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月と金星

 先週末に夕方暗くなって外に買い物に出た。
西の空には細い三日月が輝いていた。

そしてその月のすぐ右横に明るい星が一緒に輝いている。
まだ普通の星はほとんど分らないくらいの輝きの中でその輝きは大きく、何か起こったのかとも一瞬思ったほどだ。

これは金星だという事が後から分った。
翌日には月よりも少し下がった位置でやはり輝いていた。

今年は2月は27日と28日に月と金星が並んだのだという。

金星といえば「宵の明星」といわれている事は知っていたが、このように三日月の月と一緒に輝いている光景はとても美しかった。

世の中新型コロナウィルスで騒ぎが広がり、どこにも出かけられないようだが、家にいても夜空でも眺めて少し勉強してみたい。
星座などには興味がなかったが、知識が広がればきっともっと楽しくなりそうだ。

金星2
(国立天文台の「ほしぞら情報(2020年2月)」より)

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/01 11:51

機関紙「ふるさと風」縮尺保存版

 もう3月になってしまいました。
3月までに予定している事が結構残っています。

機関紙「ふるさと風」も3月号発行が今週土曜日です。
今日、原稿がが出揃って、大まかな編集を行いました。
今週は半ばに銚子にも行かねばならず、その宿題もある・・・・。
なかなか手が出ない。

さて、ふるさと”風”の会も会報を出し始めてこの6月で14年になります。

毎月欠かさず発行してきた会報「ふるさと風」も今月で166号です。
今までの残りを在庫としてダンボールなどで保管してきましたが、もう場所や整理も大変なので保管するのは諦めました。
1部は残していますが、原稿があるので、これを保存版(B5)冊子を作成する事にして、今年始めからせっせと準備してきました。
しかし、何しろ手持ちのプリンターなどでプリントして製本するといった手作業です。
作る部数が少ないので印刷屋などに頼めません。
会報は1回平均で20ページくらいありますので、TOTAL約3300ページくらいになります。
初回から一昨年分までを6冊に分けて 1冊平均が500ページx6冊 くらいになりました。

今日やっと少し完成しました。
今月半ばまでにどれくらいできるか???

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3冊ずつ並べてみたけど 結構なボリュームがある。
6冊セットで16cmほどの高さになった。

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まあ、暇を見つけて少しずつ増刷していこう。

現在地域に埋もれた歴史の小冊子本を新たに5冊ほどまとめ中です。
これもなんとか3月には発行したい。

また出来たら報告します。
ふるさと風のオンラインショップ (こちら) に出来たら順に載せます。

ことば座・風の会 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/03/02 16:38

車の乗り換えで少し気分上向く?

  長年乗って来た車が、先月車検を向かえ、さすがに23万kmものり、タイヤもツルツルになり始め、更なる車検更新を諦めました。
タダで廃車手続きもやり、引き取っていただけるという業者もいましたが、少し実質+αでの引き取りできる所にお願いしました。

そして、1ヶ月車を止めて、徒歩とシティサイクルでしばらく我慢して過ごしました。
しかし、運よく知り合いの方より、中古の軽自動車を昨日譲り受ける事ができ、早速乗っています。

外観もきれいで、内部もまっさらにしていただき、気持ちよく乗れそうです。
それほど遠出をしなければ軽自動車の方が良いですね。
私も50年ほど前はずっと軽自動車に乗っていました。
子供が生れたりしてからワゴンタイプの普通車に変え、今迄、5~6台くらい乗ったでしょうか。

早速ガソリンを入れにスタンドへ。
途中で菜の花が美しく咲き誇っていました。

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(かすみがうら市下稲吉)

近くのコスモ石油のガソリンスタンドで大きく看板に「130円」の表示が・・・・
コスモザカードで128円の文字も。
この数日で、ガソリン価格が随分下がったと思い、もっているコスモザカードで給油してみたら

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1リットルが125円となっていました。
しばらく給油から遠ざかっていましたが、これくらいまで下がると助かりますね。

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ところで、譲っていただいた軽自動車ですが、ナンバープレートが黄色ではなく、白色なんです。
そしてプレートの右上に2020TOKYOのオリンピックマークがついています。

