FC2ブログ

西金砂神社の木鼻

 毎日暑い日が続いています。
オリンピックは早く終ってくれないかと思っているのですが、これを言うと必ず家内から反対がきます。
我が家は何とか2人とも7月中にワクチン接種を2回とも終え、少し安堵しています。
でも思い道理には外出も控えています。

しかし、ブログの更新も結構間隔があいてしまい、少しずつ又記事をUPしていきたいと思います。

今回は、茨城県北部の佐竹氏の本拠地であった場所を訪ねた時立ち寄った「西金砂神社」に面白いものがありましたので紹介します。
西金砂(にしかなさ)神社は山のかなり深い場所にあり、今迄行く機会はありませんでした。
しかし、佐竹氏が危機に成るたびに3度にわたって立て籠もった金砂山にある神社で、かなり古い歴史を持ちます。

確かに結構険しい山の上に本殿があり、その少し下に拝殿などがあります。
道も常陸太田側からは車でも行きやすく、山方側からは道が狭くなっていて車のすれ違いも危ない山道が続きます。

この神社は下の東金砂神社との間でみこしなどの渡御を行う大祭礼が73年に1度行われて来ました。
前回は平成15年に17回目の大祭礼が行われました。
また7年ごとに小祭礼も実施されています。

今回紹介するのは神社の拝殿床下に並べられていたたくさんの獅子像です。
これは木造で、神社の木鼻として飾りに作られたもののようです。

恐らく今までの拝殿の改築の時に昔のものを残されたものだと思います。
かなり大きくて立派なものです。
ただ、木鼻を製作する習慣は鎌倉時代以降のようです。

P7170338s.jpg

拝殿の床下にずらりと並べられた木鼻の獅子像はかなり迫力がありました。

P7170330s.jpg

拝殿の全景です。
下の駐車場からは急な苔むした石段を100段ほど登ります。

P7170331s.jpg

拝殿の床下に9体くらい獅子像がこちらをうかがうように並んでいました。
全て木造の獅子像です。

P7170337s.jpg

三猿の像もおかれていました。
かなり可愛いですね。



常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/03 13:02

今年もくずバーアイスを頂きました。

 先週土曜日は定例の「ふるさと風の会」の会合日。
昨年知った、地元高浜の高砂屋菓子店さんの冷たい「くずバー アイス」を頂ました。

くず粉を使ったアイスバーですが、いろいろな実際の果物の果実などが入っています。

みんなで食べてしまい、1つ残ったものを写真に・・・・

P8030438.jpg

残り物に福がある。 このみかん味もとても美味しかったです。

ありがとうございました。

昨年も頂いたのです・・・・・
前回記事は ⇒ こちら

特産品他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/04 10:49

筑波山が燃えていた

 8月5日(水) 銚子からの帰り道、もう日が沈むころだと思いながら、夕日の傾くのを追いかけながら、家路に急いだ。

天王崎を過ぎ、余り夕日も今日は輝いていないかと立ち寄るのはやめて、霞ヶ浦湖岸沿いの国道355号線を西に向かっていた。

すると、前方が赤く輝き始めた。

日が沈んだ後もしばらくの間空が赤く焼けることが良くある。

急いでかすみがうら湖岸沿いの狭い道に出てみた。
もうあたりは大分暗い。
それに道も結構狭い。

P8050448s2.jpg

西の空一面が赤くなって、筑波山がその中で燃えているように感じた。

P8050448s.jpg

僅かな数分のことかもしれない。
こんな景色が見られるのもいいもんだ。
この湖沿いに住んでおられる人は、見慣れた景色なのだろう。


霞ケ浦の自然 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/06 17:53

蓮田にて

毎日雨が降り続いています。
こちらは梅雨時くらいの感じですが、豪雨となって被害の出ているところもあるようです。
心が痛みます。

茨城県もコロナの蔓延防止が始まったと思ったら、今度は緊急事態宣言だそうです。
来月12日までになれば、ふるさと風の会の活動もどうしたらいいのか悩みます。

毎月無料で配布している会報も公民館や図書館などが閉鎖されれば、配るところがなくなってしまいます。
8月号も9月1日になって、それらの機関には配布する予定でしたが、これも延期ですね。
9月号の作成(9/4予定)はどうしたらよいのか・・・・

来年春にオープンする八郷地区の図書館にふるさと風の作品(書籍)を置いていただける事になり、7月からしばらくの間、全部で200冊くらいの本の制作などを行っていました。

それが、やっと完成し、本日搬入しました。
何とか、コロナの緊急事態宣言前に一段落です。

地元の中学校などから、ふるさと学習に良い参考図書などはないかなどと書店に問い合わせもあるようです。
私も少し子供向けに何か書いて残せるものが作れないかをこれから模索していきたいと思います。

子供達には、事実を事実として認識し、しっかり自分の故郷を自慢できるようになっていただきたいと思っています。

ここ石岡にはふるさととして自慢して良いことがたくさんあります。

でも私もまだ別に、やりたい事がまだまだたくさんあります。
どうなることでしょうか?

