日本語と縄文語(1)
今の日本語はどこから来たのか?
日本語の由来、語源などといわれる本などもあるが、ここには、ごく当たり前に呼んでいる個別の物を指す呼び名などの語源などは書かれていない。それはどこから来たのか?
また各地の地名なども地形を表すアイヌ語などが語源である場合が多いことも良く知られている。
ここでは縄文語を長年研究されてきた鈴木健さんのまとめた「日本語になった縄文語」という本から少しまとめていければと思う。
この本はあまり一般に売られている本ではないが、個人研究書と言ったもので、読み物としては一般受けしない。
手元に置いて気になる言語があった時にこの本を開いて調べてみることなどに活用させていただいている。
縄文語という言葉も定義があいまいだが、基本的には2~4万年も昔から日本列島に住んでいた原住民族(縄文人)が使っていた言葉とされ、弥生人により制圧された人々の言葉と解釈される。
これは今のアイヌ語とも少し違う。
鈴木健さんもこの本の冒頭に次のように書いています。
「アイヌ民族は縄文人の直系の子孫、本土人や琉球人は縄文人と渡来人の混血ということにはほとんど異論がなくなっています。
であれば、それは必ず言語面に反映されるはずで、アイヌ語は縄文語に遡り、日本語は縄文語にあとから渡来系言語が合流したものということになります。」
昔一時、アイヌ人は日本列島に住んでいた縄文人が弥生人(大和民族)により追いやられ、北海道に逃げ込んだというような解釈がされていました。
しかし、これは間違いで、日本列島にはたくさんの縄文人が1万年以上にわたり平和に暮らしており、そこに弥生人(渡来人)がやってきて一部は殺され、一部は苦役に追いやられ、また一部は弥生人と同化していって現在の日本人となった。
アイヌ人は蝦夷地としてこの弥生人の征圧進出が遅れ、現在も少数民族として生き延びているということではないでしょうか。
鈴木健さんはまた本書で、「アイヌ語は縄文語を受け継ぎ、日本語も縄文語を引き継いできた。ただ日本語の方が混血が進み、源流を見分けることが困難になってしまっている。」と述べています。
そのため、アイヌ語は昔の縄文語を紐解くヒントになるが、アイヌ語にも日本語から流入した言葉もあるのでこれを区別しながら地道に細かく分類し、日本語の源流を探っています。
これは相当根気のいる仕事だ。
この本に中も一人でこつこつと調べ、解釈を加えていった痕跡がにじみ出ている。
ただ、読み物として物語があるわけでもなく、言語を丹念に調べてメモのような形でまとめられた本であり、恐らく鈴木健さんの日本語の起源に対する自らの思いを、後の言語学者などが引き継いでほしいとの願いが込められているように思う。
私は現在の方言などもこの縄文語の解釈で意外にすっきりすることもあるのではないかと思っている。
東北地方と九州で同じ方言、呼び名があったり、日本海側と太平洋側での違いがどこから来るのかとか・・・・
すこしそこにヒントが隠されているかもしれないとも思うようになった。
民話なども日本各地に同じような話が少しずつその姿を変えて引き継がれていたりする。
縄文人が日本列島に住んで2万年以上? 弥生人がやってきて高々その10分の1の年月しかたっていない。
恐らくこの研究もこれから大分先に解明されていくのかもしれない。
まあ、このブログでこれから先、どこまで紹介できるかわからないし、内容が少しまとまらないと思うがのんびりと思いつくままに載せていければと思う。 間に別な記事を挟みながらの、とぎれとぎれの更新になると思いますが、左側のカテコリの下の方の「日本語と縄文語」をクリックしてもらえば最初から読めるようになると思う。
日本語の由来、語源などといわれる本などもあるが、ここには、ごく当たり前に呼んでいる個別の物を指す呼び名などの語源などは書かれていない。それはどこから来たのか?
また各地の地名なども地形を表すアイヌ語などが語源である場合が多いことも良く知られている。
ここでは縄文語を長年研究されてきた鈴木健さんのまとめた「日本語になった縄文語」という本から少しまとめていければと思う。
この本はあまり一般に売られている本ではないが、個人研究書と言ったもので、読み物としては一般受けしない。
手元に置いて気になる言語があった時にこの本を開いて調べてみることなどに活用させていただいている。
縄文語という言葉も定義があいまいだが、基本的には2~4万年も昔から日本列島に住んでいた原住民族(縄文人)が使っていた言葉とされ、弥生人により制圧された人々の言葉と解釈される。
これは今のアイヌ語とも少し違う。
鈴木健さんもこの本の冒頭に次のように書いています。
「アイヌ民族は縄文人の直系の子孫、本土人や琉球人は縄文人と渡来人の混血ということにはほとんど異論がなくなっています。
であれば、それは必ず言語面に反映されるはずで、アイヌ語は縄文語に遡り、日本語は縄文語にあとから渡来系言語が合流したものということになります。」
昔一時、アイヌ人は日本列島に住んでいた縄文人が弥生人(大和民族)により追いやられ、北海道に逃げ込んだというような解釈がされていました。
しかし、これは間違いで、日本列島にはたくさんの縄文人が1万年以上にわたり平和に暮らしており、そこに弥生人(渡来人)がやってきて一部は殺され、一部は苦役に追いやられ、また一部は弥生人と同化していって現在の日本人となった。
アイヌ人は蝦夷地としてこの弥生人の征圧進出が遅れ、現在も少数民族として生き延びているということではないでしょうか。
鈴木健さんはまた本書で、「アイヌ語は縄文語を受け継ぎ、日本語も縄文語を引き継いできた。ただ日本語の方が混血が進み、源流を見分けることが困難になってしまっている。」と述べています。
そのため、アイヌ語は昔の縄文語を紐解くヒントになるが、アイヌ語にも日本語から流入した言葉もあるのでこれを区別しながら地道に細かく分類し、日本語の源流を探っています。
これは相当根気のいる仕事だ。
この本に中も一人でこつこつと調べ、解釈を加えていった痕跡がにじみ出ている。
ただ、読み物として物語があるわけでもなく、言語を丹念に調べてメモのような形でまとめられた本であり、恐らく鈴木健さんの日本語の起源に対する自らの思いを、後の言語学者などが引き継いでほしいとの願いが込められているように思う。
私は現在の方言などもこの縄文語の解釈で意外にすっきりすることもあるのではないかと思っている。
東北地方と九州で同じ方言、呼び名があったり、日本海側と太平洋側での違いがどこから来るのかとか・・・・
すこしそこにヒントが隠されているかもしれないとも思うようになった。
民話なども日本各地に同じような話が少しずつその姿を変えて引き継がれていたりする。
縄文人が日本列島に住んで2万年以上? 弥生人がやってきて高々その10分の1の年月しかたっていない。
恐らくこの研究もこれから大分先に解明されていくのかもしれない。
まあ、このブログでこれから先、どこまで紹介できるかわからないし、内容が少しまとまらないと思うがのんびりと思いつくままに載せていければと思う。 間に別な記事を挟みながらの、とぎれとぎれの更新になると思いますが、左側のカテコリの下の方の「日本語と縄文語」をクリックしてもらえば最初から読めるようになると思う。
祇園祭りと天王祭
茨城に伝わる天狗の昔話にはよく「津島の祇園祭」に人を目隠しして飛んで見に行く話が出てきます。
現在、名古屋の西の津島市にあるのは「津島神社」ですが、江戸時代は全国の天王社の総本山で神社ではなく神仏習合の寺(津島社⇒津島牛頭天王社)でした。
ここで水に浮かべた船を色とりどりの装飾、灯りで飾り付け、笛太鼓で賑やかに踊る「お船祭り」と称する祭り(津島天王祭)が行われていた(今もあるようですが)そうです。
津島(津島市)の名前は「対馬」から来ていて、朝鮮半島から対馬経由で出雲とこの津島に建速須佐之男命(スサノオ=牛頭天王)がやって来たことになっているようです。
津島神社の説明では「建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂(あらみたま)は出雲国に鎮まったが、和魂(にぎみたま)は孝霊天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、 欽明天皇元年(540年)旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。」となっています。
現在も津島神社では和魂社例祭(茅ノ輪くぐり)=蘇民祭(そみんさい)が行われています。
そのため、蘇民祭(そみんさい)からも蘇民将来(そみんしょうらい)の話なども関係してくると思われます。
牛頭天王が話によってはスサノオにかわっていますね。
下妻市にある大宝八幡宮では茅の輪を3回くぐるのですが、3回目に「蘇民将来、蘇民将来…」と唱えながらくぐるそうです。
門にこの「蘇民将来」と書かれた札が掛けられています。

多くの神社で行われている茅の輪くぐり(厄除け、無病息災)はこの蘇民将来に関係しているとされています。
この天王社が全国に広がりました。
そして、平安時代の貞観5年(863)に全国的に疫病が流行り京都神泉苑で疫病退散を祈願して時の朝廷が御霊祭(雅楽や稚児の舞い)を執り行ったのです。
その後貞観11年(869)に現在の東日本大震災と同じ規模の大地震が起こり、この御霊祭の規模を拡大して66本(全国の国の数)の鉾を立て京都の祇園社(現在の八坂神社)からこの神泉苑まで神輿を担ぐ儀式が行われました。
これが祇園祭の始まりです。(これは一説です。他の説もあります)
今でも神泉苑では神仏(聖観音と善女龍王)が祀られています。
江戸時代全国の天王社で祇園祭(天王祭)が盛んに行われていました。
しかし廃仏毀釈で天王社の名前は消え、多くは八坂神社や須賀神社、素鵞神社などになりました。
特にこの天王社はその標的にされ、強制的に名前を変えられ、牛頭天王を祀ることを排除されました。
そして多くがスサノオの命が祀られるようになりました。
石岡も中町にあった天王社は八坂神社となり、天狗党事件などで混乱していて祭りどころではなかったと思われ、祭りは無くなりしばらくして総社宮に合祀されました。
今の「石岡のおまつり」は天王社の時に行っていた町内の祭りを総社宮が県社に昇格した時に何とか盛大に復活しようと旧町内の区長さんが集まって協議して考えだされたものです。
ですから私は石岡の祭りは「祇園祭」だと思っています。
山車などは江戸の祭が架線式の路面電車などのために神輿中心に変わったため、山車製作の職人さんや人形師が職がなくなり、地方のまちに声掛けしたところ、地方からこの山車や人形などの買い付けに集まりました。
石岡の町内会でも、良いものが先に買われてしまうと、自分たちの町内の人形が他の町内に対してみすぼらしいなどと考えれば自然と先陣争いもあったかもしれません。
現在、名古屋の西の津島市にあるのは「津島神社」ですが、江戸時代は全国の天王社の総本山で神社ではなく神仏習合の寺(津島社⇒津島牛頭天王社)でした。
ここで水に浮かべた船を色とりどりの装飾、灯りで飾り付け、笛太鼓で賑やかに踊る「お船祭り」と称する祭り(津島天王祭)が行われていた(今もあるようですが)そうです。
津島(津島市)の名前は「対馬」から来ていて、朝鮮半島から対馬経由で出雲とこの津島に建速須佐之男命(スサノオ=牛頭天王)がやって来たことになっているようです。
津島神社の説明では「建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂(あらみたま)は出雲国に鎮まったが、和魂(にぎみたま)は孝霊天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、 欽明天皇元年(540年)旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。」となっています。
現在も津島神社では和魂社例祭(茅ノ輪くぐり)=蘇民祭(そみんさい)が行われています。
そのため、蘇民祭(そみんさい)からも蘇民将来(そみんしょうらい)の話なども関係してくると思われます。
牛頭天王が話によってはスサノオにかわっていますね。
下妻市にある大宝八幡宮では茅の輪を3回くぐるのですが、3回目に「蘇民将来、蘇民将来…」と唱えながらくぐるそうです。
門にこの「蘇民将来」と書かれた札が掛けられています。

多くの神社で行われている茅の輪くぐり(厄除け、無病息災)はこの蘇民将来に関係しているとされています。
この天王社が全国に広がりました。
そして、平安時代の貞観5年(863)に全国的に疫病が流行り京都神泉苑で疫病退散を祈願して時の朝廷が御霊祭(雅楽や稚児の舞い)を執り行ったのです。
その後貞観11年(869)に現在の東日本大震災と同じ規模の大地震が起こり、この御霊祭の規模を拡大して66本(全国の国の数)の鉾を立て京都の祇園社(現在の八坂神社)からこの神泉苑まで神輿を担ぐ儀式が行われました。
これが祇園祭の始まりです。(これは一説です。他の説もあります)
今でも神泉苑では神仏(聖観音と善女龍王)が祀られています。
江戸時代全国の天王社で祇園祭(天王祭)が盛んに行われていました。
しかし廃仏毀釈で天王社の名前は消え、多くは八坂神社や須賀神社、素鵞神社などになりました。
特にこの天王社はその標的にされ、強制的に名前を変えられ、牛頭天王を祀ることを排除されました。
そして多くがスサノオの命が祀られるようになりました。
石岡も中町にあった天王社は八坂神社となり、天狗党事件などで混乱していて祭りどころではなかったと思われ、祭りは無くなりしばらくして総社宮に合祀されました。
今の「石岡のおまつり」は天王社の時に行っていた町内の祭りを総社宮が県社に昇格した時に何とか盛大に復活しようと旧町内の区長さんが集まって協議して考えだされたものです。
ですから私は石岡の祭りは「祇園祭」だと思っています。
山車などは江戸の祭が架線式の路面電車などのために神輿中心に変わったため、山車製作の職人さんや人形師が職がなくなり、地方のまちに声掛けしたところ、地方からこの山車や人形などの買い付けに集まりました。
石岡の町内会でも、良いものが先に買われてしまうと、自分たちの町内の人形が他の町内に対してみすぼらしいなどと考えれば自然と先陣争いもあったかもしれません。
日本語と縄文語(2) かめ(亀)
さて、日本語と縄文語というタイトルで書き始めたのはいいのですが、最初から躓きました。
鈴木健さんのご本「日本語になった縄文語」は序説で
1)本書の構成
2)縄文語とその特徴
3)異言語の侵入と縄文語の変身
4)発音習慣の適応
5)語彙と文法
6)借用と偶然
7)ハ行音
などかなり具体的に今まで調べて得た知識を分類し、詳細に述べています。
そしてその後に日本語の転音の例を具体的に述べています。
転音というのは日本語にも同じ事をあらわす言葉があります。
自分を指す言葉に「わたし」と「あたし」がありますが、どちらが先にあった言葉かを見分けるのです。
この時は、どちらがより多くの地域で使われているかなどを考えて、 あたし(atasi) ⇒ わたし(watasi)、
あし(asi) ⇒ わし(wasi)などの ア行とワ行の転音がおこっていると見ていくようです。
もう私はここで先に進めないのです。
これが結構たくさん例を挙げて説明されています。
しかし並みの集中力ではついていけないのです。
でもここでギブアップしてはなりませんので、具体的な名前の例を見ていきます。
生き物の名前として まず「カメ」(亀)について述べています。
鈴木健さんがこの本の最初にこの「カメ」をとり上げたのにはきっとわけがありそうです。
自然界の生き物として、古来から北海道には「亀」が生息していないのです。
ですから北海道に暮らすアイヌの言葉には「亀」を指す固有名詞がないのです。
もしカメをあらわすことばから似たアイヌ語が見つかれば、縄文語が全国にあり、そこからアイヌ語が縄文人の子孫としてのこったということを言葉(日本語)から証明する事になるからです。
ではどんな風に書かれているのでしょうか。
かめ=ka (表面、・・・の上)+ma(泳ぐ)+i(もの)・・・kamai ⇒ kame(かめ)
アイヌ語で【ka】は「表面」「上面」「・・・の上」「・・・のほとり」などの意味があり、【kam】【kama】が水面を泳ぐという意味のアイヌ語で解釈できるという。
【i】は動詞や形容詞を名詞にする時に用いられる言葉で「物」と「時」「所」「事」などをいうという。
また【kamai が kame】となるのはアイヌ語の発音の「メ」が 「mai 」と類似しているからだという。
カメに同じような言葉として「かも」「かもめ」などががやはり「水の上」の言葉から来ている。
また「水すまし」などのことを 隠岐の島では「カメ」というのも同じとされる。
カメというといろいろ昔話があり、この話の分布などを調べていくと何か見つかるかもしれません。
もっとも有名な話は「浦島太郎」ですが、これも時代により話しの内容は変化しているようです。やはり北海道にはないのでしょうね。
鶴は千年、亀は万年とよく言われますが、亀の長生きの記録は250年くらいまでいろいろあるようですが、確認された記録では152年だそうです。その他100歳以上の記録はたくさんあるようです。
でもこの亀は遺伝子解読の結果、カメの祖先は約2億5000万年前の生物大量絶滅が発生した時期の前後にワニ、トリ、恐竜等のグループと分かれ独自の進化をしたと考えられています。まあ恐竜が絶滅した時に生き残って今の亀が誕生したなどと考えるとなにか亀を見る目も変ってきますね。

