上戸川コスモス畑(潮来)
今年も潮来の上戸地区でコスモス畑が公開されています。
ここは毎年広大な敷地にコスモスの種をまいて、一定期間が過ぎると摘み取り自由になります。

摘み取り開始日はその年により異なり、今年は10月13日からです。
約6ヘクタールの土地に一千万本程のコスモスの花が咲くそうです。

でも見ているといつもたくさん摘み取られずに残っています。
半分も摘み取られていないのではないかと・・・・・・。
昨年はコスモスの生育不良でコスモス祭りが中止され、何時でも摘み取り自由だったと思います。
今年は少し遅くなっていますが順調に生育しているようです。


場所は潮来アヤメ園より少し手前の常陸利根川土手に近い場所です。
土手沿いには曼珠沙華の花が咲いています。

ここは毎年広大な敷地にコスモスの種をまいて、一定期間が過ぎると摘み取り自由になります。

摘み取り開始日はその年により異なり、今年は10月13日からです。
約6ヘクタールの土地に一千万本程のコスモスの花が咲くそうです。

でも見ているといつもたくさん摘み取られずに残っています。
半分も摘み取られていないのではないかと・・・・・・。
昨年はコスモスの生育不良でコスモス祭りが中止され、何時でも摘み取り自由だったと思います。
今年は少し遅くなっていますが順調に生育しているようです。


場所は潮来アヤメ園より少し手前の常陸利根川土手に近い場所です。
土手沿いには曼珠沙華の花が咲いています。

潮来長勝寺も秋の気配
月曜日に銚子へ出かけた時、また源氏ゆかりの長勝寺へ立ち寄ってみました。
こうして季節それぞれに立ち寄るのも趣が異なって良いお寺です。

今は萩の花が咲きだしていました。風に揺れて・・・・

この大きな藁ぶき屋根の本堂はとても立派なのですが、9月にきた台風で屋根は少しいたんだようです。
また本堂の左右の板が新しくなっていますが、台風直後に訪れた時は両側とも板が破損していましたので修理したようです。
屋根のマークは源氏の「笹竜胆(ささりんどう)」です。

参道わきには今は彼岸花が咲いていました。

こうして季節それぞれに立ち寄るのも趣が異なって良いお寺です。

今は萩の花が咲きだしていました。風に揺れて・・・・

この大きな藁ぶき屋根の本堂はとても立派なのですが、9月にきた台風で屋根は少しいたんだようです。
また本堂の左右の板が新しくなっていますが、台風直後に訪れた時は両側とも板が破損していましたので修理したようです。
屋根のマークは源氏の「笹竜胆(ささりんどう)」です。

参道わきには今は彼岸花が咲いていました。

ウミガメと神社
銚子の屏風岩の南側の海岸などでもウミガメの産卵する砂浜があるという。
四国の日和佐海岸のようにたくさんのウミガメが産卵するほどでは無いようだが、毎年のようにあまり人のいかない同じ浜で卵を産むようだ。
また銚子の漁師の間では昔からウミガメに遭遇すると大変縁起が良いとされ、こんな話が伝わっている。
<亀のまくら>
漁師が船を出しているとたまに沖に浮かんでいる浮き木にウミガメがつかまって休んでいることがあるとという。
これは大変縁起が良い流木とされ、船には別な木をいつも積んでいて、亀の休んでいた流木を回収し、代わりに持ってきた木と交換するという。
この流木を「亀のまくら」と呼び、亀のように長生きができ、子孫繁栄を願って神社に奉納するという。
またウミガメが死んで浜に流されてきたときには、丁寧に神社に墓を掘って埋めて供養するという。
さて、私がこの話に興味を持ったのは、銚子で天狗湯の跡地を探していたときに見つけた一つの神社を後から調べていて初めて知った。
それは川口神社と和田山不動尊のちょうど中間くらいの山の中にポツンと建てられていた「御嶽神社」という神社です。
この神社はどうやら「御嶽丸」という船の持ち主である「西広家」が建立したものらしい。
西広家は和歌山から出てきて、金貸しで土地を手に入れ、この御嶽山を信奉していたため、持ち船の名前も「御嶽丸」と名付け、「治郎吉」の屋号で船主、およびイワシの缶詰工場で戦前には大きくなっていったようだ。
この御嶽神社にもう数か月前に立ち寄っていたのだが、簡単に立ち寄った程度で調べてから先日また行きたくなり立ち寄った。

西広家の裏山の奥、住宅街から竹藪を切り開いたように神社への参道続いている。
しばらく前まではこのような舗装はされていなかったようだが、今はきれいになっていた。

鳥居の奥にお宮が一つポツンとある。

お宮の手前には治郎吉漁業の西広秀行 (御嶽丸)の施工主名碑が置かれている。
ただこの石碑は比較的新しそうだ。

神社名は「御嶽山」

祭られているのは、国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱であるが、元々御嶽神社は山岳信仰(修験道)の神である「蔵王権現」がこれらの日本古来の神と習合したものである。
明治維新後は蔵王権現が表面から消えてしまったものと理解している。
西広家は天狗少年寅吉とのかかわりなどもあり、やはりこの修験道信仰があったように感じる。
この大きな石碑は明治三年のもので、ちょうどそんな時期とダブるようだ。

