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水雲問答(54) 今の一会

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答54

水雲問答(54) 今の一会

雲:
 人は今の一会(いちえ)空しく過ぐすべからず。喩(たと)えば一生の間往(ゆ)いて返らざる旅の如し。この山水好景、再び攀(よ)じがたし。務(つと)めて即(すなわ)ち今の苦労を忘れて、功を立て、名を残すべく候。再び好景勝地を探らんとする内に、何(いつ)か半途にして身を終るに至り候。

(訳)
 人は今瞬間の出会いをむなしく過ごしてはなりません。たとえば一生の間において出かけて戻ることのない旅のようなものです。いま見ている山水の素晴らしい景色をもう一度見たりよじ登ったりすることはむずかしいのです。できるだけ努力をして今当面している苦労など忘れて、いまのうちに手柄を立て、名を残すべきです。(そうしないと、)またあの素晴らしい景色の地を訪ねようと思っているうちに、いつのまにか中途半端にして身を終えてしまうでしょう。

水:
 苦を忘れて功を立て名を残すというときは、志多く功名にある事にして、真の道理に非(あら)ず。董子(とうし)の語能(よ)く能く御詳思〔しょうし)あるべし。一際会(さいかい)で放過せず、一事(いちじ)を成すべし。後の好会(こうかい)を待つときは、半途にして終る説は、いかさま古今同一轍にして人我共に其時を失わざるを勉めて、いたずらに後を期すべからずの箴規(しんき)に候。

(訳)
 今の苦労を忘れて、手柄を立て名を残そうというのは、それは名を残そうという気持ちがある功利的な考えであり、真の道理ではありません。漢の武帝の名臣で有名な儒学者である董仲舒(とうちゅうじょ)の言葉(「其れ仁人は其の誼(ぎ)を正して其の利を謀(はか)らず。其の道を明らかにして其の功を計らず」)をよくよくご熟慮なさるべきです。何事もその場限りにやりっ放しにしないで、じっくりと一つの事を成し遂げるべきです。また、次の好い機会がくるのを待っているうちに、中途半端にしてその生涯を終えるという説は、いかにも昔も今も同じで、人の犯しやすい誤りで、自分もその時の機会を逃さないように努力して、無駄に後の機会などがあるという空しい期待を抱いてはいけないという戒めであります。
(箴規:箴(しん)=針であり、戒め規範)

(コメント)
 董仲舒のことば:
 「正其誼不謀其利、明其道不計其功」(其の誼(ぎ=義)を正して其の利を謀らず、其の道を明らかにして其の功を計らず)
・・・「義」を正し、「道」を明らかにすることは、功利のためではなく、それ自体が人として求めるべきあり方である

人は利を謀ったり、功を計ったりして生活することは、人間としてはごく普通のことであり、否定すべきことではない。ただ、人の道としての重点に置くのは「義(誼)」と「道」にあると言っているようです。


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/01 05:41

水雲問答(55) 一時の愉快を一世に残さん

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答55

水雲問答(55) 一時の愉快を一世に残さん

雲:
 古今を考(かんがへ)候に、凡(およそ)功をなし得るまでは苦みて、功すでに成て楽に赴かんと為(す)る時、諸事背違して 心に任せぬことのみ多きやに存候。謝安の桓温(くわんをん)があるとき全からざるを憂(うれへ)、符秦(ふしん)の大兵を退る迄は其心中深察すべし。大難既にやみ、功成、名遂(とげ)て、瑯琊(ろうや)の讒(ざん)始て行はる。裴度(はいたく)が淮西(わいせい)を平(たいひらげ)て後、憲宗の眷(けん)衰へたるも同じことに候。故に大丈夫直に進む一大好事を鋭く做得べし。とても前後始終を量ては、何事も出来申(もうす)間鋪(まじく)候。一時の愉快を一世に残さんこと、これ予が志なり。如何如何。