(類題)
「カジカ」 (蛙の一種:河鹿、淡水魚のゴリ、ゴロの中間の魚:鰍(かじか))などがあり、これらはすべて目が頭の上についている。
アイヌ語では 【ka 上】【sik 目】【a 坐している】でカジカになるという。
しかしこのカジカも今のアイヌ語にはない。
従って、これも縄文語が本州で変化した言葉だろうという。
鈴木健さんのご本「日本語になった縄文語」は序説で
1)本書の構成
2)縄文語とその特徴
3)異言語の侵入と縄文語の変身
4)発音習慣の適応
5)語彙と文法
6)借用と偶然
7)ハ行音
などかなり具体的に今まで調べて得た知識を分類し、詳細に述べています。
そしてその後に日本語の転音の例を具体的に述べています。
転音というのは日本語にも同じ事をあらわす言葉があります。
自分を指す言葉に「わたし」と「あたし」がありますが、どちらが先にあった言葉かを見分けるのです。
この時は、どちらがより多くの地域で使われているかなどを考えて、 あたし(atasi) ⇒ わたし(watasi)、
あし(asi) ⇒ わし(wasi)などの ア行とワ行の転音がおこっていると見ていくようです。
もう私はここで先に進めないのです。
これが結構たくさん例を挙げて説明されています。
しかし並みの集中力ではついていけないのです。
でもここでギブアップしてはなりませんので、具体的な名前の例を見ていきます。
生き物の名前として まず「カメ」(亀)について述べています。
鈴木健さんがこの本の最初にこの「カメ」をとり上げたのにはきっとわけがありそうです。
自然界の生き物として、古来から北海道には「亀」が生息していないのです。
ですから北海道に暮らすアイヌの言葉には「亀」を指す固有名詞がないのです。
もしカメをあらわすことばから似たアイヌ語が見つかれば、縄文語が全国にあり、そこからアイヌ語が縄文人の子孫としてのこったということを言葉(日本語)から証明する事になるからです。
ではどんな風に書かれているのでしょうか。
かめ=ka (表面、・・・の上)+ma(泳ぐ)+i(もの)・・・kamai ⇒ kame(かめ)
アイヌ語で【ka】は「表面」「上面」「・・・の上」「・・・のほとり」などの意味があり、【kam】【kama】が水面を泳ぐという意味のアイヌ語で解釈できるという。
【i】は動詞や形容詞を名詞にする時に用いられる言葉で「物」と「時」「所」「事」などをいうという。
また【kamai が kame】となるのはアイヌ語の発音の「メ」が 「mai 」と類似しているからだという。
カメに同じような言葉として「かも」「かもめ」などががやはり「水の上」の言葉から来ている。
また「水すまし」などのことを 隠岐の島では「カメ」というのも同じとされる。
カメというといろいろ昔話があり、この話の分布などを調べていくと何か見つかるかもしれません。
もっとも有名な話は「浦島太郎」ですが、これも時代により話しの内容は変化しているようです。やはり北海道にはないのでしょうね。
鶴は千年、亀は万年とよく言われますが、亀の長生きの記録は250年くらいまでいろいろあるようですが、確認された記録では152年だそうです。その他100歳以上の記録はたくさんあるようです。
でもこの亀は遺伝子解読の結果、カメの祖先は約2億5000万年前の生物大量絶滅が発生した時期の前後にワニ、トリ、恐竜等のグループと分かれ独自の進化をしたと考えられています。まあ恐竜が絶滅した時に生き残って今の亀が誕生したなどと考えるとなにか亀を見る目も変ってきますね。

(類題)
「カジカ」 (蛙の一種:河鹿、淡水魚のゴリ、ゴロの中間の魚:鰍(かじか))などがあり、これらはすべて目が頭の上についている。
アイヌ語では 【ka 上】【sik 目】【a 坐している】でカジカになるという。
しかしこのカジカも今のアイヌ語にはない。
従って、これも縄文語が本州で変化した言葉だろうという。
日本語と縄文語(3) 「かぶれ」「かび」
今回取り上げるのは【ka】がアイヌ語で「表面」とか「上」という言葉から、皮膚の表面にできた「カブレ」という言葉がやはり縄文語だろうということの検証です。
「かぶれ」は皮膚の表面にできた赤い疾患です。そこで、
かぶれ ⇒ 【ka (表面、上)】+【hure (赤い)】 で「かふれ」が「かぶれ」に変化した
このように解釈しないと日本語の「かぶれ」の言葉の語源がわからないのです。
更に検証して、
高知県幡多 で マンジュシャゲ(彼岸花)のことを「カブレ」と呼んでいる。
この彼岸花も南洋植物で北海道(アイヌ圏)にはないという。
という言葉は高知の方言がアイヌ語で理解出来るということになります。
高知県では明治期まで、彼岸花を毒抜きして食用にしていた地域の記録もあるという。
また皮膚に出来る「かぶれ」も宮城・新潟では「カビ」といい、岩手では「垢=あか」ともいうらしい。
これも恐らく「赤」のものを表わしているのだろう。
いっぽう一般につかわれる「カビ」も伊豆大島では「アカ」といい、
かび ⇒ 【ka 表面 mu ふさがる】(アイヌ語で kamu はかぶさるとか覆うという意味)+【i もの】
上の m が b に変化して 【kamui】 ⇒ 【kabui】 となり 「かび」となった。
また別に考えれば 【pi】 は「種子」という意味があり、こちらの p が b に変化したとも考えられる。
さて、「カメ」から検証が始まった生き物の縄文語検証になぜこんな「かぶれ」「かび」などという言葉を鈴木先生は選んだのでしょうか?
理解に苦しんでいると次に「牙(きば)」が出てるるのです。
はたまた?? です。
じっくり読み込んでいくと やっと少し納得できます。
とんでもないことを検証しています。
古事記などの表現で、日本の国の始まりで、まだ国土が整わない時、
葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あ)がる物に因(よ)りて成りませる神の名は・・・・
と出てきます。
これは、早春に氷がとけて、そこから葦(あし)の先がとがった角のような芽が突きだす様をあらわしています。

葦牙(あしかび)は葦の芽ということで解釈は変わらないのですが、これを「あしかび」と読むことの意味が今も解釈ができていないのです。
その多くのところの説明では、「「かび」はカビ(黴)と同じ語源で、醗酵する、芽吹くといった意味で「葦の芽吹く力強さをその生命力の強さとして神格化した」というような説明になっています。
しかし何故「かび」が「芽」なのでしょうか?
「牙(きば)」が何故「草の牙=芽(め)」という言い方がうまれたのでしょうか?
確かに木や草の芽は先が尖り、牙(きば)と同じような形状です。
特に葦の芽吹きは春先の水辺で天に向かって力強く伸び、生命力を感じさせてくれます。
これを縄文語(主にアイヌ語)から解き明かそうというのでしょう。
牙(きば) ⇒ 【ki(葦)】+【pa(頭)】 で キバ=kibaとなり
i ⇔ a となり、【kiba=キバ ⇒ kabi=かび】となった。
(注: 葦=アシ という呼び名は 【as (立っている)】+【i (~のもの)】と解釈できる。)
これは足にもいえる。足(あし)が加えるという意味の時に 足す(たす)と読むのは何故か?
これもアイヌ語からわかるという。
もちろん 足(アシ) で 立つ(タツ)立ち(タチ)などとも関連し、地名や山の名前などを調べていくと分るという。
足(あし) ⇒ 【as (立つ)】+【i (もの)】 であり、
足す(たす) ⇒ 【tasu】 で s ⇒ t となり 【tatu 立つ】 となった。
こんな解釈をしていくと日本語の由来が見えてくるようです。
まあこれも日本語解明のアプローチの一つでしょう。
どこまでが真実に迫れているかは分りません。
これからのこのような研究が本格化すれば面白いと思います。
「かぶれ」は皮膚の表面にできた赤い疾患です。そこで、
かぶれ ⇒ 【ka (表面、上)】+【hure (赤い)】 で「かふれ」が「かぶれ」に変化した
このように解釈しないと日本語の「かぶれ」の言葉の語源がわからないのです。
更に検証して、
高知県幡多 で マンジュシャゲ(彼岸花)のことを「カブレ」と呼んでいる。
この彼岸花も南洋植物で北海道(アイヌ圏)にはないという。
という言葉は高知の方言がアイヌ語で理解出来るということになります。
高知県では明治期まで、彼岸花を毒抜きして食用にしていた地域の記録もあるという。
また皮膚に出来る「かぶれ」も宮城・新潟では「カビ」といい、岩手では「垢=あか」ともいうらしい。
これも恐らく「赤」のものを表わしているのだろう。
いっぽう一般につかわれる「カビ」も伊豆大島では「アカ」といい、
かび ⇒ 【ka 表面 mu ふさがる】(アイヌ語で kamu はかぶさるとか覆うという意味)+【i もの】
上の m が b に変化して 【kamui】 ⇒ 【kabui】 となり 「かび」となった。
また別に考えれば 【pi】 は「種子」という意味があり、こちらの p が b に変化したとも考えられる。
さて、「カメ」から検証が始まった生き物の縄文語検証になぜこんな「かぶれ」「かび」などという言葉を鈴木先生は選んだのでしょうか?
理解に苦しんでいると次に「牙(きば)」が出てるるのです。
はたまた?? です。
じっくり読み込んでいくと やっと少し納得できます。
とんでもないことを検証しています。
古事記などの表現で、日本の国の始まりで、まだ国土が整わない時、
葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あ)がる物に因(よ)りて成りませる神の名は・・・・
と出てきます。
これは、早春に氷がとけて、そこから葦(あし)の先がとがった角のような芽が突きだす様をあらわしています。

葦牙(あしかび)は葦の芽ということで解釈は変わらないのですが、これを「あしかび」と読むことの意味が今も解釈ができていないのです。
その多くのところの説明では、「「かび」はカビ(黴)と同じ語源で、醗酵する、芽吹くといった意味で「葦の芽吹く力強さをその生命力の強さとして神格化した」というような説明になっています。
しかし何故「かび」が「芽」なのでしょうか?
「牙(きば)」が何故「草の牙=芽(め)」という言い方がうまれたのでしょうか?
確かに木や草の芽は先が尖り、牙(きば)と同じような形状です。
特に葦の芽吹きは春先の水辺で天に向かって力強く伸び、生命力を感じさせてくれます。
これを縄文語(主にアイヌ語)から解き明かそうというのでしょう。
牙(きば) ⇒ 【ki(葦)】+【pa(頭)】 で キバ=kibaとなり
i ⇔ a となり、【kiba=キバ ⇒ kabi=かび】となった。
(注: 葦=アシ という呼び名は 【as (立っている)】+【i (~のもの)】と解釈できる。)
これは足にもいえる。足(あし)が加えるという意味の時に 足す(たす)と読むのは何故か?
これもアイヌ語からわかるという。
もちろん 足(アシ) で 立つ(タツ)立ち(タチ)などとも関連し、地名や山の名前などを調べていくと分るという。
足(あし) ⇒ 【as (立つ)】+【i (もの)】 であり、
足す(たす) ⇒ 【tasu】 で s ⇒ t となり 【tatu 立つ】 となった。
こんな解釈をしていくと日本語の由来が見えてくるようです。
まあこれも日本語解明のアプローチの一つでしょう。
どこまでが真実に迫れているかは分りません。
これからのこのような研究が本格化すれば面白いと思います。
日本語と縄文語(4) 神、熊
さて、このシリーズも4回目ですが、どこまで内容が理解出来るのでしょうか。 今から心配です。
前回「かび」は【ka 表面 mu ふさがる】⇒ アイヌ語で kamu はかぶさるとか覆うという意味に +【i もの】をつけたものと説明しました。
皆さんもよく知っているアイヌ語にはカムイ=神がありますよね。
私もこれ位しかわかりません。
ではなぜカムイ=kamuyが神になるのでしょうか?
一般にアイヌ語では 【kamuy】は神格をもったいろいろなものに使われているようです。
時には人間であったり、獣や、生き物以外でも・・・・
これを縄文語(分解された言葉)で解釈し、今の日本語とも比べてみていくようです。
【kamuy】 ⇒ 【kami=神】となったのは、万葉かなのミの発音からもこの転化は読み取れるといいます。
【kamu かぶさる、覆う】は、天を覆って上から覆いかぶすことであり、上空に暗雲が立ち込め、そこには雷や魔が潜み、魔神の仕業と思ったのではないかという。
元々古くは kamuy は「魔」の意味だったといいます。
一方 「熊」は、立ち上がって人に覆いかぶさるもので、魔神のような存在だったのでしょう。
【kumuy】 ⇒ 【kuma 熊】 となったと考えられるというのです。
少し説明を加えると、「羆(ひぐま)」は平安時代の辞書である和名抄による読み方は、「之久萬」と書かれており、素直に読めば「しくま」となります。
これもアイヌ語で、【si 真の 本当の 大きな】熊となります。
このsがhに転化して「ひぐま」となったと考えられます。
本州には現在ツキノワグマしか生息していないが、昔(旧石器時代)は北海道以外にもヒグマは生息していたのです。

また、これに関して「かま」という言葉を調べてみましょう。
【ka 上】+【mu ふさがっている】+【a すわっている】⇒ 「kama かま」
から考えられる方言などです。
1)山口大島では「巣籠り」することを 「かまる」といいます。これは「籠もる こもる」に通じます。
2)愛媛大三島、熊本、静岡では 「かま=穴」の事を指します。
3)秋田鹿角、茨城久慈、山梨、徳島祖谷、高知では 「かま=川底のえぐれ」をいいます。
4)三重、和歌山東牟婁(ひがしむろ)、宮崎都城、鹿児島、沖縄、千葉一宮では「がま=岩穴、洞窟、崖のえぐれているところなど」を言います。
また、噴火口の事を「おかま=お釜」というのは普通に使います。
このように【kamu かぶさる 覆う】から派生した日本各地の方言はたくさんありそうです。
どうですか? 少し理解できそうですか。
私はまだまだ理解はできていません。
ただこれを「こじ付け」だとか、「いいかげん」だなどとは思えません。
なぜなら今の日本語のルーツはまだ解明できていないからです。
この「日本語になった縄文語」という本が、そのルーツ(標準語、方言など)を解明する手がかりになるかもしれません。
ここに書かれているように元々あった縄文語が都合よく「転音」したり、「置換」されたりするかということがネックなのですが、これについても古書をあさり、方言を紐解き検証を重ねるのはかなりのご苦労があったと思います。
わたしがここで取り上げている内容も、あまり理解できていないところで書いていますので間違った表現も多々あると思います。
なにしろこの日本列島には1~2万年ものあいだ縄文人たちと呼ばれる人々が争いごともなく住んでいたのですから。
日本の歴史学で習うことは、その表面的に見つかった道具や骨などからしか推察していないのですから・・・・。
この先もう少し本を紐解いてみましょう。
鈴木健先生が書かれた本以外にも「縄文語」に関する本はあります。
恐らくそちらの方が読みやすいでしょう。
色々な言葉がこれから徐々に解明していくのでしょうが、現在もまだ言語学の立場からはこの縄文語は亜流としてしか見られていないと思います。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
前回「かび」は【ka 表面 mu ふさがる】⇒ アイヌ語で kamu はかぶさるとか覆うという意味に +【i もの】をつけたものと説明しました。
皆さんもよく知っているアイヌ語にはカムイ=神がありますよね。
私もこれ位しかわかりません。
ではなぜカムイ=kamuyが神になるのでしょうか?
一般にアイヌ語では 【kamuy】は神格をもったいろいろなものに使われているようです。
時には人間であったり、獣や、生き物以外でも・・・・
これを縄文語(分解された言葉)で解釈し、今の日本語とも比べてみていくようです。
【kamuy】 ⇒ 【kami=神】となったのは、万葉かなのミの発音からもこの転化は読み取れるといいます。
【kamu かぶさる、覆う】は、天を覆って上から覆いかぶすことであり、上空に暗雲が立ち込め、そこには雷や魔が潜み、魔神の仕業と思ったのではないかという。
元々古くは kamuy は「魔」の意味だったといいます。
一方 「熊」は、立ち上がって人に覆いかぶさるもので、魔神のような存在だったのでしょう。
【kumuy】 ⇒ 【kuma 熊】 となったと考えられるというのです。
少し説明を加えると、「羆(ひぐま)」は平安時代の辞書である和名抄による読み方は、「之久萬」と書かれており、素直に読めば「しくま」となります。
これもアイヌ語で、【si 真の 本当の 大きな】熊となります。
このsがhに転化して「ひぐま」となったと考えられます。
本州には現在ツキノワグマしか生息していないが、昔(旧石器時代)は北海道以外にもヒグマは生息していたのです。