裏には「御神歌」が彫られ、西広治郎吉の銘がある。

さて、この神社の参道横の竹やぶの中に大きな石碑がいくつか置かれている。
これはすべてウミガメの墓である。

「海神亀之霊 御嶽丸」 船主や、乗組員の名前も彫られている

「神愛亀之霊 (大正三年)」

「大海亀之霊」
やはりかなりの海亀信仰が続いているようだ。
四国の日和佐海岸のようにたくさんのウミガメが産卵するほどでは無いようだが、毎年のようにあまり人のいかない同じ浜で卵を産むようだ。
また銚子の漁師の間では昔からウミガメに遭遇すると大変縁起が良いとされ、こんな話が伝わっている。
<亀のまくら>
漁師が船を出しているとたまに沖に浮かんでいる浮き木にウミガメがつかまって休んでいることがあるとという。
これは大変縁起が良い流木とされ、船には別な木をいつも積んでいて、亀の休んでいた流木を回収し、代わりに持ってきた木と交換するという。
この流木を「亀のまくら」と呼び、亀のように長生きができ、子孫繁栄を願って神社に奉納するという。
またウミガメが死んで浜に流されてきたときには、丁寧に神社に墓を掘って埋めて供養するという。
さて、私がこの話に興味を持ったのは、銚子で天狗湯の跡地を探していたときに見つけた一つの神社を後から調べていて初めて知った。
それは川口神社と和田山不動尊のちょうど中間くらいの山の中にポツンと建てられていた「御嶽神社」という神社です。
この神社はどうやら「御嶽丸」という船の持ち主である「西広家」が建立したものらしい。
西広家は和歌山から出てきて、金貸しで土地を手に入れ、この御嶽山を信奉していたため、持ち船の名前も「御嶽丸」と名付け、「治郎吉」の屋号で船主、およびイワシの缶詰工場で戦前には大きくなっていったようだ。
この御嶽神社にもう数か月前に立ち寄っていたのだが、簡単に立ち寄った程度で調べてから先日また行きたくなり立ち寄った。

西広家の裏山の奥、住宅街から竹藪を切り開いたように神社への参道続いている。
しばらく前まではこのような舗装はされていなかったようだが、今はきれいになっていた。

鳥居の奥にお宮が一つポツンとある。

お宮の手前には治郎吉漁業の西広秀行 (御嶽丸)の施工主名碑が置かれている。
ただこの石碑は比較的新しそうだ。

神社名は「御嶽山」

祭られているのは、国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱であるが、元々御嶽神社は山岳信仰(修験道)の神である「蔵王権現」がこれらの日本古来の神と習合したものである。
明治維新後は蔵王権現が表面から消えてしまったものと理解している。
西広家は天狗少年寅吉とのかかわりなどもあり、やはりこの修験道信仰があったように感じる。
この大きな石碑は明治三年のもので、ちょうどそんな時期とダブるようだ。

裏には「御神歌」が彫られ、西広治郎吉の銘がある。

さて、この神社の参道横の竹やぶの中に大きな石碑がいくつか置かれている。
これはすべてウミガメの墓である。

「海神亀之霊 御嶽丸」 船主や、乗組員の名前も彫られている

「神愛亀之霊 (大正三年)」

「大海亀之霊」
やはりかなりの海亀信仰が続いているようだ。
外川と「亀のまくら」
銚子の御嶽神社で西広家(治郎吉)漁業の氏神さまである御嶽神社で海亀の墓(霊)を見た後、「亀のまくら」が奉納されているという外川(とかわ)の大杉神社を目指しました。
しかしこの日は銚子に向かう途中で用事もあり、いつもより遅くなってしまったので御嶽神社で「海亀の霊」(墓)を確認し終わったのは12時少し前。
このまま外川を往復すると食事の時間が無くなりそうでした。
でもここまで来たのだからと時間が許すところまで行こうと車を走らせました。
そして黒生(くろはえ)側から海岸に沿った道を南下し、犬吠崎灯台近くを通りました。
これが却って遠回りになったようです。
地名「黒生」も「クロハエ」と読むようですが、この漢字で思い出すのは「ビール」か「髪の毛」か?・・・・
銚子電鉄の駅もネーミングを企業に売っていますので(ネーミングライツ)、ここの「笠上黒生(かさがみくろはえ)駅」は、「髪毛黒生(かみのけくろはえ)駅」となっています。
企業は育毛シャンプー(スカルプ)のメーカです。

銚子の海岸も穏やかで気持ちのよい風と青い海に、比較的穏やかな白波がとても印象的でした。

犬吠駅で線路を渡りました。
この駅は、銚子電鉄の観光路線化を目指してポルトガル風に1990年末に改修したものです。
また経営危機を乗り越えるためにこの駅では「まずい棒」なる菓子を販売しています。
まだ食べたことはありませんが、まあ経営危機を逆手にとっての命名でしょうか?

丁度踏み切りで、電鉄の電車がやって来ました。青色の電車です。 前に見ていた電車の色と違うような・・・・
2016年に投入された3000形 この線路も単線です。
銚子駅と外川駅のとても短い区間を走ります。
濡れせんべいで電鉄経営の危機を救ったと有名になりましたが、今だに鉄道事業は赤字で危機は続いていそうです。
また昨年「鯖威張る弁当」なる鯖(サバ)弁当も「サバイバル」と名づけて販売中とか。
その後、銚子で最初に漁港として栄えた坂の多い町「外川」までやってきたのですが、どうやらこのままでは午後の仕事に支障が出そうですので引き返すことにしました。
引き返そうと路地を曲がるとそこは銚子電鉄終点の「外川」駅でした。
丁度犬吠駅で踏み切りで通過して行った電車が到着しお客さんが次々と降りてきました。
さて、外川と書いて私などはすぐ「とがわ」と言ってしまうのですが、銚子の人には「とかわ」と訂正されてしまいます。
茨城を「いばらぎ」ではなく「いばらき」というのに似ていますね。


駅の中です。
こじんまりした昔風の雰囲気が残っています。
この風情をあえて残しているのかもしれませんね。
時計は丁度お昼の12時です。
いよいよ時間がなくなりました。昼を食べそこなってしまいそうです。引き返しましょう。

赤いポストも懐かしいですね。「ありがとう」の文字もうれしい。
犬吠崎灯台は白いポストでした。
犬吠崎灯台で投函した郵便物は確か記念のスタンプが押されると書かれていたと思いますが、ここにはそんな仕掛けはなさそうです。

外川駅には現在NHK朝ドラの「澪つくし(みおつくし)」の撮影に使われた場所らしく、この看板がおかれ、以前この調子電鉄を走っていた電車「デハ801」の無料公開が行われていました。

この車両は愛媛県の伊予鉄道で戦後すぐの頃から使われていた車両を銚子電鉄が譲り受けて、昭和60年から25年間使われていたものです。
車両の外装塗装をして、2年ほど前からここで公開されています。(平日15:00、休日16:30まで)


さて、大杉神社まで行く時間がなくなりましたので引き返しました。
でもこの大杉神社は2017年4月に訪れています。
記事は ⇒ 「銚子漁港の始まりは外川港であった」(2017.4.16)
この時に神社の社前で撮った写真には「かめのまくら」なる流木が写っていました。

