千葉の難読地名(38) 北方町
≪北方町 ぼっけまち≫ 市川市

<北方町 ぼっけまち≫ 市川市
大柏川中流左岸に位置する。
地名は古く、室町期に「北方村」とある。応永年間(1394~1428)の帳に「北方 ボツケ」と見える。
北方町の南側に「北方(きたかた)」という地名があるが、こちらは後から「北方町(ボッケマチ)」より分離したときに、地名の読み方を変えたもの。
さて、「ボッケ」というとあちこちでこの地名の由来はとり上げられているが、アイヌ語説が一番多いように思う。
しかし、どうもスッキリしない。
柳田國男の「地名の研究」には、ハケ、ハッケ、バッケ、ボケ などについては、
「谷川の両岸の山の狭まっている所をホキ・ホケ・ハケという。これは今中国四国などに残っているが大分広い区域にわたっている。吉野川の大ボケ小ボケなどはその一例である」と書かれている。
・・・・・・・・
能登と越中の境などはクエ、崩れることをクエルといったのである。関東・東北はガケ・ガンケが多く、ハケというのもその系統に属するのかも知れぬ。九州から四国ことに土佐にかけては、ツエというのが一般のようになっている。
・・・・・・・・
たとえば崖の上面を何ハケといい、側面を何ハバといい、急傾斜を何ママというものが、国を連ねても十も十五も発見せられるなら、そのハケ・ハバまたはママは、こういう場所を意味した普通名詞なることが知れるのである
・・・・・・・
ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近ではたとえば小金井の字峡田(はけた)、調布町小島分の字峡(はけ)上、谷保の字岨下。北郊にあっては田端の字峡附(はけつき)、岩淵町大字袋字峡通りの類、多くは古くから峡の字が用いてある。『武蔵演路』巻二、豊島郡峡田領の条に、当国の方言に山の岸または丘陵の片なだれの処へ作りかけたる田を、ハケ田というとある。また『新篇風土記稿』の入間(いるま)郡下安松(今の松井村大字)の条には、多摩郡山口村の辺より新座(にいくら)郡引又町(今の北足立郡志木町)の辺まで、すべて峡つづきゆえに高くして南の方は柳瀬(やなせ)川のへりに傍(そ)いたれば低しとある。「峡つづき」の台地の外縁であることは往ってみればすぐ判る。峡の代りに岨もしくは※[#「山+圭」、252-5]の字も用い、西多摩郡平井村の字では欠の字をもってハケに当てている。相模の原野地方にも武蔵野に似た地形があるが、ハケまたは※[#「山+圭」、252-7]の字を当てた例が多い。これらの漢字はさまで研究した用法でもあるまいから、いちいち『竜龕手鑑りゅうがんしゅかん』などを検してみるだけの必要もなかろうが、とにかく文字の方からもある状態を現わそうとした努力だけは見える。しかし他の地方においては多くは羽毛(はけ)・端気(はけ)などと音を画くのをもっぱらとしている。ただ一つ利根川の上流に(上野利根郡)久呂保(くろほ)村大字川額(かわはけ)と、額の字をもって川の高岸を表わしたのは例外で、思川の川筋には(下野上都賀郡)板荷(いたが)村字川化(かわばけま)たは大川化などと化けるという字が当ててある。東北においてはハケよりもハッケの方が多かったと見えて、八慶または何八卦などという地名が少なくない。八景とあるのもいくらも見かける。ハケとハッケと別物でないことは、『茨城県方言集覧』に、
バッケ 多賀地方にて崖のこと また他の地方にて山岡などの直立せる崖
イワハケ 岩の傾きたる岨(そわ)
とある。岨という標準語は普通水流に臨んだ高岸にのみ用いられるが、もし下が湿地平田等何であっても構わぬとすれば、ハケはまことにこれに相当している。」
---------------------------------
などと多くを割いて書いている。
しかし、これが「アイヌ語(縄文語)」かというと、私にはよくわからない。
茨城県も水戸の「木葉下(アボッケ)」、守谷市と筑西市、五霞町の3箇所に「赤法花(アカボッケ)」などがあるが、その他に
・福島県桧枝岐村に「赤法華(アカボッケ)」「赤法華沢(アカボッケザワ)
・栃木県壬生町に「赤仏(アカボッケ)」
・宮城県栗原市に「石法花(イシボッケ)」
・栃木県岩舟町に「法花(ホッケ)」
・愛知県岡崎市に「法花(ホッケ)」
(その他「ホッケ」地名)
新潟県燕市吉田法花堂
新潟県上越市三和区法花寺
富山県滑川市法花寺
石川県加賀市大聖寺法華坊町
愛知県名古屋市中川区法華
愛知県名古屋市中川区法華西町
愛知県稲沢市法花寺町
三重県伊賀市法花
京都府木津川市加茂町法花寺野
兵庫県豊岡市法花寺
奈良県奈良市法華寺町
奈良県橿原市法花寺町
鳥取県鳥取市国府町法花寺
徳島県徳島市八万町(法花)
徳島県徳島市八万町(法花谷)
など「ホッケ」「ボッケ」という地名はたくさんある。
そのほとんどが「崖」とか「崩れ地」に関係が有りそうである。
ただ、アイヌ語にその語源を求めるのは、あまりスッキリした解が見つからないのだ。
アイヌ語で探すと
【pok】 ~の下
【pa-ke】 出崎の突端の崖
位しか見当たらない。
これからなら、東京の国分寺崖線沿いに続く「ハケの道」の「ハケ」は、「水はけ」などと使う「ハケ」と同義であろうと思う。
しかし、「ハケ」「パケ」などと同義で「ホッケ」「ボッケ」などを同じように見ていこうとすると少し無理がある。
また、良くわからないので、地方の方言などとも書かれたり、「カケ=欠け」から来た言葉ではないかなどとも言われているのだろう。
もう少し各地を見ていけばスッキリした由来がわかるのかもしれないが、私の手には余るので、とりあえずここまでとしよう。
千葉県には「法花(ほうげ)」(勝浦市)があるが、こちらはNo9の方に書いた。
古くは「法華」と書き、地名は「生(は)う華」または雑草蔓延の意の「生うけ」に由来すると伝える。(角川 日本地名大辞典)
とある。読み方が異なると解釈もニュアンスが異なってくる。
千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

