雪の降らない里の「雪降里」
先日まで1ヵ月半くらい毎日、「千葉の難読地名」をとり上げてきました。
今回この最後に書いた「雪降里」という地名の場所に行ってきました。
地名の読みは 雪降里=ぶどうじ です。
どうしてこんな場所にこの地名が付いたのか、書かれたものが全く見つかりませんでしたので一度現地を見てみたいと思ったわけです。
私のブログも「地域に眠る埋もれた歴史」のようなことを長年してきましたが、その殆んどは実際に足を運んで現地を見て感じたことなどを書いてきました。
この「雪降里(ぶどうじ)」は茨城県側からは利根川に架かる有料の「かもめ大橋」(銚子大橋の一つ上流側)を渡ってまっすぐ旭市へ直進する山道の途中にあります。
私はもう一つ手前の水門のある常陸川大橋・利根川大橋を渡って、このかもめ大橋のところを右折していきました。
まあ、時間も殆んど変りませんし、わざわざ有料の橋を渡ることはしませんね。
常陸利根川の水門は半分ほど開いており、また利根川側も半分以上の水門が全開となっていました。
全体に雨の後なので水位が高くなっていました。
ここから旭市側に抜ける千葉県県道73号線(銚子海上線)は、下総台地の山を切り開いたような道で、銚子市、東庄町、旭市が入り組んだような地域を通ります。
台地の上は少し入れば野菜などの畑が広がります。
もう終点に近い旭市岩井821番地くらいの所に コミュニティバスの「雪降里」バス停があります。

バス停の表示文字の読みは振られていません。
これでははじめて見たら読めませんね。

バス停の後ろは下総台地の畑が広がっています。
道路の反対側には住宅が連なっています。

この道をコミュニティバスが走ります。
バスの本数は登り(旭中央病院行き)が朝2本、下りが夕方3本です。未就学児と75歳以上は100円です。
但し、土日は各1本のみとなります。
この地域の買い物や病院へ行くため足を確保しているようです。

地名の由来について、わかるようなものは何もありません。
奥の農家の方へ行って見ました。
暫く進むと道が狭くなり、行き止まりでした。
近くのおじさんが出てきていたので声をかけて見ました。
「この地名が変っているので、何かご存知ありませんか?」
「歴史はあまり興味もなくわかんないな。」とすげない返事。
でも続けて
「昔最初にこの里に来た人が東北の人だそうです。
福島辺りから来たといっている。
今で17代くらいになるようだからもう400年くらい前になるかもしんめい」
と興味がないとの言葉とは裏腹に良くしゃべってくれました。
どうも最初にやってこの地を開拓した人が、雪深い福島(会津地方?)あたりからやって来て、雪の降らないこの地に「雪降里」と名付けた??
どうもそのような事ではないか。
「ぶどうじ」という名前は、恐らくこのあたりを昔は、「みちなきみち=無道路」と呼ばれていた場所だったのかもしれません。
近くに「石の雪車(ゆきぐるま)遺跡」があると聞いていたので、その方に聞いてみましたが、ご存知ありませんでした。
「雪車=ゆきぐるま=ソリ」で、木材や石などを運搬するために造られた昔の石製のソリが見つかったあたりなのかもしれません。
そのソリを見て、雪車から雪降里という字を当てたとしたら・・・・・
昔の人の気持が伝わってくるようでした。
これは勝手な想像で、どこにも根拠はありません。
今回この最後に書いた「雪降里」という地名の場所に行ってきました。
地名の読みは 雪降里=ぶどうじ です。
どうしてこんな場所にこの地名が付いたのか、書かれたものが全く見つかりませんでしたので一度現地を見てみたいと思ったわけです。
私のブログも「地域に眠る埋もれた歴史」のようなことを長年してきましたが、その殆んどは実際に足を運んで現地を見て感じたことなどを書いてきました。
この「雪降里(ぶどうじ)」は茨城県側からは利根川に架かる有料の「かもめ大橋」(銚子大橋の一つ上流側)を渡ってまっすぐ旭市へ直進する山道の途中にあります。
私はもう一つ手前の水門のある常陸川大橋・利根川大橋を渡って、このかもめ大橋のところを右折していきました。
まあ、時間も殆んど変りませんし、わざわざ有料の橋を渡ることはしませんね。
常陸利根川の水門は半分ほど開いており、また利根川側も半分以上の水門が全開となっていました。
全体に雨の後なので水位が高くなっていました。
ここから旭市側に抜ける千葉県県道73号線(銚子海上線)は、下総台地の山を切り開いたような道で、銚子市、東庄町、旭市が入り組んだような地域を通ります。
台地の上は少し入れば野菜などの畑が広がります。
もう終点に近い旭市岩井821番地くらいの所に コミュニティバスの「雪降里」バス停があります。

バス停の表示文字の読みは振られていません。
これでははじめて見たら読めませんね。

バス停の後ろは下総台地の畑が広がっています。
道路の反対側には住宅が連なっています。

この道をコミュニティバスが走ります。
バスの本数は登り(旭中央病院行き)が朝2本、下りが夕方3本です。未就学児と75歳以上は100円です。
但し、土日は各1本のみとなります。
この地域の買い物や病院へ行くため足を確保しているようです。

