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手奪橋(その5)

【手奪橋(その5)】

茨城県行方市の梶無川に架かる河童伝説の残された「手奪橋」を少し調べています。
わかったことなどを少しずつ書いていきます。今回は5回目です。

<芹澤氏のルーツ>

 手奪川にまつわる河童伝説で登場するのは「芹澤の殿様」です。
この橋のすぐ近くに中世から江戸時代にかけて武家としての芹澤氏がいました。
そして、巷では新撰組をつくった男「芹沢鴨」がこの芹澤氏の出だといわれています。

では、少しこのあたりを歴史をさかのぼって検証していきたいと思います。

まず、関東に進出した平氏の流れを理解しておく必要があります。
話の流れを少し知らない方のために大雑把にまとめておきます。

1) 平安時代の890年頃、皇族も抱える人数が多くなり、食わせていくことに限界があるため、一部を民間に身分を与えて下らせる必要が出てきました。また平城京から長岡京、平安京と遷都で莫大な経費がかかって財政難となっていたともいわれています。

2) 西暦889年頃に、桓武天皇の孫(または曾孫)の高望王(たかもちおう)を平(たいら)姓を与えて、民間に下らせ、898年には高望は上総介となりました。これが後の平家で活躍する平清盛などの祖(桓武平氏)が誕生したのです。

3) 当時、上総や常陸などの遠方には介となっても都に残ったままという事が多かったようですが、上総介となった平高望(たいらのたかもち)は他にも多くの子供がいましたが、上の3人の息子だけを連れて関東(上総国)にやって来ました。上総国ですから今の千葉県の房総半島側です。 何処を通ってやってきたかはよくわかっていませんが、舟で九十九里浜の横芝光町の屋形あたりだったのかもしれません。ただ玉望が住したのは上総国国府である「菊間」(現在の千葉県市原市菊間あたり?)ではないかとも言われています。連れてきた子供の名は、国香(長男)・良兼(次男)・良将(三男)です。

4) 上総から、下総、常陸へと土地を開拓したり、豪族と手を結んだりして領地を拡大していきました。平高望は上総介としての任期が終わり、902年に西海道の国司となったことから、九州の大宰府へ移りました。
菅原道真が大宰府に左遷となったのは901年。大宰府でなくなったのは903年ですから時期は丁度重なります。

5) しかし、三人の息子たちは現地に残り、平国香(くにか)は常陸大掾であった源護(みなもとのまもる)の娘と結婚するなどして「常陸大掾(だいじょう)」となって茨城県真壁郡石田(現・茨城県筑西市)に住しました。
次男平良兼(よしかね)は父の後を継ぎ「下総介」となり、上総・下総などにその領地を拡大して行きました。真壁郡羽鳥に住したともいわれています。
また三男の良将(よしまさ・よしもち)は佐倉郷に住し、その後鎮守府将軍になり、後に下総国・豊田郡に住したとされています。
この子息が平将門で将門の乱で国香・良兼などと争い、この争いの中、国香は戦死、良兼は病死したといわれています。

6) 国香の息子の平貞盛や藤原秀郷(俵藤太)らの活躍で将門を破ったのち、常陸大掾職(大掾:だいじょう は介の下の官職だが、現地ではもっとも力のある職でもあった)は国香の一族で継承されていきますので、職名の大掾がその後の常陸平氏の名前となって呼ばれるようになります。

7) 将門の乱以降の常陸大掾は、国香-貞盛(つくば市水守)-維幹(養子:水守からつくば市北条の多気山へ移る)-為幹-繁幹-致幹-直幹-義幹と鎌倉時代初期まで大掾職を継承していきます。維幹から現つくば市北条の多気山に城を築いていますので、多気大掾と呼ばれています。

8) 鎌倉時代に北条近くの小田にいた関東守護であった「八田氏=小田氏」は、北条の街に実際は生活のための水路工事でしたが、城造りをして人を集めているとか多気山に兵をあつめているなどと、鎌倉の頼朝に多気大掾氏が謀反を企ていると換言しました。
それにより多気太郎こと平義幹(よしもと)は鎌倉に呼び出され、大掾の領地(筑波・北・南三郡)は没収され、駿河国の岡部泰綱に預けられました。
この平義幹の次男の「平茂幹」が、ここの芹澤氏の祖となります。
やっと名前が出てきました。

つくば市北条にはこの平義幹(多気太郎)の五輪塔が残されており、8月に万灯祭が行われています。
地元の人も多気太郎がこの芹澤氏に関係していると気がついていないのではないでしょうか。

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(つくば市北条に残された多気太郎:平義幹の五輪塔)

常陸大掾氏はここで一旦途切れますが、数年後にやはり多気大掾氏から別れ、水戸にいた吉田氏(馬場氏)に引き継がれました。

ここからは芹澤氏の経歴を見て行きます。

9) 駿河国の岡部泰綱に預けられた平義幹ですが、このとき次男の茂幹まだ幼く、母方の狩野(かのう)氏(伊豆国?)にて養育された。

10) 常陸大掾を継いだ吉田(馬場)資幹が、この茂幹の境遇を憐れみ、謹慎解除を願い出て、謹慎が解除され、ふたたび常陸国にやって来ました。茨城郡坂戸に住んだとなっていますが、現在のどのあたりであるかは不明(水戸に近いところか?)。
その後、常陸大掾との婚姻などで、親交を深めています。

11) 鎌倉幕府滅亡により、足利氏へ手元で養育していた多気種幹(多気義幹の三代後)の遺子「竜太(後の幹文)」を人質に出します。
ただ、記録はわずかで、この頃の事はよくわかっていません。

