池花池で野鳥とのひと時
日曜日にまた大子(袋田)の方に用事があり、朝から出かけてきました。
前回出かけたのが10月21日だったので18日ぶりでしょうか。
小美玉市部室(へむろ)にある池花池の横を車で通るのですが、前回白鳥が1羽のみ見えたので、仲間が増えていないかを確認したくて池の隣の駐車場に車を停めました。

朝比較的まだ早かったので、池の周りは静かです。
しかし、池に張り出した観鳥台の手すりには大型の水鳥(鴨?)が数羽休んでいました。

そっと近づいたのですが、水鳥たちは一斉に飛び立ちました。

そして、下の池の水鳥たちと一緒に仲良く泳いでいます。
ここでは定期的に餌などのあげているようです。

白鳥はというと、1羽のみ。さびしそうに遠くで泳いでいました。
毎年冬には数十羽の白鳥がやってきます。
仲間が来るのはもう少し先なのかもしれません。
この池にはたくさんのスイレンのような葉が生い茂っています。
多分、ヒツジグサ(未草)だろうと思います。
もう花の時期は過ぎていますので、夏場には未(ひつじ)の刻(午後2時頃)可憐な白い花が咲いていたことでしょう。
ヒツジグサと聞くと「琵琶湖周航の歌」を思い出しますね。

ここ池花池の奥は、五万堀という地区です。
このあたりから昔の官道の跡が見つかっています。
石岡の鹿の子遺跡で奈良時代に武器工場跡が見つかっており、そこから蝦夷(東北)への攻撃部隊へこの官道を使って武器などを運んでいたのでしょう。
古代東海道は石岡(常陸国府)が終点でしたが、ここから先にも官道は水戸台渡里へも続いていました。
そしてその先が2手に分かれていたようです。一つは海岸よりの道。もう一つは水郡線のような経路で郡山、田村市(三春)の方へ・・・・・・?

池の観鳥台の入り口には野鳥の写真と説明がありますんで、直接見て観察してみては如何でしょう・・・。
前回出かけたのが10月21日だったので18日ぶりでしょうか。
小美玉市部室(へむろ)にある池花池の横を車で通るのですが、前回白鳥が1羽のみ見えたので、仲間が増えていないかを確認したくて池の隣の駐車場に車を停めました。

朝比較的まだ早かったので、池の周りは静かです。
しかし、池に張り出した観鳥台の手すりには大型の水鳥(鴨?)が数羽休んでいました。

そっと近づいたのですが、水鳥たちは一斉に飛び立ちました。

そして、下の池の水鳥たちと一緒に仲良く泳いでいます。
ここでは定期的に餌などのあげているようです。

白鳥はというと、1羽のみ。さびしそうに遠くで泳いでいました。
毎年冬には数十羽の白鳥がやってきます。
仲間が来るのはもう少し先なのかもしれません。
この池にはたくさんのスイレンのような葉が生い茂っています。
多分、ヒツジグサ(未草)だろうと思います。
もう花の時期は過ぎていますので、夏場には未(ひつじ)の刻(午後2時頃)可憐な白い花が咲いていたことでしょう。
ヒツジグサと聞くと「琵琶湖周航の歌」を思い出しますね。

ここ池花池の奥は、五万堀という地区です。
このあたりから昔の官道の跡が見つかっています。
石岡の鹿の子遺跡で奈良時代に武器工場跡が見つかっており、そこから蝦夷(東北)への攻撃部隊へこの官道を使って武器などを運んでいたのでしょう。
古代東海道は石岡(常陸国府)が終点でしたが、ここから先にも官道は水戸台渡里へも続いていました。
そしてその先が2手に分かれていたようです。一つは海岸よりの道。もう一つは水郡線のような経路で郡山、田村市(三春)の方へ・・・・・・?

池の観鳥台の入り口には野鳥の写真と説明がありますんで、直接見て観察してみては如何でしょう・・・。
角のある蛇「夜刀神」説話
むかしむかしのことです。
第26代天皇の継体天皇の代(西暦507年~531年)頃のお話です。
これは、今から1300年ほど前に「常陸国風土記」の行方郡のところに、古老から伝えられた話として書かれています。
むかしむかし、継体天皇の御世に、石村(いわれ)の玉穂(たまほ)の宮に、箭括(やはず)の氏の麻多智(またち)という人物がいた。
この人物が、郡の西側の谷津(やつ)の葦原を開墾して新たに田を切り開いた。
しかし、このとき、夜刀(やつ)の神とよばれる頭に角がある蛇が群れをなして現われ、田作りの邪魔をして耕作が進まなかった。
この夜刀の神については、この夜刀の神の難を免れようと逃る時、振り返ってその姿を見た者は、その後一家は滅び、子孫までも皆絶えてしまうという。
そこで、箭括の麻多智は大いに怒り、甲鎧を身につけ、この夜刀を打殺し、山の入口まで駈逐して攻めていった。
そしてこの境の堀に標(しるし)の杖を立てて、夜刀の神に向かって言った。
「ここより上の山をあなたたち神の住みかとし、下の里を人の作れる田としよう。
今日から私はここで、神司(かむづかさ)となって、子孫の代まであなたがた神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりしないでください。」
その後ここに社を設けて、最初の祭を行った。 それ以来、この麻多智(またち)の子孫は、今日に至るまで代々この祭を絶やすことなく引き継ぎ、新田も更に増え、十町あまりが開墾されている。
その後、孝徳天皇の御世(西暦596~ 654年)になって、壬生連麿がこの谷を支配する事となり、この谷津にある池に堤を築いた。
そのとき、夜刀の神が、この池のほとりにある椎の木に登り群れて、なかなかそこを去らなかった。
このため壬生連麿は怒って、
「この池の堤を築くのは、民を活かすためでございます。あなたがたは、何の神、誰の神かはわかり申さぬが、詔をお聞きください。」と大声で叫び、労役に駆り出されていた人々に「目に見える魚でも虫でも、反抗する者があれば遠慮なく全て打ち殺せ」と命じたところ、夜刀神は恐れをなしてみな逃げだした。
その池は、今は椎井の池と呼ばれ、池のまわりに椎の木がある。 ここは香島(鹿島神宮)への陸路の駅道である。
------------------------------------------------
さて、このお話の舞台である「椎井の池」と夜刀の神を祀る神社へ行ってきた。
玉造から国道354号線で鹿行大橋方面に少し進み新しく出来た玉造小学校の入口案内から右に折れ、すぐに左にまた曲がって、国道沿いの道をすすみます。
この右手の住宅や畑などが広がる地帯が「泉区」で、この椎井の池に関係する地域です。
しばらく進むと「泉区浄水場」があり、ここに「夜刀神神社・愛宕神社」の矢印看板が出ています。
この案内板に従って右折すると、道はどんどん谷の方に下っていきます。
そして、しばらく行くと、また右へのT字路があり、ここにも同じ案内板があります。
道は更に谷底のような場所へ降りていきます。