(訳)
 古今のことを考えますに、およそ功績(手柄)を立てるまではいろいろ苦しみますが、功をすでに立て、これから楽になろうとするときに、(いろいろと問題が起こり)心に任せぬことばかりが多いようです。東晋(とうしん)の名宰相(めいさいしょう)と言われた謝安(しゃあん)でさえ、君子の位への野心を持っていた桓温(こうおん)が武威をほしいままにした時は、これを憂い、また(前秦王)符秦(ふしん)が大軍で攻めてきたのを撃退するまでは、さぞや心安からぬ心中を深く察されるのです。しかし、これらの国の大難が去り、功成り名遂げたとき、こんどは瑯琊(ろうや)による嫉妬から(武帝への)讒言(かんげん:いつわりの情報を報告する)が行われました。また、裴度(はいたく:唐の大官)が淮西(わいせい)の内乱を平定してのちに、憲宗皇帝からの愛顧が衰えたのも同じことです。
それゆえ大丈夫たる者は、とにかく真っ直ぐに進み、よいと思うことは鋭く(迅速に)やってしまうのがよろしい。ぐずぐずと前後のことを考えて始終心配してばかりいては、何事も成し遂げることはできません。
ここだと思う好機にみごとにやってのければ、男子の本懐というものです。「一時の愉快を一世に残さん(男は一本勝負だ)」私はこう考えるのですが、いかがでしょうか。

(コメント)
 謝安(しゃあん):320 - 385年、名族に生まれて、大いに将来を期待されていたが、若い頃は出仕せずに悠々と暮らしていた。
40歳で初めて仕官し、桓温の司馬となったが、やがて桓温から離れて中央に戻った。当時、桓温の勢力は東晋を覆うほどに拡大し、桓温は簒奪(ぜんじょう:君子の位を譲り受ける)の野望を見せていた。しかし謝安は桓温の君子への野望に強く反対し、引き伸ばし工作を行った結果、老齢の桓温は亡くなり、東晋の命脈は保たれた。
また、前秦の符堅(ふけん)が攻めてきたときに、これを迎え撃って大敗させた(淝水(ひすい)の戦い)などで東晋の危機を幾度となく救った人物。


水:
 男子と生るる者、誰か此願なかる可(べ)き。然ども其位と時とを得ざれば、袖手(しうしゅ)して空(むなし)く一生を過す耳(の)みに候。閣下、閥閲、世家、時至れば謝、裴が業を成し得べし。凡そ人、青年は志鋭にして、中年に至りて墔挫(さいざ)し易く候。今より後、此条を念々忘れ給ふべからず。

(訳)
 男子に生まれた者として、この願いを持たぬ者がありましょうか。しかしながら、地位と時世に恵まれなければ、手をこまねいて空しく一生を過ごすばかりです。幸いにして閣下は名門のご出身であります。時世がめぐって来れば謝安のような大業をも成し遂げられましょう。ただ若いうちは理想は盛んであっても、中年になると挫折しがちであります。今日以後、このことをしっかりとお忘れになってはいけません。



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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/01 18:15

水雲問答(56) 胆は大ならんを、心は小ならんを欲す

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答56

水雲問答(56)  胆は大ならんを、心は小ならんを欲す

雲:
 人は懼(ぐ)心を持すること、尤(もっとも)害を避(さくる)の一術なり。懼(ぐ)心とは、朝夕惴々(ずゐずゐ)として恐るるに非ず。我力小く、任重きを知て、万世に垂(たれ)て恥をのこさぬ工夫第一の候。

(訳)
 人が懼心(ぐしん:恐れるこころ)を持つのは、被害を受けないようにする一つの術です。懼心(ぐしん)は一日中びくびくとして恐れると云うことではありません。私は、力は小さくても任は重いのを知っており、これから続く世の中に恥を残さない工夫をすることを第一としています。

