石岡のまつり面展
先週土曜日は「ふるさと風の会の会報191号の制作・印刷日でした。
午後から会報を配りに八郷地区へ
酒井由美さんが祭り用のお面を製作されていて、その展示会を瓦会のこんこんギャラリーでやっていたので立ち寄りました。

祭りの舞台での踊りには欠かせない面。 これらもこうしてみると迫力がありますね。



酒井さんと瀬川さんがおられました。
瀬川さんはここで来月「篆刻」の展示をされるようです。
コロナ禍で石岡のおまつりも2年間実施できませんでしたが、今年はどうなりますか・・・・・・
今日は昨日と違って寒さが戻りました。
そんな中、先ほどまで別な調べ物をしていて、石岡市内の旧字名を調べておりました。
このこんこんギャラリーの場所は「狐塚」だとか・・・
旧八郷町の大字「瓦谷」の下に「狐塚」「狸山」「だるま」という字名がありました。
こんな事も調べていると何かを感じる事もありますね。
午後から会報を配りに八郷地区へ
酒井由美さんが祭り用のお面を製作されていて、その展示会を瓦会のこんこんギャラリーでやっていたので立ち寄りました。

祭りの舞台での踊りには欠かせない面。 これらもこうしてみると迫力がありますね。



酒井さんと瀬川さんがおられました。
瀬川さんはここで来月「篆刻」の展示をされるようです。
コロナ禍で石岡のおまつりも2年間実施できませんでしたが、今年はどうなりますか・・・・・・
今日は昨日と違って寒さが戻りました。
そんな中、先ほどまで別な調べ物をしていて、石岡市内の旧字名を調べておりました。
このこんこんギャラリーの場所は「狐塚」だとか・・・
旧八郷町の大字「瓦谷」の下に「狐塚」「狸山」「だるま」という字名がありました。
こんな事も調べていると何かを感じる事もありますね。
山笑うが如し
毎年、山に春が訪れ、桜も咲く頃になると このあたりの山は全く笑っているような表情に変わる。
小町の里に会報を配り、周りの山々を眺めた。



土曜日のせいもあり最近整備された小町山のハイキング登山者も多い。
今の時期は本当に「山笑うが如し」だと思った。
小町の里に会報を配り、周りの山々を眺めた。



土曜日のせいもあり最近整備された小町山のハイキング登山者も多い。
今の時期は本当に「山笑うが如し」だと思った。
西武園遊園地
前の日曜日、新装になった多摩湖湖畔・西武球場ちかくにある西武園遊園地に孫娘と遊びに行って来ました。
大幅にリニューアルされて、昭和レトロが売り物に大変身。
天気予報では曇りだったのが終日小雨・・・・・
近くに父母の墓があるので、墓参りついでに息子夫婦と孫娘と共に遊んで来ました。
この西武園も昔は良く遊びに来ていた。
多摩湖の桜も有名で、花見も子供の頃から何度もやって来ていたし、近くの池でザリガニ釣りなども良くやった。
子供だが自転車で水道道路を走ればそれ程危ない事もなかった。

遊園地の中に「夕日列車」という列車が小さな子供を対象に走っていた。
入ってはすぐとまるを繰り返し、中では何かやっているらしい。
何か外にいる何かを探索したりしながら楽しむようだ。

満開の桜の中を楽しそうだ。
昔はこの西武園から奥にあったユネスコ村まで「おとぎ列車」という鉄道(山口線)があったが、今はすっかりその影もなくなっていた。
狭山スキー場という人口のスキー場で昔はスキーも出来た。
その後に恐竜館もでき、子供を連れて行った記憶もある。
その子供が今では孫娘の父親だ・・・・・。
時のたつのは早いか?
こんどの西武園は入場料の中に殆んど全ての遊具の乗り物券代も含まれている。
でも遊園地の売りものは「昭和レトロ」の商店街の復活にあるという。

その名も「「夕日の丘商店会」です。

この中のお店での買い物は特別な円券が使われています。
50円が600円します。
12分の1 が換算レートなので昭和のいつ頃でしょうか?
確か私が小学校には行った頃はまだ1万円札など存在していなかった。大学に入った時でも、大卒の初任給は2万円くらいだった気がする。
しかし、私が就職したときはその3~4倍以上に跳ね上がった。

