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今年も西蓮寺の大イチョウ

 毎年この時期になると行方市の西蓮寺(さいれんじ)に立ち寄ってみる。
お目当ては、境内の2本の大イチョウの黄葉であるが、今回はもう一つ確認しておきたい事もあった。

ここの大イチョウはかなり見事で、他にあまり似たような大木を知らない。

いつもだと11月最終日のこの日では少し黄葉には早く、大概は12月10日前後に行く場合が多いが、今年はかなり黄葉が進んでいた。

でも休日でもないのにかなり人が多かった。
時々は地元の幼稚園(保育園)で子供たちを遊ばせに来ている事に出会うが、この日も保育園のバスが来ていて多くの子供たちの歓声が響き渡っていた。

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ここ数年、毎年こうして立ち寄るが、子供たちと会うのも久しぶりだ。
去年はイチョウの葉が秋に大型台風がこの近くを通ったせいか少し少ない気がしていた。
今年は例年並みだろうか。
ただし、もう少し黄葉の絨毯はふかふかとしているが、今年はまだ少し早いのかもしれない。
あと数日後の方がよいかも・・・・

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こうして赤や白の花を水に浮かべていたが、最近は何処のお寺も流行なのだろうか・・・
子供たちも黄色ばかりではなく嬉しそうだ。

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この木の下で、もう少し落葉が多ければ、きっと子供たちはもっと喜ぶはずなのだが・・・

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この大イチョウの隣に、文化財指定されている「相輪橖(そうりんとう)」がある。
この西蓮寺を訪れる目的のもう一つがこの塔である。
最澄が比叡山に建てたもの、日光の輪王寺にあるものと合わせて日本三相輪橖と呼ばれるそうだ。

元寇の役で犠牲になった兵士や、住民もかなりいたのだろう。
fbfの情報で、九州の蒙古の沈んだ船や、犠牲になった島の住民などの話が今に伝えられている事を知ったが、このような塔が比叡山と日光とここの3箇所にある事が何か不思議な気がしてならない。

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相輪橖(そうりんとう)は元寇の時の死者を弔うとともに、国土発展を祈願して立てたものとされ、西蓮寺を中興した慶辦(弁)が、弘安の役(2度目に蒙古が攻めてきた元寇の役(1281年))の戦勝を紀念して弘安10年1287年に建立された。

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塔が傾き、修理した時(昭和52年)の銘板が付けられていた。

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 塔の中段にはたくさんの名前が彫りこまれている。
これは塔の寄進者などの名前か?

 相輪橖については4年前に調べて書いた ⇒ こちら

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コロナ渦ではあるが、子供達の表情は生き生きしていた。
顔をあわせると、皆、「こんにちは」と挨拶をくれた。

小美玉・行方地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/12/01 11:19

竹林の石仏群

 先日、小美玉市の玉里(下玉里)地区に江戸時代に水戸藩の罪人(政治犯)を霞ヶ浦の島に送った時の「かごぬけ地蔵」の記事を書いた。(こちら

その時に使ったGoogle地図に、すぐ近くに「竹林の石仏群」と書かれた場所がある事がわかり、また別な日に見に行ってきました。

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場所は「稗倉(ひえぐら)」バス停の少し東側の山側に少し入った場所。
通りから車で通れる道を僅かには行った所の上り坂の途中にあった。
竹林の手前の広場に沢山の石仏や石塔が並べられていた。
おそらく、近くにあった石仏たちをここに集めて並べたものだろう。

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上の写真の真中の石碑には「光明真言一百萬遍供養塔」と書かれています。
真言密教で、宇宙の中心である大日如来にお願いする・・・・。
百万遍呪文を唱えてお願いすれば、全ての災いなどから逃れられる。
これから歩む道も照らしてくださる・・・
今の時代でもよいことずくめですね。

その2つ左側には「二十三夜塔」が置かれています。

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そしてその更に左側には少しうすくなっていますが、下に三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)と青面金剛が描かれた庚申塔です。

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手前の石仏たちも興味深い像が多いですね。

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あまり詳しく知らないので、詳細は書けません。

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作られた年代などについてはあまり詳しく見ませんでした。
かなりうすくなっているのではっきりしないものが多そうです。

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石仏群を後にして、近くの霞ヶ浦沿いの道路に出て見ました。
少し高浜よりに舟溜りがありました。

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この位置から陸地側を見ると、あの青い家の右側奥に「かごぬけ地蔵」さんがあります。
バス停は「稗倉」で、聞いてみると近くに4棟の稗(ひえ)を貯蔵する蔵(木造)があったそうです。
竹林の石仏群はその右側の小山の裏側のです。

そして、この舟溜り(モータープール)あたりに船着場(昔は御蔵河岸と言っていたようだ)があり、戦後まで対岸の八木地区と舟が行き来していたといいます。

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このあたりは対岸前はかなり近い。
向こう側の町も肉眼でよく見える。
おそらく、あの町の辺りが八木地区で、昔は島であったらしい。
今ではすっかり陸続きになっている。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/02 12:29