昨年と今年、ラグビーワールドカップとオリンピックを記念して特別仕様で白ナンバーが取れるのだそうです。
なんか得した気分で気持も前向きになりました。

昨年から風の会のメンバーの急逝が続き、気持ちもめいってしまい、残しておかねばならない資料や、本、詩、絵などの整理に終われておりました。
先日やっと、今までの会報の縮尺版を作成できましたので、今度は少し自分の書籍も整理し、また冊子も作ろうと思います。
3月11日は東日本大震災から9年ということで、当時に書き続けていた記事の整理をしました。

何かの形でこれも残しておいてもいいかなと思います。
地震や津波で未曾有の大災害に直面した人達がたくさんおられます。
でも、その中でこの少し離れた地で、その時に何があっったのか? またどのように思っていたのかなどを記録しておくのも必要な事ではないかと思います。

当時震災直後は毎日数件をブログで発信しました。
そしてあっという間に1日で5000件ものアクセスになった事は私のブログがその後継続できた原動力です。

今、アクセス数は大幅に減少していますが、これから、やはりもう少し小まめに情報発信をしていこうと思います。

また時々このブログも覗いてくださいね。

株価の大幅下落で一気に世の中のムードが下向きになったようです。
丁度春闘の最中ですから、企業も余り景気のよい数値が見込めず、回答もしぼんでいます。

こういうときこそ上を向いて上昇志向で進むしかないでしょう。
頑張りましょう。

近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/03/13 12:03

子安神社のツバキ

 かすみがうら市東野寺にある「子安神社」に参道のヤブツバキの花を見に行ってきました。

この脇の道はむかしからよく通るのですが、昔の茨城国体時に整備したので「国体道路」などとの通称もあります。
通りの左右に「子安神社」「胎安(たやす)神社」と2つの古社があり、出産、子育てなどで多くの子安講などで信仰があり、昔から縁日なども行われてきました。

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子安神社の参道にヤブツバキの木がたくさんあり、樹齢も200年ほどになるといわれ、この花を見に訪れる人もチラホラおられるようです。
しかし、やはりまだ余り知られていないようで、昨日行ってみましたが、どなたもいませんでした。

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参道脇にはツバキの紅い花がたくさん落ちていました。

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上を見上げるとまだたくさん咲いています。

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このような自然の椿の花も素敵ですね。
庭に咲く椿の花とは又違った趣があります。

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椿の木の奥には竹林も見えます。

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正面に神社の拝殿。
手前の石灯篭左脇に大きな木に注連縄がかけられ、木の上にはブリキで天板がされ、雨から木を護っています。
かなり古い古木(樹齢千年ほどのケヤキ(欅))で迫力が在りますが、いまでもこの神社のご神木のようです。

この木は10数年前までは、未だ残っていたと思いますが、爆弾低気圧の強風が吹荒れた時に折れてしまったようです。

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拝殿前の境内には青々としたコケが生え、余り人が訪れないのも良い事です。
ちょっとした苔寺気分が味わえます。

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子安の信仰で、この神社では腹帯などを授けています。
何時の時代も、親が子供が丈夫に育つ事を願うのは変らないですね。


志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/14 09:08

どこもお休み

 ふるさと”風”の会は月に2度集まりを持っている。
月初めと、月の終わりの土曜日午前中。

3月は7日の土曜日に3月号の会報の印刷を行った。
メンバーが7人になってしまい、内容も少しシュリンクしてしまっている事に気をもんではいるがこれも仕方がない。
しかし、石岡市では前日金曜日の夕方に市内の図書館、観光施設、公民館などの多くを休館とすることが発表された。

このため、会報の多くをこのような公共の施設に無料でおかせていただいていたために、印刷してもその多くが配布できなくなった。
近隣の市町村を見ると、図書館の休館はかなり多く行われているが、たくさんの人数が集まるイベントを中止しても、公民館や観光施設の休館は少ないように思う。

私が配っている土浦市の「小町の里」やつくば市北条の「ふれあい館(田村家)」などはみな通常通り開かれていた。

公共施設の休館は、あまり経済の影響はそれほど大きくはないが、ムードが萎縮して「家にじっとしていなさい」とだけ言っても果たしてどうなのか?