地名の由来について、わかるようなものは何もありません。
奥の農家の方へ行って見ました。
暫く進むと道が狭くなり、行き止まりでした。
近くのおじさんが出てきていたので声をかけて見ました。
「この地名が変っているので、何かご存知ありませんか?」
「歴史はあまり興味もなくわかんないな。」とすげない返事。
でも続けて
「昔最初にこの里に来た人が東北の人だそうです。
福島辺りから来たといっている。
今で17代くらいになるようだからもう400年くらい前になるかもしんめい」
と興味がないとの言葉とは裏腹に良くしゃべってくれました。
どうも最初にやってこの地を開拓した人が、雪深い福島(会津地方?)あたりからやって来て、雪の降らないこの地に「雪降里」と名付けた??
どうもそのような事ではないか。
「ぶどうじ」という名前は、恐らくこのあたりを昔は、「みちなきみち=無道路」と呼ばれていた場所だったのかもしれません。
近くに「石の雪車(ゆきぐるま)遺跡」があると聞いていたので、その方に聞いてみましたが、ご存知ありませんでした。
「雪車=ゆきぐるま=ソリ」で、木材や石などを運搬するために造られた昔の石製のソリが見つかったあたりなのかもしれません。
そのソリを見て、雪車から雪降里という字を当てたとしたら・・・・・
昔の人の気持が伝わってくるようでした。
これは勝手な想像で、どこにも根拠はありません。
マイナスイオンで気持もリフレッシュ(岩井の滝不動)
先週梅雨明けまなじか昼前に、千葉県旭市岩井の滝不動こと龍福寺に行って来ました。
いつものように銚子での仕事の前に立ち寄ったので、あまり時間もありませんでしたが、寺を囲うように切り立った崖から幾筋もの滝が流れ、境内はマイナスイオンが一杯でした。

私が銚子周辺でいくつも寺回りをしていますが、この旭市の龍福寺(岩井の滝不動)と匝瑳市の飯高寺(はんこうじ)(飯高壇林(いいだかだんりん)跡)、芝山町の芝山仁王尊(観音教寺)などがお奨めです。

この寺の入り口手前の駐車場に車を止め、此処から寺の境内に進みますが、こちらの昔の石段は使われていないので苔生してなんともいえない趣があります。

右手の道は寺の仁王門に続きますが、道の脇をきれいな水が音を立てて勢いよく流れています。
車から降り立っただけでマイナスイオンを浴びているのを感じます。

境内のモミジの木々とどっしりとした本堂とがよくマッチしています。
境内は誰一人居ません。
何か独り占めしている感はとてもいいですね。

本堂手前に置かれた狛犬もどこか愛嬌もある。
その奥に見えるのは、大きな寺の改築で降ろされた、昔の本堂の鬼瓦。とても立派なものです。

本堂の横から滝の音が聞こえ、そこをきれいな水が流れています。
奥の崖の一番上から一本の滝が流れ落ちています。
また脇のほうにも幾筋かの滝があります。

滝に打たれているのはとぐろを巻いた大蛇。

滝の脇には不動明王。

奥の院への道。
緑豊かなお寺で、訪れる人も少ないようですがこのコロナ渦での何かもやもやしている人にとっては、静かできっと癒される場所だと思います。
いつものように銚子での仕事の前に立ち寄ったので、あまり時間もありませんでしたが、寺を囲うように切り立った崖から幾筋もの滝が流れ、境内はマイナスイオンが一杯でした。

私が銚子周辺でいくつも寺回りをしていますが、この旭市の龍福寺(岩井の滝不動)と匝瑳市の飯高寺(はんこうじ)(飯高壇林(いいだかだんりん)跡)、芝山町の芝山仁王尊(観音教寺)などがお奨めです。

この寺の入り口手前の駐車場に車を止め、此処から寺の境内に進みますが、こちらの昔の石段は使われていないので苔生してなんともいえない趣があります。

右手の道は寺の仁王門に続きますが、道の脇をきれいな水が音を立てて勢いよく流れています。
車から降り立っただけでマイナスイオンを浴びているのを感じます。

境内のモミジの木々とどっしりとした本堂とがよくマッチしています。
境内は誰一人居ません。
何か独り占めしている感はとてもいいですね。

本堂手前に置かれた狛犬もどこか愛嬌もある。
その奥に見えるのは、大きな寺の改築で降ろされた、昔の本堂の鬼瓦。とても立派なものです。

本堂の横から滝の音が聞こえ、そこをきれいな水が流れています。
奥の崖の一番上から一本の滝が流れ落ちています。
また脇のほうにも幾筋かの滝があります。

滝に打たれているのはとぐろを巻いた大蛇。

滝の脇には不動明王。

奥の院への道。
緑豊かなお寺で、訪れる人も少ないようですがこのコロナ渦での何かもやもやしている人にとっては、静かできっと癒される場所だと思います。
コロナもこの青空のかなたへ消え去らないのか・・・・
夏になったらコロナも弱って、下火となると考えていたが、全く持って気温も、湿度も関係ないように感じる。
うがい薬がどうのこうのというが、風邪を引いたときにしょうがなくやる事はあってもあまりしょっちゅう使うには害がありそうで使えない。
まあ、大坂の知事の発言もかなり軽率だ。
たしかにウイルスが増殖するのは舌の上などとの報道があり、この増殖を減らす方法のひつかもしれないが、もう少しましな方法がありそうである。
昨日は、ふるさと"風”の会の会報印刷日であった。
コロナ陽性者が市内で前日に確認され、少しは用心もしなくてはと、先日までに全ての印刷は一人で終わらせておいた。
当日は折りと帳合いのみで、時間的には1時間半くらいで終わった。
私は昼からその会報を配りに、旧八郷町から土浦市の小町の里、つくば市の北条へ車を走らせた。
途中筑波山の手前の宝篋山(ほうきょうさん)の脇を走った。

