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日本語と縄文語(10) 「こおろぎ」「きりぎりす」に「ハッタギ」

 この縄文語の本を読みながら地方に存在する物を指す言葉(方言の違い)の分布を調べていくのも言語学研究では大切なことなのかもしれない。
調べてみると面白くなってはまっていきそうになる。
そして過去の有名な先生が提唱した理論に当てはめて考察をする。

しかし、これは少し危険ではないかと思う。
地名や方言などが伝播したととらえるのは少しばかり違和感もある。

今回は、昔、「こおろぎ」と「きりぎりす」が逆に呼ばれていたらしいということから始めよう。

枕草子:九月つどもり、十月ついたちのほどに、ただあるか なきかに聞きつけたる きりぎりす の声 ・・・・・

新古今集: きりぎりす 鳴くや霜夜のざむしろに衣か たしきひとりかも寝ん

このように昔の書物や和歌に「きりぎりす」の鳴く表現が出てくる。
しかも、秋や晩秋、冬の初めのころに鳴くというのだ。

この頃に鳴くのは「コオロギ」であって、「キリギリス」は鳴かない。

koorogi.png
(こおろぎ)

kirigirisu.jpg
(きりぎりす)

これは過去にも著名な国学者や言語学者が考察していたりするようで、どうも「コオロギ」と「キリギリス」がいつの間にか呼び名が入れ替わったとみられている。
また地方に伝わるこの二つの虫の呼び名も全国的に逆転した呼び名で呼ばれている地域もあるという。
いまでもコオロギをキリギリスと呼ぶ地域も各地にあるようです。

こうすると都から地方に言葉が伝播していくという考え方になるのでしょう。

では「日本語になった縄文語」の本の中には何と書かれているのでしょうか

【kirkir 擬音語】+【se という】+【i もの】
であり、
また、童謡唱歌「虫の声」の2番の歌詞に
「キリキリキリキリ こおろぎや ・・・」とある。

昔はコオロギの鳴音をキリキリ・・・と表現していたのが、次第に「コロコロ・・・・」名表現されるようになり、虫の名前も
「キリギリス」 ⇒ 「コオロギ」 となった。
また、キリギリスも別種名となった。

アイヌ語で虫を【kikir キキリ】と言う。 これも虫のなく音の擬音語から来ており、コオロギや今のキリギリスも同じ仲間であった。

こおろぎが「キリキリキリキリ と鳴くのか? 一般には「コロコロコロコロ」とか「チリチリチリチリ」とか表現される場合が多いのですが、羽根をこすり合わせてオスのコオロギがメスを引き寄せるために出す音ですから 「キリキリキリキリ」とも聞こえます。
夏の虫キリギリスも同じく羽根をこすり合わせて鳴きます。

鈴木健さんの本にも地方の方言としての虫の名前として、

コオロギのことをキリギリスというところ:盛岡、秋田、岩手、信濃、岐阜、埼玉、山梨など

また出羽ではコオロギを「キース」、静岡庵原でコオロギは「キーキ」、
神奈川津久井でキリギリスを「キーッチョ」

などというとある。

また「左利き」を「左ギッチョ」というのもこのあたりから来ているのではないかともいう。

まあ、私もこのブログで以前 イソップ童話の「アリとキリギリス」は 昔は「セミとアリ」のはなしだったと書いたことがあります。
(⇒ こちら

もう一つ、イナゴやバッタのことを「ハッタギ」と呼ぶ地区が東北を中心にたくさんあります。

仙台、会津、岩手、秋田・・・・・・・・

今は大分いなくなりイナゴを捕まえて佃煮にして食べるなどという習慣もほとんど見られなくなりましたが、年配の方にはこのイナゴ採りを「ハッタギとり(東北方面)」などと言っていた事を懐かしむ人もおられるでしょう。

inago.jpg
(いなご)

秋田大館市の扇田地区に伝わる盆踊り(扇田盆踊り)は、地元では「ハッタギ踊り」といいます。
これは踊る姿がとびはねるバッタやイナゴに似ているからだと言いわれています。
この扇田(おおぎだ)地区は戊辰戦争の激戦地(慶応4年の大館城攻城戦)でもありました。

この【ハッタギ】という言葉がどこから出てきた言葉なのか、今の日本の言語学でも良くわかっていないようです。

【patta パッと跳ねる】 ⇒ バッタ
【patta パッと跳ねる】+【ki 虫】 ⇒ ハッタギ


となります。

アイヌ語やこの縄文語を理解しないとこれらの言葉の解明は難しいと思います。

決して、都から伝播したものとも思われません。
奈良や京都などが都とになったより、もっとずっと前からこれらの言葉は使われていたのだと思います。

またアイヌ語であったとしても、アイヌから伝わったのではなく、昔の縄文人が使っていたものが、今ではアイヌ語にはかなり伝承されて、本土内などでは一部だけが残っているものでしょう。

これからは、テレビなどの影響で地方の方言は益々消えていくと思われます。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/11 06:04

日本語と縄文語(11) 鮎(アユ)

鮎(あゆ)と言う魚はかなり古くから食べられていたようです。

しかし漢字の「鮎」は中国では「なまず」のことだといいます。

日本でも漢字に現すと実にさまざまな字が使われています。

アユ : 
 鮎 ・中国語ではナマズ(粘りつく魚)の事。日本でアユの字に使われ始めた。
    ・日本では、神功皇后が筑紫・玉島の里の小河にて、アユを釣って、征韓の戦いの占いをした事(古事記記載)に由来し、鮎の字を使い始めた。
    (初めて使われたのが確認できるのは835年の類聚三代格という書物に地名として「鮎河」がある。)
 香魚 ・シャンユー 中国語でアユのこと、キュウリのような香りがする。
 年魚 ・一年魚のため。古事記(712年)にも日本書紀にもこの漢字が使われている。
 阿喩 ・日本書紀(720年)
 阿由 ・正倉院文書(721年)
 国栖魚 ・奈良県吉野山では国栖(くず)人がアユを天皇に献上した事に由来。(下記の能の演目「国栖」参照)
 細鱗魚 ・古事記に記載の神功皇后がアユを釣って占いをしたときにはこの鱗が細かい魚との表現が使われている。
 その他、王魚、安由、黄頬魚、銀口魚、氷魚、渓鰮魚 などさまざまな漢字がある。

ayu.jpg


そして言い方には「アユ」以外にいろいろな地方の呼び名があります。
関東地方・・・アイ
九州・・・アイのイオ
他にアイノユ、アイノヨ、アイノウオ、アイノイボ、アイナゴ、アイオ、エノヲ、エアノユ、エヤー、などとも呼ぶことから、この言葉の語源はアイヌ語でいう【ay アイ 矢】ではないかというのがほぼ定説になっています。
その他、各種辞書などにはいろいろな語源説が書かれてもいますが・・・・