立延地区の祭り(1)青屋様

 この前の日曜日に小美玉市の旧玉里地区にあるコスモス生涯学習センターで開かれていた展示会にお邪魔した。
「小美玉市のお祭りと年中行事2020」として、民俗芸能としてのお祭りの歴史などが紹介されていた。

この日が最終日で、連絡を頂きあわてて出かけてきた。
石岡からは車なら往復でも30分くらいあればいける。

小川の素鵞神社祇園祭、竹原のアワアワ祇園祭、堅倉ばやしなどの紹介に交じって、立延の青屋様と盆綱が紹介されていた。
特に私にはこの立延(たちのべ:現在の住所では中延)地区の2つの行事にとても興味を覚えた。

他も興味深い内容だったが、まずはこの2つの行事を2回に分けて、ここに紹介したい。
先ず最初は「青屋様」から紹介しましょう。

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説明は展示会に掲げられていた説明を載せますので読んでください。
遠いところの方も、近くでも行かれなかった方も興味がある方は読んでください。

昔から伝えられ、今も残るこのような風習にどのような意味が込められていたのか?
また、それを大切に守り次の世代に伝えてこれたのはどのような人達の力だったのか・・・・
とても考えさせられるものでした。

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私も、別なところから石岡市内に移ってきて、すぐに市内の青屋祭、青屋神社の存在を知った。
石岡小学校(旧日立国府跡)のすぐ近くにある青屋神社に説明が書かれていて、そのことしか頭になかった。
しかし、この立延の青屋様の行事は、もう少し古い本来の青屋祭の姿が現われているとの思いがした。

まずは、石岡市内の青屋神社に書かれている説明を載せましょう。

「常陸国司は都から着任すると,鹿島神社に参拝するのが習わしであった。国司が参拝するには高浜から舟で行くのが通常であったが,荒天で出航不能の時は,高浜の渚にススキ,マコモ,ヨシ等で青屋(仮屋)を作り,そこから鹿島神社を遥拝し参拝に代えたという。これが青屋祭の起こりといわれている。」(石岡市HP)

常陸国の国府が現在の石岡に置かれており、奈良時代などに都から常陸国へ着任してきた国司などが、鹿島神宮に参拝するときに高浜から霞ケ浦(流れ海)を舟で行くのだが、嵐などでいけない時には青屋という仮の小屋を建てて、そこから遠く鹿島神宮に遥拝したという。これが青屋の起こりだが、それが高浜神社と、石岡市内の青屋神社に踏襲され、旧暦の6月21日に青屋祭が結構盛大に行われるようになった。

現在青屋神社ではこの旧暦6月21日に青屋祭を行っています。ススキを箸として、ウドンを食べるのが祭り行事に一つでした。

青屋祭に行った時の記事はこちらにあります ⇒ 青屋祭(2011年7月21日)

ここには立延地区に残っていた青屋祭の様子である。これは今まで知っていたものと少し違う。

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まず現在も続いているウドンをススキの箸で食べる習慣はここでは健在であった。
これは今年の写真であり、7月21日にススキ(茅)の茎で子供たちが箸を作る作業をする。

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そして食べるものは小豆粥にウドンが煮込んであるものだ。
いままでウドンとしか聞いていなかったが、写真を見たのは初めてだ。
石岡でも同じだったのだろうか?

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しかし、変わっているのはここからで、この青屋様という仮殿を組んでいたということです。
石岡や高浜ではそれぞれ神社となっていて、このような仮殿は作っていません。
こちらのものも今ではなくなってしまったようで、昭和の後期の写真だ。

立延地区は園部川から少し高台のこじんまりした地区で、高低の差が大きい入り組んだ地区だ。
園部川の川岸から茅をとってきて、竹で組んだ祠を飾り、中に青屋様という御幣を祀るという。

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その後、完成した仮殿を園部川まで子供たちが担いでいき、川に流したという。
青屋という意味がよくわからなかったのですが、この仮殿は青竹を組んで作ります。
この青竹を使うことから名づけられたように思います。

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展示会場には、青屋祭で使われる箸とお札が展示されており、その横に百万遍念仏供養の版木が置かれていました。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/03 21:33

立延地区の祭り(2) 盆綱

 茨城県小美玉市立延(中延)地区に伝わる年中行事である、青屋様と盆綱について紹介しています。
今日は昨日の青屋様に続いて「盆綱(ぼんつな)」と呼ばれる行事を紹介します。

写真等は、小美玉市玉里地区にある小美玉市玉里資料館(生涯学習センター「コスモス」)で行われた「小美玉市のお祭りと年中行事2020」によります。

盆綱とはいったいどんなお祭りでしょうか?