大杉神社の祠の右隣に立てかけてある流木が「亀のまくら」です。
前に訪れたときには書かれた物がなかったので気がつきませんでした。
単なる木の根っこのようにしか見えませんね。
大杉神社も天狗信仰が強い神社であるから山岳信仰と結びついた神社だと思うのですが、亀も天狗と同様に海の生き物である大海亀を祀るような信仰に結び付いているのでしょうか。
しかしこの日は銚子に向かう途中で用事もあり、いつもより遅くなってしまったので御嶽神社で「海亀の霊」(墓)を確認し終わったのは12時少し前。
このまま外川を往復すると食事の時間が無くなりそうでした。
でもここまで来たのだからと時間が許すところまで行こうと車を走らせました。
そして黒生(くろはえ)側から海岸に沿った道を南下し、犬吠崎灯台近くを通りました。
これが却って遠回りになったようです。
地名「黒生」も「クロハエ」と読むようですが、この漢字で思い出すのは「ビール」か「髪の毛」か?・・・・
銚子電鉄の駅もネーミングを企業に売っていますので(ネーミングライツ)、ここの「笠上黒生(かさがみくろはえ)駅」は、「髪毛黒生(かみのけくろはえ)駅」となっています。
企業は育毛シャンプー(スカルプ)のメーカです。

銚子の海岸も穏やかで気持ちのよい風と青い海に、比較的穏やかな白波がとても印象的でした。

犬吠駅で線路を渡りました。
この駅は、銚子電鉄の観光路線化を目指してポルトガル風に1990年末に改修したものです。
また経営危機を乗り越えるためにこの駅では「まずい棒」なる菓子を販売しています。
まだ食べたことはありませんが、まあ経営危機を逆手にとっての命名でしょうか?

丁度踏み切りで、電鉄の電車がやって来ました。青色の電車です。 前に見ていた電車の色と違うような・・・・
2016年に投入された3000形 この線路も単線です。
銚子駅と外川駅のとても短い区間を走ります。
濡れせんべいで電鉄経営の危機を救ったと有名になりましたが、今だに鉄道事業は赤字で危機は続いていそうです。
また昨年「鯖威張る弁当」なる鯖(サバ)弁当も「サバイバル」と名づけて販売中とか。
その後、銚子で最初に漁港として栄えた坂の多い町「外川」までやってきたのですが、どうやらこのままでは午後の仕事に支障が出そうですので引き返すことにしました。
引き返そうと路地を曲がるとそこは銚子電鉄終点の「外川」駅でした。
丁度犬吠駅で踏み切りで通過して行った電車が到着しお客さんが次々と降りてきました。
さて、外川と書いて私などはすぐ「とがわ」と言ってしまうのですが、銚子の人には「とかわ」と訂正されてしまいます。
茨城を「いばらぎ」ではなく「いばらき」というのに似ていますね。


駅の中です。
こじんまりした昔風の雰囲気が残っています。
この風情をあえて残しているのかもしれませんね。
時計は丁度お昼の12時です。
いよいよ時間がなくなりました。昼を食べそこなってしまいそうです。引き返しましょう。

赤いポストも懐かしいですね。「ありがとう」の文字もうれしい。
犬吠崎灯台は白いポストでした。
犬吠崎灯台で投函した郵便物は確か記念のスタンプが押されると書かれていたと思いますが、ここにはそんな仕掛けはなさそうです。

外川駅には現在NHK朝ドラの「澪つくし(みおつくし)」の撮影に使われた場所らしく、この看板がおかれ、以前この調子電鉄を走っていた電車「デハ801」の無料公開が行われていました。

この車両は愛媛県の伊予鉄道で戦後すぐの頃から使われていた車両を銚子電鉄が譲り受けて、昭和60年から25年間使われていたものです。
車両の外装塗装をして、2年ほど前からここで公開されています。(平日15:00、休日16:30まで)


さて、大杉神社まで行く時間がなくなりましたので引き返しました。
でもこの大杉神社は2017年4月に訪れています。
記事は ⇒ 「銚子漁港の始まりは外川港であった」(2017.4.16)
この時に神社の社前で撮った写真には「かめのまくら」なる流木が写っていました。

大杉神社の祠の右隣に立てかけてある流木が「亀のまくら」です。
前に訪れたときには書かれた物がなかったので気がつきませんでした。
単なる木の根っこのようにしか見えませんね。
大杉神社も天狗信仰が強い神社であるから山岳信仰と結びついた神社だと思うのですが、亀も天狗と同様に海の生き物である大海亀を祀るような信仰に結び付いているのでしょうか。
大型台風が過ぎ・・・・
台風19号は超大型といわれ、現在も各地で川の氾濫が続いている。
石岡地方も山沿い、川沿い、霞ケ浦周辺での水害、山崩れなどの災害が心配された。
風はかなり強く吹き荒れたが、幸いのことに心配されたほどの雨量でなかったようだ。
今後同じような大雨は増えるだろうし、今の状況を確認しておきたいと思い、
安全を確認してから市内の冠水が心配された片野地区へ行ってみた。
今までに何度も大雨の時に道路まで一面冠水したという被害を聞いてきた。
昨年川の底を掘りこんだりして川の流れをよくしたと聞いている。

道路や宅地の床下浸水などの大きな被害はなかった模様。
まわりの田んぼは一面水浸しで、横の水路は勢いよく水が流れていた。
まあ大雨が降っている間はそれでもかなり危険な状態だったのだろうと思う。