<北方町 ぼっけまち≫ 市川市
大柏川中流左岸に位置する。
地名は古く、室町期に「北方村」とある。応永年間(1394~1428)の帳に「北方 ボツケ」と見える。
北方町の南側に「北方(きたかた)」という地名があるが、こちらは後から「北方町(ボッケマチ)」より分離したときに、地名の読み方を変えたもの。
さて、「ボッケ」というとあちこちでこの地名の由来はとり上げられているが、アイヌ語説が一番多いように思う。
しかし、どうもスッキリしない。
柳田國男の「地名の研究」には、ハケ、ハッケ、バッケ、ボケ などについては、
「谷川の両岸の山の狭まっている所をホキ・ホケ・ハケという。これは今中国四国などに残っているが大分広い区域にわたっている。吉野川の大ボケ小ボケなどはその一例である」と書かれている。
・・・・・・・・
能登と越中の境などはクエ、崩れることをクエルといったのである。関東・東北はガケ・ガンケが多く、ハケというのもその系統に属するのかも知れぬ。九州から四国ことに土佐にかけては、ツエというのが一般のようになっている。
・・・・・・・・
たとえば崖の上面を何ハケといい、側面を何ハバといい、急傾斜を何ママというものが、国を連ねても十も十五も発見せられるなら、そのハケ・ハバまたはママは、こういう場所を意味した普通名詞なることが知れるのである
・・・・・・・
ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近ではたとえば小金井の字峡田(はけた)、調布町小島分の字峡(はけ)上、谷保の字岨下。北郊にあっては田端の字峡附(はけつき)、岩淵町大字袋字峡通りの類、多くは古くから峡の字が用いてある。『武蔵演路』巻二、豊島郡峡田領の条に、当国の方言に山の岸または丘陵の片なだれの処へ作りかけたる田を、ハケ田というとある。また『新篇風土記稿』の入間(いるま)郡下安松(今の松井村大字)の条には、多摩郡山口村の辺より新座(にいくら)郡引又町(今の北足立郡志木町)の辺まで、すべて峡つづきゆえに高くして南の方は柳瀬(やなせ)川のへりに傍(そ)いたれば低しとある。「峡つづき」の台地の外縁であることは往ってみればすぐ判る。峡の代りに岨もしくは※[#「山+圭」、252-5]の字も用い、西多摩郡平井村の字では欠の字をもってハケに当てている。相模の原野地方にも武蔵野に似た地形があるが、ハケまたは※[#「山+圭」、252-7]の字を当てた例が多い。これらの漢字はさまで研究した用法でもあるまいから、いちいち『竜龕手鑑りゅうがんしゅかん』などを検してみるだけの必要もなかろうが、とにかく文字の方からもある状態を現わそうとした努力だけは見える。しかし他の地方においては多くは羽毛(はけ)・端気(はけ)などと音を画くのをもっぱらとしている。ただ一つ利根川の上流に(上野利根郡)久呂保(くろほ)村大字川額(かわはけ)と、額の字をもって川の高岸を表わしたのは例外で、思川の川筋には(下野上都賀郡)板荷(いたが)村字川化(かわばけま)たは大川化などと化けるという字が当ててある。東北においてはハケよりもハッケの方が多かったと見えて、八慶または何八卦などという地名が少なくない。八景とあるのもいくらも見かける。ハケとハッケと別物でないことは、『茨城県方言集覧』に、
バッケ 多賀地方にて崖のこと また他の地方にて山岡などの直立せる崖
イワハケ 岩の傾きたる岨(そわ)
とある。岨という標準語は普通水流に臨んだ高岸にのみ用いられるが、もし下が湿地平田等何であっても構わぬとすれば、ハケはまことにこれに相当している。」
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などと多くを割いて書いている。
しかし、これが「アイヌ語(縄文語)」かというと、私にはよくわからない。
茨城県も水戸の「木葉下(アボッケ)」、守谷市と筑西市、五霞町の3箇所に「赤法花(アカボッケ)」などがあるが、その他に
・福島県桧枝岐村に「赤法華(アカボッケ)」「赤法華沢(アカボッケザワ)
・栃木県壬生町に「赤仏(アカボッケ)」
・宮城県栗原市に「石法花(イシボッケ)」
・栃木県岩舟町に「法花(ホッケ)」
・愛知県岡崎市に「法花(ホッケ)」
(その他「ホッケ」地名)
新潟県燕市吉田法花堂
新潟県上越市三和区法花寺
富山県滑川市法花寺
石川県加賀市大聖寺法華坊町
愛知県名古屋市中川区法華
愛知県名古屋市中川区法華西町
愛知県稲沢市法花寺町
三重県伊賀市法花
京都府木津川市加茂町法花寺野
兵庫県豊岡市法花寺
奈良県奈良市法華寺町
奈良県橿原市法花寺町
鳥取県鳥取市国府町法花寺
徳島県徳島市八万町(法花)
徳島県徳島市八万町(法花谷)
など「ホッケ」「ボッケ」という地名はたくさんある。
そのほとんどが「崖」とか「崩れ地」に関係が有りそうである。
ただ、アイヌ語にその語源を求めるのは、あまりスッキリした解が見つからないのだ。
アイヌ語で探すと
【pok】 ~の下
【pa-ke】 出崎の突端の崖
位しか見当たらない。
これからなら、東京の国分寺崖線沿いに続く「ハケの道」の「ハケ」は、「水はけ」などと使う「ハケ」と同義であろうと思う。
しかし、「ハケ」「パケ」などと同義で「ホッケ」「ボッケ」などを同じように見ていこうとすると少し無理がある。
また、良くわからないので、地方の方言などとも書かれたり、「カケ=欠け」から来た言葉ではないかなどとも言われているのだろう。
もう少し各地を見ていけばスッキリした由来がわかるのかもしれないが、私の手には余るので、とりあえずここまでとしよう。
千葉県には「法花(ほうげ)」(勝浦市)があるが、こちらはNo9の方に書いた。
古くは「法華」と書き、地名は「生(は)う華」または雑草蔓延の意の「生うけ」に由来すると伝える。(角川 日本地名大辞典)
とある。読み方が異なると解釈もニュアンスが異なってくる。
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千葉の難読地名(39) 先崎
≪先崎 まっさき≫ 佐倉市

印旛沼西端の丘陵地上に位置する。台地南の崖線に先崎城跡がある。(角川 日本地名大辞典)
元禄13年(1700)頃の帳に印旛郡として村名が見える。(平凡社 千葉県の地名)
そういえば茨城県小美玉市に「先後」で「まつのち」または地元では「まずのち」という地名があった。
「先」を「まず」と読むのはある程度自然の流れであり、これが
【先=まず】 ⇒ 【まつ】
に変っていくのであれば、
【先崎 まずさき】 ⇒ 【まつさき】 ⇒ 【まっさき】
となってもおかしくはない。
岩手県大船渡市末崎町 まっさきちょう
ここは、島の6キロの海岸線を『碁石海岸』と呼ぶ。雄大な海蝕地形で知られるリ アス式海岸である。
断崖、洞門、洞窟、洞穴などの変化に富んだ景観として知られているが、ここは大きく海に飛び出した岬(半島)のような場所である。
一方こちらの佐倉市先崎(まっさき)は印旛沼の南側で特に岬のように飛び出したところには見えない。
ただ、昔の印旛沼はもっと大きな内海とつながっており、どのような形状をしていたのかはよく分らない。
地名由来としては
1) 突き出した岬のような場所
2) 曲がった湾、川などに突き出た場所
というような意味合いがあるのではないかと思う。
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印旛沼西端の丘陵地上に位置する。台地南の崖線に先崎城跡がある。(角川 日本地名大辞典)
元禄13年(1700)頃の帳に印旛郡として村名が見える。(平凡社 千葉県の地名)
そういえば茨城県小美玉市に「先後」で「まつのち」または地元では「まずのち」という地名があった。
「先」を「まず」と読むのはある程度自然の流れであり、これが
【先=まず】 ⇒ 【まつ】
に変っていくのであれば、
【先崎 まずさき】 ⇒ 【まつさき】 ⇒ 【まっさき】
となってもおかしくはない。
岩手県大船渡市末崎町 まっさきちょう
ここは、島の6キロの海岸線を『碁石海岸』と呼ぶ。雄大な海蝕地形で知られるリ アス式海岸である。
断崖、洞門、洞窟、洞穴などの変化に富んだ景観として知られているが、ここは大きく海に飛び出した岬(半島)のような場所である。
一方こちらの佐倉市先崎(まっさき)は印旛沼の南側で特に岬のように飛び出したところには見えない。
ただ、昔の印旛沼はもっと大きな内海とつながっており、どのような形状をしていたのかはよく分らない。
地名由来としては
1) 突き出した岬のような場所
2) 曲がった湾、川などに突き出た場所
というような意味合いがあるのではないかと思う。
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千葉県の難読地名(40) 主基西
≪主基西 すきにし≫ 鴨川市

