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日本語と縄文語(30) 地震ナマズと鹿島の神

 この日本語と縄文語シリーズは1か月連続投稿という目標で始めたことですので、ほぼ目標達成です。
ここで本シリーズ記事も終わりにしたいと思います。

今回のテーマは地震とナマズ、それと鹿島の神を縄文語で考えようという趣旨です。
少し難しそうですね。

もちろん皆さんはナマズが騒ぐから地震が起きるという言い伝えがあることは知っていますよね。
また鹿島神宮ではこのナマズを要石が押さえつけているといわれていることもご存じだと思います。

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(以前書いたブログ地震お守(こちら)より)

さて、この話しはどこから始まっているのでしょうか?
ナマズが大昔からこの地方にいたという記録はないのです。

関東地方になまずが知られたのは江戸時代になってからだとも言われています。
また、地震神として鹿島神宮が記録に現れるのは12世紀半ば以降との文献もあるようです(「地震神としての鹿島信仰」「歴史地震」8号1992年)。
鎌倉時代の伊勢暦には地震蟲(むし)の想像図が載っています。頭が東で尾が西を向いており、10本足のムカデのような姿がえがかれています。

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(地震虫(こちら)より)

しかし、この「なまず」はアイヌの言い伝えにも似た話があり、ナマズではなく巨大なアメマス(雨鱒、エゾイワナ)なのです。

<アイヌの伝承>:(日本の民話3)より

 「この世をつくった神「コタンカラカムイ」が、この地上に世界を作る前に、ただ一面の泥の海に、ただ一匹のおおきな「あめます」がおった。
大きな大きな、途方もなくどでかい「あめます」は、どろ海の中に姿を隠して、うとうとと眠りこけておったのだ。
それを知らぬコタンカラカムイは、よい土地を見つけたとばかり、島つくりにかかった。
大きな島をどっかりと背負わされて、あめますはおこったのなんの、おれさまに、断りもなしに、なんと勝手なやつめ。
そうして大暴れをやらかすもので、この地上に地震が起きるようになった。
この世界はあめますの上につくられたから、あめますは、モシリニッチウチェプ(島の腰骨の魚)と名がついたのだ。」


 さて、このモシリニッチウチェプは今のアイヌ語では【mosirruikkewechip】は、 鯰(なまず)のことです。でもこの昔の伝承があるように「あめます」のことを最初は指していたようです。

mosir:世界、国土 であり、「背中に世界(国土)が乗っている魚」の意味になります。

一方アメマス(雨鱒)はかなり大きくなる魚で北海道の島牧では毎年「海アメダービー」の釣り記録大会を実施し、全長70cm~80cmほどのあめますが釣れているようです。またロシアには1m近いものも釣れることがあるようです。

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(模様のきれいな巨大魚ですね)

北海道の過去の地震記録を調査する目的で集められた資料(日本原子力機構)の中に「アイヌの口碑伝説」をまとめたサイトがありましたので紹介させていただきたいと思います。(サイトは ⇒ こちら (pdf))

(1) 『世界はアメマスの上につくられた』

「国造神が天から世界を創るのにおりてきた。「さてさて、どこさ陸をつくるべ?」
国造神が泥海の中のかたいところだと思って島をつくったところは、実は大きなアメマスの背中の上だった。
アメマスがうっかり睡っているうちに、どっしりと島を背負わせられてしまったのだ。
アメマスはすっかりおこって、大あばれをやるので、地震が起こった。国造神も失敗したのに、すっかりこまってしまって、アメマスを押さえるために二柱の神さまを地上におろして、アメマスの右と左とに一人ずつ置いて、魚があばれないように押さえさした。
一方が食事をしていると、その隙をみてアメマスがガバガバとあばれる、そうすると大地震になる。
それで神様は腹へったときも片手で魚を押さえつけて、泥だらけの片手で食べ物を口に運ぶよりない。
でもそんなときを狙ってはアメマスはあばれる。それでこの世からはなかなか地震がなくならないのだ。
こいつがまたときどき海の水を呑んだり、吐きだしたりする。
体の具合がよくなくて、機嫌が悪いと、ガップリと大口をあけて水を呑んで、ゲーッとはきだしたりすると大変だ、大津波が起きて部落でも何でもさらって行ってしまう。

(2) 『屈斜路湖の中島と大鯇(アメマス)』

「屈斜路湖の中島はもと現在の奔渡(ぽんと)のところにあった山であった。ところがこの湖に昔大鯇(あめます)が住んでいて、頭は沼の上手の岩のように水の上にまで現われ、尾は釧路川の出口のあたりにゆれ、脊鰭(せびれ)は湖上に現われて天の日にこげ、腹鰭は湖の底の石にすれているという大きなもので、湖を渡る舟でもあると波を起して舟をくつがえして人をおぼらせ、退治に行った神々も寄せつけないというおそろしい魚であった。
或るときそれをききつけたアイヌの英雄オタシトンクル(歌棄人)が、銛(もり)をもってこれを退治に来て、みごとに大鯇の目玉を突いた。
大鯇も必死であばれたためについに山が抜け、湖の中にくずれ込んでしまった。そのため鯇は山の下になって動けなくなってしまったが、その山が現在の中島であり、山の抜けた跡に水がたまったのが、奔渡(小さい湖)であるという。
現在でもこの地帯で時々地震が起るのは、山の下になった鯇がまだ死にきれずにあばれるから起こるのだろうという。