まだ稲刈りが終わっていない田んぼもある。

恋瀬川はこのあたりは地面より高い。

ここが恋瀬川だが、もう川の水は満杯である。
雨が止んでよかった。

もう少し山の方で降り続いたら道路や家も浸水していたのではないだろうか。
昨年?だと思うが、石岡市長とかすみがうら市長たちが国にこの川の補修工事を陳情しに行ったと記憶している。
この片野地区は地図で見ると石岡市のところにかすみがうら市が入り組み、また土浦市も隣接している。
片野地区は石岡市になるが、戦国時代に太田三楽斎(太田資正)が城を築いたことで知られる。
城は少し山を登ったところにあったが、手這坂(石岡市)で小田氏を打ち破った武将はこの郷で静かに息を引き取った。
大切なこの地の被害が出ないように行政は力を是非入れていただきたいと思う。
今回も、石岡市全域の避難勧告が早々に出た。75000人全員避難せよという。
我が家は近くに危険個所はないが、このような全域の避難勧告はどのような意味があるのだろうか?
心配があるからすべての市民が避難せよなどと指令を出しても行政は全員が避難するなどとは思ってもいないだろう。
そのため、遠くに住む子供たちから心配して早く逃げよと電話がかかって来た。
イギリスにいる娘からは、インターネットで見たから心配で電話したと。
電話にでると「まだ家にいたの? 逃げなきゃダメでしょ」と来た。
まあ、強力な台風だからどこで災害が起きるかわからないと言えばそれまでだが・・・・・
真夜中になって地区別に避難指示が出た。
私の希望としてはこの地区別避難指示範囲位をレベル4の避難勧告の範囲で出すべきだと感じた。
まだ、市町村ごとにどうも対応の仕方に統一した決まりが無いように思う。
それにこんな台風の日は雨戸もしめ、テレビをつけており、外は暴風雨なら防災無線は全く聞こえない。
すぐ目の前にスピーカーがあるところくらいは聞こえるのだろう。
今年、2か年計画で石岡地区にも防災無線の配布を計画している。
2年で7億円強もかけるという。
八郷地区はすでに防災行政無線の戸別受信機が配布されている。
今はインターネット時代で、この個別無線受信機の配布にどの程度の重要性があるかはわからない。
もう少し大きな枠組みで、新たな道路をつくるよりも新たなバイパス水路を作るとか、川の流れを別なとこへ付け替えるとか、堤防を徹底的に強化するとか、徳川家康くらいのことを考えてもらいたいものだ。
来年以降も必ずこんなことが起こるようになりそうだ。もうあまり時間が無いように思う。
石岡地方も山沿い、川沿い、霞ケ浦周辺での水害、山崩れなどの災害が心配された。
風はかなり強く吹き荒れたが、幸いのことに心配されたほどの雨量でなかったようだ。
今後同じような大雨は増えるだろうし、今の状況を確認しておきたいと思い、
安全を確認してから市内の冠水が心配された片野地区へ行ってみた。
今までに何度も大雨の時に道路まで一面冠水したという被害を聞いてきた。
昨年川の底を掘りこんだりして川の流れをよくしたと聞いている。

道路や宅地の床下浸水などの大きな被害はなかった模様。
まわりの田んぼは一面水浸しで、横の水路は勢いよく水が流れていた。
まあ大雨が降っている間はそれでもかなり危険な状態だったのだろうと思う。

まだ稲刈りが終わっていない田んぼもある。

恋瀬川はこのあたりは地面より高い。

ここが恋瀬川だが、もう川の水は満杯である。
雨が止んでよかった。

もう少し山の方で降り続いたら道路や家も浸水していたのではないだろうか。
昨年?だと思うが、石岡市長とかすみがうら市長たちが国にこの川の補修工事を陳情しに行ったと記憶している。
この片野地区は地図で見ると石岡市のところにかすみがうら市が入り組み、また土浦市も隣接している。
片野地区は石岡市になるが、戦国時代に太田三楽斎(太田資正)が城を築いたことで知られる。
城は少し山を登ったところにあったが、手這坂(石岡市)で小田氏を打ち破った武将はこの郷で静かに息を引き取った。
大切なこの地の被害が出ないように行政は力を是非入れていただきたいと思う。
今回も、石岡市全域の避難勧告が早々に出た。75000人全員避難せよという。
我が家は近くに危険個所はないが、このような全域の避難勧告はどのような意味があるのだろうか?
心配があるからすべての市民が避難せよなどと指令を出しても行政は全員が避難するなどとは思ってもいないだろう。
そのため、遠くに住む子供たちから心配して早く逃げよと電話がかかって来た。
イギリスにいる娘からは、インターネットで見たから心配で電話したと。
電話にでると「まだ家にいたの? 逃げなきゃダメでしょ」と来た。
まあ、強力な台風だからどこで災害が起きるかわからないと言えばそれまでだが・・・・・
真夜中になって地区別に避難指示が出た。
私の希望としてはこの地区別避難指示範囲位をレベル4の避難勧告の範囲で出すべきだと感じた。
まだ、市町村ごとにどうも対応の仕方に統一した決まりが無いように思う。
それにこんな台風の日は雨戸もしめ、テレビをつけており、外は暴風雨なら防災無線は全く聞こえない。
すぐ目の前にスピーカーがあるところくらいは聞こえるのだろう。
今年、2か年計画で石岡地区にも防災無線の配布を計画している。
2年で7億円強もかけるという。
八郷地区はすでに防災行政無線の戸別受信機が配布されている。
今はインターネット時代で、この個別無線受信機の配布にどの程度の重要性があるかはわからない。
もう少し大きな枠組みで、新たな道路をつくるよりも新たなバイパス水路を作るとか、川の流れを別なとこへ付け替えるとか、堤防を徹底的に強化するとか、徳川家康くらいのことを考えてもらいたいものだ。
来年以降も必ずこんなことが起こるようになりそうだ。もうあまり時間が無いように思う。
いわきでは断水と連絡が・・・・(台風被害)
今回の台風被害が自分になく、市内もあまり大きな被害がなかったことは本当に幸いでした。
しかし、時間が経つにつれ、各地の被害の様子が聞こえてきてその規模は全く想像外です。
まだまだテレビなどで情報が伝えられていない被害がたくさんあるようです。
被害にあわれた地域の人たちには心よりお見舞い申し上げます。
我が家にも昨夕に福島県の原発避難地域に戻られた方よりSOSがありました。
福島県のいわき市は平の浄水場が浸水し、4万5千世帯で断水(いわき市のみで千葉県の2倍)。
復旧には数週間かかるかもしれず不安が広がっています。
また楢葉町なども水道は褐色水となり飲料水供せなくなりました。
しかし、いわきの断水に伴いポリタンクがすべて周辺の店からなくなりました。手に入らないのです。
一人当たり6Lのポリ袋が供されているのみで、とても足りずに困っているそうです。
近くにコンビニが1軒あるのみですが、食料品はほとんど底をついてない状態。
家内は今日近くで水用ポリタンクをいくつか買って食料を積んでいわきに行くようです。
11日、12日にも行ったばかりですが、12日の台風襲来の直前にこちらに戻りました。
水戸や大子、常陸太田などの状況を知るにつれて、早めに戻れてよかったと話し合っていたばかりでしたが・・・・・。
しかし、時間が経つにつれ、各地の被害の様子が聞こえてきてその規模は全く想像外です。
まだまだテレビなどで情報が伝えられていない被害がたくさんあるようです。
被害にあわれた地域の人たちには心よりお見舞い申し上げます。
我が家にも昨夕に福島県の原発避難地域に戻られた方よりSOSがありました。
福島県のいわき市は平の浄水場が浸水し、4万5千世帯で断水(いわき市のみで千葉県の2倍)。
復旧には数週間かかるかもしれず不安が広がっています。
また楢葉町なども水道は褐色水となり飲料水供せなくなりました。
しかし、いわきの断水に伴いポリタンクがすべて周辺の店からなくなりました。手に入らないのです。
一人当たり6Lのポリ袋が供されているのみで、とても足りずに困っているそうです。
近くにコンビニが1軒あるのみですが、食料品はほとんど底をついてない状態。
家内は今日近くで水用ポリタンクをいくつか買って食料を積んでいわきに行くようです。
11日、12日にも行ったばかりですが、12日の台風襲来の直前にこちらに戻りました。
水戸や大子、常陸太田などの状況を知るにつれて、早めに戻れてよかったと話し合っていたばかりでしたが・・・・・。
逆水門
関東や長野、東北にかけて、各地の川沿いでは台風19号の爪あとがまだ生々しく、情報が正確に伝わっていないところも多そうだ。
昨日また銚子に出かけたのだが、銚子周辺も水位が上昇して浸水した箇所がいくつもあったようだ。
そのため、利根川の下流域、霞ヶ浦の水の利根川との合流地点には大きな水門が設置されているので、この状況を確認しながら向かうことにした。
途中神栖から常陸利根川大橋へ。
利根川河口には銚子の港があるが、この水門のある大橋は、そこからは18kmほど上流側にある。
この地点で、霞ヶ浦から利根川に流れる川(常陸利根川)が利根川本流に合流する。
その常陸利根川と利根川本流にそれぞれ水門が設けられたのは1973年です。
もう45年以上経っています。
目的は霞ヶ浦を海と切り離してダム化し、東京の水源確保、稲作への塩害防止、鹿島工業地帯などへの工業用水確保などだったと思います。

