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常陸国の源平合戦(21) 南方三十三館仕置(5)玉造氏終焉の地

源平合戦(21)

 水戸の吉田氏から行方(なめがた)郡に入った行方二郎の4人の子供(兄弟)が小高、島崎、麻生、玉造氏に分かれたが、その玉造氏が一番西側の府中(石岡)に近い場所を領していた。

戦国末期は4人の中では、麻生氏は島崎氏に滅ぼされてしまったので、玉造氏が、島崎氏につぐ大きな勢力を有していたのではないかと思う。

佐竹氏に天正十八年2月9日に常陸太田城に呼び出された玉造重幹は和光院過去帳では父子で出かけたとなっているが、玉造町誌では、重幹は二人の家臣を(中田蔵之助と須賀隼人正常則)伴って出かけたそうだ。
そして、常陸太田についてすぐに軍勢に囲まれたが、日立市の大久保まで落ちのびたという。

そこで、寺の楼門に上り、
「かくとだに兼て覚悟の身なりしと泪はそれと知らぬものかは」
という辞世の句を残して自害し、家臣も続いてそれに殉じたという。(常陽藝文より)

日立市の手前(南側)、常陸多賀駅の西側に大久保という地区があり、その山側の麓に正伝寺がある。

現在、この寺の山側の墓地に玉造氏の供養塔といわれる比較的小さな石の塔が4基残されています。

玉造氏供養塔

常陸太田からは山越えで逃げたのか?
ただ、この一帯は中世から大窪氏が領しており、大窪氏は佐竹氏の忠実な武将であったといわれているので、山方へ移送された鹿島氏と同様、玉造氏はこの大窪氏に預けられたと考えた方がよいかもしれない。

このお寺や周囲の状況は少し地形が分りにくいので、下記にもう少し細かな地図を載せておきます。

大久保地図

国道6号線の常陸多賀駅近くに「大久保二丁目」信号があり、この信号を西の山側に入って行きます。

正伝寺は大久保幼稚園を目指し、その横をさらに奥に回りこむように細い道を入っていくとほぼ突き当たり右上にあります。
車の場合はそのまま奥から急な坂を登って寺の境内に入れます。

ここの寺の西側の斜面に古くからある墓地が山の斜面に所狭しと並んでいます。

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玉造氏の供養塔はこの山側の墓地の真ん中附近に石組みで囲われた一角にあります。

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この場所は大窪氏の一族の墓所のようです。
この4基の供養塔(五輪塔)が真ん中で、両脇は大窪家の墓標です。
4基ありますので、玉造氏父子と家臣2人の4名でしょうか。

常陽藝文によれば、この地の城主で佐竹氏家臣でもある大窪久光が、大窪家の菩提寺である正伝寺に自害した玉造氏のために四基の供養塔を建て、当初は大窪家の墓所がもう少し高い所にあったという。
それを大窪家の子孫が平成2年(1990)に少し下の現在地に大窪久光の鎮魂碑を建て、この供養塔も今の場所に纏めて移動・整備したのだそうです。

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この寺は街からはかなり高台にあり、常陸多賀、日立の街並みが大変よく見渡せます。

ここの地名は大久保ですが、ここに戦国時代までは大窪氏がいて、城を築いていたといわれていますので、この大窪氏について少し調べてみましょう。

歴史を調べてみると、「常陸大掾忠幹の子宗幹が平安時代末期に現在地の少し南西側の山に「愛宕山城」を築き、応永年間(1394年〜1428年)に、陸奥の石川詮光の子茂光を養子に迎え大窪氏を称した。」という。

まてよ、この常陸大掾忠幹とは常陸平氏で行方郡に入った行方二郎のことだ。
ということはこの玉造氏とは同じ先祖に成る。親戚筋に当たる。
玉造氏と大窪氏は親しい交流があったのかもしれない。

さて、愛宕山城を築いた後、何時の時代かははっきりしていないが、この正伝寺の裏山(天神山)に山城を築き、さらに少し下がったところに大窪城を築いたという。 ただその頃には佐竹氏の重鎮として活躍しているようだ。

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(正伝寺境内に建てられていた天神山城の説明板)