(3) 『支笏湖の鯇(アメマス)伝説』

「大昔支笏湖に大きな鯇(あめます)がいて、それがあばれると島がゆれて地震になるので、人間の祖先のオアイムルシクルがそれを退治するために出かけ、魚扠(やす)で魚を突くことができたが、魚の力が強くてついに魚に負けて湖の中に引き込まれて死んでしまったので、この地上にいることができなくなり、妻と二人の子供を残して天に帰ってしまった。それを苦にして子供達の母親もまた天に帰ってしまったので、幼い姉と弟と二人だけが残された。

(4) 『鰍(カジカ)』

「鰍ってやつは海や川ばかりでなく、どこにもいるもんだ。土の底にもいるし、夜の天にある天の川にも棲んでいる。
あいつはなんでも食うんだ。川の石まで呑むことがあるが、魚なら何でもかんでも、おかまいなしに呑んでしまう。
天の川にいる奴は毎日烏ばっかり食っているんだ、餌の烏がなくなると野郎おこってあばれるんだ、そうすると大地震になる。
土の中の大鰍(かじか)はフシリコロエッケウチェプ(島を支配する腰骨魚)といって、こいつも動くと大地震になる。
だから地震がおきたら、火箸を爐の中にさして「こら!あんまりあばれると腰に刺さるぞ」というんだ。
(これは、いわゆる“アメマス伝説”の一つで,アメマスがカジカに変化したものである.)


(1)~(4)の>「アイヌの口碑伝説」を紹介しましたが、似た話は未だ沢山あります。
その中で、(1)の伝承が「日本の国造り神話」と似た話しになっています。

そしてその中に「アメマスを押さえるために二柱の神さまを地上におろして、アメマスの両端を押さえさせる話」になっています。
これは今の鹿島神宮に伝わる要石(かなめいし)で地震を起こすナマズを押さえつけているという話しにつながります。
鹿島神宮と香取神宮に凹凸2つの要石があり、タケミカヅチとフツヌシの2人の最強の武人神をもってこのナマズ(鯰)を抑えさせ、地震が起こらないようにしているといわれています。

このように、アイヌでは「アメマス」で、日本本土では「ナマズ」になったのですが、

アイヌ語で 「あめます」は【tukusis トゥクシシ】といい、この話の国を背負っている魚【mosirruikkewechip】は「ナマズ(鯰)」を指すアイヌ語です。

でも今でも北海道アイヌの話しでは、地震が起こると、囲炉裏の灰に小刀や火箸を刺し、「エッケウ!エッケウ!」と唱えるとい話も伝わっています。
「エッケウ」は腰骨のことで、アメマスの腰骨を押さえつけ、地震を鎮める呪いなのです。

この鹿島神宮に伝わるナマズの話と、アイヌに伝わる「アメマス伝説」が何処かで一緒になっているのは、どのような経緯があるのでしょうか。

鹿島神宮の設立の謎に迫るのかもしれません。

縄文語研究者の鈴木健さんは、この「鹿島神宮の森」は元は縄文人の聖地だったのではないかと考えているようです。

アイヌ語で【sikakasima 支配する、見守る + kamuy 神】 ⇒ 鹿(しか)嶋神 ⇒ 鹿(か)島神」

また、【si 真の+ kasi その上の mat 女 + kamuy 神】=【sikasimatkamuy 大いなる天の女神】」

これが縄文系原住民がヤマト朝廷に制圧される前の「鹿島」であり、ここがかれらの聖地であったというのだ。

いっぽう香取は、

【kantorikamuy 天高くある神】 ⇒ カンドリ ⇒ 「香取神」 であったとみています。
(kanto 天 + ri 高くある + kamury 神)

とても面白いが現実的な見方だと思います。

縄文語のヤマト語(和語)に変換される時にはいくつかのルールがあるようです。
例えば、【ram 胸】【rama 魂、心】【ramat 霊魂、生命】ですが r⇒t の変化が起こり、「タマチ」⇒ 魂(たましい)となるという。
また、驚くことは【ramutuy=ramu 魂 tuy 切れる】 ⇒ 魂切り(たまぎり)⇒ たまげる と変化する

こんなことを延々と調べていくとこの縄文語が現在の日本語(ヤマト語、和語)へ変化したことがわかってくるようです。
詳しくはそれぞれの縄文語に関する本などでご確認ください。
私はこのあたりで幕引きとします。1か月間お付き合いありがとうございました。

またいつかこのテーマを深く理解できたら、また続きを書くことにします。

今日も茨城で朝早く(6時頃)大きな地震がきました。また9時半頃にも鹿児島で大きな地震がおきました。
いずれも震度4クラスの地震でしたが、両端を押さえていた神の手が少しゆるんでアメマス(またはナマズ)が騒いだのかもしれません。

今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから

日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/01 16:25

千葉の難読地名(2) 匝瑳

 茨城の難読地名シリーズが終了して、今年は千葉県をとり上げると正月に宣言したのですが、まだ少しも先に進んでいませんでした。
日本語と縄文語も終りましたので、いよいよ着手してみたいと思います。
郵便番号簿で千葉県の気になる地名を拾い集めたら400ヶ所位になりました。
この中をこれから少しずつピックアップして全国の似た地名も調べながら、纏めて行きたいと思います。
目標は100回くらいになると思いますが、今年中に終るでしょうか?

