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夏も終わり秋の気配か?

 昨日は8月の最後の日。
朝からまた仕事で銚子に出かけた。

いつもと違い、かなり朝方の気温は涼しくなった。

いつものように霞ヶ浦の北岸に沿って車を走らせる。
道路の周りは水田や蓮畑が続く。のどかな景色である。
道路もあまり混雑する事は無いが、それでもところどころで道路工事が行われていた。
利根川を渡る常陸大橋も水門上の道路の補修工事で片側通行となり少し待たされた。

田には一面黄金色に稲が実り、もう稲刈りを待つばかりのところが多く見られたが、少し行くと潮来から先はすでに稲刈りが済んだ田んぼが散見された。
またコンバインが何ヶ所かで動いているのも確認できた。

今はこの機械で脱穀まで全てできる。楽になったものだ。

そんな中、霞ヶ浦周辺はレンコン栽培が盛んで、今迄夏の朝方には白やピンクがかった可憐な花が上を向いて咲き誇っていたfが、これもかなり少なくなってきた。

それでもまだ夏が恋しいと花を咲かせていた。

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蓮の花はそれにしてもきれいだ。
極楽浄土に咲くと思われていたのも分る気がする。

今日も気温はかなり過ごしやすくなっている。
これくらいの陽気が続いてくれたらよいのだが、ここ数年台風もやって来ており、心配になる。

今週土曜日は、ふるさと風の会の印刷日。

昨夜8時頃に家に戻ったが、やっと最後の会員3人ほどの人の原稿(9月号)が届いた。
今朝は手書きの原稿の方もおられるので、それをパソコンに打ち込み。(2ページ分ほど)
朝から午前中一杯かかりようやく終了。

自分の原稿を打つのは苦にならないが、人の原稿はどうも苦手だ。

今回も会報は24ページ(A3 x 両面6枚)となりそうだ。

白井先生が亡くなられてから、代わりに私が纏め編集などをしているのだが、結構大変だ。
先生もきっとイライラした思いもあったのだろうと思う。

まあ早めに編集を終らせよう。




霞ケ浦の自然 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/09/01 13:06

夏の終わりにまたあの石の仁王さんに会いに!

霞ケ浦水運で運ばれた石の仁王像。また見たくなり昨日立ち寄った。

場所は小美玉市栗又四ケ寺は無くなったが長年風に耐え、睨みを利かせて立ちすくしている。

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夏の終わりにセミの抜け殻が何故か可愛い。

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大分などには多い石の仁王像も関東地方などではとても珍しい。

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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/09/01 17:37

こんこんギャラリー 佐藤宏美 祈りのかたち展

 今日は暑くなりました。
昼前に、今週から始まった「佐藤宏美 祈りのかたち展」へ行ってきました。

拾ってきた流木に手編みで流れるように、またクルクルと回るように糸で編み上げた色々な形が独特の世界観を表現しています。

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この流木から何をインスピレーションしたのでしょうか?
人それぞれかもしれません。
少し下のアングルから見上げてみました。

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ソフトで少し古風なイメージを持つ手編みの飾りと古木とが融合し、独特の優しさ・柔らかさが生まれる。
「祈りのかたち」・・・この場所でゆったりした風と戯れたい・・・・そんな気分にさせてくれる。

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この地にいろいろな芸術作家さんがおられる。
皆さんにも知っていただきたい。

私もこれからこうして展覧会にもまたお邪魔していこうと思う。
こんこんギャラリーを応援していきたいと思う。

こんこんギャラリーブログは ⇒ こちら

八郷地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/09/04 17:57

夏から秋へ(三昧塚古墳)

 昨日朝からまた出かけた。
まだ少しは仕事があるということは幸せともいえるが、次第に等距離は疲れるようになってきた。

朝から地平線からは行く手に入道雲がモクモク湧き出していた。

霞ケ浦沿いの道を進むと、行方市に入ったところに綺麗に形を整えられた三昧塚古墳がある。

上空の雲もあまり見かけない雲になってきた。

やはり少し立ち寄って行こう。

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古墳の上には秋の雲が放射状に広がる。

その下にはまだ夏の雲だ。

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まわりの田んぼも稲刈りはだいぶ進んだ。
遠く筑波山は厚い雲の下だ。

