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潮来の愛染院

 先日石岡から銚子へ行くときに、玉造から国道355号線で北浦大橋手前の領域を少し散策。

その後北浦の西側沿い(行方市)から潮来(延方)方面へ。
途中に「かんぽの宿潮来」があるのだが、これが今年7月1日より「亀の井ホテル」となった。
結構あちこちのかんぽの宿がリニューアルと称して別なホテルチェーンなどに変わっている。
福島県いわき市の「かんぽの宿いわき」は今年4月から別会社が経営している。

このように郵政グループが運営していた33施設のうち殆んど全て(32施設)が昨年秋に別な会社への譲渡が決っている。
一般に安く泊まれたかんぽの宿は、かなり価格は高級クラスに仲間入りのようだ。

さて、この宿の直ぐ南側の北浦湖岸道路沿いにひときわ目立つ寺院がある。

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愛染明王を祀る「愛染院(あいぜんいん)」といいますが、正式名称は「東雲山愛染院根本寺」です。
ただ真言宗豊山派の寺院で、本尊は「如意輪観世音菩薩」(県指定重要文化財)です。
県の文化財の指定ページでの像の名称も「木造 如意輪観世音菩薩像(附胎内仏)」となっています。
説明としては
「この像は、像高59.4cm、檜材の寄木造で、首が差込み、玉眼(ぎょくがん)入りで、耳の後で矧(は)ぎ、結髪(けっぱつ)を矧いでいます。両臂(ひじ)六手とも差込みです。
 持物の宝珠(ほうじゅ)、輪宝(りんぽう)、蓮華は後補です。制作年代は室町時代と考えられます。
 胎内仏は像高5.9cm、一木造で藤原時代初期の作と推定されます。」
として、像の中に小さな体内仏が入れられているそうです。

伝承によればこの体内仏は空海(弘法大師)の作で、八幡太郎義家の守護仏であったが、鹿島に詣でるときに北浦が荒れて、ここに庵を建て、守護仏を祀って波を沈めたと伝わります。

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地元では地元の地名で「水原の観音様」と呼ばれています。

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平成になり合祀された成就院の聖観音菩薩像?

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愛染院の呼び名は、宝永元年(1704)に、麻生藩主新庄直隆から再建記念として愛染明王像が寄進され、以後麻生藩主新庄家の祈願所となったことによるという。

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寺の裏山へ急な階段があり、上には金毘羅宮が祀られています。
前には上まで登りましたが、今回は暑さもあり、登る気になれませんでした。

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本堂。
ここには「歓喜天」が祀られています。

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潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/01 14:24

蓮の花

 毎年夏になると、朝方、霞ヶ浦周辺では真っ白い大きな蓮の花が咲き乱れます。

日本一のレンコンの収穫地なのでしょう。
でもこんな泥だらけの蓮田にこのような純粋な白い花が咲くのでしょうか?

不思議でなりません。

先日も銚子に行く途中の、国道沿い(行方市)に咲く蓮の花をカメラに収めて来ました。

今日は暑さもひと段落していますが、また暑さもぶり返すようです。


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山形や新潟では大雨で洪水も発生とか。
くれぐれも用心してください。

テレビで新潟県長岡の大花火が放映されていましたが、私も小学生の時には毎年長岡にいて、窓から花火を見ていました。
時々は信濃川の長生橋の方まで歩いて花火を見に行きました。
実際に行くとあの地面を伝わって腹にズーンと響いてくる花火の音はとても迫力満点でした。

また、昔、市内の川が氾濫して床上まで浸水した事もありました。
翌日は畳を外に干している家が何軒もありました。
私のいた祖父母の家は1階がお店で、寝泊りは2階以上でしたが、商品を皆2階へ運んだことを思い出します。
その後市内の川は堤防を強化して、川の氾濫は確かなくなったと思います。


霞ケ浦の自然 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/04 14:34

小幡観音寺(行方市)

 行方(なめがた)市も結構広い。
この行方の名前の由来も分っているようでわかっていない。
常陸国風土記にはヤマトタケルの話として説明はある。
まあ、でもこれはあまりあてにならない。

さて、今回はこの行方市の古くからあるお寺だが、あまり話題に上ることがない気になるお寺を訪ねてみた。
前にも訪れた事はあるのだが、どうも場所があまり通る事がないところなのではっきりしない。
近くに「要(かなめ)」という道路が集まる場所があるので、昔はこのあたりを良く通っていたのかもしれない。
ただ、国道50号線と鹿行大橋を通る国道354号線の間にあるため、用事が無ければあまり車で通る場所ではない。