【ay アイ】 ⇒ これは矢のことであり、トゲやイラクサなどにも使います。 ay ⇒ ya なんて文字をひっくり返しただけなので、いまの日本語の矢もこのアイヌ語由来なのでしょう。
しかし、かなり古くから使われているので、アイヌ語というよりは「縄文語」と言っていいでしょう。

アユという魚は矢のようにすばやく泳ぎまわるのでそのように呼ばれたものと思われます

「古事記」(712年)ではすでにアユ(年魚)と呼ばれていた様で、古くから鮎は天皇への献上品として使われていました。
今でも各地で皇居への「(天然)献上鮎」としている地域がいくつかあります。

また、能楽の演目に「国栖(くず)」と言うものがあります。(奈良県吉野山)

あらすじを能楽辞典より転載します。
「壬申の乱で大友皇子の襲撃を逃れて、天武天皇は供の者と奈良の吉野山へと分け入った。
そこで、川舟に乗る老夫婦と出会う。
夫婦は天皇を匿い、根芹と国栖魚(鮎)を献上します。
老人が天皇の食べ残した魚を川に放つと、不思議にも魚は生き返りました。
そこへ敵が迫りますが、夫婦は天皇を舟の下に隠し、敵を欺き追い返します。
夜になると天女が現れ舞を舞い、蔵王権現も出現して、御代の将来を祝福したのでした。」

さて、この国栖(くず)というのは大和民族が日本列島に進出してきたときに、昔からいた(土着していた)民族の呼び名です。
この能の演目は、実際にあった話から始まっていると思われます。
山の中で暮らしていた国栖(くず)が実際に朝廷にアユを献上していた? 
そのために、奈良県吉野ではアユのことを国栖魚と呼んでいるといいます。

また、日本書紀には
『 289年応神天皇が吉野に行幸されたとき、国栖人は酒を献上し、 歌舞を奏して歓迎した。
 その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにある。
 峰は高く谷深く道は険しい。
人々は純朴で日頃は木の実を採って食べ、また、蛙を煮て上等の食物としている 』
とあり、
この 天皇に奉納された歌舞は、手で口を打って音を出しながら歌の拍子をとり
上を向いて笑う独特の舞いで、のちに「国栖奏」(くずそう)とよばれたといいます。


その他、関連する縄文ごと思われる言葉を幾つか紹介します。

アワビ : 【ay トゲ】+【pe あるもの】=【aype アワビ】
エビ : 【aype ⇒ aibe ehi エヒ】 
  平安時代に辞書である「和名抄」で、エビ(鰕)、エイ(鱏)はともに「衣比(エヒ)」
アヤメ :aype の p が m に変化して ayame アヤメ・・・葉の先が尖っているため
  和名抄ではおしべ・めしべがちょっとでるだけで花弁のない菖蒲をアヤメ、アヤメグサ(阿夜女久佐)と言った。



各地でトゲのある植物や虫などに「イラ」とつくものが多い。
イラ : 鹿児島でトゲ、大分・種子島でウロコ、静岡・志摩・壱岐・鹿児島でクラゲ、その他各地で毛虫、ダニなど
エラ : 魚の鰓(えら)
イガ : 栗のとげ
など
イライラ、チクチクなどもこのような言葉から派生した言葉と見る事ができる。

アイヌ語で【iri チクッとする】、【iriri チクチクする】であり、この頭の「i」は「われらを」という意味となる。

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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/12 13:46

日本語と縄文語(12) 動物、鮭

 今回は、動物の名前を少し探っていきます。

サル(猿) : 【sara 地があらわれている + o 尻】 ⇒ 【saro 猿】 ⇒saru
  このsaraは日本語でも「サラけだす」というように使う。 尻が真っ赤なのが猿と言う事か?

saru2.jpg


イヌ(犬) : 【inun 漁のために水辺にいる + pe もの】が 【inume 犬メ】と変化したのか?

キツネ(狐) : 【ket 獣皮を干す枠 + ne である、になる + i もの】 か?
  アイヌ語では【chirinnup キツネ : chi われわれが + ronnu どっさりと狩猟する p もの】

ウサギ(兎) : アイヌ語で 【osike : asi 後を追う ke する】
  昔の東国地方の方言で「ヲサギ」「オサギ」とも言うので、オとウが転じたか?

シカ(鹿) : 【si 本当の + ipe 食べ物  siipe】
  一般に鹿(エゾシカ)はアイヌ語で【yuk ユク】というが、これは熊やタヌキなど食料として大切な動物全般に使われていた言葉。

カモシカ : 【kama カマ 岩】 + シカ(上記) 山羊(カマシシ) ?

ネコ(猫) : アイヌ語で【chape チャーとなく pe もの】
  青森・秋田・山形・・・チャペ、チャッペ
  千葉・・・チャンベ
  などという。  
まあ、おしゃべりな者をチャベ、ヤンチャ娘をチャンピー、おチャッピなどという地域があり、茨城のごヂャッペッパなどもこのあたりからの言葉か? チョッカイなどもネコに由来する言葉とも考えられる。)茨城県猫島にある小字名に「猫手=チョッケ」がある

オオカミ(狼) : 【wosekamuy = wo うおー se という kamuy 神】
  このように擬音の言葉との組み合わせには・・・
   をめく : 【wo+ mek 吠える】
   わめく : 【wa + mek 吠える】
   うめく : 【u + mek 吠える】

さて、まだまだあるが少し休憩に「サケ」と「スケ(介)」について・・・・

常陸国風土記に助川の地名由来として
「助川の駅家(うまや)あり、河に鮭を取るが為に、改めて助川と名づく。 俗(くにひと)の語(ことば)に、鮭の祖(おや)を謂ひて須介(すけ)と為す。」とある。

鮭の祖を「スケ」というと書かれている。
新潟では次のような昔話が伝わっている。

参考:鮭の大助(オオスケ) Wikipediaより

「その昔、信濃川近くにある大長者がいた。ある年の霜月(11月)15日。いつも川で漁をするはずの漁師たちが揃って仕事を休んでいることを不思議に思ったが、その日は鮭の大介・小介がのぼってくる日と気づいた。

日が経つにつれ、長者はたかが魚ごときになぜ漁を休まむのかと腹が立ってきた。そこで翌年のその日が近づいた頃、漁師たちに漁を行って大介・小介を捕えるよう告げた。漁師たちはみな川の王の祟りを恐れたが、長者が権力にものをいわせて脅すので、渋々承知した。

そして霜月15日。長者は大介・小介が捕まるところを見てやろうと上機嫌で川に出た。漁師たちが網を放ったが、なぜか大介・小介どころか、小魚すら網にかかることはない。長者は漁師たちにハッパをかけるが、魚は1匹も捕まらない。

やがて漁師たちは、長者より川の王の祟りを恐れて皆、引き上げてしまった。川辺には長者1人が残され、既に時は真夜中になってしまった。

気がつくと、目の前に銀髪を輝かせた1人の老婆がいて、長者に言った。

「今日はご苦労であった」

それを見た長者は次第に気が遠くなっていった。何かを言い返そうとしたが、既に言葉にならない。老婆が川へと歩いていくと、川辺に激しい水音がした。そして声が響いた。

「鮭の大介・小介、今のぼる」

大介・小介を先頭にして、月光の照らす中を鮭の群れが川をさかのぼって行った。

長者はすでに息絶えていた。」

アイヌ語では 【sipe サケ(鮭) : si 本当の、大きな、親の + ipe 食べ物、魚】 ⇒ シケ スケ ⇒ サケ・シャケ か?