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霞ケ浦の自然 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/09/12 17:13

実際にあった話し(外川の伝説)

 先日銚子電鉄の終点である外川(とかわ)に行って、ランチを食べたのですが、この食事処「見晴」の店の前に石の供養塔が建っていました。

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「外川港 大納屋阿姫供養塔」と彫られており、背後には塔婆が数本置かれていました。

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裏になにやら謂れが書かれていますが、よく読むことが出来ません。
塔婆は令和2年のものもありましたので、今年も供養が行われたようです。

内容が気になりネットで調べて見ました。

コトバンクより
 大納屋おさつ(おおなや おさつ)

「紀伊(きい)湯浅(和歌山県)の人。
力持ちで,常陸(ひたち)(茨城県)飯貝根(いがいね)でイワシ漁船の水手(かこ)をしていたが,下総(しもうさ)外川(とかわ)(千葉県)の網元大納屋次郎右衛門の後妻となる。
不漁がつづいた安永3年,故郷の紀州にかえる夫に置き去りにされ,精神異常となる。
漁師たちに迷惑がられ,享和2年3月8日大桶にいれられて沖に流されたとも,生き埋めにされたともいう。」

とかなり物騒な事が書かれています。

これが、銚子妖怪伝説「海んばおさつ」となって語られているようです。

享和2年(1802)ですから、今から200年以上前の江戸時代の話です。

説明に出てくる飯貝根(いがいね)というのは地名というより、「大きな岩礁」の場所を指す言葉のようです。
銚子では利根川河口を望む領域を一般には言っているようです。
常陸の飯貝根ですから、川口の向こう側の波崎地区でしょうか?

言い伝えによれば、力持ちで女相撲取りのような女性(おさつ)が網元「大納屋次郎右衛門」の後妻となった。
外川は銚子で一番早く港ができたところであり、これを開発したのは1656年に紀州からやってきた崎山次郎衛門で、紀州からたくさんの人をこちらに呼び、町を築いて、イワシ漁で栄えたといわれています。

そんな港でも不良の年があったのでしょうね。
それを嫌ったかどうか分らないが、大納屋次郎右衛門は紀州に帰ってしまったようです。
夫が紀州に帰ってしまってから3年。
そして、残された「おさつ」は半狂乱となり酒を飲んでは暴れ、誰の手にも負えなくなった。

そこでそこの両師たちが相談して桶に入れて砂浜に埋めて殺害してしまった。

しかし、それからこの亡くなった命日(3月8日)は決まって海は大時化となり漁がまったくできなくなったともいわれ、地元の両師たちがこの供養塔を建て、毎年供養を続けてきたのだといいます。

伝説では桶に入れられて海に流され、死体が波崎の海岸に打ち上げられ、哀れの持った地元の人達で波崎にある「(常葉山)宝善寺」に葬られたともいう。
この寺には、今もお墓が残されているそうです。
近くは時々行くので、今度一度お墓参りをしておきましょう。

何か伝説と実話が合わさり、その後の人達に語り継がれてきたようです。
銚子の伝説は安倍晴明と延命姫伝説などがあるが、この外川に残されたお話が悲しい話しが、伝説として数百年後にはどのように変化していくのでしょうか。



銚子 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/09/14 12:02

伊豆河津町の気になる話

(備忘録です)

伊豆の河津町は早咲きの桜(河津桜)が有名で早春に訪れる人も多い場所ですが、ここを流れる川は、伊豆の踊り子で知られる天城峠近くから河津七滝(ななだる)を経由して流れています。
この河津町の桜並木の近くに栖足寺(せいそくじ)という寺があり、ここに河童のかめ(甕)といわれる甕(壷)があります。

