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新川(土浦市)

 最近、隣町のような土浦市に出かける機会が減って、年に数回程度しかない。

今回は税務署に用事があり出かけてきた。
まあ書類を出すだけなので、1分ほどで用事も済んだ。

目の前に「新川」という川が流れている。

最近はここも桜並木がきれいなので、桜の名所とも言われるようになった。

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税務署の辺りから上流側には桜の枝が川の上におおい被るようになっており、花いかだもきれいだ。
今の時期は青葉が美しく、木々も涼しげでなかなか良い。

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ここから下流側は少し行けば霞ヶ浦に注ぐが、昔はよくアオコが発生して悪臭を放つことがよくあった。
最近は余り聞かなくなったと思い、調べてみると、平成23年に、13年ぶりのアオコの大量発生があり、アオコの河川への遡上防止やアオコの回収などを目的に、「アオコ抑制装置」というものをこの近くに設置してあるそうです。

上の写真の河川内のどこかにあるようです。
この装置には、アオコ吸着剤の「セラデコン」を用いて、植物プランクトン等を吸着して河川の浄化をするのだそうです。

ただ、まだ川の水はきれいとまではいえないように見えました。
ただ、写真にも釣りをしている方が写っていますが、釣り愛好家にとっては、結構知られた場所のようです。
もっともっときれいになるといいですね。

土浦は遠くから来た人は「水の町」といった印象をもたれる方が多いようです。

成田空港からの帰りに、タクシーでここを通ったことがありますが、運転手さんは桜川を渡るときに、「ここは川があって、よい所ですね」などと言っていました。
もう30年以上前でしょうか?



筑波・土浦・牛久地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2021/06/01 11:24

石榴(ざくろ)を詠(よ)む

我が家の庭にあるザクロの紅い花が急に目立つようになってきた。
眺めていると、緑の葉の色と対比すると、なかなかきれいな色だと思う。

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有名な「紅一点」の言葉の元になったのは、中国「宋」の王安石の「石榴(ざくろ)を詠む」がその出典だという。

 <石榴を詠む> 王安石(今から1000年近く前)

  万緑叢中(ばんりょくそうちゅう) 紅一点
     人を動かす春色は須く多かるべからず

  (一面緑色の草原に、紅い石榴の花が咲いている
       人の心を感動させる春の色には、多くはいらない、ほんの少しの色があればよい。)

この石榴も赤というより朱色だが、何か清々しさ、純粋な色と感じる。

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紫陽花もいよいよ咲き出しましたね。

街中風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/01 16:18

常陸国における源平合戦(6) 常陸国における源氏のはじまり


源平合戦(6)

さて、ここまで常陸国における源平合戦として、平氏の始まりを書き、続いて平将門の乱を書いて、平氏の坂東武者の広がりを見てきた。
次は源氏の始まりを書こうと思うのだが、何時の時代から書くか迷ってしまった。
一般には新羅三郎義光が常陸介でやってくる辺りからなのだと思うが、その前に将門の乱の最初の始まりにもなった武蔵国の争いの仲裁に将門が乗り出したことが、この乱の始まりの原因の一つともいわれているおり、これが東国の源平の最初にもなっているようにも感じたので、少しそのあたりから見て行きたいと思う。

源氏系図

さて、上の系図に東国、常陸国の源氏の流れを表してみた。

1) 前に書いたが、天皇には子供がたくさんいて、天皇になれない皇子は親王になりますが、それも多くなると与えるべき職も無くなります。そのため、西暦826年に上総、常陸、上野国の3国が親王任国となり、これらの親王が形の上でこれらの国のトップである太守を2~3年で交代するようになります。そしてそれらの親王の子供たちの多くが臣籍降下して源氏や平氏の姓をもらって民間に天下ってきます。

2) 東国の源氏の流れは、この源氏の中でも、第56代清和天皇の第六皇子である「貞純(さだずみ)親王」の子孫が源氏となって発展した家系です。貞純親王も上総(かずさ)国や常陸国の太守となったようですが、当然のことながら、親王任国の太守は形ばかりであって、京の都にいて現地にはやってきません。
源氏も皇室から臣籍降下して多くの源氏姓が発生しますが、そのなかでもその後の武士社会になっていくうえで最も有名なのが、この貞純親王の息子たちから始まった源姓です。この清和天皇の皇子のうち4人および、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏となっています。

3) 貞純親王の皇子の経基(つねもと)が源氏姓賜与された後、承平8年(938年)に武蔵介として現地に赴任します。
この時に時を同じくして武蔵権守として赴任したのが将門の乱での首謀者の一人となった「興世王(おきよおう)」です。
この二人が正式な手続きを終える前に、この地方の豪族などから強引に貢物などの賄賂をよこすように命令を出し、それを拒否した在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝にたいして、経基らが兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行いました。武蔵武芝からの助けに応じた将門は仲裁するつもりで武蔵国にやってきて、経基や興世王との間で戦となりました。経基たちは将門の勢いに負けて、山に逃げ込みました。
興世王はその後、将門をおだてて仲間となり、その結果東国の国府を攻める事になってしまいました。
結果は前回書いたとおりです。

4) 一方、もう一人の(源)経基は暫く山に逃げ込んで隠れていましたが、その後隙を見て都に帰って行きました。そして将門を朝廷に訴えたのです。でも、この結果は恩赦もあり、将門は許されて下総に帰って来ました。

