臥龍の藤
千葉県銚子市内に「臥龍(がりゅう)の藤」という藤の木があります。
前にも紹介していますが、先日この時期しか見られないと思い立ち寄って見ました。
ヤマサ醤油の工場の隣にある日蓮宗の古刹「妙福寺」の境内にあります。
銚子駅のすぐ東側の踏切を渡ります。
寺は1314年に匝瑳市(八日市場)入山崎地区に真言宗の寺として創建されたそうですが、寺の三世円学が日祐上人に帰依して日正の名を与えられ日蓮宗に改宗したという。
また、この藤の木は樹齢が750年以上の「野田藤」という種類の藤の木で、南北朝時代頃に京都御所内から船で運ばれてきたといわれています。

境内の渡り廊下の向こうに藤棚が目に飛び込んで来ました。

これが樹齢750年以上といわれる臥龍(がりゅう)の藤です。

臥龍というのはこの藤の根部分が龍が臥せているように見えるからだそうです。

藤の樹勢を維持するために、足利フラワーパークの専門家にアドバイスを貰っているようです。

前にも紹介していますが、先日この時期しか見られないと思い立ち寄って見ました。
ヤマサ醤油の工場の隣にある日蓮宗の古刹「妙福寺」の境内にあります。
銚子駅のすぐ東側の踏切を渡ります。
寺は1314年に匝瑳市(八日市場)入山崎地区に真言宗の寺として創建されたそうですが、寺の三世円学が日祐上人に帰依して日正の名を与えられ日蓮宗に改宗したという。
また、この藤の木は樹齢が750年以上の「野田藤」という種類の藤の木で、南北朝時代頃に京都御所内から船で運ばれてきたといわれています。

境内の渡り廊下の向こうに藤棚が目に飛び込んで来ました。

これが樹齢750年以上といわれる臥龍(がりゅう)の藤です。

臥龍というのはこの藤の根部分が龍が臥せているように見えるからだそうです。

藤の樹勢を維持するために、足利フラワーパークの専門家にアドバイスを貰っているようです。

古代官道跡は今
古代律令制度が始まった頃(奈良時代始め前後)から奈良を中心とした五畿内から全国国府を結ぶ七街道が作られたといわれています。
江戸時代の街道と区別するためにこの時代の東海道は古東海道などと呼ばれます。
私も、この古東海道の終点が常陸国であり、国府であった現石岡に東海道終点の駅家(うまや)があったはずだと知って、いろいろ捜していたことがありました。
この街道(官道)は地方の国から中央政権に物資や資料を馬で運ぶ役割をしていました。
また古代官道は、道幅はかなり広く、両脇に側溝を持つ道路で、ほぼ直線で、途中の駅家(うまや)には乗り換えのための馬を常駐させていたのです。
細かな話はさておき、十年以上前に、現在の常磐高速にそった場所からこの古代官道の跡が見つかりました。
場所は小美玉市五万掘と呼ばれる附近で、これを五万掘古道と呼ばれたのですが、その後、さらにその水戸市台渡里(河内駅家)へ続く延長線上の涸沼川を渡った附近で同じような官道跡が見つかりました。
そして、8年ほど前にこの古官道の遺構を見て来ました。
その時の写真が以下です。

このように畑や野原の中に真っ直ぐに調査して堀り出された跡を見ることが出来ました。
これは古東海道ではなく、東海道と東山道を結ぶ街道だと思われました。
地図で確かめると、石岡の鹿の子遺跡場所から台渡廃寺・河内駅家へ続く道です。
蝦夷征伐に鹿の子遺跡では大量の武器を制作していたことがわかっています。
そのため、恐らくこの道を使って武器を供給していたのではないかと思われるのです。たぶん八幡太郎の後三年の役頃も使われたのかもしれません。
八幡太郎の伝説がとても多く残されてもいます。