当然途中でかけなくなることもあると思いますが、もしご興味ありましたら読んでいただければ嬉しく思います。

最初は
「匝瑳」<そうさ> 

千葉難読地名2

まあ読める人にとっては容易いのですが、何の縁もない地方の人にとっては読めない地名の代表でもあります。
銚子市より少し南側に隣接する「匝瑳市」です。
なぜこのような地名になったのでしょうか。

現在の匝瑳市は平成の大合併時に八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併してこの市名になりましたが、元々「匝瑳郡(そうさぐん)」という郡名が平安時代中期の辞書「倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)」(和名抄)の下総国に記載されています。
ただ読み仮名(漢字)はなく、そうの字も少し違います。「迊瑳郡」と書かれています。

市のHPから「匝瑳」地名の謂れを載せて置きます。

「匝瑳という地名は、現存のものでは、奈良東大寺正倉院に伝わる庸調(ようちょう:朝廷に納めた特産物)に見られる天平13年(741年)の記録が最も古いとされています。

匝瑳という地名の由来は、平安時代前期の歴史書「続日本後紀(しょくにほんこうき) 」によれば、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東(現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡(さふさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられています。
匝瑳の語源については、諸説あって定まっていませんが、発音での「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡であったことに由来するという説があります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。
なお、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで“匝めぐる”と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで“瑳あざやか”あるいは“瑳みがく”と読み、あざやかで美しいという意味があります。」

となっています。

また、平安時代の匝瑳郡は、栗山川以北の九十九里浜沿いの平野部一帯で、匝瑳郡の中に18郷があり、その中の「匝瑳郷」が現在の匝瑳市や多古町、栗源町あたりまで含んだ地域であったと思われます。
延喜式に記載された神社名に「老尾神社(おいおじんじゃ)」があります。

また香取神宮の境内には「匝瑳神社」がおかれています。

この香取神宮境内に鎮座している「匝瑳神社」から匝瑳郡匝瑳村大字生尾の老尾神社(別名:匝瑳神社・祭神:阿佐比古命)に分祀されたと伝承されているようです。
また、老尾(おいお)神社の祭神である阿佐比古命は香取神宮の祭神「経津主命」の御子神ともいわれています。

匝瑳神社


また角川の日本地名大辞典には、

・「坂上系図」によれば坂上田村麻呂の子高雄は匝瑳九郎と称した。
・千葉大系図」によれば、千葉常広は匝瑳八郎と称して、下総国匝瑳郡に居住し、その多くの子孫は「匝瑳党」と称した。

という事が書かれています。


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千葉の難読地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/06/05 13:28

千葉の難読地名(3) 黒生

黒生 (銚子市)

地名は 黒生町(くろはいちょう)
海岸は黒生海岸(くろはえかいがん)
駅名:笠上黒生(かさがみくろはえ)

銚子電鉄の駅「笠上黒生」は笠上(かさがみ)町にあるが、その海寄り地域が黒生(くろはい)町であるので、両方の名前を合わせた。

千葉難読地名3

黒生町は、もとは飯沼村の一部であったが、海岸部は昔から黒生(くろはえ)海岸と呼ばれていた。
そして、昭和9年(1934)に銚子市の地域町名となった。
町名の読み方は「くろはい」であり、海岸などで呼ばれていた「くろはえ」と、「い」と「え」が食い違っているが、元々関東地方北部から東北地方および新潟などでは「い」と「え」の発音区別がなく、中間的な「え」であるので、どちらでもあまり区別は出来ないためだろう。特に海寄り地域ではこの傾向は強いようだ。

銚子電鉄の笠上黒生(かさがみくろはえ)駅は、 企業にネーミングライツ権を譲渡し、スカルプで知られた企業に譲渡され、2015年12月~2018年までに「髪毛黒生駅(かみのけくろはええき)」となった。

場所は銚子市の東端の海岸沿線エリアで、その南側に「海鹿島(あしかじま)」がある。
観光地や避暑地として知られた海鹿島は昭和半ばまではアシカが生息していた。

この海岸近くには「一山いけす」という魚料理屋さんがあり、地元の人には良く知られた場所だ。
ここから君ヶ浜へ続く海岸沿いは岩がゴロゴロして、白波が打ち付ける豪快な海岸が魅力でもある。

この海岸沖は昔から船の遭難が多い場所で、この一山いけすの店の近くにこの銚子黒生海岸沖で遭難した美加保丸の碑が立っている。

この碑には、「慶応4年(1868年)8月に、戌辰戦争の過程で幕府の海軍の副総裁・榎本武揚の指揮のもとに北海道へ逃亡を企てた幕府軍艦8隻は銚子沖で暴風雨に遭い、その中で美加保丸が黒生海岸で沈没しました。死者は13人に上り漂着の場に葬られました。その後、明治15年(1882年)に、美加保丸の遭難碑が地元民の手で建立されました。目の前には太平洋の素晴らしい景色が広がります。」と書かれています。

