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庚申塔(4) 茨城県石岡市仏生寺地区内

 今回は、茨城県石岡市の八郷地区にあった庚申塔を紹介します。

この場所は、その奥座敷的な雰囲気を持つ仏生寺地区にあります。
小町伝説の残る北向き観音を過ぎて、山の麓を小桜川に添って、右に回りこむように進むと、中山集落にでます。

この集落の入口の右側高台に少し変った場所があります。
この高台に上る急な細い石段が上まで続いています。

この石段を上った先に、古墳のような石棺のようなものが露出し、内部に観音像(石像)が祀られています。

そして、その周囲の木の根元などに子安観音像、地蔵像などと共にこの庚申塔も置かれていました。

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足元に邪鬼は描かれていないようですが、ちゃんと三猿はいました。
青面金剛の表情などもはっきりと見ることが出来ます。


庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/01 22:53

庚申塔(5) 八木の縄とき地蔵(石岡市井関)

 庚申塔を昔見た記憶をたどりながら、10年ほど前からの過去の記事などを探してみています。

今回は、思い出して時間を作って先ほど訪ねてきました。
石岡市の住所は井関ですが、霞ヶ浦に飛び出し、すこしこんもりした八木という地区があります。
ここは江戸時代には、陸地とは少しはなれた島でした。

水戸藩の領地でもあり、この島には政治犯などの罪人の流刑地でもありました。
まあ、島といってもそこで暮らす住民もおり、政治犯などの罪人は凶悪犯などはおりません。

水戸から唐丸籠に入れられて、対岸の玉里地区で籠から出されて、縄で縛られたまま船でこの島に流されるのです。

そして、島に着くと小山の階段途中にあるこの地蔵堂の前で、縄を解かれ、島の作業場に連れて行かれて作業して過ごした戸いわれています。
そのため、この地蔵堂を「縄とき地蔵」と呼ぶようになったと昔話には書かれています。

一方の玉里側には「かごぬけ地蔵」がやはりあったとされています。

(前に書いた記事「かごぬけ地蔵」参照 ⇒ こちら

記憶ではこの縄とき地蔵堂の前に幾つかの石像があり、その中に庚申塔もあったと記憶していたのです。

あらためて、今日行ってきました。

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八木地区の霞ヶ浦沿岸に近い道の角にこの地蔵堂が建っています。
昔はもう少し先の住吉神社近くにあったようですが、地籍整理でこの場所に集められたものでしょう。

お堂の中にはほぼ等身大くらいの石の地蔵像とその足元に沢山の石仏などが置かれていました。

さて、お堂の上り階段の右には「古酒 馬場山 深谷」と正面に掘られた石碑が立てられていました。
この古酒は「ふるさき」と読みます。もう少し井関方面の部落の名前です。
おそらくわかれ道などに置かれた道標なのでしょう。

左側に4段ほどにわかれて建てられている石造などは、一番下から、観音像、庚申塔、月読尊、二十三夜尊のような区分けで置かれていました。

この地方で道端や部落の入口などに置かれていたものをここに集めたのかもしれません。

2段目の庚申塔は3基?あります。

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かなり年月が経っているのでしょう。
彫られている青面金剛も表情などはよくわかりません。

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また造られた時代も不明です。

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政治犯などでこの島に流された人の中には、この地に土着した人も多くいたようです。
頭の良い人も多かったのでしょう。
井関地区などでは江戸時代後期から明治時代に学問の塾が盛んに行われた地区でもあります。

このような庚申塔がどのような意味合いをこの地区の人々にもたらしていたのかはよくわかりません。
しかし、この判別するのが困難になった石像を見ていると、何か込みあげて来るものがあるように思います。

さて、記憶ではこの地蔵堂の反対側の広場のような所にもう一体の石像があったはずです。
回ってみました。

そこは空き地で、草原であったような場所でしたが、地区の子供会が整備した遊具のある公園になっていました。

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さて、庚申塔が確かあったはずですが・・・・・・・
捜して見たら、大きな木の根元に倒れていました。

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あらら・・・

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こちらは邪鬼と三猿がはっきりわかります。
横倒しのままではなんだかかわいそうですね。

東日本大震災では、このような石像もよく倒れました。
八木地蔵堂の石像も結構倒れてしまったようです。
昔見たときより足元をコンクリで固定して、整備したようです。

市のホームページの写真は地蔵堂まえの石像が皆倒れている写真でした。


庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/02 15:15

庚申塔(6) 三熊野神社(常州牛堀)

