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甲子夜話の面白き世界(第29話) 地震の話し

甲子夜話の世界第29話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 甲子夜話の作者である松浦静山公は、1760年の生まれで、本来は父が家督を継ぐはずであったがその父が早死にしてしまい、側室の子であったにもかかわらず藩主であった祖父の養嗣子となり、まだ16歳くらいの1775年に祖父から譲られて肥前国平戸藩の藩主となった。
財政的に苦しい時代を乗り越えて藩も立て直し、人材育成にも力を注いできた。
しかし、1806年に三男に家督を譲り隠居となった。まだ40半ば過ぎで、早いとも思われたが、これも徳川幕府の意向が働いたと考えられる。
さて、隠居の身になり、この後何をなすべきかを学問を通じての友人でもあった幕府大学頭の林述斎の勧めで、この甲子夜話を書き始めたのが1821年の11月(旧暦)。
それから亡くなる1841年までの約20年間に、ほぼ毎日書き続けたその量は実に膨大である。
現代の私達のように情報は新聞・雑誌、テレビ、インターネットなどから湯水の如く伝わってくるが、当時の時代背景を考えるとこれだけの記事が次々に書かれたということは奇跡に近い。
またそこには、静山公の多大稀な好奇心と、自身の長年にわたって得た知識が裏付けとなり、また上から下までの人間を人間としてみる視点の深さなどが読み取れる。今の私たちにとっても学ぶ事は多く、また物事の捕らえ方なども大いに参考にすべきだと思われます。
今回は、甲子夜話が執筆されていた1821年~1841年に起った地震の記録についての記述を少しまとめて見たいと思います。

<日本における大地震の記録;1821~1841年(Wikiより)>
1823年9月29日(文政6年8月25日) 陸中岩手山で地震 - M4.8 ~ 6.0、山崩れあり、死者 69人、不明4人。
1828年12月18日(文政11年11月12日) 越後三条地震 - M6.9、死者1,681人。
1830年8月19日(文政13年7月2日) 京都地震 - M6.5±0.2、死者280人。二条城など損壊。
1833年5月27日(天保4年4月9日) 美濃西部地震 - M6+1⁄4 死者11人。余震は8月まで、震源は根尾谷断層付近。
1833年12月7日(天保4年10月26日) 庄内沖地震 - M7+1⁄2±1⁄4、死者40~ 130人。東北・北陸の日本海沿岸に津波。
1835年7月20日(天保6年6月25日) 宮城県沖地震(仙台地震、天保大津波 ) - M7.0程度、死者多数。仙台城が損壊。
(北海道や小笠原の地震もあるがここでは除く)

甲子夜話に書かれているのは、1828年の越後三条地震と翌年の京都地震である。
その他の地震の記録もあるが、まだ全編網羅していないので、現在ブログに取り込まれたものだけをここに示す。

まず、越後三条地震であるが、記録によれば越後大地震として、下記のような記録が残されている(Wiki による)
(越後大地震)
・文政十一年十一月十二日の朝八時ごろ、越後の三条町・長岡・与板・和木野町など十里四方に大地震がおこった。
寺社や民家がばたばたと倒れ、人びとはあわてて戸外へ逃げたため同時に火事がおこった。
阿鼻叫喚、圧死した者、焼け死んだ者は、なんと三万人にも上った。
しかも余震は十四日まで、頻繁につづいた。(マグネチュード6.9程度と推測)

これを江戸にいた静山公が知ったのは、町のかわら版である。
ブログへの収録が未だなので、国立公文書館の記事を一部掲載します。
<甲子夜話続編>
 文政11年(1828)11月下旬、町でかわら版が売られていると聞いた松浦静山は、さっそくこれを買い求めた。
手にとって見ると、11月12日から14日にかけて越後地方を震撼させた「越後三条地震」のいわば号外速報。
静山はこれを『甲子夜話』続編に書き写させると共に、サケやタラを積んだ松前の商船が越後沖で行方不明になったという情報も書き添えている。69歳の好奇心旺盛な老公は、「地面震スレバ潮水モ亦また激怒スルカ」と、あらためて地震災害の恐ろしさを感じた様子です。
  (参考記事 ⇒ こちら )
こちらには絵も載せてある。
i_pop02.jpg

≪潮汐、地震での地の変化≫
  佐渡の海は潮汐の進退と云うことなし。
止水のように、海潮の深さはいつも極(きま)ってあるという。
故に海岸の岩石に積年の鹹(しお)凝って、一帯を白色に成している。
 近年一湊地震でゆり崩れて、海波浅くなり、海面より尺余りもかの白色が出た。
これで地震の時に地が下ったのを験(兆し、兆候)すると云う。
 羽州の象潟(きさがた)は、本朝三景の一と云うが、先年地震(1804年)でゆり崩れ、入海の水みなひき、今は風景さらになしと云う。
 西洋の説に、地は実したものゆえ、横へ震することはなく、ただ上下へゆれると言うのは宜(むべ)なるもの。
巻之3 〔30〕 ← クリック 元記事