水:
 孫思邈(そんしばく)が、心は小ならんを欲するの語、乃(すなわち)是也。しかして後、ことに臨て大胆なるを真丈夫と申すべし。


(訳)
 孫思邈(そんしばく:中国唐代の有名な医者・道士)の「心は小ならんを欲する」という言葉はとても良い言葉です。ことを行う時は大胆にやることが大切な心意気です。

(コメント)
 「胆(たん)は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す」(「旧唐書」孫思邈伝より)
 ・・・人は、度胸(胆)は大きく、注意(心)は細かでありたいものである


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/02 07:04

水雲問答(57) 言葉の使い方に王道、覇道がある

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答57

水雲問答(57)  言葉の使い方に王道、覇道がある

雲:
 大小の法、幣必ずあり。姑(しばら)く賞罰を以て鼓舞するも、善者は少く、悪者多し。喩へば、落葉を掃(はら)ふに従つて落つるが如し。実(まこ)とにあきはて為(た)ることに候。唯(ただ)一時一時に清く掃(はらは)んことを思ふべし。俗に云ふ、食の上の蠅(はへ)を逐(おふ)と云ふこと、亦棄つべからず。わるく了簡(れうけん)して、無理に善悪を弁白するときに、却って害甚だしきに至る者に候。

(訳)
 大小に係わらず法というものは、かならず弊害があるものです。賞罰もっていろいろと鼓舞しましても、善者は少なく、悪者は多いものです。たとえば、落葉を掃いても、また落ちて、掃いても掃いてもまた落ちてくる、実にあきれ果ててしまいます。したがって、掃くのもその時その時に清く掃くことしかありません。俗に、食べ物の上の蠅(はえ)を追い払うようにやるということをやっていかねばなりません。悪く考えて、無理に善悪をハッキリさせると、かえって害が多くなってしまうでしょう。

水:
 善少く悪多しの説、妄(みだり)に人に施しがたし。風葉飯蠅(ふうようはんよう)の喩(たとえ)も、悪しく心得たる時は、目前の事のみにして永図(えいと)なき幣を生ずべく候。強て善悪を弁別するも、害あるの説も、一偏に説(とき)がたし。天下のこと了事漢に非ざれば、共に謀るべからず。是等の説皆説き得て着実に過ぎ、不了事の者に示し難き所あり。故に聖人の語平実正大、賢愚みな見聞に従て益あることに候。これ高論を駁(ばく)するに非ず、言語の措き方王覇あるを申候なり。

(訳)
 この善が少なく、悪が多いとする説は、あまりみだりに人に適用してはいけないでしょう。風葉飯蠅(掃いてもはいても落ち葉がと、飯の上の蠅をおう)の喩えも、悪く考えますと、ただ目先のことだけにとらえられ、永遠の計画が忘れられているという弊害があります。強いて善悪を区別すると害があるという説についても、ただ単純に断定できません。天下の事は複雑な問題が含まれていますので、本当に心得た人を相手にしなければなりません。これらの説は、少し立ち入り過ぎており、不了事の者(世間を知らない者)には難しい箇所があります。そのため、聖人の言葉は賢者が聞いても愚者が聞いても、誰に対しても平等に悟る事ができる平実正大な言葉なのです。今言っていることは、貴方の意見に反対するものではなく、言葉の使い方に王道、覇道があるということを申しているのです。


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/02 12:45

水雲問答(58) 殿(しんがり)こそ大事、他二編

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答58

水雲問答(58) 殿(しんがり)こそ大事、他二編

以下の三条は質問というより雲(白雲山人・板倉綽山)の考えをまとめたものといえます。
それぞれ独立していますが、本文も三条でわけてまとめていますので、ここも纏めて掲載します。

(一)、凡そ天下国家のことに当り申す者、兎角始(はじめ)ありて終(おわり)なく、余程よきことを致し候ても、半途に廃し候まま、却てせざるより劣申候こと夥(おびただ)しく候。是を戦場に喩へ申候はば、先陣に進て敵を挫(くじ)き申は難きが如くにて、実は易く候。後陣に在りて殿(しんがり)して人数を無難に引上候は、易(やすき)が如くして却って難しく候。治国の事も此の如し。先登は人に譲りて殿(しんがり)こそ致したく、是甚(はなはだ)以て一大事と存候。