黒生海岸

この「黒生(くろはい、くろはえ)」地名の由来を探ってみたのですが、あまりはっきりしたことは何処にも書かれていません。
また全国に「黒」がつく地名は実に沢山存在し、その多くが「黒色」に関係するかどうかも良くわかりません。

ただ、この銚子の地はジオパークに登録され、ここ黒生から長崎鼻にかけて、1億3000万年前から1億年前の恐竜時代の地層が見る事ができるのです。
特にこの黒生(くろはえ)漁港付近の地層は古く、ジュラ期の非常に硬い岩石(チャート)があり、黒生チャートと呼ばれる小さな露頭が地表に出てきています。細長い崖として続いていた薄緑色のチャートは漁港施設工事で失われてしまいました。

また、江戸時代末期に、福井県から移住した柳屋がここ黒生から産出する黒色の粘土を利用し、「黒生瓦」作りを始め、これが評判で、当時は三州瓦に匹敵するとの評判でした。
しかし、現在はセメント瓦に取って代わられ、生産はされていませんが、市内にはこの黒生瓦を葺いた住宅が残っています。

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(外川地区の黒生瓦の住宅)

このように特殊な地層の岩石が風化して独特の黒色粘土が産出した地域であるため、黒色粘土が採れる地という意味から「黒生」となったというのが最も考えられると思われます。

元々「埴生」「丹生」など、粘土や特殊の色の鉱石が取れる地区につけられた「生」という字は各地に沢山存在します。
この地も昔からつやのある「黒岩」が多数存在し、「黒生浦」と呼ばれていました。

ただ、この地には、海岸沿いの高台に「黒生大神宮」という神社があります。
これは、紀州(和歌山)の北川治郎右衛門が、江戸時代中期の宝永年間(1704年~11年)に、この地に移り住み、ここ黒生漁港を開発したといわれており、その際、伊勢皇大神宮(内宮)より祭神は、天照坐皇大御神(天照大御神)を勧請(かんじょう)して祀ったとされています。この伊勢や和歌山との関係が別にある可能性も有ります。

「生」という地名で「ハイ」または「ハエ」と読む地名を探してみた。
(ハイとよむ地名)
千葉県銚子市黒生町(くろはいちょう)
愛知県江南市宮田町生原(はいばら)
愛知県稲沢市生出(はいで)
(ハエとよむ地名)
石川県輪島市門前町大生(おはえ)
愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間(生山) (はえやま)
愛知県半田市生見町(はえみちょう)
熊本県上益城郡御船町七滝(松ノ生)(まつのはえ)


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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/06 17:15

千葉の難読地名(4) 白渚、横渚、貝渚

 横渚 よこすか    鴨川市  
 貝渚 かいすか   鴨川市
 白渚 しらすか    南房総市和田町  

千葉難読地名4

この「渚(なぎさ)」と書いて「すか」と読ませるのは全国的に見てもあまりなく、千葉県に3箇所ある。

一般には横須賀(よこすか)とかかれる地名が同じ意味だと考えられる。

千葉県にはこの横須賀(よこすか)地名も多い。
松戸市横須賀
匝瑳市横須賀

この「スカ」地名は『海岸に近い洲』に由来する地名といわれ、神奈川県の横須賀も横に細長い砂州を意味する言葉とされています。

一方、柳田國男は「地名の研究」の中で、新潟とこの横須賀を比較しており、「潟」のつく地名は日本海側に集中しており、北は津軽の十三潟、秋田の八郎潟から、南は筑紫の香椎(かしい)潟、宗像(むなかた)まで、たくさん地名として残っている。
これは、汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、風の影響で砂が運ばれ、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち「潟」であるという。
これは日本海側の特徴なのだろう。
東方の海岸にこの種の潟は出来ず、逆に「横須賀」などに示すように「須加」「須戸」などという砂浜が出来るのだという。

さて、この「渚」を「すか」と読ませる地名だが、地名としては「渚」も「須賀」の字も戦国時代頃から記録にはあるが、江戸時代初期の検地高目録では「貝須賀村」との記載もある。

もっとも「鴨川」という名前はかなり新しく、明治22年に長狭郡鴨川町として発足した。域内を流れる「加茂川」にちなんで別な字を当てて作られたもの。 
この川の名前は、平安時代の辞書「倭名類聚抄」に長狭郡の中に「加茂郷」があり、この名前から加茂川となったという。
この加茂川が京都の鴨川に似ているので町名制定でこの「鴨川」を当てたものだそうだ。

鎌倉幕府成立前、伊豆で挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに破れ、この安房国へ逃走します。
この時に乗っていた船がたどり着いたのがこの鴨川市貝渚付近の島であり、地元の長狭六郎常伴と一戦場(鴨川市貝渚).において戦闘が行われたといわれています。

いろいろ歴史も知らない事が多い。


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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/07 12:28