≪主基西 すきにし≫ 鴨川市
昭和50年から鴨川市の大字名となったが、元は鴨川市西の一部であった。
また「主基村(すきむら)」が大正4年から昭和30年まで存在した。
この村はそれまで「由基村(ゆきむら)」といっていた。
由基村は明治22年に北小町、南小町、成川、上小原、下小原の5ヶ村が合併して成立。
このようにこの地名は明治以降につけられた名前です。
地名の由来は
江戸から明治になり、天皇制を中心とした体制が定められ、明治天皇即位に伴う、宮中行事(天皇家の行事)である「大嘗祭(だいじょうさい)の神田の選定が行われました。
明治4年に最初の大嘗祭(新嘗祭)で使う新穀を「卜定(骨を焼いた時のヒビでの占い)」により、2か所の神田をが選ばれました。
その2か所は甲斐国巨摩郡と安房国長狭郡北小町村字仲ノ坪の6反歩(約60アール)が選ばれたのです。
この安房国の神田がこの地なのです。
この2か所の神田はそれぞれ、 悠紀(由基)斎田(ゆきさいでん)と主基斎田(すきさいでん)と呼ばれます。
これは毎年の新嘗祭ごとに全国から選ばれますが、明治天皇即位に大嘗祭(天皇が変わった時の新嘗祭)に選ばれたのを名誉として村名になったのです。
ただ、その時の
・悠紀(由基)斎田=甲斐国巨摩郡
・主基斎田=安房国長狭郡北小町村
ですから、主基村(すきむら)なのですが、当初の村名は由基村(ゆきむら)となりました。
そして後の大正4年に名称を「主基村(すきむら)」に直したということのようです。
まあ、2か所の斎田のうちメインが「由基」で、次が「主基」のようです。
Wikipedia を調べてみると、「 村では斎田の周囲には青竹を立てて、しめ縄を張り、垣をめぐらせて厳重に囲いました。また、隣地には八神殿、稲実殿などを設け、番屋で花房藩の役人が警備しました。大嘗祭に先立ち神祇省(じんぎしょう)から抜穂使(ぬきほのつかい)ら8人が多くの従者を伴って訪れ、抜穂式(ぬきほしき)が厳かに行われました。」と書かれています。
明治の大嘗祭は明治4年11月に東京で行われましたが、
この悠紀国として選ばれた甲斐国の斎田場所は、当時の巨摩郡上石田村(現:甲府市)に選定され、その控地が当時の巨摩郡中楯村(現:中央市)と決定されました。 現在、その斎田の跡地は甲府市上石田三丁目の「南西第一児童公園」となっています。
こちらの主基国として選ばれた安房国長狭郡北小町村の斎田場所は、現在、千葉県鴨川市北小町字仲ノ坪の「主基斎田址公園」として整備されています。
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≪主基西 すきにし≫ 鴨川市
昭和50年から鴨川市の大字名となったが、元は鴨川市西の一部であった。
また「主基村(すきむら)」が大正4年から昭和30年まで存在した。
この村はそれまで「由基村(ゆきむら)」といっていた。
由基村は明治22年に北小町、南小町、成川、上小原、下小原の5ヶ村が合併して成立。
このようにこの地名は明治以降につけられた名前です。
地名の由来は
江戸から明治になり、天皇制を中心とした体制が定められ、明治天皇即位に伴う、宮中行事(天皇家の行事)である「大嘗祭(だいじょうさい)の神田の選定が行われました。
明治4年に最初の大嘗祭(新嘗祭)で使う新穀を「卜定(骨を焼いた時のヒビでの占い)」により、2か所の神田をが選ばれました。
その2か所は甲斐国巨摩郡と安房国長狭郡北小町村字仲ノ坪の6反歩(約60アール)が選ばれたのです。
この安房国の神田がこの地なのです。
この2か所の神田はそれぞれ、 悠紀(由基)斎田(ゆきさいでん)と主基斎田(すきさいでん)と呼ばれます。
これは毎年の新嘗祭ごとに全国から選ばれますが、明治天皇即位に大嘗祭(天皇が変わった時の新嘗祭)に選ばれたのを名誉として村名になったのです。
ただ、その時の
・悠紀(由基)斎田=甲斐国巨摩郡
・主基斎田=安房国長狭郡北小町村
ですから、主基村(すきむら)なのですが、当初の村名は由基村(ゆきむら)となりました。
そして後の大正4年に名称を「主基村(すきむら)」に直したということのようです。
まあ、2か所の斎田のうちメインが「由基」で、次が「主基」のようです。
Wikipedia を調べてみると、「 村では斎田の周囲には青竹を立てて、しめ縄を張り、垣をめぐらせて厳重に囲いました。また、隣地には八神殿、稲実殿などを設け、番屋で花房藩の役人が警備しました。大嘗祭に先立ち神祇省(じんぎしょう)から抜穂使(ぬきほのつかい)ら8人が多くの従者を伴って訪れ、抜穂式(ぬきほしき)が厳かに行われました。」と書かれています。
明治の大嘗祭は明治4年11月に東京で行われましたが、
この悠紀国として選ばれた甲斐国の斎田場所は、当時の巨摩郡上石田村(現:甲府市)に選定され、その控地が当時の巨摩郡中楯村(現:中央市)と決定されました。 現在、その斎田の跡地は甲府市上石田三丁目の「南西第一児童公園」となっています。
こちらの主基国として選ばれた安房国長狭郡北小町村の斎田場所は、現在、千葉県鴨川市北小町字仲ノ坪の「主基斎田址公園」として整備されています。
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千葉の難読漢字(41) 野狐台町
≪野狐台町 やっこだいまち≫ 佐倉市