ヨーロッパでの感性広がりを見ていると確かに我慢してじっとしていようとは思うのだが・・・・。

このようなマイナス時には逆にアクティブに捉えられないのか?
休校中の子供たちがつくば市の博士などとやり取りが出来る取り組みはとてもすばらしいと感じた。

つくばこどもクエスチョン2020 ⇒ こちら

五十嵐市長のFB ⇒ こちら

お役所のIT化などがどうも台湾などに比べて進んでいないと多くの人が感じているのではないか?
日本は全員健康保険に加入しているのなら、この際この情報の一元管理をして、多くの人にマスクを始め必要な物資の供給が出来る仕組みも可能だと思う。


ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/15 11:42

春の庭

 このところ結構朝晩寒い日が続いていますね。
桜も開花したとはいえまだ3月中旬。

朝コーヒーカップに暖かいコーヒーをいれ、少しかじかんだ手に触れるカップの暖かさがたまらなく気分を落ち着かせてくれる。
そんな時もまた楽し。

昨日風が冷たい中、日に照らされた駐車場に1輪のタンポポ(蒲公英)。
春の訪れが来て、世の中のコロナ気分不況ムードも吹き飛んで行ってくれるといいなと思います。

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味気ない我が家の庭ですが、梅の花がすっかり散ってしまい、替わりに色とりどりの花が咲き出しました。

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水仙も忘れずに可憐な花を咲かせています。

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これはハナニラでしょうか?
植えたわけでもないようです。

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紫色の花もいろいろありますね。

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海外からの渡航制限などや、国内各種イベント中止。
すっかり萎縮のムードが浸透し、外食や旅行なども閑古鳥。
何時まで続くか・・・・

収束したらきっと後で笑い話となりそうな・・・
景気の「気」は、気分の「気」だとか・・・・・

私のほうも春から少し変るかと思ったのですが、もうしばらく1~2年我慢かな??

でも季節は確実に回っていますね。
できれば小さな事にクヨクヨするのは止めましょう。


近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/03/17 09:57

山桜が満開

 ここのところ朝晩寒い日が続きましたが、今日は比較的暖かいようです。
コロナでかなり世界中で大騒ぎですが、もう少し冷静に対処するようにしたいものです。

心がイライラしていると体もどこで悲鳴をあげそうです。

昨日は茨城県でもコロナ感染者が出ましたね。
ひたちなか市といっても勝田辺りですね。

比較的行動範囲は狭そうですし、本人は心配して用心していたようですのでこれから広がらないことを祈ります。

昨日ロンドンにいる娘から電話がありました。
向こうは結構大変な事になっているみたいです。
トイレットペーパがなくなるし、食料品も結構なくなっているようです。
また値上がりもしていそうです。

学校は休みではないようですが、逆に企業の休みや自宅勤務が多くなっているとか。

一斉に自宅勤務となるとネット回線スピードが極端に遅くなり、ネットビデオ会議などができないなど、
一斉にこのようなことが起こるとは想像していないのですから仕方ないですね。

そんなことで、町をぶらぶらしていて見つけたサクラです。

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ヤマザクラって、こんなに早く咲くのもあるのですね。
眺めていると少し気分も和らぎます。

街中風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/18 10:42

鎌倉街道と呼ばれる道(1/2)

 かすみがうら市の北東部の東野寺と西野寺の間を通る街道は、昔から鎌倉街道と呼ばれていたといわれています。
日本各地に鎌倉時代に鎌倉を目指す街道に「鎌倉街道」と名付けた通りがたくさん残されています。

その中で、この石岡が常陸國の国府であった頃に国府と奈良などを結ぶ街道があったはずですが、あまりよく解説されている資料などは見かけません。

石岡に国府がおかれたのはいつ頃からでしょうか?
奈良時代始めに国分寺や国分尼寺が建てられ、またその北側に東北蝦夷への武器製造工場として「鹿の子遺跡」の建物群が建てられたのです。

ただもう少し前の飛鳥時代ころに石岡には茨城廃寺がありました。
人の出入りもあったはずです。
遠く奈良地方(畿内)からこの石岡の地には、どのルートを通ってやってきていたのでしょうか?