昭和を懐かしむのも良いが、懐かしいだけではそれほど人の出も期待できないように思う。
三丁目の夕日・・・
我が石岡の看板建築ももう少し工夫が必要だ。

文化を残すということは、その意識改革や努力、費用予算も必要。
まあこの西武園の商店会はそれなりにエンターテーメントを盛り込んで、飽きさせない色々な催しが行われていた。

でもここで換金した通貨は、その日限りで有効期限が切れる。
使い切るしかない。これも作戦なのだろう。
金銭感覚も麻痺する。


雨降る遊園地はどの乗り物も待たずに乗れる。
まあ少しのんびり楽しませていただきました。
大幅にリニューアルされて、昭和レトロが売り物に大変身。
天気予報では曇りだったのが終日小雨・・・・・
近くに父母の墓があるので、墓参りついでに息子夫婦と孫娘と共に遊んで来ました。
この西武園も昔は良く遊びに来ていた。
多摩湖の桜も有名で、花見も子供の頃から何度もやって来ていたし、近くの池でザリガニ釣りなども良くやった。
子供だが自転車で水道道路を走ればそれ程危ない事もなかった。

遊園地の中に「夕日列車」という列車が小さな子供を対象に走っていた。
入ってはすぐとまるを繰り返し、中では何かやっているらしい。
何か外にいる何かを探索したりしながら楽しむようだ。

満開の桜の中を楽しそうだ。
昔はこの西武園から奥にあったユネスコ村まで「おとぎ列車」という鉄道(山口線)があったが、今はすっかりその影もなくなっていた。
狭山スキー場という人口のスキー場で昔はスキーも出来た。
その後に恐竜館もでき、子供を連れて行った記憶もある。
その子供が今では孫娘の父親だ・・・・・。
時のたつのは早いか?
こんどの西武園は入場料の中に殆んど全ての遊具の乗り物券代も含まれている。
でも遊園地の売りものは「昭和レトロ」の商店街の復活にあるという。

その名も「「夕日の丘商店会」です。

この中のお店での買い物は特別な円券が使われています。
50円が600円します。
12分の1 が換算レートなので昭和のいつ頃でしょうか?
確か私が小学校には行った頃はまだ1万円札など存在していなかった。大学に入った時でも、大卒の初任給は2万円くらいだった気がする。
しかし、私が就職したときはその3~4倍以上に跳ね上がった。

昭和を懐かしむのも良いが、懐かしいだけではそれほど人の出も期待できないように思う。
三丁目の夕日・・・
我が石岡の看板建築ももう少し工夫が必要だ。

文化を残すということは、その意識改革や努力、費用予算も必要。
まあこの西武園の商店会はそれなりにエンターテーメントを盛り込んで、飽きさせない色々な催しが行われていた。