≪野狐台町 やっこだいまち≫ 佐倉市
地名の由来は「ヤッコ(奴)」によるものか。江戸前期は鏑木・大蛇両村の入会地で、寛文頃両村から分かれて佐倉城外の足軽屋敷となった。(角川 日本地名大辞典)
野狐を「ノギツネ」と読まず、「ヤコ」と読むのは、人をだますキツネの妖怪の事のようだが、この地名の由来は江戸時代の足軽や「奴(やっこ)さん」身分の人たちが多く住んでいたことのようです。
Wikipediaで「奴」を調べてみると
「奴(やっこ)とは、江戸時代の武家の下僕のこと。」
「武家に働く者の中でも低い身分にあたり、「中間(ちゅうげん)」や「折助(おりすけ)」と呼ばれていた武家奉公人を、蔑むときの呼び名である。「家つ子」(やつこ)が語源であるとされる。」
と書かれています。
また、「奴は農民や一般町民の次男三男が雇われてなることが多かった。武士が出かける時の荷物持ちなど、雑務をこなしていた。参勤交代の時には大勢の奴が必要となるため、このときだけ臨時で雇われるということもあった。 」ともあります。
奴の姿は、一般に大きな四角形を染めた半纏を着ていることが多く、この四角の形から豆腐を四角に切ったものが「冷奴」と呼ばれるようになったとか・・・。
また、
・奴凧(やっこだこ)・・・奴の両袖を張った姿を模したもの
・「○○奴」(遊女や芸者)・・・遊廓や花柳界の女性がこの身分の男性の言行をまねることがあったため
だそうです。
まあ、最近はあまり「奴さん」の歌も聞かなくなった。
昔は江利チエミや美空ひばりが歌っていたが・・・
さて、キツネに騙される方の「野狐(ヤコ)」だが、九州などでは野狐(ヤコ)にだまされたり、とり憑かれる話しなどがたくさんある。
まあこんな話も時間があれば調べてみるのも面白そうだが、この地名とはあまり関係ないようだ。
ただ、ヤッコを漢字で「奴」と書くのは奴隷の連想に通じるので憚られたようで、「野狐」とあらわしたのだろう。
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≪野狐台町 やっこだいまち≫ 佐倉市
地名の由来は「ヤッコ(奴)」によるものか。江戸前期は鏑木・大蛇両村の入会地で、寛文頃両村から分かれて佐倉城外の足軽屋敷となった。(角川 日本地名大辞典)
野狐を「ノギツネ」と読まず、「ヤコ」と読むのは、人をだますキツネの妖怪の事のようだが、この地名の由来は江戸時代の足軽や「奴(やっこ)さん」身分の人たちが多く住んでいたことのようです。
Wikipediaで「奴」を調べてみると
「奴(やっこ)とは、江戸時代の武家の下僕のこと。」
「武家に働く者の中でも低い身分にあたり、「中間(ちゅうげん)」や「折助(おりすけ)」と呼ばれていた武家奉公人を、蔑むときの呼び名である。「家つ子」(やつこ)が語源であるとされる。」
と書かれています。
また、「奴は農民や一般町民の次男三男が雇われてなることが多かった。武士が出かける時の荷物持ちなど、雑務をこなしていた。参勤交代の時には大勢の奴が必要となるため、このときだけ臨時で雇われるということもあった。 」ともあります。
奴の姿は、一般に大きな四角形を染めた半纏を着ていることが多く、この四角の形から豆腐を四角に切ったものが「冷奴」と呼ばれるようになったとか・・・。
また、
・奴凧(やっこだこ)・・・奴の両袖を張った姿を模したもの
・「○○奴」(遊女や芸者)・・・遊廓や花柳界の女性がこの身分の男性の言行をまねることがあったため
だそうです。
まあ、最近はあまり「奴さん」の歌も聞かなくなった。
昔は江利チエミや美空ひばりが歌っていたが・・・
さて、キツネに騙される方の「野狐(ヤコ)」だが、九州などでは野狐(ヤコ)にだまされたり、とり憑かれる話しなどがたくさんある。
まあこんな話も時間があれば調べてみるのも面白そうだが、この地名とはあまり関係ないようだ。
ただ、ヤッコを漢字で「奴」と書くのは奴隷の連想に通じるので憚られたようで、「野狐」とあらわしたのだろう。
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千葉の難読地名(42)下望陀、上望陀、請西
≪下望陀 しももうだ≫ 木更津市
≪上望陀 かみもうだ≫ 木更津市
≪請西 じょうざい≫ 木更津市

≪望陀 もうだ≫ 木更津市
望駝郡は古代から上総国におかれた郡名で、平安時代の辞書「和名抄」には望駝郡とあり、訓は「末宇太」と<書かれているが、万葉集には「宇麻具多」とあり、古事記などは「馬来田国造」と書かれている。
そのため、「馬来田(ウマクタ、マクタ)」 ⇒ マウタ ⇒ モウダ へ転化したものと思われている。
小櫃川(おびつがわ)の北側にあるが、川に沿った地域が「下望陀」でその北側が「上望陀」となっている。
上望陀地区の鎮守は「日少宮(ひのわかみや)神社」が鎮座しています。
なぜここにこの神社が創建されたのかはよくわかりません。
日少宮(ひのわかみや)神社は日本の神話で伊弉諾(イザナギ)尊が、国生みの大役をはたして、余生を送ったという「幽宮(かくりのみや)」のことで、淡路一之宮の伊弉諾神社を指しているといわれています。
古い郡名が現在の地名になっているが、ここで注目すべきことは
「望陀布(もうだのぬの)」の存在です。
律令制の時代にこの望陀で産出した麻布は「租・庸・調」の調布の最高級麻布と認定され、大嘗祭などでも奉納品・贈答品として採用されていました。
一般に言われている「上総細布(かずささいふ)」よりも目の細かい精密な布であったと考えられています。
何故この地が大和朝廷とのつながりが深かったといえば、当時横須賀の走水から舟でこの地は直接つながっており、馬来田国造(うまくたのくにのみやつこ)が、東国の都からの入口となっていたからにほかなりません。
≪請西 じょうざい≫ 木更津市
矢那川中流の左岸に位置する。
地名は、「城在」、または「城砦」が転じたものという。
戦国期の天正6年(1578)銘の阿弥陀如来像の台座に開眼供養者名として「請西長谷寺住僧」の墨書がある。
請西の名前の基となった城(請西城)については、現在城の遺稿が残されていますが、築城者や築城年代など詳細は殆んど分っていません。
江戸時代は譜代大名の請西藩(林家 1万石)の真武根(まぶね)陣屋がありました。
この林家は戊辰戦争で義をつらぬき、新政府軍に抵抗して脱藩し、自らこの陣屋を焼き払い出陣したと伝わっています。
現在この陣屋の土塁等が確認できます。
地名の基となった中世の請西城は、真武根陣屋がある丘陵に連なる北西部台地に築かれていたという。
ただ、何処までがその遺稿か詳しく知ることができない。
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≪上望陀 かみもうだ≫ 木更津市
≪請西 じょうざい≫ 木更津市

≪望陀 もうだ≫ 木更津市
望駝郡は古代から上総国におかれた郡名で、平安時代の辞書「和名抄」には望駝郡とあり、訓は「末宇太」と<書かれているが、万葉集には「宇麻具多」とあり、古事記などは「馬来田国造」と書かれている。
そのため、「馬来田(ウマクタ、マクタ)」 ⇒ マウタ ⇒ モウダ へ転化したものと思われている。
小櫃川(おびつがわ)の北側にあるが、川に沿った地域が「下望陀」でその北側が「上望陀」となっている。
上望陀地区の鎮守は「日少宮(ひのわかみや)神社」が鎮座しています。
なぜここにこの神社が創建されたのかはよくわかりません。
日少宮(ひのわかみや)神社は日本の神話で伊弉諾(イザナギ)尊が、国生みの大役をはたして、余生を送ったという「幽宮(かくりのみや)」のことで、淡路一之宮の伊弉諾神社を指しているといわれています。
古い郡名が現在の地名になっているが、ここで注目すべきことは
「望陀布(もうだのぬの)」の存在です。
律令制の時代にこの望陀で産出した麻布は「租・庸・調」の調布の最高級麻布と認定され、大嘗祭などでも奉納品・贈答品として採用されていました。
一般に言われている「上総細布(かずささいふ)」よりも目の細かい精密な布であったと考えられています。
何故この地が大和朝廷とのつながりが深かったといえば、当時横須賀の走水から舟でこの地は直接つながっており、馬来田国造(うまくたのくにのみやつこ)が、東国の都からの入口となっていたからにほかなりません。
≪請西 じょうざい≫ 木更津市
矢那川中流の左岸に位置する。
地名は、「城在」、または「城砦」が転じたものという。
戦国期の天正6年(1578)銘の阿弥陀如来像の台座に開眼供養者名として「請西長谷寺住僧」の墨書がある。
請西の名前の基となった城(請西城)については、現在城の遺稿が残されていますが、築城者や築城年代など詳細は殆んど分っていません。
江戸時代は譜代大名の請西藩(林家 1万石)の真武根(まぶね)陣屋がありました。
この林家は戊辰戦争で義をつらぬき、新政府軍に抵抗して脱藩し、自らこの陣屋を焼き払い出陣したと伝わっています。
現在この陣屋の土塁等が確認できます。
地名の基となった中世の請西城は、真武根陣屋がある丘陵に連なる北西部台地に築かれていたという。
ただ、何処までがその遺稿か詳しく知ることができない。
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千葉の難読地名(43) 飯山満町 波左間
≪飯山満町 はさまちょう≫ 船橋市
≪波左間 はさま≫ 館山市

