FC2ブログ

水雲問答(56) 胆は大ならんを、心は小ならんを欲す

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答56

水雲問答(56)  胆は大ならんを、心は小ならんを欲す

雲:
 人は懼(ぐ)心を持すること、尤(もっとも)害を避(さくる)の一術なり。懼(ぐ)心とは、朝夕惴々(ずゐずゐ)として恐るるに非ず。我力小く、任重きを知て、万世に垂(たれ)て恥をのこさぬ工夫第一の候。

(訳)
 人が懼心(ぐしん:恐れるこころ)を持つのは、被害を受けないようにする一つの術です。懼心(ぐしん)は一日中びくびくとして恐れると云うことではありません。私は、力は小さくても任は重いのを知っており、これから続く世の中に恥を残さない工夫をすることを第一としています。

水:
 孫思邈(そんしばく)が、心は小ならんを欲するの語、乃(すなわち)是也。しかして後、ことに臨て大胆なるを真丈夫と申すべし。


(訳)
 孫思邈(そんしばく:中国唐代の有名な医者・道士)の「心は小ならんを欲する」という言葉はとても良い言葉です。ことを行う時は大胆にやることが大切な心意気です。

(コメント)
 「胆(たん)は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す」(「旧唐書」孫思邈伝より)
 ・・・人は、度胸(胆)は大きく、注意(心)は細かでありたいものである


水雲問答を最初から読むには ⇒ こちら
 (10件ずつまとまっています。 次の10件を読むときは最後の「Next」をクリック)

水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/02 07:04

水雲問答(57) 言葉の使い方に王道、覇道がある

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答57

水雲問答(57)  言葉の使い方に王道、覇道がある

雲:
 大小の法、幣必ずあり。姑(しばら)く賞罰を以て鼓舞するも、善者は少く、悪者多し。喩へば、落葉を掃(はら)ふに従つて落つるが如し。実(まこ)とにあきはて為(た)ることに候。唯(ただ)一時一時に清く掃(はらは)んことを思ふべし。俗に云ふ、食の上の蠅(はへ)を逐(おふ)と云ふこと、亦棄つべからず。わるく了簡(れうけん)して、無理に善悪を弁白するときに、却って害甚だしきに至る者に候。

(訳)
 大小に係わらず法というものは、かならず弊害があるものです。賞罰もっていろいろと鼓舞しましても、善者は少なく、悪者は多いものです。たとえば、落葉を掃いても、また落ちて、掃いても掃いてもまた落ちてくる、実にあきれ果ててしまいます。したがって、掃くのもその時その時に清く掃くことしかありません。俗に、食べ物の上の蠅(はえ)を追い払うようにやるということをやっていかねばなりません。悪く考えて、無理に善悪をハッキリさせると、かえって害が多くなってしまうでしょう。

水:
 善少く悪多しの説、妄(みだり)に人に施しがたし。風葉飯蠅(ふうようはんよう)の喩(たとえ)も、悪しく心得たる時は、目前の事のみにして永図(えいと)なき幣を生ずべく候。強て善悪を弁別するも、害あるの説も、一偏に説(とき)がたし。天下のこと了事漢に非ざれば、共に謀るべからず。是等の説皆説き得て着実に過ぎ、不了事の者に示し難き所あり。故に聖人の語平実正大、賢愚みな見聞に従て益あることに候。これ高論を駁(ばく)するに非ず、言語の措き方王覇あるを申候なり。

(訳)
 この善が少なく、悪が多いとする説は、あまりみだりに人に適用してはいけないでしょう。風葉飯蠅(掃いてもはいても落ち葉がと、飯の上の蠅をおう)の喩えも、悪く考えますと、ただ目先のことだけにとらえられ、永遠の計画が忘れられているという弊害があります。強いて善悪を区別すると害があるという説についても、ただ単純に断定できません。天下の事は複雑な問題が含まれていますので、本当に心得た人を相手にしなければなりません。これらの説は、少し立ち入り過ぎており、不了事の者(世間を知らない者)には難しい箇所があります。そのため、聖人の言葉は賢者が聞いても愚者が聞いても、誰に対しても平等に悟る事ができる平実正大な言葉なのです。今言っていることは、貴方の意見に反対するものではなく、言葉の使い方に王道、覇道があるということを申しているのです。


水雲問答を最初から読むには ⇒ こちら
 (10件ずつまとまっています。 次の10件を読むときは最後の「Next」をクリック)

水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/02 12:45

水雲問答(58) 殿(しんがり)こそ大事、他二編

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答58

水雲問答(58) 殿(しんがり)こそ大事、他二編

以下の三条は質問というより雲(白雲山人・板倉綽山)の考えをまとめたものといえます。
それぞれ独立していますが、本文も三条でわけてまとめていますので、ここも纏めて掲載します。