旧暦のお盆の13日に、龍(または蛇)に見立てた縄を作り、それを子供たちが先祖の人々が眠る(共同)墓地から先祖の霊を綱に乗せて、各家庭に語先祖様の霊を送り届け、15日には又もとのお墓に送り届ける・・・・そんな行事のようです。

龍に見立てた縄を「盆綱」といい、東関東(千葉県や茨城県)に残された行事で、少子化などで消滅する恐れがあると、平成27年3月に国の無形民俗文化財に選定されているといいます。

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立延地区の盆綱(ぼんつな)は、地区にいる小中学校の男子のみで行われています。
綱の作り方などは下記の説明にあります。綱の結び目の数だけ、ホトケサマが綱に乗り移る事ができるそうです。

この綱の制作は、大人だけがやる地域もあり、またお盆の少し前に作って、川近くに水をかけてお盆の当日までおいておくところなどもあります。また参加する子供は昔は男子だけだったところも、しだいに少子化で女子も混じるところも出てきているようです。

綱の制作が終わり、夕方に共同墓地に行き、先祖の霊を綱に乗り移らせます。
そして、綱を子供たちが担いで、各家庭を廻ります。

各家庭ではその家庭のご先祖様の霊を綱から下ろすため、龍の頭(綱の先頭)を振って降ろす動作をします。
地区によっては、掛け声をかけたりもします。

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盆綱つくりはかなり力も必要ですので、大人が作るところが多いようです。
上の写真は昭和後期のもので、子供も参加して盆綱つくりをしていますが、立延地区では、現在は大人だけで綱を作っているようです。

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訪れた家の前で、ワッショイといいながら綱を放り上げて、「もむ」という動作をすることもあるようです。(地区により異なるようです)
でもこの盆綱には目が付いていますね。
この目は茄子が使われているようです。

どうですか?
この姿は龍というより、常陸国風土記の行方郡に出てくる 「角のあるへび=夜刀神(やとのかみ)」に見えますよね。

<角のある蛇 ⇒ みずち ⇒ 龍>というような変化が考えられますね。


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この橋本旅館さんは今も経営なされている旧小川町の古くからある旅館さんです。

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小美玉市には玉里地区の大井戸公園近くの地域「平山(ひらやま)地区」にもこの盆綱が伝わっています。
資料館で展示されていたパネルの写真を載せておきます。
立延にも比較的近い地域ではありますが、内容は少し違うようです。

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茨城では、この盆綱行事は上の小美玉市の立延、平山の他に、小美玉市上馬場、牛久市東瑞穴町や田宮、石岡市東田中、つくば市、阿見町など51地域に残っているという。(過去に調査した時は103地域にあったと言うので半分になった)

また、千葉県の佐倉、成田などにも多く残っており、全国的には九州北部にも少しあるという。
調査報告はいろいろ出ているようなので、興味がある方は調べてみてください。




小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/04 14:51

機関紙つくり・・・・

 本日(12/6)「ふるさと風の会」の定例印刷日。
毎月1回発行している地元機関紙の印刷と製本、およびその配布などの日だ。

A3用紙6枚の裏表でページ数が24ページ
そんな会報誌を会員で手作りしている。
広告などは一切とっていないので、すべて会員7名の会費から賄っている。

会員は誰一人原稿を欠かしたことがない。
それが現在14年半となる。
来年6月には15年だ。

私は途中からの参加だがもう9年くらいになる。

500部ほど印刷・製本して、地域の公民館などに無料で置かせていただいている。

最近はネットでも読めるので、遠くの方でも読むことができ、前はたのまれたりして郵送などをしていたが、それは少なくなった。

読みたい人は「ふるさと風の会」のHP ⇒ こちら
の左側メニューの機関紙情報欄に今までの会報がすべてPDFで収納されている。

今月号(175号)は ⇒ こちら(pdf)

私は午後から会報配りに車で石岡市内~八郷瓦会~朝日トンネル~土浦市小町の里~つくば市北条へ一走りしてきました。

天気は悪く寒い一日でしたが、山々の黄葉は美しく、本格的な冬が始まる前のこの季節はとても気持が良いです。

瓦会のお蕎麦屋さん「まんまや」で昼食をとりました。

実はこのお蕎麦屋さんに私が作った本を少しだけ置かせていただいていたのです。
それがこの間「1冊売れましたよ」と電話がかかってきていたのです。

そんはことから本代金を受け取って、代わりといってはおかしいですが、ここのとても美味しいおそばを頂く事にしたのです。
最近は近くで自家製のそばを栽培してそば粉も自家製でまかなうようになりました。
ただ秋に収穫されたお蕎麦は翌年4~5月頃になくなってしまいます。
契約している別なそば粉をその後は使いますが、もしここでおそばを食べられるなら来年4月頃までが良いですよ。
とても美味しいです。 直ぐ目の前にある神社(日笠神社)から「日笠そば」と命名されています。

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「野菜てんぷらそば」(980円)です。
私はいつもこればかり・・・

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このおそばが美味しいんです。

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また野菜てんぷらも何でこんな上手に美味しく揚げられるのだろうと感心してばかり・・・
なす、ピーマン、レンコン、サツマイモ、掻き揚げ、まいたけなど どれも美味しいです。

そして、小町の里へ・・・
最近ここから山に入るハイキング客が急増。
こんな天気が悪い日でも、丁度10人ほどが山から下りてくるところでした。

会報は小町の館内の展示室の棚の上においてきました。(許可はいただいています)