この看板からはすぐで、「椎井の池」にでます。脇に数台停められる駐車場があります。

椎井の池には鳥居があり、池は湧き水がこんこんと流れています。

この池の奥にはいかにも角のある蛇が出てきそうな山で、昔の(神社)祠も置かれています。


この椎井の池を祀る神社がこの池の脇から上に登った所にあります。

昔、夜刀の神がたむろしていたという椎の木らしき木も池のわきにはあります。
少し滑りそうな山道を息を切らして登ります。

登ってきた道を振り返ると・・・・

やっと上に神社の建物が見えてきました。

愛宕神社です。

この愛宕神社の直ぐ右側の奥に「夜刀神」を祀る神社があります。

この近くを、恐らく常陸国国府(現石岡)から鹿島神宮への官道が昔通っており、この近くに駅屋(うまや)があったようですので、この池の水は駅屋の馬の水として貴重なものだったと考えられます。
この池の神社の山と反対側にも上る道があります。
車ではいけませんので、回りこんで向こう側の上へ行って見ました。
住宅や広々した平地が広がっていて、この椎井池への降り口には神社の鳥居が置かれています。

この突き当りの鳥居から下へ、降りた所に椎井の池があります。

そして鳥居の右側に道祖神が祀られています。
年代は、江戸末期から明治時代のものが多いようです。
泉地区の婦人会などで、子安講などが行われてきたようです。





----------------------------------------------------
この常陸国風土記の説話は、いろいろ解釈ができますが、大和朝廷がこの地を開拓し、支配を広げていったときのはなしとして考えると、その支配の過程がこの話しの根底に隠されているように感じます。
最初の箭括麻多智(やはずのまたち)は、現地の族の長と考えられ、その後の壬生連麿は、箭括麻多智(やはずのまたち)の開墾した谷戸(やと)田(谷水田)に民を動員して、夜刀神(やとのかみ)(蛇の神格化)を打ち殺しつつ大規模な開発を行い、溜池(ためいけ)を築いて安定した耕地を開いた人物で、茨城国造(いばらきのくにのみやつこ)と考えられています。
夜刀神も恐らく、箭括麻多智(やはずのまたち)と同じ、昔この地に暮らしていた一族(縄文人)を指していると考えられます。
この人物の名前も、ヤハズは矢筈:矢の弦にかける切れ込みのあるところで、マタチは、ヤマタのヲロチと同じくマタのある蛇の意ではないかという解釈もあります。
夜刀の神も、この谷底にいた、もっとも怖い妖怪と考えても良し、また、ヤマタノオロチ伝説のヤマタノオロチと同じように見ることも出来ます。
しかし、古事記や日本書紀の神話の世界を引き継いだ風土記も、書かれた当時は東北地方はまだ蝦夷地で、朝廷の意向を汲む同じ流れで纏められたものです。
しかし私には、この風土記の作者は、少しそこにこっそりとこの地の開拓や、現地人たちとの衝突など、それまでの時代の流れを書き留めているように感じます。
第26代天皇の継体天皇の代(西暦507年~531年)頃のお話です。
これは、今から1300年ほど前に「常陸国風土記」の行方郡のところに、古老から伝えられた話として書かれています。
むかしむかし、継体天皇の御世に、石村(いわれ)の玉穂(たまほ)の宮に、箭括(やはず)の氏の麻多智(またち)という人物がいた。
この人物が、郡の西側の谷津(やつ)の葦原を開墾して新たに田を切り開いた。
しかし、このとき、夜刀(やつ)の神とよばれる頭に角がある蛇が群れをなして現われ、田作りの邪魔をして耕作が進まなかった。
この夜刀の神については、この夜刀の神の難を免れようと逃る時、振り返ってその姿を見た者は、その後一家は滅び、子孫までも皆絶えてしまうという。
そこで、箭括の麻多智は大いに怒り、甲鎧を身につけ、この夜刀を打殺し、山の入口まで駈逐して攻めていった。
そしてこの境の堀に標(しるし)の杖を立てて、夜刀の神に向かって言った。
「ここより上の山をあなたたち神の住みかとし、下の里を人の作れる田としよう。
今日から私はここで、神司(かむづかさ)となって、子孫の代まであなたがた神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりしないでください。」
その後ここに社を設けて、最初の祭を行った。 それ以来、この麻多智(またち)の子孫は、今日に至るまで代々この祭を絶やすことなく引き継ぎ、新田も更に増え、十町あまりが開墾されている。
その後、孝徳天皇の御世(西暦596~ 654年)になって、壬生連麿がこの谷を支配する事となり、この谷津にある池に堤を築いた。
そのとき、夜刀の神が、この池のほとりにある椎の木に登り群れて、なかなかそこを去らなかった。
このため壬生連麿は怒って、
「この池の堤を築くのは、民を活かすためでございます。あなたがたは、何の神、誰の神かはわかり申さぬが、詔をお聞きください。」と大声で叫び、労役に駆り出されていた人々に「目に見える魚でも虫でも、反抗する者があれば遠慮なく全て打ち殺せ」と命じたところ、夜刀神は恐れをなしてみな逃げだした。
その池は、今は椎井の池と呼ばれ、池のまわりに椎の木がある。 ここは香島(鹿島神宮)への陸路の駅道である。
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さて、このお話の舞台である「椎井の池」と夜刀の神を祀る神社へ行ってきた。
玉造から国道354号線で鹿行大橋方面に少し進み新しく出来た玉造小学校の入口案内から右に折れ、すぐに左にまた曲がって、国道沿いの道をすすみます。
この右手の住宅や畑などが広がる地帯が「泉区」で、この椎井の池に関係する地域です。
しばらく進むと「泉区浄水場」があり、ここに「夜刀神神社・愛宕神社」の矢印看板が出ています。
この案内板に従って右折すると、道はどんどん谷の方に下っていきます。
そして、しばらく行くと、また右へのT字路があり、ここにも同じ案内板があります。
道は更に谷底のような場所へ降りていきます。

