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手奪橋(その3)

【手奪橋(その3)】

茨城県行方市の梶無川に架かる河童伝説の残された「手奪橋」を少し調べています。
わかったことなどを少しずつ書いていきます。今回は3回目です。

<腕を切り落とす・元に戻す  伝承は何処から来たのか?>

 私たちが最も良く知っているのは、羅生門の鬼の話しだと思います。
そこでいくつかネットで検索して記載されている内容を見てみましょう。

☆ (羅城門の鬼・羅生門の鬼) Wikipedia 概要

 源頼光が酒呑童子を討伐した後、自分の屋敷で頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ、平井(または四天王の1人・卜部季武)が、羅城門に鬼がいると言い出した。
四天王の1人・渡辺綱は、王地の総門に鬼が住む謂れはないと言い、確かめるために鎧兜と先祖伝来の太刀で武装して馬に乗り、従者も従えずに1人で羅城門へ向かった。
九条通に出て羅城門が正面に見えてきた頃、急に激しい風に見舞われ、馬が動かなくなった。
綱が馬から降りて羅城門へ向かうと、背後から現れた鬼に兜をつかまれた。
すかさず綱が太刀で斬りつけたが、逆に兜を奪われた。綱の太刀と鬼の鉄杖が激しくぶつかり合った末、綱はついに鬼の片腕を斬り落とした。
鬼は「時節を待ちて、取り返すべし」と叫んで、空を覆う黒雲の彼方へ消えて行ったという。

『平家物語』剣の巻にある一条戻橋の鬼の話では、綱が鬼の腕を斬り落とす場面の舞台は一条戻橋であり、この後に鬼が綱の乳母に化けて腕を奪い去るとある。
謡曲『羅生門』は『平家物語』で綱と鬼との戦いまでの話をもとに、舞台を一条戻橋から羅城門に変えて創作されたものとされ、その後の鬼の報復の話は謡曲では『羅生門』とは別作品の『茨木』になっている。
このことから、別々の鬼である羅城門の鬼と茨木童子がしばしば同一視される。


☆ 平家物語「剣巻」(屋代本)の波辺綱の鬼の腕切り

 「渡辺綱が一条戻橋で出会った艶なる女を求められるままに掻き抱き女を五条の津に送ると、女は、実は行き先は五条ではなく愛宕山だと言い出し、綱の髷をつかんで乾の方角に連れて行こうとする。
そこで、綱は少しも騒がず持っていた剣をさっと抜いて、空様に鬼の手を切る。
そして、綱は北野の社の廻廊の上に落とされた。
一方鬼は手を覆い隠して愛宕山へ向かって飛んで逃げ去った。
綱は安部清明に七日の護慎を申しつけられる。
謹慎して六日が過ぎた最後の晩に急に養母が訪ねてきたことに対して綱は明日まで待つよう
頼んだものの、鬼である養母は、切々と綱の不孝を訴え、その日のうちに腕を取り返す。」

ここでは、場所が羅生門ではなく、一条戻橋と川沿いに舞台が変わり、鬼の棲家も愛宕山となっている。

☆ 京都の民話集から

 平安時代中期のまだ魑魅魍魎が都に現れていた時代のお話です。
大江山に、酒呑童子という山を動かすほどの怪力を持ち、空を稲妻のように翔け、多くの鬼神を従え狼藉の限りを尽くしている鬼の大将がおりました。

そこで源頼光と頼光四天王(渡辺綱、卜部季武、碓井貞光、坂田金時)は、山伏に扮して鬼どもを退治しついには大将の酒呑童子を成敗しました。

しかしこの時、茨木童子という鬼を取り逃がしてしまったのです・・・
兎にも角にも酒呑童子を退治した源頼光一行は都に戻りました。

それから幾日か経った夜、源頼光は平井保昌と頼光四天王を集めて宴会を開いておりました。
春の雨のしとしと降る中で6人は酒を酌み交わし、話に花を咲かせます。

平井保昌がふっと
「近頃、羅生門に鬼が出るようだぞ」と言いました。
それを聞いた碓井貞光も
「私も噂を聞いた。酒呑童子を征伐した時に取り逃がした鬼のこともあり気にかかっておったのだ。」