コロナ自粛も少し明け

 先週末の土曜日は「ふるさと風」の印刷日。

いつものように会員が7人ほど集まって500部ほどの会報の印刷・製本を行った。
石岡市はまだ一人も感染者が出ていないが、緊急事態宣言は解除されても市の公民館や観光施設などは今月(6月)からようやく再開となった所が多い。

そのため、この会報も置く場所を失い先月は手元にかなり残ってしまった。
午後からこの先月号と今月号を配りにマスクをして出かけた。
まず一番遠いところのつくば市北条のお休み所「田村家」へ。

皆さんが食事中だったがいつもと変わらず元気にやっておられた。
聞くと施設オープンは本日だという。
そういえばここは土日しかオープンしていないので本日土曜日が再開初日だったようだ。
そして、そのまま宝篋山(三村山)麓を通って土浦市の小町の館へ。

相変わらず宝篋山は登山者が多い。多くの登山者グループとすれ違った。
登山は息苦しいのかマスクをしている人は少なめのようだ。
まあ緊急事態宣言下でも登山者は少なからずいたが、やはり明けると気分転換にやって来るようだ。
小町の館もお休みが続いていたが、再開された。

ただ最近ここが随分変わった印象を受けた。
まず、手前の駐車場の隣にかなり広いスペースでもう一つ駐車場が出来た。
それもほぼ満車なのだ。これは先月の館が休館の時もかなりの車が停まっていた。
調べてみると昨年この裏の小町山(361m)へのハイキングコースが出来、気軽に子供連れでもハイキングが楽しめるようになったのだ。
宝篋山へも行くこともできるという。このハイキングの人達の車が駐車されていたようだ。
数にして40~50台くらいはあるだろうか。
それにしてもかなり人気があるようだ。

しかし再開した小町の館はパンフレットなどのラックはどこかに片づけてしまったようで、私たちが何時も会報を置く場所が無くなっていた。
もう少ししたらこれも元に戻るとは思うが、やはりまだいつも通りと言うわけにはいかない。

そしてそのまま朝日トンネルを越えて石岡市へ戻り、柿岡を通って瓦会へ。
蕎麦処「まんまや」さんへ。
昼時を過ぎてはいたが、店は開いていても駐車場に車がない。
店内に入ると客がいない。聞くと蕎麦が今日はもうないという。
ただ客足はまだ戻っておらず、打つ蕎麦の量を少なくしているのだそうだ。
ご飯ものならできますということで「かつ丼」を注文した。

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すぐ前が瓦会郵便局で、その隣の家がこんどの新石岡市長のご自宅だ。
また何か機会があれば石岡地区、八郷地区の発展に向けて意見を伺ってみたい。
私も今度のコロナをめぐるテレワークなどの動きを見ていて今後の石岡市の方向性に少し新しい光が見えてきた気がする。
「ふるさと風の会」の会報つくりも6月がスタート月なので今月から15年目に突入した。

会員の皆さんの原稿を編集してギリギリ印刷日に間に合わせるともう終わった気になって、ホームページへのUPを忘れてしまう。
前は自分の原稿を書くだけだったので、白井先生が編集を一手にやってくれた。そして出来上がった原稿を送ってもらってホームページにUPするだけで良かったので忘れることもないのだが、近ごろは忘れていてUPが数日遅れてしまったりしている。
またホームページのリニューアルも手がつかない。
矢張りもう若くないので、気力も落ちて来たようだ。困ったものだ。

他にだれもやる人(やれる人)がいないというのも、こうしてできる人に作業が集中する。
今のテレワークなどという会社仕事の変化も同じように特定の人に作業は集中するのだろう。
日本の社会がこれを機に、大きく変わっていくきっかけになってほしいものだ。



近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/08 06:43

千葉の難読地名(5) 新生、荒生

 ≪新生≫ (あらおい)     市原市    
 ≪新生町≫(あらおいちょう) 銚子市 
 ≪荒生≫ (あらおい)     東金市 
 ≪荒生≫ (あらおい)     九十九里町 

千葉難読地名5

千葉県には「生」とつく地名が多いようだ。
「黒生(くろはい)」を先に紹介したが、今回は2つの「あらおい」地名について紹介しよう。

これはどちらも「新しく開発された土地」の意味だろうという。
漢字では「新しい」とか、「荒れた」とか意味が違いそうだが元の意味は同じだったと思われる。
ただ、九十九里町の「荒生」地名は、東金市の飛び地と考えられている。

全国に「新生 あらおい」という姓の名前があるようだが、人名のリストからはこの市原市の「新生」が名前の起こりだろうと書かれていた。
文禄3年(1594)の検地表には「海保郡新生之郷」と見える。

一方「荒生」の地名は文禄3年(1594)の上総国村高帳に村名が記載されており、その後の寛政5年の上総国村高帳には「荒笈村」と記載されているという。

また、同じ寛政5年の上総国村高帳には「新笈村」という村名もあるという。

その他、千葉県の「生=オイ」の地名を拾ってみると

・千葉市若葉区愛生町(あいおいちょう)
・旭市高生(たかおい)
・匝瑳市生尾(おいお)