この看板からはすぐで、「椎井の池」にでます。脇に数台停められる駐車場があります。

椎井の池には鳥居があり、池は湧き水がこんこんと流れています。

この池の奥にはいかにも角のある蛇が出てきそうな山で、昔の(神社)祠も置かれています。


この椎井の池を祀る神社がこの池の脇から上に登った所にあります。

昔、夜刀の神がたむろしていたという椎の木らしき木も池のわきにはあります。
少し滑りそうな山道を息を切らして登ります。

登ってきた道を振り返ると・・・・

やっと上に神社の建物が見えてきました。

愛宕神社です。

この愛宕神社の直ぐ右側の奥に「夜刀神」を祀る神社があります。

この近くを、恐らく常陸国国府(現石岡)から鹿島神宮への官道が昔通っており、この近くに駅屋(うまや)があったようですので、この池の水は駅屋の馬の水として貴重なものだったと考えられます。
この池の神社の山と反対側にも上る道があります。
車ではいけませんので、回りこんで向こう側の上へ行って見ました。
住宅や広々した平地が広がっていて、この椎井池への降り口には神社の鳥居が置かれています。

この突き当りの鳥居から下へ、降りた所に椎井の池があります。

そして鳥居の右側に道祖神が祀られています。
年代は、江戸末期から明治時代のものが多いようです。
泉地区の婦人会などで、子安講などが行われてきたようです。





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この常陸国風土記の説話は、いろいろ解釈ができますが、大和朝廷がこの地を開拓し、支配を広げていったときのはなしとして考えると、その支配の過程がこの話しの根底に隠されているように感じます。
最初の箭括麻多智(やはずのまたち)は、現地の族の長と考えられ、その後の壬生連麿は、箭括麻多智(やはずのまたち)の開墾した谷戸(やと)田(谷水田)に民を動員して、夜刀神(やとのかみ)(蛇の神格化)を打ち殺しつつ大規模な開発を行い、溜池(ためいけ)を築いて安定した耕地を開いた人物で、茨城国造(いばらきのくにのみやつこ)と考えられています。
夜刀神も恐らく、箭括麻多智(やはずのまたち)と同じ、昔この地に暮らしていた一族(縄文人)を指していると考えられます。
この人物の名前も、ヤハズは矢筈:矢の弦にかける切れ込みのあるところで、マタチは、ヤマタのヲロチと同じくマタのある蛇の意ではないかという解釈もあります。
夜刀の神も、この谷底にいた、もっとも怖い妖怪と考えても良し、また、ヤマタノオロチ伝説のヤマタノオロチと同じように見ることも出来ます。
しかし、古事記や日本書紀の神話の世界を引き継いだ風土記も、書かれた当時は東北地方はまだ蝦夷地で、朝廷の意向を汲む同じ流れで纏められたものです。
しかし私には、この風土記の作者は、少しそこにこっそりとこの地の開拓や、現地人たちとの衝突など、それまでの時代の流れを書き留めているように感じます。
白鳥の里と角折浜の説話
昨日「角のある蛇 夜刀の神」説話の紹介をしました。
そこで書きながらもう一つ気になる常陸国風土記に記載されているお話をしておきたいと思います。
むかしむかしのことです。
鹿島郡の郡家の北三十里のところに、白鳥の里というところがあります。
第11代天皇の垂仁天皇の代(紀元前29年~紀元後71年 ??)の頃のお話です。
あるとき、天より飛来した白鳥の一群がありました。
白鳥たちは、朝に地上に舞ひ降りて来て、乙女の姿になり、石を拾い集めては水をせき止めて、池の堤を少しづつ築き、夕方になると、また白鳥の姿にもどり、天へと帰っていくのでした。
しかし、池の堤は、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりでなかなか池の堤は完成できませんでした。
さうしてこの白鳥たちは、
「白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え」
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるようなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
と歌いながら天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはありませんでした。
この謂れにより、白鳥の里と名付けられました。
また、この里の南に広がる平原を、角折の浜といいます。
この名前の由来は、昔、このあたりに頭に角のある大きな蛇がいて、東の海に出たいと思い、この浜に穴を掘って通らうとしました。 しかし、蛇の角が折れてしまったので、そこから名付けられたものです。
また別の言い伝えによると、昔ヤマトタケル尊がこの浜辺に宿をとったとき、食事を供へようとしたが、水がなかったため、鹿の角で地を掘ったら角が折れてしまったともいう。
--------------------------------------------------------
さて、この話は第11代天皇の垂仁天皇の頃に池を造るというお話です。
垂仁天皇(すいにんてんのう)は実在した可能性が高い天皇と考えられてもいますが、紀元前の生まれではなく、時代としてはもう少し後になりそうです。
垂仁天皇は崇神天皇の3番目の子供で、大和朝廷の生産力の拡充や、新羅などとの交流も積極的に行ったと言われています。
特に水田開発を熱心に行い、諸国に800余りの池・溝を作りました。
この白鳥伝説も、こ白鳥や乙女の美化された話ではなく、水田に使う水を貯める池の構築が、かなりの難事業であったことを物語る話としてみると、内容が少しわかってくるように思います。
また、垂仁天皇は天皇などが亡くなった時に、人の殉死などの風習があったのを排除し、代わりに埴輪を使うことをはじめたとされています。
また、夜刀神の時代よりさらに200年ほど前の話と捉えると、角折浜の話しは、九州方面から黒潮に乗って千葉や茨城の浜にやってきた海人族(縄文人)とはまた別な、内陸の川や山に住む縄文人の一族を指しているのかもしれません。
東の海に出ようと砂浜に穴を掘って進んだけれど、角が折れてしまった・・・・・
なんかとてもいろいろな事が想像される話に思えます。
-----------------------------------------------
この白鳥の里ですが、旧太陽村(現鉾田市)の中居あたりではないかとされています。
というのもこの中居地区の西側の霞ヶ浦北浦近くには「白鳥西小学校、東側の鹿島灘近くには「白鳥東小学校」があります。
遺称地として、地元などに看板などがある場所は、この中居に「白鳥山大光寺照明院」という天台宗のお寺があります。
昔行ったときの写真ですが、