≪飯山満町 はさまちょう≫ 船橋市
海老川の上流に位置する。
戦国期に「志々はざま村」とあり、慶長19年(1614)の街道覚帳に「飯山満村」とあり、その後元禄期(1688~1704)の前に上飯山満村と下飯山満村に分村した。
昭和30年から飯山満町となったが、宅地が進んで、団地なども設立された。
地名は狭い谷間の「狭間」から呼ばれたものという。
「山奥でも米がとれる良い土地=飯が山に満る」などという意味を込めてこの漢字をあてたのだろう。
住宅化される前は谷津田が広がっていた。
また、深田で、子供などが一度はまるとなかなか抜け出せないなどと言われていたという。
地名の読みは「ハサマ」だが、地元では「ハザマ」とも言っている。
≪波左間 はさま≫ 館山市
江戸期の初めから見える村名であるが、昔は「波佐間」「羽佐間」とも書いたという。
西岬北岸に位置し、館山湾に面する。
地名は、平地が少なく、海にせまる山すそのため、「狭間」からきているという。
また、名郷浦(なごうら)と呼ばれる風邪の静かな砂浜(浦)があるが、これは「凪浦(なぎさうら)」から来たのではないか。((角川 日本地名大辞典))
全国の「ハザマ」「ハサマ」地名を調べてみた。
<硲>
茨城県つくば市大白硲 おおじらはざま
茨城県つくば市小白硲 こじらはざま
新潟県長岡市寺泊硲田 てらどまりはざまだ
<迫、迫間>
岡山県玉野市迫間 はざま
熊本県玉名市両迫間 りょうはざま
熊本県菊池市西迫間 にしはざま
岩手県花巻市大迫町 おおはさままち
岩手県花巻市東和町舘迫 たてはさま
宮城県登米市豊里町迫 はさま
宮城県登米市迫町 はさまちょう
宮城県栗原市一迫 いちはさま
栃木県足利市迫間町 はさまちょう
栃木県小山市迫間田 はさまだ
岐阜県関市新迫間 しんはさま
岐阜県関市迫間 はさま
岐阜県関市迫間台 はさまだい
愛知県豊田市迫町 はさまちょう
愛知県蒲郡市西迫町 にしはさまちょう
三重県志摩市磯部町迫間 はさま
三重県度会郡南伊勢町迫間浦 はさまうら
滋賀県蒲生郡日野町迫 はさま
兵庫県朝来市山東町迫間 はさま
奈良県宇陀市大宇陀迫間 おおうだはさま
<狭間>
東京都八王子市狭間町 はざままち
愛知県名古屋市昭和区狭間町 はざまちょう
愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間 おけはざま
愛知県名古屋市緑区桶狭間 おけはざま
愛知県長久手市東狭間 ひがしはざま
京都府京都市北区上賀茂狭間町 かみがもはざまちょう
京都府京都市左京区修学院狭間町 しゅうがくいんはざまちょう
京都府京都市伏見区醍醐狭間 だいごはざま
栃木県塩谷郡高根沢町狭間田 はさまた
兵庫県三田市狭間が丘 はさまがおか
大分県国東市武蔵町狭間 はさま
<挾間>
福岡県豊前市挾間 はさま
大分県由布市挾間町 はさままち
<巡><廻>
愛知県瀬戸市巡間町 はざまちょう
愛知県春日井市廻間町 はざまちょう
愛知県豊明市沓掛町(小廻間) (こはざま)
愛知県知多郡武豊町廻間 はざま
茨城県稲敷郡阿見町廻戸 はさまど
愛知県清須市廻間 はさま
<その他>
香川県仲多度郡まんのう町羽間 はざま
高知県香美市土佐山田町間 はざま
静岡県藤枝市岡部町羽佐間 はさま
滋賀県米原市間田 はさまた
福岡県柳川市間 はさま
長崎県五島市三井楽町波砂間 はさま
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≪波左間 はさま≫ 館山市

≪飯山満町 はさまちょう≫ 船橋市
海老川の上流に位置する。
戦国期に「志々はざま村」とあり、慶長19年(1614)の街道覚帳に「飯山満村」とあり、その後元禄期(1688~1704)の前に上飯山満村と下飯山満村に分村した。
昭和30年から飯山満町となったが、宅地が進んで、団地なども設立された。
地名は狭い谷間の「狭間」から呼ばれたものという。
「山奥でも米がとれる良い土地=飯が山に満る」などという意味を込めてこの漢字をあてたのだろう。
住宅化される前は谷津田が広がっていた。
また、深田で、子供などが一度はまるとなかなか抜け出せないなどと言われていたという。
地名の読みは「ハサマ」だが、地元では「ハザマ」とも言っている。
≪波左間 はさま≫ 館山市
江戸期の初めから見える村名であるが、昔は「波佐間」「羽佐間」とも書いたという。
西岬北岸に位置し、館山湾に面する。
地名は、平地が少なく、海にせまる山すそのため、「狭間」からきているという。
また、名郷浦(なごうら)と呼ばれる風邪の静かな砂浜(浦)があるが、これは「凪浦(なぎさうら)」から来たのではないか。((角川 日本地名大辞典))
全国の「ハザマ」「ハサマ」地名を調べてみた。
<硲>
茨城県つくば市大白硲 おおじらはざま
茨城県つくば市小白硲 こじらはざま
新潟県長岡市寺泊硲田 てらどまりはざまだ
<迫、迫間>
岡山県玉野市迫間 はざま
熊本県玉名市両迫間 りょうはざま
熊本県菊池市西迫間 にしはざま
岩手県花巻市大迫町 おおはさままち
岩手県花巻市東和町舘迫 たてはさま
宮城県登米市豊里町迫 はさま
宮城県登米市迫町 はさまちょう
宮城県栗原市一迫 いちはさま
栃木県足利市迫間町 はさまちょう
栃木県小山市迫間田 はさまだ
岐阜県関市新迫間 しんはさま
岐阜県関市迫間 はさま
岐阜県関市迫間台 はさまだい
愛知県豊田市迫町 はさまちょう
愛知県蒲郡市西迫町 にしはさまちょう
三重県志摩市磯部町迫間 はさま
三重県度会郡南伊勢町迫間浦 はさまうら
滋賀県蒲生郡日野町迫 はさま
兵庫県朝来市山東町迫間 はさま
奈良県宇陀市大宇陀迫間 おおうだはさま
<狭間>
東京都八王子市狭間町 はざままち
愛知県名古屋市昭和区狭間町 はざまちょう
愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間 おけはざま
愛知県名古屋市緑区桶狭間 おけはざま
愛知県長久手市東狭間 ひがしはざま
京都府京都市北区上賀茂狭間町 かみがもはざまちょう
京都府京都市左京区修学院狭間町 しゅうがくいんはざまちょう
京都府京都市伏見区醍醐狭間 だいごはざま
栃木県塩谷郡高根沢町狭間田 はさまた
兵庫県三田市狭間が丘 はさまがおか
大分県国東市武蔵町狭間 はさま
<挾間>
福岡県豊前市挾間 はさま
大分県由布市挾間町 はさままち
<巡><廻>
愛知県瀬戸市巡間町 はざまちょう
愛知県春日井市廻間町 はざまちょう
愛知県豊明市沓掛町(小廻間) (こはざま)
愛知県知多郡武豊町廻間 はざま
茨城県稲敷郡阿見町廻戸 はさまど
愛知県清須市廻間 はさま
<その他>
香川県仲多度郡まんのう町羽間 はざま
高知県香美市土佐山田町間 はざま
静岡県藤枝市岡部町羽佐間 はさま
滋賀県米原市間田 はさまた
福岡県柳川市間 はさま
長崎県五島市三井楽町波砂間 はさま
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ふるさと風-170号
昨日は 「ふるさと風」機関誌の発行日でした。
今回は170号です。
先月号で15年目に入りました。今回は15年目の2号です。
早いもので、コロナ・コロナと毎日バタバタしているうちに今年も半分過ぎてしまいました。
また、九州の大雨での水害も起こりました。まだこの先も心配が続くようですので、これからも命を守ることを優先してください。
風の会も一人新人が入られましたが、それでも8人だけです。
昨年2人の重鎮が他界され、どうなるかと思いましたが、何とか細々とでも火を点しつづけたいと思っています。
会報の印刷が終わって、雨の上がった里山方面に会報を配りに出かけました。
まずは瓦会の蕎麦処「まんまや」さんへ。
比較的お客さんも増えてきたようです。
このまま元に戻ってくれたらいいのですが・・・・・・
少し若者の感染者が増えてきているようなのが心配ですね。