でもここで換金した通貨は、その日限りで有効期限が切れる。
使い切るしかない。これも作戦なのだろう。
金銭感覚も麻痺する。


雨降る遊園地はどの乗り物も待たずに乗れる。
まあ少しのんびり楽しませていただきました。
古代道の駅 曾禰駅と曾尼駅はどこか? 名前の由来は?
私が今住む石岡に来て最初の興味を持ったのが 「古東海道の終点都市 ⇒ 石岡」ということでした。
あれから15年ほどが経ち、調べながらいくつかブログ記事にもしてきましたが、最近はこのテーマでの記事もすっかり遠のいていました。
しかし、また最近になって、いろいろな方がコレに関連した発表などをされるのも見聞きするようになり、また少し興味も再開してきたところです。
一昨日に銚子へ仕事で出かける途中に、天気もあまり良くなかったのですが気になったところを訪ねてみようと思いました。
そこは、「曾尼(そね)」という駅家(うまや)があったと思われる場所です。
駅家(うまや)は大和朝廷が地方との連絡網整備の一環として、租庸調などの律令制整備とあわせて推進した道路整備の途中に設けた「駅」です。
街道を大路、中路、小路に種類分類して、約16km置きに馬を20匹、10匹、5匹をそれぞれ常備し、馬の乗換えができる駅舎を設けたものです。
古代東海道(中路)の最北国であった常陸国は国府「石岡」に10匹の馬を常備した駅家(うまや)があったと考えられています。
その駅舎の場所は特定されていませんが、自分の中では場所はここだという思う場所はあります。
さて、今回の話は常陸国府の駅家の一つ手前の駅の名前について少し興味を持っている。
古代東海道といっても時代によって少し違いがある。
西暦771年に武蔵国(国府:府中市)が東山道の国から東海道の国へ移りました。
そして下総国(国府:市川市)と武蔵国を結ぶ路が整備され、現在の東京近郊の道が通れるようになり、それまで東京湾を横須賀の走水から千葉県の富津岬に舟で渡るルートが廃止されたのです。
このルートの廃止に伴い、いくつかの駅家(うまや)が廃止されていきました。
廃止されたのは西暦805年~815年頃のようです。
その後の古東海道の駅家名は西暦927年に完成した「延喜式」に記載があり、下総国府(市川)の駅家「井上(いかみ)」-「茜津(あかねつ)」-「於賦(おふ)」-「榛谷(はんたに)」-「曾禰(そね)」ときて常陸国国府(石岡へつながる。
一方、その前の駅家(うまや)については正確な記載が少なく、わからないが、常陸国国府と鹿島社(香島社)とを結ぶ古道が整備されていたと考えられ、2つの駅家の名前がある。一つは「板来(潮来)」であり、もう一つが「曾尼(そね)」である。
この曾尼(そね)については、常陸国風土記の行方郡に記載があり、
「郡より西北に向ふと提賀(てが)の里がある。昔、この地に住んでゐた手鹿といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。・・・・・。提賀の里より北に、曾尼(そね)の村がある。やはり昔この地に住んでゐたそねびこといふ佐伯の名から名付けられた。今は駅家が置かれ、曾尼の駅と呼ばれる。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれています。
曾尼(そね)は昔住んでいた「そねびこ」という佐伯の名前からついたと言う。
佐伯は大和民族がこの地にやってくる前に住んでいた原住民(縄文人?)のことである。
この曾尼(そね)が延喜式に記載の「曾禰(そね)」と発音が一緒であり、同じ土地名かもしれないとも注目されたようです。
昔の原住民の言葉を知るにはアイヌ語で考えみなければいけないと考え、アイヌ語を当たってみました。
ソネ(sone)=本当の、確かな・・・ という意味があるから ソネ人は本当の民族?などの意味があったのかもしれません。

今回石岡から355号線で玉造の町に入り、霞ヶ浦大橋からきている国道354号線を鹿行大橋の方に左折。
暫く進むと新しい玉造の小学校入り口があり、その少し先に「泉入口」バス停がある。
この泉地区の東側の谷に夜刀神(やとのかみ)を祀る神社と椎井という湧き水池がある。
この泉地区辺りがこの「曾尼駅」があったと考えられる場所だ。
地元の研究会などで駅跡の看板を建てているらしいが、まだ場所は特定できていない。
一方「曾禰駅」も分っていないが、土浦市下高津辺りではないかというのが多くの人の考えのようだ。
またこの鹿島道といわれるもう一つの駅家が潮来にあるのだが、こちらは潮来市街地に近い「長勝寺」の境内に駅跡の碑がたてられている。
もっともこの駅跡もあまり根拠はなさそうで、私はもう少し山側にあったと思っている。
またこの駅家は西暦812年頃に廃止されたのは確からしい(日本後紀)ので、この板来駅以外にも、「曾尼」駅も廃止されたと考えてもよさそうだ。
鹿島道は恐らく奈良朝も陸路より船が使われたのだろう。
また地図で東京湾を渡って上総国(国府:市原)に入った後、下総国の国府(市川)を経由せずに常陸国へ向かっていたルートがあったようだ。
これを上の地図に書き込んだが、上総国府-鳥取(ととり)-山方-荒海(あらみ)ときて、香取の海を船で常陸国へ渡ったようだ。
この地図の「鳥取」「山方」「荒海」「真敷(ましき)」の4つの駅家は西暦805年に廃止となったという。