先日息子夫婦が孫娘を連れて、こちらに立ち寄る予定でしたが、こちらが夫婦共に結構忙しくしていたこともあり、このコロナ渦で少し遠慮してもらいました。
この年末にはコロナモ収束していることを心より願っています。

霞ヶ浦周辺は蓮の一大生産地です。
蓮の可憐な花が心を癒してくれていますが、そろそろお終いですね。

P8050440s.jpg

蓮の花は、ここから何かが生まれ出てきそうな感じがします。

P8050439s.jpg

行方市の道路わきの蓮田にて(8月5日撮影)




近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/17 14:46

常陸国における源平合戦(12) 奥七郡(佐竹氏の根拠地)

源平合戦(12)

常陸国における源平合戦として記事を書き始め、前回11回目を書いたのが6月20日。
あれから2ヶ月も経ってしまいました。
少しずつでも書いていきたいと思っていたのですが、まとまらなくなってしまい、調査にも出かける余裕もなくなっていました。
また、コロナで出歩くのも躊躇せざるを得ない状況ですが、今年中に纏める目標として残りも少しずつUPしていきたいと思います。
(前回までの記事は ⇒ こちら から)

今回は戦国時代に常陸国を制した佐竹氏(源氏)がよりどころとした領地は「常陸国奥七郡」と呼ばれる地域だといわれています。
この奥七郡という言い方はあまり南部のほうでは呼ばない名称だと思い、今回調べてみました。

奥七郡

奈良時代からの律令制で決められた国家では、常陸国風土記に記載されているものとしては、常陸国には11の郡が置かれました。
その北部の地域は那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の3つの郡に分かれていました。
この3つの郡をそこを流れる川の東西で分割して、多珂、佐都東、佐都西、久慈東、久慈西、那珂東、那珂西の7郡に分け、奥七郡と呼んでいるようです。

日立市に注ぐ宮田川(昔は助川:スケは鮭のことで鮭がとれる川の意 )の北側が多珂郡、常陸太田市を流れる里(佐都)川の東西で佐都東郡と佐都西郡。また久慈川の東西で久慈東郡と久慈西郡、また佐都郡と久慈郡の境には山田川が流れています。
那珂川の東西で那珂東郡と那珂西郡です。

この地域は訪れてみれば分りますが、これらの川の領域に沿って道路、住居、田畑がありますが、その間は険しい山並みが続いています。
そのため、この地域には大きな平野は存在していません。

この地図で北西部の大子町周辺は白色となっており、依上保(よりかみのほ)となっていますが、ここは昔は常陸国ではなく陸奥国白河郡でした。
そこを白河結城氏が領していましたが、永正七年(1510年)に佐竹義舜が結城氏を追い出して、佐竹氏が支配するようになりました。
さらに太閤検地(1595年)により、この地が佐竹氏の領地として認められ、陸奥国から常陸国になりました。
(江戸時代になり佐竹氏が秋田へ移ってからは水戸藩の領地となりました)

この常陸国の源平合戦の10回と、11回で代々佐竹氏の系図を書いていますが、ここに改めて、また示しておきたいと思います。

常陸佐竹氏関係図1
常陸佐竹氏関係図2

前回(10回、11回)に佐竹氏歴代の当主の流れや歴史を紐解いてきましたが、大きな流れだけを少しもう一度振り返って見たいと思います。

1) 佐竹氏は後三年の役で、八幡太郎義家の援護に後から自分の官職をなげうって参戦した新羅三郎こと源義光が常陸介としてやって来て、桓武平氏がこの地の豪族となって南部を中心に勢力を拡大していた中で、水戸近郊に進出していた平氏一族の吉田氏(馬場城主吉田清幹)の娘を息子(義業:よしなり)の嫁にして、血縁関係を深め、常陸国での勢力を拡大していきます。

2) 義業の息子・昌義(まさよし)が在京平氏の平快幹の娘を妻(先妻)に迎え、また奥州藤原氏の清衡の娘を後妻に迎えて、常陸南部の吉田氏(平氏)と奥州藤原氏の力を背景に常陸国北部の奥七郡へ勢力を拡大していきました。1133年に常陸太田市天神林にあった馬坂城を藤原秀郷流の天神林正恒から奪い馬坂城の城主となります。その後、昌義は久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に住み、佐竹氏と称しました。

3) 2代佐竹隆義(たかよし)の代に藤原秀郷の流れをくむ小野崎通長を服属させ小野崎氏の居城だった(常陸)太田城(現在大田小学校がある)に入り、その後の佐竹氏の主城となり、周りの豪族たちを味方にしていきます。

4) 源頼朝が治承4年(1180年)10月、富士川の戦いに勝利した後、上総広常らの進言により、都の平氏を討つまえに後ろの憂いを除くため、常陸国北部に勢力を張ってきたこの佐竹氏排除に常陸国国府(石岡)にやってきます。そこで上総広常は、縁者である佐竹家の嫡男・佐竹義政と弟(三男)秀義へ頼朝に忠誠の挨拶に来るように使いをだし、この誘いに応じた兄の義政は国府に向かう途中の大矢橋上で上総広常に切り殺されてしまいます(大矢橋事件)。この時、弟の佐竹秀義は、太田城を棄てて北部の山城である金砂城に立て籠もりました。(金砂城への立て籠もり:1回目)
頼朝軍の金砂城へ総攻撃に対し、ここの地形が険しい山城であり、すぐに落とすことが出来なかったが、秀義の叔父の佐竹義季に城を攻撃させ、佐竹秀義はさらに北部の花園城へと逃亡しました。その後、領地であった太田城などは放棄し、金砂城、花園城、武生城などの要害堅固な山城に立て籠もりを続けました。

