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甲子夜話の面白き世界(第30話)耶蘇の話し

甲子夜話の世界第30話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

耶蘇(やそ)とは中国語でイエスのことであり、昔はキリスト教の事をヤソと呼んでいた。
江戸時代はキリスト教は禁制でキリシタンたちは拷問を受けたり、秘かに隠れていたりした。
ただ外国と門戸が開かれていた長崎ではキリシタンも多くいた。平戸藩は長崎でもある。
甲子夜話の静山公も住まいは江戸であるが、伝え聞いた耶蘇の話も気になったのだろう。
キリシタン大名として知られた高山右近は最後まで改宗せず、国外追放でマニラ(フィリピン)へ送られそこで亡くなった。
甲子夜話ではこの高山右近や従姉妹の中川清秀(賤ヶ岳の戦いにて戦死)の話が多く出てくる。
関係する箇所はかなりありそうだが、いくつかを拾い集めて見ました。

≪クルス(十字架)≫
 前(巻之2)に中川氏の紋を「クルス」と云うことを載せた。
この「クルス」は蛮語十字のことで、元「クルイス」と云うのを「クルス」と云い、転じて「ケレスト」、また転じて「キリスト」、また「キリシタ」となった。これわが邦での吉利支丹(キリスタン)と云うものである。
中川氏の先祖、瀬兵衛(中川清秀、1542〜1583 安土・桃山時代の武将)の頃の南蛮寺はすなわちこの宗である。

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(中川家の紋)
巻之60 〔19〕 ← クリック 元記事

≪高山右近と中川清秀≫
  『武家事紀』に、志津ヶ嶽(賤ヶ岳)合戦〈秀吉と勝家との戦い〉のときに、坂口上の要害を高山右近、海山の要害を中川清秀〈今の中川侯の祖〉に守らせた。
天正十一年四月廿日、佐久間玄蕃充政盛は、大軍を卒して江州柳瀬より中入りして、封じ切りを致したとき、一番に海山の要害に押し寄せて、夜のあけぼのに軍勢の形粧がきこえた。
折節、清秀は馬のすそを冷やして、髪もまだ結っていない。
その中に高山が来て云うには、「柴田の軍勢は、ただ今押し寄った模様。然らば海山の要害は甚だ浅間である。高山の坂口の要害の一所につぼみ然るべきだろう」と云った。
清秀はすぐにすそを致しかけた馬に裸背で、うち乗り、海山の要害四方を巡検した。
帰って云うには、未だ屏の手も合わないので、これを勢いよくはしり、坂口にいたらないのは然るべきでない。
その上面々の受け取りは。高山は坂口に、清秀は海山で最必死になるようにとのことで、高山を返した。
その内に政盛の先手が四方より押し入り、根小屋を焼いた。
清秀は兵を卒して突き出ていき、戦死した。
高山は坂口の要害を出て、大元(本部)に退いた。
秀吉は、清秀の死を忠義の死と感じ入ったようだ。
わしはこの頃の合戦は殊に不案内なので、云い分は食い違うだろうが、以上の文を検分してみたい。
中川は義勇、高山は潔くない。
高山氏がかつて南蛮宗であったことは前にも触れたが、家紋に今でいう十字架を用いていた。
これはさて置き、高山が専ら南蛮宗であることは、諸書に伺える。
南蛮宗は自らの死を嫌い、人手によって死することを旨とする。
関ケ原の後、石田、高山、小西の成果を見ればわかるだろう。
中川、高山は共に南蛮宗だが、中川は義勇、高山は然らず。
清秀は、かの宗法に違える所であるが、忠勇の執る所にて、上天感応して今に逮んで歴々たる諸侯の中にある者はもっともなるか。
また高山の成り行きは『武家事紀』にある。
「高山右近は、南坊を号され、後前田利家に仕えた。南蛮耶蘇の邪法を堅く守り、慶長十九年三月に内藤飛騨守と同じ船で、南蛮国に到った亅。
この年は台廟将軍と成られ給いた後、大阪が落城する前年なのだ。
『耶蘇天誅記』に云う。慶長十九年〈申寅〉九月廿四日、摂津国高槻の城主高山右近友祥は兼ねて切支丹宗旨に拘泥し、親類縁者種々異見を加えるが許容せず、終に台名に戻り、今日南蛮国のうちジャガタラへ追放された。
内藤飛騨守もかの宗門を信じて、上意に背いた間、同じ罪に処せられマカオへ追放された。
また長崎辺りの伴天連徒党の輩からも百余人、一同に長崎の湊より船に乗せ、今日マカオへ追放とのこと。
〈これについて、一話が残る。
長崎は初め専ら南蛮人の商いの港であり、今の阿蘭陀人の商館は以前は南蛮人が建築した。
今の出島も、その時の有り様を伝えよと云う。
またその頃来津した南蛮の中に少年がいて、こう云ったという。
『僕は日本人だよ』。けれど衣服はすみずみまで南蛮製であり、言葉もみな南蛮辞である。
だからそれを信じる人はいなかった。
南蛮少年はある時、護り刀と我が国の文字の書を出した。
人はこれを視ると、高山右近がかの国へ渡った後、我が国に遺した幼児がいて、乳母が窃(ひそ)かに長崎へ伴い、かの国人に託した。
そうしてそこで成長した幼児が故郷に再び帰ってきたのだということ。
この頃は禁令もゆるくなったか。
少年は長崎に留まり、蛮医(外科)を学び術を得た。これを暮らしの糧とした。
名前は栗崎道意と称する。これよりこの治療が広まり、今の南蛮流と呼ぶ外科述は、この道意の流れであると云う。
今、西城の御医栗崎道枢と称する等、もしかしたら医孫なるか〉。
続篇 巻之82 〔12〕 ← クリック 元記事