(白鳥山大光寺照明院)
寺は無住で、人の気配はない。
寺の入り口に置かれている石像はほとんどが子安観音像で女人講中などの文字が読めるが年代はよく読めない。
一番手前には文政11年(1828)の銘がある念仏供養塔である。
もう一つが、北浦に架かる鹿行大橋に近い札村の「白鳥山普門寺」である。

(白鳥山普門寺 白鳥観音堂)
こちらも昔訪れた時の写真だが、忘れ去られたように残されていた「白鳥観音堂」が記憶に残っている。
この札村は芭蕉の禅の師である「仏頂禅師」が江戸初期の1642年2月18日に生まれている。
仏頂禅師は、大田原の雲厳寺裏の山の草庵で禅の修行をしたといわれる。
その後潮来の根本寺の住職をしていた。寺領の争いのため、江戸を訪れていたときに芭蕉と知り合った。
また、小林一茶が1817年5月に鹿島詣での途中に、この地を訪れている。
いろいろあるが、今この地を訪れる人はあまりいないようだ。
常陸国風土記では鹿島郡の郡家から北三十里と書かれているが、現在郡家跡とされる場所は鹿島神宮の南側にあり、三十里よりは大分遠いように思う。
しかし、郡家がこの地に移る前に神宮の北「沼尾神社」付近にあったと考えれば、記述とさほど違わない。
もう一つ「角折」ですが、これも現在「はまなす潮騒公園」の東側の海岸付近に「角折」地名が残されています。
こちらの公園はハマナスの南限地といわれ、この名前がつきました。
ここには鹿島灘で塩汲みから財を成したという出世話が室町時代の「御伽草子」に書かれています・
御伽草子の最初にでてくる「文正(ふんしやう)草紙」がそれです。
昔はこのような出世話が喜ばれたようです。

(文太長者屋敷跡)
夕日かがやく
この岡に
黄金せんばい
にせんばい
お話の内容は別途調べれば出てきます。
この話しなどももっともっと夢を膨らませてみたいですね。
そこで書きながらもう一つ気になる常陸国風土記に記載されているお話をしておきたいと思います。
むかしむかしのことです。
鹿島郡の郡家の北三十里のところに、白鳥の里というところがあります。
第11代天皇の垂仁天皇の代(紀元前29年~紀元後71年 ??)の頃のお話です。
あるとき、天より飛来した白鳥の一群がありました。
白鳥たちは、朝に地上に舞ひ降りて来て、乙女の姿になり、石を拾い集めては水をせき止めて、池の堤を少しづつ築き、夕方になると、また白鳥の姿にもどり、天へと帰っていくのでした。
しかし、池の堤は、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりでなかなか池の堤は完成できませんでした。
さうしてこの白鳥たちは、
「白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え」
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるようなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
と歌いながら天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはありませんでした。
この謂れにより、白鳥の里と名付けられました。
また、この里の南に広がる平原を、角折の浜といいます。
この名前の由来は、昔、このあたりに頭に角のある大きな蛇がいて、東の海に出たいと思い、この浜に穴を掘って通らうとしました。 しかし、蛇の角が折れてしまったので、そこから名付けられたものです。
また別の言い伝えによると、昔ヤマトタケル尊がこの浜辺に宿をとったとき、食事を供へようとしたが、水がなかったため、鹿の角で地を掘ったら角が折れてしまったともいう。
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さて、この話は第11代天皇の垂仁天皇の頃に池を造るというお話です。
垂仁天皇(すいにんてんのう)は実在した可能性が高い天皇と考えられてもいますが、紀元前の生まれではなく、時代としてはもう少し後になりそうです。
垂仁天皇は崇神天皇の3番目の子供で、大和朝廷の生産力の拡充や、新羅などとの交流も積極的に行ったと言われています。
特に水田開発を熱心に行い、諸国に800余りの池・溝を作りました。
この白鳥伝説も、こ白鳥や乙女の美化された話ではなく、水田に使う水を貯める池の構築が、かなりの難事業であったことを物語る話としてみると、内容が少しわかってくるように思います。
また、垂仁天皇は天皇などが亡くなった時に、人の殉死などの風習があったのを排除し、代わりに埴輪を使うことをはじめたとされています。
また、夜刀神の時代よりさらに200年ほど前の話と捉えると、角折浜の話しは、九州方面から黒潮に乗って千葉や茨城の浜にやってきた海人族(縄文人)とはまた別な、内陸の川や山に住む縄文人の一族を指しているのかもしれません。
東の海に出ようと砂浜に穴を掘って進んだけれど、角が折れてしまった・・・・・
なんかとてもいろいろな事が想像される話に思えます。
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この白鳥の里ですが、旧太陽村(現鉾田市)の中居あたりではないかとされています。
というのもこの中居地区の西側の霞ヶ浦北浦近くには「白鳥西小学校、東側の鹿島灘近くには「白鳥東小学校」があります。
遺称地として、地元などに看板などがある場所は、この中居に「白鳥山大光寺照明院」という天台宗のお寺があります。
昔行ったときの写真ですが、

(白鳥山大光寺照明院)
寺は無住で、人の気配はない。
寺の入り口に置かれている石像はほとんどが子安観音像で女人講中などの文字が読めるが年代はよく読めない。
一番手前には文政11年(1828)の銘がある念仏供養塔である。
もう一つが、北浦に架かる鹿行大橋に近い札村の「白鳥山普門寺」である。