5) 源平合戦で源氏が勝利した後、頼朝は奥州藤原氏に逃げ込んだ弟の源義経を攻めた。この時に佐竹氏は頼朝軍に加勢して、頼朝から罪を許されて家臣となり、その後、鎌倉御家人の一人に列せられ、鎌倉時代後半には常陸の守護職を担うようにもなります。また、この鎌倉時代には常陸北部の領地が守られ、さらにいわき市方面や、常陸国北部に多くの子孫が勢力を伸ばしていきました。

6) 南北朝時代になると、常陸国の南朝方武士団の中心がつくばの小田氏(八田氏)であり、北朝方の中心が佐竹氏であった。1336年に南朝方の拠点として楠木正家によって瓜連(うりづら)城が築かれると、佐竹貞義氏はこの(久慈郡)瓜連城を攻撃しました。しかし、貞義は敗北し、子の義冬がここで討ち死にします。また平城の太田城を捨てて、金砂城へ籠もりました。(金砂城への立て籠もり:2回目)
この金砂城を南朝側の那珂通辰が攻撃しますが、逆に佐竹軍の反撃にあい、瓜連城に退く途中に退路を断たれ那珂氏一族は討たれ、子の佐竹義篤が武生(たきゅう)城から迂回して瓜連城を急襲し瓜連城は落城しました。その後南朝勢力が立て籠もった難台山の攻防で北朝側が勝利して佐竹氏は安泰となりますが、難台山の戦いで佐竹家臣の江戸通高(佐竹義篤の娘を妻としていた)が討死しましたが、この戦いの褒賞として子の江戸通景は鎌倉公方氏満から河和田・鯉淵・赤尾関などが与えられ、江戸郷から河和田へ本拠を移し、その後の江戸氏発展の拠点となりました。

7) その後佐竹家は義盛(よしもり)が家督を継いだが、男系の子供に恵まれず、若くして入道となり、佐竹氏の跡目を関東管領上杉憲定の次男・義憲(よしのり)(後に義人と改名)を婿養子として迎えた。しかし、これに佐竹氏家系の山入家の佐竹与義らが反対し、その後100年ほど続いく佐竹家の内乱に発展した。13代 佐竹義俊(よしとし)は1437年に父義人から家督を譲られたが、実権は父の義人まだが握っており、父は弟の実定を可愛がり、1452年に弟の実定と組んだ江戸通房と山入祐義によって佐竹義俊は太田城から追放され、外叔父にあたる大山因幡入道常金を頼って大山城(城里町旧桂村)にいたが、1467年に太田城に返り咲いた。しかし、内紛により弱体化した佐竹氏の常陸奥七郡の領地は北部の岩城氏などにより次々と奪われた。また伊達氏、蘆名氏(会津)、白河結城氏が佐竹氏領に侵攻した。

8) この100年近く続いた佐竹氏の内乱に終止符をうち、失地の一部を回復させ、戦国時代の支配体制を確立したのは、15代佐竹義舜(よしきよ)である。しかし、義舜も本家に反抗的であった佐竹山入家の佐竹義藤・佐竹氏義父子や長倉氏、天神林氏、宇留野氏らが手を組んで、太田城が襲われたときには、太田城を捨て、母の実家の大山氏を頼り、孫根城に逃げ込んだ。山入家を継いだ氏義が1500年に大山城の義舜を攻撃したため、義舜はまた、金砂山城に逃げ込んだ。(金砂城への立て籠もり:3回目)
1502年に山入家の氏義に金砂城が攻められ、義舜は自害寸前まで追い詰められた。 しかし、何とか逃れた義舜は1504年に常陸太田城を奪回することに成功し、反逆していた山入家一族は滅ぼされた。(内紛の終焉)

9) その後常陸北部を掌握した佐竹氏は、戦国大名としてその地位を守り、広げていった。18代 佐竹義重(よししげ)により戦国時代の常陸国を統一がなされ、佐竹氏の全盛期が築き上げられた。

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/19 12:05

常陸国における源平合戦(13) 金砂山城

源平合戦(13)

戦国時代に常陸国を制した佐竹氏(源氏)も12世紀始め頃より戦国末期に水戸城へ移るまでの約500年間を、常陸太田の城を中心として活躍しました。
しかし平城であった常陸太田城は攻撃を受け易く守るには不向きでした。
このため次の3回にわたり、この城を棄て、北部の金砂山(かなさやま)に逃げ込み、その都度助かっています。
この難攻不落と言われた金砂山城がなければ常陸国の歴史も変っていたかもしれません。

1回目: 1180年、京都の平氏討伐に向かう前に、後塵の憂いを絶つとして、源頼朝軍は常陸国北部に勢力を持っていたこの佐竹氏を攻撃しました。当主は京にいて留守で、長男、三男の2人の兄弟でが常陸太田の城を守っていました。
兄義政は源頼朝、上総介広常の誘いに応じて国府へ向かう途中切り殺され、弟秀義は金砂山に逃げ込みました。
  そして金砂山城から花園城、武生城などの要害堅固な山城に立て籠もりを続け、生き延びたのです。
  