山の上に「宝篋印塔」があるので、宝篋山といわれ、最近は手軽な登山としての人気が高まっている。
山の麓は稲の穂も大分たわわとなり、収穫時期も近そうだ。
この山は、昔は「三村山」と呼ばれ、鎌倉時代に忍性がこの麓に大きな極楽寺を建てたとされている。
七堂伽藍の立派な寺だったようだが、今はまり残されているものがなく、山の入口を少し上った所に大きな五輪塔があるくらいだろうか。
備中(岡山)の戦国武将「三村氏」のルーツは此処の三村ではないかといわれている。
しかし、そのことも含め、極楽寺の名前も登山ルートに残されているだけで、今では心地よい風があたりを吹きまわっているに過ぎない。
あまりそんな事を追求することも無いのかもしれないが・・・・
北条ではいつものように観光施設「田村家」に会報を数部届けてきた。
北条もコロナで大分客足は少ないようだ。
田村家の女将さんが居られたので、少し立ち話。
一通りコロナの状況などの確認をして、ひとつ聞いてみました。
「今頃の夏に、こちらでは太郎さんの万灯祭などがあったと思いますが、今年はどうでしたか?」
「ああ、多気太郎さんの万灯祭は、昨日だったのですが、中止で、わたしはお参りに行ってきました」
「石岡と北条を結びつける多気大掾(だいじょう)さんのお墓があるのですから、石岡や北条の方はもっと知って仲良くなれたらいいのですが・・・」と私。
ここ北条に風の機関紙を毎月置いていただき、もう何年も経つのですが、あまり浸透しませんね。
でも少しでも関心を持ってくれる方が居れば、それで良しと、気長に構えていきましょう。

多気太郎(平義幹)の墓とされる五輪塔
小田氏(八田氏)の換言で源頼朝により潰された多気大掾の最後の城主。
その後、同じ氏族の水戸に移っていた吉田氏に大掾職が渡った。
時々このような歴史話しも書いているが、余り関心が無いのかちっとも広がらない。
どうも自国第一主義、地元第一主義、好き嫌いで他の国を判断する危うさを感じてしまう。
中国は危ないので、きらい、大嫌いだという事を最近聞いた。
違うでしょ! 現政権が厭なだけでしょ。
中国人の全てが嫌いなわけではないでしょ!
中国4000年の歴史は嘘っぱちだ。
日本が皇紀2600年などと言い出したから対抗して大げさに言っているだけだ。
などとネットで騒ぎまわっている人がいる。
日本の皇紀などを本当に信じて疑わない人は、どんな勉強をしているのだろうか。
すべて、自分にとって都合の良い事だけを聞き、それ以外は耳をふさいだり大声で聞こえないようにしているだけなのじゃないか。
こんな状態で、敵地先制攻撃論など危なくて仕方がない。
こんな上滑りの議論をする自民党の議員の質は随分落ちたものだ。
コロナ騒ぎでも、国会が開けれず、影でこんな議論をするのか・・・
あきれてしまう。
うがい薬がどうのこうのというが、風邪を引いたときにしょうがなくやる事はあってもあまりしょっちゅう使うには害がありそうで使えない。
まあ、大坂の知事の発言もかなり軽率だ。
たしかにウイルスが増殖するのは舌の上などとの報道があり、この増殖を減らす方法のひつかもしれないが、もう少しましな方法がありそうである。
昨日は、ふるさと"風”の会の会報印刷日であった。
コロナ陽性者が市内で前日に確認され、少しは用心もしなくてはと、先日までに全ての印刷は一人で終わらせておいた。
当日は折りと帳合いのみで、時間的には1時間半くらいで終わった。
私は昼からその会報を配りに、旧八郷町から土浦市の小町の里、つくば市の北条へ車を走らせた。
途中筑波山の手前の宝篋山(ほうきょうさん)の脇を走った。

山の上に「宝篋印塔」があるので、宝篋山といわれ、最近は手軽な登山としての人気が高まっている。
山の麓は稲の穂も大分たわわとなり、収穫時期も近そうだ。
この山は、昔は「三村山」と呼ばれ、鎌倉時代に忍性がこの麓に大きな極楽寺を建てたとされている。
七堂伽藍の立派な寺だったようだが、今はまり残されているものがなく、山の入口を少し上った所に大きな五輪塔があるくらいだろうか。
備中(岡山)の戦国武将「三村氏」のルーツは此処の三村ではないかといわれている。
しかし、そのことも含め、極楽寺の名前も登山ルートに残されているだけで、今では心地よい風があたりを吹きまわっているに過ぎない。
あまりそんな事を追求することも無いのかもしれないが・・・・
北条ではいつものように観光施設「田村家」に会報を数部届けてきた。
北条もコロナで大分客足は少ないようだ。
田村家の女将さんが居られたので、少し立ち話。
一通りコロナの状況などの確認をして、ひとつ聞いてみました。
「今頃の夏に、こちらでは太郎さんの万灯祭などがあったと思いますが、今年はどうでしたか?」
「ああ、多気太郎さんの万灯祭は、昨日だったのですが、中止で、わたしはお参りに行ってきました」
「石岡と北条を結びつける多気大掾(だいじょう)さんのお墓があるのですから、石岡や北条の方はもっと知って仲良くなれたらいいのですが・・・」と私。
ここ北条に風の機関紙を毎月置いていただき、もう何年も経つのですが、あまり浸透しませんね。
でも少しでも関心を持ってくれる方が居れば、それで良しと、気長に構えていきましょう。