相変わらずおいしいおそばを堪能してきました。
店を出て、普段は柿岡方面に向かうのですが、「こんこんギャラリー」が近いので立ち寄ることに。
ギャラリーで高橋さんの「こんこんマスク」を1つ購入しました。
前回はすこし小さいのだけしか残っていなかったので、また入荷した知らせをいただいていました。
でも3枚のみしかもうありませんでしたので、なんとかゲットしました。

何か「こんこん」の中入りができたような気になりますね。
ギャラリーのこんこんの仲間展は今日(7/5)までです。
その後、小町の里と北条へ。
小町庵の建物の中にあったパンフレットなどを置くラックが先月の再オープンから見当たりません。
係りの方にお聞きすると、係りの受付奥に移動されていました。
直接多くのお客様が手に取られて感染するリスクを軽減していたようです。
風の会の会報を、係りの方のお渡しして数部置かせていただきました。
もし、会報をここで今まで手にされていた方は係りの方に声をおかけしてください。
今回は170号です。
先月号で15年目に入りました。今回は15年目の2号です。
早いもので、コロナ・コロナと毎日バタバタしているうちに今年も半分過ぎてしまいました。
また、九州の大雨での水害も起こりました。まだこの先も心配が続くようですので、これからも命を守ることを優先してください。
風の会も一人新人が入られましたが、それでも8人だけです。
昨年2人の重鎮が他界され、どうなるかと思いましたが、何とか細々とでも火を点しつづけたいと思っています。
会報の印刷が終わって、雨の上がった里山方面に会報を配りに出かけました。
まずは瓦会の蕎麦処「まんまや」さんへ。
比較的お客さんも増えてきたようです。
このまま元に戻ってくれたらいいのですが・・・・・・
少し若者の感染者が増えてきているようなのが心配ですね。

相変わらずおいしいおそばを堪能してきました。
店を出て、普段は柿岡方面に向かうのですが、「こんこんギャラリー」が近いので立ち寄ることに。
ギャラリーで高橋さんの「こんこんマスク」を1つ購入しました。
前回はすこし小さいのだけしか残っていなかったので、また入荷した知らせをいただいていました。
でも3枚のみしかもうありませんでしたので、なんとかゲットしました。

何か「こんこん」の中入りができたような気になりますね。
ギャラリーのこんこんの仲間展は今日(7/5)までです。
その後、小町の里と北条へ。
小町庵の建物の中にあったパンフレットなどを置くラックが先月の再オープンから見当たりません。
係りの方にお聞きすると、係りの受付奥に移動されていました。
直接多くのお客様が手に取られて感染するリスクを軽減していたようです。
風の会の会報を、係りの方のお渡しして数部置かせていただきました。
もし、会報をここで今まで手にされていた方は係りの方に声をおかけしてください。
千葉の難読地名(44) 飯給
≪飯給 いたぶ≫ 市原市

≪飯給 いたぶ≫ 市原市
養老川上流域にある。
文禄3年(1594)の上総国村高帳に村名が見える。
江戸時代に2村に分離したが、明治10年に再び合併した。
小湊鉄道の「飯給駅」は一日の利用客が数名の小さな無人駅です。
2012年に駅前に世界一大きなトイレというキャッチフレーズのトイレが設置され観光の目玉にもなっています。
地名由来は、大友皇子(弘文天皇)にまつわる次の伝説から来ているという。
「672年、天智天皇の第一皇子であった大友皇子は即位して弘文天皇となったとされるが、叔父の(後の)天武天皇が起した「壬申の乱」に敗れて即位半年で自害したといわれていますが、この房総のあたりでは、弘文天皇は部下を連れて落ち延びてきたと言い伝えられています。
そして、東海道を下り11人の公家を引きつれて川をさかのぼって来る途中、川岸では6人が溺れて亡くなり5人となった。
この残された皇子一行は、疲れ果てていた。それを村人たちは追っ手が良く見える八崎代に案内し、しばし休んでいただき、ご飯を差し上げた。これに一行は大変喜び、この飯を召し上がったという。
このためこの場所を飯置(いいち)といい、飯を給うたので飯給というようになったという。
この地には、また次のような話が伝えられている。(17世紀前半に書かれた『久留里記』などによる)
「皇子には3人の子どもがあり、この3人を村人に預けて、皇子は千葉県市原市万田野地区を越えて落ちのびて行った。
村人は、残された3人の子供達の顔にススを塗り変装させたが、追っ手に捕らえられ、現在の白山神社のあたりで打ち首になってしまったという。翌日から、その辺りには白い3羽の鳩が舞うようになった。
村人達がこの場所にお宮を建ててその子供達を祀ったところ、この白い鳩の姿は見られなくなったという。
その言い伝えから、この地に鎮座している白山神社の事を別名「白鳩の宮」ともいうようになった。
(但し、現在の白山神社の祭神は弘文天皇です)
その他、房総半島の各地にこの大友皇子や、その后などにまつわる伝説がたくさん残されています。
史実はどうなっているのか不思議です。
地名由来もこの大友皇子伝説は後から地名に当てはめられたものと思われますが、それ以外の由来は良くわかっていません。
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≪飯給 いたぶ≫ 市原市
養老川上流域にある。
文禄3年(1594)の上総国村高帳に村名が見える。
江戸時代に2村に分離したが、明治10年に再び合併した。
小湊鉄道の「飯給駅」は一日の利用客が数名の小さな無人駅です。
2012年に駅前に世界一大きなトイレというキャッチフレーズのトイレが設置され観光の目玉にもなっています。
地名由来は、大友皇子(弘文天皇)にまつわる次の伝説から来ているという。
「672年、天智天皇の第一皇子であった大友皇子は即位して弘文天皇となったとされるが、叔父の(後の)天武天皇が起した「壬申の乱」に敗れて即位半年で自害したといわれていますが、この房総のあたりでは、弘文天皇は部下を連れて落ち延びてきたと言い伝えられています。
そして、東海道を下り11人の公家を引きつれて川をさかのぼって来る途中、川岸では6人が溺れて亡くなり5人となった。
この残された皇子一行は、疲れ果てていた。それを村人たちは追っ手が良く見える八崎代に案内し、しばし休んでいただき、ご飯を差し上げた。これに一行は大変喜び、この飯を召し上がったという。
このためこの場所を飯置(いいち)といい、飯を給うたので飯給というようになったという。
この地には、また次のような話が伝えられている。(17世紀前半に書かれた『久留里記』などによる)
「皇子には3人の子どもがあり、この3人を村人に預けて、皇子は千葉県市原市万田野地区を越えて落ちのびて行った。
村人は、残された3人の子供達の顔にススを塗り変装させたが、追っ手に捕らえられ、現在の白山神社のあたりで打ち首になってしまったという。翌日から、その辺りには白い3羽の鳩が舞うようになった。
村人達がこの場所にお宮を建ててその子供達を祀ったところ、この白い鳩の姿は見られなくなったという。
その言い伝えから、この地に鎮座している白山神社の事を別名「白鳩の宮」ともいうようになった。
(但し、現在の白山神社の祭神は弘文天皇です)
その他、房総半島の各地にこの大友皇子や、その后などにまつわる伝説がたくさん残されています。
史実はどうなっているのか不思議です。
地名由来もこの大友皇子伝説は後から地名に当てはめられたものと思われますが、それ以外の由来は良くわかっていません。
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千葉の難読地名(45) 発作 平田 鳥羽
≪発作 ほっさく≫ 印西市
≪平田 ひらった≫ 君津市
≪鳥羽 とっぱ≫ 香取市
≪取香 とっこう≫ 成田市
≪新妻 にっつま≫ 成田市