奈良時代になって道は整備し始められ、幅の広い道が作られたといわれています。
しかし、それが完成したかどうかも良くわからないのですが、一般の人の大来にはあまり利用されずに、各国府から中央政権への官道としてしか利用されなくなってしまい、その道が消えてしまったのではないかと考えられています。

常陸国は東海道に属する国の一番東端の国です。このとき整備していたであろう官道は「古東海道」と呼ばれていました。
10世紀に編纂された延喜式には古東海道(中路)には30里(当時の1里は約550m、30里≒16.km)、毎に設けられた駅家(うまや)の名前が書かれており、常陸国府(石岡)の手前は「曾弥」という名前でした。

ここがどこなのかについてははっきりしませんが土浦市の下高津あたりではないかと言われています。
そうすると、この下高津あたりから、当時まだ湿地や池などが多かったと思われる現在の土浦中心部は通っていないと思われますので、どこを通っていたのでしょうか?

また、奈良時代前や、初期のころは霞ケ浦を渡って国府に来ていたと思われる記録がたくさん残されています。
私は、現在の美浦村あたりから舟に乗りかすみがうら市の旧出島地区へわたり、陸路または川を遡ってこの石岡後にやってきていたと考えています。


現在鎌倉街道と呼ばれる道がどのような場所なのかを少し調べてみたいと思い立ちました。

鎌倉街道

地図に予想されるルートを記入してみました。

東野寺(子安神社)、西野寺(胎安神社:たやすじんじゃ)には八幡太郎にまつわる伝承が残されています。
前九年の役(蝦夷征伐)に源頼義と長男の八幡太郎こと源義家が戦いに参戦したときに通過したときの伝説です。

石岡の三村地区にある「正月平」という地名は、この源氏の親子がここで正月を迎え、わずかしかいなかった住民にたいそうなもてなしを受けたそうです。
戦い終わって都に戻ってから感謝の印として「黄金のはたし」が贈られたと当時の書物に書かれてあると、石岡市史などにも記されているがこれがどんなものであったかについては何も記されていません。

しかし、正月平を訪れて調べていると、昔黄金の機織り機が村に保管されていたそうで、それを歩崎にある古刹の「歩崎観音」に奉納したとされていたのです。

一方歩崎観音は、本尊として十一面観音を安置していますが、この観音は33年に1度のみの公開となっていたために、一生に1度くらいしか拝むこともできなかったのです。
また、ここには「黄金の機織り機」が残されており、これも33年に1度のみの公開でした。

さらにこの機織り機には「龍女伝説」が一緒に語られていたのです。

龍女は、お腹の子供の安産を歩崎観音に願掛けをし、「無事生まれた時には黄金の機織り機を奉納する」と約束します。
その後、龍女に無事子供が生まれたために、この黄金の機織り機を奉納したというのです。

この話はともかくとして、実際に小型の黄金で作られた機織り機が戦争中頃まで残されていたそうです。
しかし、現在は残されておらず、東京へ展示のために貸し出して、戻ってこなかったそうです。
東京大空襲などで焼けてしまったのでしょうか?

寺は無住となっていた時期も長く、詳細はわかりません。
ただ、この観音様は現在は毎年この地域で行われる夏のおまつり(あゆみ祭り)時に公開されています。

また、鎌倉街道と言われる横にある子安神社の話では、この正月平に滞在している時(正月)に、この神社の祭礼があり、この神社にお参りに訪れたそうです。
その時近くを流れる天の川にかかるちゃんとした橋がなく、住民が渡るのに苦労していたそうです。
そのため、八幡太郎は部下たちを使って橋を架けさせたといわれています。

八幡太郎伝説はいろいろありますが、この正月平の話と子安神社の話は少し信ぴょう性が高いように思っています。

八幡太郎の父「源頼義」は988年の生まれとされており、陸奥守として奥州赴任した1051年(前九年の役の始まり)は、60歳を過ぎていました。

しかし、記録としてはこの常陸国にやってきたときに現在のつくば市北条の多気山に城を構えていた常陸大掾であった「多気致幹」の娘との間に子供をもうけています。

このような事実を積み重ねて当時の様子を想像するしかないのですが・・・・・
なかなかわからないことが多いですね。

明日に続きます。
最後まで長々とお読みいただきありがとうございました。

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/21 09:03

鎌倉街道と呼ばれる道(2/2)