(一)、凡そ天下国家のことに当り申す者、兎角始(はじめ)ありて終(おわり)なく、余程よきことを致し候ても、半途に廃し候まま、却てせざるより劣申候こと夥(おびただ)しく候。是を戦場に喩へ申候はば、先陣に進て敵を挫(くじ)き申は難きが如くにて、実は易く候。後陣に在りて殿(しんがり)して人数を無難に引上候は、易(やすき)が如くして却って難しく候。治国の事も此の如し。先登は人に譲りて殿(しんがり)こそ致したく、是甚(はなはだ)以て一大事と存候。

(訳)
 およそ天下国家のことを行う者にとって、とかく始めたは良いが終わりがなく、よほど良いことを行っても途中で廃ててしまい、かえって事を行わなかったほうがよかったというようなことが非常に多いと思います。これを戦場に喩えれば、先陣を切って敵を倒すことはなかなか至難のことと同じようです。しかし、是は実は容易いことなのです。後陣にいて、しんがりをつとめて、見方の人数を無事避難させることのほうが、易しそうでこれがかえって難しいのです。国を治める場合もこれと同じです。先に登る者は別な人に譲って、一番最後のしんがりこそやりたいことだと思います。これは非常に大事なことだと思います。


(二)、堯(げう)は堯の政(まつりごと)を行ひ、舜(しゅん)は又舜の政をなす。禹(う)、湯(たう)、文、武、法は則(すなわち)候得ども、その己を行(おこなふ)は各の性分を遂て、敢(あえ)て人を効慕せず候。孔聖は申に及ばず、老子、太公望の如き、道を晤(あきらかむる)は一轍に候へども、その事業は人々の性に随て異なり。今の世の人、我流義に人を致さんと為(す)る、治の道を得ざるも爰(ここ)にありと存候。天地活物、人事も又活物に候。日々に変作仕候へば、これを治むる者も古今のことを肺腑(はいふ)に納めて、時に随って変に応じ、我一家をなし候ことと存候。大丈夫この志ならでは参るまじく候。

(訳)
 古代中国で徳をもって天下を治めた聖天子といわれる堯(ぎょう)と舜(しゅん)について、堯舜のやり方は同じではなく、堯は堯の政治を行い、舜は舜の政治を行っています。また禹湯文武(うとうぶんぶ・・・夏の始祖:禹王、殷の始祖:湯王、周の始祖:文王と武王)の名君といえども、法則に則ってはいますが、ことを行うのはそれぞれ自分の性分で行い、敢えて人に頼ることをしませんでした。孔子は云うに及ばず、老子や太公望などは、道を明らかにする事には一途熱心でありますけれど、それぞれ事業はその人々の性分にしたがって異なります。最近の世の人々は、自分流儀に人を使おうとし、治国の道が得られないのもここに問題があると存じます。天地はみな活き物であり、人事もまた活き物です。活き物ですから日々変化いたします。そのため、国を治める者は、古今のいろいろな問題を肺腑(心の奥底)に納めて、その時々の変化に応じて政(まつりごと)をおこなうことで一家が形成されることと存じます。これは「大丈夫」の志が無ければできないことでございます。


(三)、分別致候ほど好(よ)きことは無けれども、又今日の上にては、分別者ほどことを成すことなし。故に無分別ほど好き者はなしと存候。無分別にては、大抵のことは押付申候。小子先年木曾道中を過て、桟道(さんどう)の険を早天(そうてん)に過候ときは危(あやうき)を知らず、自白に過ぎるときは恐懼(きょうく)の心甚し。分別、無分別の義これにて解(わかり)申候。然(しか)しその無分別に仕方あり。ことに臨て分別を尽して後、無分別を出(いだ)すべしと存候。聖人は芻蕘(すうぎょう)の言を聞て、然かして後断ずるに、大公至正(しせい)の心を以てすと存候。

(訳)
 世の中の道理をわきまえること(分別)は結構ですが、一方でいまの世の中の風潮をみますと、いわゆる分別者、あまりに分別臭い人間ほど事をなすことはありません。無分別であれば、たいていのことは押し切ってやり通すことができるものです。先年、私は木曾街道を通りましたが、早朝に絶壁にかけられた桟道を通ったときに、まだ暗くて少しも危険を感じませんでしたが、明るくなって昼間に通るときには恐ろしくてなりませんでした。これで分別と無分別の違いがよくわかりました。しかしその無分別にもやりようがあります。事に臨んで事前によく考え(分別を尽くして)、しかる後に初めて無分別にやるべきであると思います。
聖人は草刈りやきこりのような貧しい者の言うことも聞いて、しかる後に大公至正の精神をもって物事を断行したと存じます。


水:
 一、三条甚だ感服。ご学力ご進(すすみ)と存候。お国元より郵便にて遺(のこ)され候頃より、又余程に立ち上り候ことにて、申し上げるべきようも無く候。

(訳)
 一、三条はなはだ感服いたしました。語学力が大変進歩されたと思います。国許より郵便にてやり取りいたしたものを遺されるようになったころから、大変上達されたと思います。
このため、ここは特に申し上げるべきことは無いと存じます。



水雲問答を最初から読むには ⇒ こちら
 (10件ずつまとまっています。 次の10件を読むときは最後の「Next」をクリック)

水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/02 19:34
 | HOME |