12) その後、14世紀半ばの記録では、この竜太(幹文)が相模国高座郡村岡郷の芹沢に所領を与えられ、芹沢氏を名乗っています。そして鎌倉の配下としてくらしていきます。
幹文(村岡)-良幹-高幹-望幹と続き、この良幹は、分筆や書画をよくし、のちに医業を志したといいます。このころから家系として医業も行われていたのかもしれません。

13) 一方常陸大掾氏(大掾詮国:あきくに)は常陸府中(現:石岡)に府中城を築き、周りの勢力と対峙していたが、病弱で、嫡男の満幹が後を継いだが、まだ幼かったため、この満幹を補佐するため、鎌倉の芹沢家に支援を要請した。

14) 要請に応じて、芹沢良忠が1385年に常陸国へやってきた。そして詮国の娘を妻に迎えた。
一方相模国内の芹沢氏の所領は、子の光尊に譲られ、芹沢氏は常陸と相模とに分かれた。

15) 当時、常陸大掾氏は水戸城とこちらの府中城の2箇所を領していたが、芹沢良忠は府中城に常置していたという。
そして、行方郡荒原郷内の土地をもらい、そこに住んで「芹沢」と地名も呼ばれるようになった。

16) 上杉禅秀の乱(1416年)や結城合戦(1440年)などで、東国では戦乱が続き、芹沢氏も翻弄されていきますが、芹沢氏も周りの大掾氏の関係氏族を始め、江戸氏、佐竹氏などと婚姻などで関係を深めて、その所領の維持・確保に努めていきます。

17) 戦国末期の天正18年(1590)、佐竹義宣は秀吉から常陸国の所領を任され、水戸城から江戸氏を追放し、府中城を攻め、大掾氏は自害した。そして、鹿島・行方などの常陸大掾系の一族(南方三十三館)の城主や武将たちを太田城に招き、その全てを謀殺した。
しかし、この芹沢城にいた芹沢国幹は病気と偽って招きに応じなかった。
これにより命拾いとなるのだが、城主らを殺された三十三館の勢力は、佐竹氏に滅ぼされたり、自ら城を明け渡して民に下ったり、大きな憂き目を見ることになるが、どうもこの芹沢氏は佐竹氏とはかねてからの関係が良かったようで、大きく攻められることはなかったようだ。
また佐竹氏はこの南郡の勢力の押さえにこの芹沢氏を利用したとも考えられます。

この南部の常陸大掾系諸氏の家臣たちは、芹沢城に逃げ込み佐竹氏に抵抗したため、ついに芹沢国幹も城を出て、下総古河に移り、のちに下野国喜連川の那須資家の館に身を寄せたという。
国幹の子通幹もまた、縁故の秋田城之介を頼って出羽国に移住した。
しかし、佐竹氏の秋田転封により秋田氏も国替えとなり秋田から常陸国の宍戸に移りました。このとき芹沢氏も常陸国に戻り、1604年に内原あたりの土地100石を与えられ、1606年に家康から行方郡富田の地に百石を与えられ故郷芹沢に戻ってきました。
その後は水戸藩の郷士となり、幕末まで続いていきました。

ようやく芹沢氏が佐竹氏の呼び出しに応じず、その後の難も逃れた背景も少しですが見えてきたようです。
また、医者の家系であったことも結構昔から続いていたのかもしれません。

芹沢氏は多気太郎の子孫であった。 という事でしょうか。

また長くなってしまいました。
この先どうやってまとめていこうか・・・・・ さて見えない!

まあ、手奪川から調べていくと、いろいろな事が見えてきますね。

さて、この河童伝説に登場する「芹沢の殿様」は<芹沢隠岐守俊幹>といわれています。

芹沢氏の系図
 (多気)義幹ー茂幹ー兼幹ー種幹ー(村岡)幹文ー良幹ー高幹ー望幹ー讃岐守良忠(常陸国へ、芹沢城築城)ー(相模国に残る)光尊ー土佐守幹兼ー(芹沢)讃岐守俊幹ー土佐守秀幹ー土佐守定幹ー土佐守国幹ー通幹ー将幹、高幹

などとなっている。
この河童の話しに出てくる讃岐守俊幹だが、相模国に残った芹沢氏は光尊、幹兼、この俊幹と三代がまだ生きて残っていたが、永亨の乱や結城合戦で、この相模の領地を失い、三代が離散となったのだ。
幹兼は会津の葦名氏を頼って会津に渡ったが、結城合戦で結城氏に味方するために駆けつけ、結城城で討ち死にしています。
一方当時まだ若かった俊幹は大掾頼幹に預けられた。
結城決戦の後、鎌倉公方となった足利成氏は、俊幹を元服させ、この行方郡荒原郷朝日岡に居を構え、地名をとって改めて芹沢氏を称したという。
俊幹は芹沢城築城の良忠の曾孫となる。この間この芹沢城がどのようになっていたのかはよくわからない。

俊幹はこの地の安定と、周りの氏族との関係を深め、芹沢氏の反映と安泰を図っていきました。
こんな中にこの河童伝説が秘められているのですが、作られたのがいつなのかはよくわかりません。
河童の薬で傷が治ったり、痛いところがおさまったりする・・・
単に、そんな話を広げたいからこの話を創ったといえるのでしょうか。
どうももう少し意味合いが深いように思われます。

次回は芹沢鴨について少しだけふれておきます。


手奪橋の最初から読むには → こちらから

てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/14 15:29
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