(訂正:千葉県(東荘町) ⇒ (東庄町))
霞ヶ浦を水門で閉め切り、汽水湖は完全に淡水湖になりました。
しかし生態系が壊れ、霞ヶ浦の水質は悪化してしまいました。
夏は泳げた湖から泳げない湖となって久しいです。
この霞ヶ浦の出口にある水門は「逆水門」と呼ばれています。
利根川本流が増水してもこの水門を閉じれば逆流はしなくなります。
今回の大雨ではこの水門のおかげでしょうか、土浦や高浜などの霞ヶ浦の突端の街での水害は起こりませんでした。
この水門によって水面の高さをコントロールしているからでしょう。
その意味ではこの水門は大きな役目をしているのかもしれません。
でも出来たばかりのころにはもっと開いている時間がずっと長かったと思います。
もう少し柔軟に開け閉めしてやらないと生態系が壊れそうです。
可憐なアサザの花の群落は今ではほとんど見られなくなりました。
麻生港は今年は全く群生が見られなくなってしまったようです。さびしいものです。
これは霞ケ浦川の堤防が完成し、霞ケ浦のコントロール水位を少し上昇させたせいだといわれています。

今回はこの常陸川大橋(逆水門、常陸利根川水門がある)と利根川大橋(利根川本流の水門がある)を渡った黒部川手前の空き地から水門をながめた写真です。(2019.10.17撮影)
手前の利根川にかかる橋の水門はコンクリートの門がほとんど上に持ち上げられ、ほぼ全開状態です。
まだまだ上流から流れてくる水量は茶色く濁ってだいぶ多くなっています。
先日の台風後はこの河川敷や沿岸の低い地帯は冠水していたようです。
向こうの常陸利根川(霞ケ浦からの出口)にかかる水門(逆水門)は朝方はほぼ全開でしたが、夜に変える時に通った時は利根川は全開のままでしたが、常陸利根川の水門は閉まっていました。

東庄(とうのしょう)町は天保水滸伝の利根川河原での決闘で歌で有名になった所。
このためこの場所に浪曲で歌われた「天保水滸伝」の歌碑が置かれています。

「利根の川風袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」
ここの場所から銚子まで千葉県側を川に添って国道を走りました。
報道では国道と利根川の間の低地はかなり冠水箇所が報告されていましたが、通ったときはほぼ水も引き、正常に近い状況でした。
松岸近くも川沿いはかなり水に浸かった家も出たと聞いていましたが、一見もう正常に近くなっているようでした。
ただ個々に内情はいろいろあるとは思います。
銚子大橋のたもともかなり水位が上昇して床上浸水なども発生していたようですが、17日にはすでに水は引いていました。

銚子港も水は茶色く濁っていましたが、利根川から運ばれたたくさんの流木などももうありませんでした。

昨日また銚子に出かけたのだが、銚子周辺も水位が上昇して浸水した箇所がいくつもあったようだ。
そのため、利根川の下流域、霞ヶ浦の水の利根川との合流地点には大きな水門が設置されているので、この状況を確認しながら向かうことにした。
途中神栖から常陸利根川大橋へ。
利根川河口には銚子の港があるが、この水門のある大橋は、そこからは18kmほど上流側にある。
この地点で、霞ヶ浦から利根川に流れる川(常陸利根川)が利根川本流に合流する。
その常陸利根川と利根川本流にそれぞれ水門が設けられたのは1973年です。
もう45年以上経っています。
目的は霞ヶ浦を海と切り離してダム化し、東京の水源確保、稲作への塩害防止、鹿島工業地帯などへの工業用水確保などだったと思います。