かすみがうら市の鎌倉街道と呼ばれている道を少し探っています。
昨日からの記事の続きです。

かすみがうら市の石岡に近い東野寺、西野寺には2つの対となる神社があり、それぞれ子安神社、胎安(たやす)神社とどちらも子育て、安産祈願などで知られている。
また神紋はどちらも源氏の紋である笹竜胆(リンドウ)が使われている。
この紋がいつ頃から使われだしたかは知らないが、佐竹氏が秋田へ転封となり、替りに秋田からかすみがうら市の志筑地方に進出してきた本堂氏が源氏の氏族を名乗り、この神社などの保護に尽力したことによるのかもしれない。

しかし、それより前の11世紀前半にやってきた八幡太郎などの伝説が多く残されているのも気になるところだ。
子安神社に伝わる話は、川に橋を架けたというもので昨日紹介した。

胎安神社に伝わる話は、神社HPによると
「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。 
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」
となっています。

1055年となっていますが、他の歴史書では1051年もあります。
さて、この東野寺、西野寺という地名ですが、もともと室町~鎌倉時代頃は、このあたりは「野寺(郷)」と呼ばれていたようです。
そのため、野寺と呼ばれるような寺が大昔からあって、神仏分離などで、寺が廃れて神社が残ったのかもしれません。

また、胎安神社の創建を見ると創建は、奈良時代の763年とされ、初めは、下総国香取神宮の神(経津主命ふつぬしのみこと)を祀り、相殿(あいどの)に、山城国葛野郡(京都嵐山)梅宮大社の御分霊として、胎内安全の神(木花咲耶姫命・このはなさくやひめのみこと)を祀ったと書かれています。

また一方の子安神社は鹿島神宮の神を祀っています。

鎌倉初期頃には志筑には下河辺氏(後の益戸氏)がおり、南北朝時代などは、大掾氏がここを攻撃したなどの記録もあります。
この野寺地区もその頃は益戸氏が支配していましたが、その後大掾氏が志筑城を攻略して、この野寺には部下の野寺孫三郎の居館が今の西野寺の古館にあったとされています。

それでは、この2つの神社から土浦方面に行ってみましょう。
すぐ近くを流れる天の川には立派な橋がかかっていますが、この橋は10年ほど前に何年もかかって建て替えられた物もので、道路もまっすぐきれいになりました。

橋をわたってこの自動車道の左側の住宅にはさまれた所に旧道らしい細い道が残っています。
ここもいつ頃からあるかはわかりませんが、少なくとも昔をしのぶにはよい道です。
比較的大きな家々の間を抜けて、広い新しい道に合流する辺りに新しい道路を挟んで土浦方面を見て右手の少し高台に2つの鳥居があります。

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左右の鳥居の形が違いますね。
右がここではメインで「愛宕神社」と地図には在りますが、左の神社名はかかれていません。

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鳥居をくぐった先には左に比較的小さな社があります。

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手前にはキツネと思われる像が置かれていますので、稲荷神社のようです。

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社の内部を覗いてみました。
「創立明治元年 胡桃下稲荷神社」などと書かれた札が貼られていました。

日本三大稲荷の一つともされる笠間稲荷の別名がこの「胡桃下(くるみした)稲荷神社」ですので、明治元年にこの地に分霊して持ってきたのかもしれません。
今ではこの神社の周りはこの地の名物である梨園が多くありますので、昔はこの辺りにも胡桃の木が茂っていたのかもしれません。(笠間稲荷の場所にはクルミの木がたくさん生えていたそうです)

さて右側の火防の神様といわれる愛宕神社ですが、小山になっていますのでこの山は古墳であったのかもしれません。
コンクリートの上り階段の先に拝殿と思われる建物があります。
しかし、この建屋の内部には神棚も何もなく、ガランとした空家小屋でした。

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その裏手に神社の本殿がありました。

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また近くの木の根元には「山ノ神」などと彫られた石板が置かれていました。

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神社から降りて、通りに出ると、通りの反対側の小山にも昇る階段があります。

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地図では「二子塚古墳」となっています。ただ別な地図ではこの二子塚古墳の場所はもう少し石岡よりです。
でもここが古墳のことは間違いないようです。
(後で調べると、愛宕神社のある小山が愛宕古墳1号墳、こちらが3号墳というようです)

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階段を上った古墳の上には大きな古木と小さな社(やしろ)がありました。
説明がかかれた物はありません。