多気太郎(平義幹)の墓とされる五輪塔
小田氏(八田氏)の換言で源頼朝により潰された多気大掾の最後の城主。
その後、同じ氏族の水戸に移っていた吉田氏に大掾職が渡った。
時々このような歴史話しも書いているが、余り関心が無いのかちっとも広がらない。
どうも自国第一主義、地元第一主義、好き嫌いで他の国を判断する危うさを感じてしまう。
中国は危ないので、きらい、大嫌いだという事を最近聞いた。
違うでしょ! 現政権が厭なだけでしょ。
中国人の全てが嫌いなわけではないでしょ!
中国4000年の歴史は嘘っぱちだ。
日本が皇紀2600年などと言い出したから対抗して大げさに言っているだけだ。
などとネットで騒ぎまわっている人がいる。
日本の皇紀などを本当に信じて疑わない人は、どんな勉強をしているのだろうか。
すべて、自分にとって都合の良い事だけを聞き、それ以外は耳をふさいだり大声で聞こえないようにしているだけなのじゃないか。
こんな状態で、敵地先制攻撃論など危なくて仕方がない。
こんな上滑りの議論をする自民党の議員の質は随分落ちたものだ。
コロナ騒ぎでも、国会が開けれず、影でこんな議論をするのか・・・
あきれてしまう。
あれから35年か・・・
今日は、日航ジャンボ機の事故から35年目だという。
直接の関わりはなかったが、印象に残る事件だった。
油圧系統がすべて失われ、コントロールを失った旅客機が懸命に体勢を立て直そうと操作したが、全くコントロールできずに30分以上も飛んで、ついに御巣鷹山に墜落した。
テレビでも最初はどこに墜落したかもわからず、見つかった後も生存者がわずかにいてその救出の模様なども放映された。
坂本九さんなどが遭難したのもとても印象深かった。
お盆時期で飛行機は混んでいたらしい。
運よく便を変更した人や、逆に予定を変更して乗り合わせてしまった人など様々な人間模様もニュースとなった。
一方、事故原因についても圧力隔壁の疲労破壊と結論漬けられたが、様々な憶測を呼んだ。
米軍のミサイル陰謀説など今でもまだくすぶり続けている。
私にとっては、このときの8月は会社に入社して10年以上を経過し、私のいた工場が発行する社内新聞の編集委員をになった年で、持ち回りでコラムのような記事を書く担当となった時だった。
そんな時に初めてコラムらしき記事をこの事故を題材に書いた。
まだ世の中にブログなどというものはなく、インターネットなどというものさえなかった。
新聞やテレビの知識のみで、記事を書いたが、そんなことが後のブログなどを始めるきっかけになったのかもしれない。
当時、「筆者も人生の半ばにさしかかっている・・・」などと書いた覚えがあるが、それからすでに35年。
ということは、今は人生も残りわずかということになりそうだ。
これから残された人生をどのように生きるか。
やはりまだまだやり足りないことも多い。
欲張ってももうあまり多くは出来ないので、少し絞ってやっていかざるを得ないだろう。
「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」
昔と今では人生の長さも異なってはいるが、孔子の論語も云い得て妙だな。
それにしてもこの暑さに身体がついていかない。
夜がもう少し涼しければよいのだが。
直接の関わりはなかったが、印象に残る事件だった。
油圧系統がすべて失われ、コントロールを失った旅客機が懸命に体勢を立て直そうと操作したが、全くコントロールできずに30分以上も飛んで、ついに御巣鷹山に墜落した。
テレビでも最初はどこに墜落したかもわからず、見つかった後も生存者がわずかにいてその救出の模様なども放映された。
坂本九さんなどが遭難したのもとても印象深かった。
お盆時期で飛行機は混んでいたらしい。
運よく便を変更した人や、逆に予定を変更して乗り合わせてしまった人など様々な人間模様もニュースとなった。
一方、事故原因についても圧力隔壁の疲労破壊と結論漬けられたが、様々な憶測を呼んだ。
米軍のミサイル陰謀説など今でもまだくすぶり続けている。
私にとっては、このときの8月は会社に入社して10年以上を経過し、私のいた工場が発行する社内新聞の編集委員をになった年で、持ち回りでコラムのような記事を書く担当となった時だった。
そんな時に初めてコラムらしき記事をこの事故を題材に書いた。
まだ世の中にブログなどというものはなく、インターネットなどというものさえなかった。
新聞やテレビの知識のみで、記事を書いたが、そんなことが後のブログなどを始めるきっかけになったのかもしれない。
当時、「筆者も人生の半ばにさしかかっている・・・」などと書いた覚えがあるが、それからすでに35年。
ということは、今は人生も残りわずかということになりそうだ。
これから残された人生をどのように生きるか。
やはりまだまだやり足りないことも多い。
欲張ってももうあまり多くは出来ないので、少し絞ってやっていかざるを得ないだろう。
「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」
昔と今では人生の長さも異なってはいるが、孔子の論語も云い得て妙だな。
それにしてもこの暑さに身体がついていかない。
夜がもう少し涼しければよいのだが。
天妃尊
小美玉市小川の天聖寺で、保管中の天妃尊像がこのお盆に公開されていると fbf の投稿記事で知り、早速飛んでいってきました。