2回目: 1336年、南北朝時代に南朝派の拠点である瓜連(うりづら)城との戦いに敗北して再び、太田城から金砂山城へ立て籠もりました。このときはその後瓜連城を攻略して返り咲きました。

3回目: 1492年、佐竹家継続に上杉家からの養子を立てたことによる佐竹氏内部のお家騒動により、佐竹派の山入家より攻撃を受け、金砂山城に3度目の篭城。このときはかろうじて助かり、1504年に逆に山入家を攻略して、太田城を奪還しました。

このように佐竹氏のピンチを救ったのが、この金砂山(かなさやま)城でありました。
そこで、どのようなところか訪れてみる事にしました。

金砂山

常陸国北部には、久慈川と山田川に挟まれた山脈が北から南に連なる奥久慈男体山(標高654m)を中心に400m~600mクラスの久慈山地(男体山地)が続いています。
この山地の南側に標高410mの西金砂山があり、その山頂に西金砂神社の本殿があります。
この男体山地は久慈川側から見ると山の上部は岩肌がむき出しになった山肌が多く、西側が険しくなっており、この西金砂神社の本殿も山頂部で、西側は険しい崖になっています。

金砂山城は、この神社の拝殿の下の少し平に開けた駐車場近くのようです。
車でこの駐車場(歴史資料館がある)まで行く事が出来ますが、上り口は西側からと東側からとがありますが、今回、西側の水郡線の山方宿方面からから日帰り温泉施設である「金砂の湯」の横を通って山の方に入る道を行く事にしました。

「金砂の湯」は何度か利用したことがあるので、道は分ります。ただこの先を奥に上っていくので多少不安がありました。
暫く行くと「少し開けた所に出ました。
「金砂郷ポケットファーム」というところのようです。ただ何もありません。
神社の鳥居がこんな所にあります。

P7170314s.jpg

鳥居の先に続く山道が心配ですが、鳥居の脇に「上にP(駐車場)あります」と大きく出ています。

P7170311s.jpg

まあ大丈夫だろうと上り始めましたが、道は狭く、結構急なジグザクカーブ道が続きます。
上から車が来たらよける場所がほとんどありません。

戻る訳にもいかずにびくびくしながら進むとしばらくして平坦な歴史資料館の建物(現在工事中でした)の所に出ました。
少し進んだ所に広めの駐車場がありました。

P7170320s.jpg

駐車場の北側を上った所に神社はありますが、城址はこの駐車場側の神社と反対側に少し土を盛って平らになったあたりにあったようです。
恐らく城というより館があったのではないかと思われます。

P7170321s.jpg

神社拝殿はこのふもとの鳥居をくぐって100段近い石段を上った所にありました。
鳥居の横には銀杏の古木が歴史を感じさせてくらます。

P7170322s.jpg

両側に杉の木が並木のように続く参道の苔むした石段を1段ずつ登っていきます。

P7170325s.jpg

上は少し平坦な場所もあり、少しおくに立派な神社の拝殿がありました。
社務所は右側を降りた所(駐車場近く)にあります。

P7170330s_202108211403343e1.jpg

これが拝殿です。
縁の下には木鼻として使われたらしい獅子の像がたくさん睨みを利かせていました。

P7170331s_20210821140336615.jpg

本殿は更に上った山頂にあります。
今回はここで引き上げましたが、余り遠くでもなかったようですので、行かれることが在れば上まで行って見てください。

P7170341s.jpg

帰りは東側に下りてみました。
こちらは「そば街道」と呼ばれているようで、ところどころに展望台という矢印が出ていましたので、結構山の景色も素晴らしいのかもしれません。
暫く降りた所に「西金砂そばの里」というソバ処がありましたが、時間が午後2時頃までのようで、私がついたのが2時半頃でしたの閉まっていました。

もし行かれるなら、西側の道は余りお勧めできません。
東側に道はそれなりに広く、勾配も緩やかで、車のすれ違いも問題ありません。

佐竹氏もここなら山城とはいえ、暫くの篭城も容易だったのかもしれません。
また、北、西側は天然の要害といえる崖が連なっていますので、守りやすい場所だったのだと思います。






常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/22 17:34

常陸国における源平合戦(14) 南部に広がった常陸平氏一族

源平合戦(14)

今回は常陸国北部に領地を拡大した佐竹氏(源氏)に対し、水戸から南の地に勢力を持っていた常陸平氏の一族にスポットを当てて見たいと思います。

一般には桓武平氏の高望王の長男・平国香が常陸国の大掾職をしていた豪族、源護(みなもとのまもる)の娘を妻にして常陸国に進出しその子孫が勢力を拡大したといわれています。
この平国香からは、後の平家として都で天下を取った伊勢平氏である清盛なども排出ています。

この平氏の実際の流れは以前の本シリーズで下記にて説明して来ましたので詳しくはそちら(下記)を参照してください。

・常陸国における源平合戦(3) 常陸国における平氏のはじまり ⇒ こちら

・常陸国における源平合戦(7) 常陸大掾氏(多気大掾) ⇒ こちら

・常陸国における源平合戦(8) 吉田(馬場)大掾氏 ⇒ こちら

平将門の乱(939年)を鎮圧して、常陸南部に平国香の一族が勢力を張る事になります。

その常陸平氏の本家となったのがつくば市北条にある多気山に城を築いた多気氏です。
この多気氏は鎌倉幕府が始まった1193年にすぐ近くに進出して来ていた八田氏(小田氏)の換言により源頼朝により鎌倉に呼び出されて、所領を没収され潰されてしまいます。

