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冬の暖かな日差しを浴びて・・・

 今日は昨日から引き続いて、明日の風の会の会報印刷の準備を朝からやってようやく目途が立った。
まあ、今回で190号だ。
毎月発行しているので15年と8ヶ月。
当面の目標の200号まであと10ヶ月。
その頃にはこのコロナも忘れて笑って暮らせるのか・・・・

ただウクライナの心配はそれどころではなくなってしまった。
何故こんな事になってしまったのか。

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事務所においていたシクラメンは今年もなんとか咲いてくれた。
なんとも健気である。
東日本は冬は結構晴れ間が多く、この時期は春の訪れを感じるような暖かな日も多くなる。

ロシアにはソ連が崩壊してから一時期毎年のように5回以上は訪れているが、プーチンが大統領になってから民主化に逆行する動きも結構感じてもきた。
何故プーチンは戦争を仕掛けてしまったのだろう。
確かにロシア系の住民が迫害されたり、ネオナチの勢力が我が物顔にウクライナで勢力を伸ばしているからとかいっても、力で領土を侵略して抑え込もうとしてよいわけがない。

戦争をたきつけている影の力があったとしても、また自分たちを守るためだったとしても、まだロシアが脅威と感じても実際に自分たちの領土を侵害されたわけでもないのに、民間人を巻き込み他所の国の領土に攻め込むなどやってはいけない。
許せない。

モスクワに行くたびに、西や南に向かうターミナル駅や空港での外国人などに目を光らせている事などが増えてきて、パスポート提示を求められたりすることも増えてきた気がしていた。
またチェチェンなどとの紛争が激化して、モスクワでの爆弾テロなどもおき、ボリショイバレーなども見学する際には、劇場入場での手荷物検査なども結構厳しかった。
地方のローカル空港に戦闘機などが停まっている事もあったが、カメラを向けた途端警備員?が駆け寄ってきたなどという事もあった。まあスパイとしてつかまっていれば今このようにのん気な事を書いてもいられなかっただろう。

ただし、これももう15~20年くらい前のことで、今の状況はわからない。

たとえプーチンが力でウクライナを支配しても、抵抗はゲリラ化し、それが世界に広がっていくかもしれない。

早く停戦して犠牲をこれ以上拡大させることが無いように祈るばかりだ。




近況 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2022/03/04 11:56

奈良の鹿・・・

 春がそこまで来て、少し足踏み。
今日はどんよりとした空模様で、何か冷え冷えしています。
一日中気温も上がらないようです。

もうあちこちで梅の花も満開になっているのに、我が家はまだと思っていました。
でも今朝はそんな寒さの中、数輪の花が咲いていました。
蕾も大分膨らんでいます。
遅咲きの梅のようですが、春を忘れてはいなかったようです。
心が少しほんわかしました。

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昨日は京都にお住まいの方からメールをいただき、奈良の鹿の話を聞きました。
奈良公園の鹿の中に以前「白鹿」がいたそうです。
春日山に鹿島神宮のタケミカヅチが白鹿に乗って降り立ったとされる伝説。
鹿島から鹿が奈良に運ばれた話し、また奈良から鹿島に鹿が贈られた話し。
常陸国府(石岡)から奈良にも鹿が贈られたという話し。
清酒白鹿の裁判の話・・・・などを話して、

そして、奈良公園に「おかっぱ桜」という2本の大きな枝垂れ桜がある話を聞きました。
これはおかっぱ頭のように桜の垂れた枝が、高さ2mほどできれいに刈られた様にきれいにそろってピンク色の花が咲いているのだそうです。
それは、奈良の鹿がその高さ以下の花や実などをきれいに食べてしまうからだそうです。