suke.jpg
(マスのスケ)

北海道の知床や羅臼で採れるキングサーモンは「すけ」「ますのすけ」などと呼ばれ、脂がのって幻のキングサーモンなどと珍味とされている。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/13 05:49

新治・筑波を過ぎて

新治 筑波を過ぎて…       鈴木 健    第51号 (2010年8月)

 町村合併の話しの続き。
 県内には新治郡新治村(現土浦市(新治は消滅))、新治郡千代田町新治(旧新治村、現かすみがうら市新治)、真壁郡協和村新治(旧新治村、現筑西市新治)と、三ヵ所に新治があった。土浦市に合併した新治村は戦後の生まれ。千代田の新治は平安・鎌倉時代の荒張(アラハリ)にさかのぼる。協和町の新治は『常陸国風土記』(七二〇年)にその由来が載り、もっとも古く、しかもそれは、『古事記』(七一二年)にも、次のように書かれている。
 「倭建命(やまとたけるのみこと)」「荒夫琉蝦夷(あらぶるえみし・頭注=いまのアイヌの祖先とされる)等(ども)を言向(ことむ)け、亦山河の荒ぶる神等(かみども)を平和(やは)して、」「甲斐に出でまして、酒折宮(さかおりのみや)に坐(ま)しし時、歌日(うた)ひたまひしく、
  新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
とうたひたまひき、爾に其の御火焼(みひたき)の老人(おきな)、御歌に続きて歌日ひしく、
  かがなべて、夜には九夜 日には十日を
とうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造(くにのみやつこ)を給ひき。」
 ヤマトタケルがオラホの新治や筑波を歌ったということ、茨城の人たちはこの一節が大のお気に入りのようだが、それで満足している。また、国文学者たちも、これが連歌のはじまりである。
連歌を「筑波の道」というのはこれによる。それにちなんで筑波を連歌岳という。悲劇を前にしたつかの間のやすらぎの語らいである。というようなことで、通り過ぎる。
しかし、どうも話しが変だ。タケルの歌に、十日たちましたと歌で答えるだけで、誉められて国造(今の県知事)に任命されたというのは理解しがたいし、それだけのことなら、わざわざ記事にすることもなかろうと思う。
これは単なる問答ではなく、クイズのやりとりではなかろうか。
『日本書紀』(七二〇年)を見ると、その疑問が確信になった。そこにはつぎのように載っている。
「是の夜、歌を以て侍者(さぶらひひと)に問ひて曰はく。
 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
諸(もろもろ)の侍者、え答へ言(もう)さず。時に秉燭者(ひともせるもの)有り。
王(みこ)の歌(みうた)の末に続けて、歌(うたよみ)して曰(もう)さく、
 日日(かか)並べて 夜には九夜 日には十日を
即ち秉燭人の聡(さとり)を美め(ほめ)たまひて 敦(あつ)く賞(たまもの)す。」
 「歌を以って」「問ひ」を出したが、並み居る従者たちは「え答へ言さず」。

そこに一人だけ正解者があったので、その聡明さをほめてあつく賞を与えたという。
これはまぎれもなく懸賞クイズである。
ところで「幾夜か寝つる」という問いには、「○夜」とするのが正解であるはずなのに、「○夜○日」という答えが正解だという。
これはどうしたことか。じつは「幾夜か」の「か」にトリックがあった。「寝つる」という句を利かせておいて、「夜か」の「か」は疑問の助詞と思いこませ、「○夜」という方へ答えを誘導しておく。その実「幾夜か」の「か」は「五日」などの「日(カ)」。したがって「幾夜か」は「幾夜日」で「○夜○日」が正解になる。そこのところを原文で確かめてみる。『古事記』では、「伊久用加(イクヨカ)」「許許能加(ココノカ)」「登袁加(トヲカ)」。『書紀』では、「異玖用伽(イクヨカ)」「虚虚能伽(ココノカ)」「苔塢伽(トヲカ)」で、ともにイクヨカのヨカが見事にココノヨのヨとトヲカのカに一致している。だから、九夜十日が正解というわけだが、ではなぜ、九夜十日なのか。答えのヒントは「筑波」(原字は『古事記』都久波(ツクハ)、『書紀』莬玖波(ツクハ))の「波」に隠されていた。「ハ」は平安時代につくられたヒラカナでは「波」の行書体の「は」、カタカナは「八」の変形である「ハ」である。これは「波」と「八」がともに同音であることを示す。同時代の『和名抄』に見る地名では在所の違いで「波也之(ハヤシ)」「八也之(ハヤシ)」(林)、「加波乃倍(カハノベ)」「加八乃倍(カハノベ)」(川野辺)、写本の違いで「太奈波太(タナハタ)」「太奈八太(タナハタ)」(たなばた)「須波流(スバル)」「須八流(スハル)」(すばる)。奈良時代の『万葉集』には「四八津(シハツ)」「八多(ハタ)」等、「波」と「八」は同じ発音に使われていた。それによって「(筑)波を過ぎて幾夜か」は「八をすぎて幾夜日」ということなので、九夜十日になるわけだ。これはおそらく本邦最古のクイズであろう。だが、これまでえ、それがクイズであることに気づいた人はいなかったようだ。前にも同じようなことを書いたが、某紙の共鳴的な書評以外にはめぼしい反応はなかった。こんなものを書いたり考えたりするのは、烏滸(ヲコ)の沙汰というものか。しかし、『古事記』等にはほかにも同じようなクイズがはめこまれている気配がある。千三百年たってもそれに気づかないのでは、太安万呂大人もアイソが尽きるのではなかろうか。


【特別寄稿】    第52号 (2010年9月)

「新治・筑波を過ぎて…」を読んで 太田尚一
 本紙第五十一号、鈴木健氏の独自の視点からの古代史解釈、大変興味深く拝読させていただきました。
これを古代史研究の泰斗志田諄一先生にお送りいたしましたところ、左記に掲げますコメントをいただきました。先生のご承諾をいただきましたので、寄稿いたすことにしました。