(訂正:千葉県(東荘町) ⇒ (東庄町))
霞ヶ浦を水門で閉め切り、汽水湖は完全に淡水湖になりました。
しかし生態系が壊れ、霞ヶ浦の水質は悪化してしまいました。
夏は泳げた湖から泳げない湖となって久しいです。
この霞ヶ浦の出口にある水門は「逆水門」と呼ばれています。
利根川本流が増水してもこの水門を閉じれば逆流はしなくなります。
今回の大雨ではこの水門のおかげでしょうか、土浦や高浜などの霞ヶ浦の突端の街での水害は起こりませんでした。
この水門によって水面の高さをコントロールしているからでしょう。
その意味ではこの水門は大きな役目をしているのかもしれません。
でも出来たばかりのころにはもっと開いている時間がずっと長かったと思います。
もう少し柔軟に開け閉めしてやらないと生態系が壊れそうです。
可憐なアサザの花の群落は今ではほとんど見られなくなりました。
麻生港は今年は全く群生が見られなくなってしまったようです。さびしいものです。
これは霞ケ浦川の堤防が完成し、霞ケ浦のコントロール水位を少し上昇させたせいだといわれています。

今回はこの常陸川大橋(逆水門、常陸利根川水門がある)と利根川大橋(利根川本流の水門がある)を渡った黒部川手前の空き地から水門をながめた写真です。(2019.10.17撮影)
手前の利根川にかかる橋の水門はコンクリートの門がほとんど上に持ち上げられ、ほぼ全開状態です。
まだまだ上流から流れてくる水量は茶色く濁ってだいぶ多くなっています。
先日の台風後はこの河川敷や沿岸の低い地帯は冠水していたようです。
向こうの常陸利根川(霞ケ浦からの出口)にかかる水門(逆水門)は朝方はほぼ全開でしたが、夜に変える時に通った時は利根川は全開のままでしたが、常陸利根川の水門は閉まっていました。

東庄(とうのしょう)町は天保水滸伝の利根川河原での決闘で歌で有名になった所。
このためこの場所に浪曲で歌われた「天保水滸伝」の歌碑が置かれています。

「利根の川風袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」
ここの場所から銚子まで千葉県側を川に添って国道を走りました。
報道では国道と利根川の間の低地はかなり冠水箇所が報告されていましたが、通ったときはほぼ水も引き、正常に近い状況でした。
松岸近くも川沿いはかなり水に浸かった家も出たと聞いていましたが、一見もう正常に近くなっているようでした。
ただ個々に内情はいろいろあるとは思います。
銚子大橋のたもともかなり水位が上昇して床上浸水なども発生していたようですが、17日にはすでに水は引いていました。

銚子港も水は茶色く濁っていましたが、利根川から運ばれたたくさんの流木などももうありませんでした。

八郷盆地と柿岡湖
今回の台風19号は大雨による河川の氾濫で今までの日本の災害の歴史でも類を見ないほど広範囲に大きな爪あとを残した。
これは超大型台風という前触れを私を含め多くの人々が甘く見すぎていたように感じた。
被害にあわれた方には心よりお見舞い申し上げたいと思います。
自分として何が出来るのかはわかりませんが、心はいつも被災者側にありたいと常に思います。
わが町である石岡市はいち早く全員(約7万五千人)に避難勧告を出しました。
私のところは高台でもあり増水の危険はなく、がけ崩れの危険箇所はなくなぜこのような勧告を他市に先駆けて出すのか疑問に思っていました。
台風が迫る中、家の戸締りを今回は厳重にして、通り過ぎるのを待ちましたが、この判断で基本的には良かったのだろうと今でも思っていますが、少しいま住んでいる地形を考察し、歴史を振り返って見たくなりました。
もし以下参考になることがあればご活用ください。
下の立体図(写真?)は筑波山地域が日本ジオパークに認定され、この筑波山地域を立体的に現した「ジオアート 筑波山地域」(北海道地図株式会社製作 1100円)の一部の八郷地域を取り出したものです。

上の左側が筑波山、足尾山、加波山と続く山並みl、上側が真中の板敷峠から吾国山、難台山、(愛宕山)、鐘転山の山並みです。
旧石岡の市街地はこの山並みの右側の平野部から霞ヶ浦続く比較的なだらかな台地上にあります。

YAHOOの地図で見ると上図のように山に囲まれた旧八郷地域と右側に広がる旧石岡地域に区分され、その境目は、南側には「龍神山」や「常陸風土記の丘公園」などがあり、北側は園部地区や献上柿栽培で知られる真家地区があります。

上の写真は北側の吾国山付近の尾根から眺めて八郷盆地です。
また西側の峰寺山西光院からもこの八郷盆地が良く見下ろせます。

上の写真は石岡市街地側から県道7号線で下林地区から柿岡方面を眺めたものです。
このように朝などはよく山沿いに霞、霧が発生しており、のどかな反面、この林地区からも少し下がった盆地の地形をしているのがわかります。
また近年開通した朝日トンネルを土浦市小町地区から石岡に抜けた辺りからもこの盆地一体が広がっているのが解ります。
地図を見てまるでカルデラ地形をしているから、大昔に火山でもあったのかもしれないと感じる方もおられるようですが、火山の跡は確認されていません。
日本ジオパークでの説明では、大昔地下にあったマグマが固まって深成岩となり、それが深成岩体が地の変動によって隆起し、侵食されて今のような山の形となったとされています。そのため山頂付近の巨石・奇岩は、海底時にマグマの冷却過程で形成されたもので、それが地表に露出した後に、風化・侵食がつくり出したものとされています。
実は、筑波山以外に八郷地区も同じように隆起したように考えられていて、これが隆起した後、川による侵食により形成されたと考えられています。
ではいつ頃かというと、まず海底には2~3億年前には堆積してできた砂岩、泥岩がありましたが、そこに約6千万年前頃に大量のマグマが入り込んで固まり、深成岩が出来、この硬い部分だけが残って現在の筑波山になったといいます。
八郷盆地は大きく3段の高さに分類され、十数万年より前に八郷地区が海に面していて、海岸の砂地であったと考えられる海抜50~70m地域、また、12~13万年前に始まった海進により陸地が広がり、柿岡を中心とした湖(柿岡湖)が存在した海抜27~45mの地域、またさらに海進が進み、恋瀬川などの河口部分に砂や土砂が堆積して出来た標高12~28mの地域(恋瀬川がつくった河岸段丘)に分類されます。
ではこの中位高さの標高27~45mの地区には大昔柿岡湖といわれる湖があったといわれているのを少し検証してみたいと思います。
使うのはFlood Mapsという地図ソフトで、これはGoogleMapで海面を上昇させてシュミレーションでき、無料で利用できます。
それではまず、海面を+40m上昇させて見ます。