読み方がすこし詰まった地名一覧です。
≪発作 ほっさく≫ 印西市
手賀沼の東南部の平坦地で、新開地です。
地名もこの「新開地」という意味で「発作」とされたという。
寛文11年(1671)に江戸町人の手で手賀沼の新田開発が始まったが、開発はかなり難航したという。
≪平田 ひらった≫ 君津市
市川市、勝浦市、市原市、君津市の4箇所に「平田」地名があります。
それぞれ江戸期初めの頃よりこの村名が使われています。
しかし郵便住所の読みは君津市だけが「ヒラッタ」で、残りの3箇所は「ヒラタ」です。
ただ、角川および平凡社の各地名辞典では君津市も「ヒラタ村」となっています。
その読み方の経緯などは不明でした。
≪鳥羽 とっぱ≫ 香取市
下総台地北部の丘陵地に位置する。
慶長4年(1599)の検地帳に「鳥羽郷」とある。
地名由来についてはよくわからないが、茨城県の茨城町に「鳥羽田=とっぱだ」地名があり、こちらは台地の突端を指す「とっぱな」が語源ではないかという。これも台地の入口(トバ)である。
また「鳥羽=とば」地名は各地にあり、「戸間:奥に入る入口」「渡場:渡し場」「泊浦=要津(港)」「泊(トマリ)」などの関連が多く述べられている。
また少し変わった読み方をする「鳥羽」に、兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽(とりま)がある。
こちらは式内社天目一神社(青玉神社と改称)の「祭場(まつりば)」 ⇒「とりば」 ⇒ 「鳥羽」 ⇒ 「とりま」と変化したという。
≪取香 とっこう≫ 成田市
成田市の空港敷地近くにある。
地名の由来は、古代東国の蝦夷を捕らえてトリコ(俘囚)として収容した地である、または鳥飼部が居住した地である事が由来という。(角川 日本地名代辞典)
香取の文字を逆さにした「取香 とっこう」はいろいろと別な解釈もよくされている。
側高(そばたか)神社もあり、香取の神に逆らってこの名前をつけたなどという解釈もされている。
この側高神社では歌舞伎でもおなじみの「三番叟(さんばそう)」が毎年4月始めの日曜日に演じられている。
この行事は江戸後期から続けられているという。
≪新妻 にっつま≫ 成田市
根木名川中流域に位置する。
地名の由来は、新妻薩摩守という武将が居住したことによるともいう。(角川 二品地名代辞典)
寛文2年(1662)の文書に村名が見える。
一般に人名よりも地名が先である事が多く、この人名由来説ははっきりしない。
横を流れる「根木名川の古名を新妻川といったという。
江戸時代にこの村の河川に新妻河岸(かし)が設けられ、材木の運搬に使われたという。(平凡社 千葉県の地名)
このため、茨城県などの「妻」地名のほとんどが川や沼などの湊、渡し場または沼地などを指す言葉とも解釈できるから、こちらも昔、津=湊などがあった、または沼地=湿地?などとも解釈できそうだ。
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≪平田 ひらった≫ 君津市
≪鳥羽 とっぱ≫ 香取市
≪取香 とっこう≫ 成田市
≪新妻 にっつま≫ 成田市

読み方がすこし詰まった地名一覧です。
≪発作 ほっさく≫ 印西市
手賀沼の東南部の平坦地で、新開地です。
地名もこの「新開地」という意味で「発作」とされたという。
寛文11年(1671)に江戸町人の手で手賀沼の新田開発が始まったが、開発はかなり難航したという。
≪平田 ひらった≫ 君津市
市川市、勝浦市、市原市、君津市の4箇所に「平田」地名があります。
それぞれ江戸期初めの頃よりこの村名が使われています。
しかし郵便住所の読みは君津市だけが「ヒラッタ」で、残りの3箇所は「ヒラタ」です。
ただ、角川および平凡社の各地名辞典では君津市も「ヒラタ村」となっています。
その読み方の経緯などは不明でした。
≪鳥羽 とっぱ≫ 香取市
下総台地北部の丘陵地に位置する。
慶長4年(1599)の検地帳に「鳥羽郷」とある。
地名由来についてはよくわからないが、茨城県の茨城町に「鳥羽田=とっぱだ」地名があり、こちらは台地の突端を指す「とっぱな」が語源ではないかという。これも台地の入口(トバ)である。
また「鳥羽=とば」地名は各地にあり、「戸間:奥に入る入口」「渡場:渡し場」「泊浦=要津(港)」「泊(トマリ)」などの関連が多く述べられている。
また少し変わった読み方をする「鳥羽」に、兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽(とりま)がある。
こちらは式内社天目一神社(青玉神社と改称)の「祭場(まつりば)」 ⇒「とりば」 ⇒ 「鳥羽」 ⇒ 「とりま」と変化したという。
≪取香 とっこう≫ 成田市
成田市の空港敷地近くにある。
地名の由来は、古代東国の蝦夷を捕らえてトリコ(俘囚)として収容した地である、または鳥飼部が居住した地である事が由来という。(角川 日本地名代辞典)
香取の文字を逆さにした「取香 とっこう」はいろいろと別な解釈もよくされている。
側高(そばたか)神社もあり、香取の神に逆らってこの名前をつけたなどという解釈もされている。
この側高神社では歌舞伎でもおなじみの「三番叟(さんばそう)」が毎年4月始めの日曜日に演じられている。
この行事は江戸後期から続けられているという。
≪新妻 にっつま≫ 成田市
根木名川中流域に位置する。
地名の由来は、新妻薩摩守という武将が居住したことによるともいう。(角川 二品地名代辞典)
寛文2年(1662)の文書に村名が見える。
一般に人名よりも地名が先である事が多く、この人名由来説ははっきりしない。
横を流れる「根木名川の古名を新妻川といったという。
江戸時代にこの村の河川に新妻河岸(かし)が設けられ、材木の運搬に使われたという。(平凡社 千葉県の地名)
このため、茨城県などの「妻」地名のほとんどが川や沼などの湊、渡し場または沼地などを指す言葉とも解釈できるから、こちらも昔、津=湊などがあった、または沼地=湿地?などとも解釈できそうだ。
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千葉の難読地名(46) 行川、 行々林、 滑谷
≪行川 なめがわ≫ いすみ市、 勝浦市
≪行々林 おどろばやし≫ 船橋市
≪滑谷 ぬかりや≫ 鴨川市