卜部季武、坂田金時はうなずきましたが、四天王の中で最も若い渡辺綱は鼻で笑いながら言いました。
「そうそう鬼なんて出てたまるか!それに大江山で取り逃がした鬼も我々に怯え都には近づけんだろう」

碓井貞光は眼光鋭く渡辺綱に言いました。
「では、鬼が出たらどうするのだ?」
渡辺綱は言います。
「私が退治してみせよう!」

それを聞いた坂田金時は言いました。
「ならば、今直ぐ羅生門に行き確かめて来い。鬼が出るようなことがあれば退治してみせろ」
平井保昌は笑っていましたが渡辺綱は刀を持ち武具を付けて準備を始めました。

平井保昌はニヤニヤと笑いながら言いました。
「ただ、行くだけではわからんではないか。何か証を立てなければな!いいか。本当に羅生門へいったかどうか、証拠に高札を立ててこい」

渡辺綱は馬に乗り、従者も従えずに1人で羅生門へ向かいました。

しとしとと降り続く雨の中、渡辺綱は高札を立ててしばらくの間鬼を待ちましたが一向に現れません。
「全くつまらぬ」というと渡辺綱は馬に跨がりました。

すると、急に雨風が強くなり木々が揺れ始めました。
羅生門の影に何やら気配を感じた渡辺綱は刀に手をかけます。

しかし、羅生門の影から現れたのはうら若い姫でした。
渡辺綱が、なぜこのような時刻に出歩いているのか?と尋ねると姫は
「私は五条の父のところへ行かなければなりません。けれども、雨はふるわ、道はぬかるわで、困っております。」

渡辺綱は姫の手を取り言いました。
「五条ならば私も戻るところ故、馬でお送りしましょう」

その時です。
姫は女の鬼に姿を変えて言いました。
「あたしは愛宕山の茨木童子。ここで毎夜人をとって喰ろうておるのだ。」

鬼は渡辺綱の兜を持って天高く引き上げました。
渡辺綱は刀を抜き放ち腕を斬りつけましたが、逆に兜を奪われ羅生門の屋根に落ちてしまいます。

それでも怯まずに鬼を斬りつけると、鬼の腕が見事に斬り飛ばされました。
鬼は人の声では表せないようなうめき声をあげると黒雲を呼び乗り込みました。

「その腕は7日間預ける。その内に必ず取り戻すから覚えておきな!」
というと鬼は雷鳴と共に消えてしまいました。

鬼の腕を手土産に源頼光の屋敷にもどった渡辺綱はみんなに鬼の腕を見せました。
針金のような太い腕で、針のような毛が一面にはえています。

その後、皆は渡辺綱の武勇を讃えて飲み直しました。

源頼光の屋敷から帰った渡辺綱は、鬼の腕を頑丈な箱に入れ屋敷の門に「ものいみ」という札を出してお経を唱えて過ごしていました。
それから6日経った7日目の夜の事です。渡辺綱邸の門前に一人の老婆が立っていました。

警護の者が事情を聞くと、摂津国から来た渡辺綱のおばだと言うのです。
警護の者は
「それはあいにくでございました。主人はものいみでございまして、今晩一晩立たつまでは、どなたにもお会いになりません。」

老婆悲しい声を出して言いました
「小さい頃に親をと別れた綱を母代わりに育てたのです。その子が今や立派な武士となり鬼を退治するまでになったと聞いて一目会いたいと駆けつけたのです。今晩出会えないとなれば今度はいつ会えるか・・・私も年老いて次はないかもしれませぬ・・・残念なことです。」

すると、渡辺綱が屋敷から出てきて老婆を屋敷の中へ通しました。

老婆は嬉しそうに屋敷に入ると渡辺綱に訪ねました。
「ものいみとはどうしたんだね?」

渡辺綱は羅生門の鬼の話を老婆に聞かせました。
老婆が「立派になって・・・」っというと渡辺綱は少し気持ちが良くなって来ました。

渡辺綱の話が終わると老婆が言いました。
「不思議なこともあるものだねぇ。あの綱がこんな立派な武功を立てるなんてねぇ。私までうれしく思うよ。その鬼の腕を是非見てみたいものだねぇ」