天妃(てんぴ)尊は中国における海洋の女神で、中国の「宋」の時代(西暦970年から1100年前半頃)に媽祖(まそ)という実在した娘が仙人により神となったとか、父を探しに船で出て遭難したとかいろいろな説があるようです。
中国福建連江県の海岸付近で特にこの媽祖信仰が広まり、船の航海の守り神と信じられるようになりました。
その後、皇帝からも信奉されてきたとされますが、文化大革命(1966年~1976年)によりこの媽祖信仰が禁止され、その信仰となっていた廟祠の殆んどが破壊されたといわれています。
しかし、奥深く根付いた信仰は今も続いており、台湾などには中国本土から逃れてきた航海の安全神話もあり、広く信仰が広まっているようです。
さて、中国が17世紀前半に、「明」から「清」の時代に移り変わっていくと中国国内の僧侶たちも迫害を受けるようになりました。
このため、この迫害から逃れるために日本に逃れてきた中国の僧侶たちがおりました。
その中に「東皐心越(とうこう しんえつ)」がおります。
1639年に明国浙江省浦江県に生れた心越は若くして仏門で名を馳せ、地位も高く居ましたが、清の迫害が強まり、1676年に中国から船で日本の薩摩に渡ってきました。
それより13年ほど前にやって来ていた澄一道亮(ちんいどうりょう)の招きで、1681年より長崎の興福寺に住しましたが、日本国内各地を旅して歩いたため、中国の密偵と疑われ、長崎に幽閉されてしまいました。
これを助けたのが、水戸黄門(光圀)で、1683年に水戸に移り住みます。
心越禅師は水戸の天徳寺に住しました。
心越禅師の死(1695年)後、1712年に天徳寺を河和田村に移して、ここに祇園寺を建て、心越禅師を開祖としました。
光圀は心越禅師が日本に渡ってくるときに船の安全を祈って持ってきたという天妃尊(媽祖)像を模して3つ作らせたといわれています。
そして茨城での海難事故防止や漁業の繁栄を祈願して、一つは北茨城市磯原のこんもりとした海岸の山に天妃山神社を建て、この像を祀りました。(現在の弟橘神社)

(天妃山<標高21m> : 北茨城市観光協会HPより)
もう一つは、大洗の川の南側、現在の願入寺の近くですが、ここにも港、漁業の安全を祈願して天妃山神社を建立しました。(現在の弟橘比売神社)
ここは祝町といわれ、当時、妓楼などが置かれ水戸の歓楽街としてにぎやかにされていましたが、これには理由があるといいます。
それは、この天妃山のお祭りに、あるとき心越禅師がきて、「どうもここの地形が良くないので、ここをもっと華やかな町にしたらいいだろう」と光圀に申しあげたという。その結果、妓楼や馬市も置いて、賑やかにしたのだという。
(昭和59年11月に開催された大洗町の「第一回郷土史講演会」で、名越時正氏の話し)
もう一つがここ小川の天聖寺に残された天妃尊像ですが、宝永4年(1707)に水戸光圀の計らいで、この寺が建てられ、水戸祇園寺の第三世和尚である蘭山和尚に与えたのが始まりです。このとき蘭山和尚は88歳の高齢でした。
そしてもう一つ天妃尊像を持ってきて、この寺に祀ったのです。
この蘭山和尚は元々は京都の名僧であったが、江戸に出てきた時に水戸光圀に認められて、僧籍のままで光圀の大日本史編纂を助けていたそうです。
この小川の天聖寺は明治3年6月に天狗党の拠点ともなり、焼き討ちにあい、寺の建物は焼失してしまったようです。
しかし、当時この尊像を天聖寺檀頭であった寺前の長谷川氏宅にかくまわれました。
そして、昭和51年にこの天聖寺斎場が出来た時に、この像をまたこの地に戻したのです。
たの磯原、大洗の2箇所の尊像についてはよくわかりません。
幕末に水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は天妃神を廃して、やはり東京湾で入水してヤマトタケルを助けたという弟橘媛命を勧請(かんじょう)したのです。
山に名前には天妃山として残りますが、神社は日本古来の神に変わってしまいました。
水戸の祇園寺には穢積(えしゃく)金剛尊天堂という建物があります ⇒ 記事こちら
また、この天聖寺の末寺(江戸時代)に茨城町の慈雲寺がありますが、こちらにも祇園寺とおなじような形の「穢跡金剛堂」があります。
汚れを排除するという意味でしょうが、あまり他では見かけません。
また、この慈雲寺の住職が天狗で、天聖寺と行き来していたなどという昔話も存在します。
調べてみると、媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えているといいます。
そして、この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降媽祖の随神となったとされています。
この「天妃尊像には手前に2童子、更にその手前に2童子らしき姿の像がおかれています。
千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神は役小角が従えた二鬼神と同様に、鬼といわれる風貌であるのが一般的のようですので、この像はあくまで童子でしょう。 ではいったい何者なのか?
まだ調べてみる必要がありそうです。