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頂上からの眺めはよい場所でした。

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二子塚古墳と名付けられた古墳は全国にたくさん在り、石岡柿岡の丸山古墳群の中にもあります。
しかし、このかすみがうら市の古墳については余り紹介されている記事が在りません。
しかし、名前からの連想か? この古墳にも八幡太郎伝説が在りました。
「八幡太郎義家の妻がこの地で双子を出産し、内一人がなくなり埋葬した」という他愛のない伝説です。

しかし、古東海道の官道はかなり広い幅であったようですので、この愛宕神社の西側高台を走っていたものかもしれません。
ただ官の道は一般通行人が歩く事ができなかったのかもしれません。
一般の旅人が歩くのはもっとくねくねした細い道だったのでしょう。

さて、鎌倉街道といわれた道は江後田へ通じていたとされていますので、江後田へ行ってみました。
現在の広い道路をそのまま土浦のほうに進むとコスモ石油GSとスーパーカスミなどのお店がある信号に出ます。
そこを左折します。

少し行くと、「笄(こうがい)崎」というバス停があります。

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笄(こうがい)というのは昔、女性が髪に差していた櫛のことです。
各地にこの笄崎という地名は存在し、そのほとんどで、ヤマトタケルの妻「弟橘姫」が横須賀の走水(はしりみず)から千葉県の富津岬に船でわたるときに、海が荒れて、それを沈めるために海にわが身を捧げたとされている神話により、このときの姫の笄が流れ着いた場所であるという伝承が多く残されています。
このかすみがうら市の笄崎もこの地から「菱木川」という川が旧出島村の先端の霞ヶ浦まで流れており、東京湾から霞ヶ浦(旧香取海、流れ海)を通ってこの地にまで笄が流されてきたという伝承があったのかも知れません。

ではこの笄崎から左に入る細い道を江後田(えごた)地区に行ってみましょう。

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入り口は狭いですが、入るとのどかな道が続いています。
しかし、しばらく行くと道は下に下がって田んぼの間をぬうような道になります。

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その田んぼの中にポツンと社と鳥居がたっています。

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地図では「厳島神社」となっています。
やはりここも昔は大きな池になっていたのでしょう。
その池の中の島のような所に、この厳島神社が建てられたものと考えられます。

いまでも地図を見ると、この辺りから高浜あたりにかけて何箇所も池や沼などの場所が在るようです。

「江後田(えごた)」という地名も、昔川などがあり、その近くに田を耕作してつけられた名前だと地形を見て想像できました。
東京西部池袋線の江古田(えごた(ちめい)、えこだ(駅名))も同じように付けられた名前だと思います。

この江後田には中世の戦国時代に鈴木源太左衛門が築いた「江後田屋敷」があったと記録されています。
ここから左に又昇っていくと前の広い道路に出ます。

この笄崎から先の昔の道はいろいろな説が在りそうです。

大昔はきっと菱木川を舟で下り、霞ヶ浦(流れ海)にでて、美浦村の方につながっていたのでしょう。
しかし、奈良時代になって作られた古東海道はここから真鍋の方に続いていたのかもしれません。

昨日の記事で教えていただいた土浦の「小松=駒津」であれば、ここに馬を止める湊があったのでしょう。
そこから先は信太郡衙といわれている下君山あたりから対岸の荒海(駅家)辺りに渡っていたのかもしれません。

この辺りはまた後に発掘調査で官道の遺稿の一部でも見つかるといいのですが、見つかるのを楽しみに待ちましょう。
それまでこの記事もお蔵入りですね。




古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/22 05:58

三村の地名

 私が最近疑問に思っていた地名に地元石岡市の「三村」がある。

地元なのだから何か知っているのではないかとの問い合わせも受けた事がある。

その理由は戦国時代に備中(岡山県)で名をはせた武将の「三村氏」が、その氏族の出は常陸国の筑波郡三村郷だということにある。
しかし、現在この筑波郡地域には「三村」という地名は残されておらず、石岡の三村ではないかと尋ねて来るのだ。

また常陸国筑波郡の隣りが新治郡で、この新治郡が古代から検地や行政区分時にかなり広い範囲で変遷しており、この現在石岡市の三村も昔は新治郡にあり、近くに新治(にいはり)地名があり、新治小学校もあるから複雑だ。