(訳)
 およそ天下国家のことを行う者にとって、とかく始めたは良いが終わりがなく、よほど良いことを行っても途中で廃ててしまい、かえって事を行わなかったほうがよかったというようなことが非常に多いと思います。これを戦場に喩えれば、先陣を切って敵を倒すことはなかなか至難のことと同じようです。しかし、是は実は容易いことなのです。後陣にいて、しんがりをつとめて、見方の人数を無事避難させることのほうが、易しそうでこれがかえって難しいのです。国を治める場合もこれと同じです。先に登る者は別な人に譲って、一番最後のしんがりこそやりたいことだと思います。これは非常に大事なことだと思います。


(二)、堯(げう)は堯の政(まつりごと)を行ひ、舜(しゅん)は又舜の政をなす。禹(う)、湯(たう)、文、武、法は則(すなわち)候得ども、その己を行(おこなふ)は各の性分を遂て、敢(あえ)て人を効慕せず候。孔聖は申に及ばず、老子、太公望の如き、道を晤(あきらかむる)は一轍に候へども、その事業は人々の性に随て異なり。今の世の人、我流義に人を致さんと為(す)る、治の道を得ざるも爰(ここ)にありと存候。天地活物、人事も又活物に候。日々に変作仕候へば、これを治むる者も古今のことを肺腑(はいふ)に納めて、時に随って変に応じ、我一家をなし候ことと存候。大丈夫この志ならでは参るまじく候。

(訳)
 古代中国で徳をもって天下を治めた聖天子といわれる堯(ぎょう)と舜(しゅん)について、堯舜のやり方は同じではなく、堯は堯の政治を行い、舜は舜の政治を行っています。また禹湯文武(うとうぶんぶ・・・夏の始祖:禹王、殷の始祖:湯王、周の始祖:文王と武王)の名君といえども、法則に則ってはいますが、ことを行うのはそれぞれ自分の性分で行い、敢えて人に頼ることをしませんでした。孔子は云うに及ばず、老子や太公望などは、道を明らかにする事には一途熱心でありますけれど、それぞれ事業はその人々の性分にしたがって異なります。最近の世の人々は、自分流儀に人を使おうとし、治国の道が得られないのもここに問題があると存じます。天地はみな活き物であり、人事もまた活き物です。活き物ですから日々変化いたします。そのため、国を治める者は、古今のいろいろな問題を肺腑(心の奥底)に納めて、その時々の変化に応じて政(まつりごと)をおこなうことで一家が形成されることと存じます。これは「大丈夫」の志が無ければできないことでございます。


(三)、分別致候ほど好(よ)きことは無けれども、又今日の上にては、分別者ほどことを成すことなし。故に無分別ほど好き者はなしと存候。無分別にては、大抵のことは押付申候。小子先年木曾道中を過て、桟道(さんどう)の険を早天(そうてん)に過候ときは危(あやうき)を知らず、自白に過ぎるときは恐懼(きょうく)の心甚し。分別、無分別の義これにて解(わかり)申候。然(しか)しその無分別に仕方あり。ことに臨て分別を尽して後、無分別を出(いだ)すべしと存候。聖人は芻蕘(すうぎょう)の言を聞て、然かして後断ずるに、大公至正(しせい)の心を以てすと存候。