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そして、そこからつくば市北条へ。
途中の宝篋山の極楽寺コースの小田休憩所近くから、山を眺めました。
木々はすっかり黄葉して、麓も黄金色でした。
ただ山の上はガスがかかって頂上が見えません。
当然上からの見晴らしもダメです。

それでもいく組かのハイキング(登山)客の姿がありました。
手軽な山として最近人気ですね。

私も東京の多摩地区に住んでいたころは奥多摩の比較的低い山(御岳山、棒の折山、高水三山・・・)などによく行きました。

早くコロナが収束してくれたらいいですね。

お蕎麦屋さんで売れた本は「茨城県の難読地名」という本です。

興味がおありになれば ⇒ こちら から購入できます。(ちゃっかり宣伝・・・ 御免なさい)

他の本は ふるさと風販売Shop ⇒ こちら から


ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/05 17:39

立延地区の神社「側高神社」

 ここのところ2回にわたって、小美玉市立延地区に伝わる年中行事「青屋様」「盆綱」を紹介しました。
やはりこのような行事や祭りが行われてきたところがやはり気になります。

比較的場所も近いので先日行って来ました。
そして、気になっていた「側高(そばたか)神社」を訪れました。

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立延の街は石岡からは、国道355号線を小川の町(茨城空港方面)に左折して園部川を渡ったすぐに川沿いの道に左折します。
そして川の少し上流側の1本目の横道を右折し坂道を登ると直ぐにこの神社が現われます。

行ってみて驚いた事は、神社の境内は落ち葉はきれいに掃き清められ、落ち葉を燃やされた跡がありました。

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きれいな境内に足跡を残してはいけないような、そんな清らかな空気が流れていました。
地元の方達が長い年月変わらずに、このように神社を守ってこられたのだと思います。
それだからこそ、このような昔からの伝統行事も守られているのだと感じざるを得ません。
頭が下がります。
入口の石柱には「村社側高神社」と書かれています。

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こちらが本殿。 こじんまりとしてはいますが形のよい姿です。
祭神は聞くところでは「大穴牟遅神(おおなむちのかみ)」だそうです。
基本的には大国主命と同じ神とされますが、国を開拓した神です。

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石碑も古くなって読むことが出来ません。
向かって右側は神社の由来やたくさんの氏子さんの名前が彫られているようですが判別できません。
左側には何やら詩のようなものが彫られています。
こちらもよくわかりません。

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この地区は道も入り組み、高低差も激しく通行には不便そうです。
地区の公民館の方へ行こうと思いましたが、道路の工事中でしたので今回はやめました。
又の機会に行こうと思います。
裏へ回ると、このように山から木々を集めて、薪を貯えているところがありました。
実際にこの地区で使うものか、最近良く使われる薪ストーブ用などに売られるものかは不明です。

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この地区はきっと団結力が強い地区かもわかりません。
もう少し又時間を置いて調べてみたいと思います。




側高神社については、以前から気になっていて、調べており、茨城県では3つの神社を見つけていたのですが、ここにもあったということを知らなかったのです。

千葉県の神社を訪れるようになって、香取神宮の鬼門(東北)方向にある千葉県香取市大倉5に鎮座する側高(そばたか)神社を尋ねたのが、この神社を知りたいと思うきっかけでした。
なにしろ香取神宮の鬼門を守っているのに、その祭神が知らされず、長いこと伏せられていたという事です。
そして、その発祥が謎に包まれている千葉氏の城などにもよく祭られていた神様だとされています。
祭神不詳では困るならと、神社で発表された神様が「そばたか神」・・・・ なんだかよくからない。

私が「ふるさと風の会」に入って、3回目の記事がこの神社についてでした。
少し長くなりますが、ここに転載させていただきます。

(2013年1月 ふるさと風)

<側高神社>

利根川に沿って千葉県側を走る国道356号線(利根水郷ライン)を佐原(香取市)から銚子に向かって5kmほど進んだところに「側高神社」の大きな看板がある。成田線の線路際に一際目立つ大きな看板である。
場所は東関東自動車道の佐原パーキングエリアに近い。
仕事で銚子に用事があり、この看板の前を車で何度か通過した。

側高神社?いったいなんと読むのだろうと気になって調べた。
「そばたかじんじゃ」というそうだ。そして、先日やっとこの神社を訪問することができた。

神社の入口に「神武天皇十八年御創建 國土浄化の祖神(みおやがみ)」と書かれた大きな看板が置かれていた。神武天皇十八年は紀元前となっているがこれはそのまま解釈はできない。しかしこれは、近くの香取神宮の創建と同じである。この神社について調べてみると実に興味深い神社であることがわかった。 

興味深いのは名前もさることながらその祭神が長い間秘匿とされており、不明ともいわれていたということだ。
今では祭神は、「側高大神」「産土神」などといわれ、この神社は香取神宮の第一摂社だとされる。