5) 最後は将門は朝廷からの謀反人として攻められる事になり、藤原秀郷(俵藤太)の活躍で滅んでしまいました(940年)。この源経基も将門攻略に出かけていますが、現地に来たときはすでに乱は鎮圧され、その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めました。

6) 経基の嫡男の満仲も都で貴族(武官)をしていたが、都の治安維持に活躍し武門の各国の国司などを勤めた。その後摂津国(大阪)に土着し、摂津源氏として活躍する鎮守府将軍・源頼光など摂津や京での武士集団として活躍するようになります。
この頃の都における官僚組織のトップのほとんどが、藤原氏(中臣鎌足から始まる)によって占められており、源氏の諸氏はこの藤原氏に仕える武士団として活躍していました。源頼光などが、丹波国大江山の酒呑童子退治伝説などで有名になりますが、それがどのように生まれて行ったのかは、今回は東国の源平ですので、話は又の機会にしたいと思います。

7) 上の系図にあるように攝津国に住した満仲には多くの子供がおりましたが、東国の源氏に関係するのは三男の源頼信(968-1048)です。源頼信は、兄・頼光と同じく関白の藤原道兼や道長に仕えて、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任しました。また武勇の誉れが高く、道長の四天王の一人といわれ、河内国石川郡を本拠地としたため、この源氏は「河内源氏」と呼ばれるようになります。
1028年に甲斐守であったときに、東国の房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で、将門の乱以来といわれる「平忠常(平良文の子孫)の乱」が起っていた。しかも朝廷は討伐軍を派遣するが、なかなか平定できずに3年も争いが続いていた。
そこで、この乱の平定に有力武士であったこの源頼信が起用されると忠常はあっさり降伏したのです。ここも平氏と源氏の争いと言えますが、実は平氏も源氏も都においては共に武士軍団としては同じように活躍しています。
藤原道長の四天王は、平維衡・平致頼・藤原保昌・源頼信です。
平維衡(これひら)は、将門に敵として追われた平貞盛の四男で、その後の平清盛などを輩出する伊勢平氏の祖となる人物です。
もう一人の平致頼(むねより)も国香の弟である平良兼の嫡子で、坂東平氏の流れをくむ人物です。

8) さてここからが東国の源氏の流れとなる「源頼義(よりよし)」の登場です。
源頼義は父の源頼信と共に都では武勇の誉れが特に高く、「平忠常(平良文の子孫)の乱」の鎮圧に父と共に東国にやってきます。この親子が来ると知った平忠常はたちまち降参して乱は収まってしまったといいます。

9) この武勇が伝わると、桓武平氏の直系とも自負する平直方が武勇の誉れ高い頼義を自分の婿に欲しいと願いでたのです。そして、直方は自分の所有していた鎌倉の土地を頼義に譲ったのです。ただ、頼義も源氏の嫡男ですので源氏姓を棄てることはなく、直方は娘を頼義に嫁がせました。平直方も少し複雑ですが、平貞盛の孫であり桓武平氏国香流を継いでいます。このあたりはまた次回にでも書きたいと思います。この鎌倉の土地がその後の河内源氏の活動の拠点となり鎌倉に幕府ができた要因になります。
この妻との間に、その後有名になる三人の子どもが生まれます。
元服した神社などの名前を取って、それぞれ「八幡太郎義家」「賀茂次郎義綱」「新羅三郎義光」です。

10) 頼義も武勇の誉れとしては高かったのですが、都の官位昇進の面では弟の頼清の方が早く出世し、5年ほど遅れを取り、50歳を目の前にしてようやく相模守を受領ました。

11) 永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が奥州の安倍氏に敗れ、陸奥守を更迭されると、朝廷は頼義を陸奥守とし、さらに鎮守府将軍も兼任させる命令を出します。
この時に、頼義は長男の八幡太郎義家を伴って行きます。そして、陸奥へ向かう途中に常陸国の国府(現:石岡)にも立ち寄っています。(また詳しくは後に書きたいと思います)
この奥州の安倍氏の乱を平定したのが前九年の役と呼ばれるものです。この平定には途中で戦いが中断したりしたこともあり、実際は九年以上の十二年ほどかかっていますす。大分苦労はしますが、安倍氏との争いは、同じく奥州の豪族である清原氏の協力が有り、1062年に安倍氏を滅ぼします。

12)その後、奥州では安倍氏に変わって清原氏が勢力を持ち、陸奥国の覇者をねらう清原氏がねらうようになります。
そのため、今度はこの清原氏を朝廷の命令に従わせるために、頼義の長男の八幡太郎義家源義家が陸奥守となり、奥州へやってきます。この清原氏の鎮圧平定が1083年~1087年の実質三年間であり、後三年役と呼ばれます。

13) 後三年の役では、当初義家軍は苦戦を強いられていました。そこに義家の弟、(新羅三郎)源義光が戦闘に加わりこの戦いに勝利しました。(1087年)