戦国時代の武家を調査しているサイトでも、この三村氏を新治郡の三村だとしているものも多い。

ただ、平安時代の辞書ともいえる「倭名類聚抄(和名抄)」には、筑波郡の中に9つの郷名(大貫、筑波、水守、三村、栗原、諸蒲、清水、佐野、方穂)があり、その中に「三村郷」が記載されており、新治郡には三村という郷名はない。

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そこで思い付いたのが、つくば市北条近くの現在登山(ハイキング)で賑わっている「宝篋山(ほうきょうさん)」が昔は三村山と呼ばれていた事だ。
近くを通っていて突然ひらめいた。 ああここの事なのだと・・・

鎌倉時代初期に鎌倉御家人で関東守護をしていた「小田氏(八田知家)」の招きで、この地にやって来た「忍性」が大きな「極楽寺」という寺をこの山の麓に建てた。
極楽寺は別名「三村寺」とも呼ばれていて、正式名称は「三村山清冷院極楽寺」という。
そして坂東における律宗布教の拠点としてここに寺を建てたと考えられている。

しかし、その後忍性は鎌倉に拠点を移したこともあり、次第にこの寺は衰退し、現在大きな五輪塔などが残されているだけで、寺の伽藍などはすべて消えうせ、宝篋山登山の一ルートとして「極楽寺コース」なあり、多くの登山客が訪れるが、三村という地名にあまり気をつける人はいないようだ。

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(宝篋山の麓少し登った所に残された極楽寺の大きな五輪搭)

恐らく、この山の麓から小田にかけては昔「三村郷」と呼ばれていたに違いない。

備中三村氏はこの筑波郡三村郷の出身と見てよいと思う。
常陸国は平国香からの平氏が進出して開拓を進めていきましたが、一方源氏は奥州征伐でやって来た八幡太郎義家の弟の新羅三郎家光(源家光)の影響が大きい。

後三年の役の後、常陸介として常陸国にやって来た源家光(いえみつ)が武田郷(ひたちなか市)に住み、その後、子の源義清(武田冠者)と共に甲斐国に移って、子孫が甲斐武田氏に成るが、源家光の長男は常陸国を制した佐竹氏となっている。

一方調べてみると、備中三村氏もこの家光の子孫の「信濃小笠原氏」から出ている。
この小笠原氏も甲斐国巨摩郡(山梨県)にある地名から来ており、備中三村氏は、この小笠原氏からわかれているとされる。

少し複雑だが、常陸国から追放された源家光(新羅三郎)が移り住んだのは甲斐国(山梨県)で、源義清(武田冠者)の孫が甲斐国巨麻郡加賀美郷に住して「加賀美 遠光(かがみ とおみつ)」となり、その次男が甲斐国巨摩郡の小笠原荘に住して「小笠原氏」となった。
その小笠原氏の子孫が戦国時代に常陸国筑波郡三村に住して三村氏と名乗るようになったのではないか。

当時この三村の近くは小田氏が勢力をはっていたので、三村氏はこの小田氏と関係が深かったのかもしれない。
しかし、すぐ近くには多気大掾もいたが、鎌倉初期に滅ぼされてしまい当時は小田氏の支配地域であったろう。

地元石岡の三村は明治以降の町村合併などで出来た地名ではない。
一般に3つの村(邑)が一緒になって「三村」という名になるのは解るが、三村の名はもっと昔からあって、石岡市と合併するまでは新治郡の三村であったようだ。

石岡市史によると、その昔の室町時代に「上郷(上ノ宮地区)」、下郷(下ノ宮地区)」、「中郷谷(二子塚・江後田地区)」が合して三村という村が現れたと書かれている。

この新治郡にあった三村から筑波山の麓に士族が移ったという記録は残念ながら発見できなかった。

戦国時代末期には常陸国府(府中)を支配していた大掾氏がこの三村の地に小田氏と対峙する出城(三村城)を築いて、そこに弟の「平常春(つねはる)」を配した。

しかし、これも小田に攻め滅ぼされて落城した(1573年)。
このとき城の外で自害したとされる平常春の五輪塔が椿の木の下にひっそりと眠っています。

私が前に書いた話を収録した

茨城の民話Webアーカイブ ⇒ 三村城秘話

などもご参考まで

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(平常春の墓といわれるの五輪搭)



高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/24 13:24
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