(訳)
 世の中の道理をわきまえること(分別)は結構ですが、一方でいまの世の中の風潮をみますと、いわゆる分別者、あまりに分別臭い人間ほど事をなすことはありません。無分別であれば、たいていのことは押し切ってやり通すことができるものです。先年、私は木曾街道を通りましたが、早朝に絶壁にかけられた桟道を通ったときに、まだ暗くて少しも危険を感じませんでしたが、明るくなって昼間に通るときには恐ろしくてなりませんでした。これで分別と無分別の違いがよくわかりました。しかしその無分別にもやりようがあります。事に臨んで事前によく考え(分別を尽くして)、しかる後に初めて無分別にやるべきであると思います。
聖人は草刈りやきこりのような貧しい者の言うことも聞いて、しかる後に大公至正の精神をもって物事を断行したと存じます。


水:
 一、三条甚だ感服。ご学力ご進(すすみ)と存候。お国元より郵便にて遺(のこ)され候頃より、又余程に立ち上り候ことにて、申し上げるべきようも無く候。

(訳)
 一、三条はなはだ感服いたしました。語学力が大変進歩されたと思います。国許より郵便にてやり取りいたしたものを遺されるようになったころから、大変上達されたと思います。
このため、ここは特に申し上げるべきことは無いと存じます。



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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/02 19:34

水雲問答(59) 変通を知って正を失はざる者

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答59

水雲問答(59) 変通を知って正を失はざる者

雲:
 秉政(へいせい)の者は申に及ばず、万事に変通を知らぬ者、役に立ち申さず。変通を知て正を失はざる者こそ、了事漢とも申べし。唐の徐文遠の王世充を尊敬致し、李密に驕傲(けうがう)仕候。人その故を承候へば、世充は小人にして賢を侮るが故に敬す。李密は賢を敬することを知(しる)ゆゑ斯(かく)の如しと申候。面白きことに候。ヶ様申せば、余(あまり)俗に申す利口世事者と申様に候へども、各様の手段も処世の上にては無くて協(かなは)ぬ者と存候。然し正を失ひ候ときは、何(いか)にも身を敗(やぶる)媒(なかだち)と存候。

(訳)
 政(まつりごと)を行う者はいうまでもなく、全てのことにわたってその時に応じて物事が変化していくという「変通」を知らない者は、役に立ちません。この変通を知って正しいことを失わない者こそが、本当に心得た人であるというべきでしょう。
唐初期の学者・徐文遠が王世充(おうせいじゅう)を尊敬し、李密(りみつ)は驕傲(きょうごう:おごりたかぶるさま)であるといっております。人がその理由をたずねたところ、王世充は小人で、賢を侮るからであり、李密は賢に敬意を表わす事を知っている故このようになったといっています。面白いことでございます。私から申せば、俗に云われている「利口世事者」(頭が良い世辞の巧みな人)といったところでしょうが、そのような手段も世をわたっていくのには無くてはならないものとおもわれます。しかし、正(正しい道)を失えば、そのときはその身が滅びることに繋がるでしょう。

注:ここの文の解釈は隋末期から唐建国当時の群雄割拠時代をもう少し理解しないといけないようです。とりあえずの訳と語理解ください。

(コメント)
 中国隋は400年続いた中国国内の分裂を統一した王朝であるが、2代目煬帝 (ようだい) の高句麗遠征などの対外膨張策が失敗して国内で豪族たちによるいくつもの反乱が起こった。そして618年(義寧2年)に煬帝が殺害されると、江都、洛陽、長安などでこれらの豪族が後押しした政権が立ち上がった。その中で、長安に拠る李淵が朝廷の禅譲を受け唐が建国された。
同じく禅譲をねらっていた隋朝の有力武将であった王世充(おうせいじゅう)と隋とはあまり仲の良くなかった有力群雄で勢力をかなり広げていた李密(りみつ)は対立たが、、李密は王世充との会戦に敗れ、長安に拠る李淵(唐)のもとに降った。しかし、最後は唐朝への謀反を換言されて殺された。また、王世充は唐とは別に洛陽に鄭(てい)国を樹立したが、最後は唐軍に破れ降伏した。

水:
 至当之説、間然(かんぜん)すべからず。

(訳)
 この説はもっともで、非難すべき点が一つもありません。


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水雲問答(60) 大経綸(だいけいりん)