 この「ソバタカ」と読む神社には他には「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」という名の神社が調べただけで十九箇所見つかった。
都道府県別では千葉県十四ヶ所、茨城県三ヶ所、埼玉県二ヶ所と千葉県に集中している。
その他の県には見つからない。また千葉県も昔の下総国の領域であり、茨城や千葉もすべて下総と近い場所にある。
説明と資料として残しておくために、その一覧をここに掲載しておきたい。
(千葉県)
・側高神社:千葉県香取市大倉5 
・側高神社:千葉県成田市取香276
・側高神社:千葉県香取郡多古町本三倉
・側高神社:千葉県香取市丁子567
・蘇羽鷹神社:千葉県松戸市二ツ木宮前
・蘇羽鷹神社:千葉県印西市笠神697
・脇鷹神社:千葉県成田市小泉1015
・脇鷹神社:千葉県旭市清和甲904
・脇鷹神社:千葉県香取市伊地山568
・稲荷側鷹合神社:千葉県香取市西部田857
・素羽鷹神社:千葉県印旛郡栄町酒直585
・隣高神社:千葉県山武郡芝山町下吹入421
・相馬高神社:千葉県山武郡芝山町上吹入353
・祖波鷹神社:千葉県香取市岩部1064
(茨城県)
・側鷹神社:茨城県行方市小高(旧麻生町)
・側高神社:茨城県稲敷郡河内町金江津4272
・脇鷹神社:茨城県稲敷市飯出(広畑貝塚の隣)
(埼玉県)
・蕎高神社:埼玉県吉川市高富(たかどみ)
・蕎高神社:埼玉県吉川市高久(たかひさ)

この一つ一つを足で歩いて調べてみたい衝動に駆られたが、実際に見に行ったのは数ヶ所のみだ。ここでは、調べた内容をいくつかを紹介するのみに留めておきたい。そして、時間がある時にまたのんびりと訪れてみるのも良さそうである。

一、香取市大倉の側高神社。 
香取神宮の東北(丑寅)方向にあり、香取郡と海上郡との境界に建つ。香取神宮の鬼門(東北)に置かれた神社と思われる。
創建は香取神宮と同じ神武天皇十八年とされ、その他の「そばたか神社」の総本社と思われる。
九州肥後の多氏が上総に上陸し、開拓した氏族、または前からこの地に住む氏族かは不明である。
この神社には次のような話が残されている。
「側高神が香取神の命で陸奥の馬二千疋を捕らえて霞ヶ浦の浮島まで帰ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたため側高神は浦を干潮にして馬を下総に渡らせ、次いで満潮にして陸奥神が渡れぬようにした。」
また鎌倉時代から始まったとする五穀豊穣を願って当番の引継ぎの際、酒を飲み合う時に、カイゼル髭を撫でる「ひげなで祭」が今も行われている。

二、成田市取香(とっこう)の側高神社。
成田空港の敷地に隣接し、高速道路脇に建つ。江戸時代から続く県の無形民俗文化財に指定された能楽「三番叟」が四月の花見時期に行われていることで知られる。
これも稲作文化の五穀豊穣を願う祭りである。
このトッコウ(取香)という変わった名前については、香取を逆さまにしたもので、古来から住んでいた部族が、後からやってきた香取神(物部・経津主(ふつぬし))に侵略されたことに対する抵抗の表れという説がある。
成田空港建設時に神社が移転し、祭りも一時途絶えたが復活されたという。

三、茨城県行方市小高の側鷹神社。
常陸風土記の行方郡に「行方郡男高里に栗家池があって、その北に香取神子の社がある」と書かれているが、この香取神子の社がこの小高側鷹神社のとされている。
社伝によると、経津主大神がこの小高に東征したときに、大祖高皇産霊尊(国産の神)を祀り、石槌の剣を捧げて戦勝を祈ったのがこの社の始まりだと伝えられる。
この石槌の剣はこの側鷹神社の御神宝となっている。
香取神宮からみると霞ヶ浦を渡った北北西であり、浮島の対岸に位置している。
この社が北東(丑寅)の鬼門に建てられた神社と考えると、近くの皇徳寺の裏山に皇徳寺古墳群が見つかっており、ここに下総の部族の一部が住んでいたと考えることも出来るであろう。

四、印旛郡栄町酒直(安食)の素羽鷹神社。
この神社の近くにある「龍角寺」(創建:和銅二年(七0九))に伝わる話では「昔、印旛沼の龍が天に昇って雨を降らせ、その後、龍の体が三つに分かれて天から降った。その頭の部分が落ちたところに龍角寺を建て、この龍の頭を祀った。」といわれている。
また腹と尾が落ちたところにそれぞれ「龍腹寺」「龍尾寺」がある。この酒直の素羽鷹神社については詳しいことが分からないが、創られた年代も、この龍角寺とほぼ同じ頃でつながりも深いと考えられる。