また、これに関して「かま」という言葉を調べてみましょう。
【ka 上】+【mu ふさがっている】+【a すわっている】⇒ 「kama かま」
から考えられる方言などです。
1)山口大島では「巣籠り」することを 「かまる」といいます。これは「籠もる こもる」に通じます。
2)愛媛大三島、熊本、静岡では 「かま=穴」の事を指します。
3)秋田鹿角、茨城久慈、山梨、徳島祖谷、高知では 「かま=川底のえぐれ」をいいます。
4)三重、和歌山東牟婁(ひがしむろ)、宮崎都城、鹿児島、沖縄、千葉一宮では「がま=岩穴、洞窟、崖のえぐれているところなど」を言います。
また、噴火口の事を「おかま=お釜」というのは普通に使います。
このように【kamu かぶさる 覆う】から派生した日本各地の方言はたくさんありそうです。
どうですか? 少し理解できそうですか。
私はまだまだ理解はできていません。
ただこれを「こじ付け」だとか、「いいかげん」だなどとは思えません。
なぜなら今の日本語のルーツはまだ解明できていないからです。
この「日本語になった縄文語」という本が、そのルーツ(標準語、方言など)を解明する手がかりになるかもしれません。
ここに書かれているように元々あった縄文語が都合よく「転音」したり、「置換」されたりするかということがネックなのですが、これについても古書をあさり、方言を紐解き検証を重ねるのはかなりのご苦労があったと思います。
わたしがここで取り上げている内容も、あまり理解できていないところで書いていますので間違った表現も多々あると思います。
なにしろこの日本列島には1~2万年ものあいだ縄文人たちと呼ばれる人々が争いごともなく住んでいたのですから。
日本の歴史学で習うことは、その表面的に見つかった道具や骨などからしか推察していないのですから・・・・。
この先もう少し本を紐解いてみましょう。
鈴木健先生が書かれた本以外にも「縄文語」に関する本はあります。
恐らくそちらの方が読みやすいでしょう。
色々な言葉がこれから徐々に解明していくのでしょうが、現在もまだ言語学の立場からはこの縄文語は亜流としてしか見られていないと思います。
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日本語と縄文語(5) バッケ(フキノトウ)
さて、今まで書いてきて、私もアイヌ語と縄文語がどうも混同しているようで、わかりにくくなっていました。
一般に、やはり分りづらいですね。
何と言っても私達日本語をしゃべる人でもアイヌ語を本当に理解している人はごく僅かでしょう。
ですから私の書いて来た内容もここまでどうも使い分けが上手くいっていなかった気がします。
今迄得た知識だけから判断すると、
アイヌ語からその単語を分解して、そこに共通の音を探り出し、共通する意味を探索していき、その先に現在の日本語の音を当てはめる。またそれが地域差(方言)があったり、昔の書物に残された言葉に隠れた解読のヒントがないかを探る・・・・といった事でしょうか。
そして「縄文語の発見」がなされたという事ではないかと思います。
縄文語としてはここまで
【ka】 ・・・ 表面、~の上、~のほとり
【mu】 ・・・ ふさがる
【kamu】(上記の組み合わせ) ・・・ かぶさる、覆う
【as】 ・・・立っている、立つ
【i、y】(語尾) ・・・ もの
【a】(語尾)・・・ 坐っている、すわる
などが主なところでしょうか。
今回は、フキノトウのことを「バッケ」と呼ぶ地域がある事に注目してみます。
「バッケ味噌」などといって愛でているのは主に新潟から東北地方一体に広がっています。
この方言がアイヌ語からきているとか、「化ける」から変化したなどと一部で言われているようですが、これを明確に説明した資料は見かけません。
そこで、これが縄文語から派生し、アイヌにも伝えられたのだと解釈しています。
どんな事でしょう。
ここではバッケの語源を 【po 子】+【kay 背負う】 = 【pakkay】 ⇒ 【bakkay(バッカイ)】 にあるとしています。
その根拠として青森秋田・岩手・宮城登米ではフキノトウがまだ開ききらない姿が「子供を背負っているように見える」ことから来ているといわれているからです。

この【kay 背負う おんぶする】 (アイヌ語)というのも
九州では 「カイカイ」ともいい、カイカイといえば「かたつむり」の事を指す地域もたくさんありますね。
「カイカイツブリ」(富山)、「カイカイムシ」(三重度会)・・・ またカイマキなども元は赤子を背負う巻き布だったのかもしれません。
他に
【karu カルウ】背負う・・・九州・四国・石見・安芸・山口・愛媛・高知など
【karui カルイ】荷物を背負う職人・・・(山口豊浦)、背負梯子・・・(隠岐・大分・宮崎)
【kari カリ】背負梯子・・・鹿児島 (背負いかごは:カレコ)
など九州を中心に【kay】というアイヌ語と共通の言葉がたくさん派生しています。
これが何を意味するかはもう明白です。
縄文人の言葉が今の日本の地方などに方言として残され、地名などにもアイヌ語で解釈できる地名が沖縄から九州・・・関東・東北地方にまでたくさん残されています。これらは縄文人たちが使っていた言葉から派生し、アイヌ語にはその多くが少し変化して残っているが、他の日本列島にはその派生した言葉の意味がわからなくなっていると考えられるのです。
(これは鈴木健さんの本から読み取った私の考えですので、解釈が違っているかもしれません)
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一般に、やはり分りづらいですね。
何と言っても私達日本語をしゃべる人でもアイヌ語を本当に理解している人はごく僅かでしょう。
ですから私の書いて来た内容もここまでどうも使い分けが上手くいっていなかった気がします。
今迄得た知識だけから判断すると、
アイヌ語からその単語を分解して、そこに共通の音を探り出し、共通する意味を探索していき、その先に現在の日本語の音を当てはめる。またそれが地域差(方言)があったり、昔の書物に残された言葉に隠れた解読のヒントがないかを探る・・・・といった事でしょうか。
そして「縄文語の発見」がなされたという事ではないかと思います。
縄文語としてはここまで
【ka】 ・・・ 表面、~の上、~のほとり
【mu】 ・・・ ふさがる
【kamu】(上記の組み合わせ) ・・・ かぶさる、覆う
【as】 ・・・立っている、立つ
【i、y】(語尾) ・・・ もの
【a】(語尾)・・・ 坐っている、すわる
などが主なところでしょうか。
今回は、フキノトウのことを「バッケ」と呼ぶ地域がある事に注目してみます。
「バッケ味噌」などといって愛でているのは主に新潟から東北地方一体に広がっています。
この方言がアイヌ語からきているとか、「化ける」から変化したなどと一部で言われているようですが、これを明確に説明した資料は見かけません。
そこで、これが縄文語から派生し、アイヌにも伝えられたのだと解釈しています。
どんな事でしょう。
ここではバッケの語源を 【po 子】+【kay 背負う】 = 【pakkay】 ⇒ 【bakkay(バッカイ)】 にあるとしています。
その根拠として青森秋田・岩手・宮城登米ではフキノトウがまだ開ききらない姿が「子供を背負っているように見える」ことから来ているといわれているからです。

この【kay 背負う おんぶする】 (アイヌ語)というのも
九州では 「カイカイ」ともいい、カイカイといえば「かたつむり」の事を指す地域もたくさんありますね。
「カイカイツブリ」(富山)、「カイカイムシ」(三重度会)・・・ またカイマキなども元は赤子を背負う巻き布だったのかもしれません。
他に
【karu カルウ】背負う・・・九州・四国・石見・安芸・山口・愛媛・高知など
【karui カルイ】荷物を背負う職人・・・(山口豊浦)、背負梯子・・・(隠岐・大分・宮崎)
【kari カリ】背負梯子・・・鹿児島 (背負いかごは:カレコ)
など九州を中心に【kay】というアイヌ語と共通の言葉がたくさん派生しています。
これが何を意味するかはもう明白です。
縄文人の言葉が今の日本の地方などに方言として残され、地名などにもアイヌ語で解釈できる地名が沖縄から九州・・・関東・東北地方にまでたくさん残されています。これらは縄文人たちが使っていた言葉から派生し、アイヌ語にはその多くが少し変化して残っているが、他の日本列島にはその派生した言葉の意味がわからなくなっていると考えられるのです。
(これは鈴木健さんの本から読み取った私の考えですので、解釈が違っているかもしれません)
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日本語と縄文語(6) カエル
前回は、フキノトウをバッケ という方言について縄文語から解説しましたが、今回は「カエル=蛙」についてです。
カエルの呼び名は地方でさまざまに呼ばれています。
「方言の多様性から見る日本語の将来(木部暢子著)」(⇒ こちら ) から少し引用させていただきます。
ここにカエルの呼び名の分布図が書かれています。

これによると本当にさまざまな呼び名で呼ばれている事がわかります。
カエル、ガエル、ギャワズ、ガワ、ゲッツ、ゲー、ゴット、ガット、ヒキ、ビキ、ビッキ、ビキタン、ビキタロー、ドンビキ、オンビキ、アタビチ、ドンタ、ドンコ、ワクド、バクド、アップ、タップ、アタラ、アンゴ、ベットー、ジョーコ、チロッコ、モッケ・・・・・・・など
(書かれているものも紹介の図がよく読み取れないので全部ではない)
しかし、これをグループ分けしている。
1) 「カエル、ガエル」グループ・・・ 下記をのぞく多くの地域
2) 「ヒキ」・・・ 四国、山口、広島西部など
3) 「ビキ、ビッキ、ビキタンなど」・・・ 九州南部(沖縄含む)、九州北部、和歌山東部、東北全般(秋田・青森一部を除く)
4) 「アンゴ」・・・ 千葉房総
5) 「ワクド、パクド」・・・福岡東部・大分東部
6) 「モッケ」・・・ 秋田、青森(下北はビッキグループ)
7) 「ゴト、ガット、ゴトビキ」・・・ 和歌山県
特にこの3)のビキ ビッキ、ビキタングループは九州と東北のともに広い範囲で使われている。
上に紹介した論文ではこれを
(1)方言周圏論:中央部で変化が起きる。中央部ほど新しく、周辺部ほど古い。
(2)孤立変遷論:周辺部で変化が起きる。中央部ほど古く、周辺部ほど新しい。
(3)接触説:異なる方言(言語)が接触して、一方または双方に変化が起きる。
という3つの考え方で分類し、(1)方言周圏論と(2)孤立変遷論が融合したものなどで分類解釈をしようとしている。
また柳田國男が提唱した蝸牛(かたつむり)型の渦巻き型伝播なども論じておられます。
まあ、私には余り理解できませんが、言語学の世界はまだまだ未知のことが多そうです。
ただ言葉の伝播についての法則はあっても、なぜそのような言葉となったのかについては触れられていないようです。
ではこれを縄文語で解釈していきましょう。
(鈴木健「日本語になった縄文語」から)
1、 【ガマガエル】 : 【ガマ(穴)】 に 【カマ(コモ)る】 ⇒ 【ガマ】
前回【ka 上 mu ふさがっている】 ⇒ 【kamu かぶさる 覆う】
となるから 【kama 穴、くぼみ、火山の噴火口】等も此の派生語と説明をしました。
また【kama ⇒ gama ガマ】も同じ穴などを表わす方言が各地にあります。
さらに【kama ⇒ komo ⇒ 籠もる】ともなったと考えられます。
2、【ヒキ】【ビキ】【オンビキ】【ビッキ】等 ⇒ 【pakko 老婆】が語源
1) bakki バッキ : 宮崎椎葉 で伯母
2) bakkui バックイ: 静岡川根 で大蛙
3) bakkun バックン: 大分でガマ、ヒキガエル
4) バク : 大分南海部でガマ
5) bikki ビッキ: 東北、栃木塩原、新潟岩船、岐阜揖斐、滋賀東浅井、佐賀藤津 で 蛙
6) biki ビキ: 盛岡、青森、岐阜揖斐、三重南牟婁、奈良吉野、和歌山東牟婁、徳島、愛媛、土佐、九州 で 蛙
7) hiki ヒキ: 和歌山、大坂泉北、香川直島、広島安芸、島根鹿足、山口 で 蛙(ヒキガエル)
8) onnbiki オンビキ: 土佐、奈良宇陀、和歌山、兵庫、広島、四国、大分 で 蛙(ヒキガエル)
9) onnba オンバ : 愛媛温泉
などの語源を探していくと「ウバ 姥」になるという。
千葉県君津で オオバコのことを「オンバッパ」というが、これは昔、蛙釣りにオオバコの葉茎からとった筋の先に葉を小さく丸めて縛ったものを使ったという。
このため、カエルッパなどと野州、奥州などの幼児語でオオバコのことを呼ぶ。
また、大分北海部では蛙のことをウバとも呼ぶところがある。
さて、アイヌ語で老婆のことはいろいろな呼び名があります。「アハチ」「フチ」「イコンホノ」・・・・
しかし、古くからのアイヌ語として残されている言葉もあり、【pakko パッコ 老婆】ともいいます。
この【pakko パッコ 老婆】が各地で、バックイ、バックン、バク、ビキ 等に変化し 【バク】【ビキ】 ⇒ 【バケ】 に転化した。
というのです。
「パッコ 老婆」と 「バク・バックイ: ガマ(カエル)」は発音が近いのと、どことなく動きや体つきなども似ていると思われたのかもしれません。
これは、昔話の「姥皮 ウバガワ ウハカワ」などではガマガエルの皮で作った頭巾をかぶると少女が老婆に変装するという話となったのではないか。
また「化けの皮」という言葉もここから生れたのかも知れないとしている。
姥皮についてはまた別途昔話などのところで紹介したいと思う。
また、昔のかえるの表現にはその鳴き声から呼ばれた言葉もあります。
万葉集の歌に見えるカエルの表現には「蟾蜍(たにぐく)」と出てきます。
・・・・・山のそき 野のそき見よと 伴とも の部へを 班あかち遣つかはし 山彦の 応へむ極きはみ たにぐくの さ渡る極きはみ 国状くにかたを 見めしたまひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね・・・・・
(高橋連虫麻呂 万葉集 巻六 九七一)
これは「カエルが歩き回る陸の限りまで・・」という意味です。
この「ぐく」というのは恐らくかえるの鳴き声から使われたものと思われます。今のアイヌ語でも「ケッケッ」というようです。
又食用で食べられるから 【kaket ケッケッと鳴く】+【chep 食べ物】 【kaketchep】 という言い方もされます。
【chep】 は鮭や魚などの好物の食べ物に使われています。
カエルは大昔の人々(縄文人)には大好物だったのかもしれません。
このカエルが縄文人の好物だということは、日本書紀にでてきます。
日本書紀の応神天皇 19年の条によれば、応神天皇が吉野宮に行幸した際,国樔(くず)が酒を献上にやってきた事が書かれており、「その人となり,甚だ淳朴なり,毎 (つね) に山の菓を取りて食う,また蝦蟆 (かえる) を煮て上味とす,名づけて毛瀰 (もみ) という」
とあります。 国樔(くず)は常陸風土記にも出てきますが、当時に日本に暮らしていた人々(縄文人)のことを指します。
ですから当時カエルのことを縄文人たちは「毛瀰 (もみ) 」といって好物として食べていたという事になります。
【mom 流れる、ただよう】+【i もの】⇒ 【momi モミ ヒキガエル(食用)】
ではなかろうかという。
今でも、奈良県吉野の浄見原(きよみはら)神社では旧暦1月14日にウグイ、にごり酒などと共に「毛瀰 (もみ) 」も奉納されるという。
またこの【momi モミ】については和名抄に 【ムササビ のことを 毛美 モミ 】と表示されている。
ムササビやモモンガ もまた羽を広げて飛行する姿から 【momi】 からそう呼ばれたのではないか。
またカエルのことを「モミ」といった事から、
【モミの手(蛙の手)】 ⇒ 「モミテ】 ⇒ 【モミチ】 となり 【蛙手】 ⇒ 【カヘテ】 )】
となったのではないかという。
もちろん「モミヂ」については、紅花を揉んで赤い色を出す事から「モミイヅ」となり、「モミヂ」となったとの説明がある事は承知の上だという。
さて、大分複雑になってきましたね。
いろいろな語源説明はありますが、この縄文語がもう少し国文学で体系的に県境がされれば、ここに書かれている事柄もきっと理解出来るのではないでしょうか。
ここまでは「カエル、カヘル」の言葉には触れていませんが、これも推論ですが、
【ka 上面 + para 広い =kapar 水中の平岩】 と姿が似ていることから連想されたのかもしれないという。
カヘル、カワヅなどに変化したのだろう。
近代アイヌ語ではカエルは【terkep】という。
これも 【terke 跳ぶ】 + 【p もの】 とから来ている。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
カエルの呼び名は地方でさまざまに呼ばれています。
「方言の多様性から見る日本語の将来(木部暢子著)」(⇒ こちら ) から少し引用させていただきます。
ここにカエルの呼び名の分布図が書かれています。