(白鳥山普門寺 白鳥観音堂)
こちらも昔訪れた時の写真だが、忘れ去られたように残されていた「白鳥観音堂」が記憶に残っている。
この札村は芭蕉の禅の師である「仏頂禅師」が江戸初期の1642年2月18日に生まれている。
仏頂禅師は、大田原の雲厳寺裏の山の草庵で禅の修行をしたといわれる。
その後潮来の根本寺の住職をしていた。寺領の争いのため、江戸を訪れていたときに芭蕉と知り合った。
また、小林一茶が1817年5月に鹿島詣での途中に、この地を訪れている。
いろいろあるが、今この地を訪れる人はあまりいないようだ。
常陸国風土記では鹿島郡の郡家から北三十里と書かれているが、現在郡家跡とされる場所は鹿島神宮の南側にあり、三十里よりは大分遠いように思う。
しかし、郡家がこの地に移る前に神宮の北「沼尾神社」付近にあったと考えれば、記述とさほど違わない。
もう一つ「角折」ですが、これも現在「はまなす潮騒公園」の東側の海岸付近に「角折」地名が残されています。
こちらの公園はハマナスの南限地といわれ、この名前がつきました。
ここには鹿島灘で塩汲みから財を成したという出世話が室町時代の「御伽草子」に書かれています・
御伽草子の最初にでてくる「文正(ふんしやう)草紙」がそれです。
昔はこのような出世話が喜ばれたようです。

(文太長者屋敷跡)
夕日かがやく
この岡に
黄金せんばい
にせんばい
お話の内容は別途調べれば出てきます。
この話しなどももっともっと夢を膨らませてみたいですね。
延喜式式内社 立野神社
常陸大宮市緒川に延喜式の式内社とされる立野神社(たつのじんじゃ)がある。
もう何年も前に一度訪れていたが、この前の日曜日に近くまで来たついでにまた立ち寄ってみた。

神社は緒川の町の県道(栃木県道・茨城県道12号那須烏山御前山線)の案内板から西に入って直ぐの所にある。
入口参道と駐車場が手前にあり、少し奥まって神社がある。
通りの反対側は「緒川小学校」である。
たしか前回来た時は合併したすぐ後で、バス停は、まだ昔の「小瀬小」の名前が残っていた。
また前に比べて通り側の広場(駐車場)あたりが広くなった気がした。
少し建物を壊したのかも知れない。

入口に昔から苔生した屋根の境内社が置かれていたが、こちらは手前に木が植えられ、少し陰に隠れた感じとなっていた。
寺伝では、物部氏の族である立野の連(久自<久慈>国造)が、大同年間(806~810年)に現在地から東に1kmほど離れた立野山に自分たちの神を祀ったのが最初だとされる。
それを、戦国末期に佐竹氏の小瀬庄三郎義隆が白旗山の鹿島社と合祀して、「立野鹿島神社」として現在地に移したといいます。
現在の祭神は、級長津彦命(ツナツヒコ) 級長戸邊命(シナトベ)で、男女一対の風の神様です。

丁度神社には七五三参りの親子連れが来ていました。
日本の伝統ですが、ほほえましいですね。
思わず顔がほころんでしまいます。


この神社も佐竹七福神の神社の1つで、大黒天が祀られていました。

狛犬さんもどこか風格があります。
もう何年も前に一度訪れていたが、この前の日曜日に近くまで来たついでにまた立ち寄ってみた。

神社は緒川の町の県道(栃木県道・茨城県道12号那須烏山御前山線)の案内板から西に入って直ぐの所にある。
入口参道と駐車場が手前にあり、少し奥まって神社がある。
通りの反対側は「緒川小学校」である。
たしか前回来た時は合併したすぐ後で、バス停は、まだ昔の「小瀬小」の名前が残っていた。
また前に比べて通り側の広場(駐車場)あたりが広くなった気がした。
少し建物を壊したのかも知れない。

入口に昔から苔生した屋根の境内社が置かれていたが、こちらは手前に木が植えられ、少し陰に隠れた感じとなっていた。
寺伝では、物部氏の族である立野の連(久自<久慈>国造)が、大同年間(806~810年)に現在地から東に1kmほど離れた立野山に自分たちの神を祀ったのが最初だとされる。
それを、戦国末期に佐竹氏の小瀬庄三郎義隆が白旗山の鹿島社と合祀して、「立野鹿島神社」として現在地に移したといいます。
現在の祭神は、級長津彦命(ツナツヒコ) 級長戸邊命(シナトベ)で、男女一対の風の神様です。