<愛生> ・・・・ 元は千葉市源町の一部で、開発により昭和26年に成立した新しい町名
<高生> ・・・・ 江戸時代に椿海を干拓して成立した新田18か村の一つ
<生尾> ・・・・ 延喜式式内社に「生尾神社」の名前がある。(旧八日市場市)
伝承としては、当地を訪れた某が尻尾のない白馬に乗って通りかかった際、一夜のうちに尾が生えたので、「生尾」と名付けたという。(角川 大日本地名辞典) まあいかにも後から考えられた地名伝説と言ったところだろう。
ただ、この「生尾神社(おいおじんじゃ)」は現地では「老尾神社」と扁額などには書かれている。
香取神宮などとも関係が深かったようだが、名前の詳細はわからない。

がある。


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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/08 09:24

千葉の難読地名(6) 生実

 ≪生実≫ おゆみ  千葉市中央区

中世より、生実郷、小弓、北生実村、南生実村、北小弓村、南小弓といずれも同じように用いられてきた。


千葉難読地名6

地名の由来は
(1) 古代に麻績連(おみのむらじ)が管掌していたことによる。
(2) 源頼光が寛弘年間に八剣神社へ大弓を奉納したという伝承による。
などがある。(角川 大日本地名辞典)

この(2) の話しは「小弓」と書かれていた時代に創造された地名伝説であろう。

 ただ、この「麻績連(おみのむらじ)」についてはあまりよくしられておらず、謎に包まれたままである。
霞ヶ浦周辺に進出してきたいわゆる海人(縄文人子孫?)族の一派だとは思うが、出雲国の国譲りでこの地に流されてきたのかもしれない。
この麻績連(おみのむらじ)は、利根川よりの旧小見川町(現香取市)の名前の由来にもなっている。
この小見川地区は古代は「麻続郷」とあり、平安末期からは「小見郷」になった。
この一帯は香取の海といわれた内海時代には「麻績千丈ヶ谷」といわれた低地で、開発により田畑が開けた土地だ。
名前の通り「麻織物」生産にかかわった集団だったと思う。
このように地名から古代の歴史を探っていくとかなり面白い実像が見えてくる。
なかなか止められない。

その他「生」が地名の頭や真中につく千葉県の地名をさがしてみると、

 ≪生谷≫ おぶかい  佐倉市
・・・・「うぶかい」ともいう。江戸期以降に「生ケ谷村」「生谷村」などとも書かれている。

全国に「生谷」とつく地名を探してみたが、下記に示すように「○○生谷」と何かが採れる場所の谷といった意味合いが多かった。

千葉県佐倉市生谷 チバケンサクラシオブカイ
富山県高岡市麻生谷 トヤマケンタカオカシアソウヤ
富山県黒部市内生谷 トヤマケンクロベシウチュウダニ
石川県加賀市山中温泉菅生谷町 イシカワケンカガシヤマナカオンセンスゴウダニマチ
福井県鯖江市石生谷町 フクイケンサバエシイショウダニチョウ
岐阜県高山市朝日町黍生谷 ギフケンタカヤマシアサヒチョウキビュウダニ
大阪府南河内郡河南町芹生谷 オオサカフミナミカワチグンカナンチョウセリュウタニ
兵庫県赤穂市木生谷 ヒョウゴケンアコウシキュウノタニ
兵庫県宍粟市山崎町生谷 ヒョウゴケンシソウシヤマサキチョウイギダニ
奈良県高市郡高取町丹生谷 ナラケンタカイチグンタカトリチョウニウダニ
和歌山県紀の川市上丹生谷 ワカヤマケンキノカワシカミニュウヤ
和歌山県紀の川市下丹生谷 ワカヤマケンキノカワシシモニュウヤ
和歌山県海草郡紀美野町初生谷 ワカヤマケンカイソウグンキミノチョウウイタニ

また「オブカイ」という名前の地名は他には存在しなかった(現在の郵便番号住所の中)

 ≪小生田≫ おぶた  長生郡長南町
・・・・ 和名抄に「小田郷」があり、この小田郷が転訛したという。 また中世(南北朝~室町時代)には「小蓋村」としの記述がある。(角川 大日本地名辞典)



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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/09 05:25

千葉の難読地名(7) 粟生

≪粟生≫  あお    九十九里町、東金市(飛び地)
≪粟生野≫ あおの   茂原市

千葉難読地名7

地名の由来は
(1) 湿地の意味
(2) 粟(あわ)生育の適地の意味
などがある。

平安期は禾生(あお)郷(和名抄)、室町期は粟宇郷、江戸期は粟生村とある。(角川 大日本地名辞典)

まあ「禾」はノギヘンにもなっている漢字で単独では「カ」とか「ワ」と読むようだが、意味は「稲(いね)」「粟(あわ)」と同じ穀物を指す。
古代から各地に「粟」は栽培され、地名にも「粟」の字が多く使われたが、徳島県が「粟」から「阿波」に2文字に替えたころから各地の地名も変化しているようだ。千葉県房総半島側は「安房」になっている。