これによると本当にさまざまな呼び名で呼ばれている事がわかります。
カエル、ガエル、ギャワズ、ガワ、ゲッツ、ゲー、ゴット、ガット、ヒキ、ビキ、ビッキ、ビキタン、ビキタロー、ドンビキ、オンビキ、アタビチ、ドンタ、ドンコ、ワクド、バクド、アップ、タップ、アタラ、アンゴ、ベットー、ジョーコ、チロッコ、モッケ・・・・・・・など
(書かれているものも紹介の図がよく読み取れないので全部ではない)
しかし、これをグループ分けしている。
1) 「カエル、ガエル」グループ・・・ 下記をのぞく多くの地域
2) 「ヒキ」・・・ 四国、山口、広島西部など
3) 「ビキ、ビッキ、ビキタンなど」・・・ 九州南部(沖縄含む)、九州北部、和歌山東部、東北全般(秋田・青森一部を除く)
4) 「アンゴ」・・・ 千葉房総
5) 「ワクド、パクド」・・・福岡東部・大分東部
6) 「モッケ」・・・ 秋田、青森(下北はビッキグループ)
7) 「ゴト、ガット、ゴトビキ」・・・ 和歌山県
特にこの3)のビキ ビッキ、ビキタングループは九州と東北のともに広い範囲で使われている。
上に紹介した論文ではこれを
(1)方言周圏論:中央部で変化が起きる。中央部ほど新しく、周辺部ほど古い。
(2)孤立変遷論:周辺部で変化が起きる。中央部ほど古く、周辺部ほど新しい。
(3)接触説:異なる方言(言語)が接触して、一方または双方に変化が起きる。
という3つの考え方で分類し、(1)方言周圏論と(2)孤立変遷論が融合したものなどで分類解釈をしようとしている。
また柳田國男が提唱した蝸牛(かたつむり)型の渦巻き型伝播なども論じておられます。
まあ、私には余り理解できませんが、言語学の世界はまだまだ未知のことが多そうです。
ただ言葉の伝播についての法則はあっても、なぜそのような言葉となったのかについては触れられていないようです。
ではこれを縄文語で解釈していきましょう。
(鈴木健「日本語になった縄文語」から)
1、 【ガマガエル】 : 【ガマ(穴)】 に 【カマ(コモ)る】 ⇒ 【ガマ】
前回【ka 上 mu ふさがっている】 ⇒ 【kamu かぶさる 覆う】
となるから 【kama 穴、くぼみ、火山の噴火口】等も此の派生語と説明をしました。
また【kama ⇒ gama ガマ】も同じ穴などを表わす方言が各地にあります。
さらに【kama ⇒ komo ⇒ 籠もる】ともなったと考えられます。
2、【ヒキ】【ビキ】【オンビキ】【ビッキ】等 ⇒ 【pakko 老婆】が語源
1) bakki バッキ : 宮崎椎葉 で伯母
2) bakkui バックイ: 静岡川根 で大蛙
3) bakkun バックン: 大分でガマ、ヒキガエル
4) バク : 大分南海部でガマ
5) bikki ビッキ: 東北、栃木塩原、新潟岩船、岐阜揖斐、滋賀東浅井、佐賀藤津 で 蛙
6) biki ビキ: 盛岡、青森、岐阜揖斐、三重南牟婁、奈良吉野、和歌山東牟婁、徳島、愛媛、土佐、九州 で 蛙
7) hiki ヒキ: 和歌山、大坂泉北、香川直島、広島安芸、島根鹿足、山口 で 蛙(ヒキガエル)
8) onnbiki オンビキ: 土佐、奈良宇陀、和歌山、兵庫、広島、四国、大分 で 蛙(ヒキガエル)
9) onnba オンバ : 愛媛温泉
などの語源を探していくと「ウバ 姥」になるという。
千葉県君津で オオバコのことを「オンバッパ」というが、これは昔、蛙釣りにオオバコの葉茎からとった筋の先に葉を小さく丸めて縛ったものを使ったという。
このため、カエルッパなどと野州、奥州などの幼児語でオオバコのことを呼ぶ。
また、大分北海部では蛙のことをウバとも呼ぶところがある。
さて、アイヌ語で老婆のことはいろいろな呼び名があります。「アハチ」「フチ」「イコンホノ」・・・・
しかし、古くからのアイヌ語として残されている言葉もあり、【pakko パッコ 老婆】ともいいます。
この【pakko パッコ 老婆】が各地で、バックイ、バックン、バク、ビキ 等に変化し 【バク】【ビキ】 ⇒ 【バケ】 に転化した。
というのです。
「パッコ 老婆」と 「バク・バックイ: ガマ(カエル)」は発音が近いのと、どことなく動きや体つきなども似ていると思われたのかもしれません。
これは、昔話の「姥皮 ウバガワ ウハカワ」などではガマガエルの皮で作った頭巾をかぶると少女が老婆に変装するという話となったのではないか。
また「化けの皮」という言葉もここから生れたのかも知れないとしている。
姥皮についてはまた別途昔話などのところで紹介したいと思う。
また、昔のかえるの表現にはその鳴き声から呼ばれた言葉もあります。
万葉集の歌に見えるカエルの表現には「蟾蜍(たにぐく)」と出てきます。
・・・・・山のそき 野のそき見よと 伴とも の部へを 班あかち遣つかはし 山彦の 応へむ極きはみ たにぐくの さ渡る極きはみ 国状くにかたを 見めしたまひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね・・・・・
(高橋連虫麻呂 万葉集 巻六 九七一)
これは「カエルが歩き回る陸の限りまで・・」という意味です。
この「ぐく」というのは恐らくかえるの鳴き声から使われたものと思われます。今のアイヌ語でも「ケッケッ」というようです。
又食用で食べられるから 【kaket ケッケッと鳴く】+【chep 食べ物】 【kaketchep】 という言い方もされます。
【chep】 は鮭や魚などの好物の食べ物に使われています。
カエルは大昔の人々(縄文人)には大好物だったのかもしれません。
このカエルが縄文人の好物だということは、日本書紀にでてきます。
日本書紀の応神天皇 19年の条によれば、応神天皇が吉野宮に行幸した際,国樔(くず)が酒を献上にやってきた事が書かれており、「その人となり,甚だ淳朴なり,毎 (つね) に山の菓を取りて食う,また蝦蟆 (かえる) を煮て上味とす,名づけて毛瀰 (もみ) という」
とあります。 国樔(くず)は常陸風土記にも出てきますが、当時に日本に暮らしていた人々(縄文人)のことを指します。
ですから当時カエルのことを縄文人たちは「毛瀰 (もみ) 」といって好物として食べていたという事になります。
【mom 流れる、ただよう】+【i もの】⇒ 【momi モミ ヒキガエル(食用)】
ではなかろうかという。
今でも、奈良県吉野の浄見原(きよみはら)神社では旧暦1月14日にウグイ、にごり酒などと共に「毛瀰 (もみ) 」も奉納されるという。
またこの【momi モミ】については和名抄に 【ムササビ のことを 毛美 モミ 】と表示されている。
ムササビやモモンガ もまた羽を広げて飛行する姿から 【momi】 からそう呼ばれたのではないか。
またカエルのことを「モミ」といった事から、
【モミの手(蛙の手)】 ⇒ 「モミテ】 ⇒ 【モミチ】 となり 【蛙手】 ⇒ 【カヘテ】 )】
となったのではないかという。
もちろん「モミヂ」については、紅花を揉んで赤い色を出す事から「モミイヅ」となり、「モミヂ」となったとの説明がある事は承知の上だという。
さて、大分複雑になってきましたね。
いろいろな語源説明はありますが、この縄文語がもう少し国文学で体系的に県境がされれば、ここに書かれている事柄もきっと理解出来るのではないでしょうか。
ここまでは「カエル、カヘル」の言葉には触れていませんが、これも推論ですが、
【ka 上面 + para 広い =kapar 水中の平岩】 と姿が似ていることから連想されたのかもしれないという。
カヘル、カワヅなどに変化したのだろう。
近代アイヌ語ではカエルは【terkep】という。
これも 【terke 跳ぶ】 + 【p もの】 とから来ている。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
日本語と縄文語(7)姥皮(うばかわ)と化けの皮
日本語になった縄文語の説明を鈴木健さんのご本より入口部分のみ6回に亘って説明してきました。
でもまだまだ理解には達していません。
このまま続けても益々隘路にはまってしまうかもしれませんので、少し息抜きをしていきたいと思います。
前回、カエルの呼び方の話をしました。
地方によっては、「ビキ、ビッキ、ビキタン、バッケ・・・」などと呼ばれ 「ウバ」などと呼ばれる地域も存在するそうです。
また、「化けの皮」という言葉も気になります。どこから生まれた言葉なのか?
「化けの皮が剥がれる」「化けの皮を剥ぐ」などと使うが、表面的につくろっていた姿(皮をかぶっていた姿)から、その皮をはぎ取って本来の姿をあばく時などに使う。
どうもこれが昔話の「姥皮(ウバカワ)」と関係しているかもしれないというので、この昔話を調べてみました。
1)姥皮(ウバカワ) 山形県の昔話
日本昔話「姥皮」より YouTubeは ⇒ こちら
(あらすじ):<日本むかしばなしデータベースより抜粋>