しかし、その前にこの一族から何人もの氏族が常陸南部に散らばっていました。

主な氏族を書いておくと

平(多気)繁幹の息子
 ・長男 致幹(多気氏)
          ⇒直幹(多気) ⇒ ・広幹(下妻氏)
                      ・忠幹(東条氏)
                      ・長幹(真壁氏)
 ・次男 清幹 吉田郷へ (吉田氏)
 ・男 政幹 下総国石下⇒豊田郷 (豊田氏)
 ・男 重家 小栗御厨 (小栗氏)

<下妻氏>(平安時代末期)
 常陸平氏の下妻氏は平安時代末期に下妻の「大宝城」を拠点に勢力を持っていたが、同氏は没落して、下野の豪族小山氏の庶流の下妻氏が大宝城に入った。
<東条氏>(平安時代末期)
 東条氏は、稲敷の東条荘を領するようになって東条氏を名乗るようになった。南北朝時代には、南朝の北畠親房が東条氏を頼り、常陸国にやってきた。そして、神宮寺城や阿波崎城に拠ったが、北朝勢力に押されて衰弱した。
<真壁氏>(平安時代末期~)
 平安時代末の1172年に、平長幹が真壁郡司として郡内真壁郷に入部し、真壁氏を名乗り、ここに真壁城を築城します。鎌倉時代になると鎌倉御家人に加わり、鎌倉~室町時代には郡内に一族を分立させて、「真壁領」を形成します。戦国時代には、常陸国内で大きな勢力を有していた佐竹氏の同盟者として臣従し、1602年には佐竹氏の秋田移封により、秋田角館に移りますが、家臣の多くはこの地に残り、現在の真壁の礎を築いています。
<石下・豊田氏>(平安時代末期~戦国時代)
 豊田氏は当初石下に住み、石下氏を名乗った。その後直ぐ隣りの下総国豊田郡(現茨城県常総市本豊田)に城を築いて豊田氏を称した。戦国時代には小田氏治と同盟していたが、1578年(天正6年)に多賀谷氏により滅ぼされ、城は多賀谷氏が支配しました。
<小栗氏>
 小栗氏は平安時代末期に旧協和町(現桜川市)の栃木県よりの一帯(小栗郷)に居を構えて小栗氏を称した。また自分の領地を伊勢神宮に寄進して「小栗御厨(おぐりのみくりや)」となり、小栗氏はこの御厨の下司(げし)、地頭としてこの地の世襲が続いた。
鎌倉時代には鎌倉御家人となり更なる発展をしたが、1416年に前関東管領である上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱(上杉禅秀の乱)では、禅秀に味方して鎌倉公方の足利持氏と対立した。その後この乱は収まるが、小栗満重は、小栗城に籠城し持氏と戦い敗北してはまた奪還し、これを3度繰り返した。最後は1423年に小栗満重は自害して滅んだとされる。
しかし、満重の子の助重は持氏の死後、何とか小栗の地を取り戻した。ただ、成氏との戦いで敗北した上杉持朝を栗城に匿った事により、1455年に成氏に攻撃されて小栗氏は滅んだ。
後に数々の伝説を生み、小栗判官、照手姫、小栗十勇士などの話が、歌舞伎などで語られ、演じられている。

このように、戦国末期の頃にはこの常陸平氏一族は水戸近郊の吉田氏から始まる水戸南部に展開される氏族と真壁氏が佐竹氏と手を組んで生き残っていた以外は多くがその姿を消していた。

常陸平氏一族

鎌倉幕府により没落した北条の多気氏にかわり、頼朝は1193年に常陸大掾(だいじょう)職と多気氏の所領を水戸の近郊那珂郡吉田郷に進出していた平清幹の長男の系列の吉田(馬場)資幹に与えた。そして、常陸平氏本家を継承した吉田資幹は水戸に水戸城(馬場城)を築城した。
また、1214年に鎌倉幕府より、常陸府中(石岡)の地頭に任じられ、水戸と府中(石岡)の両方を行き来するようになった。
その後常陸国の大掾職を継承して「常陸大掾氏」となった。

(平国香より続く常陸平氏の本流であった多気氏もその何人かは常陸大掾職となっており、多気大掾氏と称するとも言われてきましたが、常陸国国府の書類等での記録が余り確認されていないため、最近では、この吉田(馬場)資幹以降を常陸大掾氏とするという考え方が学者の中心となってきているようです。)

平(吉田)清幹の次男・忠幹は行方地方に進出し、行方氏を名乗った(行方次郎)。

三男・成幹は鹿島地方に進出して鹿島氏を名乗った(鹿島三郎)

南方平氏

戦国末期に常陸国は佐竹氏(源氏)がこれらの平氏一族を一気に滅ぼし、常陸国を統一します。
これらの詳細については次回へ。



常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/24 11:35

常陸国における源平合戦(15) 戦国末期の常陸国

源平合戦(15)

常陸国の戦国時代は、佐竹氏の常陸南部に勢力を持っていた桓武平氏の一族を一気に壊滅させたことで終焉をむかえた。
しかし、これが僅かの期間で成し遂げられたことから、余り詳しい資料が残されていない。