このように畑や野原の中に真っ直ぐに調査して堀り出された跡を見ることが出来ました。
ただ発掘したときは道の両サイドに側溝もあり、鎌倉時代頃の少し幅の狭い道路跡もあったといいます。

最近この近くを通ったのですが、大きな工場ができ、近くを通る常磐高速の友部スマートインターとを結ぶ広い道も建設されています。
上の写真の先に見えるのは、昔は無かった工場です。

この辺りが昔の官道跡だと思いますので、工場はその上に建設されているようです。

こちらは友部スマートインターへつながる道路です。
きれいな広い道がほぼ出来上がっています。
古代官道は写真手前を横切っていたと思われます。

新しくできた工場側にも行ってみました。
やはり新しい道路もできています。
古代の道はこの道路とは直角に横切る位置関係です。

こうして昔を推察できる遺構が無くなっていくのはさみしいですが、今までも全国で同じようなことが起こっているのでしょうね。
<前に書いた参考記事>
・五万掘古道(1) ⇒ こちら
・五万掘古道(2)-鹿の子・河内ルート⇒ こちら
・古東海道官道遺跡(中津川)⇒ こちら
江戸時代の街道と区別するためにこの時代の東海道は古東海道などと呼ばれます。
私も、この古東海道の終点が常陸国であり、国府であった現石岡に東海道終点の駅家(うまや)があったはずだと知って、いろいろ捜していたことがありました。
この街道(官道)は地方の国から中央政権に物資や資料を馬で運ぶ役割をしていました。
また古代官道は、道幅はかなり広く、両脇に側溝を持つ道路で、ほぼ直線で、途中の駅家(うまや)には乗り換えのための馬を常駐させていたのです。
細かな話はさておき、十年以上前に、現在の常磐高速にそった場所からこの古代官道の跡が見つかりました。
場所は小美玉市五万掘と呼ばれる附近で、これを五万掘古道と呼ばれたのですが、その後、さらにその水戸市台渡里(河内駅家)へ続く延長線上の涸沼川を渡った附近で同じような官道跡が見つかりました。
そして、8年ほど前にこの古官道の遺構を見て来ました。
その時の写真が以下です。

このように畑や野原の中に真っ直ぐに調査して堀り出された跡を見ることが出来ました。
これは古東海道ではなく、東海道と東山道を結ぶ街道だと思われました。
地図で確かめると、石岡の鹿の子遺跡場所から台渡廃寺・河内駅家へ続く道です。
蝦夷征伐に鹿の子遺跡では大量の武器を制作していたことがわかっています。
そのため、恐らくこの道を使って武器を供給していたのではないかと思われるのです。たぶん八幡太郎の後三年の役頃も使われたのかもしれません。
八幡太郎の伝説がとても多く残されてもいます。

このように畑や野原の中に真っ直ぐに調査して堀り出された跡を見ることが出来ました。
ただ発掘したときは道の両サイドに側溝もあり、鎌倉時代頃の少し幅の狭い道路跡もあったといいます。

最近この近くを通ったのですが、大きな工場ができ、近くを通る常磐高速の友部スマートインターとを結ぶ広い道も建設されています。
上の写真の先に見えるのは、昔は無かった工場です。

この辺りが昔の官道跡だと思いますので、工場はその上に建設されているようです。

こちらは友部スマートインターへつながる道路です。
きれいな広い道がほぼ出来上がっています。
古代官道は写真手前を横切っていたと思われます。

新しくできた工場側にも行ってみました。
やはり新しい道路もできています。
古代の道はこの道路とは直角に横切る位置関係です。

こうして昔を推察できる遺構が無くなっていくのはさみしいですが、今までも全国で同じようなことが起こっているのでしょうね。
<前に書いた参考記事>
・五万掘古道(1) ⇒ こちら
・五万掘古道(2)-鹿の子・河内ルート⇒ こちら
・古東海道官道遺跡(中津川)⇒ こちら
こんな場所にも花だいこん
車に乗っていて、石岡の街中で信号待ちをしていたら、家のブロック塀に蔦とともに紫色の花だいこんの花がきれいに咲いていました。
今や春先にはあちこちで見かけるようになりました。
中国由来の花だそうですが、それほど繁殖力が強そうでもないので、野原などで咲いているのもかわいらしいです。
こんな場所に咲いているのは初めてみたように思います。
いろいろな名前(オオアラセイトウ、花だいこん、ムラサキハナナ、諸葛菜、紫金草)があるのは意外と人々に愛されている証拠でしょうか?