渡辺綱は
「まだ、鬼との約束の日は明けておりませぬ故見せることはできませぬ。」と断りました。

老婆は
「残念なことだねぇ。老い先の短い私に綱の有志を見せて欲しかったのだけど縁が無かったのかねぇ」
と言います。

渡辺綱は老婆のことが不憫に思い、どうしても鬼の腕を見せなければならないような気になってしまいました。
「仕方がございませぬ。少しだけお目にかけましょう」
そういうと鬼の腕が入った箱を開けて老婆に見せました。

老婆は
「まぁまぁこれが鬼の腕かい・・・」
というと鬼の腕を手に取ります。

すると渡辺綱がはっと思う間に、老婆はみるみる鬼に姿を変えて黒雲を呼び寄せました。

「たばかったな!!」
と悔しがる渡辺綱をあざ笑うかのように鬼は言います。

「綱よ、よいか!7日目の夜、この腕、しかと取り戻したぞ!!」
渡辺綱は刀を抜き追いかけましたが既に遅く鬼は空高く消えてしまいました。

その後、都に鬼は現れませんでした。
しかし、摂津国で茨木童子を見たという人がいたそうです。

どうですか? 
この話はその前に書いた「平家物語」の内容が少しアレンジを変え、詳細に物語りに置き換えられたといえるでしょう。

酒天童子が滅ぼされ、弟子の茨木童子がこの鬼という話です。
茨木童子のはなしはまた各地にあり、新潟県長岡市と大坂府茨木市の出生説が有名ですが、ここ地元の茨城県石岡市にも「茨城童子」として昔話に登場します。

石岡の話しは酒天童子が渡辺綱などにより都で退治され、また茨城童子も退治にこっちにやってくるという話を聞いて、龍神山から鬼越峠を越えて逃げ出したというように、どうもあまり強くありません。

さて、この羅生門(らしょうもん)は、正確には「羅城門(らじょうもん)」といって、都を守る入口に作られたとされます。
そのため、奈良の都にも、京都に遷都したときもつくられましたが、この鬼の話しは京都の都(平安京)に建てられた門です。

平安京に建てられた平安時代末期には本当に鬼が住むくらい荒れ果てていたといわれていたようです。

羅城門の上には中央アジアのトルファンに突如現われて、都を護ったと言い伝えられている「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)の像が置かれていました。

Kyowogokokuji_Monastery_Tobatsu_Bishamonten.jpg

しかし、平安時代の末期にこの羅城門は倒壊し、この兜跋毘沙門天像は近くの東寺(教王護国寺)に移 され、現在も国宝として保存されています。

この鬼の話しは平安時代の末期にまとめられた「今昔物語」に書かれた話が基となり、謡曲「羅生門」や平家物語などいろいろなものに取り上げられています。
また各地の民話としてもその姿を少し変えて語り継がれています。

また、芥川龍之介が書いた「羅生門」は黒澤明の映画にもなり、一般に良く知られたものになりました。

平安末期頃につられた話が、鎌倉時代以降にいろいろパターンを変えて広まったといっていいでしょう。

☆ 鬼はどこから

 さて、酒天童子の鬼伝説は奈良時代頃にはまだ、山の奥などに鬼が住むといわれ、大和民族とは違った所謂「原住民」の部族がいたのでしょう。
それらを「鬼」としてあらわし、それを退治した武将が英雄として祭られていた時代だったのかもしれません。
桃太郎伝説などでよく言われているように 鬼がトラ柄のパンツを履き、牛の角を持つ姿は「丑寅=ウシトラ=鬼門」として恐れら絵ていました。

千葉県の難読地名を纏めたときには「鬼泪山=きなだやま」などの地名由来も書きました。
  (記事は ⇒ こちら

どうやら西暦800年頃に、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で功績を挙げたころから、少し変わりだしたのかもしれません。
日本各地に多くの神社が建てられていったのはこの頃でしょう。

鬼が河童に替わって腕を切られる話が、鬼から河童に替わったのだとしたら・・・・・・・・・

それでは、この行方市の「手奪橋」の河童伝説はいつ頃から伝わっているのでしょうか?