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答60

水雲問答(60)  大経綸(だいけいりん)

雲:
 材学究門戸を争(あらそひ)候は申までもなし。王侯大人、政に臨でも門戸の気味合ままこれ有る哉に存候。寛を専(もっぱら)と致し候人は厳を知らず。厳家も亦然り。大小万事一様に致したがり申候は、俗人の情に候。故に大経綸は迚(とて)も出来申さず候。夫(それ)故に大任に当り申候人は、諸事万事残らず我胸中に引受け、才は才にて引立て遣はし、徳は徳にて引立て、勇は勇にて引立て遣はし候はねば、大事業は成がたく候。我一己の智にては、一方の事は出来申ても、八方の事はなし得申さず候。一方に当る才智の人は随分出申すべき、八方に当りて大経綸を致し候者は間気と存申候。韓(かん)魏(ぎ)公経綸を以て人に許さず候は、深意味と存候。

(訳) 材=才
 学問や才能を磨き追い求める人達はいつも門戸(学閥)を作って争うことは言うまでもありません。王侯大人(おうこうたいじん=王侯将相 おうこうしょうそう・・・高貴な身分は、才能や努力などできまり、家柄や血統ではないということ)でも、政(まつりごと)を行う場合にも派閥があることはよくある事です。寛容を主に行うと、人は厳しさを知りません。また逆に厳しくすることを主とすれば、寛容が忘れがちになります。大小の事や物事万事について一律に型にはめて行おうとするのが、俗人の情です。よってこれでは、大経綸(国の秩序を整え治めること)はとてもできません。それゆえ、大任を行う場合においては、一切合切をすべて自分の胸中に引き受けて、才のある者には才を、徳のある者には徳を、また勇気のある者にはその勇気を引き立てて十分に能力を発揮させるようにしなければ(適材適所)、大事業は成し遂げられません。自分ひとりの智力だけでは、一方向の事はできても、八方のことは到底出来るものではありません。一つの事を行う才智を持った人材は大勢います。ただ、八方全てにわたってうまく物事をこなせる人間は殆んど降りません。
韓魏公(かんぎこう:韓琦かんき)は、学問もあり、人材を愛して使ったとされていますが、この韓琦でさえ、「人材を愛して用いてきたが、完全な人物はなかなかいない。だからある所に秀でた人物を使うことで満足しなければならない。しかし本当はどこにつぃかっても安心して任せられる人物がほしいものだ。といったその言葉は、非常に深い意味があります。


水:
 この御論大経綸の深意を尽されて、八音を合せて楽は成り、五味を合せて味は成り申候。何事も一様に致候ほど小き者は之無く候。今の世にてこの意を解し、其の作用候は、彼の海畔(かいはん)の一老翁の外には有るまじくと存候。

(訳)
 このご意見は、大経綸(国の秩序を整え、治めること)の深い意味を尽されており大変結構です。音楽は八音(金・石・糸・竹・匏(ほう)・土・革・木)がちょうどうまく調和して奏でられ、料理の味も五味(甘・辛・苦・酸・鹹(かん))がうまく合わさって丁度良い味になります。何事も一様・一律に片つけてしまう者ほどつまらないちっぽけな人間はないでしょう。今の世の中で、この意見を理解し、それを実行できるのは、かの海畔の一老翁(松浦静山公のこと)置いて他には居らぬと思います。