14) 後三年の役が終わり、都に帰った源義光(新羅三郎)は常陸介に任じられて常陸国に再びやってきます。
そして勢力を拡大していた平国香の子孫(大掾氏)から妻を迎えこの地での地位を築いていきます。
しかし、鹿島神宮領域の争いで追放となり次男の源義清(武田冠者と呼ばれる:常陸国勝田付近の武田郷に住んでいた)と共に甲斐国に移り住みます。これが甲斐武田氏の始まりといわれています。

15) しかし、武田氏となったのは義光の次男で、新羅三郎義光の長男、源義業(よしなり)がは常陸国太田の有力豪族の娘を妻に迎えます。この源義業が妻の里である(常陸)太田の地にやって来て、そこを地盤に活躍するようになったのです。
これが戦国時代に常陸国を制した佐竹氏の祖となって行きます。

(続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/03 14:51

一打ちで七匹

 5月の末の夏日。
やけに暑くて、机に向かってるのも疲れてきていた。
すると、一匹のハエが目の前に飛んできた。

今年のハエも早いな~。 などとまあのんきに・・・
まずはこの目障りなハエを追い払ってと手で追い払うが、又すぐにやってくる・・・・

今年の梅雨は何時になるのか・・・こんな晴れたり大雨となったり、シトシトと降ったり・・・・

まあ、ハエもうるさい物の代表のようなものだろう。
うるさい=五月蝿 と書くくらいだから、旧暦とはいえ5月(梅雨)のハエも昔からいなくならないものらしい。

そんなくだらないことを考えていたら、昔読んで気になっていた話を思い出した。
小学校高学年か、中学の始めのころだと思うが、誰かに図書カードのようなものをお祝いか何かで頂いたのだと思うが、新宿の紀伊国屋書店に行った。
当時は東京郊外の小さな都営の住宅にくらしていた。

確かシートン動物記だったか記憶がはっきりしないが、(文庫文)セットで全巻購入したように記憶している。
そのときに、もう少し買えたので、書店内をうろうろして1冊の子供向け童話の本を買った。

この本はタイトルも覚えておらず、たくさんの冒険もののお話が書かれていた。

その1つの話しに、「一打ちで七匹」だったか、タイトルも忘れてしまったが、ちびの仕立て屋さんが食べ物にハエがたくさんたかったのを布か何かで一打ちしたら、ハエが七匹死んでいた。

これは素晴らしい、おれ様がこんなに凄いことを皆に教えなければいけないと、帯に「一打ち七つ」と大きく書いて体に巻いて冒険の旅に出るという話しである。
そして、いろいろな力の強い相手も知恵と勇気で皆乗り越えて、最後はある国のお姫様と結婚して国王になるというものだ。

もう60年ほど前なので、この話の出所がわからなかった。
まあ団塊世代の真っ只中でうまれ、そのままこの塊が小さくなることは無く、何時になっても受験競争ばかりが目の前に広がっていた。
成績が上っただの下がっただの、今思えばもう少し違った生き方も出来たのではないか?

こんな話しに興味を持ったのも、きっと、そんな夢を見る気持を少し後押ししてくれた話だったのかもしれない。

最近はネットでの検索が容易になり、このハエを見て、この話を検索してみた。
するとたくさんのコメントや話しの紹介も出てきた。
グリム童話の一つで、あまり紹介されていなかった話だそうで、30年ほど前にテレビアニメで新グリム名作劇場? で日本にも広まったらしい。

私が最初に読んだのはもう60年も前だったから、それから数年後くらいに、もう一度読みたいと思ったことがあって本屋を捜したけれどわからなかった記憶がある。

タイトルは「勇ましいちびの仕立て屋」というのだそうだ。
今はネットでこうして見つかるので、楽はらくだが・・・・ その時にすぐに見つかっていたら、今ほど、この本への思い入れないのだろうな。

ネットは楽だし、知識はたくさん広がる。
でも私も、企業でもデジタル化を推進してきた人間の端くれだが、探し回ってもなくて・・・ でもどこか心にその捜したという記憶が残り・・・なんていうのも良いことだと思う。

先日書いた「万緑叢中 紅一点」でザクロの赤と緑の草の対比などの言葉を知ったのも家にあった「漢和辞典」であった。
漢和辞典にはこのような漢字を使う例文が満載だった。こんなのを見つけて喜んだのも、また懐かしい。

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昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/05 10:04

日米和親条約裏話(備忘録)

日米和親条約裏話

江戸時代末期に日本に訪れた黒船。江戸幕府は1639年に鎖国を開始してからは長﨑出島のみを開港しておりました。
ここでの貿易相手はポルトガル、オランダ、中国などであり、蘭学(オランダ語)が中心でした。
政府が正式にこの外国人との間で話す場合には、今でいう通訳がおりました。
公式の通訳は職業として政府により任命された者だけが許されるのですが、この職の人を通詞(つうじ)と呼びますが、この通詞は身分としても結構高く、それも親から子へ代々引き継がれたりしていたようです。
しかし、シーボルトが伊能忠敬の地図など持ち出そうとした事件などでも数名の通詞が連座となり処罰を受け、また薩摩藩の密貿易(沖合いで荷物を直接取引)などで、磔刑となった通詞もいました。

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(ペリーの神奈川上陸)

