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日本語と縄文語(25) つくば

「筑波 つくは」の名前の謂れは、古いものとしては常陸国風土記に書かれています。

それによれば、
「古老のいへらく、筑波(つくは)の県(あがた)は、古、紀の国(きのくに)と謂ひき。美万貴の天皇(崇神天皇)のみ世、采女臣の友属、筑箪命(つくはのみこと)を紀の国の国造に遣はしき。時に筑箪命いひしく、「身が名をば国に着けて、後の世に流伝へしめむと欲ふ」といひて、即ち、本の号を改めて、更に筑波(つくは)と称ふといへり」
となっています。

まあ、奈良時代初期も伝承などで残されている程度で、これも正確とはいえないでしょう。

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そこでさまざまな説がいろいろな学者などにより提唱されてきました。
しかしどれも推察の息を出ず、またその根拠らしきものもあまり見られません。

鈴木健さんは筑波’つくは)の語源についてはこの「日本語になった縄文語」の本の中ではほとんど書かれておらず、「常陸国風土記と古代地名」(新読書社 2003年発行)に詳しく解説しています。

これも一つの説であるとしかいえませんが、面白い観点かと思いますので紹介します。
常陸国風土記の内容から次の3つの問題を提起しています。
① 「古、紀の国と謂ひき」とあったが「紀の国」とは何か?
② 「筑箪」をツクハと読ませているが、果たしてそれでよいのか。
③ 人名(筑箪命)を地名(筑波)の起源としているが、それをどう考えるべきか。

①については
「紀の国」は和歌山県の古名「紀国(キノクニ)」は「木国」とも書かれたことから、筑波山も良材を産したので「木の国」と言い「紀の国」になったという説があるが、鈴木氏の説は、霞ヶ浦高浜入りに住む漁業者は「漁にいく」ことを「かーさいぐ(川へ行く)」という。このように川といえばどこの川(高浜入り、北浦なども表現は同じ)へ行くかすぐに分った。川が固有名詞のように使われていた。また筑波山の麓に住む古人にとって、「山」といえば「筑波山」に決まっていた。
そのため、自分たちの地域を「山の国」ということはあっても「木の国」とは言わないであろうと。
アイヌ語では、生活圏の一部としての山を 「kim きム」という。
これは「おじいさんは山へ芝刈りに・・・」などという時に使う山を表わす。
この「kim」は語尾が閉音節語尾で、「キ」と聞き取りがちの発音である。
この「kim」が「紀」となったのではないか。

② については
「筑箪」をツクハと読みが振られているが、「箪」は箪笥(タンス)のタンであり、訓も「ハコ」しか辞書にはない。
昔は読みをその音を表わす漢字が使われるのあって、「ハ」という音に「箪(ハコ)」という字を選ぶ根拠がまったくわからない。
これは後の人がこの「筑箪」をツクハと読ませたのであって、捏造といえるものだ。
では素直に読めば「ツクハコ」になるが、この意味は何か?
アイヌ語で
【tuk 出る、生える】+【pa 頭】+【kot 凹み】=「突き出ている頂上と凹み」=筑波山の形状そのもの
となる。

③ については
古老の伝承によるものであるので、その昔に「ツクパ」という山と、「ツクパコ」という人名の2つがあったと推測し、人名を中心とした当時の価値観から人名から「ツクハ」の地名となったものとしたのではないか。
という。


ところで、私は、この ①「紀の国」の説明 は少し違うような気もしています。

まず、「紀の国」の「キ」という言葉ですが、古朝鮮語から日本に伝わった言葉だと解釈しています。
古朝鮮では「キ」=「城」を意味していました。

そしてヤマト朝廷が日本国の南方(九州あたり)から、段々と北上していきます。
この時に現地人(蝦夷)との境に陣地を築きます。そこに城柵(じょうさく)をおきます。
そしてその周辺に暮らす人々は「柵戸(きのへ)」などと呼ばれていました。

そしてこの蝦夷との境辺りは「日高見国(ひだかみのくに)」などと呼ばれていました。
各地に「日高」という地名がたくさん在りますが、時代時代で北上して行った大和朝廷軍の最前基地地域(ヤマト側・蝦夷側の両方)を恐らくそのように呼んだものと思っています。

そのため、「紀の国」も和歌山県に進出した頃の大和軍の最前地であり、紀の国と呼ばれ、また日高川の名前が残る「道成寺」あたりが最前基地だったのでしょう。
そして徐々に東国地方に進出して、東海道、東山道などでこの「城・キ」が築かれ、日高の地名も残ったのではないかと思います。

また常陸国風土記には黒坂命が美浦村から霞ヶ浦を渡って東征し、蝦夷を制圧していきますが、当時この美浦村あたりが「日高見国」と呼ばれていたことが書かれています。

まあこれからしても「茨城」はイバラギではなくイバラキですね。

また昨日の「毛野国」は蝦夷の国、筑波は「紀の国」ですから、大和朝廷の蝦夷と接する最前国だった時の呼び名だと思っています。

筑波山の語源としてWikipedia に書かれていることを下記に書いておきます。

① 「つく」は「尽く」で「崖」を意味し、「ば」は「端」を意味する。俗に「握飯筑波」とも呼ばれたと記している
② 縄文時代の筑波山周辺には波が打ち寄せていたと考えられ、「波が寄せる場」すなわち「着く波」(つくば)となった。
③ 縄文時代の筑波山周辺は海であり、筑波山は波を防ぐ堤防の役割を果たしたため「築坡」(つきば)と呼ばれ、のちに筑波となった。
④ 新たに開発して築いた土地として、「つくば」は「築地」ないし「佃地」を意味する。
⑤ 「つく」は「斎く」(いつく、神を崇め祀る)あるいは「突く」(つく、突き出す)であり、「ば」は「山」を意味する。
⑥ 「平野の尽き果てるところに、秀麗な姿を見せる山を、人々が親しみを込めて「尽端(つくは)」とよんだ。
⑦ 「平野の中に独立してある峰」の意の「独坡」にちなむ。
⑧ アイヌ語のtuk-pa(とがった頭)またはtukupa(刻み目)にちなむ。
⑨ 歌垣の習慣にちなみ、マオリ語のtuku-pa(交際を許される)に由来する

また、角川の地名辞典には風土記の中に
「山の形がにぎりめしに似ており、めしが手につくので握飯筑波といったという伝承がある」と書かれています。

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まあいずれにしてもいろいろな説が語られていますが、決定打といえるものはなさそうです。
鈴木健氏は、どれも反論できそうなものばかりで、「筑箪命」の読みが「ツクハ」とは読みえず、「ツクハコ」と読んで見た事からの推論で、他の解説者にはない視点です。

私も前に「茨城の難読地名」(こちら) という本を書いたのですが、この筑波は難読でもないし、説も多くて纏め切れないので除いた経緯があります。



今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから





日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/26 10:48
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