注:ここに甲子夜話の作者「松浦静山公」がでてきます。
  やはり当時この2人とも親交があり、静山公は、人物として、とても信頼されていたことがわかります。



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水雲問答(61) 英豪の所為と君子

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答61

水雲問答(61) 英豪の所為と君子

雲:
喜怒哀楽は人情候へども、その時に随ひて動(うごき)申候は小量と存候。英豪は悲愴(ひそう)惨愁(さんしゅう)の中に処して、かつてことともせず、又富貴に居(をる)にも嘗(かつ)て驕忲(きょうたい)の態(てい)なし。我が分を楽(たのしみ)てことをなし申候まま、禍を福となし、敗に因りて勝を握(にぎる)の手段あり。英豪は無事にこまり申す者に候。悪事にてもあれば、それに因て一大事をなし出し申候者に候。素して行うは貧賎(ひんせん)、富貴、夷狄(いてき)、艱難(かんなん)も自得仕候こそ、君子たる故と存候。

(訳)
 喜怒哀楽は(自然な)人情ですが、その喜怒哀楽の時に随って、ただ行動するのでは器量が小さいといえましょう。一方、英雄豪傑といわれる者は、悲壮な、また惨めな出来事の中にあっても動揺することなく、また富貴の地位にいても少しも傲(おご)り驕(たかぶ)る態度がなく、持って生まれた自分の分(器量を)楽しんで事を行いますので、禍を転じて福となし、失敗してもそれによって逆に勝利をつかむ手段を心得ております。ところが、この英雄豪傑というものは、世の中が太平無事の時には、何もすることがなく困るといった者で、何か悪いことでも起これば、それによって大仕事をする者といえましょう。
それに対して君子は「その地位に素して行い(地位に合せた行いをする):『中庸』」、貧しければ貧しいなりに、金持ちなら金持ちなりに、病人なら病人なりに、夷狄(いてき)、艱難(かんなん)などどのような境遇でも、それに応じて自身が納得した生き方をします。これが君子といえる所以だと思います。


水:
 英豪の所為、大に人意を快(こころよく)すと雖(いえど)も、弊も亦(ま)た多し。帰宿の処は君子は、易(い)に居て命(めい)を俟(ま)つの外之れ無く、故に聖人の千語万語、英豪のする所を以て教(をしへ)とせず、其の意甚だ深し。然(しか)れども聖経賢伝を死看(しかん)して活看(かつかん)せざる者は、気息奄々(えんえん)死人の如き君子となり候。弊も云うべく候。これらの工夫、畢竟(ひっきょう)其人にあるのみと存候。

(訳)
 英雄豪傑の仕業は大いに人の心を痛快にしますが、弊害もまた多いものです。究極のところ(『中庸』に)「君子は、平易なところに居て、天命をまつ以外にない」とあるように、ゆえに聖人のすべての言葉、英雄豪傑のように特例をもって教えとはしませんが、その意(こころ)は大変深いところがあります。しかしながら、聖賢の経書や伝記を古臭いものとして勉強しない者は、息絶え絶えの死人のような君子になってしまいます。そういうのは弊害とも言えます。これらの工夫(心がけ)は、畢竟(ひっきょう:究極、とどのつまり)のところその人自身の問題であります。


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/03 15:50

水雲問答(62) 己一人の才を展すとき、蹉跌して事をなすこと能はず

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答62

水雲問答(62) 己一人の才を展すとき、蹉跌して事をなすこと能はず

雲:
 事は十分に参らず、苦みて居候中こそ却て面白き所と存申候。我十分は最早(もはや)後は陥阱(かんせい)に候。故に古人ことをなし候に、自分の上に1箇の人あるがゆゑに、己が才を展(のば)すこと能はず。半は出来、半は出来ずして、歎息すると雖ども、理を観るの明ならざるが故なり。其人去て己一人の才を展すとき、蹉跌(さてつ)して事をなすこと能はず、却(かへつ)て後悔するに至る。邵子(せうし)の落便宜は得便空、大におもしろく存候。