(参考)昔の記事
・花大根(2011.2.4) ⇒ こちら
・紫金草(しきんそう)(2011.6.11) ⇒ こちら
今や春先にはあちこちで見かけるようになりました。
中国由来の花だそうですが、それほど繁殖力が強そうでもないので、野原などで咲いているのもかわいらしいです。
こんな場所に咲いているのは初めてみたように思います。
いろいろな名前(オオアラセイトウ、花だいこん、ムラサキハナナ、諸葛菜、紫金草)があるのは意外と人々に愛されている証拠でしょうか?


(参考)昔の記事
・花大根(2011.2.4) ⇒ こちら
・紫金草(しきんそう)(2011.6.11) ⇒ こちら
往く言葉が美しければ
5月の連休もどこも行かず、ひたすらステイホームで過ごしました。
私の所属している「ふるさと風の会」の機関紙がこの5月で満十五年を迎えます。
毎月会報を発行していますが、今回が第180号です。
2年前に会の創始者で、主査をつとめておられた脚本家の白井先生がお亡くなりになり、会の存続の危機となりました。
それでも、残った会員で何とか15年を迎えられたのは嬉しいことです。
会報の編集も先生から引き継いだのですが、毎月の原稿も〆切には間に合わないことも多々あり、またパソコンなどが苦手で手書き原稿もあるため、最後にしわ寄せがこちらに来てしまいます。
自分の原稿を作ったりパソコンで打ったりするのは苦ではないのですが、他人の原稿をパソコンで入力するのはやはり苦手です。
そこで、つい「原稿は何時になるの?」などと電話してしまう。
どうもその口調が責めているようになってしまっているのかもしれない。
その点、白井先生はいつも穏やかであったように思う。
先日も、遅れたことで、わざわざお菓子を持ってタクシーまで使って、来てくれた。
本当に申し訳ない。
「往く言葉が美しければ 還る言葉も美しい」
これはブログで、昔ある人に教えてもらった言葉だが、この精神が私にはまだ備わっていないように感じてしまった。
まだまだ私は人間ができていないようだ。
この会も200号(再来年の1月)まではボランティア精神と、上の言葉を思い出しながら続けたいと思う。
今回の会報は5月8日(土)に印刷・製本の予定だ。

(連休前に田植えが終った田んぼにて・・・・水郷・加藤洲(香取市)付近にて 4/29 撮影)
私の所属している「ふるさと風の会」の機関紙がこの5月で満十五年を迎えます。
毎月会報を発行していますが、今回が第180号です。
2年前に会の創始者で、主査をつとめておられた脚本家の白井先生がお亡くなりになり、会の存続の危機となりました。
それでも、残った会員で何とか15年を迎えられたのは嬉しいことです。
会報の編集も先生から引き継いだのですが、毎月の原稿も〆切には間に合わないことも多々あり、またパソコンなどが苦手で手書き原稿もあるため、最後にしわ寄せがこちらに来てしまいます。
自分の原稿を作ったりパソコンで打ったりするのは苦ではないのですが、他人の原稿をパソコンで入力するのはやはり苦手です。
そこで、つい「原稿は何時になるの?」などと電話してしまう。
どうもその口調が責めているようになってしまっているのかもしれない。
その点、白井先生はいつも穏やかであったように思う。
先日も、遅れたことで、わざわざお菓子を持ってタクシーまで使って、来てくれた。
本当に申し訳ない。
「往く言葉が美しければ 還る言葉も美しい」
これはブログで、昔ある人に教えてもらった言葉だが、この精神が私にはまだ備わっていないように感じてしまった。
まだまだ私は人間ができていないようだ。
この会も200号(再来年の1月)まではボランティア精神と、上の言葉を思い出しながら続けたいと思う。
今回の会報は5月8日(土)に印刷・製本の予定だ。