また(1)の湿地というのも地名辞典にはかかれたものもあるようだが、「あお」にはそのような意味はないのではにだろうか。
まあ「青」と書く地名は日本海側などに多く、どうも暗いイメージがあるようだが・・・・。


全国の「粟生」地名を検索すると
・茨城県鹿嶋市粟生 (あおう)
・埼玉県坂戸市粟生田 (あおた)
・千葉県茂原市粟生野 (あおの)
・千葉県東金市粟生飛地 (あおとびち)
・千葉県山武郡九十九里町粟生 (あお)
・新潟県燕市粟生津 (あおづ)
・石川県羽咋市粟生町 (あおまち)
・石川県能美市粟生町 (あおまち)
・山梨県甲州市塩山上粟生野 (かみあおの)
・山梨県甲州市塩山下粟生野 (しもあおの)
・三重県多気郡大台町粟生 (あお)
・京都府長岡京市粟生 (あお)
・大阪府茨木市粟生岩阪 (あおいわさか)
・大阪府箕面市粟生外院 (あおげいん)
・大阪府箕面市粟生新家 (あおしんけ)
・大阪府箕面市粟生間谷 (あおまたに)
・兵庫県小野市粟生町 (あおちょう)
・和歌山県有田郡有田川町粟生 (あお)
・高知県長岡郡大豊町粟生 (あおう)

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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/10 05:09

千葉の難読地名(8) 虫生

 ≪虫生≫ むしょう 横芝光町

千葉難読地名8


文禄3年(1594)の検地帳に「佐倉領之内虫生」とある。(平凡社 郷土歴史辞典)

この少し変った地名「虫生」(むしょう)というのは結構全国にあります。
読み方は「むしょう」むしゅう」「むしう」などです。

・新潟県上越市虫生岩戸 むしょういわと
 (江戸時代中頃までは、虫生村と岩戸村に分かれていた)
・長野県下高井郡野沢温泉村虫生  むしう

・静岡県磐田市虫生            むしゅう
  (古代には「蒸湯(ムシユ)」と呼称していたとも伝わる)
・滋賀県甲賀市水口町虫生野     むしょうの

・滋賀県野洲市虫生            むしゅう

・兵庫県豊岡市但東町虫生     むしゅう

・兵庫県川西市虫生            むしゅう

・福岡県遠賀郡遠賀町虫生津     むしょうづ

(その他)

千葉県山武市武勝  むしょう

福井県三方上中郡若狭町武生  むしゅう
   (地名は「虫生」、「虫尾」とも表記したという)

この地名由来はどこにもはっきりした事はかかれていませんが、恐らく麻糸原料の草「苧麻(からむし)」が繁茂する土地という意味だと思われます。

衣料品に主に使われている麻の繊維は、亜麻(リネン)、苧麻(ラミー)、大麻( ヘンプ)の三つがありますが、苧麻(カラムシ)(別名、マオ・チョマ)はどこにでも生えている多年草の草です。
それぞれの植物の茎のじん皮部から採取される植物繊維を使うのですが、苧麻は昔から日本にも自生していた植物だと言われています。
大変強く繊維としての価値は非常に高かったようです、現在は福島県会津と沖縄県くらいでしか生産されていません。
この会津(昭和村)の苧麻から作られた糸が新潟県小千谷市で有名な「小千谷縮み」に使われています。

苧麻の呼び名は、昔からちょま、まお、からそなどと呼ばれてきましたが、中国から品種改良された品種が入ってきて「からむし」と呼ばれるようになったのではないかと思われます。
そのため、古来からある草でしたが、外国から渡って来た意味で「から(唐)」がついたのではないでしょうか。
現在は一般的には麻製品としては、苧麻は「ラミー」と呼ばれ、「リネン(亜麻)」と並んでアパレル界の麻繊維の代名詞になっています。

また、虫(むし)とつくのは、蚕の絹とどこかでイメージがつながって呼ばれたか。または途中に「蒸す」工程があることも呼び名に影響があったかもしれません。

この麻糸を作るための集団が前回の地名(生実)に出てきた「麻績部(おみべ、おみのむらじ)」といわれています。

千葉県の「生」の字が使われている地名を紹介してきましたが、とりあえず今回でこの「生」は終わりにします。
残された名前には次のものがあります。

<ウ>地名:植物や穀物などの採れた場所?
千葉県南房総市富浦町丹生 にゅう
千葉県印旛郡栄町麻生 あそう
千葉県山武市麻生新田 あそうしんでん
千葉県市原市朝生原        あそうばら
千葉県千葉市稲毛区園生町 そのうちょう
千葉県成田市大生    おおう
千葉県富津市萩生    はぎう
千葉県君津市釜生    かもう
<その他>
千葉県千葉市若葉区愛生町 あいおいちょう
千葉県木更津市菅生    すごう
千葉県野田市座生    ざおう
千葉県香取市神生    かんのう
千葉県千葉市稲毛区弥生町 やよいちょう
千葉県柏市弥生町    やよいちょう

また、山武市松尾町八田の小字名に「生子宿」という地名があります。
読み方は「はだかじゅく」です。
現在は総武線の松尾~横芝間に「生子宿踏切」という名前が残されています。

