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三昧塚古墳から

 国道355号線を石岡から霞ヶ浦北岸沿いに進むと、小美玉市・小川を抜けて行方市に入ってすぐ左側に「三昧塚古墳」がある。
農村公園ともなっていて、古墳というと少し暗いイメージがあるが、ここは周りには木々も無く、カラッと明るく、陽射しもまぶしい場所にある。

堤防などの盛り土に使おうとこの小山を削っていたところを、たまたま通りかかった県の職員?が古墳である事に気付き、掘削をやめさせ、古墳調査がなされたという。
そこで驚く埋葬品が発見された。

古墳も中世頃にかなり盗掘が行われていたとする資料を見たことがあるが、ここは幸いにも盗掘がされなかったようだ。

今回、この前を通って久しぶりに天気も良く、上まで登ってみる事にした。

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前方後円墳のきれいな形ではあるが、削ってからまた構築しなおしたらしく、形は人工的である。
しかし、周りに何も無く、芝生できれいに整形され、カラッと明るく古代の墓とはいえ、結構上に登ると気持がよい。

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古墳には横の方に上へ登る石段がつけられている。

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また、最近は外来種のタンポポに似た黄色い草花(ブタナ)が咲いている。

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古墳の頂上に、この古墳から見つかった石棺や内部の装飾品の名称や、置かれていた位置などが描かれた石板が置かれている。
これは良くわかり参考になる。

もっとも有名なのが、②の番号が振られた「金銅製馬形飾付冠」である。
水戸にある県立歴史館に保存され、この歴史館でも普段はこのレプリカが作られて、展示されている。

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この説明では「三昧塚古墳は、西暦五世紀末に築造された大型の前方後円墳である。豪華な副葬品と共にここに眠る人物は、近畿地方の勢力と強い絆を持ちながら、霞ヶ浦の水運を掌握し、行方地域を制した大首長であろうと考えられる。」と書かれていた。

昔はこの霞ヶ浦は大きな内海だった。
海洋民族もやって来ていたと思われる。
ただ、この馬の飾りの付いた金銅製の冠は、騎馬民族の流れとも考えられ、ロマンが膨らむのだ。
一昔前に「邪馬台国騎馬民族説」などという本がよく売れたことがあった。
1970年代後半だったか?

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目の前の霞ヶ浦沿岸にポプラの木が植えられた場所がある。
ほほえみの丘と名付けられた場所だ。
砂場の復活のために防砂設備などを入れて工夫している。

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前の国道を左に進むと正面にこんもりした小山が見える。
ここが沖洲古墳群の勅使塚古墳と呼ばれる場所だ。
茨城県で最も古い古墳かもしれないといわれているとか。
勅使が昔対岸からこちらに船で渡っていたかもしれないと良く想像するが、これもあまりはっきりした事はわかっていない。
ただ、昔からの言い伝えなどから奈良朝の初め頃までは勅使が美浦村あたりから舟で渡ってきたなどとも言われる。

この古墳群の一角に来年オープンを目指す「沖洲古墳群みんなの広場」を作ろうとされている方がいる。
詳細は ⇒こちら(GALLERY SAGA オフィス)

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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/10/02 13:36

玄蕃山(その1)

 今から3年ほど前に「天狗湯を探せ」として、千葉県・銚子にあった天狗湯の場所を訪ね歩いた記録を書きました。
これは江戸時代後期に儒学者平田篤胤の書いた「仙境異聞」に出てくる「天狗小僧寅吉」の晩年に子孫が開いた薬草湯「天狗湯」の場所を探した時に記したものです。(詳細は ⇒ こちら

そして、その後この寅吉が天狗修行した茨城県笠間市(岩間山)に縁のあった陶芸家の高橋協子さん、ピアニストの小林萌里さん、ギタリストの大柴拓さんなどによりアニメ化され、今年3部作が完成しました。


ホントにあった天狗のはなし1~寅吉物語~ YouTube ⇒ こちら
ホントにあった天狗のはなし2~ YouTube ⇒ こちら
ホントにあった天狗のはなし3 ⇒ 岩間山の天狗伝説3(こちら) ~ YouTubeは今後