 『火焼(ひたき)の老人(おきな)の性格』志田諄一
火焼の老人、クイズ解答者と論ずる鈴木健氏説はおもしろいが、問題は火焼の老人の性格である。
火焼の老人が酒折の宮の祭儀の場で火をたいたのは、浄めのためであり、火は神と人との媒介をなすものと信じられ、神降しの目的から火をたいたのである(竹野長次「古事記の民俗学的研究」)。
折口信夫は「おきな・おみなの古義は、国邑の神事の宿老の上位にある者を言うたらしい」と説いている(「翁の発生」折口信夫全集第二巻)。
火焼の老人は酒折の宮の司霊者で「物知り」であったから倭建命の問いに対し、旅程の日数答えたのである。火焼の老人が任じられたという「東の国造」は行政者ではなく東国の神を祀る司霊者的性格を帯びていたのであろう。
本居宣長は「常陸より甲斐までの程、昼夜懈(おこた)らず勤(いそ)しく仕へ奉りて、当方の国々を経来りたる勢を賞めて、東国造と云称号を賜へるにもあらむか」とするが(『古事記伝』第二)、誤りである。宣長はさらに続けて「此老人、今御火を焼きて夜庭に伺候(さむら)ふにつきて、新治筑波より此処までに、夜昼伺候ひ勤めたる、己が労を以て答へ奉りたらむ」と述べているが、火焼の老人は、倭建命に従って行を供にしたのではなく、酒折の宮にはじめからいたのである。
 「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」は、倭建命が酒折の宮までの苦労を訴えた言葉であり、「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」は火焼の老人が神の言葉として、その苦労をねぎらったのであろう。
『古事記』では、甲斐から信濃を越えて尾張の国に還った倭建命は美夜受比売(みやずひめ)のもとに逗留したとある。美夜受比売が酒づきを捧げて献ずるとき、打掛(うちかけ)の裾に月の物がついているのを見た倭建命が

久方の 天之香具山 利鎌(とかま)に さ渡る
鵠 (くび) 弱細(ひぼそ) 手弱腕を枕かむとは
吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 
汝が着せる襲(おすい)の裾に 月立ちにけり

と問いかけの歌をよむと、美夜受比売は

高光る 日の御子 安見しし わが大君
あらたまの 年が来経(ふ)れば あらたまの
月は来経往(へゆ)く うべな うべな
君待ち難(がた)に わが着ける 襲の裾に
月立たなむよ

と答えている。
美夜受比売は草那芸剱(くさなぎのつるぎ)に宿る神霊に奉仕した司霊者である。したがって倭建命は、ここでも司霊者に問いかけ、答えの言葉をうけているのである。

▽しだ じゅんいち 文学博士
 元茨城キリスト教大学学長・元市制三十周年記念『石岡の歴史』市史編纂専門委員委員長・元『石岡市史』下巻(通史編)監修者・日立市郷土博物館館長。


【風の談笑室】  白井 啓治
 今月号は、思いがけない投稿が、崙書房の太田尚一さんからあり、特別寄稿にご紹介しました。
 当「ふるさと風」も50号を越え、最近では、色々な方からの御意見・御感想などを頂けるようになり、会員の大きな励みにもなっております。
八月号には、これまで風の会としては、取り上げてこなかった太平洋戦争、原爆の話しについて、無記名の投稿を頂き、掲載させていただきました。大層に嬉しいことです。
 この春から、鈴木健さんより継続して投稿頂けるようになりましたが、その早速の反応を頂き、編集事務局としては大喜びです。
 さて、鈴木さんの「新治 筑波を過ぎて」の文に対してのご指摘を頂きましたのは、茨城県の古代史研究ではご高名な志田諄一先生ですが、この御指摘に関係して、小生も編集者を離れて、一脚本家として参加させてもらいたいと、以下に誌させてもらおうと思います。
      ×   ×   ×
 火焼き老人の性格については、志田氏の述べることに反論はない。鈴木氏の文において重要なのは、最後の『古事記等にはほかにも同じようなクイズがはめこまれている気配がある。千三百年たってもそれに気づかないのでは、太安万侶大人もアイソが尽きるのではないだろうか』である。
脚本家、物語作家としたら、太安万侶の書いた文中の人物の性格以上に、重要なことである。何故なら、ここの最後の文に鈴木氏の物語が存在するからである。
古事記は、暦を記すがごとく、事実を正確・忠実に書かれたものではない。現政権を正当化する為に書かれた物語である。太安万侶が説話等を編纂する様な形で書いていったのであろうが、そこに書かれてあるのは歴史としての事実ではなく、太安万侶の物語といってよいだろう。勿論、古事記が歴史的意味がないと言っているのではない。物語であってもそこに登場してくる人物には、その当時の性格があるので、火焼き老人の性格は志田氏の御指摘の通りなのであろう。
 最近テレビでよく韓流ドラマをみる。脚本家としてそのドラマをみると、実に展開の構成が乱暴なのである。あれッ、昨日居たあの人物は何所へ行ってしまったんだ? そんな事が頻繁である。しかし、それだからと言ってドラマとして滅茶苦茶かというとそうではない。むしろその支離滅裂に近い展開が観客の心を捉えてぐいぐい引っ張っていく。日本映画全盛の頃の作品をみると、今の韓琉ドラマと似た展開が沢山あった。少しでも面白く、楽しい映画を、という情熱が乱暴な構成を許す力を持っていたのだろうと思う。実際の所、名作といわれる文芸小説でも、乱暴な構成が沢山ある。しかし、その乱暴さは、既成を打ち破る強い力となって発揮している例も少なくない。
 鈴木氏の文を読んで注目すべきは、クイズではなく、「太安万侶大人もアイソが尽きるのではないだろうか」である。そこに太安万侶が考えたのかもしれない発展のドラマ、物語の発展性が存在するのである。火焼きの老人が神の言葉として言ったのであれば、国造を給ひき、などの事は詰らなく、「あッ、そう」ということになるのではないだろうか。神の言葉として言ったとしても、それがクイズの回答であったとすれば、太安万侶の洒脱なドラマとして新しい発展をみることになる。もし古事記が完全な暦的な歴史の記録であったとすれば、古事記をこんなに面白く読むことはできない。それはやはり、鈴木氏の言う太安万侶もアイソが尽きる、に尽きるのではないだろうか。

ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/14 10:49

日本語と縄文語(13) 月日など

 太陽や月は縄文人はどのように見ていたのだろうか?

アイヌ語で太陽を検索すると
 【tokapcup】 と出てくる。 【tokap = 昼の 明るいうちの】+【cup (chup) = 月】
である。
このchup(cup)は丸いものを指す言葉で、多くは月を指すが、太陽にもまたお腹(特に妊婦の)も指す言葉で使われる。
一方昼を表わす【tokap】は語尾に+ci で地名の十勝になる。
また【tokapmokor】で「昼寝をする」 となる。
一方夜は【kunne】といい、特定できる夜(何夜など)場合には【ancikar ( ancikari )】といった。単に【an】でも夜を意味した。

縄文人たちは恐らく 夜の月と昼間の太陽とを同じように見ていたと思われる。
そうすると「日」を「ニチ、ヒ、カ」などといういい方はどのようにして生まれたのだろう。

jyoumongo.jpg


鈴木健(たけし)さんの本には、次のように書いてある。

「縄文人は抽象的な概念や観念的な思考には縁がなかった。 円くアル(ナル)という抽象も具体で表現しなければ理解が困難であった。 円くあるもの ~太陽、円く(丸く)なるもの ~月、妊婦の腹。それらを 【chup 腹、日、月】といった。」
そして、縄文語から日本語になったとしたときの「月・日」の解釈に苦心のあとが読み取れる。