調べてみると江戸後期の文化7年(1807)に書かれた水府志料の行方郡「手奪川」の項に記載されているのが、残されているものとしては最古かもしれません。

その内容を纏めると、
「芹澤隠岐守俊幹が野田村、鷺沼村から芹澤、捻木両村の問を流れる手奪川にかかる橋を波るとき馬の尾に何物かがとりついたので切り落とすとそれは河童の腕であった。
その夜俊幹の枕元に河童が来て、腕を返せば、代わりに金瘡骨妙薬を渡すという。
河童の腕を返した芹澤家には代々金瘡家伝の妙法が伝わった。
河童の死後、その体が手奪川の流れを逆流し、與澤の池にとどまったことから、祠を建て手接明神として祀り、水旱や疫疾に効があったという。」

まあ、鬼が河童に替わり、凄みがかった鬼も、少しいたずら好きな河童に替わっていったとしたら少し世の中が平和になったことなのかもしれません。

☆ 牛鬼の手

さて、この話を検証するのは少し大変そうですが、福岡県久留米市田主丸町に石垣山観音寺という673年創建と伝えられる古刹があります。
この寺に「牛鬼の手」というものが残されています。 寺のHPより内容を紹介します。

 『1062年(康平5年)晩秋のことです。真夜中に「ゴーン、ゴーン」と鳴る鐘の音に住職は驚いて目が覚めました。

「誰がつくのだろう」ほの白く沈んだ闇がむなしく、ほかには何も見えませんでした。この不思議な出来事は来る夜も来る夜も起こりました。

そして、鐘の音の後、牛や馬が煙のように消えて、村の娘や子供までいなくなり、村人の不安は募るばかりでした。観音寺の住職は、ある晩宝剣を持ち、意を決して鐘つき堂に隠れ、夜中に鐘をつくものの正体をつきとめることにしました。

夜がふけ、雷雨と暗闇がすべて覆い尽くすと一陣の風と共に現れたのは、頭は牛、体つきは鬼というものすごい怪物だったのです。

住職は修行を積んだ高僧でしたが、この時ばかりは全身に鳥肌が立ち足の震えをどうすることもできませんでした。
この怪物「牛鬼(うしおに)」も住職に気づき、真っ赤な口を開けて今にも飛び掛からんばかりでした。
思わず、住職はお経を唱え始めました。

するとどうでしょう。牛鬼は急に苦しみだし、住職の読経と宝剣により神通力も失い、とうとう鐘つき堂で死に絶えてしまったのです。

あくる朝、知らせを聞いた村人たちは牛鬼の首を京へ送り、手は観音寺に保存しました。
また、この時に牛鬼の耳を付近の山に納めました。
それからこの山を誰言うことなく「耳納山(みのうやま)」と呼ぶようになったそうです。』

この「牛鬼」退治を行なった住職が、観音寺中興の祖である「金光房然廓上人(こんこうぼうねんかくしょうにん)」という人物といわれています。
金光房然廓上人は、法然上人の弟子だった僧侶といわれており、親鸞聖人などと同じ時代の人のようです。恐らくこの話も鎌倉時代始めの頃でしょう。

この「牛鬼の手」が、後世では各地で「河童の手」が保存されている話しなどへ変化していったようです。
近くでは土浦市佐野子の満蔵寺に「河童の手のミイラ」が残されており、時々特別公開されています。
このミイラも伝承では室町時代から残され、保管されてきたものといわれています。
(大きさは人間なら幼児くらいの大きさ)

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(土浦市 満蔵寺の河童の手:妖怪レポートより借用)

あまりまとまりがなく、多くが抜粋などでしたが、河童の腕を切るという話しの元を辿ろうとしたのですが、これもこの先に何かのヒントになると思います。長くなってしまいましたが今回はここまで。

(続く)

手奪橋の最初から読むには → こちらから

てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/11 16:41
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