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水雲問答(71) 行うに理あり、時の罪にあらず

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答71

水雲問答(71)  行うに理あり、時の罪にあらず

雲:
 君子世時に処して我が心の如く行かぬ時、太息して時の罪とす。甚だ笑(わらふ)べし。その行はれぬもと、自らの為すこと疾(はや)からざるが故なり。行のその理を得て行はざる無し。行はざるは其の理を全く得ぬゆゑに、行はれざるを知て行は識の足らざるなり。何れに自らの罪なり。時の罪に非ずと知るべし。

(訳)
 君子が世間に処して、自分の思い通りに行かない時、大きなため息をついて、時代が悪いと時のせいにします。しかし、これは大いに可笑しなことです。その事がうまくいかないのは自分にはやましいことがないとしている事にあります。行うのには理(原則)があって、その原則を得てはじめて行えるものです。行えないのはこの原則から外れているからです。行われないということを知って、知りながら行うのは識が足りないといわざるを得ません。いずれも自分自らの罪です。時が悪いなどと時には罪はないと知るべきです。


水:
 為す所の善からぬと、識の足ざるとに反求候は、学問第一の工夫、万世の教と為すべきご立言に候。然れども其の実は時の何(いか)んとも為し難きことあり。『易』にも時を重(お)もに論じたるに、反求計(ばかり)になき所も有。況(いはん)や孔孟の世に遇(あた)はざる、時に非ずして何ぞや。

(訳)
 自分の行う所が善いか悪いか、ということは識が足りないということを自分に振り返ってよく考えてください。これは学問第一の工夫や、何時の世でも教えとなすべき大変立派なことです。しかしながら、実際には時勢というものがあり、これによってどうにもならないことがあります。『易』は、この時の変化を主に論じたものであり、自分を振り返って責めるといった道徳とは違います。聖人と言われた孔子、孟子も時勢はあっていませんでしたが、これも生まれた時があわなかったという事にほかなりません。




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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/07 07:13
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