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手奪橋(その7)

【手奪橋(その7)】
 
 茨城県行方市と小美玉市から行方市玉造の霞ヶ浦に注ぐヤマトタケル伝説が残る「梶無川」の中流には河童伝説があり、そこに「手奪橋」という橋が架けられていますが、その読み方が「てばいばし」なのか「てうばいばし」なのかを少し追い求めるために、少し歴史などを織り込みながら、ここまで6回に亘って書いてきました。

しかし、疑問は解消されていません。

ただ、江戸時代中期頃の地図や文献にはこの川の名前が、下流域は「梶無川」で、中流から上流は「手奪川(てばいかわ)」となっていたようです。
昔は、川の名称も上流・中流・下流などでそれぞれ違う呼び名であった事は良くありました。
また、それも時代で変って行く場合も良くあったようです。

この「手奪川」という名称が、この河童の腕を切り落とした殿様の話が最初にあったとしたら、こんな名前をつけるでしょうか?
手を奪うのではなく、腕を切る、腕をくっつける・・・などの言葉を連想しやすいものとなるでしょう。
手は河童から奪ったのではなく、切り落としたのです。

千葉県香取市の大根(おおね)という地区に「切手神社」という名前の神社があります。
当然この切手と言う名前から、郵便切手を想像しますね。
郵便切手の「切手」の名前由来は、「切符」の「切」と、「手形」の「手」を組み合わせた語といわれていますので「手を切る」とは関係ありませんが、ここに伝わるお話しは少し違っています。

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(切手神社:香取市大根)

このあたりは、古代に香取神宮などに祀られている物部族が海よりの東側から、また崇神天皇などの出雲族が西側からやって来て領地を巡って攻めあったようです。
そのとき、この地(大根地区)は、出雲族が物部軍を制圧し、出雲族に伝わる「息呼せ」という技法を物部族に強要しました。
しかし、これを拒否した物部(大根一族)の者たちの手を出雲族の支配者が切ったという伝承が伝わっているようなのです。
これで、手を切ったので「切手」となった。

まあこれも一つの伝承であり、はっきりした事はわかりません。
しかし、香取神宮から西側にはこの近くに「返田(かえだ)神社」という神宮の摂社がありますが、この西側(佐原近辺)には「諏訪神社(大神)」という名前の神社が結構たくさんあります。

このように手を切ったのであれば「切手」などというほうがストレートですよね。

もう一つ「テバイ」といえば「手這坂」という地名、坂名の存在との関係です。

<手這坂(てばいざか)>

(1) 手這坂(てばいざか)の合戦

 これは、筑波の小田氏と佐竹氏との争いで、かなり有名な合戦である。
しかし、この手這坂という名称も、手倍坂、手拝坂、手葉井山・・・などといろいろあり、当時の書状などには殆んどこの名前は使われていないにもかかわらず、この名前は有名になっている。
また合戦が起こった場所についてもおおよその見当が付くだけで正確にはわかっていない。

この合戦については、下記ページに詳しく書かれているので興味のある方はご参考まで:
http://yogokun.my.coocan.jp/tebaiyamakassen.htm

合戦は諸説あるが、永禄12年(1566)11月23日~24日、小田氏治(うじはる)が石岡の片野城(元は小田氏の城であったが、佐竹氏が奪い、太田資正(三楽斎)が入っていた)を攻めようと、筑波側の野根を越えて現在の石岡市の小幡から少し登った山(手葉井山?)に陣を張り、麓の吉生(よしう)村などの勢力と争っていたところを、背後から真壁勢が攻め、更に片野の太田三楽斎などが加わって小田氏治は敗走し、つくばの小田城へ帰ろうとした。
しかし、それより早く、太田三楽斎の軍勢は先回りして見方と偽り小田城を開門させ、主力部隊のいない小田城を乗っ取って占拠した。
帰る場所を失った小田氏治は一旦見方の他の城に入り、その後土浦城へ入った。
鎌倉時代から常陸国南部に広大な領地を有していた小田氏も氏治の時代になり、負け続けたなどといわれるのはこうした間抜けな事があったということなのか。
もっとも太田三楽斎も留守中に、自分の城(岩槻城)を子供に奪われるという失態をしているので、一概には言えまい。
しかし、三楽斎はなかなかの策略かとしても有名で、自分の城と、仲間の城に犬を飼いならして飼っていて、いざ片方の城が攻められたときには、その犬を場外に逃がし、もう一つの城に逃げ込んで知らせるという「軍用犬」を始めて採用したとも言われている。

 さて、話はそれたが、手這坂というのは手で這って登らねばならないほどの急坂であろうと、名前から想像していたが、一概にそうとも言えないようだ。
手這、手倍、手葉井、手拝などと漢字で書くと少しずつ意味合いが違って見える。
この石岡の小幡地区の奥は、柿などの果樹園も多い地区でもある。また徳一法師が建てたという筑波山周りに配した四面薬師堂の一つ「山寺」も近くにあった。
またこの合戦の死者を弔って建てられたのかはわからないが、多くの石仏が眠っている地域でもある。
この「てばい」という名前も手葉井山北側あたりの旧字名でもあったようだ。

(2) 手這坂(てばいざか) 茨城県城里町石塚

石岡の街から県道52号線(通称:石塚街道)を北進し、石塚の町から下の国道123号線に断崖をS字ヘアピンカーブになって下る坂がある。
ここは今はS字クランクになっているが、昔は下から直登していたという。
まさに両手をついて登らねばならないほどの坂道で「手這坂(てばいざか)」と名前がついている。

(3) 手這坂(てはいざか) 秋田県八峰町(はっぽうちょう)

 今でも藁葺き屋根の民家(4棟)が残る山間の集落名(峰浜村)

1807年に江戸後期の旅行家で植物学者の菅江真澄(すがえますみ)が、ここを訪れ、日記「おがらの滝」に絵入りで紹介し、桃源郷の様だ と賞賛したことから知られるようになった。

ただ、一時住民が皆離れ無住にもなったが、現在は一部に移住する人も出てきて何とか住居を保存しているが、人でも足りず景観保護としては手が足りていないのが実情という。

ここの地域名の「手這坂」というのがいつ頃つけられたのか、調べてみたがわからなかった。

菅江真澄は、「坂中にたちて桃の真盛を見やるに、山川のさまさらに武陵桃源のものかたりに似たり」と絵入りで書いている。

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ここに誰 世々咲く桃に かくろひて
     おくゆかしけに 栖めるひと村   菅江真澄

大坪平から手這坂に出た。家が4,5軒川岸にあるのが見えた。
坂の上から眺めると、昔仙人が山の奥深く、清流の岸辺に庵を結び隠れ住んだという中国の桃源郷のように思われ、この和歌を詠んだ。(現地看板)

どのような坂であるかを知らないが、坂から見下ろした下の川沿いの集落が、余りにも美しくて・・・・
という事だろう。
手で這うくらいに急な坂であったのか。 
これではわからないがイメージとしてはそれほどの急坂ではなくゆるい坂ではないかと思える。

急坂にはそのほか「へっぴり坂」「屁っぷり坂」などというのもある。
ここも手で這いあがるという意味ではないのだろう。 手拝あたりかもしれない。

まあよくわからないので、又先の宿題として頭においておき、一旦終了としよう。


手奪橋の最初から読むには → こちらから


てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/17 21:33
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