丁度神社には七五三参りの親子連れが来ていました。
日本の伝統ですが、ほほえましいですね。
思わず顔がほころんでしまいます。


この神社も佐竹七福神の神社の1つで、大黒天が祀られていました。

狛犬さんもどこか風格があります。
小松寺と平重盛の墓
10日ほど前になるが茨城県城里町小松にある「小松寺」に行った。
まあ、たまたま近くを通っていて、懐かしくなって立ち寄ったというところではあるんだが・・・。
ここには平清盛の嫡男の重盛の墓がある。
その真偽についてはわからないが、私は本当のように思っている。
重盛は清盛の後を継ぐとみなされていましたが、源平合戦の前に父清盛より早く42歳で病気で亡くなってしまった。
重盛が生きていれば源平合戦の結果も変っていたかもしれないともよくいわれているようですが、重盛の母は正室でも比較的身分が低く、清盛の継室となった時子の子が大切にされて孤立していた様でもあります。
重盛が死んだ後、継室時子の長子「宗盛」が後を継ぎますが、源氏に攻められ平家は西国に逃れる事を決めます。
目指すは九州大宰府や宇佐神宮だったようですが、重盛に仕えて来た平貞能(さだよし)は、九州の状況を見てきていたこともあり、これに反対します。
そして、皆が京を離れるとき、貞義は重盛の墓から遺骨を掘り起こし、周りの土を川に流して、遺骨と重盛の妻を連れて、関東の平氏を頼って逃げたのです。
伊勢平氏の基は関東の平氏で、その本流は当時現在のつくば市北条の多気山に居を構えていた多気大掾氏(だいじょうし)でした。
この寺に残されているのは、この多気大掾義幹(よしもと)を頼ってきて、この地に遺骨を埋め、夫人はここで尼(相応院得律禅尼)となって菩提を弔ったとされています。
ただ、貞義は重盛夫人と共に、重盛の妹も一緒に関東に逃げてきたといわれ、ここから貞義は、重盛の妹(妙雲禅尼)をつれて、関東藤原氏の宇都宮氏(宇都宮朝綱)を頼って行ったという。
宇都宮朝綱は、源氏との修復も図れる相手だったのでしょう。
現在栃木県の益子町の妙雲寺に妙雲禅尼の墓、安善寺に貞義の墓があります。
ただ、平貞義に関する話はいろいろとあり、遠く陸奥国仙台の方まで残されています。
何処までが真実か?
ただ、この茨城の小松寺は、重盛が京都で暮らしていた六波羅小松第から「小松殿」と呼ばれていたこと。
また、寺には重盛の念持仏といわれる小さな白檀の像が残されていることなどから、ある程度の信憑性も感じられます。
白檀の重盛の念持仏 : こちら (前に書いた記事参照)
毎年1月1日に開帳されています。

寺の本堂は東日本大震災の被害があり、近年新たに立て替えられました。
枝垂桜が植えられ、春にはきれいに境内を彩ります。
正面奥に見えるのは薬師堂で白雲山

寺の唐門。 重盛の住んでいた小松御殿の勅使門を模して、大掾義幹によって建久2年(1191年)に寄進されたという。
(現在の門は改修されたと思われる。)

観音堂と本堂をつなぐ渡り廊下を潜って、裏山へ向かいます。

この苔むした石段を登った山の中腹に重盛の墓がある。

墓の処までは入れず、手前に柵があるが、正面が重盛の墓で、左に平貞能(たいら の さだよし)の墓があり、右に重盛夫人の墓がある。
周りが結構鬱蒼としていて、写真を撮ると、必ずぼけてしまう。何処かに霊気を感じさせる場所でもある。


寺の本堂の改築前に使われていた鬼瓦が唐門横に置かれていた。
かなり大きい。
まあ、たまたま近くを通っていて、懐かしくなって立ち寄ったというところではあるんだが・・・。
ここには平清盛の嫡男の重盛の墓がある。
その真偽についてはわからないが、私は本当のように思っている。
重盛は清盛の後を継ぐとみなされていましたが、源平合戦の前に父清盛より早く42歳で病気で亡くなってしまった。
重盛が生きていれば源平合戦の結果も変っていたかもしれないともよくいわれているようですが、重盛の母は正室でも比較的身分が低く、清盛の継室となった時子の子が大切にされて孤立していた様でもあります。
重盛が死んだ後、継室時子の長子「宗盛」が後を継ぎますが、源氏に攻められ平家は西国に逃れる事を決めます。
目指すは九州大宰府や宇佐神宮だったようですが、重盛に仕えて来た平貞能(さだよし)は、九州の状況を見てきていたこともあり、これに反対します。
そして、皆が京を離れるとき、貞義は重盛の墓から遺骨を掘り起こし、周りの土を川に流して、遺骨と重盛の妻を連れて、関東の平氏を頼って逃げたのです。
伊勢平氏の基は関東の平氏で、その本流は当時現在のつくば市北条の多気山に居を構えていた多気大掾氏(だいじょうし)でした。
この寺に残されているのは、この多気大掾義幹(よしもと)を頼ってきて、この地に遺骨を埋め、夫人はここで尼(相応院得律禅尼)となって菩提を弔ったとされています。
ただ、貞義は重盛夫人と共に、重盛の妹も一緒に関東に逃げてきたといわれ、ここから貞義は、重盛の妹(妙雲禅尼)をつれて、関東藤原氏の宇都宮氏(宇都宮朝綱)を頼って行ったという。
宇都宮朝綱は、源氏との修復も図れる相手だったのでしょう。
現在栃木県の益子町の妙雲寺に妙雲禅尼の墓、安善寺に貞義の墓があります。
ただ、平貞義に関する話はいろいろとあり、遠く陸奥国仙台の方まで残されています。
何処までが真実か?
ただ、この茨城の小松寺は、重盛が京都で暮らしていた六波羅小松第から「小松殿」と呼ばれていたこと。
また、寺には重盛の念持仏といわれる小さな白檀の像が残されていることなどから、ある程度の信憑性も感じられます。
白檀の重盛の念持仏 : こちら (前に書いた記事参照)
毎年1月1日に開帳されています。

寺の本堂は東日本大震災の被害があり、近年新たに立て替えられました。
枝垂桜が植えられ、春にはきれいに境内を彩ります。
正面奥に見えるのは薬師堂で白雲山

寺の唐門。 重盛の住んでいた小松御殿の勅使門を模して、大掾義幹によって建久2年(1191年)に寄進されたという。
(現在の門は改修されたと思われる。)

観音堂と本堂をつなぐ渡り廊下を潜って、裏山へ向かいます。

この苔むした石段を登った山の中腹に重盛の墓がある。

墓の処までは入れず、手前に柵があるが、正面が重盛の墓で、左に平貞能(たいら の さだよし)の墓があり、右に重盛夫人の墓がある。
周りが結構鬱蒼としていて、写真を撮ると、必ずぼけてしまう。何処かに霊気を感じさせる場所でもある。