上の地図は海面の高さを+40m上昇させたものです(Flood Maps)
どうですが、大きな柿岡湖(柿岡の地名は何時出来たのかはわかりませんので、この柿岡の名前は後から付けられたものです)
湖は恋瀬川が五輪堂橋上流側に滝のような物が存在してこのような湖地形となっていたものと考えても良いのではないでしょうか。
八郷盆地の中にある富士山はこの湖に飛び出した島であったと思われます。

上の地図は海面の高さを+30m上昇させたものです(Flood Maps)
では海面の水位を少しさげて、+30mとしてみました。
やはり湖の大きさは小さくはなりましたが、同じような形が残りました。
この時もやはり恋瀬川は五輪堂橋と方の地区の間が狭くなっていて滝が存在したように思います。

上の地図は海面の高さを+20m上昇させたものです(Flood Maps)
では、古代よりもう少し有史に近い年代を考えるため、海面の高さを+20mまで下げてみました。
この図の柿岡湖で表示された地区が恋瀬川の氾濫時によく浸水が起こる地区です。
これはやはり恋瀬川が一部狭くなっているために大量の雨が降ると恋瀬川が流せ切れずにその部分が氾濫することを表しています。
まだこの地域(筑波山系)に降る水だけが流れ込むため、今回の台風ではこの地域には恐れていたより雨の量が少なかっただけで、もしもっと大量に降ればこの地区は水害をまぬかれなかったのかもしれません。
霞ヶ浦の水位はかなりコントロールがなされており、霞ヶ浦周辺の堤防は整備が終っています。
後は、この狭くなった部分を広げるか、または別なバイパス水流を作るかしかないようです。
少し心配なのはこの恋瀬川のこの場所は地形が複雑で、石岡市とかすみがうら市の市境であり、扱いが複雑です。
でも何とか安心して住めるように対策は早急にして欲しいと思います。
柿岡の市役所支所近くの恋瀬川に「百目鬼橋(ざわめきばし)」という橋が架かっています。
円山古墳のすぐ西側です。(+20mの地図に表記した)
百目鬼=ざわめき という名前は川の流れの音から名付けられたもので、各地に似た名前の地名が散見されます。
同じ漢字を使うとことでもその多くの読みは「どどめき」「どうめき」「どめき」などと呼ばれていますが、石岡の地名では「ざわめき」と呼ばれています。
先日の台風19号の翌日に見に行ってきました。
百目鬼橋(ざわめきばし)

(橋より上流側を眺める)
水量はかなり多く濁っており、少し周辺には水が溜まった痕跡はありましたが、車の通行も危険なところはありませんでした。
この橋には自動で監視できる水位計が設置されていましたので、無人で遠隔でも水位が分かるのでしょう。

(橋より下流側:柿岡の街方面を眺める)
記録によるとこの百目鬼(地名では高友)で川は堰き止められ、滝があったようです。この滝の音からザワメキと名付けられたようです。このため、この上流側も小さな沼となっていたそうです。
そして昭和初期まで水車がおかれ、精米、精麦、穀物製粉所があったそうです。

一方もっと下流の片野地区も恋瀬川が堰き止められて「大江沼」とよばれる沼が江戸時代頃迄残されていたようです。
その頃から何度か恋瀬川の工事も行われて来たようですが、今の豪雨の傾向を見ると更なる改善が必要ですね。
これは超大型台風という前触れを私を含め多くの人々が甘く見すぎていたように感じた。
被害にあわれた方には心よりお見舞い申し上げたいと思います。
自分として何が出来るのかはわかりませんが、心はいつも被災者側にありたいと常に思います。
わが町である石岡市はいち早く全員(約7万五千人)に避難勧告を出しました。
私のところは高台でもあり増水の危険はなく、がけ崩れの危険箇所はなくなぜこのような勧告を他市に先駆けて出すのか疑問に思っていました。
台風が迫る中、家の戸締りを今回は厳重にして、通り過ぎるのを待ちましたが、この判断で基本的には良かったのだろうと今でも思っていますが、少しいま住んでいる地形を考察し、歴史を振り返って見たくなりました。
もし以下参考になることがあればご活用ください。
下の立体図(写真?)は筑波山地域が日本ジオパークに認定され、この筑波山地域を立体的に現した「ジオアート 筑波山地域」(北海道地図株式会社製作 1100円)の一部の八郷地域を取り出したものです。

上の左側が筑波山、足尾山、加波山と続く山並みl、上側が真中の板敷峠から吾国山、難台山、(愛宕山)、鐘転山の山並みです。
旧石岡の市街地はこの山並みの右側の平野部から霞ヶ浦続く比較的なだらかな台地上にあります。

YAHOOの地図で見ると上図のように山に囲まれた旧八郷地域と右側に広がる旧石岡地域に区分され、その境目は、南側には「龍神山」や「常陸風土記の丘公園」などがあり、北側は園部地区や献上柿栽培で知られる真家地区があります。