さて、今回は寅吉の晩年に子孫が銚子に「天狗湯」という薬草の銭湯を始めたということで、何故のこの場所が選ばれたのかを少し考え始めています。

一般には笹川の諏訪神社の神職をしながら病気治療も行っており、その時に銚子の富豪であった西広重源さんという人の娘さんの眼病を治したために、西広家の近くの場所を提供されて銭湯を始めたと伝えられています。
ただそれだけなのでしょうか?
天狗は当時どのような存在と考えられていたのでしょう。
この山岳信仰との関連も気になりますね。

先日、銚子へ又行って来ましたので、少し散策して来ました。
昼食は久しぶりに飯沼観音門前の「観音食堂・丼屋七兵衛」さんでとりました。
この食堂の店内に江戸時代末期(安政2年:)に赤松宗旦が書いた利根川図志に載っているここ銚子の町の絵図が壁板に大きく書かれているのです。

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観音界隈の図となっています。
中心は飯沼観音で、そこにはもう一つ「竜蔵権現」という表記も見られます。
江戸時代、ここ銚子は現群馬県の高崎藩の陣屋(飯沼陣屋)があり、遠い高崎藩と関係がありました。
東側(右側)にある陣屋というのが当時の高崎藩の陣屋跡です。
現在の町名も陣屋町となっています。

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飯沼観音は坂東三十三観音の札所の一つで、一つ前の札所は現茨城県土浦市の小町の里近くにある「清滝寺」です。
飯沼観音、竜蔵権現の少し北東側に「大仏」とあります。
現在こちら側には「飯沼山 圓福寺」という寺があり、飯沼観音の管理もこちら側でやっていますので、昔は神仏混合の施設となっていたのだと思われます。寺の説明では奈良時代から法灯が受継がれてきた真言密宗の古刹と表現されています。

ただ、太平洋戦争末期の昭和20年7月に銚子の町はB29による空襲で火の海となり、このお寺などの施設の多くが灰となってしまいました。現在は大仏や三重塔、仁王門などが再建され、銚子の町のシンボルにもなっています。

genba山2

上の写真地図はGoogle Mapsのこの地方の航空写真地図です。
右側上部に赤丸で囲った「飯沼観音」があり、その左手に「丼屋七兵衛」さんが記入されています。
そして、その少し南側(下側)に円福寺があります。
きっと昔は、この観音もお寺もほぼ一体だったのでしょう。
今は銚子電鉄(銚子~外川)が走っていますが、当然江戸時代はありません。

また、地図の右上側に「天狗湯跡」との記載があります。
三年前に天狗湯探しをしていた頃は場所がわからずにうろうろしましたが、驚いた事に今ではこのような表記が地図に載っていました。
何か責任を感じてしまいますが、この表記については私は何もかかわっていません。
ブログに書いたら勝手に記入されてしまったのでしょうか?

天狗湯のあった位置から南西側に黄色い線を引いていますが、この線上に少し気になる箇所があったので、現在少し散策してみました。
あまり成果はないのですが、利根川図志の地図に「センゲン」と「アタゴ」との表示がされている場所と天狗湯跡を繋いだ線です。

現在、センゲンと書かれた場所はこの山の上に神社があり、扁額には「浅間神社・愛宕神社」が併記されています。

浅間愛宕
(浅間山の上には二つの神社が同じ拝殿に祀られている。また隣に小さな祠があり、天満宮も祀られている)

そして、利根川図志の「アタゴ」のあたりは「玄蕃山(ゲンバヤマ)」があります。
最近はあまりこの玄蕃山については地元の若い方もご存じない方も多いようで、私も知りませんでした。

昔は「観音さま と 玄蕃(げんば)さま」と言われていたのだとか・・・・
ヒゲタ醤油の創始者の名前がこの玄蕃山に屋敷を持っていた「田中玄蕃」という人物で、玄蕃様と呼ばれていたそうです。
この名前は代々世襲されて使われていたそうです。
ただ、この名前についても、もう少し調べて見ないと良くわかりません。
少し調べてから続きを書きます。

     (その2へ続く)

天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/10/16 17:34

玄蕃山(その2)