(連休前に田植えが終った田んぼにて・・・・水郷・加藤洲(香取市)付近にて 4/29 撮影)
麦の穂は勢いよく天を目指す
石岡市山崎南交差点の近くには、大きな麦畑がある。
最近は麦を見かけることは少なくなったので、この田植えの時期に大きく成長した麦の勢いがなんとも頼もしい。

この麦も今月末には麦秋を向かえ、その後刈り取りされるのだろう。

遠く八郷盆地の先に筑波山系の加波山などの山並みが見える。
ここからの眺めは、確かに広大で、多くのよそから来た人からは「北海道みたいだ」などとよく言われている。
今年は生育も早く、今月中にはすっかり秋色になって「麦秋(ばくしゅう)」となりそうだ。
今は、天に向かって多くの穂が真っ直ぐに勢いよく伸びている。
ふるさと風の会の機関紙を印刷して、その配布にここにやってきたが、いつもこの真っ直ぐな穂に心を奪われてしまう。
「ほら、しっかり頑張れよ!」
などといわれているような気になる。
最近は麦を見かけることは少なくなったので、この田植えの時期に大きく成長した麦の勢いがなんとも頼もしい。

この麦も今月末には麦秋を向かえ、その後刈り取りされるのだろう。

遠く八郷盆地の先に筑波山系の加波山などの山並みが見える。
ここからの眺めは、確かに広大で、多くのよそから来た人からは「北海道みたいだ」などとよく言われている。
今年は生育も早く、今月中にはすっかり秋色になって「麦秋(ばくしゅう)」となりそうだ。
今は、天に向かって多くの穂が真っ直ぐに勢いよく伸びている。
ふるさと風の会の機関紙を印刷して、その配布にここにやってきたが、いつもこの真っ直ぐな穂に心を奪われてしまう。
「ほら、しっかり頑張れよ!」
などといわれているような気になる。
いつまで咲くシクラメン

事務所代わりに使っている借り部屋にシクラメンの植木鉢がある。
この部屋に置かれたのは2年半前の冬。
この場所で3年間見事に花を咲かせている。
殺風景は場所にやはり色鮮やかな花はいいですね。
窓際において、水はあまりやり過ぎないように少しずつやっている。
5月に入っても花の勢いは衰えないようだが、それでもそろそろ赤い花の色がすこしずつ元気がなくなってきた。
今月いっぱいは元気でいてほしいものだ。ちょっとした目の清涼剤なので・・・・
最初に冬を越した時は、花が枯れてもそのままにしておいたら、葉がまだ残って青々していたので時々水をあげていた。
すると葉は段々大きくなってよく冬を迎えた。
そのときはさすがに花の咲くのが遅れ、1月頃から咲き始めて5月頃路まで咲いていた。
また花の数は少し少なかったと思う。
翌年の夏場は水はあまり与えず、延びた青い葉は根元から切った。
すると、11月頃から花をつけ始めた。
そして、今はこのようにまだ咲いている。
根元は球根のような固まりがある。
シクラメンも可憐な花だが、半年も花を次々咲かせるとは、凄い奴だ。
しかも、鉢植えのままでもそのまま翌年花を咲かせる。
本当は鉢を大きなものなどに植え替えた方がいいらしいが・・・・
たった一人こうしてブログなどを書いていても窓際から優しく眺めてくれている。
さあ、コロナなどに負けずにもうひと頑張りしなくては!
(ひとりごと)
「関東の源氏と平氏」どのように調べを進めようか・・・・・源護、平将門、源義光・・・・・・
これを理解しないと自分の今いる地の歴史的背景がよくわからない。
歴史書では系列は全て男性、しかも長男などの直系重視。
女性の地位は? これを考えると平氏も源氏も入り乱れている。
年内には少しずつ調べてまとめておこう。
久しぶりにレストランへ
母の日の日曜日、家内はどこか寂しげ。
5月の連休中に千葉の息子夫婦が孫を連れてくるという話しを、今はまだ来ないでと断り・・・・・
もう少ししたらワクチンも普及してこの騒ぎも収まるかと・・・・・・・
でも、自治体のワクチン接種計画は国の話などからはかなりかけ離れている。
65歳以上の接種が、今の計画では、8月~9月以降となる。このままでは何時になるのか・・・・・。
まあ、気長に待つしかない。焦ればそれだけストレスが溜まる。
妻も母の日に、息子や娘から花束でも贈られてくるかと待っていた様だ。
夕方になってもこないから寂しかったのかも・・・。孫の動画がスマホには来たようだが・・・・。
そこで、久しぶりにまだ暗くなる前に、食事に誘った。
場所は6号国道沿いの地元レストラン「さくら」だ。