佐竹氏が何故このようなことを成し遂げられたのかについては当時の織田信長、豊臣秀吉の天下統一の流れを、この関東地方(東国)の側から少し見ておかねばならないだろう。

本能寺の変(天正10年:1582年)による信長の死後、柴田勝家を賤ケ岳において破り、織田氏の後継を担うようになった豊臣秀吉は翌1583年に大阪城を築城し、公卿となり、1585年には関白となって、敵対する勢力を掃討していった。
四国、九州などを統一した後、東国の勢力の一掃にかかった。

天正17年(1589年)末から秀吉は、後北条氏の本拠小田原城を攻める事にし、翌1590年には小田原城を20万の大軍で囲んだ。そして同時に、残りのの武将たちがその背後の東国の勢力を攻めていった。

佐竹氏はこの小田原攻めの援軍要請に従い、秀吉軍に参加すると、石田三成の軍に加わることとなった。
攻めたのは埼玉県行田市にある忍城(おしじょう)である。この城は平城であったが、城に通じる道は狭く、多くの住民(婦女子も)もこの城の中こもって篭城したため、なかなか攻めきることが出来なかった。
秀吉の命令で、この城を水攻めにすることなり、利根川の水を城の周りに導くために城を囲むように堤防を築いた。
この堤防を築く作業を担ったのが三成とも親しかった常陸国の佐竹氏であった。

堤防は数日で完成し利根川の水を引いたが、結果的には水量が足りずに忍城は水に浮いたような形で存続した。
また、更に水量を増やそうとしたが、堤防の決壊などでこの城の攻略は最後まで時間がかかってしまった。

小田原城も天正18年(1590年)4月3日に包囲をはじめたが、なかなか落とせず、降伏して城を明け渡したのは7月5日であった。
忍城もこの報を聞き、7月16日に降伏して城が明け渡された。

この小田原攻めに参加した佐竹氏が、秀吉から自分の領地を安堵され、更に常陸国の統一を任されていった。

常陸諸家

少し分りにくいので、天正年間の初め頃の常陸国の諸家を地図に載せてみました。

少し、この勢力諸家の状況を順に見て行きたいと思います。

<小田氏>(つくば、土浦)
 小田氏は関東藤原氏系列の宇都宮氏一門の八田氏が、筑波の北条郊外に小田城を築いて、鎌倉御家人などとして勢力を拡大した。しかし南北朝時代には南朝方の中心となり、北朝方の佐竹氏とは対立した。
1573年:筑波山石岡市側の手這坂で佐竹氏と激突し、真壁氏の援軍と戦う那珂、佐竹派の武将となっていた太田資正(三楽斎)によって、小田城を奪われてしまい、藤沢城へ逃げ込んだが、ここも陥落して土浦城に逃れた。
1574年にこの土浦城も陥落し、小田氏治は逃亡した。土浦城は小田氏の配下の菅谷氏が佐竹氏に降伏して治めることとなったが、小田氏治は北条氏政と連携して1577年にまた土浦城に復帰した。
その後いくつか戦いが続いたが、1590年に豊臣秀吉の小田原城攻めに参加しなかったことで、所領を没収され常陸国の小田氏は滅んだ。しかし、子孫は越前に移り続いた。
また、土浦城の菅谷氏も後北条氏と結んだため佐竹氏や豊臣秀吉派の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡した。


<岡見氏>(牛久)
 岡見氏は、筑波の小田氏から分流し、牛久城、東林寺城、谷田部城、足高城、板橋城などを領していた。
小田氏が没落してからは小田原の後北条氏と同盟し、下妻の多賀谷氏(佐竹氏派)とも戦ってきた。
天正18年(1590年)の小田原城攻めに続く、豊臣秀吉の東国攻めで、岡見氏は牛久城を去り、後に子孫は紀州藩士や水戸藩士などにもなっている。

<土岐氏>(江戸崎、龍ヶ崎>
 土岐氏は美濃国守護職土岐氏の一族で、南北朝時代に土岐秀成が山内上杉氏の被官として江戸崎に入っった。
その後、龍ヶ崎も領して兄弟が分割して治めていた。
天正18年 (1590年)の小田原城攻めに続く、豊臣秀吉の東国攻めで佐竹氏の攻撃で、江戸崎城は落城し土岐氏は滅亡した。
江戸崎城はその後、佐竹氏の一族である会津城の城主であった芦名氏(伊達政宗により攻められ、常陸に逃避)が入った。
龍ヶ崎は仙台の伊達政宗の飛び地として管理された。

<多賀谷氏>(下妻)
 武蔵国埼玉郡騎西庄多賀谷郷の地頭職であった多賀谷氏が、この地を結城氏が支配すると結城氏の家人となった。
15世紀半ば頃下妻に入り、結城氏を助ける活躍をしていた。
多賀谷氏は16世紀半ば過ぎまでは、結城氏とともに後北条氏と協調していたが途中から上杉謙信の陣容に加わり、結城氏から独立した動きを見せた。
その後は佐竹氏との同盟を強め、反北条氏の立場を鮮明にし、佐竹氏と同様に1590年(天正18年)の小田原攻めに参戦して豊臣秀吉から領土を安堵された。

  (続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/26 14:37

常陸国における源平合戦(16) 府中城落城(大掾氏の滅亡)