鹿の食欲は旺盛なので、奈良には馬酔木が多く植えられていると聞いた事があります。
馬酔木は毒があって、鹿が食べないのだとか・・・・・

毎年我が家の庭でこの馬酔木が花をつけます。
いつもまだまだ咲かないな、と思っていると急に咲き出します。
今年も先日の暖かくなった日頃から咲き始めました。

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この花のどこに毒があるのだろう。

奈良へ行ったのはもうずいぶん前だな。
もう40年近く行っていない。

また行ってみたいな・・・・・・。

仏像めぐりもいいよね。











その他風景 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2022/03/08 11:12

古き石岡の里(茨城廃寺附近)を歩いてみた

 石岡は常陸国の国府(国衙)が置かれたところ。

でもその前に古代茨城郡の郡衙があったらしい。

昨日は少しその近くを散策してみた。

わずかな時間あるきまわっただけだし、久しぶりだったが、色々考える事ができた。

こんなのもまたいい。

自分で住んでいる町を見直して見るのも良いだろう。

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茨城廃寺のあったあたりの台地の上には梅の花が満開だ。

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この地下には今も昔の物が眠っているに違いない。

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おだやかな陽射しがこの舌状台地に1300年を超えて降り注いでいる。

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少し進むと霞ヶ浦の方に下っていく。
そこに竹林があった。
昔もあったのだろうか。

左手にしばらくいけば東日本で2番目に大きい「舟塚山古墳」が悠々と、またしっかりと残されている。
誰の墓かははっきりしないが、昔のこの地の豪族か?
常陸国が出来る前の茨城の国造か、この地の豪族の墳墓には違いない。

かなり昔に、この地に茨城の郡衙が移された。
筑波山、竜神山はどんな姿であったのだろうか・・・・
きっと素晴らしい景色が広がっていたに違いない。

そんなことを思って散歩する人などあまりいない。
農家で畑仕事をしている人以外、殆んど人にも出会わないし、車も殆んど走っていない。


石岡市内の風景 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2022/03/08 12:05

ウクライナに早く平和が訪れますように!

 昨日は東日本大震災から11年目。
まだ、当時の原発災害から家や土地を追われ、帰宅できない人が大勢いる。

私たちもこのことを決して忘れない。

現在、ウクライナではロシア軍が戦争を仕掛け、多くの市民に犠牲が出ている。

テレビヤネットなどに流されている映像には心が痛む。

早くウクライナに平和が訪れますように・・・・

ウクライナ人形

昔、キエフで買ってきたウクライナの民族衣装のお人形。

奥には東日本大震災の後に、今は亡き母が書いた「絆」の文字。


近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/03/12 11:09

ピンクの花園?

 昨日はまた銚子まで出かけました。
霞ヶ浦沿いを国道355号線で行方市に入り、左手に三昧塚古墳を見て直ぐに、正面の交差点奥にこんもりとした茂みが見えます。
ここが勅使塚古墳(全長61m前方後円墳)です。
しかし、ここには案内板は無く、2件の民家にまたがったようになっていますので、あまり見学には向かないようです。

まあここの古墳はまたあとからでも書く事にして、今回はこの信号から右手の旧道を走ってみました。
沖洲を部落を過ぎた辺り、桃浦に入るあたりで左手にピンク色の花畑?を発見。

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この時期になると、このようにあまりいつもの道と違ったところを走っていると、同じような光景を所々で見かけます。

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実は、これはホトケノザの群生です。
ホトケノザといっても春の七草とは違います。
食用には向きません。

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花が、よく見ると何か動物の顔の形に見えたり、仏様に見えたりします。
とても可愛らしい花です。
今の時期は空き地や野原にもたくさん咲いています。

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この道は霞ヶ浦湖岸にも近く、たまには旧道を走ってみるのも良いですね。
桃浦には昔、鹿島鉄道の駅がありました。
昭和の半ばくらいまではここにも海水(湖水)浴場があったのです。
石岡駅などにも昔は夏には、桃浦の海水浴場のポスターが貼られていたりしたようです。

茨城県では森林・霞ヶ浦をきれいにしようと、県民税に上乗せ(一人年間1000円~2000円)で特別税を徴収されています。
一時、銚子近くの水門の開閉時間を変更して開ける時間を長くする事が検討されていました。
でも11年前の東日本大震災で原発事故によりこの話もどこかに封印されているようです。