ドアを開けるとすぐに検温。
席には透明なアクリル板が置かれ、対面にはこのアクリル板越しだ。
夕暮れの6号国道側の席には、どこかヨーロッパ、北欧を思わせる人形などのミニチュアが飾られている。

段々暗くなる屋外とは対照的に、屋内のライトが窓や、アクリル板にも映り・・・・・・

トマトソースの煮込みハンバーグセット。

美味しく頂きました。
テイクアウトをたのむ人もいましたが、お店も徐々に混んできて、7時半頃には席も殆んど埋まってしまいました。
私たちはその頃店を後に・・・。
5月の連休中に千葉の息子夫婦が孫を連れてくるという話しを、今はまだ来ないでと断り・・・・・
もう少ししたらワクチンも普及してこの騒ぎも収まるかと・・・・・・・
でも、自治体のワクチン接種計画は国の話などからはかなりかけ離れている。
65歳以上の接種が、今の計画では、8月~9月以降となる。このままでは何時になるのか・・・・・。
まあ、気長に待つしかない。焦ればそれだけストレスが溜まる。
妻も母の日に、息子や娘から花束でも贈られてくるかと待っていた様だ。
夕方になってもこないから寂しかったのかも・・・。孫の動画がスマホには来たようだが・・・・。
そこで、久しぶりにまだ暗くなる前に、食事に誘った。
場所は6号国道沿いの地元レストラン「さくら」だ。

ドアを開けるとすぐに検温。
席には透明なアクリル板が置かれ、対面にはこのアクリル板越しだ。
夕暮れの6号国道側の席には、どこかヨーロッパ、北欧を思わせる人形などのミニチュアが飾られている。

段々暗くなる屋外とは対照的に、屋内のライトが窓や、アクリル板にも映り・・・・・・

トマトソースの煮込みハンバーグセット。

美味しく頂きました。
テイクアウトをたのむ人もいましたが、お店も徐々に混んできて、7時半頃には席も殆んど埋まってしまいました。
私たちはその頃店を後に・・・。
遊女の墓(潮来)
昨日、また銚子へ行く途中で、潮来市の中心部にある真宗の寺「西円寺」に行って来ました。
ここには「遊女の墓」があるのです。
前に2度ほど訪れているのですが、墓のありかがわからず断念したことがあったのです。
最近、江戸時代に松浦静山(まつらせいざん)が書いた甲子夜話(かっしやわ)を紹介していただいているサイトで遊女の話しを読み、ここもまた訪れたいと思っていたからです。
(サイト:甲子夜話のお稽古 ⇒ こちら)
今度は見つけることが出来ました。
矢印案内板があるのですが、これだと、墓所の端部側にありそうですが、もっと内側の真ん中附近でした。
立派な供養碑が建てられていました。