上の写真は石岡から高浜へ向かう高浜街道脇から見つかった古道の跡(中津川古道)であるが、現在の舟塚山古墳のすぐ近くだ。
この古道跡については諸説あるが、鹿島への連絡路の一部ではないかとの説が強いが、これだけの広い、側溝もある古代官道が東海道ではないわき道である鹿島路に造ったのか私は疑問に思っている。
玉里地区に「五万掘」という古い遺跡のある地区名があるが、これも街道跡によく見られる地名である事を考えると、この中津川古道は石岡-玉里-小川 (-玉造) まで広い道が出来ており、そこから船で「荒海」駅へ向かったということも考えに入れておいた方が良いのではないかと思う。
その他、五万掘地名については、石岡から東山道への連絡古道が造られ、小美玉市の五万掘地区から古道跡が見つかっている。
しかし石岡にも五万掘地名はあった。廃藩置県で石岡の鹿の子地区に江戸の藩士たちの住宅を造ったが、ここ敷地となった場所にあった「五万堀」は埋め立てられて地名は消えた。
あれから15年ほどが経ち、調べながらいくつかブログ記事にもしてきましたが、最近はこのテーマでの記事もすっかり遠のいていました。
しかし、また最近になって、いろいろな方がコレに関連した発表などをされるのも見聞きするようになり、また少し興味も再開してきたところです。
一昨日に銚子へ仕事で出かける途中に、天気もあまり良くなかったのですが気になったところを訪ねてみようと思いました。
そこは、「曾尼(そね)」という駅家(うまや)があったと思われる場所です。
駅家(うまや)は大和朝廷が地方との連絡網整備の一環として、租庸調などの律令制整備とあわせて推進した道路整備の途中に設けた「駅」です。
街道を大路、中路、小路に種類分類して、約16km置きに馬を20匹、10匹、5匹をそれぞれ常備し、馬の乗換えができる駅舎を設けたものです。
古代東海道(中路)の最北国であった常陸国は国府「石岡」に10匹の馬を常備した駅家(うまや)があったと考えられています。
その駅舎の場所は特定されていませんが、自分の中では場所はここだという思う場所はあります。
さて、今回の話は常陸国府の駅家の一つ手前の駅の名前について少し興味を持っている。
古代東海道といっても時代によって少し違いがある。
西暦771年に武蔵国(国府:府中市)が東山道の国から東海道の国へ移りました。
そして下総国(国府:市川市)と武蔵国を結ぶ路が整備され、現在の東京近郊の道が通れるようになり、それまで東京湾を横須賀の走水から千葉県の富津岬に舟で渡るルートが廃止されたのです。
このルートの廃止に伴い、いくつかの駅家(うまや)が廃止されていきました。
廃止されたのは西暦805年~815年頃のようです。
その後の古東海道の駅家名は西暦927年に完成した「延喜式」に記載があり、下総国府(市川)の駅家「井上(いかみ)」-「茜津(あかねつ)」-「於賦(おふ)」-「榛谷(はんたに)」-「曾禰(そね)」ときて常陸国国府(石岡へつながる。
一方、その前の駅家(うまや)については正確な記載が少なく、わからないが、常陸国国府と鹿島社(香島社)とを結ぶ古道が整備されていたと考えられ、2つの駅家の名前がある。一つは「板来(潮来)」であり、もう一つが「曾尼(そね)」である。
この曾尼(そね)については、常陸国風土記の行方郡に記載があり、
「郡より西北に向ふと提賀(てが)の里がある。昔、この地に住んでゐた手鹿といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。・・・・・。提賀の里より北に、曾尼(そね)の村がある。やはり昔この地に住んでゐたそねびこといふ佐伯の名から名付けられた。今は駅家が置かれ、曾尼の駅と呼ばれる。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれています。
曾尼(そね)は昔住んでいた「そねびこ」という佐伯の名前からついたと言う。
佐伯は大和民族がこの地にやってくる前に住んでいた原住民(縄文人?)のことである。
この曾尼(そね)が延喜式に記載の「曾禰(そね)」と発音が一緒であり、同じ土地名かもしれないとも注目されたようです。
昔の原住民の言葉を知るにはアイヌ語で考えみなければいけないと考え、アイヌ語を当たってみました。
ソネ(sone)=本当の、確かな・・・ という意味があるから ソネ人は本当の民族?などの意味があったのかもしれません。