さて、この鎖国が実質的な終わりを告げるのは、嘉永7年(1854年)ペリーと交わした「神奈川条約(日米和親条約)」が締結されたこととなりますが、この交渉時にどのような様子であったのかは、日本側にはあまり残された文書が無く、交渉にあたったペリー艦隊が帰国後、ペリーの日記を編纂して『ペリー艦隊 日本遠征記』を書いて残しています。
この中で条約締結直後に、黒船(ポーハタン号)の甲板では盛大なパーティが催され、当時の様子を次のように書いています。

『日が暮れると、日本人は飲めるだけの酒をしたたか飲んで、退艦の用意にかかった。陽気な松崎(満太郎)は両手をペリー提督の首にまわし、よろよろしながら抱きしめ提督の新しい肩章を押しつぶしながら、涙ながらに日本語で「Nippon and America, all the same heart」(日米、同心、日本とアメリカ心は一つ)という意味の言葉を繰り返した』とあり、また、ペリーの日記には松崎に抱きつかれたペリーは条約に署名してくれたら「キスをしても良い」とまで言ったとある。

日本側の主席通詞は堀達之助だったようで、当時英語、ロシア語なども勉強させられていたようだが、黒船に向かって “I can speak Dutch”とだけ英語で叫び、日本側の得意とするオランダ語を土俵とする交渉に引き込んだ といわれているそうです。

通詞(つうじ)の話は歴史の文献には余りかかれることがありません。
そのため、実態がよくわかりませんでしたが、甲子夜話の一文を読んで、少し当時の様子が垣間見れ、調べた内容をここに残しておきます。


雑感 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/06 11:58

常陸国における源平合戦(7) 常陸大掾氏(多気大掾)

源平合戦(7)

さて、かなり細かくい今まで書いてきているので、わかりにくいかもしれませんね。
しかし、書き始めたのでこのままのスタイルで最後まで進めたいと思います。

さて、今回のテーマは将門の乱の後に、常陸の地(とくに南部)で勢力を持った「平氏」の話です。
一般に常陸大掾(だいじょう)氏と呼ばれる平氏です。

掾(じょう)は国司の位の一つで、すでにこの「常陸国における源平合戦」の(1)に書いています。

守、介の下の位です。また大国には大掾(だいじょう)、少掾(しょうじょう)の2名がおかれました。
常陸国は大国でしたので、大掾・少掾がおりました。

また親王任国でしたので、守は皇室の親王がなる(太守)決まりとなっていましたので、これは形だけのものでした。
また介(常陸介)も現地に来ても数年で交代します。
そのため、現地のトップとして、地方豪族などを統括する役割はこの大掾(だうじょう)が握っていました。
そして、この職をこの常陸に勢力を伸ばした平氏が世襲のようにこの職を守って離さなかったのです。

そのため、その後、姓は平(氏)ですが、大掾氏と呼ばれるのが一般的となってきました。

常陸大掾氏関係図1-1


上の系図に常陸国大掾氏として、現在のつくば市北条の多気(たき、たけ)山に城を築いて、鎌倉幕府の初期まで続いた氏族「多気大掾氏」について説明していきます。

(平)貞盛: 父の平国香は筑波山の北と西側に勢力を持っていた常陸国の大掾職を任されていた(源氏の種族と思われる)源護(みなもとのまもる)の娘を妻に迎え、この大掾の職を国香が継いでいました。
しかし、住んでいた石田(現:筑西市東石田)の館を将門に襲われ、無念の死を遂げます。この悲報を京にいて知った国香の長男の貞盛は、将門追討のため下向するが将門討伐に失敗し、また都に逃げ帰ります。その後坂東の6カ国を手に入れた将門は新皇を自ら宣言し、朝廷に対する反逆者となります。そして将門の追討命令が出されます。都で時をうかがっていた貞盛に、将門軍が多くの勢力を休ませて手薄な時を狙って、大群を率いて将門追討に出ます。
また、これに下野押領使藤原秀郷(ひでさと)が味方したために、将門は400人ほどの兵で、この貞盛・秀郷の連合軍約4000人と合戦となり、将門はついに馬上で矢を受けて倒れたのです。
この将門追討の功績で、(平)貞盛は、従五位上に任じられ常陸に多くの所領を得ることになります。
その後、鎮守府将軍や陸奥守などを歴任し、従四位下に叙せられ「平将軍」と呼ばれるほど出世します。
ただ、貞盛には繁盛(しげもり)という弟がおり、兄の貞盛と共に将門追討軍に参戦したのですが、こちらに対する論功行賞はなかったようです。
これに不満を持ったようですが、この常陸国の大掾職はこの繁盛が継いだようです。住んでいたのは将門追討の時の貞盛側の拠点であった水守(みもり;:現つくば市水守・・・後の小田氏の拠点となった小田城の北西側)であろうと考えられます。
記録として残っているのは繁盛が大般若経600巻を書写して、寛和2年(986年)に比叡山延暦寺へ奉納したことくらいでしょうか。この計画も当初、武蔵国の平忠頼・忠光らの妨害で、成し遂げることが出来ず、争いも起こりますが、これは各国の国衙を経由して奉納するという条件で比叡山への奉納を成し遂げることができたようです。600巻を書き写すのにどれくらいの年月がかかったかはわかりませんが、将門の死後46年後に成し遂げるのですから、この間の多くの時間をこの書き写しに費やしていたように思います。
さて、都で成功した兄の貞盛は実子の他に多くの養子を迎え、各地の役務につかせていたようです。
やはり常陸国の大掾職は貞盛にとっても欲しい職だったのかもしれません。この弟・繁盛の子の「維幹」を自分の養子にします。