さて、もう一つ文政13年7月の京都大地震です。
概要は
文政十三年七月二日、朝から猛烈な暑さに市民は音をあげていたが、午後四時ごろ雲もないのに突然天空に雷のような音がした。
公家も町人もみな飛び出し、その夜は屋外で野宿した。
翌三日の朝までに余震およそ百二十四回、その後も一時間に七~十回の地震が続いた。
このため二条城の石垣はくずれ、地面に七、八寸の裂け目が生じ、北野天満宮では七十八本の石灯籠がすべて傾いたという。
死者二百八十人、禁裏をはじめ有名寺社がかなりの被害をうけた。(マグネチュード6.5前後と推測)
こちらはかなり細かく記録として残してます。

≪文政京地震の前に起こったこと≫
この頃永井飛州(飛騨国)を訪ねて、去年の京震(1830年、文政京地震)を高槻はどうだったかと問えば、帰国の途中は何事も無かったが、帰城した翌日に地震が起こったと。
その様は尋常の地震とは違った。
まず揺らんとする前に、東北の方から鳴動した。
その音は何か物に触る様な響きだったが、やがて地が震えた。
その揺れ様は、いつも様に横へは揺れず、何か環(めぐる)様に震えた。
強いときは立つことが出来ず、手をついている体となった。
また京の人の言うことを聞くと、大震の前夜には、空一面に光り物が出現したと。
それが昼の様だったので、人々は訝った。
如何なることだろうかと、云い合っていたら、果たして翌日にかの大震になったと云う。
これも飛州の話である。
続編 巻之67 〔9〕 ← クリック 元記事

≪京師に起こった地震の記録≫
  今ここに8月檉宇の書簡に、拙家京師の邸宅の留守居から書が来た。
かの地の地震のことを筆記したものである。
見ると、昨年の寅年(文政13年、1830、7月2日)にはじめて大震れしたので、今年(辛卯)正月迄の記録である。
詳しくまとめてある。以下移写した。