村に日照りが続き、水が枯れてしまった。
そこに男がやってきて、雨を降らせてやる代わりに娘を嫁によこせと言う。
村人は承諾し、雨が降った。しかし、男は大蛇の化身であった。
村人は困り果てるが三人娘の末娘が自分が嫁にいくと言う。
末娘は千のひょうたんと千の針を持ち、大蛇の住む淵へ向った。
淵につくとひょうたんをすべて淵に浮かべ、大蛇に沈めてみせろと言う。
大蛇は奮闘するものの沈められず、やがて力つきて岸にのびてしまった。
娘はそこを蛇の嫌う鉄気である千の針で刺し、大蛇は死んでしまった。
体よく大蛇は討ったものの、嫁に行くといった以上帰る訳にもいかず、しばし山中を行くと、一軒の家があった。
そこにすむ老婆に次第を話すと、老婆は自分は実は件の淵の大ガマで、蛇に追い出されていたのだと喜んだ。
老婆はこれを被っていれば難は降りかからないと自分の「姥皮」(かぶると老婆の姿になる)を娘に授け、道を行った先に優しいお大尽の屋敷があるからそこへ行く様に勧めた。
お屋敷では見た目は老婆の娘を雇ってくれ、娘もよく働いた。
しかしある日、屋敷の若旦那が姥皮を脱いで髪を梳いていた娘を見てしまい、恋の病に伏してしまう。
やがて実は老婆がその娘だったことが知れ、二人は夫婦になった。
(ポイント)
ここで、この話しの気になるポイントは
(1) ガマの皮を被ると醜い老婆に変身する。何故(ガマ)カエルなのか?
(2) 大蛇の嫁になるということ
(3) このブログで「昔話について」と題して最初に書いた「蟹の恩返し」(記事は ⇒ こちら)との関連
こちらの話は、東北文教大学短期大学部民話研究センターの民話アーカイブとして「佐藤家の昔話(一)」にもう少し詳しく収録されています (⇒ こちら) こちらの方が元の話に近いと思われます。
2)姥つ皮(うばっかわ) 新潟県 (フジパン提供 ⇒ こちら)
むかし、あるところに、大層気だての良い娘がおったそうな。
娘の家は大変な分限者(ぶげんしゃ)での、娘は器量も良かったし、まるでお姫様のようにしておった。
じゃが、夢のような幸せも永くは続かないもんでのぉ、可哀そうに、母が、ふとした病で死んでしもうた。
しばらくたって継母(ままはは)が来だがの、この継母には、みにくい娘がいたんじゃ。
なもんで、継母は、器量の良い娘が憎(にく)くてたまらんようになった。
事あるごとにいじめてばかり。
父も、これを知っていたが、継母には何も言えんかった。
それで、可哀そうだが、この家においたんではこれからどうなるかも知れんと思ってな、お金を持たせて、家を出すことにしたんじゃ。
乳母(うば)もな、 「あなたは器量もいいから、よっぽど用心しなければ危ないことに出逢うかも知れんから」
と、言って、姥(うば)っ皮(かわ)という物をくれた。
娘は、それを被って、年をとった婆様(ばあさま)の姿になって家を出た。
こうして、娘はあちらこちらと歩いているうちに、ある商人の家の水くみ女に雇(やと)われることになったそうな。
娘はいつも姥っ皮を被って働いた。
風呂(ふろ)に入る時も、家中の者が入ったあとで入ることにしていたので、それを脱(ぬ)いでも誰にも見つけられんかった。
ある晩のこと。
娘がいつものように姥っ皮を脱いで風呂に入っていると、ふと若旦那が見つけてしまった。
さあ、それ以来若旦那は、一目(ひとめ)見た美しい娘のことが忘れられん。とうとう病気になってしまった。医者でも治(なお)らんのだと。大旦那が心配して占師に占ってもらった。
すると占師は、 「家の内に気に入った娘があるすけ、その娘を嫁にしたら、この病気はすぐに治ってしまうがな」、と言う。
大旦那はびっくりして家中の女という女を全部、若旦那の部屋へ行かせてみた。が、気に入った者はなかったんじゃと。
最後に、大旦那はまさかと思いながら、水汲み婆さんを若旦那の部屋へ連れて行った。
すると、若旦那はすぐに見破っての、姥っ皮をとってしまったんじゃ。
中から、それは美しい娘が現われたもんで、家じゅう大嬉びでの、 娘は、その家の嫁になって、いつまでも幸せに暮らしたそうな。
こんでちょっきり ひとむかし。
(ポイント)
(1) 姥(うば)と乳母(うば)が同じ発音なので、1)から変化した?
(2) 継母(ままはは)は乳母から連想されたものか?
(3) 御伽草子にある「はちかつぎ姫」やグリム童話のシンデレラ(灰かぶり姫)の話と同じ継子いじめの要素が強くなっている。
3)姥皮(うはかわ) 御伽草子(平安時代)
⇒ こちら より
御伽草子の「うはかわ」は私が持っている岩波文庫の御伽草子には載っていない。
そこでネットで捜してみた。元はほとんどひらがなばかりの文のようだ。
いくつかのサイトでこれを載せて、漢字交じりに変換したりしておられたが、上のリンク先 ブログ「円環伝承」のブログ記事より取らせてもらった。
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応永の頃のことであるが、尾張の国岩倉の里に、成瀬左衛門清宗と申す人がいたが、長年連れ添った妻は亡くなり、忘れ形見の姫君が一人あった。
その後、そうあるべきことであれば、姫君が十一の年、清宗はまた妻を設けた。
まもなく清宗は都へ仕事で上ることになったが、北の方に向かって言うことには、
「まだ姫は幼いのだから、とにもかくにも良く気遣って育てておくれ」と細々と指示して、都へ上っていった。
その後、継母がこの姫を憎むことに限りはなかった。
姫君が心に思うことと言えば「父御前がここにいたら、こうはならないのに」ということばかりで、明ければ父恋し、暮れれば亡き母恋しと、涙の乾く暇もなかったのである。
このように嘆いていればますます憎み、食事さえも与えなかったので、十二になった春の頃、姫君は岩倉の里を夜の闇に紛れて忍び出て、行く先はないけれども足に任せてさ迷っているうちに、甚目寺の観音堂に辿り着いた。
姫君は「これこそ、母上が常々参っておられた御仏だわ。
朝晩足を運んでおられたのは、私の将来について祈っていたのだと聞いているわ。
どうせもはや悪意を受けている身。母上のおられるところにすぐに行ってしまおう」
と思って、内陣の縁の下に人目を忍んで潜り込んだ。
「本当にね、大慈大悲に御誓願すれば、現世安穏、後生善処して護ってくださると聞いているわ。
私は、この世の望みは今更ないわ。後生(死後、来世)を助けたまえ」と、常々母上が教えておいてくれた観音経を、少しも休まずに読んだ。
三晩こもった夜明け、戸口に金色の光を放って、もったいなくも観世音菩薩が姫の枕元に立った。
「汝の母は、いつもここに足を運んでは姫の行く末を案じて祈っていたのに、このように迷うとは哀れなことよ。
汝の姿は世に類ないほど美しいのだから、どこかで人に襲われるだろう。これを着なさい」と言って、木の皮のようなものをくれた。
「これは、姥皮というものだ。これを着て、我が教える場所へ行きなさい。近江の国、佐々木民部隆清門前に立ちなさい」
と教えて、かき消すようにいなくなった。
さて姫君は、「それにしても有難いお告げだわ」と伏し拝んで、夜が明けると姥皮を着て縁の下から出た。
この様子を見た人は、「この婆さんは不気味な姿だな」と嘲笑った。
こうして姫君は、教えに従って近江の国へ上った。
不気味な姥の姿なので、野に寝ようが山に寝ようが、目を止める人もいなかった。
どうにか、さ迷ううちに佐々木民部隆清の家に着いて、門の側で休んで経文を唱えていた。
隆清の子に、佐々木十郎隆義といって、年は十九になる者がいたが、その時、門の辺りに佇んでいて、侍を呼んで言った。
「さても不思議なことがあるものよ。あの姥が経を読んでいるが、姿に似ずに声の美しさは迦陵頻(歌声が美しいとされる天上の半人半女)のようだ。中に呼び入れて、釜の火焚きをさせよ」
侍は承知して、「どうした姥よ。この屋敷にこのまま留まって、釜の火を焚け」と言ったところ、姫君は中に入って釜の火を焚いた。
そのうちに、頃は三月十日あまりになった。
南面の花園には様々な花が植えてある。散る桜があれば咲く花もあり、水際の柳は萌黄の糸を垂れ、夜更け頃に山の端に沈む月も、花の美しさと競い合っていた。
さて姫君は、夜更け、人が寝静まると花園に出て、月や花を眺めて、過去を恋しく思って、
月花の 色は昔に変はらねど 我が身一つぞ衰えにける
(月や花の色は変わらないのに、我が身だけは落ちぶれてしまいました)
とこのように詠じて佇んでいた。
一方、十郎隆義は詩歌・管弦の道にも明るく、優しい人であったので、沈む月を惜しんで花見の御所の御簾を高く巻き上げていたのだが、花園に怪しい人影があるのを見て太刀を押っ取り、忍び出てみると、火焚きの姥である。
「これは怪しいやつだ。どうしたことか」と思い、そっと窺った。
姫君は人が見ているとも知らないで、月の光に向かって、少し姥皮を脱いで、美しい顔だけを出して、またこのように
月一人 あはれとは見よ姥皮を いつの世にかは脱ぎて返さん
(月だけは哀れんで下さい、この『姥皮』に身をやつした私を。姥皮をいつの日にか脱いで返しましょう)
と詠むのを見ると、辺りも輝くほどの姫君である。
「これはどうしたことだ」と思い、もとより大剛の人であったので、持っている太刀の鍔を押し上げて、するすると近寄って、
「お前をこの間の火焚きの姥だと見ていたところ、そうではなく、美しい女房だ。
魔物であろう。逃がさんぞ」と怒鳴りつけた。
姫君は騒ぐ様子もなく、「お待ちを。落ち着いて下さい。私は魔物ではありません。
私の身の上をお話しいたします」とて、事の仔細をありのままに語った。
隆義はじっと聞いて、ならば観音の御利生であるなと手を合わせ、感動の涙を流した。
もとより、隆義は未だに奥方も娶っていなかったので、寝所の傍らは寂しく、独りで寝起きしていたのだが、姫君の手を引いて花見の御所に上がり、姥皮を脱がせて、火を灯して眺めると、全く上界の天人が天下りしたかと思えるもので、世に例えられるものがない。辺りも輝くばかりである。
隆義が 「さては、噂に聞く成瀬左衛門清宗なるせのさえもんのきよむねの姫でありますか。
突然に申すことではありますが、あなたも今は何かと苦しんでいるはず。
今からは私と夫婦の契りを結んで下さい」と、行く末の事までも事細かに話せば、
姫君は
「私ごとき落ちぶれ者にお言葉をかければ、ご両親のお咎めはどれほどのものでしょう。
いつまでも屋敷に召し置いてくだされば、この姥の姿で釜の火を焚きます」と言う。
隆義は
「このように出逢ってしまったのです。たとえ父母の不興を買う身になろうとも、野の末・山の奥までも、片時もあなたから離れまい」と、姫君の側に寄り伏して嘆いたところ、姫君も断りきれず、身を任せた。
かくして、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)の下で比翼の契りを結んだ。
その夜も次第に明けていくと、後朝(きぬぎぬ)の名残を惜しんで互いの涙は止まることがなかった。
既にもう夜は明け、下働きの者たちが起き出す音がするので、再び姥衣を引き被り、釜の火を焚きに出ようとしたが、隆義は姫の袖を引き止めて、このように詠んだ。
観音の 御置きたりし姥皮を 末頼もしく我や脱がせん
(観音様が置いていった姥皮を、末頼もしい思いで私は脱がせた)
姫君、返歌。
憂きことを 重ねて着たる姥皮を 君世になくば誰が脱がせん
(憂いごとを重ねて着ていた姥皮を、あなたがいなければ誰が脱がせることが出来たでしょうか)
このように詠じて、火を焚きに出て行ったのは、哀れなことであった。
そのうちに、隆義の父母は、かねてより定めていた通りに都の今出川の左大将殿の姫君を嫁に迎えようと、乳母めのとの宰相を使いにして手紙を送ってきて、都へ上るように伝えたところ、隆義はとやかくは言わないで、「父母の仰せに背くのは恐れ多いことですが、私はただ出家したいと思っております。このようなことはできません」と言う。
父母はこれを聞いて、「これはどうしたことか。とは言うものの、若い身の習いとて、想いを寄せる方がいるのかもしれない。詳しく訊ねよ」と、乳母の宰相に言った。
宰相は隆義を訪ねて、「ご両親にご心配をおかけするのも罪です。
若い身の習いとて、お心を寄せる方があっても無理はありません。
貴人の身の習いとて、賎しかろうと心の優れた者を召し上げて、奥方にもします。
このようなことは世間にあることなのですから、父母様もさしてお恨みいたしません」と、丁寧に語ったところ、隆義は聞き入れて、「今は何を隠そう。誰もが驚くことだが、この屋敷にいる釜の火を焚く姥を召し上げたいのだ」と言った。
宰相はこれを聞いて相当に呆れ果てて物も言わず、涙を流して走り帰り、父母にこのことを申したところ、「これは何としたことか。つまり我が子は気が狂ってしまったのか」とて、それぞれにうち伏して泣いたが、父、隆清はしばらくして「いやいやとにかく、火焚きの姥をこれからは嫁だと定めて、心を見よう」と言って、「然らば、明日は吉日なのだから、姥を召し上げて北の方に定めなさい」と使いを送ってきたので、隆義が狂喜することに限りはなかった。
急いで網代の輿を調えて、祝いの儀式は様々だった。
屋敷の人々は実に釈然としないことであったが、主命であるので、様々に準備を執り行った。
とうとうその日になれば、隆義は例の姥を召し上げて、自分の住んでいる所へ入れて、人に見せずに、二人一緒に着替えや化粧をした。
夜が明けると、被かずき衣を深々と被って、輿に乗って、母屋へと移った。
座敷まで輿で乗り付けて出てきたのを見れば、件くだんの姥のようではない。
これはどうしたことだと、見る人々も父母もポカンとした。
舅の隆清が、側近くに来た嫁を見てみると、この世の人のようではない。
天人か、菩薩が天下ったのか。これほどに美しい人は昔話にも聞いたことがない。
年の頃は十三か十四ほどに見える。鮮やかなる顔かんばせ。姿を絵に描こうとしても筆が及ぶだろうか。
言葉には、よもや出来ない。隆清夫婦は彼女を見て、驚き喜ぶことに限りがなかった。
その日の引き出物として、隆清は代を息子に譲った。このことは天下に知れ渡った。
帝がこれを聞いて、「さては観音のお引き合わせによって、隆義は妻を得たのだ。大変なことよ」とて、急いで隆義を召し上げて佐々木右兵衛督の位を与え、近江の国と越前の国を相添えて与えた。
その他にも所領を増やしていって、お目出度いことである。
その後、子供も沢山もうけて末長く繁栄した。
これは即ち、大慈大悲の御慈悲である。
この物語を読む人は、南無大悲観世音菩薩と、三遍唱えるようにすべし。
現世安穏、後生善処、疑いなし。
(ポイント)
(1) こちらの話は平安時代の仏教説話が元になっているように思われる。
(2) このころから「継母」にいじめられる話が入ってきたようだ。
(3) 姥皮はこの話しでは、カエルがかぶっているものではなく「木の皮のようなもの」となっている。
さて、姥皮(ウバカワ、ウバッカワ、ウハカワ)の話を3つ載せたが、それぞれ少しずつ違いがあるが、元の話はどこから来たものだろうか。
御伽草子は平安時代後半頃と思われるが、観音信仰がかなり色濃く出ている。
さて似た話しで「カエルの皮」(ガエルッカワ)という昔話が新潟にある。
4、カエルの皮(越後の昔話) ⇒ サイトはこちら
カエルの皮 ―高橋ハナ昔話集―
あったてんがな。あるどこにおっとさんとお嬢さんがあったてんがの。おっとさんが
「きょうは天気もいいし、花見にいってこうかな」
とようてお嬢さんを連れて行ったと。ほうしたら、でっこいヘビがカエルを飲もうとしているんだんが、お嬢様が
「かわいげらねか。カエルがヘビに飲まれるが」
とようたれば、おっとさんが
「ヘッビ、ヘッビ、んな(おまえ)、そのカエルはなしてやれば、この娘を嫁にやるが」
といわしゃったと。ほうしると、ヘビは、くわえていたカエル放したと。かえるは、喜んでギクシャクしながら逃げていったと。
おっとさんは、
「はあてまあ、おら娘を嫁にくれるなんてようてしまったが、おおごとら」
ほうして、二、三日もめいたれば、いつかの男が来て、「おらこないだカエルを飲もうとした時のヘッビだが、お嬢さんを嫁にくれるとようたすけ、約束通り今日は、もらいにきた」
とようたと。おっとさんは困ってしもうて、
「娘、娘、おれがほんとうにようたがらすけ、仕方がない。ヘビのどこへ嫁にいってくれ」
とようたと。娘も承知して、おっとさんから針千本買ってもらって、男のあとへくっついていった。ほうして広い池へ出ると、男が
「おれここに先入るが、おまえ、おれの後からついて入ってこい」
というて飛び込んだと。その時娘は、針千本を池の中に投げ込んだ。ヘビはその針飲み込んで死んでしもうたと。
ほうして、日もくれるし、家にも帰らんないし、困っていると、向こうから、年寄りのばさが来て
「お嬢様、お嬢様、私はおまえさんに助けられたカエルだ。今夜おらどこへ一晩、泊まっていってくれ」
とようて泊めてくれたと。
翌朝になったら、ばさが
「おまえのようなきれいな子は、道中に悪者がいてあぶないすけ、おれがカエルの皮をやる。これを着れば、年寄りのきったねばさになる」
とようてカエルの皮をくれたと。お嬢様は、その皮を着てズンズン行くと、道端に山賊(さんぞく)がいて
「きったなげのばさがきた」
とようて、棒の先に引っかけて投げたら、ばさはだんな様の家の軒端に落ちたと。それをおんなごが見て、
「奥さん、奥さん、きったなげのばさが軒端にやってきました」
とようと、奥さんは、
「かわいそうだすけ、家に入れてやれ」
とようてその家で火たきばさに使ってやったと。
ある日、若だんな様が、夜遊びにいって、帰っでくると、ばさの部屋で明りが見えるんだんが、
「ばさが何しているのだろう」
と思ってのぞいてみると、ばさは、カエルの皮を脱いできれいなあねさになって、ろうそくの灯で勉強しているてんがの。若だんな様は、それから病気になってしもうて寝ていたと。家のショが、あの医者、この医者とたのんでくるろも若だんなのあんばいはえーて(なかなか)治らんかったと。占いがきて
「これは若だんなに好きな女の人があって、それを嫁に欲しいがだすけに聞いてみるがよい」
とようたと。ほうしるんだんが、おっとさんもおっかさんも若だんなに
「だっか(だれか)嫁に欲しい人があるか」
と聞くろも、なんともいわんがだと。仕方がねい村中の年ごろの娘いんな寄せて、若だんなのとこへやってみようとようことになって、一人ずつ
「あん様、湯でも茶でもやろかい」
とようて行くども、布団にもぐって返事もしねいと。あとのこりは火たきばさばっかになってしもうたと。
「ほんね、もうひとり火たきばさが残っていらや」
とようでばさが行くことになったと。ばさは二階に上がって、カエルの皮を脱いで、きれいなお嬢さんになって降りてきて、
「あん様、湯でも茶でもやろうかい」
とようたれば、若だんながきて
「湯でも茶でもくれ」
とようて起きてきたてんがね。
おっとさんもおっかさんも
「これが家の嫁だ」
と喜んだと。ほうして、お嬢さんを嫁にして一生仲良く暮らしたと。それでいきがきれた。
ここでは、「姥皮」という名称は無くなり、「カエルの皮」との表現に置き換わっている。
以上4つの話を紹介したが、これ以外に似た話は各地に多い。
福島県三島の昔話には「姥皮(おっぱの皮).」などと呼ばれている。
しかし、以前平安時代の仏教説話ばなしを見ると、日本霊異記(中)より、蟹の恩返しの話をした。(こちら)
この中で、第十二 に「蟹と蛙を買い取って放してやり、この世で蟹に助けられた話」 というのがある。
捕まってかわいそうになった蟹と、蛇に飲まれそうになった蛙をそれぞれ別々に助けて逃がすのだが、この蛇をやっつけて恩を返すのは「蟹」の役目になっている。
蛙は何も恩を返していない。
確かに蟹ははさみを持っていて、蛇を切り刻むことができるが、蛙が恩を返す話が、この日本霊異記に見えない。
しかし、昔話を検索すると蛙が恩返しをする話もある。
その話しが大概この姥皮と関連しているような話になっている。
まあどこまで理解出来るかは知らないが、面白く感じたので、ここに記録として残しておきたいと思う。
最後に、日本霊異記の要素が加わった話をもう一つ載せて置きます。
5、姥皮 山形県置賜地方の昔話 サイトは ⇒ こちら
むかしあったけど。
御伊勢さま詣りに行って来たど。
そうすっど、蛇ぁ蛙(びっき)飲むどこだけど。そしたら蛇さ、
「おれぁ娘三人持ったから、どれでも呉れっから、蛙可哀いいから、離して呉ろ」 て言うたど。
そうしたら蛙が離さっだもんだから、喜んで喜んで、こんどはぁ、 ピンピンて行ったど。
そうすっど、その蛇だごで…。三人の娘いた、どれでも呉れっからて言うた。
そしてこんどはええ男になって蛇は来たなだど。親父は、
「おれはこういうことになっていたから、にしゃだ、蛇のどこさ嫁(い)って呉ねが」
て願ったどこだ、子どもらさ。そしたら姉さんから始まり、
「そだな、蛇のおかたになっていられめぇちゃえ」
て、言って親父をはじいたど。二番目さ言うても、またはじいだって。三番目さなったら、
「ほんじゃら、おれ嫁(い)んから心配しねで、おどっつぁ、御飯(おまま)あがれ」
て、こう言うたど。そうしたところぁ、「ええ男だら、おれも行きたがった。おらも行きたがった」
て、姉どら二人言うたど。
「嫁に行いんから、針千本用意して呉ろ」
て言わっで、嫁に行ったど。そして山さ入るどこに、川あって、渡っど思ったら橋ないもんだから、蛇が、
「おれ、橋になるから…」
て言うたので、そこさ針千本撒いたど。
そしたらば蛇の体さ皆刺さったど。そしてそこで蛇死んでしまったど。
そうすっど娘は出はって行って見たらば、暗くなるもんだから、山の中さ入って行って、木の上さ登ったど。
寝るに寝らんねし、山の中だし、下に居っど恐っかねがら、木の股さ寝っだど。
そして夜中過ぎっど明るいものポカーッと出てきたど。そしたところが、
「お前のお父っつぁんに助けらっだ。おれ、蛙だ」
て、そしてその蛙が出たんだってよ。
「明るくなってから行くじど、泥棒の恐っかない者ばり居っから、この姥皮というもの呉っから、この姥皮というものかぶって、お年寄になって、ここの山降(お)ちて通って行げ」
て、こういう風に教えらっじゃそうだ。
そして蛙に姥皮というもの貰って、そいつかぶって行ったば、案の如く泥棒みたいな町はずれさ行ったらいたけど。
「なんだ。どっから来あがった。こがえ婆ぁ」
て、はねらっでしまったど。ええ女になって行くじど、そこさ行っておさえられるから、姥皮かぶって行ったわけだ。
そこからずうっと行ってるうちに、ある旦那衆さ、御飯炊きに入ったんだど。
そして御飯炊きに入ったらば、昼間姥皮かぶっていっから、年寄で釜の火焚きなどばりしったんだど。
夜さなっじど、ちゃんと姥皮はずして、きれいになって寝っかったど。
そこば旦那衆の息子見つけたごんだど。そしてそいつを嫁にもらわんなねて言うたば、
「あがな年寄なだたて、嫁にもらう…」
て、親たちとても反対したんだって。
んだげんども、夜さなっど、きれいにええ女になっているもんだから、ほだから、息子惚れこんでしまったてよはぁ。そして息子は惚れこんで大病になったてよ。
大病になっどお医者さまに、
「ただの病気でない、恋のわずらいだから、この薬呑ませた者を嫁にすらっさい」
て、こう言わっだってよ。
まず纂(さん)置きにそう聞いたから、下女を蔵の中さ一人一人に、てんでに薬あずけてやったということだ。
そうすっど誰のでも、「飲まね、飲まね」て飲まねなだど。そして一番しまいに、
「ほら、ばばだ。こんどばば持って行け。誰も飲む人いね。こんどはばばだごで」
て言うて、ばばどさ、あずけてやったらば、ばばの薬、つるっと飲んだずも。
そうしたら、みんな手ンばたきぶって笑ったずも。んだごで。
そんなばばの薬飲んだて、手ンばたきして笑ったど。
御祝儀のとき、こんどちゃんと用意して出はって来たれば、すばらしいええ女であったど。
そしてそこの旦那衆のお嫁さまになって、そこで暮したど。
とーびんと。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
でもまだまだ理解には達していません。
このまま続けても益々隘路にはまってしまうかもしれませんので、少し息抜きをしていきたいと思います。
前回、カエルの呼び方の話をしました。
地方によっては、「ビキ、ビッキ、ビキタン、バッケ・・・」などと呼ばれ 「ウバ」などと呼ばれる地域も存在するそうです。
また、「化けの皮」という言葉も気になります。どこから生まれた言葉なのか?
「化けの皮が剥がれる」「化けの皮を剥ぐ」などと使うが、表面的につくろっていた姿(皮をかぶっていた姿)から、その皮をはぎ取って本来の姿をあばく時などに使う。
どうもこれが昔話の「姥皮(ウバカワ)」と関係しているかもしれないというので、この昔話を調べてみました。
1)姥皮(ウバカワ) 山形県の昔話
日本昔話「姥皮」より YouTubeは ⇒ こちら
(あらすじ):<日本むかしばなしデータベースより抜粋>