源平合戦(16)

豊臣秀吉の後北条氏一族やこれに味方する東国の勢力を一掃するため行った小田原攻め、東国攻めは、天正17年(1589年)11月に宣戦布告を行い、翌年(天正18年(1590年)7月5日に北条氏直が降伏して、決着がつきました。
そして難攻不落の埼玉県の忍城(おしじょう)が7月16日に開城されて、ほぼ制定されたといわれています。
東国では山中城、韮崎城、足柄城、厩橋城、松井田城、玉縄城、江戸城、下田城、箕輪城、河越城、小金城、臼井城、鉢形城、本佐倉城、岩槻城、武蔵松山城、館林城、鉢形城、八王子城、忍城・・・と徳川家康軍、石田三成軍、前田利家軍、真田昌幸軍などが参戦して次々と攻略されていきました。

常陸国では
・江戸崎城(土岐氏)の開城:1590年5月20日
・龍ヶ崎城(土岐氏弟)の開城:ほぼ江戸崎城と同時期と思われる
・牛久城(岡見氏):1586年、下妻の多賀谷氏により、岡見氏の支城である谷田部城と足高城を落とされ、この牛久城も落城し岡見氏は滅んだ。その後群馬県太田の由良国繁が入城した。小田原の北条攻めでは、この由良は北条方であったが、国繁の母の功績で牛久五千石を安堵された。
・土浦城(菅谷氏):1590年小田氏はすでに佐竹氏に降伏しており、菅谷氏が奪還して城主となっていたが、秀吉の小田原攻めには参陣せず、菅谷範政は土浦城を出て真壁郡高津村にて蟄居し、土浦城は結城城主で家康次男の結城秀康の支配下となった。

さて、小田原の役、東国攻めは天正12年の7月末ごろにはほぼ決着しました。
当時石田三成を助けたことから、三成にかわいがられた佐竹氏は常陸54万5800石の大名として認められ、秀吉の築城した大阪城を守るように城の西側に大きな屋敷を構えたようです。

徳川家康、上杉・毛利・前田・島津などと並んで、佐竹氏は豊臣の六武将の一人とまで言われていた佐竹氏の大坂の屋敷跡は、最近になって発掘され、東西約150メートル、南北約100メートルという管理の大きさであったことが確認されました。

南部の土浦や下館などは結城氏の所領となり、中部・北部は佐竹氏で決着はついたのですが、水戸一帯の江戸氏、及び常陸平氏の流れをくむ常陸国府の大掾氏およびその同属の諸派など佐竹氏に敵対する勢力がまだかなりありました。

そして当主である佐竹義宣は秀吉からこの常陸国南部の領主たちの掃討を命じられたのではないかと思われます。

1590年の年末頃にはまだ義宣は大阪におり、この江戸氏と大掾氏の攻撃には父の鬼将軍と呼ばれていた義重が当りました。
まず、水戸城にいた江戸氏に城の明け渡しを要求しました。
しかし、これが拒否されると、12月19日に水戸城を急襲し、続けて20日にはその周りの勢力21支城を攻略してしまいます。
水戸にいた江戸氏は結城氏を頼って落ち延びました。
そして次々に味方を増やし、21日には小川の園部氏を使って府中城を攻略したのです。

府中城は、街を含んだ自然の要害を利用した中世の城であり、江戸時代の兵法家の山鹿素行が赤穂に謫居(ちっきょ)していた時に書かれた兵法書の謫居童問に、陸奥の多賀城、筑前の怡土城と並んで日本の三名城と書かせたほどのものであったといいます。
しかし、如何に攻めにくい城であっても、武力や武器などは北部に金山などを持っていた佐竹氏にかなわなかったようです。
最後は城に火を放たれ、燃え盛る城で自害したとか、逃げ延びた寺で自害したとか・・・・
父の死で5歳にして家督を継いだ大掾清幹(きよとも)も当時はまだ20歳前の若者でした。
妻はこの城攻めの先陣を切って迫ってくる園部氏からむかえたが・・・・。
この無念の思いがいくつかの伝説を生んでいます。
 ・鈴ヶ池と片目の魚 ⇒ こちら
 ・残念坂 ⇒ こちら
 ・三村城秘話 ⇒ こちら


府中城の落城前には、大掾氏の幾つもの砦や支城がありました。
それを地図に表わしてみました。

府中城の攻防


時代は天正時代(1573年から1592年)及びその少し前の時代を想像しています。

まず石岡に府中城(大掾氏)が平氏の棟梁として居を構えています。
そして小川城(地図の右側の方)に享禄元年(1528)に小田氏の家臣、園部兼泰が城主となります。(園部氏)

1551年に江戸氏や小田氏との係争を繰り返してきた大掾慶幹が死去し(1551年)、江戸氏、小田氏、園部氏(小田派)に対する備えをする必要から、府中城は長男大掾貞国が継ぎ、江戸氏が南下して築いた砦「堅倉砦」(地図の上方)に対峙するために園部川の近い所に「竹原城」を築いて(1555年)、四男の義国を守らせ、小田氏に対抗するための城として三村城(図の左下の方)を築きます。
そしてそこには7男?常春が城主となります。

しかし、この城は1573年(天正元年)2月に、小川の園部氏攻撃に城兵が出かけているすきを小田氏の軍勢につかれて城は炎上し、常春は自害してしまいます(常春は25歳)。(三村城秘話→こちら)