 「常州牛堀」というのは、葛飾北斎が富岳三十六景に描いた富士山の浮世絵でもっとも山から遠い場所である。
常陸国は江戸時代には結構一般的に「常州(じょうしゅう)」と呼ばれていたのでしょう。

牛堀は今は潮来市に合併されていますが、潮来市の西側はずれ、もっとも霞ヶ浦に近い場所です。

江戸時代から霞ヶ浦、北浦などは江戸との間に水運が発達していて、この牛堀地区は北(水戸、仙台方面)から、西(土浦、石岡方面)から荷物や客船が頻繁に通っていました。

高瀬舟なども、帆を張った舟も多く、海風の方向でこの港に船を泊めて、風待ち港として使われており、風待ちの客相手の商売としても結構栄えていたようです。

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北斎の絵は、この港の舟に寝泊りしていた船頭の朝の様子(米を磨いでいる)を描いたもので、ここから昔は良く富士が眺められたのでしょう。

この牛堀の港に近い場所に「三熊野神社」があります。

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1つの鳥居の先に3つの社が並んでいます。
その正面の拝殿手前の石段左横に庚申塔と思われる少し大きな石塔が置かれています。

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年号が入っているようですが、よく読むことが出来ません。
延宝元年?? とも読めそうだが・・・ とすると江戸時代初期の1673年か?

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塔の下部にはしっかり三猿が描かれています。
又その下の左右によくわからない像が置かれています。
一般には鶏が多いので、鶏だろうと思うが・・・
「庚申は申から酉の日にかけての行事だから、猿と鶏を彫る」というのが定説のようです。

江戸初期には庚申の行事の本尊が青面金剛と定まっておらず、全国的にも青面金剛像の初出は福井県にある正保4年(1647年)が現存最古とされているという(Wikiより)

また奥の隅には二十三夜塔と並んで青面金剛が描かれた庚申塔も置かれていました。

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神社から川(常陸利根川)まですぐです。

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ここは北斎公園として少し川沿いに広場を作っています。

川の上流側(左側)には国道50号線の橋が見えます。 右は鹿島から水戸へ、左は成田から千葉へ繋がっています。
この橋の奥が霞ヶ浦で、ここから銚子の方に常陸利根川が流れています。(途中で利根川に合流します)

写真の左側に水門が見えますが、ここから横利根川となって、北側の利根川まで運河の機能を持つ水路(横利根川)が流れています。


庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/03 17:04

庚申塔(7) 海上八幡宮(銚子)

 利根川を渡り千葉県に入ると、この庚申塔はもっと多くなるようです。
また呼び名も「庚申様」と呼び、親しみを込めて呼んでいます。

東端の銚子市の少し西側の松岸駅(柴崎町)に近いところに、「海上八幡宮(うなかみはちまんぐう)」という古い神社があります。

社伝では807年の創建とされていますが、あまりよくわかりません。

この境内に庚申塔が古木の近くに100基ほど集められたエリアがあります。

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かなりの数があります。
恐らく明治の廃仏毀釈のさいに廃棄されたり、壊されたりしたものや、その後の道の拡張工事などで退けられた石塔がここに納められたものと思われます。

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横の方や奥のほうに置かれた石塔には「青面大」などと読める文字が彫られています。
「青面天?」でしょうか? 

また近くの町名「柴崎」などとかかれたもの、更に昭和55年などとかなり新しい物もありました。

庚申信仰は基本的には民間信仰であり、明治初めの廃仏毀釈でも禁止されたようですが、地方にまで浸透せず残されてきたのでしょう。

60日に1回回ってくる庚申の日に地域で集まり、徹夜で飲食を共にして過ごす。
これを3年間休まずに続けると、この庚申塔を塚などの上に立てる。

まあ150年くらい続いていれば、全部で50基くらいが建立される。

ただし、この塔は建ててしまえばあまり省みられないようだ。
従って、古いものはどんどん消えて行ったかもしれない。

江戸初期のものには猿は描かれていないものが多くあり、守り本尊も如来だったり地蔵だったり・・・
青面金剛がその主役になったのも恐らく江戸中期頃からだろう。

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足元には邪鬼が踏みつけられている。

その下に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿がいろいろなポーズで彫られている。

関西方面の庚申塔の三猿は真ん中の猿を少し上のほうに描いているという。
こちらの猿はみな同列だ。

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こちらの青面金剛像は途中で折れているが、これも廃仏毀釈のなせる業なのかもしれない。
仏像を首のところで折るというのはこれらの石碑に限った事ではない。
古い石佛の首に赤い布などが巻かれていたら、その殆んどはその場所で後から接ぎなおしているものと考えてよさそうだ。