≪耶蘇天誅記より≫
 『耶蘇天誅記』〔30巻〕を読む中に、心に留まる条23をうつす。
 1云。按ずるに、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長の年間、凡そ70有余年の暦数、西国より畿内に至る諸国では、押しなべて耶蘇宗が流行ったと云う。
就中(なかんづく)天正の末年より慶長の初年に甚だしく繁盛したと思われる。 
 その頃西国では、諸家の大身、かの宗門に拘泥する面々、逐一算する遑(いとま)はない。
畿内では三好修理大夫長慶、松永弾正少弼久秀、長岡越中守藤孝、高山飛騨守友煕、同右近将監友祥、小西摂津守行長、宇喜田宰相秀家、津田長門守国定、その外歴々の面々がこの宗門を尊信されたと見える。

 【某云】藤孝は細川幽斉である。世の多くは松永、小西等が邪宗であることは知られるが、
     玄旨法院のことを知らず。何にしても後に改宗したと。
      小西は法を守って自ら縛を受けたは笑うべし。

1云。寛永7庚午(1630)年、肥前嶋原の城主、松倉豊後守重政は、関東へ言上があると、累年切支丹宗門稠(おお)く御禁制だといえども、未だ一統に断絶ならぬ儀は、偏に呂宋(ルソン)国(フィリピンルソン島)から年々商船の便りを求めて、邪宗の導師が渡来する故である。呂宋国をやたらに征伐するならば、自ら日本国の邪宗門を断絶すべきかと。 
 逋(アッパレ)出陣の御免を蒙るならば、手勢を以てかの国を征伐いたす由。
然し兎角の御沙汰なく、しばらく過ぎた頃に同年11月16日重病にて卒去した。
よってそのことは終わった。
 これより先、私として呂宋国見分の為に、松倉の家士吉岡九左衛門、天野千右衛門の2人が呂宋国に渡り、かの地の様子をつまびらかにして、程経て帰国すると云うが、重政が没した間、その話はなかった。  

 【某云】これは嶋津氏の琉国を討随えた類である。但しそのことの遂げずは遺憾である。
      しばらく御免の沙汰がなかったは故ありか。

1云。寛永年中、切支丹の男女を国々より搦めとり江戸へ引いて来て、品川鈴ヶ森の浪打際に活きながら逆さまに釣って、潮が満ち来る時は自ら頭を波に浸して、暫くして息絶え、また汐が干く時は自ら甦ることもある。
これは仏教の所謂倒懸(非常な苦しみの例え)に等しい。

1云。寛永年中、江戸で乞食が100人余り切支丹宗門たるに依り、浅草鳥越の辺りに虎落(モガリ)を結んで、その中に追い込み置き、食事を与えず飢殺しにして、直にその土地を掘って埋められたという。

  【某云】この2条は聞かない珍説である。邪法の徒をこの様な惨酷な刑に
       処せられるは、人々に懲り懲りにさす為であろう。
巻之70 〔3〕 ← クリック 元記事