気になるのはこの寺が忍性が小田に滞在して極楽寺などを建てたときに、この寺も再興したとされていることだ。
また、初期に建立したのは「満海上人」といわれ、伊達政宗と同じ仙台の墓地に墓があるということ。
なんとも興味深いことだが、あまり注目されない。

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この寺の参道は南に長く伸びており、今回はこの南端の仁王門から北へ入って行った。
室町時代末期頃の建築とされる仁王門もどこか可愛らしい。

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仁王門を入ると正面に比較的新しい観音堂がある。
この左手に文化財を保管する収納庫がある。

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ここには、鎌倉時代末期作?の県指定文化財の如意輪観音坐像(金銅製)が安置されている。
台座まで一帯の金銅製像はあまりないそうだ。

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この収容庫に保管されているようだが、公開日などはよくわからなかった。
今度行方市の教育委員会にでも聞いてみよう。

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こちらにも説明があったが、これは寺を創建した満海上人の話し興味深い。

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この観音堂の北には参道が続いており、奥に寺の本堂や鐘楼などがあります。
また途中で車が通る道路が横切っています。

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右手には歴代住職の墓所でしょうか?
少し先には武田氏の墓所などもありました。

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北の端にある寺の本堂など。
こちらはお住まいになっているようです。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/07 10:49

石神遺跡(環状列石?)

 行方市沖洲の山側に縄文時代の環状列石遺跡に似ているとされる「石神遺跡」があります。

行方市の文化財の案内にあり、少し興味を持ってその示されていた住所を訪ねてみました。
しかし、書かれていた住所の最終番地はナビで表示されておらず、近くを探したのですが、近くは沖洲藝術村の奥で、宅地開発されて造成されている感じでした。

もっとも造成と言ってもかなり前で、今では住んでおられる人も少なめで、草木が生茂っている場所も多く、史跡位置が分らなかったのです。
そこで、行方市の教育委員会にメールで場所をたずね、また何か参考になる資料などがないかを問い合わせました。

丁寧にお返事をいただけたので、先日場所の確認と資料のコピーを頂いて来ました。

行方市の3つの市町村(玉造、麻生、北浦)が合併しており、教育委員会は北浦庁舎に置かれていました。
初めて伺いましたが、庁舎の2階全部が行方市の教育委員会でした。

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説明をいただき、史跡の場所が判明。
以前探していた近くでしたが、やはり聞かないと分らないですね。
遺跡は写真のような石で取り囲んだサークルの真ん中に少し大きめの石と、内側の南端部に大きめの細長い石が立ててあります。

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このあたりの地名は「石神」と言うらしい。
この名前からこれを環状列石遺構ではないかと・・・・・・・

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そして、教育委員会から頂いた資料。
玉造史叢(第7集)に鼓乙音さんが書かれた「沖洲の環状列石について」という報告書だ。
調べると、この書籍は「玉造町郷土文化研究会」が会員の発表を年1回まとめて7月に発行されているもので、第7集は1966年(昭和41年)に発行されたと推察されます。

また著者である「鼓乙音」というのはペンネームで、本名は堤一朗さんというようだ。
玉造小学校史などもまとめられている方であった。

文章には昭和37年に発見したとあり、昭和38年2月に土地所有者の了解を得て、表土を掘って見たところ、20cmほど掘ったところから半円のいろいろな大きさの石が三重に式並べてあったという。

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大きさとしては木々の大きさや隣の民家などの大きさから判断できると思うが、それ程大きなものではない。
秋田の大湯などとは比べようも無いが・・・。

真中の丸柱状の石は長さが80cmほどで、花崗岩だという。

いずれにしてもまだ解明されていないようなので、そのうち興味のある研究者の方が解明していただけるとありがたい。
三昧塚古墳や沖洲古墳群も近くにあるので、しばらく少しウォッチしておこうと思う。

(追記)
後から確認したが、現在の遺跡が置かれておる場所は、もともとあった場所ではなく、住宅開発で少し移されたらしい。
また、少し地中に埋まっていたものを現在の地表に並べ直したようだ。
そうすると、この下の地下を掘ってみたいという考えは意味をなさないな。(2023.1.18)

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/08 13:17

ひつじ草(池花池)

 小美玉市の石塚街道沿いにある池花池は冬場は白鳥が来る事で知られていますが、もう一つ琵琶湖周航の歌でも知られる「ひつじ草」が池いっぱいに広がって咲くことでも知られています。

名前の通り「ひつじ刻」頃に花が咲くというので、午後2時には少し早かったが、昼過ぎに近くを通ったので立ち寄りました。

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たしかに睡蓮に似た葉と花ですが、可憐に咲いていました。

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ただ、思っていたよりは花は少なめでした。

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もう少し一面に咲くには時間が早かったのでしょうか?
でも前に見たときは午前中でも咲いていたような気がするが・・・

それとも時期が少しずれていたのでしょうか?