今回石岡から355号線で玉造の町に入り、霞ヶ浦大橋からきている国道354号線を鹿行大橋の方に左折。
暫く進むと新しい玉造の小学校入り口があり、その少し先に「泉入口」バス停がある。
この泉地区の東側の谷に夜刀神(やとのかみ)を祀る神社と椎井という湧き水池がある。
この泉地区辺りがこの「曾尼駅」があったと考えられる場所だ。
地元の研究会などで駅跡の看板を建てているらしいが、まだ場所は特定できていない。
一方「曾禰駅」も分っていないが、土浦市下高津辺りではないかというのが多くの人の考えのようだ。
またこの鹿島道といわれるもう一つの駅家が潮来にあるのだが、こちらは潮来市街地に近い「長勝寺」の境内に駅跡の碑がたてられている。
もっともこの駅跡もあまり根拠はなさそうで、私はもう少し山側にあったと思っている。
またこの駅家は西暦812年頃に廃止されたのは確からしい(日本後紀)ので、この板来駅以外にも、「曾尼」駅も廃止されたと考えてもよさそうだ。
鹿島道は恐らく奈良朝も陸路より船が使われたのだろう。
また地図で東京湾を渡って上総国(国府:市原)に入った後、下総国の国府(市川)を経由せずに常陸国へ向かっていたルートがあったようだ。
これを上の地図に書き込んだが、上総国府-鳥取(ととり)-山方-荒海(あらみ)ときて、香取の海を船で常陸国へ渡ったようだ。
この地図の「鳥取」「山方」「荒海」「真敷(ましき)」の4つの駅家は西暦805年に廃止となったという。

上の写真は石岡から高浜へ向かう高浜街道脇から見つかった古道の跡(中津川古道)であるが、現在の舟塚山古墳のすぐ近くだ。
この古道跡については諸説あるが、鹿島への連絡路の一部ではないかとの説が強いが、これだけの広い、側溝もある古代官道が東海道ではないわき道である鹿島路に造ったのか私は疑問に思っている。
玉里地区に「五万掘」という古い遺跡のある地区名があるが、これも街道跡によく見られる地名である事を考えると、この中津川古道は石岡-玉里-小川 (-玉造) まで広い道が出来ており、そこから船で「荒海」駅へ向かったということも考えに入れておいた方が良いのではないかと思う。
その他、五万掘地名については、石岡から東山道への連絡古道が造られ、小美玉市の五万掘地区から古道跡が見つかっている。
しかし石岡にも五万掘地名はあった。廃藩置県で石岡の鹿の子地区に江戸の藩士たちの住宅を造ったが、ここ敷地となった場所にあった「五万堀」は埋め立てられて地名は消えた。
久しぶりに「桃浦」へ
昨日、銚子へ仕事に出かける途中、久しぶりに行方市の桃浦湖岸に行って見た。
桃浦は沖洲と羽生の中間だが、鹿島鉄道が走っていたときは桃浦駅があり、かつては夏場は海(湖)水浴もできたという。
何か場違いな感じを受ける「太陽光パナル」などが目に付いて、場所を少しうろうろして、湖岸堤防近くの「B&G財団玉造海洋センター」にやってきた。
この海洋センターは,玉造に体育館・柔剣道場・テニスコート4面(夜間照明付き)・プール(夏季:7月~9月)などの施設があり、ここ桃浦には艇庫「ヨット・カヌー(夏季のみ)」の施設があるそうです。

この霞ヶ浦湖岸を自転車で走るのは気持がよさそうですね。
奥の方には筑波山もよく見えます。



のどかな眺めですね。
桃浦は沖洲と羽生の中間だが、鹿島鉄道が走っていたときは桃浦駅があり、かつては夏場は海(湖)水浴もできたという。
何か場違いな感じを受ける「太陽光パナル」などが目に付いて、場所を少しうろうろして、湖岸堤防近くの「B&G財団玉造海洋センター」にやってきた。
この海洋センターは,玉造に体育館・柔剣道場・テニスコート4面(夜間照明付き)・プール(夏季:7月~9月)などの施設があり、ここ桃浦には艇庫「ヨット・カヌー(夏季のみ)」の施設があるそうです。

この霞ヶ浦湖岸を自転車で走るのは気持がよさそうですね。
奥の方には筑波山もよく見えます。



のどかな眺めですね。
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