村に日照りが続き、水が枯れてしまった。
そこに男がやってきて、雨を降らせてやる代わりに娘を嫁によこせと言う。
村人は承諾し、雨が降った。しかし、男は大蛇の化身であった。
村人は困り果てるが三人娘の末娘が自分が嫁にいくと言う。
末娘は千のひょうたんと千の針を持ち、大蛇の住む淵へ向った。
淵につくとひょうたんをすべて淵に浮かべ、大蛇に沈めてみせろと言う。
大蛇は奮闘するものの沈められず、やがて力つきて岸にのびてしまった。
娘はそこを蛇の嫌う鉄気である千の針で刺し、大蛇は死んでしまった。
体よく大蛇は討ったものの、嫁に行くといった以上帰る訳にもいかず、しばし山中を行くと、一軒の家があった。
そこにすむ老婆に次第を話すと、老婆は自分は実は件の淵の大ガマで、蛇に追い出されていたのだと喜んだ。
老婆はこれを被っていれば難は降りかからないと自分の「姥皮」(かぶると老婆の姿になる)を娘に授け、道を行った先に優しいお大尽の屋敷があるからそこへ行く様に勧めた。
お屋敷では見た目は老婆の娘を雇ってくれ、娘もよく働いた。
しかしある日、屋敷の若旦那が姥皮を脱いで髪を梳いていた娘を見てしまい、恋の病に伏してしまう。
やがて実は老婆がその娘だったことが知れ、二人は夫婦になった。
(ポイント)
ここで、この話しの気になるポイントは
(1) ガマの皮を被ると醜い老婆に変身する。何故(ガマ)カエルなのか?
(2) 大蛇の嫁になるということ
(3) このブログで「昔話について」と題して最初に書いた「蟹の恩返し」(記事は ⇒ こちら)との関連
こちらの話は、東北文教大学短期大学部民話研究センターの民話アーカイブとして「佐藤家の昔話(一)」にもう少し詳しく収録されています (⇒ こちら) こちらの方が元の話に近いと思われます。
2)姥つ皮(うばっかわ) 新潟県 (フジパン提供 ⇒ こちら)
むかし、あるところに、大層気だての良い娘がおったそうな。
娘の家は大変な分限者(ぶげんしゃ)での、娘は器量も良かったし、まるでお姫様のようにしておった。
じゃが、夢のような幸せも永くは続かないもんでのぉ、可哀そうに、母が、ふとした病で死んでしもうた。
しばらくたって継母(ままはは)が来だがの、この継母には、みにくい娘がいたんじゃ。
なもんで、継母は、器量の良い娘が憎(にく)くてたまらんようになった。
事あるごとにいじめてばかり。
父も、これを知っていたが、継母には何も言えんかった。
それで、可哀そうだが、この家においたんではこれからどうなるかも知れんと思ってな、お金を持たせて、家を出すことにしたんじゃ。
乳母(うば)もな、 「あなたは器量もいいから、よっぽど用心しなければ危ないことに出逢うかも知れんから」
と、言って、姥(うば)っ皮(かわ)という物をくれた。
娘は、それを被って、年をとった婆様(ばあさま)の姿になって家を出た。
こうして、娘はあちらこちらと歩いているうちに、ある商人の家の水くみ女に雇(やと)われることになったそうな。
娘はいつも姥っ皮を被って働いた。
風呂(ふろ)に入る時も、家中の者が入ったあとで入ることにしていたので、それを脱(ぬ)いでも誰にも見つけられんかった。
ある晩のこと。
娘がいつものように姥っ皮を脱いで風呂に入っていると、ふと若旦那が見つけてしまった。
さあ、それ以来若旦那は、一目(ひとめ)見た美しい娘のことが忘れられん。とうとう病気になってしまった。医者でも治(なお)らんのだと。大旦那が心配して占師に占ってもらった。
すると占師は、 「家の内に気に入った娘があるすけ、その娘を嫁にしたら、この病気はすぐに治ってしまうがな」、と言う。
大旦那はびっくりして家中の女という女を全部、若旦那の部屋へ行かせてみた。が、気に入った者はなかったんじゃと。
最後に、大旦那はまさかと思いながら、水汲み婆さんを若旦那の部屋へ連れて行った。
すると、若旦那はすぐに見破っての、姥っ皮をとってしまったんじゃ。
中から、それは美しい娘が現われたもんで、家じゅう大嬉びでの、 娘は、その家の嫁になって、いつまでも幸せに暮らしたそうな。
こんでちょっきり ひとむかし。
(ポイント)
(1) 姥(うば)と乳母(うば)が同じ発音なので、1)から変化した?
(2) 継母(ままはは)は乳母から連想されたものか?
(3) 御伽草子にある「はちかつぎ姫」やグリム童話のシンデレラ(灰かぶり姫)の話と同じ継子いじめの要素が強くなっている。
3)姥皮(うはかわ) 御伽草子(平安時代)
⇒ こちら より
御伽草子の「うはかわ」は私が持っている岩波文庫の御伽草子には載っていない。
そこでネットで捜してみた。元はほとんどひらがなばかりの文のようだ。
いくつかのサイトでこれを載せて、漢字交じりに変換したりしておられたが、上のリンク先 ブログ「円環伝承」のブログ記事より取らせてもらった。
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応永の頃のことであるが、尾張の国岩倉の里に、成瀬左衛門清宗と申す人がいたが、長年連れ添った妻は亡くなり、忘れ形見の姫君が一人あった。
その後、そうあるべきことであれば、姫君が十一の年、清宗はまた妻を設けた。
まもなく清宗は都へ仕事で上ることになったが、北の方に向かって言うことには、
「まだ姫は幼いのだから、とにもかくにも良く気遣って育てておくれ」と細々と指示して、都へ上っていった。
その後、継母がこの姫を憎むことに限りはなかった。
姫君が心に思うことと言えば「父御前がここにいたら、こうはならないのに」ということばかりで、明ければ父恋し、暮れれば亡き母恋しと、涙の乾く暇もなかったのである。
このように嘆いていればますます憎み、食事さえも与えなかったので、十二になった春の頃、姫君は岩倉の里を夜の闇に紛れて忍び出て、行く先はないけれども足に任せてさ迷っているうちに、甚目寺の観音堂に辿り着いた。
姫君は「これこそ、母上が常々参っておられた御仏だわ。
朝晩足を運んでおられたのは、私の将来について祈っていたのだと聞いているわ。
どうせもはや悪意を受けている身。母上のおられるところにすぐに行ってしまおう」
と思って、内陣の縁の下に人目を忍んで潜り込んだ。
「本当にね、大慈大悲に御誓願すれば、現世安穏、後生善処して護ってくださると聞いているわ。
私は、この世の望みは今更ないわ。後生(死後、来世)を助けたまえ」と、常々母上が教えておいてくれた観音経を、少しも休まずに読んだ。
三晩こもった夜明け、戸口に金色の光を放って、もったいなくも観世音菩薩が姫の枕元に立った。
「汝の母は、いつもここに足を運んでは姫の行く末を案じて祈っていたのに、このように迷うとは哀れなことよ。
汝の姿は世に類ないほど美しいのだから、どこかで人に襲われるだろう。これを着なさい」と言って、木の皮のようなものをくれた。
「これは、姥皮というものだ。これを着て、我が教える場所へ行きなさい。近江の国、佐々木民部隆清門前に立ちなさい」
と教えて、かき消すようにいなくなった。
さて姫君は、「それにしても有難いお告げだわ」と伏し拝んで、夜が明けると姥皮を着て縁の下から出た。
この様子を見た人は、「この婆さんは不気味な姿だな」と嘲笑った。
こうして姫君は、教えに従って近江の国へ上った。
不気味な姥の姿なので、野に寝ようが山に寝ようが、目を止める人もいなかった。
どうにか、さ迷ううちに佐々木民部隆清の家に着いて、門の側で休んで経文を唱えていた。
隆清の子に、佐々木十郎隆義といって、年は十九になる者がいたが、その時、門の辺りに佇んでいて、侍を呼んで言った。
「さても不思議なことがあるものよ。あの姥が経を読んでいるが、姿に似ずに声の美しさは迦陵頻(歌声が美しいとされる天上の半人半女)のようだ。中に呼び入れて、釜の火焚きをさせよ」
侍は承知して、「どうした姥よ。この屋敷にこのまま留まって、釜の火を焚け」と言ったところ、姫君は中に入って釜の火を焚いた。
そのうちに、頃は三月十日あまりになった。
南面の花園には様々な花が植えてある。散る桜があれば咲く花もあり、水際の柳は萌黄の糸を垂れ、夜更け頃に山の端に沈む月も、花の美しさと競い合っていた。
さて姫君は、夜更け、人が寝静まると花園に出て、月や花を眺めて、過去を恋しく思って、
月花の 色は昔に変はらねど 我が身一つぞ衰えにける
(月や花の色は変わらないのに、我が身だけは落ちぶれてしまいました)
とこのように詠じて佇んでいた。
一方、十郎隆義は詩歌・管弦の道にも明るく、優しい人であったので、沈む月を惜しんで花見の御所の御簾を高く巻き上げていたのだが、花園に怪しい人影があるのを見て太刀を押っ取り、忍び出てみると、火焚きの姥である。
「これは怪しいやつだ。どうしたことか」と思い、そっと窺った。
姫君は人が見ているとも知らないで、月の光に向かって、少し姥皮を脱いで、美しい顔だけを出して、またこのように
月一人 あはれとは見よ姥皮を いつの世にかは脱ぎて返さん
(月だけは哀れんで下さい、この『姥皮』に身をやつした私を。姥皮をいつの日にか脱いで返しましょう)
と詠むのを見ると、辺りも輝くほどの姫君である。
「これはどうしたことだ」と思い、もとより大剛の人であったので、持っている太刀の鍔を押し上げて、するすると近寄って、
「お前をこの間の火焚きの姥だと見ていたところ、そうではなく、美しい女房だ。
魔物であろう。逃がさんぞ」と怒鳴りつけた。
姫君は騒ぐ様子もなく、「お待ちを。落ち着いて下さい。私は魔物ではありません。
私の身の上をお話しいたします」とて、事の仔細をありのままに語った。
隆義はじっと聞いて、ならば観音の御利生であるなと手を合わせ、感動の涙を流した。
もとより、隆義は未だに奥方も娶っていなかったので、寝所の傍らは寂しく、独りで寝起きしていたのだが、姫君の手を引いて花見の御所に上がり、姥皮を脱がせて、火を灯して眺めると、全く上界の天人が天下りしたかと思えるもので、世に例えられるものがない。辺りも輝くばかりである。
隆義が 「さては、噂に聞く成瀬左衛門清宗なるせのさえもんのきよむねの姫でありますか。
突然に申すことではありますが、あなたも今は何かと苦しんでいるはず。
今からは私と夫婦の契りを結んで下さい」と、行く末の事までも事細かに話せば、
姫君は
「私ごとき落ちぶれ者にお言葉をかければ、ご両親のお咎めはどれほどのものでしょう。
いつまでも屋敷に召し置いてくだされば、この姥の姿で釜の火を焚きます」と言う。
隆義は
「このように出逢ってしまったのです。たとえ父母の不興を買う身になろうとも、野の末・山の奥までも、片時もあなたから離れまい」と、姫君の側に寄り伏して嘆いたところ、姫君も断りきれず、身を任せた。
かくして、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)の下で比翼の契りを結んだ。
その夜も次第に明けていくと、後朝(きぬぎぬ)の名残を惜しんで互いの涙は止まることがなかった。
既にもう夜は明け、下働きの者たちが起き出す音がするので、再び姥衣を引き被り、釜の火を焚きに出ようとしたが、隆義は姫の袖を引き止めて、このように詠んだ。
観音の 御置きたりし姥皮を 末頼もしく我や脱がせん
(観音様が置いていった姥皮を、末頼もしい思いで私は脱がせた)
姫君、返歌。
憂きことを 重ねて着たる姥皮を 君世になくば誰が脱がせん
(憂いごとを重ねて着ていた姥皮を、あなたがいなければ誰が脱がせることが出来たでしょうか)
このように詠じて、火を焚きに出て行ったのは、哀れなことであった。
そのうちに、隆義の父母は、かねてより定めていた通りに都の今出川の左大将殿の姫君を嫁に迎えようと、乳母めのとの宰相を使いにして手紙を送ってきて、都へ上るように伝えたところ、隆義はとやかくは言わないで、「父母の仰せに背くのは恐れ多いことですが、私はただ出家したいと思っております。このようなことはできません」と言う。
父母はこれを聞いて、「これはどうしたことか。とは言うものの、若い身の習いとて、想いを寄せる方がいるのかもしれない。詳しく訊ねよ」と、乳母の宰相に言った。
宰相は隆義を訪ねて、「ご両親にご心配をおかけするのも罪です。
若い身の習いとて、お心を寄せる方があっても無理はありません。
貴人の身の習いとて、賎しかろうと心の優れた者を召し上げて、奥方にもします。
このようなことは世間にあることなのですから、父母様もさしてお恨みいたしません」と、丁寧に語ったところ、隆義は聞き入れて、「今は何を隠そう。誰もが驚くことだが、この屋敷にいる釜の火を焚く姥を召し上げたいのだ」と言った。
宰相はこれを聞いて相当に呆れ果てて物も言わず、涙を流して走り帰り、父母にこのことを申したところ、「これは何としたことか。つまり我が子は気が狂ってしまったのか」とて、それぞれにうち伏して泣いたが、父、隆清はしばらくして「いやいやとにかく、火焚きの姥をこれからは嫁だと定めて、心を見よう」と言って、「然らば、明日は吉日なのだから、姥を召し上げて北の方に定めなさい」と使いを送ってきたので、隆義が狂喜することに限りはなかった。
急いで網代の輿を調えて、祝いの儀式は様々だった。
屋敷の人々は実に釈然としないことであったが、主命であるので、様々に準備を執り行った。
とうとうその日になれば、隆義は例の姥を召し上げて、自分の住んでいる所へ入れて、人に見せずに、二人一緒に着替えや化粧をした。
夜が明けると、被かずき衣を深々と被って、輿に乗って、母屋へと移った。
座敷まで輿で乗り付けて出てきたのを見れば、件くだんの姥のようではない。
これはどうしたことだと、見る人々も父母もポカンとした。
舅の隆清が、側近くに来た嫁を見てみると、この世の人のようではない。
天人か、菩薩が天下ったのか。これほどに美しい人は昔話にも聞いたことがない。
年の頃は十三か十四ほどに見える。鮮やかなる顔かんばせ。姿を絵に描こうとしても筆が及ぶだろうか。
言葉には、よもや出来ない。隆清夫婦は彼女を見て、驚き喜ぶことに限りがなかった。
その日の引き出物として、隆清は代を息子に譲った。このことは天下に知れ渡った。
帝がこれを聞いて、「さては観音のお引き合わせによって、隆義は妻を得たのだ。大変なことよ」とて、急いで隆義を召し上げて佐々木右兵衛督の位を与え、近江の国と越前の国を相添えて与えた。
その他にも所領を増やしていって、お目出度いことである。
その後、子供も沢山もうけて末長く繁栄した。
これは即ち、大慈大悲の御慈悲である。
この物語を読む人は、南無大悲観世音菩薩と、三遍唱えるようにすべし。
現世安穏、後生善処、疑いなし。
(ポイント)
(1) こちらの話は平安時代の仏教説話が元になっているように思われる。
(2) このころから「継母」にいじめられる話が入ってきたようだ。
(3) 姥皮はこの話しでは、カエルがかぶっているものではなく「木の皮のようなもの」となっている。
さて、姥皮(ウバカワ、ウバッカワ、ウハカワ)の話を3つ載せたが、それぞれ少しずつ違いがあるが、元の話はどこから来たものだろうか。
御伽草子は平安時代後半頃と思われるが、観音信仰がかなり色濃く出ている。
さて似た話しで「カエルの皮」(ガエルッカワ)という昔話が新潟にある。
4、カエルの皮(越後の昔話) ⇒ サイトはこちら
カエルの皮 ―高橋ハナ昔話集―
あったてんがな。あるどこにおっとさんとお嬢さんがあったてんがの。おっとさんが
「きょうは天気もいいし、花見にいってこうかな」
とようてお嬢さんを連れて行ったと。ほうしたら、でっこいヘビがカエルを飲もうとしているんだんが、お嬢様が
「かわいげらねか。カエルがヘビに飲まれるが」
とようたれば、おっとさんが
「ヘッビ、ヘッビ、んな(おまえ)、そのカエルはなしてやれば、この娘を嫁にやるが」
といわしゃったと。ほうしると、ヘビは、くわえていたカエル放したと。かえるは、喜んでギクシャクしながら逃げていったと。
おっとさんは、
「はあてまあ、おら娘を嫁にくれるなんてようてしまったが、おおごとら」
ほうして、二、三日もめいたれば、いつかの男が来て、「おらこないだカエルを飲もうとした時のヘッビだが、お嬢さんを嫁にくれるとようたすけ、約束通り今日は、もらいにきた」
とようたと。おっとさんは困ってしもうて、
「娘、娘、おれがほんとうにようたがらすけ、仕方がない。ヘビのどこへ嫁にいってくれ」
とようたと。娘も承知して、おっとさんから針千本買ってもらって、男のあとへくっついていった。ほうして広い池へ出ると、男が
「おれここに先入るが、おまえ、おれの後からついて入ってこい」
というて飛び込んだと。その時娘は、針千本を池の中に投げ込んだ。ヘビはその針飲み込んで死んでしもうたと。
ほうして、日もくれるし、家にも帰らんないし、困っていると、向こうから、年寄りのばさが来て
「お嬢様、お嬢様、私はおまえさんに助けられたカエルだ。今夜おらどこへ一晩、泊まっていってくれ」
とようて泊めてくれたと。
翌朝になったら、ばさが
「おまえのようなきれいな子は、道中に悪者がいてあぶないすけ、おれがカエルの皮をやる。これを着れば、年寄りのきったねばさになる」
とようてカエルの皮をくれたと。お嬢様は、その皮を着てズンズン行くと、道端に山賊(さんぞく)がいて
「きったなげのばさがきた」
とようて、棒の先に引っかけて投げたら、ばさはだんな様の家の軒端に落ちたと。それをおんなごが見て、
「奥さん、奥さん、きったなげのばさが軒端にやってきました」
とようと、奥さんは、
「かわいそうだすけ、家に入れてやれ」
とようてその家で火たきばさに使ってやったと。
ある日、若だんな様が、夜遊びにいって、帰っでくると、ばさの部屋で明りが見えるんだんが、
「ばさが何しているのだろう」
と思ってのぞいてみると、ばさは、カエルの皮を脱いできれいなあねさになって、ろうそくの灯で勉強しているてんがの。若だんな様は、それから病気になってしもうて寝ていたと。家のショが、あの医者、この医者とたのんでくるろも若だんなのあんばいはえーて(なかなか)治らんかったと。占いがきて
「これは若だんなに好きな女の人があって、それを嫁に欲しいがだすけに聞いてみるがよい」
とようたと。ほうしるんだんが、おっとさんもおっかさんも若だんなに
「だっか(だれか)嫁に欲しい人があるか」
と聞くろも、なんともいわんがだと。仕方がねい村中の年ごろの娘いんな寄せて、若だんなのとこへやってみようとようことになって、一人ずつ
「あん様、湯でも茶でもやろかい」
とようて行くども、布団にもぐって返事もしねいと。あとのこりは火たきばさばっかになってしもうたと。
「ほんね、もうひとり火たきばさが残っていらや」
とようでばさが行くことになったと。ばさは二階に上がって、カエルの皮を脱いで、きれいなお嬢さんになって降りてきて、
「あん様、湯でも茶でもやろうかい」
とようたれば、若だんながきて
「湯でも茶でもくれ」
とようて起きてきたてんがね。
おっとさんもおっかさんも
「これが家の嫁だ」
と喜んだと。ほうして、お嬢さんを嫁にして一生仲良く暮らしたと。それでいきがきれた。
ここでは、「姥皮」という名称は無くなり、「カエルの皮」との表現に置き換わっている。
以上4つの話を紹介したが、これ以外に似た話は各地に多い。
福島県三島の昔話には「姥皮(おっぱの皮).」などと呼ばれている。
しかし、以前平安時代の仏教説話ばなしを見ると、日本霊異記(中)より、蟹の恩返しの話をした。(こちら)
この中で、第十二 に「蟹と蛙を買い取って放してやり、この世で蟹に助けられた話」 というのがある。
捕まってかわいそうになった蟹と、蛇に飲まれそうになった蛙をそれぞれ別々に助けて逃がすのだが、この蛇をやっつけて恩を返すのは「蟹」の役目になっている。
蛙は何も恩を返していない。
確かに蟹ははさみを持っていて、蛇を切り刻むことができるが、蛙が恩を返す話が、この日本霊異記に見えない。
しかし、昔話を検索すると蛙が恩返しをする話もある。
その話しが大概この姥皮と関連しているような話になっている。
まあどこまで理解出来るかは知らないが、面白く感じたので、ここに記録として残しておきたいと思う。
最後に、日本霊異記の要素が加わった話をもう一つ載せて置きます。
5、姥皮 山形県置賜地方の昔話 サイトは ⇒ こちら
むかしあったけど。
御伊勢さま詣りに行って来たど。
そうすっど、蛇ぁ蛙(びっき)飲むどこだけど。そしたら蛇さ、
「おれぁ娘三人持ったから、どれでも呉れっから、蛙可哀いいから、離して呉ろ」 て言うたど。
そうしたら蛙が離さっだもんだから、喜んで喜んで、こんどはぁ、 ピンピンて行ったど。
そうすっど、その蛇だごで…。三人の娘いた、どれでも呉れっからて言うた。
そしてこんどはええ男になって蛇は来たなだど。親父は、
「おれはこういうことになっていたから、にしゃだ、蛇のどこさ嫁(い)って呉ねが」
て願ったどこだ、子どもらさ。そしたら姉さんから始まり、
「そだな、蛇のおかたになっていられめぇちゃえ」
て、言って親父をはじいたど。二番目さ言うても、またはじいだって。三番目さなったら、
「ほんじゃら、おれ嫁(い)んから心配しねで、おどっつぁ、御飯(おまま)あがれ」
て、こう言うたど。そうしたところぁ、「ええ男だら、おれも行きたがった。おらも行きたがった」
て、姉どら二人言うたど。
「嫁に行いんから、針千本用意して呉ろ」
て言わっで、嫁に行ったど。そして山さ入るどこに、川あって、渡っど思ったら橋ないもんだから、蛇が、
「おれ、橋になるから…」
て言うたので、そこさ針千本撒いたど。
そしたらば蛇の体さ皆刺さったど。そしてそこで蛇死んでしまったど。
そうすっど娘は出はって行って見たらば、暗くなるもんだから、山の中さ入って行って、木の上さ登ったど。
寝るに寝らんねし、山の中だし、下に居っど恐っかねがら、木の股さ寝っだど。
そして夜中過ぎっど明るいものポカーッと出てきたど。そしたところが、
「お前のお父っつぁんに助けらっだ。おれ、蛙だ」
て、そしてその蛙が出たんだってよ。
「明るくなってから行くじど、泥棒の恐っかない者ばり居っから、この姥皮というもの呉っから、この姥皮というものかぶって、お年寄になって、ここの山降(お)ちて通って行げ」
て、こういう風に教えらっじゃそうだ。
そして蛙に姥皮というもの貰って、そいつかぶって行ったば、案の如く泥棒みたいな町はずれさ行ったらいたけど。
「なんだ。どっから来あがった。こがえ婆ぁ」
て、はねらっでしまったど。ええ女になって行くじど、そこさ行っておさえられるから、姥皮かぶって行ったわけだ。
そこからずうっと行ってるうちに、ある旦那衆さ、御飯炊きに入ったんだど。
そして御飯炊きに入ったらば、昼間姥皮かぶっていっから、年寄で釜の火焚きなどばりしったんだど。
夜さなっじど、ちゃんと姥皮はずして、きれいになって寝っかったど。
そこば旦那衆の息子見つけたごんだど。そしてそいつを嫁にもらわんなねて言うたば、
「あがな年寄なだたて、嫁にもらう…」
て、親たちとても反対したんだって。
んだげんども、夜さなっど、きれいにええ女になっているもんだから、ほだから、息子惚れこんでしまったてよはぁ。そして息子は惚れこんで大病になったてよ。
大病になっどお医者さまに、
「ただの病気でない、恋のわずらいだから、この薬呑ませた者を嫁にすらっさい」
て、こう言わっだってよ。
まず纂(さん)置きにそう聞いたから、下女を蔵の中さ一人一人に、てんでに薬あずけてやったということだ。
そうすっど誰のでも、「飲まね、飲まね」て飲まねなだど。そして一番しまいに、
「ほら、ばばだ。こんどばば持って行け。誰も飲む人いね。こんどはばばだごで」
て言うて、ばばどさ、あずけてやったらば、ばばの薬、つるっと飲んだずも。
そうしたら、みんな手ンばたきぶって笑ったずも。んだごで。
そんなばばの薬飲んだて、手ンばたきして笑ったど。
御祝儀のとき、こんどちゃんと用意して出はって来たれば、すばらしいええ女であったど。
そしてそこの旦那衆のお嫁さまになって、そこで暮したど。
とーびんと。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
日本語と縄文語(8) かっぱ(河童)
さて、今回は伝説の生き物「カッパ 河童」についてです。
各地の川や沼に棲む頭にお皿のあるカッパですが、最近は結構かわいらしい姿で描かれることが多いのですが、結構昔は怪物、妖怪と言った姿で描かれることも多くあったようです。
現在このカッパの語源については、古語辞典などに記載されており、
「河(かは)に棲む 童(わらは)」 で 【かはわらは:kahawaraha】が 【かわわっぱ】となり【kappa かっぱ】となった。
というように記載されています。
まあ、カッパを漢字で「河童」と書くことそのままですね。
でも「かはわらは」との言葉は言いにくいですね。 この伝説の妖怪に付けた呼び名としては少し変な気もします。