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「ひつじぐさ」は琵琶湖周航の歌の原曲だといわれています。

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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/08 15:13

77年前 終戦

 今年も原爆投下、終戦のあった昭和20年(1945年)8月の行事がやってきた。
これは今から見ると77年前になる。
また、その終戦のさらに77年前は明治維新である。

2度とこんな戦争はしないと誓ったはずなのだが、最近は相手から攻撃される恐れがあった場合は、先制攻撃も出来るようにするとか、核を持っていなければ攻撃されるから持つべきだといった意見が今までになく大きくなっている。

日本は神の国で選ばれた民族国家だなどという人々の気が知れない。
そう思うのは自由だが、他国の国民を自分達より劣った人々だとか、自分たちは特別だという考え方を国の権力者たちが持つと、何が起ころか分からない。
言論は自分たちの意見に賛同する意見しか報道されなくなり、かつての「大東亜共栄圏」構想と同じく、アジアを解放するためと称して戦争を正当化するようになるだろう。

仕事で海外にも何度か行ったが、頭の良さは日本人より優れている地域も多くあったし、女性のたくましさなども多く目にしてきた。
日本人はおおむねまじめで引っ込み思案で、言われたことは守る。それくらい。
ただ、その頃はまだ日本の技術水準もいい所に行っていたが、今では大分見劣りし始めているし、かなりの所で機能不全が目に付く。

日本は島国であり、江戸時代は鎖国で海外との行き来は制限されていた。
独自の文化が花開き、素晴らしい国だと思うが、今はこれが仇(あだ)となって、まったく機能不全に陥ってしまったように思う。

このままいけば先進国の中であこがれどころか、誰からも相手にされない国になるかもしれない。
国の借金は赤ん坊を含めて1人当たり1000万円を超えた。

その借金も日銀が半数以上を持っている?
また日本の株も日銀が筆頭株主などとも。
いつ暴落するのか分からないが、頭の良いといわれていた日本の官僚も機能不全を起こしたのか、どこ吹く風だ。

このままいけばそう遠くない内に日本も戦争に参加するなどとなるかもしれない。
テレビが出始めた頃(昭和30年代前半)、「一億総白痴化」などと言われた時を今頃になって思い出す。

知らず知らずに「総白痴化」が侵食し始めているようにも感じるこの頃である。

明日8月15日は77回目の終戦記念日である。

昔訪れて心に残った、広島の原爆の跡、そして沖縄の地上戦の跡、インドネシアでの戦後復興で日本の賠償金で建てられたホテル、北海道の引き上げ船の話し・・・・・  などなど 思い出せばやはり心に迫るものがある。
やはりこれからは知らなかったでは済まされないことを伝えていかねばならないだろう。


昔の事 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/14 11:45

37年前 日航機墜落

 8月12日のニュースで、日航ジャンボ機の墜落事故から37年という記事が目に入ってきた。
もうあれから37年も経つというのだ。

その事故当時の37年前に大卒で会社に入った人が来年60歳定年を迎えるのだという。
坂本九さんがその飛行機に乗っていて亡くなり、御巣鷹山の山中で朝から救出が始まり4人の方が助かったが多くの乗客・乗員は助からなかった。
テレビから映されたその惨状は眼を覆いたくなるものであった。

私にとってもこの事故は特に記憶に残っているものである。
当時(37年前)、私は勤めていた会社の新聞編集委員をしていた。
これは、それぞれの部署から1人ずつ編集員が選ばれ、持ち回りで会社の新聞のコラム欄の執筆が任された。
私はたまたまこの墜落事故のあった時に、このコラム記事(新聞で言えば天声人語のようなもの)の順番が廻ってきたのだ。