(訳)
 事を十分満足に為すことができず、苦しみながら部屋に籠もっている時こそ、かえって面白いものでございます。自分としては十分に出来て、後もう少しで完成という時に、落とし穴にはまることがあります。故に、昔の人が事を行おうとするときに、自分の上に一人の上役が居ると、自分の才能を十分発揮することが出来ず、半分できても残り半分が出来ないため、ため息をついてみてもこれ理を見るより明らかなことでしょう。しかし、その上の人間が去って、さて、自分ひとりになってこんどは十分に自分の才能を発揮できるようになると、今度は途中でつまづいて諦めることはできず、却って一人になったことを後悔します。
邵子(せうし:易を受けついで一派の哲理を考へ出した人)の「便宜に落ちるは、便空を得る」という言葉はとても面白いと存じます。

水:
 憂患に生じて安便に死する、則この意思に候。己(おの)が才を展尽することを得ず歎息するは、理を見るの明ならずと申ご論、殊の外面白きことにて、ご工夫の精細感心仕候。己の才を十分に展するに至て、蹉跌するのことを予(あらかじ)め仕おり候人は、多くは有るまじく、都(すべ)てこと敗て後に悔る計(ばかり)の者に候。此一条はご体認の実論にして、甚感銘仕候。

(訳)
 これは、孟子が「憂患に生じて安便に死する」(人は心配事がある時は心をいため、命を守る努力をするが、憂いがなくなると心がゆるみ、思わぬ死を招くこともあるということ)という言葉がありますが、すなわちこれと同じ心です。自分の才能を伸ばし尽くすことが出来ないことを嘆くのは理を見るより明らかであるという御意見はことのほか面白く、その言葉の工夫の細心さに関心致しました。自分の才能を十分に伸ばせるようになると、途中で挫折することをあらかじめ考える人は多くはいないでしょう。普通は、すべて行って失敗して後にそれを悔いるばかりのものしか居りません。この一条は貴方の実際の体験からの実論で、大変感銘いたしました。


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/04 06:30

水雲問答(63) 大事は独断ならねば出来ず

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答63

水雲問答(63) 大事は独断ならねば出来ず

雲:
 韓非の独断は、事に害あることども多く候へども、大事は独断ならねば出来申さず候。独断甚面白く候。謝公の雅量にて独断大得手と存候。安穏中より出申す独断ならざれば、人背き申候哉に存候。

(訳)
 韓非(かんぴ:韓非子・・・中国戦国時代の思想家で、君主に権力を集中し法の支配で乱れを統一するという法重視の考え方をした)は独断でことを行い、この事が害をなしたことも多くありますが、大事を行うには独断でなければ実行できません。この独断は大変面白くおもいます。これは昔を懐かしんでいる人(謝公)のおおらかな考え方で、独断は大得意と思います。もし、この独断が心が落ち着いた状態から出されたもの出なければ、人はこれに背くことでしょう。

水:
 独断は、人主と大臣の上にては欠くべからざるのことに候へども、諸侯の上にして申たる時、独断のこと、一生中に成しおほせたるときはよし。代替になり候て、前代の独断大に害を成し、其ことを必ず替へざれば叶はぬこと出来、或は強(しい)て行へば、立意違ふて黒白相変ずることにも至るゆゑ、始(はじめ)思付たること、何年にて成と算して取かかるべし。大臣も我身に為し負せず、人に渡すときは直に別事となるべし。因て永久に渉(わた)らざる一時の大事は独断して、数十年を渉るべきのことは衆議を用ふべし。

(訳)
 独断は、一番上に立つ人主と、また大臣などにとっては欠くことのできないことです。しかし、諸侯に対して独断で命令するときに、その内容が、その命を下した主の代に成し遂げられればよいが、もし代が替わってしまうと、その独断が大きな害となり、独断の内容を変えざるを得なくなります。もしこれを強いて実行しようとすると、最初の考えとは黒白違ってしまうことにもなるでしょう。初めに思いついた考えは、何年でできるかを計算して取り掛かるべきです。大臣も自分自身でで成し遂げることが出来ず、他の人に任せるときは別なこととすべきです。永久に続くものでない一時の事は独断で行い、数十年に渡る問題には皆で衆議して決めるべきでしょう。


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/04 06:57
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