寺の本堂の改築前に使われていた鬼瓦が唐門横に置かれていた。
かなり大きい。
十夜講
最近、十九夜や二十三夜などの講の他に「十夜講」行事が行われていた(る)地域がある事を知った。
十九夜や二十三夜は月の出を待つ地域の講行事です。
十九夜の月の出は、秋なら夜9時半頃のため、月の出を寝て待つことから「寝待月」などとも呼ばれていました。
一方、二十三夜に至っては、真夜中の12時過ぎ頃になって月が出るので、しまいます。
十九夜なら十五夜から4日後に昼間から飲食をともにして集り(主に女性たち)、如意輪観音を祀って安産や子育て祈願をし、月の出る時間頃に解散したようです。
また、二十三夜は月は下弦の月(半月)で、月の出が深夜になりますので、女性講の多い中で、男性のみの集まりのところも多かったようです。
いずれも飲食をともにして村や地域の集まり(飲み会)で続けられてきたようです。
この月待ち行事のほかに「十夜講」というのがあったそうです。
この十夜講(十夜念仏)は、浄土宗の行事として行われている層で、陰暦の10月6日~15日の10日間(10月10日の前後10日間)、集会所などに集って泊り込みで念仏を唱えるという。
さて、そんな行事に参加するのは一帯どんな人達かということに興味をいだいたのだが、昔、石岡の隣の玉里(現在の小美玉市下玉里)地区に昔行われていたと聞いた。
ここには霞ヶ浦湖畔に近い少し高台に尼寺(湖月庵?)があったという。
この寺がなくなり、地域の集会場として使われていたという。
その集会場に陰暦10月10日前後の10日間、地域のばあ様が皆集ったのだそうだ。
大概は亭主に先立たれて独り身のばあ様だが、家には息子夫婦などがおり、今のような一人暮らしなどはあまりいなかったという。
地域の働き手の男たちが、行事の前に布団などをその集会所に運び込んだそうだ。
そして、集ったばあ様たちは念仏を唱え、10日間そこで過ごしたそうだ。
でも10日経つと家に戻るのだが、みな生き生きと元気になるという。
どうも念仏を唱えるというより、お互いの嫁の悪口などを言い合ったようだ。
そしてスッキリして家に戻る・・・・・
表向きは、亭主恋しさなどの念仏を唱えていたなどとも言うが、嫁の悪口を言えるほうがよかったのかもしれない。
仏教での大切な行事となっていたというが、意外にこんなだったという事だろうか。
十九夜や二十三夜は月の出を待つ地域の講行事です。
十九夜の月の出は、秋なら夜9時半頃のため、月の出を寝て待つことから「寝待月」などとも呼ばれていました。
一方、二十三夜に至っては、真夜中の12時過ぎ頃になって月が出るので、しまいます。
十九夜なら十五夜から4日後に昼間から飲食をともにして集り(主に女性たち)、如意輪観音を祀って安産や子育て祈願をし、月の出る時間頃に解散したようです。
また、二十三夜は月は下弦の月(半月)で、月の出が深夜になりますので、女性講の多い中で、男性のみの集まりのところも多かったようです。
いずれも飲食をともにして村や地域の集まり(飲み会)で続けられてきたようです。
この月待ち行事のほかに「十夜講」というのがあったそうです。
この十夜講(十夜念仏)は、浄土宗の行事として行われている層で、陰暦の10月6日~15日の10日間(10月10日の前後10日間)、集会所などに集って泊り込みで念仏を唱えるという。
さて、そんな行事に参加するのは一帯どんな人達かということに興味をいだいたのだが、昔、石岡の隣の玉里(現在の小美玉市下玉里)地区に昔行われていたと聞いた。
ここには霞ヶ浦湖畔に近い少し高台に尼寺(湖月庵?)があったという。
この寺がなくなり、地域の集会場として使われていたという。
その集会場に陰暦10月10日前後の10日間、地域のばあ様が皆集ったのだそうだ。
大概は亭主に先立たれて独り身のばあ様だが、家には息子夫婦などがおり、今のような一人暮らしなどはあまりいなかったという。
地域の働き手の男たちが、行事の前に布団などをその集会所に運び込んだそうだ。
そして、集ったばあ様たちは念仏を唱え、10日間そこで過ごしたそうだ。
でも10日経つと家に戻るのだが、みな生き生きと元気になるという。
どうも念仏を唱えるというより、お互いの嫁の悪口などを言い合ったようだ。
そしてスッキリして家に戻る・・・・・
表向きは、亭主恋しさなどの念仏を唱えていたなどとも言うが、嫁の悪口を言えるほうがよかったのかもしれない。
仏教での大切な行事となっていたというが、意外にこんなだったという事だろうか。
霞ヶ浦湖岸道路
霞ヶ浦の湖岸道路はサイクリングコースとしても整備が進んでいる。
昨日となりの玉里地区へ行き、湖岸の堤防上に上がってみた。

霞ヶ浦がうっすらと靄がかかり、その向こうに筑波山が見える。
このあたりから見る筑波山はきれいだ。

男女2つの頂がちょうどきれいに見える。
好きな風景だ。

しかし、今、ここで堤防の補修工事が始まっていた。
サイクリングの方は少し一般道へ迂回しなければならない。

堤防のかさ上げ、強度補修などのようだ。
この対岸の石川地区(石岡市)も現在工事が始まっている。
昨日となりの玉里地区へ行き、湖岸の堤防上に上がってみた。

霞ヶ浦がうっすらと靄がかかり、その向こうに筑波山が見える。
このあたりから見る筑波山はきれいだ。

男女2つの頂がちょうどきれいに見える。
好きな風景だ。

しかし、今、ここで堤防の補修工事が始まっていた。
サイクリングの方は少し一般道へ迂回しなければならない。

堤防のかさ上げ、強度補修などのようだ。
この対岸の石川地区(石岡市)も現在工事が始まっている。
かごぬけ地蔵
現在の小美玉市小川や玉里地区、また霞ヶ浦の入り江の向こう側である現在の石岡市井関、石川地区などは霞ヶ浦の水運を利用していた水戸藩の領地でした。
霞ヶ浦の高浜入りの入口に当たる部分は比較的対岸までの距離が狭く、両湖岸を領していた水戸藩はここを川とみなし、「御留め川(おとめがわ)」制度を行っていました。