維幹(維基)(コレモト):貞盛の弟の繁盛の子であり、貞盛の養子となって常陸大掾職につきます。
それ以来この常陸大掾職がほぼこの一族で世襲されて(実際はかならずしも世襲されず、これが世襲されたとまでは言えないとする考え方もあります)、名前に「幹(もと)」という漢字を入れた平氏がここに始まります。
そのため、国香などから大掾職が始まったというよりは、大掾氏の実質的な祖はこの「平維幹」と言ってもよいと思います。
最初は、筑波郡水守(みもり)(当時の記録には水漏と記載あり)に住み、990年頃に近くの多気(つくば市北条近く)に移ります。
記録としては、「宇治拾遺物語」に、
・維幹が京都に訴訟で上ったとき、高階成順の娘を見初め、妻にして常陸に帰った。
・二女をもうけたが、やがて歳月を経て妻は死んだ。
・その後維幹の妻の妹が夫の常陸介にしたがって常陸にやってきた。
・まもなく任期が終わって都に帰るとき、維幹は二女を遣わして餞別を贈らせた。
・二人の娘はそれぞれ逸物の良馬10疋ずつと、皮子(籠)を負った馬100疋ずつをおくったので、常陸介は維幹の娘たちの富裕におどろいた、
という話が記されています。(石岡市史より)

為幹(タメモト):常陸大掾。
・寛仁4年(1020年)ころ、維幹・為幹父子の勢力は強大で、常陸介を圧倒するほどであった。
・当時、為幹は父と同じく従五位下に叙されており、富力と権力をもって粗暴な振る舞いが多かった。
・寛仁4年7月。紫式部の弟の常陸介藤原惟通(これみち)は常陸国府で死んだ。この時、為幹が惟通の妻子を奪い取り、強姦するという事件がおこった。
・惟通の母が朝廷に訴えたが、為幹は権力に任せて病気を理由に出頭しなかった。
・日々莫大な献物を貴族達に贈っていたことが分かっている。
・結果としては為幹は1年間京都に留められ、1021年に罪を許されている。

繁幹(重幹):上総介。
・源義家(八幡太郎)の弟の新羅三郎義光が常陸介在任中に繁幹(重幹)と婚姻関係を結んでいる。
・嫡男の義業に繁幹(重幹)の子清幹の娘をめとらせ、生まれた昌義が佐竹氏の祖となった。
・1106年(嘉承元)源義国と佐竹氏側で合戦した。

致幹(ムネモト):多気権守。
・東城寺の裏山から発見された経筒には1122年と1124年 平朝臣致幹 銘の経筒が発見されている。
・後三年の役に参加。
・致幹の兄弟は、水戸および結城・真壁方面に進出した。清幹は吉田次郎といい、その3子は吉田太郎盛幹・行方次郎忠幹・鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田・行方・鹿島氏の祖となった。
・「奥州後三年記」には、源頼家が安倍貞任を討つために陸奥国に下ったとき、多気権守宗基(致幹)の娘と旅の仮屋で逢い女子を生んだ。その子が美女で清原真衡(さねひら)は、この女を迎えて養子の成衡の妻にしたと記されている。

直幹:常陸大掾。
直幹の四男長幹は真壁に築城して真壁氏となった。

義幹:常陸大掾。
・1193年大掾職の座を狙っていた守護の八田(小田)知家が策謀を巡らし、源頼朝へ曽我兄弟の仇討ち事件の混乱につけ入り、「義幹謀叛の噂あり」と讒言をした。八田知家は藤原北家宇都宮氏の直系で、当時この北条近くの小田に城を構え、小田氏と称されていた。
・義幹は鎌倉に呼び出され、大掾職を解かれ、領地没収となり失脚し、多気氏は滅びた。
・次男茂幹は芹沢氏(新撰組の芹沢鴨はこの一族)となり、常陸国に戻ってきた。

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(北条の町に残されている多気太郎:平義幹の墓:五輪塔)

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(小田氏は、この写真の北条の町中に残された灌漑用の水路の整備を、鎌倉幕府に謀反の証拠として換言したといわれる)

この鎌倉幕府(頼朝)によって領地没収となった多気氏がその後どうなったかについては以前書いた下記の記事にあります。

手奪橋(5) ⇒ こちら

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/06 16:26

常陸国における源平合戦(8) 吉田(馬場)大掾氏

源平合戦8

常陸国の源平合戦(8)になります。
前回、常陸国南部に勢力を持った桓武平氏の直系である「多気大掾氏」を紹介しました。
しかし、この大掾(だいじょう)氏が当時どのように呼ばれていたのかは不明で、大掾職(官職)が必ずしも世襲とはなっていなかったとも言われ、正式に大掾氏と呼ぶのにはふさわしくないという話もあります。

ただ、ここからこの常陸国の平氏が始まりますので、ここは多気大掾氏と呼んでおきましょう。

また、奈良朝のはじめから、常陸国の国衙(政務を行う中心)は現在の石岡市にずっとありました。
このため、この多気大掾が大掾職を履行するためには、石岡の政庁に行く必要があります。
しかし、この頃の記録にあまり大掾氏の印が押されておらず、主にこの石岡地方に居を構えていた「税所(さいしょ)氏」の印が押されていたようです。