河童の壺

もうご存知の方も多いかもしれませんが、この壷にまつわる河童の伝説を紹介します。

「むかし、栖足寺の裏を流れる河津川の淵に、河童がすんでおり、この河童が水あびをしている子どもの足を引っぱるなどのいたずらをして村人をこまらせていました。
ある夏の夕方、村人たちが寺の裏の川で馬を洗っていたところ、馬が急にいななき、うしろあしを高くけり上げました。
よく見ると馬のしっぽにうわさの河童がしがみついていました。
「河童だ、河童がいるぞ」とさけぶと、近くにいた村人たちが集まってきて、河童を捕えて、棒きれでたたき始めました。
ちょうどそこへ、栖足寺の和尚さんが帰ってきました。和尚さんは村人たちがさわいでいるのを見て、村人たちを諭し、村人達も河童を和尚さんにあずけました。
和尚さんは村人たちがいなくなると、「もう悪さをするなよ」といって、河童をにがしてやりました。
その晩のこと、和尚さんは誰かが庫裏の戸をたたく音で目をさましました。戸をあけてみると月あかりの中に昼間の河童が立っていました。
河童は、「昼間は助けていただきありがとうございました。このつぼはお礼のしるしです」といって、丸い大きなつぼを縁側におきました。
「このつぼに河津川のせせらぎを封じ込めました。つぼの口に耳をあてると、水の流れる音がします。
水の音が聞こえたら、わたしがどこかで生きていると思ってください。和尚さまもどうぞお元気で」といって、河童は立ち去りました。

それから、今でも耳をあてると、河津川のせせらぎが不思議と聞こえ、この水の流れの音を聞くと心も洗われると言われています。

この栖足寺(せいそくじ)は鎌倉時代の1319年に下総総倉(佐倉?)の城主千葉勝正の第三子である徳瓊覚照禅師により開山した禅寺と言われていますが、この栖足(せいそく)は8世紀半ばから9世紀始めの中国 唐の禅僧「百丈懐海(ひゃくじょう えかい)」の言葉、「幽栖常ニ足ルコトヲ知ル」の句より栖足の二文字をとったものといわれています。幽栖(ゆうせい)とは俗世間から離れてひっそりと暮らすことを意味します。

寺には河童のグッツや河童が逃げ込んだ井戸などもあるようです。

今世の中に自己中心的な考え方が広がり、争いごとも増えているように思われます。
ささいな争いから戦争なども起こるものであり、誰も望まない方向に向かわないようにこの河童のかめ(甕)に閉じ込められたせせらぎの音を聞きにコロナが収束したら出かけて見たいですね。
ただ、この甕の見学には予約が必要なようです。

実は、この甕の底には祖母懐(うばのふところ)」「加藤四郎左衛門」と記されています。
これは、愛知県瀬戸市祖母懐町で、室町、鎌倉時代の陶祖、加藤四郎左衛門景正(藤四郎)の茶壷だそうです。

 この河童の寺「栖足寺」から伊豆急行線に沿って西に1~1.5kmほど行った所に「南禅寺(なぜんじ)」という寺があります。

この寺の前身として749年に行基が創立したという「那蘭陀寺(ならんだじ)」という寺がありました。
それが室町時代の1432年に起こった山崩れによりお寺の堂宇やそこに安置されていた平安時代に製作されたという多くの仏像が埋没してしまったのです。
そして、それらの仏像を1541年に掘り出して、お堂を作って安置したのです。
そして寺の名前は「ならんだじ」がなまって「なぜんじ」となり、南禅寺となったなどともいわれています。

しかし、これらの仏像は静岡県で最も古い平安時代の仏像ですが、あまり知られておらず、1978年にドイツ、スイスなどヨーロッパ各地の展示会に出展されました。
そして中でも二つの天部の像(四天王像とも)は各地で驚きをもって迎えられたといいます。

ヨーロッパではミケランジェロなどルネッサンスの彫刻に見られる身体のひねりなどの表現方法が、東洋の外れの日本で、その400年ほど前にすでに、これらの仏像表現に取り入れられていたからだと思います。
日本ではその後運慶・快慶などの仏師によりさらに磨かれていきますが、日本のこのような田舎に土に埋もれて眠っていたと知って驚いたものと考えられます。

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腕などはなくなっていますが今もその魅力は充分残されています。

この南禅寺では寺の一角に「伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館」を2013年にオープンさせました。

コロナウイルスの影響で展示館は閉館となっていましたが、本日9月19日から開館開始されました。

私は、何故この場所に静岡県で最も古い平安仏があるのか? 人の流れが当時どのようであったのかなど興味を持っています。

番外編 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/09/19 14:24

古代製塩

 これは今から8年ほど前に、「ふるさと風の会」に入会して間もなく書いた記事です。
いろいろいらべものも多く、ブログも毎日書いていた時代です。

少し懐かしくなり、こちらにのも載せさせて下さい。

古代製塩            木村 進     (2012年12月 ふるさと風 第79号)