その後、江戸氏は小川の園部氏とも手を結び、また佐竹氏もこれに加わって府中の大掾氏をせめ、小田氏は佐竹氏に攻められて、1574年(三村城炎上の翌年)に小田氏の拠点土浦城が佐竹氏の攻撃で陥落してしまいます。
この辺りの攻防はかすみがうら市の出島散歩でも時代の流れを感じました。
(宍戸城跡(こちら)、戸崎城跡(こちら)など)

それから府中大掾氏が滅ぼされる1590年末まで17年。ここでの攻防が続いたのでしょう。
その戦闘や人びとの暮らしはどんなだったのでしょう。東に園部、北に江戸氏・佐竹氏、南に小田氏やその後やってきた佐竹派の家臣に囲まれてしまったのです。

西の八郷地区は佐竹派の客将太田三楽が片野城におりましたが、これも大掾氏とも姻戚関係を結んだりしていてあまり主だった闘いの記録はありません。

そんな中、府中の大掾氏の城主大掾(平貞国)は1577年に戦死してしまいました。
後を継いだのはまだ5歳の大掾清幹(きよとも)でした。

周りは敵だらけ、そしてその侵入を防ぐために各地に造られた要塞(砦)。

一つ一つ見ていくとこの頃の戦の流れが見て取れるようです。
でも多くがその時代の事をほとんど残しておらず、記録も断片的に切れ切れです。

数年前に、小川の園部氏との最前線基地となった取手(砦)山で道路建設のために発掘調査がありました。
そこからは当時の鉄砲の弾が見つかり、また砦の出入り口として掘られたと見られるトンネル跡が見つかっています。
その取手山の記事は ⇒ こちら を参照ください

次回以降、「南方三十三館仕置」といわれた事件の内容を調べてみたいと思います。
ただ残された資料も少ないので、これも伝承などで語り継がれた内容などを頼りにすることになりそうです。


常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/27 15:43

常陸国における源平合戦(17)南方三十三館仕置(1)

源平合戦(17)

常陸国の源平合戦もいよいよ最後に近づいてきました。
今回からは源氏であった佐竹氏が天正19年(1591年)に常陸国の覇者となる最後に行った「南方三十三館の仕置」とよばれた事件の概要がどんなものであったのかを探るものです。

秀吉は天下統一のため、最後に小田原攻め、東国攻めで後北条氏とそれに味方する諸氏をことごとく打ち破りました。
その後、この小田原攻めに参加しなかった常陸国の領地(南部の結城氏を除く)はほぼ佐竹の領地として認められたのです。

天正18年12月に、佐竹氏は水戸城の江戸氏を追放し、常陸国の平氏頭領である府中(石岡)の(常陸)大掾(だいじょう)氏を壊滅させました。
そして、翌天正19年2月に南方三十三館と呼ばれた多くの領主を常陸太田の城に呼び出してこれをすべて謀殺したといわれています。
その後に自らの仲間でもあった額田(那珂市)にいた小野崎氏を攻撃して滅ぼし、常陸国を一気に掌握しました。

南方三十三館2

さて、南方三十三館の領主とは具体的に誰を指すのでしょうか?
南方は恐らく水戸より南の地域を指すものと思われます。
ただ三十三館の数については33の館という意味ではなく、多くある、沢山の館という程度のようです。
上の図にその当時の主だった城(館)の領主を示します。
またその殆んどが平氏の一門から水戸郊外の吉田に居を構えた吉田氏から派生した一族です。
ここに示していない館の主もまだ沢山います。

この南方三十三館仕置に関して、記録はあまり残されていないのですが、江戸時代後期に書かれた「新編常陸国誌」に記載されているのは、和光院過去帳と六地蔵寺過去帳の2つの記述が元になっています。

<和光院(水戸市田島町:北関東三十六不動尊霊場二十六番札所)過去帳>
 天正十九年季辛卯二月九日 於佐竹太田ニ生害ノ衆
  鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、
  アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、武田殿 以上十六人

 和光院は内原の古墳公園の北東側にあります。結構周りに古墳も多いところです。

<六地蔵寺(水戸市六反田町)>
 島崎安定とその子・徳一丸(過去帳では一徳丸)の死のいきさつが書かれている。
 ・安定は「上ノ小河」において「横死」
 ・一徳丸は「上ノ小川」において「生害」

rokujizouji.jpg

水戸から大洗方面に行く国道51号線近くにこの六地蔵寺はあります。
前に訪れたときの記事は下記を参照ください。
・六地蔵寺(1) ⇒ こちら
・六地蔵寺(2) ⇒ こちら


記録はこの2つです。9氏16人となっており、三十三館ではなく9館になってしまいますが、その後に書く残された館も一斉に降伏または攻め滅ぼされたりしていますので、かなりの数に上った事は間違いありません。
鹿島殿父子、カミ とある「カミ」は、鹿島城の城主鹿島清秀の妻のことだと解釈されています。
鹿島清秀とその息子が殺されたことを知ったその妻は、鹿島城に篭城し、佐竹軍に徹底抗戦しましたが、戦死したといわれています。この妻のことを「カミ」と表現したものと思われます。

(続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/08/30 13:33
 | HOME | Next »