(銚子 大内かっぱハウスより)
そこで、アイヌ語から推察してみます。
アイヌ語で【カワウソ】のことを地方によっていくつか呼び名があるようですが、【sapa-kapke-kur サパカプケクル】(sapa(頭)kapke(はげている)kur(神))と いうのがあります。これは少し馬鹿にしたときなどにも呼ぶようです。
【ka 上+pもの = kap 皮】であり、 日本語の皮(kaha)もこのアイヌ語から来ていると思われます。
また白樺(しらかば)の「樺(kaba)」もやはり「皮」を意味すると思われます。
地方によっては桜の木の皮を「カンバ」と呼ぶ地域があります。
いっぽうカッパは【kap 皮 + pa 頭】 で【kappa カッパ】となり、「カッパ頭」であり、上に書いた「カワウソ」と同じ意味になる。
昔、薄暗い時刻に川や沼で水面からツルツル頭のカワウソが頭をだし、またもぐったりしているのを見たことから伝説の「河童」が生まれたとしても何も不思議ではない。
対馬ではカワウソのことを「ガッパ」と呼ぶ。また岩手、宮城、茨城稲敷、新潟頚城、長野安曇ではハゲ頭を「ハンバ」という。
古語辞典には「かぶろ(禿)はカミ(髪)が ウロ(疎) であること」で 「カムロが転訛した」となっていますが、禿げ(ハゲ)の髪はまばらではなくツルツル状態ではないのか?
【kap 皮】+【ru 頭髪】 で髪がなく皮だけの頭ということと考えるとこの「カプロ」も説明が付くという。
ここではこんな考えもあるということ・・・・・・くらいに考えておきましょう。
実はカッパは昔話にはとても多く登場します。
また、呼び名も地方により異なります。
・ 九州では【セコ】とか【ヒョウスベ】、熊本では【ガワッパ】
・ 土佐(高知)では【エンコ】
・ 近畿・中部地方では【ガタロ】
・ 北陸では【ガメ】
・ 北東北では【メドチ】
など
アイヌ語にもいろいろな呼び名がありますが、ごく一般的な呼び名は【mintuci ミントゥチ】といいます。
北東北の「メドチ」と語源は共通のようです。
アイヌ語には他に「シリサマイヌ(山側の人)」とか「オソイネプ(他から来たもの)」という言葉もありますが、この【mintuci ミントゥチ】は意味を解することができないため、日本語のミヅチ、メドチなどからの借用語ではないかなどとも言われています。
また良く使われる神話などに登場する「みずち(古訓 みつち) 蛟」は竜や蛇の類に近い水に関する伝説上の水神と考えられています。
この蛟(みずち)は日本書紀にも登場します。(Wikipediaより抜粋します)
『日本書紀』の巻十一〈仁徳天皇紀〉の67年(西暦379年)
吉備の中つ国の川嶋河(一説に現今岡山県の高梁川の古名)の分岐点の淵に、大虬(ミツチ)が住みつき、毒を吐いて道行く人を毒気で侵したり殺したりしていた。
そこに県守(あがたもり)という名で、笠臣(かさのおみ、笠国造)の祖にあたる男が淵までやってきて、瓠(ヒサゴ)(瓢箪)を三つ浮かべ、大虬にむかって、そのヒサゴを沈めてみせよと挑戦し、もし出来れば撤退するが、出来ねば斬って成敗すると豪語した。
すると魔物は鹿に化けてヒサゴを沈めようとしたがかなわず、男はこれを切り捨てた。
さらに、淵の底の洞穴にひそむその類族を悉く斬りはらったので、淵は鮮血に染まり、以後、そこは「県守淵(あがたもりのふち)」と呼ばれるようになったという』
民俗学としても昔からいろいろ取り上げられています。
南方熊楠は、わが邦でも水辺に住んで人に怖れらるる諸蛇を水の主というほどの意〔こころ〕でミヅチと呼んだらしい(『十二支考・蛇』)としているそうです。
河童もこのあたりから変化して想像され、作り上げられたものかもしれません。
茨城県利根町には、蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)(みづちじんじゃ)があります。
私も5~6年前に訪れました。その時の記事は
1 )蛟蝄神社(門の宮) ⇒ こちら
2) 蛟蝄神社(奥の宮) ⇒ こちら
さて、話は変わりますが、簡単にできることを「屁の河童(へのかっぱ)」と言いますが、こちらの語源は
「木っ端の火(こっぱのひ)」が「河童の屁」となり、順番が入れ替わって「屁の河童」となったもののようです。
「木っ端(こっぱ)」は火をつける時などの最初に使う小さな木の端や削りカスのようなもので、火をつけるとすぐに燃えるものから簡単に火が付くことに由来した言葉です。
もう一つキュウリのことを「カッパ」といいますが、こちらは
「河童の好物が「キュウリ」だからとか、河童の総本家ともいう『水天宮』の紋章が河童の頭の形に似ており、これがキュウリの切り口と似ているから」などと言われていますが、どうでしょう。
また、雨具のカッパはポルトガル語の「capa」から来ているようです。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
各地の川や沼に棲む頭にお皿のあるカッパですが、最近は結構かわいらしい姿で描かれることが多いのですが、結構昔は怪物、妖怪と言った姿で描かれることも多くあったようです。
現在このカッパの語源については、古語辞典などに記載されており、
「河(かは)に棲む 童(わらは)」 で 【かはわらは:kahawaraha】が 【かわわっぱ】となり【kappa かっぱ】となった。
というように記載されています。
まあ、カッパを漢字で「河童」と書くことそのままですね。
でも「かはわらは」との言葉は言いにくいですね。 この伝説の妖怪に付けた呼び名としては少し変な気もします。