 4年ほど前に長年勤めていた会社で停年を迎えました。
完全リタイヤはもう少し先と考えてはいますが、当然他の暇な年寄りの仲間入りをしたわけですから、この余った時間の処し方を思案するうちに、カメラ片手に身近なところに眠る神社や石仏、古びた家屋などを見て回ることが好きになりました。

そして、2年前の夏からこの周辺に眠る埋もれた歴史を掘り起こすことをテーマに、ブログ「まほらに吹く風に乗って」を立ち上げ、毎日欠かさず記事を書いてきました。
このブログのタイトルを決めたのも「ふるさとに吹く風や香り」を読む人にも感じて欲しいとの思いを込めたものです。

一方、こちらの会のテーマも「ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考える」であり、同じ方向性を持っていると思っています。
この会報に記事を書くことは大変うれしいことですし、諸先輩方の記事を見習って書いてみようと書き始めてみました。
しかし、とても読むに耐えない無味乾燥な文章になってしまいました。
そこで、賢明な読者の皆様には申し訳ないのですが、背伸びをしてもしかたがないので、暫らくは今までブログに書いてきた内容などから面白そうなところを拾い出し、書き足りないことなどを加えて、私なりの書き方で書かせていただこうと思っています。
自分で感じた興味あるテーマなどを感じるままに書いてみたいと思います。

今回はまず「古代製塩」についてです。
これは昨年から霞ヶ浦の南側にある阿見町、美浦村などの探索をある程度終え、今年1月に小野川に架かる古渡(ふっと)橋を渡り浮島へ行った時のことです。車の窓越しに「広畑貝塚」という案内立札に目が止まりました。
私は良く事前調査などせずに出かけ、何か日常と少し異なる何かを見つけると立ち寄ってみることが散策時の習慣になっているのです。そこで何の気無しにその貝塚へ立ち寄りました。

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そこは霞ヶ浦の水面からそれ程高くない場所ですが、ただの草原が広がっているだけでしが、そこに書かれていた説明文を読んで衝撃を受けました。
書かれていたことを要約すると、「この貝塚は標高1.5~2 mの比較的低地にあり、明治29年の発掘調査で、縄文式土器と弥生式土器が層位的に発見された。そして特に注目されたのが出土された土器片から多量の炭酸カルシウムが検出され、これが縄文期の土器だったことからここが縄文期における土器製塩の遺跡であると認定され、国の史跡に登録された」という内容でした。
これには二つの驚きがありました。
一つはそれまで抱いていた縄文期の水面の高さが私の思っていたより低かったのではないかということ。
もう一つが縄文期にすでに塩がこのような場所で作られていたということでした。

少し話は飛びますが、常陸国風土記の信太郡のところに、
「昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。  
(中略)
 乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしてゐる。」(口訳・常陸国風土記より)と書かれています。

ここ浮島は、名前にあるように、昔は今の霞ヶ浦に浮かぶ島だったと言われています。
それまで私は、いろいろな文献で縄文海進という言葉を目にしており、古代に流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦の湖面(当時は海面)が縄文時代には今より4~5m程高かったものと推測しておりました。
そして、津波などの影響を考えるのに有効なFlood Mapsというソフトを使って、現在の水面を5m程上昇させ、古代の地形を推測して楽しんできました。
このような地形を想像すると、貝塚の分布や昔の地名や言い伝えなどが想像しやすくなり、それまで不明だった多くの事が見えてくることを知って喜んでいたのです。

しかし、この貝塚の標高は1.5~2 m程度しかないのです。これはひとつの驚きでした。即ち、三千年ほど前の水面でも私が思っていたよりも低く、せいぜい+1~2mくらいではないか考えられるということです。
もっとも縄文海進のピークは今から六千年ほど前といわれていますので、三千年前には1~2m程高かったというのもおかしなことではないかもしれません。
こちらの方は今回の話のテーマではありませんのでこれくらいにします。