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いろいろな庚申塔があるのを見るのも楽しい。

ここで庚申行事をしたのではなく、この神社付近の部落などで長年行われてきて、道角や小塚の上に設置されていたものをここに集約しておかれたものだと推察される。

さて、神社の名前の「海上(うなかみ)」というのは、旭市、匝瑳市、銚子市あたりは昔、海上郡と呼ばれていました。

海上郡=うなかみぐん と呼ばれていたのですが、近年になり(戦後)「かいじょうぐん」と呼ぶように変更されました。
平成の大合併で、この郡の名前は消えてしまって今はありません。

また律令制の始まるの4~5西紀頃には、下総国は「下海上国(しもつうなかみのくに)」と呼ばれ、古事記などでは「下菟上国」と書かれています。
上総国は「上海上国(かみつうなかみのくに)」(上菟上国)と呼ばれていました。

元々大昔は霞ヶ浦や今の利根川、印旛沼など一帯は大きな内海でしたので、海の上の国のような様相だったのかもしれませんね。

このような「海上」などとついた地名や神社などがあると、私は、この昔を想像して妄想を膨らませてしまいます。

庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/04 20:23

庚申塔(8) 大福寺(茨城県鹿嶋市)

 今回はあまり知られていないが、興味深いお寺にあった「庚申塔」を紹介します。

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お寺の境内の隅に置かれていました。
庚申塔と猿田彦の石塔です。

ここは、霞ヶ浦北浦に面した鹿嶋市棚木にある「大福寺」という寺です。

このお寺は、源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背負ってここにきて、景清と平氏の霊を弔うために堂宇を建てたものだといわれています。

寺の本尊の木造十一面観音坐像は茨城県の指定文化財です。
ただ、この十一面観音を人丸が背負ってきたというのは少し次代が合わないようです。

この像は県のHPでは、像高105.4cm 寄木造で、像内には延元5年(1340)と永享4年(1432)の墨書銘があるため、鎌倉時代ではなく、少しあとの南北朝時代(室町時代)と思われると書かれています。

まあそれは兎も角として、この寺には「妙庫比丘尼」と呼ばれるようになった人丸の墓があります。

人丸については、九州に逃れてやってきた景清が目玉をくりぬいて投げたといわれる伝説や、目が見えなくなった景清を捜して、娘(人丸)が京からやって来たとされる話しが残されており、福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。


庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/05 13:15

庚申塔(9) 大光寺 照明院(茨城県鉾田市)白鳥の里

茨城、千葉方面に残る庚申塔を紹介しています。

また、これは民間信仰として各地に根付いているもので、今でもつづけられているところもあるかもしれません。
ただ、この地域を歩き回って、気がついたものだけを拾い集めて写真などをUPしていますが、少し古代のそれぞれの地域についても知っていることなどを交えながら紹介していきたいと思っています。
ここでの紹介内容は、庚申塔や庚申講などの行事に直接関係しないものが多いと思いますが、何かが見えてくるかもしれませんのでご容赦ください。

 今回は茨城県鉾田市の旧太陽村の「白鳥の里」と呼ばれる場所におかれていた庚申塔です。

この「白鳥の里」というのは、常陸国風土記に記載されている昔話がその名前の由来ですが、まだ律令制の国家が成立する前の4世紀頃の話として書かれている。

「郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、伊久米の天皇(垂仁天皇)の御世に、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しづつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。さうしてこの乙女らは、

  白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるやうなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)

 かう歌ひ残して天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。(口訳・常陸国風土記 より)」

このように水を貯える堤を築くときに、空から舞い降りた白鳥が娘に姿を変え、築いては直ぐに崩れ、なかなか堤を築く事ができなかったという話しです。

まるで白鳥は泥だらけになり、羽を抜いて築いているようだ・・・・
でも築き上げることが出来ずに飛び去った・・・・

何処か悲しいお話ですね。

時代は、国造りのために、各地でこのように稲作などの灌漑用の堤を築こうと懸命に号令をかけていた時代です。

その白鳥が堤を築こうとしていた場所の推定地の一つが、この「天台宗白鳥山大光寺 照明院」です。
(他にも鉾田市札にある「白鳥山普門寺」地域も候補の一つです。)