また、水戸藩ではこの現在の八木地区(石岡市)は昔は陸地から少しはなれた島で、ここに罪人を流布して働かせたりしていました。
罪人と言ってもほとんどが政治犯でした。
罪人を送るときは、水戸から唐丸篭で陸路を小川経由でこの玉里地区へ送られ、ここで篭から降ろされ、縛られたまま舟で対岸の島(八木地区)へ運ばれました。
以前この玉里地区の道路際の大きな木の根元に数体の石仏などが祀られていて、不思議に思っていましたが、ここがその唐丸篭から罪人が降ろされた場所だった事がわかりました。

昔は大きな木があったのですが、数年前に木が倒れ、伐採され、地蔵さん達は纏められて囲われていました。

篭から降ろされた場所なので、この地蔵さん達は「かごぬけ地蔵」と呼ばれているそうです。

ここにはバス停があり、「稗倉(ひえくら)」と書かれていました。
説明は何もありません。バスの時刻も一日一本のみで、土曜はありません。
この「稗倉(ひえくら)」というからには、江戸時代にでもここに稗(ひえ)などを貯蔵する倉が建てられていたのでしょうか?
東京の田無(現西東京市)に文化財の稗倉が残されていますが、そちらは江戸時代の飢饉の時から、その後の基金に備えて稗や米を備蓄していたといいます。
毎年少しずつ古いものは貧しい人に配り、新しいものを追加して自然災害に備えていたようです。
今年、石岡市の社会福祉協会も蓄えていた米を希望者に無償で配布するそうです。(12月1日から1人2kg ⇒こちら)

この「かさぬけ地蔵」の直ぐ前が湖ですから、このあたりから舟に乗せられて対岸の島へ移されたのでしょう。

地図で見るとこんな感じです。
対岸の八木にある「縄とき地蔵」も元は少し山の方(住吉神社)にあったようですが、現在地に整理され移されたようです。
(縄とき地蔵へ行ったときの記事 ⇒ こちら)
この「かごぬけ地蔵」も昔来たときには大きな古い樹株の基にありました。

何年前だか忘れましたが、7~8年くらい前だったような・・・・

すぐ脇の道を入ってみました。

のどかな雰囲気の場所です。
右に柿の木があり、左の家の垣根に赤い花が・・・
山茶花でしょうか?
いい色合いと雰囲気です。

竹林もあります。
霞ヶ浦の高浜入りの入口に当たる部分は比較的対岸までの距離が狭く、両湖岸を領していた水戸藩はここを川とみなし、「御留め川(おとめがわ)」制度を行っていました。

また、水戸藩ではこの現在の八木地区(石岡市)は昔は陸地から少しはなれた島で、ここに罪人を流布して働かせたりしていました。
罪人と言ってもほとんどが政治犯でした。
罪人を送るときは、水戸から唐丸篭で陸路を小川経由でこの玉里地区へ送られ、ここで篭から降ろされ、縛られたまま舟で対岸の島(八木地区)へ運ばれました。
以前この玉里地区の道路際の大きな木の根元に数体の石仏などが祀られていて、不思議に思っていましたが、ここがその唐丸篭から罪人が降ろされた場所だった事がわかりました。

昔は大きな木があったのですが、数年前に木が倒れ、伐採され、地蔵さん達は纏められて囲われていました。

篭から降ろされた場所なので、この地蔵さん達は「かごぬけ地蔵」と呼ばれているそうです。

ここにはバス停があり、「稗倉(ひえくら)」と書かれていました。
説明は何もありません。バスの時刻も一日一本のみで、土曜はありません。
この「稗倉(ひえくら)」というからには、江戸時代にでもここに稗(ひえ)などを貯蔵する倉が建てられていたのでしょうか?
東京の田無(現西東京市)に文化財の稗倉が残されていますが、そちらは江戸時代の飢饉の時から、その後の基金に備えて稗や米を備蓄していたといいます。
毎年少しずつ古いものは貧しい人に配り、新しいものを追加して自然災害に備えていたようです。
今年、石岡市の社会福祉協会も蓄えていた米を希望者に無償で配布するそうです。(12月1日から1人2kg ⇒こちら)

この「かさぬけ地蔵」の直ぐ前が湖ですから、このあたりから舟に乗せられて対岸の島へ移されたのでしょう。

地図で見るとこんな感じです。
対岸の八木にある「縄とき地蔵」も元は少し山の方(住吉神社)にあったようですが、現在地に整理され移されたようです。
(縄とき地蔵へ行ったときの記事 ⇒ こちら)
この「かごぬけ地蔵」も昔来たときには大きな古い樹株の基にありました。

何年前だか忘れましたが、7~8年くらい前だったような・・・・

すぐ脇の道を入ってみました。

のどかな雰囲気の場所です。
右に柿の木があり、左の家の垣根に赤い花が・・・
山茶花でしょうか?
いい色合いと雰囲気です。

竹林もあります。
雲
今日は朝から出かけました。
霞ヶ浦北岸を東へ進み、行方市に入る頃周りが開け、前方の雲が気になり始めました。
良く天気が良いと、車を走らせながらも空の雲の形や色なども良く気になる事があります。
あまり見とれて「きれいだな~」などとそのまま走るのは危ないので、脇道に入り車を止めました。

今日は雲の中にぽっかりと穴があいた雲が各地でみられたのだそうです。
私がみたのはそれが崩れた後かな・・・・
でも写真の雲に確かに穴のようなものが写っています。この穴の中に周りの雲とは違ううっすらとしたスジ状のふわふわした雲が見られました。



うまく撮れなかったが、記憶には残りそうな雲だった。
(行方市西蓮寺付近にて)
霞ヶ浦北岸を東へ進み、行方市に入る頃周りが開け、前方の雲が気になり始めました。
良く天気が良いと、車を走らせながらも空の雲の形や色なども良く気になる事があります。
あまり見とれて「きれいだな~」などとそのまま走るのは危ないので、脇道に入り車を止めました。

今日は雲の中にぽっかりと穴があいた雲が各地でみられたのだそうです。
私がみたのはそれが崩れた後かな・・・・
でも写真の雲に確かに穴のようなものが写っています。この穴の中に周りの雲とは違ううっすらとしたスジ状のふわふわした雲が見られました。



うまく撮れなかったが、記憶には残りそうな雲だった。
(行方市西蓮寺付近にて)
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