さて本題は、もう一つ驚きである「縄文時代に製塩が行われていた」ということです。
霞ヶ浦が昔は海であったということですから、この場所に大昔から縄文人がたくさん住んでいたことには陸平(おかだいら)貝塚などを知っていましたので、特に驚きはありません。
しかし、驚いたのはこの製塩が弥生時代や縄文時代晩期ではなく縄文時代後期だということなのです。
そして調べてみると、この付近が日本で一番古い製塩土器の発掘場所(広畑付近では前浦遺跡(稲敷市)や法堂遺跡(美浦村)などでも発見されている)だということがわかったのです。
常陸風土記に書かれているのは今から千五百年ほど前のことであり、三千年以上前の縄文期に塩造りが行われていたとは思ってもいなかったのです。
これは私の知識の無さの所以でもあると思いますが、それまで、日本で海水から塩を作ったのは、稲作が始まるようになって塩が必要になったからだと思ってきました。

常陸国でも鹿島灘の塩田で作られた塩を府中など内陸部に運ぶ塩の道と呼ばれる道があったといいます。
敵である信玄に塩を送った上杉謙信の話などが思い浮かびます。
このように塩はなくてはならないものと考えられますが、大昔には塩を必要とはせず、稲作の始まりで必要性が高まったものと思っていました。
もちろん稲作もかなり昔からあったようですので、これもあながち間違った解釈でもないかもしれませんが、知識不足で分かりません。
私たちが塩作りといって思い浮かべるのは、砂浜に作られた塩田に海水を何度も撒いて天日で乾かす方法で、昔は大変な重労働な作業とされて、一種の身分の低い人を奴隷のようにこき使って行っていた時代が長く続いたような記録が見られます。
例えば、説話「安寿と厨子王」(山椒大夫)では安寿が人買いの手で汐汲をさせられ苦労した話があります。
また、美浦村に残る伝承話し「信太小太郎伝説」では平将門の曾孫である小太郎が陸奥国の塩商人のところで潮汲をさせられる話も残されています。

では、古代の塩作りはどのように行われていたのでしょうか。これを調べてみると結構面白いことがわかってきました。
 まず、淡路島の神戸寄りの海岸に「松帆の浦」という場所があります。万葉集にこの場所の情景を歌った歌があります。

名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕なぎに “藻塩”焼きつつ 海人娘子 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ 丈夫の 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて 俳徊り 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ(万葉集巻六)

(訳)名寸隅の船着場から見える淡路島、その松帆の浦では朝凪の時には玉藻を刈り、夕凪の時には藻塩を焼いたりしている美しい漁師の少女たちがいるとは聞く。しかしその少女たちを見に行く手だてもないので、雄々しい男子の心も、手弱い女のように思いしおれて、徘徊し、私はただ恋い焦がれてばかりいる。舟も櫓もないので

そして、これを基にしたと思える歌が小倉百人一首に選者「藤原定家」の歌として載っています。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
      焼くや 藻塩の身もこがれつつ 

(訳)松帆の浦の 夕凪の時に焼いている藻塩草のように 私の身は 来てくれない人を想って 恋焦がれているのです。

このように、海に生える海草である玉藻(ホンダワラなど)を刈ってきて、夕方の風が凪いでいる時に藻を焼いて塩を作っていたことが歌われています。その他にも万葉集には、この藻塩に関していくつも歌が残されています。

草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子らが 〝焼く塩〟の 思ひぞ焼くる 我が下心 (巻一‐5)

志賀の海女は 藻刈り〝塩焼き〟暇なみ 櫛笥の小櫛 取りも見なくに (巻三‐278)

須磨人 海辺常去らず〝焼く塩〟の 辛き恋をも 吾はするかも (巻十七‐3932)

など、藻塩を焼いて塩を作っていた事が歌われています。

 では、この藻塩焼き製塩とはいったいどんな方法だったのでしょうか。

この製法については宮城県塩釜の御釜(おかま)神社で毎年7月に行われている「藻塩焼神事」がその方法を伝えています。
大きな鉄製平釜の上に竹を編んだ棚を設け、海藻(ホンダワラ)を広げます。その上から海水を注ぎ、これを煮詰めてかん水を作り、それを煮詰めて塩を作ります。これも今では鉄の平釜を使っていますが、古代は薄手の土器が使われていたようです。また、藻塩焼くという言葉のように、海藻を焼いた灰にまた海水かけて、煮詰めて固めたなどの説もあると言われ、藻塩製塩の方法も一つとは限らないようです。

