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烟田城跡をたずねて(1/2)

 少し前にこのブログで「常陸国における源平合戦」という記事を連載してきた。
その時に戦国末期に佐竹氏により常陸国南部の平氏一族が謀殺されたことを、現地に残されているその記録などを探して書いた。
その時、まだ訪れた事がなかった場所があり、先日探していってきた。

場所は新鉾田駅の南東比較的市街に近い。県道18号線の烟田中央信号の東側にある少し高くなった台地一帯だ。
ここには2年前の2019年3月まで130年間続いた(新宮)小学校があった。

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入口は南側の道路より急坂を登ってすぐ小学校の入口と西光院という寺の入り口広場に到着する。
天正19年(1591年)に佐竹氏の南方三十三館謀殺によりここの烟田氏は滅んだ。
常陸太田にやってきた烟田道幹兄弟と家臣1名の3人は、この佐竹氏側の不穏な動きを察して常陸太田城から逃げて常陸太田市常福寺町のとある家にかくまわれたが、追っ手の探索が厳しく、ここで自害したという。
そして菩提を弔って祠が建てられ、三本の杉の木が植えられた。この杉は枯れて今はないが、三本杉という地名が残った。

その後、徳川の時代になって、西南端に武蔵国の氷川神社がら神社を勧請した。

 水戸の吉田氏から分れた鹿島氏が、兄弟分が管理していた水戸城を江戸氏に奪われた後、この江戸氏の守りとしてこの鉾田北部に徳宿氏を配していたが、この徳宿氏から別れたのがこの烟田(かまた)氏である。
徳宿氏は1486年にこの江戸氏の攻撃を受け城は滅び、その後100年間はこの烟田氏が北からの守り城の役割を担ってきた。

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新宮小学校は130年間続いてという事であり、比較的規模の大きな学校と思われる。
廃校になり2年が経っているが、それ程荒れてはいなかった。
校舎や体育館、校庭などはまだ使えそうで、もったいなさが目に付く。

烟田城の遺構を探して、校舎脇の道を右側から裏のほうへ回ってみた。

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裏側に行くと、昔の城跡の一部である土塁が残されていた。
ここに説明看板が置かれていた。

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ここに小学校が出来た時に、昔の土塁などの遺構はかなり崩されてしまったらしい。
いまはこの小学校に一角のみに面影を残すのみだという。
地図にはこの裏側に「氷川神社」のマークがあるので、学校の校庭へ入ってみました。

正門は閉鎖されていますが、校舎と体育館の間の塀はなく、自由に出入りはできます。

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少し前まで子供達が歓声をあげていたのでしょうか。校舎は今でもまだ使えそうです。

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校庭には遊具もまだ残されています。

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校庭の奥の隅っこに鳥居らしきものが見えます。
どうやらあれが「氷川神社」のようです。

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この神社へは反対側から登ってくる石段がありました。
ただこの上り階段は使われている形跡はほとんどありません。

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神社の拝殿は比較的小さなものでした。
入口に別な鳥居が置かれています。

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江戸時代初期の寛文9年(1669年)に武蔵国の氷川神社から分霊されたものらしい。

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この神社の本殿裏にはやはり土塁が残されており、前の土塁の看板のあるところと続いているようだ。

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土塁と竹が混ざり合って鬱蒼としている。

烟田氏は1591年に滅び、その後佐竹氏の勢力が支配しておりましたが、江戸時代になり佐竹氏は秋田に移り、ここの家臣たちも徳川の家臣として生き残ったようです。
 現在、家臣たちが保管していたと思われる「烟田文書(かまたもんじょ)」が残されているといいます。

やはり一度現地を訪ねてみて、当時に人達の思いをくみ取ることも大切ですね。
次は隣にあった西光院と千手観音堂を紹介します。

(続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/23 14:30
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