これは、記事のネタにせねばならないと、文学的な文章などとはほとんど縁が無かったが、何とか書き上げて9月始めの締め切りに間に合わせた。

このとき、私は「現在、人生の中間点に差し掛かった筆者であるが・・・・」という言葉を使った事を覚えている。
事故原因はいろいろと取りざたされていたが、「圧力隔壁の疲労破壊」というのが大筋であった。
手元にその時の記事は残っていないが、この「疲労破壊と検査ミスなどを仕事の戒めとして自分たちの仕事を見直したい」などと戒めの記事としてまとめた覚えがある。

37年前の私は37歳。 今その倍の年令になった。
そう人生の中間点の倍・・・・ ということは、もう終末期か。
父親の亡くなった年齢を越したが、まだまだやりたいこともある。
もう少し晩年も楽しみたいものだ。

37年前はほとんど仕事以外での文章などは書いていない。
しかし、幾つかのエッセイーなども読んでいたので、このときがそんな記事を書いた最初なのだと思う。
書いた記事は名前は出していなかったと思うが、意外に評判がよく、今のブログを書き始めるときにも、すこし自信になったのかもしれない。



昔の事 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/15 13:37

12年前 ブログ開始

 2010年8月11日にブログ「まほらにふく風に乗って」を書き始めた。
その2年前の2008年に勤めていた企業で定年を向かえ、そのまま仕事も継続はしていたがこれからの人生をどのように過ごして行こうかをいろいろ考えていた。

今住んでいる「石岡」には妻の希望で、2006年に隣町から引っ越してきたのだったが、古くからの歴史がある町とはいっても、他所から来た者にはどこか活気が無く、おまつりではしゃいでいるだけの「一地方都市」に過ぎないように見えた。

ネットもまだその頃はそれ程盛んでもなかったが、石岡を検索してみてもあまり良い記事はヒットせず、同じような佐原や川越などと比べても情報発信力はかなり劣っているように感じた。
これは民間、行政ともにいえることだった。

自分で作成したホームページなどで少し記事などを書いたりしていたが、住み始めてから調べて興味を持つようになった「地元やその周辺の歴史」などを、行政に文句ばかり言っていないで、自分から発信してみようと一つのサイトを2008年に立ち上げた。
それが、「1300年の歴史の里・石岡ロマン紀行」である。(サイトは ⇒こちら

当時感じた事は、この定年間際の暇つぶしのようなサイトは、その後、雨後のタケノコのように育ってくる若者が作成するサイトやSNSの発展で埋もれてしまうに違いないと思っていた。
しかし、このときの私の思惑ははずれ、数年経ってもあまりこれを超える情報が立ち上がってこなかった。

今では更新もしなくなってしまったし、使っているソフトなどが機能しなくなったりして、スライドショーやドロップダウンメニューなどが使えなくなっている。
これを修正しなければならないのだが、私も、以前ほどパワーがなくなりやらばければならないとは思いながらもう2年くらいは何も出来ていない。

さて、今回の話はこのHPの事ではなく、その2年後の2010年(今から12年前)に立ち上げたブログの話しだ。

町の歴史や名所旧跡などを紹介するこのHPを2年間ほど、結構熱心に更新もしていたのだが、実は飽きてしまったのだ。
書く内容が、市の観光行政の補完のようになり、各所を訪れて感じたことの半分くらいしか書くことが出来ないと思い始めたのだ。

神社仏閣、旧跡、何もない原や空き地、そこにかつて過ごしたであろう人々の思い・・・・ 考えると昔と同じ風がそこを駆け抜け、私の耳元でささやく・・・・。

HPの紹介は誠につまらない。
まるで旅行会社が企画した「団体観光旅行」に行っているような、そんな気がしてきたのだ。

もとから団体の観光旅行やパック旅行は好きではなく、一方的な説明や観光の押し売り的要素がどうしても自分にはなじめない。
そこで、始めてみたのが「まほらにふく風に乗って」と題したブログである。

始めるにあたって考えたのが、このタイトルである。
「まほら=真秀ら」の言葉がその時の自分の気持に一番しっくりしたのだ。

何時まで続けられるか分らないが、始めるからには毎日更新しよう。
目標は先ず1年間。3年位続けばまあ合格だろうと・・・・

細々とでいいのでまずは続けようと

最初の8月に書いたブログは⇒こちら

1日数件のアクセス。
でも毎日更新して、同じブログ仲間との交流で、写真も少しきれいになり、構図もみよう見真似で少し見られるようになった。
そして1日に20~30件位のアクセス。