この塩釜周辺も古くから藻塩による塩作りが行われていたといわれ、里浜貝塚などから縄文時代晩期の製塩土器が発見されているそうですが、時期的にはこの霞ヶ浦の製塩よりもかなり後の時代といわれているようです。またこの塩釜で藻塩を焼く煙を歌った鎌倉初期の歌が残されています。

見し人の 煙となりし 夕より 名ぞむつましき 塩がまの浦(『新古今集』巻八)

このように古代の藻塩製塩方法は豊臣秀吉の朝鮮出兵により韓国からもたらされたという入浜式塩田による製塩方式にとって替わるまで一般的な方法だったようです。
前述した安寿と厨子王の説話には安寿は朝晩に海水汲みをさせられ、昼間時間がある時は、藻塩焼きの手伝いをさせられたことが書いてあります。
藻塩焼くのは海女の仕事で万葉集ではこの海女が「塩を焼く」と「恋焦がれる」などを想像して歌われているものが多いので、どのような労働になっていたのかは推察するのみですが、歌にうたわれたほど甘い世界ではないと思います。

一方、塩田法はさらに過酷で塩商人などが暗躍していたようですので、とても歌になど読めない世界だったのでしょう。
話を最近の話題に戻しますが、この藻塩製塩はミネラル分も豊富でおいしいそうです。復活して作っているところもあるようですので試してみるのも良いかもしれません。

しかし日本の塩も今では自給率は12%程度で、ほとんどを輸入に頼っているそうです。また世界を見ると、「塩は岩塩を採掘するもの」という考え方がほとんどで、海から塩を造るという日本の常識は、世界の常識では無いそうですのでいろいろな考え方を知らなければならないようです。塩の使い道も食塩というよりは、身近なものでは石鹸、化学薬品、紙やパルプなどの原料になる苛性ソーダなどに多くが使われているといいます。

さて、最近のニュースで知ったのですが、海藻がたくさんある海中の場所を「藻場(もば)」というそうですが、この藻場が海水温の上昇で大変なことになっているのだそうです。
九州南部の沿岸に広がっていた藻場の消滅が、今は九州沿岸全域に及び、四国や山陰沿岸にも影響が出始めているようです。
これは藻塩などの問題よりはるかに深刻な問題です。
藻場は魚の卵を産み付ける場でもあり、くらげなどのえさにもなってきましたが、海水温の上昇で死滅するはずのくらげが大量に発生してどんどん北上し始めているのです。
このような古代製塩法も、古き縄文時代に思いを馳せるだけではなく、自然環境の変化などにも関心を持つきっかけになればうれしい事です。

地域振興 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/09/27 09:43

鹿島灘の七釜

 前回の「古代製塩」記事の続きです。
これも以前書いたブログ記事とダブりますが、ここに少し訂正して再度掲載します。

前回は霞ヶ浦の南岸近くの広畑貝塚で縄文時代後期の海草を焼いたと見られる土器のかけらが見つかっているという話をさせていただきました。
この方法は、奈良時代ころまでは各地で続けられてきたようです。

常陸国風土記には、浮島(稲敷市)で「山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる」という記述があります。この風土記が書かれたのは8世紀初頭ですが、記述の内容は4~5世紀頃に浮島で製塩で生業を立てる者がいたことになります。

また陸奥国一宮である宮城県塩竈市の「塩釜(鹽竈)神社」には今でも昔からの塩の製法を伝承する行事も行われていますが、この神社の創建についても謎が多くはっきりとはしていません。
ただ、伝承によれば「鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。」と書かれており、祀られているのも「塩土老翁神 、武甕槌神、経津主神」
の3柱です。
これから考えれば創建は奈良時代の少し前くらい(6~7世紀頃)ではないかとも考えられます。

 今回はこの藻塩焼きではなく、海の水を汲んできて塩田と呼ばれる砂浜に何度も撒いて、天日で、水分を飛ばし、最後に釜で焼いて塩を作るいわゆる「揚げ浜式塩田法」についてです。