≪行川 なめがわ≫ いすみ市
≪浜行川 はまなめがわ≫ 勝浦市
≪滑川 なめがわ≫ 下総町
「行」を「なめ」と読む地名は結構あるが、どうしてこのようになったかが良くわからない。
茨城の「行方=なめかた」が他県の方には読みにくいとされている。
ただこちらの行方の名前もかなり古く、奈良時代の常陸国風土記の頃にもよくわからなかったようで、ヤマトタケルの話として由来が書かれている。
現原(あらはら)丘の上に立って眺めると、「山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。
峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細(くはしい)美しさがある。
だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。
行細の名は、後には、行方(なめかた)といふやうになった。(口訳・常陸国風土記)
と書かれています。
<行細=なめくわし> ⇒ 行方(なめかた)
となったとされています。
ここでは 行(なめ)=並(ならぶ) 程度の意味のようです。
また石岡の「行里川(なめりかわ)」地名も地元の本には「川の土手が滑らかで滑りやすく、戦で川を渡るのに苦労した」などと紹介されています。
千葉県勝浦市の浜行川(はまなめかわ)にはかつて「行川(なめがわ)アイランド」があり、有名な施設でしたので今でも覚えておられる方も多いと思います。鴨川シーワールド、東京デズニーランドなどが開演して、客数も減ってしまったようです。
ただ、また新たな、「勝浦シーサイドパークリゾート」なる施設の建設もこの春から予定されていましたが、コロナ騒動でどうなっているでしょうか。
<行川 なめがわ いすみ市>
文禄3年(1594)の村高帳に村名(行川村)が記載されている。
<浜行川 はまなめがわ 勝浦市>
古くは「滑川(なめかわ)といった。
文禄3年(1594)の村高帳に村名「行川村」と記載されている。
江戸時代初期の寛文年間(1661~1673)頃まで「浜行川」と「岡行川」に分かれていたが、漁業が盛んになり、「浜行川村」に統一されたという。
<滑川 なめがわ 香取市(旧下総町)>
滑河村:室町期の応永33(1426)年の証状に村名(滑河村)の記載がある。
また「行河村」と記載されたものもあるという。
江戸期~明治22年 「滑河村」や「滑川村」と書いた。
明治22年~昭和30年:滑河町となったが、大字名として「滑川」が存続し、現在に至る
やはり≪行川≫≪滑川≫はほぼ同じように昔から使われていたようだ。
≪行々林 おどろばやし≫ 船橋市
この「行々林」という難読漢字は、船橋市に吸収された際、読みづらいため「鈴身町」(すずみちょう)に変更されたとのこと。
行々林=おどろばやし の地名由来は 大多喜町の「小土呂 おどろ」地名と同じで、
1) おどろ(荊棘)の茂る地
2) 水音が激しく、「トドロ」のいう音にからついた
の2つの説があります。
一般的に「驚」などの地名は2)の音が由来な場合が多いようですが、ここは応永年間(室町時代)の書状に「おどろがや」と書かれている場所とみられ、1) のおどろ(荊棘)説が強いようです。
「おどろ」を辞書で引くと、一般的には「やぶ=藪」が茂っている場所や、髪が乱れている場合などに使う表現のようです。
≪滑谷 ぬかりや≫ 鴨川市
慶長2年(1597)の検地高目録に「ぬかり屋村」との記載がある。
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≪行々林 おどろばやし≫ 船橋市
≪滑谷 ぬかりや≫ 鴨川市

≪行川 なめがわ≫ いすみ市
≪浜行川 はまなめがわ≫ 勝浦市
≪滑川 なめがわ≫ 下総町
「行」を「なめ」と読む地名は結構あるが、どうしてこのようになったかが良くわからない。
茨城の「行方=なめかた」が他県の方には読みにくいとされている。
ただこちらの行方の名前もかなり古く、奈良時代の常陸国風土記の頃にもよくわからなかったようで、ヤマトタケルの話として由来が書かれている。
現原(あらはら)丘の上に立って眺めると、「山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。
峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細(くはしい)美しさがある。
だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。
行細の名は、後には、行方(なめかた)といふやうになった。(口訳・常陸国風土記)
と書かれています。
<行細=なめくわし> ⇒ 行方(なめかた)
となったとされています。
ここでは 行(なめ)=並(ならぶ) 程度の意味のようです。
また石岡の「行里川(なめりかわ)」地名も地元の本には「川の土手が滑らかで滑りやすく、戦で川を渡るのに苦労した」などと紹介されています。
千葉県勝浦市の浜行川(はまなめかわ)にはかつて「行川(なめがわ)アイランド」があり、有名な施設でしたので今でも覚えておられる方も多いと思います。鴨川シーワールド、東京デズニーランドなどが開演して、客数も減ってしまったようです。
ただ、また新たな、「勝浦シーサイドパークリゾート」なる施設の建設もこの春から予定されていましたが、コロナ騒動でどうなっているでしょうか。
<行川 なめがわ いすみ市>
文禄3年(1594)の村高帳に村名(行川村)が記載されている。
<浜行川 はまなめがわ 勝浦市>
古くは「滑川(なめかわ)といった。
文禄3年(1594)の村高帳に村名「行川村」と記載されている。
江戸時代初期の寛文年間(1661~1673)頃まで「浜行川」と「岡行川」に分かれていたが、漁業が盛んになり、「浜行川村」に統一されたという。
<滑川 なめがわ 香取市(旧下総町)>
滑河村:室町期の応永33(1426)年の証状に村名(滑河村)の記載がある。
また「行河村」と記載されたものもあるという。
江戸期~明治22年 「滑河村」や「滑川村」と書いた。
明治22年~昭和30年:滑河町となったが、大字名として「滑川」が存続し、現在に至る
やはり≪行川≫≪滑川≫はほぼ同じように昔から使われていたようだ。
≪行々林 おどろばやし≫ 船橋市
この「行々林」という難読漢字は、船橋市に吸収された際、読みづらいため「鈴身町」(すずみちょう)に変更されたとのこと。
行々林=おどろばやし の地名由来は 大多喜町の「小土呂 おどろ」地名と同じで、
1) おどろ(荊棘)の茂る地
2) 水音が激しく、「トドロ」のいう音にからついた
の2つの説があります。
一般的に「驚」などの地名は2)の音が由来な場合が多いようですが、ここは応永年間(室町時代)の書状に「おどろがや」と書かれている場所とみられ、1) のおどろ(荊棘)説が強いようです。
「おどろ」を辞書で引くと、一般的には「やぶ=藪」が茂っている場所や、髪が乱れている場合などに使う表現のようです。
≪滑谷 ぬかりや≫ 鴨川市
慶長2年(1597)の検地高目録に「ぬかり屋村」との記載がある。
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