1)「月(ツキ)は【chup 月 ⇒ tuki (月)】に変化したと考え、
2)太陽は【her 光 ⇒ hi (日)】となった。
 【her ⇒ hiru 昼、hirameku 閃く、kira キラ 輝き、hikari 光】なども語の変化で発生した と見ている。

また、日にちを表わす「日」についてはアイヌ語の【ko 日】をあげ、 ここから 日読み(コヨミ) となり、日も「カ」「ケ」などの読みが生れたと解釈している。

もう少しアイヌ語で調べてみよう。

【ko】・・・ererko: (~で)三日    
     inererko: 四日
     rerko: 三日(三日間) <レレコと発音>
     tutko: 二日(二日間)
【to】・・・hampak to: 何日
     ineto: 四日
     iwanto: 六日
     kesto: 毎日
     reto: 三日(三日間)
     sineto: 1日
と、【ko】のほかに【~to】がある。この「to」は昼間を表わす語なので、いくつ昼間があるかという意味で使われている。
最初に出てきた『tocap」と同義である。

ここで面白いのが、ヤマトタケルの火焚き翁との問答(新治・筑波を過ぎて・・・)である。

鈴木健さんが、私たちの発行している「ふるさと風」の機関紙に2010年8月に投稿いただいた記事を、別紙で載せました。
(載せるのは少しためらいましたが、私たちの機関紙への投稿ですので、載せても問題ないでしょう)

  ふるさと”風” 機関紙 2010年8月、9月号 記事より  ⇒ こちら

また、この記事に対する茨城の歴史学者として名高い志田諄一 博士よりのご意見、またそれに対するふるさと風の会の主査で脚本家であった白井啓治氏の意見も合わせてここに掲載した。

三者三様で大変見事な主張がなされている。
この意見の違いはそれぞれの立場や、それぞれが違った分野での知識・経験からくるもので、このような意見が交わされたことは私たちの「ふるさと風の会」をこれからも守っていかねばならないとの意を強くするものだ。

志田諄一先生はこの文を掲載した翌年(2011年)末に82歳で亡くなられ、白井啓治先生も昨年(2019年)半ばに亡くなられた。
とても残念な事です。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/14 11:12

日本語と縄文語(14) 海(アトイ)と沼(トー)や岩

アイヌ語で海は【atuy アトイ】であり、沼や湖、沼は【to トー】という。

【atuy】 = 【a われわれの tu 古い、元の i 所】
・・・ 海を眺め、昔の故郷が海の向こうにあると感じた呼び名か?

万葉集 巻二 220 (讃岐國 狭岑(さみね)の島の石室の中に 死せる流刑囚を見て柿本朝臣人麻呂が作った歌) の中に
  跡位浪立(とゐ波立ち : とゐなみたち)
  邊見者(辺見れば : へみれば)
  白浪散動(白波騒く : しらなみさわく)
と出てくる。
意味とすれば、「沖に大波がうねり 岸辺に白波さわぐ 」という意味と解釈されている。
ただ、この「跡位」は「とゐ」と読ませているが「アトイ 海」のことだ。 そのため読みも「あとい(ゐ)」でよいという。

【atuy ⇒ atuwi アトヰ ⇒ 跡位】となったものだが、後からは意味が取れなくなっていたらしい。

「定本万葉集(佐々木信綱 武田祐吉)」には「古くはアトヰナミタチと読んでゐたものである」となっていたが、「アトヰ」の意味が不明のため「「トヰ とゐ」と読ませたものが今も使われてしまっている。

日本語の「うみ 海」ははっきりしないが 『oho 大』+『mi 水』 であろう。
沖縄の方言で 大きいは「うふ uhu」という これがoho に変わり 大(おほ)となったものではないか?
甑(こしき)島の方言で海をオーミといっており、これは「大きい水」からやはりきている呼び名に違いない。

また、福岡を中心とした古代海人族に『安曇(あづみ)族』がいるが、彼らは日本海の糸魚川より姫川を遡って信州の安曇野(あづみの)にも移り住んだ事で知られている.

この安曇(あづみ)もこの「アトー atuy 海」から派生した言葉ではないかという。
<日本語に「tu」の発音がなく、アツミ(atsumi)やアト(ato)に変化した?>

さて、もう一つアイヌ語で沼や湖を指す【to トー】も昔は海を指す言葉だったと考えられるという。
海辺で生活していた人々(縄文人)が野山に入っていって生活をするようになり、沼や湖を 海と同じく【to トー】というようになった。
沖縄では大海原を【ウフ(大) トー(海)】と呼んでいる。
海を意味すると思われる地名は
土佐 : 【to 海 + sa 浜】
富賀(とか)浜(三宅島) : 【to 海 + ka 岸】
利根川 : 【to 沼 + ne になる、のようである】
戸畑(福岡) : 【to 海の + pa ふちの + ta ところ】
能登(のと) : 【noto 良い、おだやかな + to 海】

沖縄で沖合いや海上を意味する言葉に「となか」があり、古事記には「となかのいくり」の表現がある。
『いくり ikuri】 は海中にある岩や石の事を指す。

また、アイヌ語で
 【suma スマ = 石、岩】 であるので【suma ⇒ sima 島 】?
  昔の人(縄文人)は海に突き出した岩を島といっていたと思われる。

 兵庫県明石市の須磨浦は源氏物語などに出てくるほどの白砂青松のきれいな海岸といわれていますが、すぐその山側にはダイナミックな岩場が連続して入り組んだ地形となっています。

umanose.jpg
(須磨アルプス 馬の背)

須磨観光協会のHPによれば、「須磨の語源は、畿内の平地の「すみ」というところから、「すみ」がなまって「すま」になったととか、諏訪(すわ)神社の「すわ」がなまって「すま」になったなどの説もあります。」となっています。

しかし、これが今のアイヌ語の【suma 岩、石】で理解出来るのですから、やはり古代の縄文語からできた言葉でしょう。

今ではこの岩場と海岸の岩礁との狭い地域にたくさんの住宅がびっしりと建っています。

また には別なアイヌ語もあり、
【sirar(岩、大きな石)、 cis(岩)、so(平岩)】の他に、【iwa いわ】がある。
この【iwa】は「岩、岩山、丘、岡、山地」などの意味で、【iwak (野良)仕事から戻る】などに使うので、仕事をする場所が山のほうにあったということだろう。これが今の日本語にそのまま伝わったものか?