無住の寺ですが、寺の入口前の道路わきに庚申塔があります。

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正面金剛に踏みつけられた邪鬼の表情がなんともかわいらしいと思います。
また、その下に三猿は描かれていません。

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この像の隣りには「庚申塔」(惣村講中)と文字が彫られた石塔が置かれていました。


庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/06 13:53

「ふるさと風」会報の印刷を終えて・・・


 ふるさと”風”の会の会報印刷・製本で協会員が集まった。
部屋にパーテションなども設置したり、除菌剤なども置いているが、やはり作業の邪魔になる。
今日は比較的暖かだったので、窓を開け換気に気を付け、作業中もマスクをして行った。

部屋は茨城アマビエちゃんも登録している場所でもある。

この会報も、この2月号で177号となった。

あと3回で180号だ。 15年まであと3か月・・・・・

今日この2月号を印刷・製本したが、コロナで公民館・図書館などが閉まっており、無料で置くにしても置く場所がない。

先月は茨城県は独自の緊急事態宣言がだされ、1月9日(土)に印刷した日はまだ開いていた公共施設が日曜日から皆閉まってしまった。

今回は来週から解除されるかもとの期待もあったが、国の指定した都道府県の1か月延長が決まり、それに合わせて茨城県が独自に指定していた緊急事態宣言も延長され、ただし2月28日までと決まった。

しかし、条件があり、ある基準を満たせばこれも早めに終わることもあるし、県の施設もほぼ順次再開されるという。

石岡市は協議の結果、市の施設(公民館、図書館、観光案内所・・・・・・etc.)は来週から再開することが決まった。

ただ2月8日(月)は多くの施設で休みなので実質2月9日(火)から、感染対策をしっかりとって再開するという。

ふるさと”風”の会報は今日印刷したが、これも配れるのはまだ一部なので、ほとんどは火曜日以降に配ることになりそうだ。

まあそれにしてもやっと開いてくれるのはうれしいことだ。

石岡市のコロナ感染者の数も1月からかなり増えていて、市内の感染者状況も市からのメールで知ることができるのだが、知らされるのは、人数と男女別、年代だけで、具体的な情報は一切ない。
県のHPを除けば、県全体の状況が確認できるが、ここには新規・濃厚接触者の区別が表示されている。
やはりこの情報もかなり重要で、これからの行動などにも独自に考えることができる。
ぜひ市の方も載せてほしい。

一部の意見では市内のどのへんか?などを知りたいとの意見もあるが、これはやはり犯人捜しのようなものに発展しかねないのでやはり伏せておくべきだろう。
知りたければスマホアプリでの接触情報などを活用すべきだろう。

公表日 年齢 性別 居住地 区分
1月1日 60代 男 石岡市 濃厚接触者
1月3日 40代 男 石岡市 新規
1月3日 60代 男 石岡市 新規
1月4日 60代 女 石岡市 新規
1月5日 60代 男 石岡市 新規
1月7日 30代 女 石岡市 新規
1月7日 30代 女 石岡市 濃厚接触者
1月8日 80代 女 石岡市 濃厚接触者
1月8日 50代 女 石岡市 濃厚接触者
1月8日 30代 女 石岡市 濃厚接触者
1月8日 50代 女 石岡市 濃厚接触者
1月8日 20代 女 石岡市 新規
1月9日 40代 女 石岡市 濃厚接触者
1月9日 40代 男 石岡市 濃厚接触者
1月10日 50代 男 石岡市 濃厚接触者
1月12日 20代 男 石岡市 新規
1月12日 20代 男 石岡市 新規
1月15日 40代 男 石岡市 新規
1月15日 20代 男 石岡市 新規
1月16日 10代 男 石岡市 新規
1月16日 10代 男 石岡市 濃厚接触者
1月17日 児童 女 石岡市 濃厚接触者
1月17日 20代 男 石岡市 新規
1月18日 30代 男 石岡市 新規
1月18日 10代 男 石岡市 濃厚接触者
1月20日 60代 男 石岡市 濃厚接触者
1月20日 未就学児 男 石岡市 濃厚接触者
1月23日 30代 男 石岡市 新規
1月23日 60代 女 石岡市 濃厚接触者
1月25日 60代 男 石岡市 新規
1月25日 60代 女 石岡市 新規
1月26日 10代 女 石岡市 濃厚接触者
1月26日 40代 女 石岡市 新規
1月26日 80代 男 石岡市 濃厚接触者
1月26日 80代 男 石岡市 新規
1月27日 60代 男 石岡市 濃厚接触者
1月27日 20代 男 石岡市 濃厚接触者
1月27日 50代 女 石岡市 濃厚接触者
1月29日 60代 男 石岡市 新規
1月29日 70代 男 石岡市 新規
1月29日 70代 女 石岡市 濃厚接触者
1月30日 60代 女 石岡市 濃厚接触者
1月30日 20代 女 石岡市 濃厚接触者
1月31日 60代 女 石岡市 濃厚接触者
2月2日 60代 男 石岡市 濃厚接触者
2月2日 80代 女 石岡市 濃厚接触者
2月2日 30代 女 石岡市 濃厚接触者