供養塔には「衆生済度遊女之墓」と彫られていました。

左右に幾つかの墓石があり、その多くが江戸時代からの遊女たちのものでしょうか。

そして、もう一つの石柱には細かな文字がいっぱい。

衆生済度遊女の墓建立の誌
且つて一世を風靡した野口雨情の哀愁の詩「船頭小唄」も其の背景が遊郭の町潮来であったからこそ一層世の人々の情をさそったのではなかろうか。古書の一文をかりれば、菖蒲咲く潮来の里は奥州より中山道に通ずる要津にあたり銚子より鉾田より凡そ内海に入る者皆此処を過ぎりければ水駅として夙に世に顕る。されば、古くより艶色をひさぎて旅情を慰むるものなどありしならん。徳川氏府を江戸に開き此の地水戸領となりし後は其の盛り旧にも倍し交通益々頻繁にして諸大名の蔵屋敷建ち、朝夕に出船入船落込客も多かりければ藩治殊に意を用ひ水戸藤柄の娼家を移し、江戸の制に倣ひて浜一丁目に公娼を許し地方の繁栄を謀る傍ら罪人の検挙等に資せらる、とあり、延宝七年(1679年)潮来の一画に正式なる遊廓が誕生したのである。明治維新後の明治五年娼妓解放令が出され改革が行われたかに見えたが実際は空文化し公娼制度は賃座敷業に変形し却って繁栄をみた。不夜城の妓楼に絢爛と連ねる源氏名の数々、だが彼女たちは好んで入籍したのではない、年貢の上納に事欠く農家の娘、両親を失った孤児、高利の返金に迫られて親のために観念した孝行娘、義理ある人のために身を沈めた年若い妻女、・・・・・・
石柱の四面にわたってびっしりと・・・・
調べると、島田三郎さんという方が、昭和五十四年五月二十日に建立したものと判明しました。
元々潮来には江戸時代から遊郭がありました。
明治5年の法改正で、遊郭は禁止されたのですが、それ以降も昭和の初期頃まで形を変えて残り続けたといわれています。
ほぼ姿を消したのは、戦後の昭和32年の売春防止法が成立した時からだそうです。
この遊女たちの墓は、遊郭の主人が亡くなった遊女を寺に弔って建てたものといわれています。
ここには「遊女の墓」があるのです。
前に2度ほど訪れているのですが、墓のありかがわからず断念したことがあったのです。
最近、江戸時代に松浦静山(まつらせいざん)が書いた甲子夜話(かっしやわ)を紹介していただいているサイトで遊女の話しを読み、ここもまた訪れたいと思っていたからです。
(サイト:甲子夜話のお稽古 ⇒ こちら)
今度は見つけることが出来ました。
矢印案内板があるのですが、これだと、墓所の端部側にありそうですが、もっと内側の真ん中附近でした。
立派な供養碑が建てられていました。