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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/15 11:34

日本語と縄文語(15) 峠

 この日本語と縄文語シリーズも新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が4月末から延長になった時から始めた。
毎日書き続けて昨日で2週間。
そして、ようやく宣言が解除となったのだからそろそろ終えても良いころかもしれない。

ステイホームといっても、定年後はいつも似たような生活をしているのだからそれほど変わらない。
しかし、それでもやはり気持ちが解放されないのは徐々に辛くなる。

解除とはなったがしばらくは用心しながら生活せざるを得ないだろう。うっかり油断はやはり禁物だろう。

昨日街中を車で通ったが、解除になった途端、いつも人のいない街中にもカメラを携えた観光客らしき人がチラホラ・・・・

ご夫婦で看板建築などを見物? まだ少し怖い気もする・・・

ただ、このシリーズももう少し続けたいと思う。
私の目的は、自分の理解と資料の整理で、後からきっとやった思い出が蘇るはず。

今回は、私は縄文語というのを最初に意識するようになった言葉を取り上げたい。
それは『峠(とうげ)』についてである。

dousojintouge2.jpg
(道祖神峠 石岡市-笠間市)

この『峠』という漢字は日本で作られた漢字で、山の上と下だから峠(とうげ)とすぐ分る。平安時代頃(1484年初見)に作られたものだそうだ。
そのほかに茨城県には多い名字の「圷(あくつ)」も読み【アクツ】があり、山の下の低地を指しているので、塙(はなわ)に対して、この「圷」の漢字が作られたようだ。
まあアクツについては柳田國男の「地名の研究」に詳しく書かれている。

さて、峠の方だが、古語辞典や語源辞典などには『峠』の語源については

「峠の語源は「手向け(たむけ)」で、旅行者が安全を祈って道祖神に手向けた場所の意味と言われている。」

とほぼ、どの辞典も共通である。

山の鞍部は向こう側に越すところで、その峠を越えると別な世界(地域)への思いを新たにして、道祖神などを祀り、手を合わせた。 それが語源だということも理解はできる。
しかし、「とうげ」という言葉は、この漢字「峠」が作られた平安時代よりずっと前からあるのではないかということだろう。

鈴木健氏の『日本語になった縄文語』によると、

【taor 低い所(ra低い+or所の転)】が言葉のもとではないかという。

峠のことを「タオ」という所・・・鳥取岩美・島根・広島・山口・徳島・高知・宮崎椎葉・熊本球磨・肥後菊地
    「ター」という所・・・愛知県来た信楽(鞍部)
    「タワ」という所・・・佐渡・三河・岡山・鳥取・島根・徳島祖谷
  など

また、栃木と茨城の県境(県道205号線)に「関ノ田和(たわ)峠」という峠がある。
ただし、現在は車でこの峠を通る事はなく、下に「茶の里トンネル」というトンネルが完成している。

さらに、出雲の古事記伝には「峠を凡て多和(たわ)と云う」と書かれている。

多くの場所で峠は「タワ」「タオ」などと呼ばれていることがわかる。
そして、この呼び名はかなり広範囲に広がっている。

撓む(タワム)や果実の実などがたくさん実って、枝が「タワワ」に実るなどというのも同じ言葉の語源と考えられる。

さらに、古語辞典に「【たをり】・・・山の鞍部、鹿や猪などの山越えの通路」がある。
このタヲリもタワと同じような意味で使われており、これが「通り」というように変わったのではないかと考えられるという。

私は以前にも茨城県北部の美和から大子へ抜ける山越えの峠に「タバッコ峠」という変わった名前があり、これも「タワ」が語源ではないかと書いたことがあります。
地元の美和村史などではタバコの栽培も多く、昔親鸞上人の孫の「如信」がこの峠を越えた時に「タバコを一服して休憩した」などという説を紹介していた。

まあ地名なども謂れがわからないとまあいろいろな説を並べるものだが、その解釈の一つにこの縄文語を加える事も忘れないで欲しい。きっと目からウロコの名前も見つかるのではないだろうか?

ただ、この「タワ」「タオ」などがアイヌ語と考えられるかというとそうとは限らない
アイヌ語で「峠」を引くと【rucis】とある。 【ru 道、ちょっとした + cis 泣く】などと分解してみても解釈は分かれそうだ。
また、tao や tawa などを探してみてもそれらしき言葉は見つからない。

鈴木健さんの本では 【ra 低い or 所】から転じて【taor】となり、【tao】などに変化したという。
この語の変化については、いろいろな言葉の変換を研究されています。

私にはこの変化は良くわからないが、 撓む(タワム) や たわわに実る などと、いうイメージと、山の鞍部である峠のイメージがよく一致していることです。

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(献上柿の里 石岡市真家地区)

「手向ける」が語源だとすると「撓む」などの言葉はどこから発生したのでしょうか。

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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/16 11:05

日本語と縄文語(16) 東西南北、右左

縄文人たちは東西南北という方向表現はあまり発達していなかったようだ。
これは東西に長い日本列島で、その住む場所により方角が変わってくることによるのかもしれない。

アイヌ語では 東は【chupka】という 【chup 月、太陽 + ka 上】であり「日の出る方向」であろう。
(chupはcupという表現のアイヌ語辞典もある。 また、 Chupka(Cupka)は北海道の東にあるので千島列島の固有名詞でもある。
この千島列島は昔、アイヌ民族の土地であった。)

 前に書いたが 昼間に円く光るものが太陽であり、夜、円く空にあるのが月である。
 (chupはcupという表現のアイヌ語辞典もある)

hinode.jpg


一方 西は【chuppok (cuppok,cupok) = chup 太陽+ pok 下】 で、「日の沈む方向」となる。

これは沖縄(琉球)の言葉も同じで、『沖縄民俗辞典』『(渡邊 欣雄、吉川弘文館、2008年)によれば
  東は「アガリ」、 西は「イリ」で太陽の出と入りで表されたという
  (古くは「アガルヘ」「アガルイ」「イリヘ」「イルイ」と方向を指す「ヘ」や「イ」がついた(沖縄古語大辞典:角川書店))

一方南北表現はアイヌ語、琉球語共にあいまいで、

matnaw 北  matnawrera 北風
pitaka 南   pitakarera 南風

と風の方向的な表現が使われていて、はっきりと方角を指す表現が見つからない。

琉球語では
 北 : ニシ
 南 : ペー、フェー、ハヘ、ハイ
などといい、やはり風の方向性と関係しているようだ。

説明では
1)ニシ、ペー(フェー)は風の名称と同じであり、季節風の動きによって方位名が形成された
 ハイ(南)は西南日本に広く南風の風位語である
2)北をニシというのは「イニシ(去にし)が語源(説)
などとあるが、こちらもはっきりしない。

今では沖縄では北はニシといったというのが一般的な解釈になっている。
これは日本語の「西」が沖縄では「北」を指していると解釈されている。

ここで、鈴木健さんの日本語になった縄文語を見てみる。

まず「南北」については説明されていない。

東(ヒガシ)の語源はアイヌ語から【chupka 東】または【chupkasi 東】の言葉より
 【chup 日、月】⇒【tuki】 となり『月』となった。
 また、【her 光】⇒【hir ⇒hi】 で『日』となったとすれば、
 【chupkasi ⇒ higa+si 】 で『東』となったのではないかという。

また沖縄では東恩納:ヒジャウンナ、比嘉:ヒジャ、比謝:ヒジャと言っており、東をヒジャ といっていることから
【沖縄 ヒジャイ 左】から『左 ヒダリ』という言葉が生れたのではないかと推察しています。