上の写真は北側の吾国山付近の尾根から眺めて八郷盆地です。
また西側の峰寺山西光院からもこの八郷盆地が良く見下ろせます。

上の写真は石岡市街地側から県道7号線で下林地区から柿岡方面を眺めたものです。
このように朝などはよく山沿いに霞、霧が発生しており、のどかな反面、この林地区からも少し下がった盆地の地形をしているのがわかります。
また近年開通した朝日トンネルを土浦市小町地区から石岡に抜けた辺りからもこの盆地一体が広がっているのが解ります。
地図を見てまるでカルデラ地形をしているから、大昔に火山でもあったのかもしれないと感じる方もおられるようですが、火山の跡は確認されていません。
日本ジオパークでの説明では、大昔地下にあったマグマが固まって深成岩となり、それが深成岩体が地の変動によって隆起し、侵食されて今のような山の形となったとされています。そのため山頂付近の巨石・奇岩は、海底時にマグマの冷却過程で形成されたもので、それが地表に露出した後に、風化・侵食がつくり出したものとされています。
実は、筑波山以外に八郷地区も同じように隆起したように考えられていて、これが隆起した後、川による侵食により形成されたと考えられています。
ではいつ頃かというと、まず海底には2~3億年前には堆積してできた砂岩、泥岩がありましたが、そこに約6千万年前頃に大量のマグマが入り込んで固まり、深成岩が出来、この硬い部分だけが残って現在の筑波山になったといいます。
八郷盆地は大きく3段の高さに分類され、十数万年より前に八郷地区が海に面していて、海岸の砂地であったと考えられる海抜50~70m地域、また、12~13万年前に始まった海進により陸地が広がり、柿岡を中心とした湖(柿岡湖)が存在した海抜27~45mの地域、またさらに海進が進み、恋瀬川などの河口部分に砂や土砂が堆積して出来た標高12~28mの地域(恋瀬川がつくった河岸段丘)に分類されます。
ではこの中位高さの標高27~45mの地区には大昔柿岡湖といわれる湖があったといわれているのを少し検証してみたいと思います。
使うのはFlood Mapsという地図ソフトで、これはGoogleMapで海面を上昇させてシュミレーションでき、無料で利用できます。
それではまず、海面を+40m上昇させて見ます。

上の地図は海面の高さを+40m上昇させたものです(Flood Maps)
どうですが、大きな柿岡湖(柿岡の地名は何時出来たのかはわかりませんので、この柿岡の名前は後から付けられたものです)
湖は恋瀬川が五輪堂橋上流側に滝のような物が存在してこのような湖地形となっていたものと考えても良いのではないでしょうか。
八郷盆地の中にある富士山はこの湖に飛び出した島であったと思われます。

上の地図は海面の高さを+30m上昇させたものです(Flood Maps)
では海面の水位を少しさげて、+30mとしてみました。
やはり湖の大きさは小さくはなりましたが、同じような形が残りました。
この時もやはり恋瀬川は五輪堂橋と方の地区の間が狭くなっていて滝が存在したように思います。

上の地図は海面の高さを+20m上昇させたものです(Flood Maps)
では、古代よりもう少し有史に近い年代を考えるため、海面の高さを+20mまで下げてみました。
この図の柿岡湖で表示された地区が恋瀬川の氾濫時によく浸水が起こる地区です。
これはやはり恋瀬川が一部狭くなっているために大量の雨が降ると恋瀬川が流せ切れずにその部分が氾濫することを表しています。
まだこの地域(筑波山系)に降る水だけが流れ込むため、今回の台風ではこの地域には恐れていたより雨の量が少なかっただけで、もしもっと大量に降ればこの地区は水害をまぬかれなかったのかもしれません。
霞ヶ浦の水位はかなりコントロールがなされており、霞ヶ浦周辺の堤防は整備が終っています。
後は、この狭くなった部分を広げるか、または別なバイパス水流を作るかしかないようです。
少し心配なのはこの恋瀬川のこの場所は地形が複雑で、石岡市とかすみがうら市の市境であり、扱いが複雑です。
でも何とか安心して住めるように対策は早急にして欲しいと思います。
柿岡の市役所支所近くの恋瀬川に「百目鬼橋(ざわめきばし)」という橋が架かっています。
円山古墳のすぐ西側です。(+20mの地図に表記した)
百目鬼=ざわめき という名前は川の流れの音から名付けられたもので、各地に似た名前の地名が散見されます。
同じ漢字を使うとことでもその多くの読みは「どどめき」「どうめき」「どめき」などと呼ばれていますが、石岡の地名では「ざわめき」と呼ばれています。
先日の台風19号の翌日に見に行ってきました。
百目鬼橋(ざわめきばし)

(橋より上流側を眺める)
水量はかなり多く濁っており、少し周辺には水が溜まった痕跡はありましたが、車の通行も危険なところはありませんでした。
この橋には自動で監視できる水位計が設置されていましたので、無人で遠隔でも水位が分かるのでしょう。

(橋より下流側:柿岡の街方面を眺める)
記録によるとこの百目鬼(地名では高友)で川は堰き止められ、滝があったようです。この滝の音からザワメキと名付けられたようです。このため、この上流側も小さな沼となっていたそうです。
そして昭和初期まで水車がおかれ、精米、精麦、穀物製粉所があったそうです。

一方もっと下流の片野地区も恋瀬川が堰き止められて「大江沼」とよばれる沼が江戸時代頃迄残されていたようです。
その頃から何度か恋瀬川の工事も行われて来たようですが、今の豪雨の傾向を見ると更なる改善が必要ですね。
石の仁王像へ
今年は秋になっても台風や大雨が多くなかなかすっきりした日が少ない。
こんな時に屋外で風雨にさらされている仁王さんがいる。
台風の前ではあるが気になっていて近くを通った時に立ち寄った。
場所は石岡脳外科病院脇の道を入ったところにある。
住所は小美玉市栗又四ケ(くりまたしか)



伊豆石でできており、江戸末期に霞ケ浦を船で運ばれてきたという。
一つで3トンほどあるそうだ。
阿弥陀堂は壊れてしまっても、この像は300年もこの場所でその雄姿を昼も夜もこうして睨みを効かせている。
こんな時に屋外で風雨にさらされている仁王さんがいる。
台風の前ではあるが気になっていて近くを通った時に立ち寄った。
場所は石岡脳外科病院脇の道を入ったところにある。
住所は小美玉市栗又四ケ(くりまたしか)



伊豆石でできており、江戸末期に霞ケ浦を船で運ばれてきたという。
一つで3トンほどあるそうだ。
阿弥陀堂は壊れてしまっても、この像は300年もこの場所でその雄姿を昼も夜もこうして睨みを効かせている。
| HOME |