≪耶蘇継承の者≫
 十月の初め、ある人と相会したときの話に、昨年か今年か、大阪に耶蘇の法を修むる者があり、遂に縛に就いたと。
わしは云った。耶蘇の法と云うものを如何にして知ったのか。
曰く。その女子が久しいこと病床にいるが、医薬は功なく、祈祷は験(しるし)なし。
殆ど死に及ぼうとしていた。父母は娘を深く愛していた。
時に町家に一人の咒(まじない)法をよくする人がいた。
これに就いていゆることが出来た。
この人は、耶蘇継承の者で、病家に伝えて、信崇の徒を少しずつ倍にしたという。
わしは云った。秘承とはいかに。
答えるには。そのはじめを尋ねるのに、大阪落城の残徒が町家に隠れていてずっと伝えるところだと云う。
またその徒は少しずつ倍に増えていると云う
何者がかかるのかと聞くと、曰く。
大抵二三十人を超えただろう。その中男子は三四で余りはみな女子であると。
わしは云った。大禁を犯せば、定めて厳刑に処されるだろう。
答える。もちろん磔罪になるだろう。
わしはまた云った。この徒磔罪に処するより固(もと)より、願う所にして、その宗の旨である。
答える。いかにもそうです。
某に語る者が云うには、吟味のときに奉行が早々に改宗するようにと云われる。
この非法は、御国禁を犯す罪は恐ろしいことだと叱ると、かの女子の答えに、それより死をもって神に仕える。
なんの非法刑罪をもって法を改めようとしても、なかなか畏怖の色がないという。
わしはまた問うた。奉ずる所の神はいかなる者か。
答える。全く異様の者ではなかった。
一つは世にいう於福(オカメ、三平二満)と云う娼婦の仮面に何か衣類を着せて、一つは老体の偶人(にんぎょう)であると。
吟味の人疑いはかの遇人の体を破りその中を視たが、内にも怪しい物はなかったと。
何をか主として念ずるのか。この外にも語ることはあるが、忘れた。
この話のもとはかの地の町奉行、この都に来た者が語ったと云う。
それならば虚妄のことにはあらじ。
続篇 巻之7 〔15〕 ← クリック 元記事

≪ JNRI≫
 この蛮文は、上野国の多湖羊太夫の碑の傍より先年石柩を掘り出した。
その内に古銅券があった。
その表題の字がこんな物だった。
その後、ある人が、蛮書き『コルネーキ』を閲覧して、耶蘇が刑に就く図がある処の像の上に横架を描き、またこの4字を題していた。
因みに蛮学通達の人に憑てかの邦の語を糺すと、その義は更に審にしないと。

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多湖碑の文は、和銅4年3月とある。
この年は元明の朝(元明天皇(660〜721年)の朝廷)で、唐の睿宗(えいそう、唐の皇帝662〜716年)の景雲2年(711年)である。
今天保3(1832年)年を距(へだた)たること1122年。
するとかの蛮物は如何なる物なのか。
古銅券と横架の文と同じきこととは、疑うべきである。
また訝るべき物か。
前編63巻に、この碑下より十字架を睹(み、見分けるの意)出したことを挙げておく。
これと相応じることとなるだろう。
尚識者の考えを俟(ま)つ。

注:JNRI=Jesus Nazarenus Rex Iudaeorum(ナザレのイエス・ユダヤの王)だとか

続篇 巻之73 〔17〕 ← クリック 元記事

☆ 「甲子夜話の面白き世界」も30回を迎えました。
 まだまだ紹介した物は全体の本の一部です。まだ何十倍もあるんです。
 とても紹介し切れませんので、一旦ここでこの紹介記事は終了させていただきます。
 江戸の末期に起きた出来事、また当時の庶民の暮らし、地域に残されていた話や自然現象。
 数え切れないほどの内容が書き残されて来ました。
 これは、毎日のように「甲子夜話のお稽古」というブログに次々に投稿されています。
 是非こちらのブログもチェックしていただき、面白さや知識の宝庫としてご活用ください。
(甲子夜話のお稽古 ⇒ こちら

 ブログ内容は検索画面から全文検索で気になる言葉を入力すれば今までUPした記事内を検索できます。
例えば下記に「耶蘇」を検索した画面があります。
ここの右上の「耶蘇」の所に好きな言葉などを入れて記事内を探してみてください。
きっと面白さが分ってくると思います。

 耶蘇の検索結果 ⇒ こちら






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