琉球(沖縄)で、東を「あがり」と言っているが、これも【a われら+ka の上 + ri 高くなる +i もの】ではないかとも言う。

一方「西 にし」の語源だが、
【niusi 森】(ni 木 us ~が群生している i 所)から西 ニシ になったと推察している。

そうすると琉球(沖縄)で北を「ニシ」といっているのは、那覇周辺で考えると首里城の北側に大きな森や木が群生しており、これを「ニシ」と表現したものかもしれない。
「栖」という漢字も鳥の棲みかの意味からきており、西の方向に木の多い棲みかがあったことを示している。

沖縄・九州では「原」を「バル」と読む地名がたくさんあるが、首里城の北に「西原」があり、この西は北の琉球方言で、原は「ハラ」で「ニシハラ」と読ませている。しかしこの地名はけしって新しい言葉ではなく、古くから呼ばれていた地名です。

この「原」については明日にでも検証してみたいと思います。

さて、左(ヒダリ)については「ヒガシ」の語源説から説明していますが、右(ミギ)についても「ニシ」の語源説から説明されています。右を呼ぶ呼び名も各地の方言でさまざまあります。
・ニジリ・・・沖縄首里
・ニギリ・・・岩手九戸、秋田、山形、愛知海部、長野ニシ筑摩、石川
・ミギリ・・・奥羽、千葉印旛、中部、近畿、奄美大島
これらの語の変化が起こっていることを考えれば「niusi 森、林」が「ニシ(西)」へ変化し、「ミギ(右)」に変化したことも容易に想像できるという。

このことから推察すると、東海岸にすむ人たちが 東は海から太陽がのぼり、西に森はあり、日が沈み、鳥のねぐらがある方向と考えていたころの言葉が人々が移動しても同じように使っているのかもしれない。

東(アズマ)については 【atuy 海 + pa 頭、、先、かみて】が語源ではないかという。列島の太平洋岸で日の出る方向は、東にあり、そこにある土地(国)を「アヅマ」と呼び、東国での竪穴住居を四阿(アズマヤ)と呼んだのではないかと言う。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/17 11:12

日本語と縄文語(17) 原、開く(開墾)

九州や沖縄の地名には原を「バル」「ハル」と読む地名がたくさん存在している。
では、全国の郵便番号簿から「原」を「バル」と読む地名を検索してみよう。

・福岡県北九州市・・・中原(ナカバル)、黒原(クロバル)、道原(ドウバル)、夕原(ユウバル)
・福岡県福岡市・・・・下原(シモバル)、塩原(シオバル)、桧原(ヒバル)、屋形原(ヤカタバル)、北原(キタバル)、女原(ミョウバル)
・福岡県その他・・・大牟田市平原(ヒラバル)、久留米市城島町六町原ロクチョウバル)など38箇所
・佐賀県佐賀市・・・中原(ナカバル)、鎌原(カマバル)、藤原(フジバル)、八反原(はったばる)
、田原町・佐賀県その他・・・唐津市中原(ナカバル)など 14箇所
・長崎市佐世保市・・・上原(ウワバル)町、小佐々町田原(タバル)、平原(ヒラバル)、世知原(セチバル)町、田原(タバル)町、吉井町下原(シモバル)、田原(タバル)
・長崎市その他・・・長崎市小江原(コエバル)など11箇所
・熊本県・・・熊本市東区西原(ニシバル)など31箇所
・大分県・・・大分市机張原(キチョウバル)、大分市久原(クバル)など42箇所
・宮崎県・・・宮崎市糸原(イトバル)、柏原(カシワバル)など20箇所
・鹿児島県・・・桜島赤生原(アコウバル)町、鹿児島市紫原(ムラサキバル)など17箇所
・沖縄県・・・那覇市宇栄原(ウエバル)、那覇市首里桃原(トウバル)町、南風原(ハエバル)町など28箇所

また「ハル」と読む地名もほとんどが九州に存在し、北九州市八幡区の上の原(ウエノハル)、福岡市東区唐原(トウノハル)を始め、福岡県28箇所、佐賀県4箇所、長崎県5箇所、熊本県11箇所、大分県24箇所があった。
しかし、宮崎県は高原(タカハル)町1箇所、鹿児島県もいちき串木野市大原(オオハル)町の1箇所のみであった。
沖縄にはなかった。

これを見ると、原を「バル」「ハル」と読むところは沖縄のみならず、九州にも数多く存在し、本州にはほとんどなかった。

また「原」を普通に「ハラ」と読む地名も九州・沖縄にはたくさん存在していて、この区別にどのような意味があるのかは良く判断が出来なかった。

沖縄県の(中頭郡)西原(ニシハラ)町に焦点を当ててみたい。
地図を見ると那覇市首里城から見て東北方向にある。
市のHPやWikipediaによると、この名前のいわれとして

「沖縄方言でニシは「北」を意味する言葉であり、西原とは琉球王国の中心であった首里の北に位置することに由来する。
西原間切(ニシハラマギリ)と呼ばれていたときには、現在の那覇市泊、天久、末吉、石嶺も当間切に含まれており、かなり広い範囲を占めていたが、後に那覇市に編入され、1920年にはほぼ現在のような領域となった。 」と書かれています。

どの説明も「ニシ」=「北」であると説明されていますが、地図を見ても首里城から東北方面(但し昔の間切区分時は泊地区なども含まれていたというので北ともいえる)であり、前回書いた通り、北ではなくやはり、森や山のある方向を意味したのではないだろうか。
地形図を見ても首里城から北方面は平野が広がっており、この現在の西原(にしはら)方面には山(森)があります。

地名の「西原(ニシハラ)」はかなり古い言葉で、新しく付けられた名前ではありません。

従って、沖縄や九州では「原」を「バル」「ハラ」を使い分けているように感じてなりません。
同じ意味ではないとするとその違いはどこにあるのでしょうか?

kiri.jpg


アイヌ語(縄文語)から探ってみましょう。

  【para 広い・・・川下の低い場所 扇状地、沖積平野】⇒ 原(ハラ)

  【haru 自然からの食べ物の恵み、豊漁猟】⇒ 原(ハル、バル)、畑(ハタケ)

この2つの違いで意味が違っているのではないかと考える。

「原(ハラ)っぱ」は今の本州の文字通り広い場所を意味し、
「原(バル)」は【haru kamuy】を「恵みの神」というように穀物など収穫の取れる場所を意味したのだろう。

このことからも、沖縄では畑のことを「ハル」「バル」といい、広い広場などを「ハラ」と表現していたのではないかと思う。
まあ、これはあくまでも想像でしかないが・・・。

「新治」を「ニイハリ」と読む場所と「ニイハル」などと読む場所も日本列島の各地に混在している。
これもこの「ハラ」と「ハル」と似たような感覚の違いがあったのかもしれない。

paraパラ については ヒラ(平)、ヒロ(広)などに変化したと考えられ、
【para-ke-i 広く あらしめる 所】⇒【haraki ハラキ、バラキ  開墾する】 となったと推察される。