最後にこの横芝光町の「虫生の里」につたわる<鬼来迎>の昔話を紹介します。

<鬼来迎>は鬼舞とも呼ばれ、地獄を再現した劇で、仏教の因果応報の理法を説いた大変珍しい仏教劇である。

 この由来は、鎌倉時代の初期、後鳥羽院の時代に遡る。薩摩の国の禅僧石屋が、衆生済度のため諸国を遊行の途中、虫生の里に立ち寄り、この地の辻堂を仮寝の宿としたとき、妙西信女という十七歳の新霊が鬼どもに責められている様を見た。翌日、墓参に来た妙西の父・椎名安芸守と、妻・顔世と言葉をかわすことになったが、新霊は、この地の領主・安芸守の一人娘とわかった。請われるままに真夜中に見た地獄絵さながらの様子を話すと、安芸守は自分の悪行を悔い、娘の法名、妙西を広西と改め、彼女の墓堤を弔うために建久七年(1196年)仲夏、慈士山地蔵院広西寺を建立し、その開山となった。

 ところが、その年の仲夏六日、虫生の里に突然雷雨が起こり、寺の庭に青・黒・赤・白の鬼面と、祖老母の面等が天降ってきた。不思議に思った石屋は、これを寺内にとどめておいた。

 一方、当時鎌倉に居住していた運慶・湛慶・安阿弥の三人の彫刻師が、ある時偶然に、石屋と安芸守夫婦が亡き娘の卒塔婆をたてて、菩薩に済度されたという情景を夢に見て感動し、はるばる虫生の里を訪ねて石屋に逢った。石屋は三人にかつて辻堂で見た地獄の呵責のの様子と、それを救われた菩薩の大悲のありさまを詳しく話し、その姿を来世に残して、大衆の教化をはかりたい意向をのべたので、三人は早速、閻魔大王、倶生神、祖老母、黒鬼、赤鬼等の面象を彫刻し、出来上がった面をそれぞれ顔に当て、石屋もまた僧徒を集めて鬼に扮して、八月十六日に演じてみせた。そしてその後も、地獄の相・菩薩の威力を示す「鬼来迎」は、毎年八月十六日に行われるようになったといわれている。(横芝光町商工会HP)



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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/10 08:53

千葉の難読地名(9) 奉免、法目

≪奉免(法免)≫ ほうめ  市川市 市原市
≪奉目新田≫ ほうめしんでん 野田市
≪法目≫ ほうめ  茂原市
≪法目村≫ ほうめむら 白井町  明治7年まであった


千葉難読地名9


奉免の地名は中世に神社領などに租税を免除したことに由来するという。
野田市の奉目新田は、貢租免除地の奉免による(東葛飾郡誌)野田七か新田の一つで、もとは馬の放牧地だったという。

また平安時代に各地で作られた荘園(しょうえん)では、年貢を有力な寺院などに寄付して、朝廷への納税義務を免れる有力者が多く出てきました。
これらの租税をまぬかれた土地には「保免(ほうめん)、奉免(ほうめ)」などと呼ばれ、地名として残ったと思われます。

茨城県石岡市の「仏生(ぶっしょう)」などという地名も寺に奉納する穀物を作る田の免税田として、付けられた名前だと考えられます。
また国府田(こうだ)なども、その国府に奉納する米の耕作地であり、税が免除されたところなのでしょう。

ただ、これらの地名にはまた別な昔話も付いて来るようで、

1)茂原市の「法目」については日本武尊が当地に船具の帆を埋めたことから「帆埋」となり、転じて「法目」となった(長生郡郷土誌)
2)市川市の「奉免」には、後深草天皇の姫が難病に罹って都からこの地にたどり着いた際、里人の願いで鎌倉幕府は租税を免じ奉って姫の御料にあてさせたことによる。
との説明もありました。
また、この姫は後に若宮中山法華経寺の日蓮の説教に接し、病が治ったあともこれに帰依すること篤く、やがて日蓮宗門で最初となる尼寺「奉免山安楽寺」を開山するに至ったという。

同じ意味の地名として 愛媛県松山市に ≪保免 ほうめん≫という地名があります。

その他、「ほうめ」と読む地名を千葉県内で探してみると

・ ≪堀籠≫ ほうめ 成田市  ・・・南北朝期からある村名。
・ ≪宝米≫ ほうめ  横芝光町  (「ほうめい」 ともいう)・・・江戸期からある村名。古い板碑が存在する

があります。こちらの由来についてははっきりしませんが、「奉免」と同様の流れかもしれません。

その他、「法」のつく地名を下記します。

・ ≪法花≫  ほうげ  勝浦市
 古くは法華と書いた。「生(は)う華」または雑草蔓延の意の「生うけ」に由来すると伝える(角川 日本地名大辞典)
 法華(ほっけ)などと読むなら崖地などに付けられた可能性が高いが・・・・

・ ≪法木≫  ほうぎ  君津市

・ ≪法木作≫  ほうぎさく  君津市
 古くは法木とも称した。箒木(ほうき)の谷という地勢に由来するとか、ほう(朴)の木が存在したからなどの説がある。(角川 日本地名大辞典)


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千葉の難読地名 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2020/06/11 06:38
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