2月6日(土)までの石岡市の感染者数だ。
ここ4日間の新規感染者数は0である。

また、ここ1週間は、新規感染者の数はゼロで、濃厚接触者が6人だ。

このような情報は出してもよいのではないだろうか?
少なくとも、これは、県のPDFの資料から得た情報だけだ。



近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/06 18:44

庚申塔(10) 石岡市龍明(貉内)

 石岡市の旧八郷地区に貉内(むじなうち)という地区がある。(現在は龍明)

愛宕山(岩間山)にいたという十三天狗の最後に加わった長楽寺という僧侶が住んでいた寺があった場所だ。

平田篤胤が書いた「仙境異聞」に貉内の長楽寺とでてくる。

付近は、いかにも貉が出てきそうな感じがするが、八郷町の地名の本には貉(むじな)=むしりとる という意味で川が蛇行している地形語ではないかという。

さて、そんな貉内の集落の入り口道角にいくつかの石塔などが並べられている。

大きな二十三夜尊塔などと並んで、比較的立派な庚申塔もあった。

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足元の台座には三猿も描かれていた。

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天狗の伝説と同じようにこの庚申塔からも何か昔話が聞こえてこないものかと・・・・。



庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/07 11:13

笠間・桃宴へ

 緊急事態宣言で、笠間のお雛さまも日程がいろいろ変わってきているようで、来週から又どうなるのでしょうか?

それでも土日は開いているようでしたので、本日2月7日(日)に笠間の工芸の丘に行って見ました。

思ったより多くの人が来ていました。駐車場に車を止めて急いでみて回りましたが、天気も良く暖かくてとても気持ちの良い日でした。

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丘の上にある展示会場の「桃宴」コーナーを捜して、へ足早に一巡りして来ました。

FBFの高橋協子さんの作品は残りが少なくなっていましたが、残り物に福があると、オルゴール付きの雛人形と、端午の節句(金太郎)人形を我が家につれて帰って来ました。
こちらにも福が廻ってきそうです。

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ねじを巻くと金太郎の童謡が・・・

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こちらは三人官女とお内裏雛。こちらもオルゴール付です。
娘のところへ贈ってやろうと思っています。

1歳になったばかりの孫娘は正月にあった時より、言葉も話し始め、物につかまらなくても、しっかり立つようになりました。
成長は早いものですね。



近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/07 14:58

庚申塔(11) 手子后神社(神栖)

 茨城県と千葉県銚子を結ぶ銚子大橋の茨城県側の入り口付近に「手子后(てごさき)神社」があります。

常陸国風土記に出てくる「童子女(うない)の松原」伝説で知られる場所だ。
(手子后神社については ⇒ こちら を参照してください)

ここも元々は神仏習合の名残を残しており、境内に多くの石像などがある。

特に、神社の境内片隅に「大師堂」と書かれたエリアがあり、たくさんの弘法大師の像が並べられている。
その中に交じって庚申塔もある。

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右側の像は真ん中に青面金剛が邪鬼を踏みつけて立ち、両脇に二童子を従えている。
そして下の台座に三猿が描かれている。
一方向かって左側の像は、台座側の中央に三猿がいて、その両脇に二童子がいる構図のようだ。
あまり見かけない構図と思う。

年代は不明だが、江戸中期くらいの雰囲気がする。

ここ手子后神社の末社が茨城県内にいくつかあるが、石岡の中津川地区にも小さな神社がある。
そこにも三猿の彫られた石塔が残されていました。

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青面金剛像は彫られていませんので、比較的古い江戸時代前半~中期ころに作られたものではないかと思います。


庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/02/08 08:38
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