天妃(てんぴ)尊は中国における海洋の女神で、中国の「宋」の時代(西暦970年から1100年前半頃)に媽祖(まそ)という実在した娘が仙人により神となったとか、父を探しに船で出て遭難したとかいろいろな説があるようです。
中国福建連江県の海岸付近で特にこの媽祖信仰が広まり、船の航海の守り神と信じられるようになりました。
その後、皇帝からも信奉されてきたとされますが、文化大革命(1966年~1976年)によりこの媽祖信仰が禁止され、その信仰となっていた廟祠の殆んどが破壊されたといわれています。
しかし、奥深く根付いた信仰は今も続いており、台湾などには中国本土から逃れてきた航海の安全神話もあり、広く信仰が広まっているようです。
さて、中国が17世紀前半に、「明」から「清」の時代に移り変わっていくと中国国内の僧侶たちも迫害を受けるようになりました。
このため、この迫害から逃れるために日本に逃れてきた中国の僧侶たちがおりました。
その中に「東皐心越(とうこう しんえつ)」がおります。
1639年に明国浙江省浦江県に生れた心越は若くして仏門で名を馳せ、地位も高く居ましたが、清の迫害が強まり、1676年に中国から船で日本の薩摩に渡ってきました。
それより13年ほど前にやって来ていた澄一道亮(ちんいどうりょう)の招きで、1681年より長崎の興福寺に住しましたが、日本国内各地を旅して歩いたため、中国の密偵と疑われ、長崎に幽閉されてしまいました。
これを助けたのが、水戸黄門(光圀)で、1683年に水戸に移り住みます。
心越禅師は水戸の天徳寺に住しました。
心越禅師の死(1695年)後、1712年に天徳寺を河和田村に移して、ここに祇園寺を建て、心越禅師を開祖としました。
光圀は心越禅師が日本に渡ってくるときに船の安全を祈って持ってきたという天妃尊(媽祖)像を模して3つ作らせたといわれています。
そして茨城での海難事故防止や漁業の繁栄を祈願して、一つは北茨城市磯原のこんもりとした海岸の山に天妃山神社を建て、この像を祀りました。(現在の弟橘神社)

(天妃山<標高21m> : 北茨城市観光協会HPより)
もう一つは、大洗の川の南側、現在の願入寺の近くですが、ここにも港、漁業の安全を祈願して天妃山神社を建立しました。(現在の弟橘比売神社)
ここは祝町といわれ、当時、妓楼などが置かれ水戸の歓楽街としてにぎやかにされていましたが、これには理由があるといいます。
それは、この天妃山のお祭りに、あるとき心越禅師がきて、「どうもここの地形が良くないので、ここをもっと華やかな町にしたらいいだろう」と光圀に申しあげたという。その結果、妓楼や馬市も置いて、賑やかにしたのだという。
(昭和59年11月に開催された大洗町の「第一回郷土史講演会」で、名越時正氏の話し)
もう一つがここ小川の天聖寺に残された天妃尊像ですが、宝永4年(1707)に水戸光圀の計らいで、この寺が建てられ、水戸祇園寺の第三世和尚である蘭山和尚に与えたのが始まりです。このとき蘭山和尚は88歳の高齢でした。
そしてもう一つ天妃尊像を持ってきて、この寺に祀ったのです。
この蘭山和尚は元々は京都の名僧であったが、江戸に出てきた時に水戸光圀に認められて、僧籍のままで光圀の大日本史編纂を助けていたそうです。
この小川の天聖寺は明治3年6月に天狗党の拠点ともなり、焼き討ちにあい、寺の建物は焼失してしまったようです。
しかし、当時この尊像を天聖寺檀頭であった寺前の長谷川氏宅にかくまわれました。
そして、昭和51年にこの天聖寺斎場が出来た時に、この像をまたこの地に戻したのです。
たの磯原、大洗の2箇所の尊像についてはよくわかりません。
幕末に水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は天妃神を廃して、やはり東京湾で入水してヤマトタケルを助けたという弟橘媛命を勧請(かんじょう)したのです。
山に名前には天妃山として残りますが、神社は日本古来の神に変わってしまいました。
水戸の祇園寺には穢積(えしゃく)金剛尊天堂という建物があります ⇒ 記事こちら
また、この天聖寺の末寺(江戸時代)に茨城町の慈雲寺がありますが、こちらにも祇園寺とおなじような形の「穢跡金剛堂」があります。
汚れを排除するという意味でしょうが、あまり他では見かけません。
また、この慈雲寺の住職が天狗で、天聖寺と行き来していたなどという昔話も存在します。
調べてみると、媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えているといいます。
そして、この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降媽祖の随神となったとされています。
この「天妃尊像には手前に2童子、更にその手前に2童子らしき姿の像がおかれています。
千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神は役小角が従えた二鬼神と同様に、鬼といわれる風貌であるのが一般的のようですので、この像はあくまで童子でしょう。 ではいったい何者なのか?
まだ調べてみる必要がありそうです。
今年も無事飾られた大人形
今日8月16日に毎年代田、長者峰地区入口に飾られている大人形(ダイダラボッチ)を確認してきました。
16時半頃、まだ少し早いと思いましたが廻ってきました。
古酒(ふるさき)、梶和崎の2か所が取り止めになり2か所のみになってしまいました。
今年はもしかして取り止め?? などと少し危惧していました。
でも、まずは通り沿いの「代田地区」。
やはり地区の人(男衆)が皆で人形の飾り付けをしていました。
ここはいつも飾り付けが終わるのは夕方5時過ぎです。
午後4時半前でしたので、これからナスや杉の葉を体に飾り付けようとしていました。