五、 松戸市二ツ木宮前の蘇羽鷹神社。
この神社の建っていたところには千葉孝胤が治めた三ヶ月馬橋城が建っていた。千葉氏は居城である亥鼻城(いのはなじょう)‘(現千葉市役所近く)の鬼門(東北方向)に曽場鷹神を祀っていたという。そして、その後佐倉に移る際に、この馬橋城が廃城となり、そこに蘇羽鷹神社が建てられたと伝えられている。または太田道灌との争いに敗れ、落城したが、その後千葉宗家によりこの神社が建てられたともいう。

六、 埼玉県吉川市の二つの蕎高神社。
埼玉県にあるが、この吉川市は昔、武蔵国二郷半領吉川村と呼ばれ戸張氏が領有していた時期があった。
戸張氏は千葉氏の系列である相馬一族で、相馬師常の八男(行常)が葛飾郡戸張郷(柏市戸張)を領して戸張氏となった。
居館(戸張城)は柏トンネル付近にあったとされるが、この吉川に「そばたか神」を祀ったものと考えられる。
この二つの神社ではそれぞれ一月にあられをぶつけ合う「オビシャ」という五穀豊穣を願う祭りが残されている。

「そばたか」と呼ばれる神社を六つほど見てきたが、これらの神社に共通して見えてきた点を述べると次のようなことが挙げられる。

(1)祭神としては、そばたか大神を祀るが、この神は下総に経津主がやってくる前にすでに土着していた部族が崇拝していた神と思われる。

(2) 経津主(香取大神)と協力して日本の国創りをした。これは高皇産霊尊(国産神)と重なる。

(3) 千葉氏およびその氏族である相馬氏が密かにこの神を祀って、鬼門(丑寅)を守る神とした。
千葉氏は桓武平氏良文流とされるが、この祭神を密かに奉っているのは多氏や蘇我氏の系列や天日鷲命を祀るところもあるので阿波忌部氏などとの関係も考えられる。
古代においては鬼門は忌み嫌う方向ではなく、神のくる方向であり、最も運気の強い神を祀ったものと考えられる。

(4) 五穀豊穣を奉る神であり、稲作、雨乞いの神となった。

(5) 神話における日本の国創りにおいて、表に出せずに隠す事情があった。

これらのどこに真実があるかは筆者には解き明かす力は無い。しかし、いつか事実が明らかになる日は来ると思う。

最後に常陸風土記の信太郡のところに書かれている一節を載せておきたいと思います。

「諺に、 ”葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ” といふ。 山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」

ここでいう葦原というのは常陸国の信太郡あたりを指していると解釈されます。また、日本神話では「葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、高天原と黄泉の国の間にある日本の国土のこととされています。
さあ、今も下総の国と、利根川を挟んだ対岸にある信太郡(稲敷市、美浦村など)では常世の国の穏やかな風が吹いています。
今年は災害もない良い年であることを願っています。

(ふるさと風 引用記事 ここまで)

以前これについては3回ほどブログでも書いているので記事は下記にもあります。

1)そばたか神社(1)-側高神 ⇒ こちら
2)そばたか神社(2) ⇒ こちら
3)そばたか神社(3)-側鷹神社(行方市) ⇒ こちら


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/06 13:18

三村山極楽寺跡は赤・黄色に色づいて・・・

 常陸国筑波郡三村郷は現在のつくば市の宝篋(きょう)山の麓。
ここに鎌倉時代に小田氏を頼って西大寺派の僧・忍性(にんしょう)が極楽寺という七堂伽藍を有する大きな寺を建てたという。

そして、戦国時代に活躍する備中三村氏の故郷とも言われる。

今はハイキングのメッカともなった「 宝篋山(ほうきょうさん)」(旧称:三村山)があり、手軽に登山が楽しめる山として賑わっている。

また今では、登山コースとして「極楽寺コース」などと名前が残るに過ぎない。

忍性は鎌倉時代に東国にやってきた。
鹿島神宮から西へ、行方などを通ってこの地にやってきたのだろう。
この近くには鎌倉幕府に認められて、関東守護職にあった小田氏の大きな城(小田城)があった。

忍性が奈良に「北山十八間戸(けんと)」と呼ばれるハンセン病の救済施設を建てた事は有名だ。

この十八間戸の創建が1243年といわれ、この常陸国に来たのは1252年だ。
それから10年間この辺りにいた。

1261年に鎌倉へ移動して1267年には鎌倉に極楽寺を建て、清凉寺式釈迦如来立像を安置したという。

鎌倉時代にこのあたりにはどんな景色が見られたのだろうか・・・・・

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戦国時代の三村氏についてもまた調べてみたい。
また、石岡の三村の地名由来もまだ不明のままだ。




筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/06 15:00

頭白上人の五輪供養塔(1)

 日本全国に、身ごもっていた女性が殺されたりして、墓の中で子供を生み、その子供を幽霊になってあめ玉や餅などで数日育てて、ついに発見され、その子供は後に有名な高僧になるという話しがある。
いわゆる「飴玉幽霊」などといわれるものだが、茨城県にも同じ話が伝わる。