天神山城はこの正伝寺の墓所に続く上側の山一帯が城域となっていて、愛宕山城、天神山城、大窪城の3つあわせて全体を大窪氏が納めていたといえそうだ。

では、近くで一番低い所にある大窪城跡を探して見ました。

この城跡には江戸時代に「暇修館(かしゅうかん)」という水戸藩の郷校が建てられていました。
日立市の説明では、「当初は「興芸館(こうげいかん)」といい、村医者の研修施設でした。その後、弘化元年(1844年)に暇修館と改め、学びたい者に広く門戸を開きました。「暇修」の名のとおり、庶民が余暇を利用して研修することができました。幕末、慶応年間に廃校となり、さまざまな変遷を経て、昭和48年に復元されました。」
とあり、見学ができるようになっていましたが、コロナの蔓延防止で閉鎖されており、見学は出来ませんでした。

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(暇修館)

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暇修館の入口附近に建てられていた大窪城跡の石柱と説明板

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大窪城の説明が書かれています。

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暇修館もこの周りの地域では少し高台にあり、庭から奥も木々が生い茂りこんもりとした森となっています。
このあたりに大窪城のやしきなどもあったのでしょう。

この大窪氏、先祖は常陸平氏一族であったが、佐竹氏の有力な家来でもあったようだ。
佐竹氏が「関が原の戦い」の後に家康より出羽国(秋田)へ移封(1602年)されると、この大窪家は2つに分かれてしまった。

大窪城の当主であった大窪種光は次男光遠を伴って秋田に移ったが、長男久光は大窪村に残り、7月10日車城の車丹波(車斯忠:くるま つなただ)とともに、佐竹氏の居城だった水戸城奪還を図った。
しかしこれは失敗して、車丹波と大窪久光は処刑されたという。


さて、では地元の(行方市)玉造ではどうだったのでしょうか。
玉造氏は行方四頭の4男ですが、最も府中(石岡)よりの領地を有していました。

佐竹氏のこの南方33館の仕置で玉造城の城内や領民たちはどうしたのでしょうか?
少し調べてみたいのですがあまり残された物は少ないようです。

玉造城は現在市内に県有形文化財として残されている「大塲(おおば)家」の屋敷の裏山にありました。
この大塲家は玉造家の家老のような地位の方だったようで、佐竹氏の支配になって、この地も佐竹氏が領しましたが、1602年に出羽(秋田)に佐竹氏が移されたのちに、水戸藩の領地となり、水戸藩からこの大塲家が周辺の領地の管理をする「大山守」に選ばれ、大塲家は地元で継続、発展したようです。

玉造城跡については前に書いた記事を参照ください ⇒ こちら

さて、では玉造氏の子孫はどうなったのでしょうか?

この玉造氏の菩提寺が玉造の町中の「一閑寺」ですので、先日こちらに行って墓石を捜してみました。

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一閑寺は玉造の市街地にあります。
少し高台となっていますが、古くからある墓の多くが墓所の山側に所狭しとあります。

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玉造城主たちの墓所は、最も高い場所に近く寺からかなり上った場所にありました。
玉造城の主たちを供養する五輪塔や塔婆もありました。

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その近くに玉造城の主たちの墓誌が刻まれていました。
下の段の中ごろに 15代重幹公 と書かれています。
ここには、
  大宮神社奉納神面竝祈願文
  逢佐竹義宣之謀 日立太田
  於曹洞宗正伝寺
  共子明幹家臣中田蔵之助
  須賀隼人等切腹玉造城滅亡
  維時天正十九年(1591)二月九日也
と刻まれています。
家臣2名(中田、須賀)の名前の前に「共子明幹」とありますので、
玉造重幹の連れて行った子供の名前は「明幹」というようです。
また、滅亡した後も
十六代 治武衛門道幹(1642年死亡)
十七代 左五衛門治幹(1653年死亡)
十八代 興左衛門(1642年死亡)
十九代 茂兵衛  
以降数代茂兵衛が継承されたようです。
そして現遺族が横浜市におられるようです。
 
玉造家としてはここ玉造では、そのままの存続は出来なかったのかもしれません。

昔、この寺を訪れたときの記事が下記にあります。参考までにリンクを貼っておきます。

一閑寺(1) ⇒ こちら
一閑寺(2) ⇒ こちら



常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/05 11:18
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