日本書紀に「開、此れを波羅企(ハラキ、バラキ)と云う」と出てくる。

茨城の県名についても「バラキであり、開墾する意味があったのだろうといえる。
石岡市に「茨城台」と書いて、「バラキダイ」と読む地名がある。
ここは昔、国分寺より古い「茨城廃寺(バラキハイジ)」があった場所でもある。

これ以上は書くつもりもないが、【ibaraki:イバラキ は 広く有らしめたところ=開拓地】を意味していた。
もっとも、茨城の名前は、石岡で始まったものではなく、涸沼川の上流の笠間市小原辺りが発祥だろうから、その昔はこのオバラ周辺が茨城で開拓地であったものと考えられる。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/18 07:21

日本語と縄文語(18) ホラ吹き、ボロもうけ

 現在普通に使われている「ホラ吹き」や「ボロもうけ」などの言葉はどこから来たのでしょうか?
そんな事は知っていると言うかもしれませんね。

語源辞典などに載っている解釈を見てみましょう。

【ホラ吹き】

1) 法螺貝は、山伏が山中での連絡や獣除けに用いたり、軍陣が進退の合図に使用されたもので、見た目以上に大きな音が出る。 そこから、予想外に大儲けをすることを「ほら」と言うようになり、さらに大袈裟なことを言うことを「法螺を吹く」と言い、そのような人を「ほら吹き」と呼ぶようになった。(語源由来辞典)

2) 「ほら」は法螺貝が名の由来である。もともと法螺貝には、山谷の地中に棲み、精気を得て海に入り、その際に山が崩れ洪水が起こるという俗信があった。ここから近世初期には「ほら」が意外な大儲けをするという意味で用いられ、さらに法螺貝を吹くということも加わって大げさな嘘をつくという意味で「法螺を吹く」「ほら吹き」という言い方がされる (wikipedia)

【ボロもうけ】

1) 「ぼろ」は、形容詞の「ぼろい」から来ており、程度のはなはだしい様を表します。
また、「ぼろい」は韓国語の「ポル」「ポリダ」=「(お金を)儲ける、という言葉から来ていると言われています。

2) ボロには「ぼ・る」(ぼったくり)の意味もあります。
「ぼる」は「暴利」を動詞化させた比較的新しい言葉。


上の説明が現在の辞典などに載っている解釈です。
しかし、この言葉を縄文語ではないかと考えるとどのようになるのでしょうか?

ホラとボロの言葉からアイヌ語を探してみましょう。
このホラもボロもどちらも【poro 大きい】が語源とみることができそうです。

A、【縄文語(アイヌ語) poro 大きい、多い】 ⇒ 【hora ホラ】:高知高岡でホラは非常にたくさんのという方言

ほら貝・・・ 大きな貝 & 貝の形状が洞(ホラ)穴のよう ⇒ 法螺貝(吹螺、梭尾螺)
「ホラ」にはこのように大きいという意味があった。

B、【縄文語(アイヌ語) poro 大きい、多い】 ⇒ 【bora ボロ】  大もうけ ⇒ ボロもうけ となった。

朝鮮語の「ポル」「ポリダ」=「(お金を)儲ける」ことで、この言葉が上の古来の大きいという【poro】と合体した事も考えられる。

しかし、アイヌ語にはこの「ぼろ儲け」などを意味する言葉は見つからない。
単に「儲ける」などと探してみても、【pirka】などと出てくるが、これは

 【e-pirka 良くなる・儲ける(もうける)・得をする】
 【kewtum-pirka 心が美しい】
 【ramu-pirka 満足する】
 【sir-pirka よい天気】
 【uko-oske-pirka 仲が良い】
などとして使う。
昔の縄文人やアイヌ人は喧嘩や争いごとなどなく、仲良く暮らしていたようです。
今の日本人の「自分だけ儲かればいい」などという意識はどこからやってきたのでしょうか?

さて、縄文語(アイヌ語)にはもう一つ地形語としてよく使われる似た言葉があります。

【poru 岩窟】 、 【pira ヒラ 崖】 、 【pake ハケ 崖】 です。

 【poru ⇒ hora ホラ(洞)】 でこちらは洞穴(ほらあな)です。
でもこれは更に変化して【kura 蔵、倉】となったとも考えられます。

秋田の冬の風物詩でもある「カマクラ」の語源は 
 【kamu かぶさる、覆う + poru 洞】⇒ カマクラ (籠もることをカマルという方言もある)
と考えられます。

また、「ボンボリ(雪洞)」も
 【pon 小さい + poru 洞】 ⇒ ボンボリ(雪洞)】
であろうといいます。 
カマクラを土産物用に小さく作られた形は 雪洞という漢字が示すように「ボンボリ」と言ってもいいのではないだろうか。

また地形の「崖(がけ)」を表わす縄文語由来と考えられる言葉には2種類あり、

1、【pira ピラ ヒラ】はアイヌ語で草や木の生えていない崖や坂を表わします。
 これから派生したものとして
ヒラ(傾斜地)・・・青森、岩手、山形、新潟、伊豆大島、三宅島、広島安芸、大分、鹿児島肝属、沖縄
比良山(ヒラヤマ・滋賀)・・・東側が急な断崖となっている
武見坂(ブミビラ)/旧:女陰見坂(ホーミビラ・沖縄)
 (この坂は急坂で下から上をのぼっていく人の女陰(ホー:アイヌ語で尻とか女陰)が見えるなどという名前であったが、変更された。)
古事記に出てくる「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」の比良(日本書紀は平)も崖(急坂)の意味だろう

gake.jpg


2、もう一つ各地にある古語として「ハケ」「ホケ」「バッケ」「ボッケ」などはいずれも崖地などに付けられており、古代縄文語ではないかと見られている。
 「ハケの道」・・・国分寺崖線下の崖沿いの道
 「ホケ」・・・長野下伊那
 「ホキ」・・・筑紫、大分、嵯峨藤津、長崎高来、鹿児島
 「バッケ」・・・茨城久慈、千葉印旛
 「ボッケ」・・・徳島(大歩危・小歩危)
さて、この崖の基となるアイヌ語を探ると

【pake パケ 頭、岬の頭】⇒ハケ、バッケ、ボッケ がある。

日本の地名の場所を見るとどうやら川や海・湖などで浸食された崖地であるようだ。
こちらの用語は「出崎の突端(頭)」や「岡が切れるところ」を指す崖である事が推察される。

もう少し追加すると、
アイヌ語で 【kut】 は「帯(おび)」を意味するが、これは岩肌が帯状に現われている崖・断崖(絶壁)を指した言葉という。
また「のど」のことも表わし、【kut ⇒ kuta ⇒ 管 に変化】
さらに「キダ 段」キザ 段」「ヒダ(しわ)」「コシ 腰」などの派生語になった?

「九段下」のクダンも崖下の意味か?


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/19 06:08
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