後に出世して有名な高僧になったとされるのが、頭白(ずはく)上人である。
生まれた時から髪の毛が真っ白だったとも言われ、その名前がついたとされる。

昨日書いた筑波山の東南にある三村山(宝篋山)の少し東隣に、昔から道路建設用の採石場があり、この直ぐ東隣に大きな五輪塔が置かれている。

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この五輪塔は県指定の文化財に指定されているが、この地で、墓の中で赤ん坊(頭白上人)を生んだ、母が幽霊となって三途の川の渡り賃(六文)で飴玉を買い、上人をそだてたという逸話が残されているのです。

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このあたりでは想像を絶するほど大きな五輪塔(石は花崗岩)です。高さは3.6mあります。

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一番下の石(地輪)には
「功徳主 頭白上人
      大工本郷
永正十二天
  二月三日」
と刻まれています。(永正12年=1516年)

このとき、この地で頭白上人は、この亡くなった母を供養するために、七日間千部経をあげて供養したといわれています。

当時(戦国時代)ここを支配していたのは小田氏です。

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この五輪塔の脇にある説明石碑は読みにくいのですが、読むと、「この記念すべき五輪塔を永久に保存するために、茨城県新治村小高石崎228番地より現在地に移設した」というような内容です。

新治村は土浦市と合併しましたので現在の土浦市小高の地になりますが、大字小高 字石崎であり、どうやらすぐ西の採石場の手前にある青緑色した池のあたりのように思われます(推測)。
ここにあった金嶽神社とともども、以前の場所から東に50 m くらい移動させたのではないかと思われます。

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さて、茨城県ではこの頭白上人は、東海村にある村松虚空蔵堂の再建をした僧侶として名を残しています。

弘法大師、空海が筑波山に来て、鬼門方向のこの東海村の地に日高寺(旧村松山神宮寺)をたて、その後佐竹氏の庇護を受けてきた日高寺が、1485年に戦国時代の戦火で焼けてしまい、それを、この頭白上人が1487年に再建したといわれています。

この寺は佐竹氏の庇護を受けていたこともあり、頭白上人は佐竹氏から手厚くされていたと思われます。

それが、先の母親の供養をしたのが1516年ですから、この村松虚空蔵堂の再建の29年後となります。
知っての通り、戦国時代末期は佐竹氏と小田氏は犬猿の仲です。

こんな背景があれば、話しには尾ひれが付きます。

この小田氏の領地で7日間の供養が終るころ、小田氏の一群がこの供養の最中に馬にのってやって来て、集まっていた民衆を蹴散らしました。
この無礼をなじって、頭白上人は、小田一族に向かって、「このような無礼な振る舞いをする家来のいる城の主も、たいしたことはない。今後天罰が下るだろう!」などといったとか・・・
まあ怒った小田の家来たちは集った民衆を皆殺しにしたなどと・・・  まあ何処まで本当にあったのかはわからない。

その後頭白上人は小田を恨んで死んだとされ、その後、佐竹家に鬼将軍と呼ばれた17代当主「佐竹義重」が1547年に生まれました。
その時、義重は頭白上人の形見を持っていて、「我は頭白上人の生まれ変わりなり」といったという。

そして手這坂で佐竹氏は、小田氏の戦に勝利(1569年)し、小田城を奪い取ったのです。
まあ、この戦いで功のあったのは、佐竹氏の客将であった石岡片野城の主「大田資正(三楽斎)」ですが・・・・

このあたりの話は、何処まで信用してもよいかは私にはわかりませんが、恐らく聞き手によりかなり違ってくるのでしょうから面白おかしく聞き流しておきたいと思います。

同じような話しが何度も出てきてすみません。

(また、「茨城のちょっと面白い昔話」に少し書いています)

金嶽神社に付いてもまた後で少し書きたいとおもいます。(続く)

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/07 15:38

頭白上人の五輪供養塔(2)

頭白上人の五輪供養塔(1)に続いて、今回はこの五輪塔が置かれている神社(金嶽神社)について書いておきたいと思います。

この場所は、今迄数回訪れていますが、あまりこの神社について調べたり見ることがなく、何故この五輪塔がこの神社に置かれているのかについても考えてきませんでした。

そこで少し見て行きたいと思います。

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つくば石の採石場の麓からわずかに東のこの場所へ神社は移されました。

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裏に本殿が置かれており、本殿にも直接鳥居があって、こちらにもお参りができるという変ったスタイル。

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また、拝殿手前の鳥居には藁で作られたお酒の手桶?
最初は何かの人形のように思えて・・・・ すこしビクッと・・・

神社の名前は「金嶽神社」。 さて何と読むのでしょうか?
「こんたけじんじゃ」と読むらしいです。

金=こん と読むのには理由がありそうです。

神社の由来に付いては、あまり載っていないのですが、現地説明板によれば

 この小高の地に、室町時代の末(戦国時代末)の天正二年(1574年)に、小田城主(小田氏治)の家臣である小高知常が移り住んだ。
その時に、奈良の金峰山・蔵王大権現より御神像を勧請し、石崎の蔵王山頂に創建したのが始まりだという。