この先の、麻生港脇で保護されてきた可憐な「アサザ」はここ数年姿が見えなくなりました。
毎年、夏の終わりごろに、近くを通った時に立ち寄っていましたが、残念です。
いつか復活されその姿をまた見られる日が来るのを待っています。

アサザの絶滅の原因は、霞ヶ浦の湖面の高さを人為的に少し上げたことのようです。
安易な考えで、湖面高さを上げれば自然は破壊されてしまうようです。


霞ケ浦の自然 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/03/15 11:18

弓削道鏡は石岡に来たのか?

 常陸国府であった「石岡」には、弓削道鏡の言い伝えが残されている。
しかし、詳細はほとんど謎に包まれ、古い歴史として埋もれてしまっている。

弓削道鏡といえば女天皇の称徳天皇の病気を治したとされ、その寵愛を受け、法皇となり宇佐八幡さまの神託があったとして、自らが天皇になろうとしたとされ、天皇の(男系)歴史が変わるかもしれなかった事件で、明治維新後は特に極悪人といわれるようにもなった。しかし、日本各地には道鏡信仰は巨根神話と共に今も根深く残っている。

西暦700年生まれという道鏡が宮廷に入ったのは761年、宇佐神託事件は769年。称徳天皇の崩御により、下野薬師寺の別当として左遷となったのは770年。そして下野国で死んだと都に伝えられたのは772年5月である。
当時の下野薬師寺は奈良東大寺・大宰府観世音寺とならんで、僧侶の免状を出すことの出来た寺(日本三戒壇)でした。

昭和35年2月に今東光が小説「弓削道鏡」を書いているが、その最後の文を紹介してみたい。

 「薬師寺別当の道鏡は下野から常陸、下総、上野、信濃と遊歴した。法王の栄位を失っても惜しいと思わなかった彼は、女帝とその愛子を失ったことだけは惜しんでもあまりあった。
 別当は物言わぬ人になった。
・・・・・・
 常陸の石岡に遊んだ時、国司の方に仕える女と一夜をともにして、この女の腹から弓削氏の裔(すえ)が生れたと伝えられている。(一部修正)
・・・・・・・」

まあ確かに、下野国に左遷となった時には、道鏡は70歳を超えていた。
この話しはどこにその根拠があるかは定かではないが、今東光なりの情報から推察したものであろう。

石岡における弓削家は府中六名家(香丸・健児所・金丸・中宮部・弓削・税所)といわれているが、中世では大掾氏の家臣として名前を見ることが出来るが、天正18年末の佐竹氏による攻撃で、府中城が落城し、大掾氏とともに滅びたといわれている。

しかし、この弓削氏の広大な屋敷跡はその後税所(さいしょ)氏が入り、税所門弥の屋敷となり、門弥さまと呼ばれ存続していたといわれている。

今泉義文遺構集「石岡の今昔」の本には、この弓削屋敷のあったといわれる場所が書かれている。

弓削屋敷

上の地図は石岡駅西側の旧市街地の「字名」を示した地図に弓削屋敷跡らしき場所を書き込んで見ました。
弓削氏の屋敷・領域は現在の石岡の旧市街地のかなり大きな領域を有しており、この地図で「金丸・室ヶ井(室貝)」地区をカバーしていました。

弓削屋敷は江戸時代には税所氏が引き継いだ様で、この近くには弓削丹波守の墓と称される五輪塔四基が大きな欅の下の塚の上にあったという。

しかし、近年になって住宅や商店などの開発により宅地化され、この五輪塔も2基を平福寺に移し、残り2基は地下に埋めたという。

この弓削氏のいたという場所には「鈴の宮稲荷神社」があり、その東側には新地八軒という料亭や宿があり、藤田小四郎などが通っていたといわれるわき道も残されている。

石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/03/31 16:17
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