この常陸国の大掾氏がどの程度政務などを行っていたのかについてもあまり記録がありません。

税所(さいしょ)という名前は、常陸国全般の税をとり纏める役職から、このような名前で呼ばれるようになったもので、元々は百済(くだら)氏と呼ばれていました。大和朝廷が、百済から亡命してきた百済王国の人を常陸国にも何人か送り込んでいますので、そのうちの一人だと思われます。

さて、1193年に鎌倉に呼び出されて、所領を没収され、この多気(北条)の地を追われて、この平氏の流れはいったん途絶えるのですが、鎌倉幕府(よりとも)は、この大掾職とその没収した多気氏の所領を、換言をした小田氏(八田氏)に与えず、当時水戸近郊の吉田郡にいた多気大掾氏の親戚に当る吉田氏に任せる事にしました。
(多気大掾:平繁幹の次男の清幹が、水戸明神のあった現水戸一校野球場付近に館を構えた。この地が吉田神社の一部であったため、この館を吉田館とよび、この一族(平氏)は吉田氏と呼ばれた。但し、正式な氏は平(たいら)である。)

頼朝は平家との戦の前に、常陸太田にいた佐竹氏の勢力を押さえ込んでから、戦いに入っており、まだこの常陸北部に勢力を持っていた佐竹氏を封じ込めるためにも、この水戸での足場を固めておきたかったのかもしれません。

常陸大掾氏関係図2

資幹(助幹)(すけもと) :
1193年八田(小田)氏の讒言で失脚となった多気氏に代わって同族の吉田氏の資幹が源頼朝より大掾職に任ぜられた。
・本拠を水戸明神の馬場に移して水戸城を構築した(築城年ははっきりしていないが建久年間(1190年-1198年)といわれる。また今の城よりは大分小さな城だったと思われる)。
・水戸明神の馬場であったことにより馬場小次郎資幹と称し、これより馬場氏と名乗った。
・1214年鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えた。
 どうもこれ以降に国府の政務も行うようになったのかもしれない。
・この時現在の石岡市田島の台地に外城(石岡城ともいわれるが、当時の呼び名ははっきりしない)が築かれたという。

朝幹(あさとも) :
・この朝幹の代に、知家の子で、実質的な初代小田氏の小田知重が大掾職を望み、鎌倉幕府の常陸守護の立場を利用し、鎌倉幕府に働きかけ、大掾職が一時停止となった。
・しかし大掾職はまた馬場氏に戻されたが、鎌倉期以来の常陸守護の系譜を引く小田氏との対立、抗争がその後も続く事になった。

教幹(のりもと) : 

光幹(みつもと) :
 
時幹(ときもと) :
 
盛幹(もりもと):
・1333年鎌倉幕府滅亡し、南北朝時代となり、盛幹は1335年中先代(なかせんだい)の乱では北条時行についたが、その後室町幕府を開く足利尊氏に謝罪のため、多気種幹の遺子竜太を人質として差し出す。

高幹(たかもと):
・時幹の子で盛幹の弟とみられる。
・北条時行側についた高幹は、中先代(なかせんだい)の乱を平定するために東下した足利尊氏の軍と合戦におよんだ。
・この戦いに大敗して北条時行軍は潰滅、鎌倉に入った尊氏に高幹は降伏した。
・その後、尊氏は後醍醐天皇の召還命令を無視して鎌倉に居すわったため、天皇は尊氏謀叛として新田義貞を大将とする討伐軍を発した。ここで楠木正成の弟正家が常陸国瓜連城に入ると、高幹は小田・那珂氏とともにこれに加担した。
・しかし瓜連城は落城し、北朝方の高師冬の軍事拠点となった。この瓜連城落城を契機に南朝方那珂氏は滅亡に瀕し、終始尊氏方として活躍した佐竹氏の常陸北部支配が決定的なものとなった。
・佐竹氏らの武家方に府中を攻められるも、小田治久の助けを得て国府原で佐竹軍と激突、佐竹勢を打ち破った。
・しかし小田氏との永年の確執は変わらず、高幹は1338年に武家方(北朝)に転向し、小田氏・志筑氏を攻めることとなった。
・以後、府中一帯は北朝勢力の一拠点として、内乱期を通じて比較的穏やかな日々が続いた。
・1341年小田城の攻撃に際して、大掾高幹は志筑城攻めを命じられている。
・大掾職を嫡男文幹(詮国)に譲った高幹は、剃髪すると浄永と号して水戸に隠居した。

詮国(あきくに、文幹:ふみもと):
・文幹(ふみもと)は足利将軍義詮に従い功をたて、詮の一字を賜り詮国(あきくに)と改めた。
・正平年中(1346~51)に府中城を築き兵勢を盛んにして争乱に備えた。
・それまでの居城である田島の城も外城(とじょう)として残した。
・北朝方に属した大掾高幹・詮国父子の時代に大掾氏は勢力を拡大し、この大掾氏の存在は、南朝方の小田・白河結城氏らの行動を牽制し、同氏の政治的地位の向上や府中の非戦場化を実現した。
・高幹・詮国・満幹の名は足利将軍からの一字拝領と思われ、足利氏との強固な関係を築いていたことがうかがわれる。