この石崎の蔵王山というのはよくわからないが、現在の採石場の山ではないかと思う。
蔵王権現を山の上に祀ったので、「蔵王山」と言ったのだろう。

蔵王権現は修験道の本尊とされているので、山岳信仰の神社(神仏習合)ということになる。

奈良吉野の金峯山寺に祀られている「蔵王権現」は、仏教の仏と神道の神ともどちらでもない独特の尊格で、3体の蔵王権現で表わされています。 その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものです。
寺伝では中尊が釈迦如来、向かって右の像が千手観音、左の像が弥勒菩薩を本地(本来の姿)としており、それぞれ過去・現世・来世を象徴しているといわれています。
この「権現」は仏が姿を変えて現れたものというものです。
これらの像は長い間秘仏で公開されることはめったにありませんでしたが、吉野山が2004年7月に世界遺産(紀伊山地の霊場と参詣道)に登録されたのを機に1年間に亘って開帳されました。
これは世界遺産に登録された仁王門の修理費をまかなうため(2012年から10年間)ですので、門の修理が終りましたらまた完全秘仏に戻るかもしれません。

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(内陣の厨子の扉が開かれた5~7mもある巨大な蔵王権現像:1590年制作)

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これが山岳信仰と仏教を融合させた日本における修験道の始まりであるとも伝えられています。
この修験道はインドや中国から伝わってきたものではなく日本独自の信仰です。
そこに祀られる「蔵王権現」もインドや中国の起源にはないもので、神道の神でもなく、仏教の仏でもない両方を併せ持った神とされています。

さて、明治維新後に神仏分離令がだされ、この神社の祭神は「少彦名(すくなびこな)命」となっているようです。
境内社もあるので宇迦魂命と建御名方命も祀られているといいます。


さて、1574年にここ石崎の山の上に、蔵王権現社が創建された翌年、小田城が落城してしまいます。
そして、この地の小高知興は、臼井字立野に移り、この権現社も、御神像と共に移した(蔵王神社)ようです。

現在のつくば市臼井1666-1に鎮座する「蔵王神社」がそれで、ここには市指定文化財の蔵王権現像が安置され、祀られています。
この蔵王権現像(像高:52cm 寄木造)がこの石崎にあった像(金嶽神社のご神体)なのです。
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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/09 11:18

頭白上人の五輪供養塔(3)

 飴玉ゆうれい伝説を持つ「頭白上人」が母親の供養のために造ったとされる巨大な五輪塔。
これが茨城県土浦市(旧新治村)石崎にある。
ここまで2回にわたって少し調べてきたが、もう少しだけ追加記事を残しておきたい。

それは、この五輪塔が置かれている金嶽(こんたけ)神社がどのような社であったのかということ。

頭白上人は伝説では、墓の中から拾われて、寺に預けられ、その後成人して有名な高僧になったとされています。


生まれが墓の中かどうかは伝説ですので、今は置いておくとして、預けられた寺は つくば市小田にある 解脱寺という寺ともいわれていますが、その他の説もあるようです。

この解脱寺(げだつじ)は現在浄土宗ですが、昔は天台宗だったそうです。
天台宗は最澄(伝教大師)が開いた山岳信仰(修験道)の色合いが濃い宗派であり、空海(弘法大師)の流れをくんでいる。
総本山は比叡山延暦寺だ。

頭白上人は天台宗の僧といわれています。

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このつくばの採石場の隣に移された金嶽(こんたけ)神社は、神社の鳥居と社殿以外に、もう一つ山のようなものを築いて祠が祀られている。

これは何を意味するのだろう。

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まず並んで2つの石塔が安置されている。

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右側の塔は、よく像がわからなくなっているが、どうやら庚申塔のようだ。
下には三猿が彫られていたのかもしれない。

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左側の石碑には、恐らくこの右の石塔の説明ではないかと思う。
書かれているのは、この庚申塔が県道路の改修工事(昭和59年?)の時に撤去され、この場所に移したという事らしい。

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こちらの像についての説明はないが、やはり近くから移されたようだ。
恐らくは道祖神的な村角や道角などに置かれていたものだろう。

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さて、この一番上におかれている石祠はかなり大きくて、立派だ。
念仏供養塔?

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この一番上の祠の左側にある説明用の石碑には
「奉 供養地蔵念仏・・・」と彫られていた。

ただ、やはり蔵王大権現を祀っているように思われる。

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ただ、祠の上の石の形などをみれば供養塔なのかもしれない。
あまり詳しくないので、またわかったところで追加しよう。

この隣の山が砕石場になったのはかなり古い。

近くの宝篋山や麓の小田地区には、鎌倉時代に忍性(にんしょう)が極楽寺を建てていますが、その時に西大寺系の石工集団が一緒にやって来て、多くの板碑や宝篋印塔などがつくられたとされています。
筑波花崗岩や筑波変成岩(砂質・泥質ホルンフェルスが多く使われており、この石像などのその流れなのかもしれません。
また、東城寺(東成寺)や山ノ荘地域など、少しこの一体を纏めて眺めてみる必要がありそうです。



筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/10 11:17
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