(銚子 大内かっぱハウスより)
そこで、アイヌ語から推察してみます。
アイヌ語で【カワウソ】のことを地方によっていくつか呼び名があるようですが、【sapa-kapke-kur サパカプケクル】(sapa(頭)kapke(はげている)kur(神))と いうのがあります。これは少し馬鹿にしたときなどにも呼ぶようです。
【ka 上+pもの = kap 皮】であり、 日本語の皮(kaha)もこのアイヌ語から来ていると思われます。
また白樺(しらかば)の「樺(kaba)」もやはり「皮」を意味すると思われます。
地方によっては桜の木の皮を「カンバ」と呼ぶ地域があります。
いっぽうカッパは【kap 皮 + pa 頭】 で【kappa カッパ】となり、「カッパ頭」であり、上に書いた「カワウソ」と同じ意味になる。
昔、薄暗い時刻に川や沼で水面からツルツル頭のカワウソが頭をだし、またもぐったりしているのを見たことから伝説の「河童」が生まれたとしても何も不思議ではない。
対馬ではカワウソのことを「ガッパ」と呼ぶ。また岩手、宮城、茨城稲敷、新潟頚城、長野安曇ではハゲ頭を「ハンバ」という。
古語辞典には「かぶろ(禿)はカミ(髪)が ウロ(疎) であること」で 「カムロが転訛した」となっていますが、禿げ(ハゲ)の髪はまばらではなくツルツル状態ではないのか?
【kap 皮】+【ru 頭髪】 で髪がなく皮だけの頭ということと考えるとこの「カプロ」も説明が付くという。
ここではこんな考えもあるということ・・・・・・くらいに考えておきましょう。
実はカッパは昔話にはとても多く登場します。
また、呼び名も地方により異なります。
・ 九州では【セコ】とか【ヒョウスベ】、熊本では【ガワッパ】
・ 土佐(高知)では【エンコ】
・ 近畿・中部地方では【ガタロ】
・ 北陸では【ガメ】
・ 北東北では【メドチ】
など
アイヌ語にもいろいろな呼び名がありますが、ごく一般的な呼び名は【mintuci ミントゥチ】といいます。
北東北の「メドチ」と語源は共通のようです。
アイヌ語には他に「シリサマイヌ(山側の人)」とか「オソイネプ(他から来たもの)」という言葉もありますが、この【mintuci ミントゥチ】は意味を解することができないため、日本語のミヅチ、メドチなどからの借用語ではないかなどとも言われています。
また良く使われる神話などに登場する「みずち(古訓 みつち) 蛟」は竜や蛇の類に近い水に関する伝説上の水神と考えられています。
この蛟(みずち)は日本書紀にも登場します。(Wikipediaより抜粋します)
『日本書紀』の巻十一〈仁徳天皇紀〉の67年(西暦379年)
吉備の中つ国の川嶋河(一説に現今岡山県の高梁川の古名)の分岐点の淵に、大虬(ミツチ)が住みつき、毒を吐いて道行く人を毒気で侵したり殺したりしていた。
そこに県守(あがたもり)という名で、笠臣(かさのおみ、笠国造)の祖にあたる男が淵までやってきて、瓠(ヒサゴ)(瓢箪)を三つ浮かべ、大虬にむかって、そのヒサゴを沈めてみせよと挑戦し、もし出来れば撤退するが、出来ねば斬って成敗すると豪語した。
すると魔物は鹿に化けてヒサゴを沈めようとしたがかなわず、男はこれを切り捨てた。
さらに、淵の底の洞穴にひそむその類族を悉く斬りはらったので、淵は鮮血に染まり、以後、そこは「県守淵(あがたもりのふち)」と呼ばれるようになったという』
民俗学としても昔からいろいろ取り上げられています。
南方熊楠は、わが邦でも水辺に住んで人に怖れらるる諸蛇を水の主というほどの意〔こころ〕でミヅチと呼んだらしい(『十二支考・蛇』)としているそうです。
河童もこのあたりから変化して想像され、作り上げられたものかもしれません。
茨城県利根町には、蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)(みづちじんじゃ)があります。
私も5~6年前に訪れました。その時の記事は
1 )蛟蝄神社(門の宮) ⇒ こちら
2) 蛟蝄神社(奥の宮) ⇒ こちら
さて、話は変わりますが、簡単にできることを「屁の河童(へのかっぱ)」と言いますが、こちらの語源は
「木っ端の火(こっぱのひ)」が「河童の屁」となり、順番が入れ替わって「屁の河童」となったもののようです。
「木っ端(こっぱ)」は火をつける時などの最初に使う小さな木の端や削りカスのようなもので、火をつけるとすぐに燃えるものから簡単に火が付くことに由来した言葉です。
もう一つキュウリのことを「カッパ」といいますが、こちらは
「河童の好物が「キュウリ」だからとか、河童の総本家ともいう『水天宮』の紋章が河童の頭の形に似ており、これがキュウリの切り口と似ているから」などと言われていますが、どうでしょう。
また、雨具のカッパはポルトガル語の「capa」から来ているようです。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
日本語と縄文語(9) 紅(くれない)と鬼無里(きなさ)
今回はアイヌ語から縄文語を探してみたいと思います。
アイヌ語については「アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ(こちら)から探してみます。
ただし、こちらのアイヌ民族博物館(北海道白老町)は昨年秋にいったん閉園となりましたが、この5月末にアイヌ文化発信拠点として再オープン予定です。
アイヌ語の資料検索などのHPは現在も利用可能です。
では日本語で「赤い」と検索してみます。
húre フレ 赤い
húreno フレノ とても赤い、 まっ赤である
etuhure あかはな(赤鼻)etu-hure〔e-tú-Fu-reエとぅフレ〕[etu(鼻)+hure(赤い)]
などと出てくる。
そこでこの 赤い=hure フレから思いつくのは「クレナイ=紅」である。
1、【紅(くれない)】 : 【hure 赤い 赤くなる】+【ay イラクサ、矢、トゲ】
クレアイ ⇒ クレナイ

(紅花=ベニバナ=末摘花=クレナイ=紅藍)
【kurenawi クレナヰ】 : 葉の先に強いトゲ(ay)がある植物で、夏にアザミに似た紅色の花が咲く。
それを摘んで染料とした。
万葉集には「末摘花(すえつむはな)」と呼び、源氏物語にも鼻の赤い鼻摘まみ女として出てくる。
しかし、この末摘花は一般に「紅花 べにばな」と呼ばれ、山形県の特産になっている。
山形県に紅花が入ってきたのは古く、エジプト・地中海からシルクロードを経て、飛鳥時代に山形へ渡ってきたと言われています。
また、朝鮮半島から紅染技術を伴って日本に伝来したとも言われています。
この紅花のことを「クレナイ」とも言っているのです。
この染料の出す紅色も「クレナイ」なのです。
そのクレナイの言葉がアイヌ語から理解できるのですから縄文語なのでしょう。
クレナイが 【hure 赤い 赤くなる】+【ay イラクサ、矢、トゲ】であるというのは、平安時代の辞書である和名抄には「紅藍」があり、紅藍(呉藍)の読みは「久礼之阿井 クレノアイ」となっています。
紅(べに)のことを「クレ」と読むのはこのように現在のアイヌ語の 【hure フレ 赤い】 から説明ができるのです。
その他に 【hure 赤い】が語源と思われる言葉には、【熟れる、熟して赤くなる】・・・ureる はhureのhがとれたものと考えれれます。
満州語で赤をfulaといい、ホウセンカ(鳳仙花)を福島、山口、九州では「ツマグレ」という。
これはホウセンカの赤い花びらで爪を紅く染めるためだ。
また、新潟古志郡、大分北海部では「ツマクレナイ」という。
黒く染めるのは島根鹿足、九州などでは「ツマグロ」という。
また各地の地名で「丹生(にう)」という地名があります。
この説明には紅い染料となった鉱物が採れた所とあります。
山形県丹生川の上流に「紅内(くれない)」という地名があり、これは
【hure 紅い】+【nay 川】で紅い川となり、丹生川の古名(縄文語)であった可能性があります。
さて、この「日本語になった縄文語」の本にもうひとつ面白いことが書かれていました。
それは、長野県戸隠の「鬼無里(キナサ)」の地名由来です。
水芭蕉の里として有名になっていますが、ここに謡曲や能の「紅葉狩」の話として伝わっています。
<紅葉伝説(もみじでんせつ)> wikipedia より
937年(承平7年)のこと、 子供に恵まれなかった会津の夫婦(笹丸・菊世)が 第六天の魔王に祈った甲斐があり、 女児を得、呉葉(くれは)と名付けた。
才色兼備の呉葉は豪農の息子に強引に結婚を迫られた。
呉葉は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、 これを身代わりに結婚させた。
偽呉葉と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、 ある日偽呉葉は糸の雲に乗って消え、 その時既に呉葉の家族も逃亡していた。
呉葉と両親は京に上った。
ここでは呉葉(くれは)は紅葉(もみじ)と名乗り、 初め琴を教えていたが、源経基の目にとまり、 腰元となりやがて局となった。
紅葉は経基の子供を妊娠するが、 その頃御台所が懸かっていた病の原因が 紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、 結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。
956年(天暦10年)秋、まさに紅葉の時期に、 紅葉は水無瀬(鬼無里)に辿り着いた。
経基の子を宿し京の文物に通じ、 しかも美人である紅葉は村びと達に尊ばれはしたものの、 やはり恋しいのは都の暮らしである。
経基に因んで息子に経若丸と名付け、 また村びとも村の各所に京にゆかりの地名を付けた。
これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。
だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。
このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、 一党を率いて戸隠山に籠り、 夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。
この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。
ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、 笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、 紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあう。 かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参る事17日、 ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。
今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、 流石の紅葉も敗れ、 維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。
呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。
この話しから「鬼のいない里=鬼無里(きなさ)」という地名になったというものだ。
ここで、注目すべきは紅葉(もみじ)=呉葉(くれは 幼少名)で、上に書いた「紅藍=呉藍(クレアイ、クレノアイ)」に通じるのだ。
また読みの【キナサ】 = 【kina 草】+【sar 湿原】ではないかというのだ。
また鬼無(キナシ)=【kina 草】+【us ~が群生する】+【i 所】 からこの字が充てられたのではないかという。
佐渡では草のことを「キナ」と呼ぶそうだ。
このキナというのは 良く焦げたときに「キナくさい」と使う。
現在の国語辞典などを引いても「きな=布」などの意味は出てくるが、「きな臭い」は「布や紙が燃える時の匂い」ではないかということも言われるようだが正確にはわかっていない。
もしこの語源が縄文語で「キナ=草」であるということも可能性があるだろう。
なかなか今まで地名の説明が良くできていないところを、かなり調べて解読されている。
これがすべて正解ともいえないが、言語学で解明できていない言葉の一つの解釈としては、この縄文語説もかなりユニークで説得力もあると思う。

奥裾花自然園の水芭蕉
(鬼無里観光振興会)
水芭蕉の白い根は熊の好物と言われている。
そのため、アイヌ語で【水芭蕉=iso・kina 熊の草】という。
現在一般的に使われる「紅葉狩り(もみじがり)」が、裏にこのような紅葉=鬼 を狩った話が潜んでいるとすれば少し怖い。
ただ一般的には 昔の貴族が鷹狩りなどで、動物を狩ったものから、次第に獲物を狩ることがなくなり、柿狩り、梨狩り、イチゴ狩りなどの果物を狩るようになったというのと同義で、紅葉を狩るわけではないが愛でて楽しむ意味で使われ出したというようだ。
ただそれまでもこの鬼女=紅葉 を狩るという「紅葉狩り」の言葉は歌舞伎などを通じて広まっており、言葉は人々の中に親しまれた言葉だったと思われる。
最近の若者世代の中に、紅葉狩りを紅葉の葉をたくさん採るような意味にとらえる人も出始めたそうだ。
これもまた怖い。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
アイヌ語については「アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ(こちら)から探してみます。
ただし、こちらのアイヌ民族博物館(北海道白老町)は昨年秋にいったん閉園となりましたが、この5月末にアイヌ文化発信拠点として再オープン予定です。
アイヌ語の資料検索などのHPは現在も利用可能です。
では日本語で「赤い」と検索してみます。
húre フレ 赤い
húreno フレノ とても赤い、 まっ赤である
etuhure あかはな(赤鼻)etu-hure〔e-tú-Fu-reエとぅフレ〕[etu(鼻)+hure(赤い)]
などと出てくる。
そこでこの 赤い=hure フレから思いつくのは「クレナイ=紅」である。
1、【紅(くれない)】 : 【hure 赤い 赤くなる】+【ay イラクサ、矢、トゲ】
クレアイ ⇒ クレナイ

(紅花=ベニバナ=末摘花=クレナイ=紅藍)
【kurenawi クレナヰ】 : 葉の先に強いトゲ(ay)がある植物で、夏にアザミに似た紅色の花が咲く。
それを摘んで染料とした。
万葉集には「末摘花(すえつむはな)」と呼び、源氏物語にも鼻の赤い鼻摘まみ女として出てくる。
しかし、この末摘花は一般に「紅花 べにばな」と呼ばれ、山形県の特産になっている。
山形県に紅花が入ってきたのは古く、エジプト・地中海からシルクロードを経て、飛鳥時代に山形へ渡ってきたと言われています。
また、朝鮮半島から紅染技術を伴って日本に伝来したとも言われています。
この紅花のことを「クレナイ」とも言っているのです。
この染料の出す紅色も「クレナイ」なのです。
そのクレナイの言葉がアイヌ語から理解できるのですから縄文語なのでしょう。
クレナイが 【hure 赤い 赤くなる】+【ay イラクサ、矢、トゲ】であるというのは、平安時代の辞書である和名抄には「紅藍」があり、紅藍(呉藍)の読みは「久礼之阿井 クレノアイ」となっています。
紅(べに)のことを「クレ」と読むのはこのように現在のアイヌ語の 【hure フレ 赤い】 から説明ができるのです。
その他に 【hure 赤い】が語源と思われる言葉には、【熟れる、熟して赤くなる】・・・ureる はhureのhがとれたものと考えれれます。
満州語で赤をfulaといい、ホウセンカ(鳳仙花)を福島、山口、九州では「ツマグレ」という。
これはホウセンカの赤い花びらで爪を紅く染めるためだ。
また、新潟古志郡、大分北海部では「ツマクレナイ」という。
黒く染めるのは島根鹿足、九州などでは「ツマグロ」という。
また各地の地名で「丹生(にう)」という地名があります。
この説明には紅い染料となった鉱物が採れた所とあります。
山形県丹生川の上流に「紅内(くれない)」という地名があり、これは
【hure 紅い】+【nay 川】で紅い川となり、丹生川の古名(縄文語)であった可能性があります。
さて、この「日本語になった縄文語」の本にもうひとつ面白いことが書かれていました。
それは、長野県戸隠の「鬼無里(キナサ)」の地名由来です。
水芭蕉の里として有名になっていますが、ここに謡曲や能の「紅葉狩」の話として伝わっています。
<紅葉伝説(もみじでんせつ)> wikipedia より
937年(承平7年)のこと、 子供に恵まれなかった会津の夫婦(笹丸・菊世)が 第六天の魔王に祈った甲斐があり、 女児を得、呉葉(くれは)と名付けた。
才色兼備の呉葉は豪農の息子に強引に結婚を迫られた。
呉葉は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、 これを身代わりに結婚させた。
偽呉葉と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、 ある日偽呉葉は糸の雲に乗って消え、 その時既に呉葉の家族も逃亡していた。
呉葉と両親は京に上った。
ここでは呉葉(くれは)は紅葉(もみじ)と名乗り、 初め琴を教えていたが、源経基の目にとまり、 腰元となりやがて局となった。
紅葉は経基の子供を妊娠するが、 その頃御台所が懸かっていた病の原因が 紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、 結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。
956年(天暦10年)秋、まさに紅葉の時期に、 紅葉は水無瀬(鬼無里)に辿り着いた。
経基の子を宿し京の文物に通じ、 しかも美人である紅葉は村びと達に尊ばれはしたものの、 やはり恋しいのは都の暮らしである。
経基に因んで息子に経若丸と名付け、 また村びとも村の各所に京にゆかりの地名を付けた。
これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。
だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。
このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、 一党を率いて戸隠山に籠り、 夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。
この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。
ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、 笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、 紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあう。 かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参る事17日、 ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。
今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、 流石の紅葉も敗れ、 維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。
呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。
この話しから「鬼のいない里=鬼無里(きなさ)」という地名になったというものだ。
ここで、注目すべきは紅葉(もみじ)=呉葉(くれは 幼少名)で、上に書いた「紅藍=呉藍(クレアイ、クレノアイ)」に通じるのだ。
また読みの【キナサ】 = 【kina 草】+【sar 湿原】ではないかというのだ。
また鬼無(キナシ)=【kina 草】+【us ~が群生する】+【i 所】 からこの字が充てられたのではないかという。
佐渡では草のことを「キナ」と呼ぶそうだ。
このキナというのは 良く焦げたときに「キナくさい」と使う。
現在の国語辞典などを引いても「きな=布」などの意味は出てくるが、「きな臭い」は「布や紙が燃える時の匂い」ではないかということも言われるようだが正確にはわかっていない。
もしこの語源が縄文語で「キナ=草」であるということも可能性があるだろう。
なかなか今まで地名の説明が良くできていないところを、かなり調べて解読されている。
これがすべて正解ともいえないが、言語学で解明できていない言葉の一つの解釈としては、この縄文語説もかなりユニークで説得力もあると思う。

奥裾花自然園の水芭蕉
(鬼無里観光振興会)
水芭蕉の白い根は熊の好物と言われている。
そのため、アイヌ語で【水芭蕉=iso・kina 熊の草】という。
現在一般的に使われる「紅葉狩り(もみじがり)」が、裏にこのような紅葉=鬼 を狩った話が潜んでいるとすれば少し怖い。
ただ一般的には 昔の貴族が鷹狩りなどで、動物を狩ったものから、次第に獲物を狩ることがなくなり、柿狩り、梨狩り、イチゴ狩りなどの果物を狩るようになったというのと同義で、紅葉を狩るわけではないが愛でて楽しむ意味で使われ出したというようだ。
ただそれまでもこの鬼女=紅葉 を狩るという「紅葉狩り」の言葉は歌舞伎などを通じて広まっており、言葉は人々の中に親しまれた言葉だったと思われる。
最近の若者世代の中に、紅葉狩りを紅葉の葉をたくさん採るような意味にとらえる人も出始めたそうだ。
これもまた怖い。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから