスベリ)の赤や白の花があちこち咲いていました。
我が家にもあるサルスベリですが、赤い花が結構長いこと楽しめます。

我が家の入口付近にあるサルスベリはこんな赤い花です。

幹はこんな感じで、猿も滑りそうですが、それほどツルツルはしていません。
つい先日までは表面の皮がはがれていました。

今は木の下は、このように花とともに木の剥がれ落ちた表皮が丸まって落ちています。
最近特に日が短くなってきたのを感じます。
昨日はまた銚子のほうまで行って来たのですが、1週間前に比べて稲が黄金に色つき、一部の田では稲刈りも終っているところや、始める寸前のところなどが目立ちました。
またハス田もまだ、大きな蓮の花があちこちで咲いて、霞ヶ浦周辺の風情を感じることが出来ました。
ただ蓮の花は、先週のほうが目立っていましたので、もう終わりなのでしょう。これからはレンコンの収穫が始まるようです。
また道沿いの家々には百日紅(サルスベリ)の赤や白の花があちこち咲いていました。
我が家にもあるサルスベリですが、赤い花が結構長いこと楽しめます。

我が家の入口付近にあるサルスベリはこんな赤い花です。

幹はこんな感じで、猿も滑りそうですが、それほどツルツルはしていません。
つい先日までは表面の皮がはがれていました。

今は木の下は、このように花とともに木の剥がれ落ちた表皮が丸まって落ちています。
銚子大橋
茨城県側から銚子に行く時は、昔は香取(佐原)方面から行くか、利根川沿いの茨城側の中州の土手沿いの道を通って、水門のある橋を通っていく場合が多かったのですが、ここ数年はこの最東端の銚子大橋を通っていく場合が増えました。
距離的には少し遠回りとなりますが、時間的にはこちらの方が早くいけます。
帰りは相変わらず水門のある橋(常陸川大橋、利根川大橋)を通っています。
昨日はこの水門を行きも帰りも通ったのですが、雨の後ということでいつもは閉まっている利根川の水門が2箇所開いていました。
そして、水は川の上流側から海側に向かって流れ、水門を通った川の水は大きな渦を巻いていました。
しかし、帰りの夕方に通ったときは、同じように一部水門が開いていましたが、水の流れはあまりなく、かえって逆に流れていたようです。
一方常陸利根川の水門は開いていないようでした。いまでも逆流はさせないのでしょうね。
何か息苦しそうです。

銚子駅からまっすぐ伸びた通りの突き当りの公園はむかし、蒸気船などの発着場があったところらしいです。
この場所からは、このように利根川下流の大きな流れをはさんで銚子大橋が良く見えます。
昔は有料の橋でしたが、予定より早く採算が取れたので無料となり、今のきれいな大きな橋に架け替えられました。

この写真の向こう岸は茨城県です。(神栖市波崎町)
時間が有るとこのように海や川をのんびり眺めるのも気持ちが落ち着いてきて良いものです。
江戸末期の頃は潮来の方からの観光客や飯沼観音の参拝客などを載せた帆引き船はここまだ来なかったのでしょうか?
松陰や一茶などの書物を読むと一つ手前の松岸に下りて泊まっている。
遊郭があったからなのか?
こちらの近くにだって遊郭や飲み屋街はあったのだが、帆引き船がここまで来ていなかったのか。
まあつまらぬことが気になる。
距離的には少し遠回りとなりますが、時間的にはこちらの方が早くいけます。
帰りは相変わらず水門のある橋(常陸川大橋、利根川大橋)を通っています。
昨日はこの水門を行きも帰りも通ったのですが、雨の後ということでいつもは閉まっている利根川の水門が2箇所開いていました。
そして、水は川の上流側から海側に向かって流れ、水門を通った川の水は大きな渦を巻いていました。
しかし、帰りの夕方に通ったときは、同じように一部水門が開いていましたが、水の流れはあまりなく、かえって逆に流れていたようです。
一方常陸利根川の水門は開いていないようでした。いまでも逆流はさせないのでしょうね。
何か息苦しそうです。

銚子駅からまっすぐ伸びた通りの突き当りの公園はむかし、蒸気船などの発着場があったところらしいです。
この場所からは、このように利根川下流の大きな流れをはさんで銚子大橋が良く見えます。
昔は有料の橋でしたが、予定より早く採算が取れたので無料となり、今のきれいな大きな橋に架け替えられました。

この写真の向こう岸は茨城県です。(神栖市波崎町)
時間が有るとこのように海や川をのんびり眺めるのも気持ちが落ち着いてきて良いものです。
江戸末期の頃は潮来の方からの観光客や飯沼観音の参拝客などを載せた帆引き船はここまだ来なかったのでしょうか?
松陰や一茶などの書物を読むと一つ手前の松岸に下りて泊まっている。
遊郭があったからなのか?
こちらの近くにだって遊郭や飲み屋街はあったのだが、帆引き船がここまで来ていなかったのか。
まあつまらぬことが気になる。