ではこれから、この歴史をひも解いていきましょう。

常陸国は鹿島神宮から北の大洗磯前(いそさき)神社との間の海岸線は一般には鹿島灘と呼ばれ、砂浜は続いていますが、比較的波が高いことでも知られています。

この鹿島灘の海岸に「釜」という名前の付く地名が7つあります。
北から「上釜・別所釜・武与釜・高釜・京知釜・境釜・武井釜」の七つです。
この釜が実は塩焼きの釜(鉄釜)であったことは意外に知られていません。
また汲上(くみあげ)などという地名も塩(海水)汲みから来ているに違いないでしょう。

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鹿島灘は、昔から砂鉄の産地で、鹿島神宮が武人の神を祀っているのもこの地が鉄の産地であったことが大きいのではないかとも言われています。
海水と鉄の産地という事で日本でも早期に「揚げ浜式塩田法」による製塩が行われたのではないかと思われます。

さて、記録を調べてみると、平安時代の文徳実録(貞観13年:871年)の記述の中に、大洗の磯前神社近くの海岸で「海を煮て塩を作る者有り(856年12月の条)」と書かれています。恐らく記録としてはこれが最古ではないかとも思います。

また、鎌倉時代後期から室町時代に成立したとされる物語(昔話)を江戸時代に23編集めて大坂の渋川清右衛門が「御伽草子(おとぎぞうし)」を編集しました。

ここには、有名な一寸法師、浦島太郎、鉢かつぎ、物ぐさ太郎などの話が載っていますが、この最初に載っている話に「文正草子(ぶんしょうそうし)」があります。

 内容は、『むかし、鹿島の大宮司の下男であった文太という男が、主家から追い出されて「つのをかが磯(角折?)」に住みついて、塩焼きを始めます。 しかし、追い出されても自分で塩焼きを始め、そしてこの塩が味もよく、病にも効くと評判になり通常の相場の倍の高値で飛ぶ様に売れたのです。
そしてこの塩焼きで長者になっていきました。しかし子宝に恵まれず、鹿島大明神に願掛けして2人の娘ができました。

 ある日姉は旅の商人と結ばれてしまうが、実はその商人は姉妹の美しさを伝え聞いた関白の息子(中将)であった。
この姉は中将に伴われて上洛すると、今度はその評判を聞いた帝によって文正夫妻と妹が召し出された。
そして妹は中宮となり、姉も夫の関白昇進で北政所となってそれぞれ子供に恵まれ、宰相に任ぜられた文正とその妻も長寿を保ったという。』

「文正草子」はこの文太が出世して「文正つねをか」と名乗ったことでつけられた名前であり、卑賤の身分であったものが立身出世をしていく話として室町時代に大いに語られたようで、江戸時代の草紙にも最初にとり上げられたものだ。

しかし中世の説話には「山椒大夫」や「信太の小太郎」など地方の塩焼きの悪徳屋敷にこき使われて苦しむ話も多い。
それを考えると、この文正草子の立身出世話は、世間ではどのように受け止められてきたのだろうか。

この「文正つねをか」が塩汲み・塩焼きをしていたとされる場所が「角折(つのおれ)」と考えられており、現在ここには、ハマナスの花の南限とされる場所ということで、「はななす公園」があります。 またこの公園の名前に「長者ヶ浜潮騒」と名前を頭に冠しています。この長者というのが伝説で伝わる塩で大もうけをした長者(文太長者)というのです。

角折の浜は常陸国風土記には
「昔、大きな蛇がゐて、東の海に出ようとして、浜に穴を掘って通らうとしたが、蛇の角が折れてしまったといふ。そこから名付けられた。また別の伝へに、倭武の天皇がこの浜辺にお宿りになったとき、御饌を供へるに、水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまった。ここから名付けられた。」
と書かれています。

この角のある蛇というのは、常陸国風土記にはもう一箇所(行方)出てきます。こちらも面白い話ですね。角がある蛇がいたのでしょうか?

江戸時代前期には、満潮の時の海面と干潮の時の海面との中間の高さに塩田が造る「入浜式塩田法」が開発されましたが、このあたりは波が高く、結構長い間、揚げ浜式塩田法が採用されていたようです。

記録によると、波打ち際から30間(54m?)離れたところに塩田を作り、海の水を桶で運んだようです。上記の釜のつく場所の集落もこの塩田近くに作られていったものと考えられます。


地域振興 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/09/30 11:59
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