そんな時に2011年3月11日の東日本大震災が起こった。ブログを始めてちょうど7ヵ月後だった。
地区は全て停電となり、その日のブログは前日に予約投稿を依頼していたので、こちらが停電でもUPされ、連続記録も途切れずにすんだ。しかしこんな大事故の後に何を書いたらよいか分らない。
翌日何とか電気は復旧できたので、更新は続けることができたのだが、問題は市のHPなどが機能しなくなり、災害の発生後の管理機能が麻痺してしまった事だ。
街やお店の電気、食料品の入荷状況、道路の状況、水道の復旧、給水車の情報、ガソリンの在庫不足・新規入荷情報、何時復旧できそうか、放射能の拡散情報・・・・

市の情報が無いならと自分のブログにこれらの情報を毎日数回にわたって更新して発信を続けた。
ネットはかなりそれらの情報を得る事ができるため、石岡市に関係のある他所の都市の人や、海外からも熱心にアクセスがあった。
市出身の方が親類の安否を心配してのアクセスもかなり多く、1日に1000件ほどになったらと思ったら、いつの間にか5000件ほどのアクセスがあった。
これにより、人々が求めている情報のあり方などを学ぶ事ができたと思う。

さて、私のブログは1年、3年、5年と毎日の更新がそれからも続き、6年2ヶ月(2016年10月13日)までの「2256回・連続記録」で一旦連続投稿はやめることとした。

  「風に吹かれて行く処はさだまらず」(記事は ⇒ こちら

と少し肩の荷を降ろして、書き込んだのです。

それから更に6年近くが経つが、まだ「行く処」は定まっていないようです。

さて、いろいろやろうとするパワー昔ほどありません。でも何かをやるとするならば、どうすべきなのか?

「ふるさと風の会」で、機関紙なども毎月発行していますが、これはこのブログと共にあります。
私がこの会に参加したのは2010年の秋ですが、ブログ開始の2010年8月には会の集まりには参加していました。

この「ふるさと風」も来年1月で200号となります。
記念特別号とするほど、会のメンバーには力は残っておらず、200号以降をどうするかをこの秋にでも決めようと思います。
毎回楽しみにしていてくださる方がおられるので・・・・。

今回は少し昔のことを振り返ってみました。

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このブログの表紙画像も最初から殆んど変わらない。
オレンジの画面色が好きで始めたのだが、1年中使っているが、画像はハロインがテーマ。
その10月がまたやってくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。









昔の事 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/18 11:19

山方宿御城

 水郡線の常陸大宮市にある道の駅の少し先(北)に「山方宿」という場所がある。
コロナ禍騒動前までは「日本一の芋煮会」と大きな看板が目に付いたが、コロナ禍で中止となったりしてその存在感が少し薄れてきた。
日本一大きななべを使って芋煮をするのだそうだ。
また、この山方宿は久慈川を越えて三太の湯や金砂の湯などの日帰り温泉施設への入り口でもある。

しかし、このブログでも「常陸国における源平合戦」シリーズを書いたが、1591年の佐竹氏による「南方三十三館仕置き」事件の史実を追いかけて、以前この山方宿にもやってきた。

鹿島氏親子はこの地に連れてこられて、殺されたということが分ったのだ。
しかし、その時にこの最近作られた佐竹派の山方氏のお城「御城」(観光展望台)に立ち寄っていなかったので、今回近くに来たついでに上ってみた。

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山方宿の町の北側に「御城(みじょう)展望台」がある。
この御城は昔の山方氏の城跡に最近立てられた御城であるが、場所は国道118号線の山方宿を少し過ぎ、「岩井橋」という信号がある。右に行くと久慈川を渡って三太の湯などの方に行く。信号の先に比較的短いトンネルがあるが、このトンネルの上がこの御城展望台だ。

上り口はこの岩井橋を左折して直ぐに、御城展望台入口の看板があり、そこに駐車場がある。
車も先まで上れるようだが、一応この駐車場に車を停めて歩いて上ってみた。

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上り始めて直ぐに小さな川を渡るが、そこの橋は「嘆願橋」と名付けれれている。
お城への嘆願をここで受け付けていたというのだが、三十三館仕置きで、この橋で鹿島氏の長子が殺された(自害した?)とされていたことを思い出した。
この鹿島氏の長子は近くの寺に大きな五輪塔が建てられ祀られている。

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この御城展望台は建設当初は見学は有料だったが今は無料になったという。
ただ、この日は月曜日で休館であった。
この御城建設は、東京に住む山方氏の御子孫の方たちが保存していた資料などが展示されているという。
また建設に当っては高額な資金提供もされているようだ。

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中世のお城が当時どのような姿であったかは知らない。 恐らく全く別な姿ではないかとも思うが、石垣が組まれた城(天守閣)が復元されていた。

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休館日に勝手に上ってきたが、蝉の声が結構聞こえ、それでも誰もおらず静かな空間であった。
下の方は車の通る音が微かに聞こえる程度だ。
昔のお城はどのようなものだったのだろうか?