 7月2日昼7ツ(午後4時)時より大地震が起こった。凡そ数は以下の通り記録した。
1,7月2日、昼7ツから夜にかけ、明くる3日朝迄トロトロのほか大小とも25,6度
  3日、昼夜かけトロトロとも、20度ほど 
  4日、同断(本震と同じもの)20度ほど
  5日、同断20度ほど
  6日、同断20度ほど
  7日、朝方大きなもの3度、後は小12度ほど
  8日、13度ほど 
  9日、13度ほど 折節 ひくついた(細かにゆれた)
 10日、12,3度      11日、13度
 12日、13度        13日、13度
 14日、12度        15日、13度
 16日、11度        17日、12度
 18日、11度  そろそろと緒方の土蔵を直しかける、家のゆがみも直しかける
 19日、昼小3度、夜の入り大3度
 20日、朝大1度、夜9ツ(零時 )時大1度
 21日、昼夜にかけて5度
 22日、小6度         23日、穏やか 小6度
 24日、夜中大1度 小4度
 25日、中の規模が2度、小3度
 26日、中小とも昼夜 6度
 27日、同断 6度
 28日、昼4度、夜に入り大2度 夜8つ(午前2時)時に雷が鳴るような音とともに小5,6度
 29日、小7度
8月朔日、きわめて穏やか 小3度
  2日、小3度 この頃は地震にみなが慣れてきて、さほど驚かない
  3日、小3度       4日、小3度
  5日、中1度       6日、小中9度 大2度
  7日、中2度、小2度
  8日、大1度       9日、小2度
 10日、小3度 先ごろから追々に大工、左官、手間方、1日朝から出て来て、弐人前体制でやっている。誠に職方は大いに忙しくなっている。
 11日、小3度、大2度、トロトロ4度
 12日、大小 6度
 13日、同 6度      14日、大1度
 15日、小4度       16日、小4度
 17日、小4度
 18日、夜に入り、大2度
 19日、大1度       20日、朝6ツ(午前6時) 大1度
 21日、小2度 中1度
 22日、小3度
 23日、小3度、夜8ツ時(午前2時) 大1度
 24日、小中とも夜にかけ 9度 
 25日、小3度       26日、小3度
 27日、小4度       28日、小4度
 29日、小3度 この頃には土蔵直しが出来た。そろそろこのような家もあって、家のゆがみは妙に直している。
 晦日、小3度、夜7ツ(午前4時)時過ぎ 大1度  
9月朔日、小3度 夜4ツ(午後10時)前 大1度
  2日、中1度        3日、小3度
  4日、中2度、小1度 
  5日、中2度        6日、小1度
  7日、小2度  夜に大1度
  8日、小2度、 夜に中2度
  9日、小2度       10日、小3度
 11日、小3度  夜に中2度
 12日、小3度
 13日、小3度  夜に中2度
14日、小2度、 夜に大1度
15日、誠に穏やか 小1度
16日、小1度
17日、中1度、 夜に大1度
18日、小4度  夜に大2度
19日、中1度、 小3度
20日、小1度
21日、小3度、 夜に中1度
22日、小2度、       23日、小2度
24日、小1度        25日、夜に入り大2度
26日、朝大2度、 小4度 この頃には見られぬ大ゆり(おおゆれ)だった。
27日、           28日、朝小5度、夜中2度
29日、朝大1度、 小3度
7月2日から9月29日まで88日になる。地震数は、当月29日までに凡そ 517度。
10月朔日、朝夜 小5度
  2日、小5度 
  3日、小1度         4日、小2度
  5日、夜中供中1度  小2度
  6日、小2度         7日、休
  8日、小1度         9日、夜1度
 10日、小2度        11日、小2度
 12日、小3度        13日、小3度
 14日、小2度        15日、小2度
 16日、中2度        17日、中2度
 18日、小3度        19日、小3度
 20日、大1度、 小2度
 21日、小1度        22日、小2度
 23日、小1度        24日、小1度
 25日、中1度  小2度
 26日、中1度  小2度
 27日、小1度        28日、小2度
 29日、中1度  小1度
 晦日  中1度      
11月朔日、小1度
   2日、小1度        3日、小1度
   4日、大1度  小1度
   5日、小2度
   6日、夜5ツ(午後8時)時に近頃見られぬ大1度、誠に驚いた。小3度
   7日、小2度        8日、小2度
   9日、小3度       10日、小3度
  11日、中1度  小1度
  12日、中1度       13日、小2度
  14日、小2度       15日、休
  16日、大1度、 小2度
  17日、小2度       18日、小2度
  19日、小3度       20日、休
  21日、中1度  小2度
  22日、中1度  小3度
  23日、中1度 小3度
  24日、小2度         25日、中1度
  26日、中1度 小1度
  27日、小2度        28日、中1度  小2度
  29日、中1度 小3度
  晦日、 小2度
12月朔日 小1度
   2日、小2度      3日、小3度
   4日、小4度      5日、中1度
   6日、休        7日、休
   8日、同        9日、同
  10日、同       11日、小1度
  12日、休       13日、同
  14日、中1度     15日、休
  16日、同       17日、小2度
  18日、休       19日、同
  20日、同       21日、同
  22日、同       23日、中1度、節分
  24日、中1度、小1度
  25日、休       26日、小1度
  27日、中1度     28日、大1度、小2度
  29日、大1度     晦日、 小2度  
※文政13年は、江戸神田佐久間町火事や文政京都地震(京師地震)が相次いで起こった為、12月10日(グレゴリオ暦1831年1月23日)に改元。天保元年は12月10日から晦日まで。
天保2年(1831、辛卯)正月元日、小1度
 2日、休        3日、小3度
 4日、大1度、 小2度
 5日、小2度      6日、小3度
 7日、小2度      8日、小3度
 9日、小2度     10日、小2度
11日、小3度     12日、休
13日、休       14日、休
15日、休       16日、休
17日 卯正月17日までに凡そ635度揺れた。
それより誠に小3日、4日目に少々ずつ揺れているが、最近は格別静かになった。                   
檉宇がまた云う。
この地震の記録は正月に止めるけれども、この発行日は。
7月28日とする。
さてその頃に至っても、3,4日に1度は地震が起こっている。未曾有の地変となるに違いないだろう。
君の意図は如何せん。
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≪会津大沼郡金山を襲った地震(直下型)≫
 会津候の御領地、奥州大沼郡大石組という処、高四千石ばかり、属村十八九ある。
住民は男女合わせて三千六七百もあろうか。山谷間の村である。
このところ辛巳(文政四年:1821年)十一月十九日に、つよい地震があり、百三十軒ほど震壊(ゆりこわ)れ、大破小破三百軒余り、人若干死亡、牛馬も損傷した。
それよりうち続き、昼夜いく度ともなく震れて、その震れようは左右前後には震わず、地上に突き上げ、また地下に突き下げる様にして、山谷鳴動し、山々裂け崩れた。
その辺りの沼沢の沼(火山でできたカルデラ湖)という大沼が抜けないように〈この沼一周一里余りとのこと〉人々不安、ことに雪中なので諸人の難苦は一方ならず。
候の役人が出張りて、力を尽すと言えども為ん方なく、領主より神社に命じて祈祷させた。
就中、土津社(はにつしゃ)には別に重祭があった。
翌月十二日頃より地震も止み、鳴動も静かになった。諸人は安堵した。
(ところが)当正月四日又また地震があった。
去冬よりも強く、鳴動もまた盛んで、大石組の村々は人の住居を得難きに到り、悉く民を他の処に移した。
時は大雪、処は山谷、老若男女四千に近い人を扱い、並びに牛馬等の始末まで困難というばかりである。
諸人は雪の上に薦(こも)筵(むしろ)或いは畳を敷いて日を渉る。
この末どうなるのだろうかと衆庶安堵することが出来ない。
候より御勘定所へ届けたという。
巻之4 〔3〕 ← クリック 元記事


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