地区の方とカメラマンも数人いました。
でもここより何時も飾り付けが少し早いもう1か所の長者峰へ廻ってみることにしました。

丁度終わったところで、最後の片づけの最中でした。
カメラマンなどの見物客は一人もいません。
やはり場所がわかりにくいからでしょうか?
最初の頃は私もわからずにだいぶ探しましたが、ここ数年はすーっと迷わずにたどり着くことができます。
地区の人と会話。
「いつもきているの?」
「はい、だいたい2年に一度は来ていますよ。」
「では、人形のアルバムができますね。」
「はい」・・・・などと。
そうアルバム作るのも良いかも・・・
こちらはすでに飾り付けが終了していました。



今年もコロナ撃退のため勇ましい姿を見せてくれました。
コロナはきっとやっつけてくれそうですね。
16時半頃、まだ少し早いと思いましたが廻ってきました。
古酒(ふるさき)、梶和崎の2か所が取り止めになり2か所のみになってしまいました。
今年はもしかして取り止め?? などと少し危惧していました。
でも、まずは通り沿いの「代田地区」。
やはり地区の人(男衆)が皆で人形の飾り付けをしていました。
ここはいつも飾り付けが終わるのは夕方5時過ぎです。
午後4時半前でしたので、これからナスや杉の葉を体に飾り付けようとしていました。


地区の方とカメラマンも数人いました。
でもここより何時も飾り付けが少し早いもう1か所の長者峰へ廻ってみることにしました。

丁度終わったところで、最後の片づけの最中でした。
カメラマンなどの見物客は一人もいません。
やはり場所がわかりにくいからでしょうか?
最初の頃は私もわからずにだいぶ探しましたが、ここ数年はすーっと迷わずにたどり着くことができます。
地区の人と会話。
「いつもきているの?」
「はい、だいたい2年に一度は来ていますよ。」
「では、人形のアルバムができますね。」
「はい」・・・・などと。
そうアルバム作るのも良いかも・・・
こちらはすでに飾り付けが終了していました。



今年もコロナ撃退のため勇ましい姿を見せてくれました。
コロナはきっとやっつけてくれそうですね。
息栖神社をコロナ退散祈願に立ち寄る
今年のお盆はいつもとはやはり違います。
私は東京多摩地区に実家がありますが、父も母も既に亡くなり、行く機会も年に1~2回になりました。
今年の夏もお寺さんの法要がある予定でしたが、コロナウイルスの影響で、各家庭を廻る事が取り止めになりました。
そのため、15日に私達夫婦のみで所沢の多摩湖に近い霊園に墓参りに行ってきました。
裏手の方はトトロの森などとも呼ばれる緑豊かな場所です。
高速を使って片道2時間ほどでした。
コロナが収束するまで、しばらくはあまり人との接触は避けていきます。
孫に会うのもう少し先になりそうです。
17日は銚子に仕事で出かけましたが、途中、東国三社の一つ「息栖神社」に参拝しておこうと立ち寄りました。

やはり、すでに参拝客は数組来ていました。
あたりは静かでミンミン蝉の声が聞こえてきました。
紅い門が緑に映えます。

手水舎もコロナ対策がされ、柄杓はなしで、竹の筒で水が分配され、常に流れています。
冷たくて気持ちの良い水で、暑いときにはとても気持が引き締まります。

拝殿で、コロナの早い終焉を祈願。

境内には笠間時朝(藤原時朝:笠間氏初代)の句碑があります。
「鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる」
(鹿島詣での途中でこの近くに船を停めて、船中で詠んだとされる和歌)
その他芭蕉の句碑などもありますが、茨城人としてはこの時朝の和歌も訪ねて欲しいものです。
多くの方はここに笠間時朝の歌碑がある事を知らないようです。
時朝は京都の三十三間堂に寄進者の分る仏像(千手観音像)として唯一名前が残されています。
私は東京多摩地区に実家がありますが、父も母も既に亡くなり、行く機会も年に1~2回になりました。
今年の夏もお寺さんの法要がある予定でしたが、コロナウイルスの影響で、各家庭を廻る事が取り止めになりました。
そのため、15日に私達夫婦のみで所沢の多摩湖に近い霊園に墓参りに行ってきました。
裏手の方はトトロの森などとも呼ばれる緑豊かな場所です。
高速を使って片道2時間ほどでした。
コロナが収束するまで、しばらくはあまり人との接触は避けていきます。
孫に会うのもう少し先になりそうです。
17日は銚子に仕事で出かけましたが、途中、東国三社の一つ「息栖神社」に参拝しておこうと立ち寄りました。