山方氏や城の歴史は ⇒ こちら(常陸 山方城-城郭放浪記)参照ください。

なかなか名門のようだ。

常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/19 11:15

南郷街道

 茨城県北部は中世「常陸奥七郡」と呼ばれ、源氏の佐竹氏が最初に制した場所だ。

源平合戦に向かう前の頼朝の攻撃にも山奥に逃げ込みしぶとく生き残った。
またその後世継ぎ問題で、本流が上杉氏(藤原系)からの養子縁組することに反発した、佐竹氏他派との内乱が100年間も続いたが、最後に常陸国を制した佐竹氏が戦国を生き残ったのはこの奥七郷という地形が幸いしたことは間違いないだろう。

水戸の北、「常陸太田」の北部は、北から南に流れる3本の川(東から里川、山田川、久慈川)があり、その両側は茨城としてはかなり険しい山が続いている。
七郡の呼び名は、この2つの川と、日立市の旧助川と水戸を流れる大きな那珂川を含めた5本の川の両側と挟まれた地域を郡名で7つに分け表現したものだ。

これは前に書いたブログ、下記を参照ください。

 ⇒ 常陸国における源平合戦(12) 奥七郡(佐竹氏の根拠地) 

そして、常陸太田から北に向かう里川沿いの街道を棚倉街道といい、常陸大宮から久慈川沿いを北に向かい街道が南郷街道と呼ばれている。
この2つが主要な街道であった。
里川沿いの棚倉街道がその中でも物資を運ぶのには適していたようで、現在の国道349号線沿いの山脈麓にその昔の道が散見される。

一方常陸大宮から北へ久慈側沿いには現在国道118号とJR水郡線が走っている。
ここに昔の物資輸送のルートとして「南郷街道」と呼ばれる道があったのだが、一部は水郡線建設で消え、また里側沿いよりも山が入り組んでおり、現在の国道とは少しはなれた山や峠越えの道も混じっていて、分りづらくなっている。

今回山方宿にある「御城(みしろ)展望台」に上る道の途中にこの南郷街道の案内板が置かれていたので、これを紹介します。

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このお城への上り口に看板は置かれていたが、脇に結構狭そうな道もあり、実際にどのような道だったのかは想像するしかない。
ただ、ここは現在の国道がトンネルとなっている箇所でもあり、川沿いには道が無かったと思われる。

この南郷街道は、里川沿いの棚倉街道と棚倉手前で合流する。
昔はこの棚倉が東北方面への一つの街道の要となっていたと思われる。

佐竹氏による南方三十三館仕置きで、一挙に南方の常陸の平氏一族を滅ぼした事件の痕跡を探していて、この南郷街道沿いの佐竹派家臣にあづけられれ殺されたのが、山方宿で「鹿島氏親子」、その先の小川氏(上小川の頃藤城)で「島崎氏親子」がいる。
常陸太田からどのようにこの佐竹氏家臣の城へ送られたのか?
どのような形で送られたのか?
どのような道を通ってそこへ行ったのか?

上小川の頃藤城から先の常陸大子へは、この南郷街道は今の久慈川沿いは山が迫り出していて、久慈川沿いは避け、上小川から西へ4~5kmほど栃原方面へ行き、そこから峠越えして行ったようであり、こんな山や峠を越えて昔の人は良く歩いたものだと感心してしまう。

戦国時代も結構多くの婚姻関係が結ばれており、調べていくとそのおくられた先はそこから嫁を貰ったりして、姻戚関係にある事が多い。
殺す方も、殺された方も戦国時代でなければそのようなことはなかったはずである。
何かやるせない気もする。

しかし、殺してしまってもその後に、墓(五輪塔)を建てたり、丁寧に弔ったことが報告されている事が救いである。

歴史を学ぶとは何か・・・・・・・・  このような細かな事にも眼を向けていきたいとおもう。


常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/21 13:38
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