供養塔には「衆生済度遊女之墓」と彫られていました。

左右に幾つかの墓石があり、その多くが江戸時代からの遊女たちのものでしょうか。

そして、もう一つの石柱には細かな文字がいっぱい。

衆生済度遊女の墓建立の誌
且つて一世を風靡した野口雨情の哀愁の詩「船頭小唄」も其の背景が遊郭の町潮来であったからこそ一層世の人々の情をさそったのではなかろうか。古書の一文をかりれば、菖蒲咲く潮来の里は奥州より中山道に通ずる要津にあたり銚子より鉾田より凡そ内海に入る者皆此処を過ぎりければ水駅として夙に世に顕る。されば、古くより艶色をひさぎて旅情を慰むるものなどありしならん。徳川氏府を江戸に開き此の地水戸領となりし後は其の盛り旧にも倍し交通益々頻繁にして諸大名の蔵屋敷建ち、朝夕に出船入船落込客も多かりければ藩治殊に意を用ひ水戸藤柄の娼家を移し、江戸の制に倣ひて浜一丁目に公娼を許し地方の繁栄を謀る傍ら罪人の検挙等に資せらる、とあり、延宝七年(1679年)潮来の一画に正式なる遊廓が誕生したのである。明治維新後の明治五年娼妓解放令が出され改革が行われたかに見えたが実際は空文化し公娼制度は賃座敷業に変形し却って繁栄をみた。不夜城の妓楼に絢爛と連ねる源氏名の数々、だが彼女たちは好んで入籍したのではない、年貢の上納に事欠く農家の娘、両親を失った孤児、高利の返金に迫られて親のために観念した孝行娘、義理ある人のために身を沈めた年若い妻女、・・・・・・
石柱の四面にわたってびっしりと・・・・
調べると、島田三郎さんという方が、昭和五十四年五月二十日に建立したものと判明しました。
元々潮来には江戸時代から遊郭がありました。
明治5年の法改正で、遊郭は禁止されたのですが、それ以降も昭和の初期頃まで形を変えて残り続けたといわれています。
ほぼ姿を消したのは、戦後の昭和32年の売春防止法が成立した時からだそうです。
この遊女たちの墓は、遊郭の主人が亡くなった遊女を寺に弔って建てたものといわれています。
季節は急ぎ足で巡る
今日はまだ5月の半ばだというのに、朝から風雨が強く、もう梅雨入りの様でもあります。
五月は比較的天気が良いので、梅雨の中休みの晴れを指した「五月(さつき)晴れ」も今年ばかりは新旧の暦が同じようになってしまいそうです。
コロナも今年の天候もこれからどうなってしまうのでしょうか。
先週出かけた時に潮来の長勝寺に立ち寄りました。
本堂前に植えられている大きな菩提樹の花がもしかしたら咲いているかもしれないなどと思ってのことです。

境内参道脇の紅葉の葉はもうかなり色濃くなって、勢いも増して生き生きとしていました。

大きな本堂の藁葺き屋根も台風の影響でかなり傷んでいたのを修理したようです。
これも寺にとってはかなりの負担で、修理費用の基金募集の立て札が置かれていました。
写真手前に写っている木は菩提樹の木ですが、花はまだほんの小さな赤ちゃんという感じでした。
また来月にでも様子を見に立ち寄りたいと思います。


(茶筅塚)
五月は比較的天気が良いので、梅雨の中休みの晴れを指した「五月(さつき)晴れ」も今年ばかりは新旧の暦が同じようになってしまいそうです。
コロナも今年の天候もこれからどうなってしまうのでしょうか。
先週出かけた時に潮来の長勝寺に立ち寄りました。
本堂前に植えられている大きな菩提樹の花がもしかしたら咲いているかもしれないなどと思ってのことです。

境内参道脇の紅葉の葉はもうかなり色濃くなって、勢いも増して生き生きとしていました。

大きな本堂の藁葺き屋根も台風の影響でかなり傷んでいたのを修理したようです。
これも寺にとってはかなりの負担で、修理費用の基金募集の立て札が置かれていました。
写真手前に写っている木は菩提樹の木ですが、花はまだほんの小さな赤ちゃんという感じでした。
また来月にでも様子を見に立ち寄りたいと思います。


(茶筅塚)
チガヤの白い穂が揺れて・・・

潮来より神栖の広い国道を東に進むと、道路は広く片側3車線の道が続く。
鹿島工業地帯の影響かと思うが、どんどん道がきれいになるが、旧道を通らなければ町の昔の姿はわからない。
それでも、いつもはこの広い国道を走ることは多い。
5月のこの頃は、道路わきなどにこの白い穂がゆらゆらとして、通る車の巻き起こす風に白い穂がまぶしく揺れる。
この穂に太陽の光をあびるのできらきら輝いている。
最近はこのチガヤの白い穂に混じってキバナコスモスのような黄色やオレンジの花が増えました。
どうも外来種の「オオキンケイギク」かもしれません。
どんどん広がっているようです。