やはり、すでに参拝客は数組来ていました。
あたりは静かでミンミン蝉の声が聞こえてきました。
紅い門が緑に映えます。

手水舎もコロナ対策がされ、柄杓はなしで、竹の筒で水が分配され、常に流れています。
冷たくて気持ちの良い水で、暑いときにはとても気持が引き締まります。

拝殿で、コロナの早い終焉を祈願。

境内には笠間時朝(藤原時朝:笠間氏初代)の句碑があります。
「鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる」
(鹿島詣での途中でこの近くに船を停めて、船中で詠んだとされる和歌)
その他芭蕉の句碑などもありますが、茨城人としてはこの時朝の和歌も訪ねて欲しいものです。
多くの方はここに笠間時朝の歌碑がある事を知らないようです。
時朝は京都の三十三間堂に寄進者の分る仏像(千手観音像)として唯一名前が残されています。
くれふし古墳公園で少し休憩
水戸市の郊外、内原のイオンモールの近くに「くれふし古墳公園」があります。
昨日は、この近くを通って北へ行く用事があり、ひり休み時間くらいに少し休憩に立ち寄りました。
「くれふし」は常陸国風土記にでてくる山の名前ですが、朝房山がその山と考えられています。
石岡の龍神山(旧村上山)にも伝承としては伝わっていますが、水戸の人達に比べるとなんとも動き方も声も小さい・・・。
最近このあたりに行く機会も減っていたので、久しぶりに立ち寄ったのです。
気温は多分35度以上でしょう。
公園の駐車場に数台車が止まっていたので、公園にも誰か来ているだろうと思ったのですが・・・

公園内は木々もあり少しは涼しいのですが、子供連れも含め一人の姿がありません。

木々の間に古墳があり、木々からはせみの声がうるさいくらい聞こえてきます。
もうツクツクボーシが鳴いていました。
そろそろ秋の気配もしてくるのでしょうか。



はに丸くん?
かなり大きいです。
でも階段で上るのも暑くて、その気にもなりません。
駐車場に戻ってみると、車の中で休憩を取っていいる人が結構いました。
丁度ひり休み時間でしたので、工事関係者、営業マンなどが途中での休憩に来ていたようです。
ごみ収集車などもいましたよ。
昨日は、この近くを通って北へ行く用事があり、ひり休み時間くらいに少し休憩に立ち寄りました。
「くれふし」は常陸国風土記にでてくる山の名前ですが、朝房山がその山と考えられています。
石岡の龍神山(旧村上山)にも伝承としては伝わっていますが、水戸の人達に比べるとなんとも動き方も声も小さい・・・。
最近このあたりに行く機会も減っていたので、久しぶりに立ち寄ったのです。
気温は多分35度以上でしょう。
公園の駐車場に数台車が止まっていたので、公園にも誰か来ているだろうと思ったのですが・・・

公園内は木々もあり少しは涼しいのですが、子供連れも含め一人の姿がありません。

木々の間に古墳があり、木々からはせみの声がうるさいくらい聞こえてきます。
もうツクツクボーシが鳴いていました。
そろそろ秋の気配もしてくるのでしょうか。



はに丸くん?
かなり大きいです。
でも階段で上るのも暑くて、その気にもなりません。
駐車場に戻ってみると、車の中で休憩を取っていいる人が結構いました。
丁度ひり休み時間でしたので、工事関係者、営業マンなどが途中での休憩に来ていたようです。
ごみ収集車などもいましたよ。
木葉下(アボッケ)
水戸のくれふし古墳公園を後にして更に北へ進みます。
山道を抜けるように道が続きますが、最近一部が広がり、舗装されました。
そして通りに突き当たる信号に「木葉下 Abokke」とあります。

このあたりが、茨城県の難読地名によくでてくる「アボッケ」です。
この道は今までに何度通っただろう。
10回どころではない。もう20回以上きたかもしれない。
その度に「この地名をながめてきた。
左に曲がって少し進むと通りにバス停「木葉下」がある。

バス停には読みは振られていません。
地名の解釈はまちまちでまだ正確にこれだというものはありません。
ポッケなどのアイヌ語系の崖地とする考え方が強いのですが、まだ私はこの説には疑問を感じています。
なにしろ「大足(オオダラ)」「牛伏」などのダイダラボッチ伝説や、古墳公園もあり、クレフシ山といわれる朝房山の麓にあります。
また、ここから国府(石岡)へ道が続いており、渡里へも道が分離しています。
古代の焼き物などの遺跡も見つかっていたり、とても謎めいていて、何だかわくわくしてきます。
「朝寝坊の山」と「木の葉の下」、なんだかな・・・・・・・・。
山道を抜けるように道が続きますが、最近一部が広がり、舗装されました。
そして通りに突き当たる信号に「木葉下 Abokke」とあります。

このあたりが、茨城県の難読地名によくでてくる「アボッケ」です。
この道は今までに何度通っただろう。
10回どころではない。もう20回以上きたかもしれない。
その度に「この地名をながめてきた。
左に曲がって少し進むと通りにバス停「木葉下」がある。

バス停には読みは振られていません。
地名の解釈はまちまちでまだ正確にこれだというものはありません。
ポッケなどのアイヌ語系の崖地とする考え方が強いのですが、まだ私はこの説には疑問を感じています。
なにしろ「大足(オオダラ)」「牛伏」などのダイダラボッチ伝説や、古墳公園もあり、クレフシ山といわれる朝房山の麓にあります。
また、ここから国府(石岡)へ道が続いており、渡里へも道が分離しています。
古代の焼き物などの遺跡も見つかっていたり、とても謎めいていて、何だかわくわくしてきます。
「朝寝坊の山」と「木の葉の下」、なんだかな・・・・・・・・。
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