満幹(みつもと):
・1416年に上杉禅秀の乱(室町(足利)幕府に対しておこした反乱)で上杉方につくが、敗れた
・水戸城(馬場城)周辺の所領を没収され、足利幕府は水戸城も含め、大掾氏の水戸の所領は江戸道房に与えられた。
・しかし満幹は水戸城の明け渡しを拒否し、占拠を続けた。
・1426年に府中(石岡)で行われた「青屋祭」を執行するため、一族をあげて府中に赴き、水戸城を離れた。
・これを好機とした江戸通房が大掾氏の居館である水戸館を奪取した。(江戸氏はそれまで仲間のような振る舞いで大掾氏と接していたようだ。留守を江戸氏に任せて出かけたものと思われる。)
・1429年12月に満幹父子は鎌倉に呼び出され、鎌倉公方持氏の命により殺害された。

清幹(きよもと):
・満幹父子が殺され、満幹の弟秀幹のそ孫清幹(満幹の孫との説もある)が大掾氏を継承した。

高幹(たかもと): 法名亀山

常幹(つねもと): 法名涼峯浄清

慶幹(のりもと):
・水戸地方を拠点とした江戸氏は盛んに勢力を南に拡大してきており、これに対して大掾氏は小田・真壁・笠間の諸氏ととも江戸氏と対立した。
・1546年、行方四頭のひとり同族の小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、慶幹は長者原において小田氏を撃退し、さらに進んで小高城を奪取した。

貞国(さだくに):
・1551年慶幹が没し、子の貞国が大掾氏を継いだ。
・この頃には大掾氏、小田氏、江戸氏の三つ巴の対立が激化し、特に小田氏の勢力が強まった。
・1563年貞国は三村合戦で小田氏治に破れた。
・その後佐竹氏と連携し小田氏攻略に備えたが、大掾氏は小川の園部氏と確執を起こし争った。
・しかし、その園部氏(小川)を江戸氏と佐竹氏が園部氏(小川)を支援したため、小田氏への守りとして築城した三村城も城主の弟常春は小田氏に攻められ1573年に落城し、25歳の短い運命を閉じた。
・一方、小田氏も佐竹方に攻められ1574年に土浦城が陥落した。
・この時、大掾氏は東に園部、北に江戸・佐竹、南に小田に囲まれてしまった。
・1577年に貞国は戦死した。

清幹(浄幹)(きよもと):
・貞国の死後5歳の清幹が家督を継いだ。
・後北条氏の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は上杉謙信と結び、佐竹氏らと協力して反北条活動をとる。
・しかし、その間も江戸重通は大掾氏を攻め続け、当初中立の立場をとっていた佐竹氏も江戸重通に協力する。
・清幹は府中城の詰め城を殆ど落とされ、大掾氏惣領家の滅亡は時間の問題となった。
 これに対抗するため清幹は後北条氏と結んだと思われる。
・天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原の役が発生する。
・清幹をはじめとする大掾氏一族は後北条氏側に立ち、参陣をしなかった。
・結果、常陸は参陣をした佐竹義重に与えられた。
・佐竹義重は水戸城を攻めて江戸重通を追い出し、その勢いで府中城も攻め立てた。
・激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自害した。
 この時清幹は18歳であった。 これにより大掾本宗家は滅亡した。

次いで翌年2月、佐竹義重は三十三館主と呼ばれた鹿島・行方郡の大掾氏枝族を太田城に招き皆殺しにしたと伝えられている。ただ三十三館という数は、常陸国の水戸より南に勢力を誇っていた平氏一族の総称で、正確な館の数ではない。
また鹿島、行方郡に軍を進め、大掾氏一族の殆どは滅亡した。(別途記載)

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(府中城跡に残された土塁)

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(外城跡:掛札神社)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/07 16:29

潮来のあやめ祭り(1)

 昨日、銚子へ行く途中に潮来のあやめ祭りへ立ち寄りました。

昨年は祭りが中止、今年も祭りは中止とはなっていないようですが、カクシュノイベントが全て中止になっています。
名物の嫁入り舟、アヤメ娘をお目当てに訪れる人もおおいのでしょうが、音楽もかけていないようで、前川アヤメ園も静かに数組の観光客がいるだけで、混み合う事も無く静かな雰囲気でした。

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例年ですと今頃があやめのきれいな時ですが、今年はどこか寂しげでした。

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朝比較的早い時間でしたので、まだそれほど暑さも感じませんでしたが、ここ2日は30度超えでは花も驚いたのかもしれません。
今までは毎日作業の方が、咲き終わった花を手で取って、全体が色鮮やかに咲く様に手入れをされていますが、その人達の姿も見えませんでした。

花も順番に咲くようにしていたので、期間中いつもきれいだったと記憶しているのですが・・・・。

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5月の末にも車で上から見ていたのですが、咲いてしまったというよりは今年の開花が少し狂ってしまっているのでしょう。
花も「咲け」といわれても、首を出したら、大雨だったり、日差しが強かったり、戸惑いますよね。

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霞ヶ浦の北浦と潮来の常陸利根川を結ぶ前川沿いにはたくさんの河岸があったようです。
仙台あたりからの荷物もこの川沿いにあった倉庫に荷揚げして、ここから別の船で江戸まで運ばれていたのです。
ただ、江戸時代半ば過ぎは外洋(太平洋)を少し大きな船で銚子まで運んだようです。

朝10時頃からこの前川でも櫓漕ぎの舟が少し川をさかのぼってもどってくるという観光舟の営業はしていました。
最近は女船頭さんも少ないし、櫓こぎでないエンジン式のざっぱ舟も走っています。

加藤洲の水路周りの船(十二橋めぐり)は常陸利根川の岸辺から出ます。
こちらも今年はお客さんも少ないでしょうね。

来年には盛大に祭りがやれたらいいですね。

潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/10 10:08

潮来のあやめ祭り(2) 吊るし雛と長勝寺

 前川アヤメ園のあたりには昔「大門河岸(だいもんがし)」という船着場があったようで、この前川でも少し深い場所で、大きめの船がとめられたようです。

そのため、ここから北にある古刹「長勝寺」との間に、寺の参道を含め、細長い道があります。

この通りに面している一般家庭やお店の玄関先、店先にこの祭りのあいだに、色鮮やかなつるし雛が飾られています。
数年前から何度も訪れていますが、いつも目を見張って眺めています。
こうして街を盛り立てようと地域の方ががんばっているのだと思います。

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これも年々大きくなっていっているようです。
玄関先に少しずつあったものが、このように盛大にもなってきていました。
人形は源頼朝か何かを模しているのでしょうか。
むかし、頼朝は伊豆から千葉の房総に逃げてきたときに、戦勝を祈願して鹿島神宮にも参拝したとされ、その時祈願文を墨で書いて奉納したといわれますが、残っているのでしょうか?
そのときの硯を奉納したといわれるのが、潮来の辻にある硯宮(すずりのみや)神社です。ここは昔は今宮八幡社といわれていたそうです。
長勝寺も頼朝ゆかりですね。

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この路地沿いにある魚屋さんですが、店の前に青いポリバケツにいつも水を流しています。
この店先にも飾られていました。
でも前にはこの勢いよく流れる水に気持よさそうに大きな亀が泳いでいたのですが、もういなくなったようです。

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一般家庭の玄関先にこうして飾られています。
雨のときに訪れても目を和ませてくれるのが嬉しいです。

さて、長勝寺では、このあやめ祭りの期間に合わせて、鎌倉時代制作の阿弥陀三尊像(寄木造り)が公開されています。

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これらの仏像の詳細については3年前に記事を書いています。
詳しくは ⇒ こちら(2018年6月)

またこの時期にこのお寺を訪れる目的の一つに、本堂前にある2本の大きな菩提樹の花です。
1ヶ月前くらいに来た時は、まだ殆んど咲いていませんでしたが、昨日は結構きれいに咲いていましたよ。

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可憐な花ですよね。マスクをしていてもやはり花の香りを感じます。

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山門脇の紫陽花もまだきれいに咲いていました。

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本堂は大風で被害を受けた屋根の修理と、左右の扉などの修理が完成したみたいです。

台風後すぐ訪れた時は、周り(潮来~銚子近辺)は信号機も点かず、停電のままで、かなり被害が大きかったようでした。



潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/10 12:42

天王崎の夕景

 行方市麻生にある天王崎は霞ケ浦に飛び出した岬になっている。
ここの夕日は美しい。

昨日の帰りに夕日が沈む前に通ったので、夕日を眺めに行った。
いつもであれば、銚子で仕事すると帰りには陽が沈んだ後になってしまうのだが、今回は早く終わったのと、今は夏至に近いので陽が沈む時刻が遅いので、間に合った。

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ちょうど夕日が傾き、太陽の道が霞ケ浦にはできていた。

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しかし誰もいない。
すぐ近くにある日帰り温泉施設「白帆の湯」が水曜日がお休みというのもあるかもしれない。
一人で夕日を眺めてきた。

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天王崎という名前は、ここに牛頭天王社があったためだと思うが、今は神社になって名前は変わっている。
常陸国風土記ではここから筑波のほうを眺めて新治の里が見えるので「新治の洲」と名付けたと書かれているところだろう。。

「「郡家より南へ二十里のところに、香澄(かすみ)の里がある。
古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(い なみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、ゆっくり歩きながら国を望み、東を振り向いて「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるやうにこの国は見えることだ」と侍臣におっしゃった。この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶやうになった。
・・・・・・
里より西の海にある洲は、新治の洲といふ。洲の上に立って北を遥かに望めば、新治の国の小筑波(を つくは)の山が見えることから、名付けられた。」

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ここから筑波山もよく見えるのだが、夕方暗くなって見えなかった。

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ここには砂浜が広がるが、ここも人工的に砂を入れて、昔を復元しようとしている。
昔は海水浴場がこの辺りにあり、海に滑り込む滑り台もあったという。
昭和半ばまで結構にぎわったらしい。

それでも最近はこのように浜が整備され、遊泳はまだ禁止されているが、夏場は色とりどりのパラソルや簡易テントなどが並ぶ。

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白帆の湯という温泉施設は最上階に温泉があり、湯につかりながらこの景色が楽しめる。
夕方5時過ぎれば入館料も安く(500円くらいに)なる。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/10 19:53
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