先日「天狗湯」関連で、ブログに読者からコメントをいただき、銚子の玄蕃(ゲンバ)山という場所に何かがありそうだと散策をしてみようと思い立ったのですが・・・・

これが思ったより難題を与えられたようで、奥が深そうです。わたしの手に負えるかどうか・・・・。

一般的な地図にはこの玄蕃山の表記がなく、これまでこの名前を聞いても場所が良くわからなかったのですが、国道を銚子電鉄に沿って東に進むと、飯沼観音のあるところの信号を過ぎて、犬吠崎方面に向かうと、銚子電鉄の踏切を渡ります。

この踏切の手前の左側が浅間山で、これは前回書いたように3つの神社(浅間神社・愛宕神社・天満宮)が一緒に祀られています。
さて、玄蕃山というのは、この踏切を渡る手前の右手側、手前に公園があり、その奥の林(小山)です。
そしてその奥に「飯沼小学校」があります。

まあ何ということもない荒れた林のような山です。
でも、銚子電鉄が出来る前は、たぶんこちら側の浅間山と続いていた小山で、こちら側には「アタゴ」があったのだと思われる雰囲気です。
まあ、今も先ほど書いた踏切を渡って、直ぐ右手の上には「愛宕神社」が祀られています。
ただ、後ほど紹介しますが、この銚子電鉄が施工された後に後から建てらえたのではないかと思われます。
なにしろこの線路の南側は結構広い範囲で住所は「愛宕町」となっている地域なのです。
天狗湯は愛宕町より北側ですが、寅吉たちは、恐らくこの南東側のこんもりした森を愛宕山と理解していたようなのです。

ここで少し愛宕神社に付いて考えて見たいと思います。

愛宕さんといえば、京都の愛宕山ですよね。この位置を地図で見てみましょう

京都2

京都の人は西の愛宕山、東の比叡山と二つの山を特に意識して眺めているようです。
この2つの山はほとんど同じ高さなのです。(愛宕山:924m、比叡山:848m)
京都の町から北東(鬼門の方向)に、比叡山があり、この方向を延ばしていくと、琵琶湖北岸の長浜に多くの寺院跡が残されている己高山があり、その先に山岳信仰の霊地「白山」があります。

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この白山信仰を広めたのは泰澄といわれています。

 歴史上の気になる人物(3)-泰澄(たいちょう) ⇒ こちら

また、こちらも関係しているかもしれないので
歴史上の気になる人物(1)- 役小角(えんのおづぬ) ⇒ こちら

でも、天狗といえば愛宕山なのです。嵐山の渡月橋から西北に見える山です。
この京都の愛宕山には一番天狗?の「太郎坊」天狗がいるといわれています。

京都の愛宕神社HPを除いてみましょう。神社の由緒によると
「その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に、修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立しました。
 その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えられます。早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に七高山の一つに数えられました。神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していましたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っています。」
と書かれていました。

まあ、この内容については縁起ですので、何処まで信憑性があるかはわかりません。今はこのように書かれているという事にしておきます。

私が京都の愛宕山と聞いて、頭に浮かぶのは平家物語に出てくる「一条戻橋の鬼女」の話です。
この話しは後に能の演目になった「羅城門(羅生門)」の話しの元になったといわれるものです。
(参考文献:福娘童話集 > 日本のこわい話(百物語) 百物語 第82話 ⇒ こちら

ただし、上記の参考文献は途中で終わっていますが、その後陰陽師の安倍晴明もでてきますので、興味のある方は検索して探してみてください)

ただ、ここでは鬼女が渡辺綱を愛宕山に連れて行こうとしています。鬼女は愛宕山に住んでいたことになります。
後の能の演目「羅城門」では羅城門(羅生門)に鬼が住んでいたとなっています。

当時の愛宕山は今と同じようにその近隣の町の「火防」として祀られているのは同じなのですが、鬼(一部で土蜘蛛)が住んでいたり、天狗が飛び回っていたりしていたようです。
もっとも天狗が火を消すという話と、火事の火の中で天狗が走り回っていたり、いろいろな話がありますね。

(参考:甲子夜話 三篇 巻之67 〔10〕  天狗が走りて火を引く、妖魔を見た者語る ⇒ こちら

さて、銚子の玄蕃山ですが、地元でも今の若い方はあまりご存じないようですが、ある程度年配の方はこの一帯を「田中玄蕃」という方の住んでおられた場所で、銚子で最初に醤油製造を始めた「ヒゲタ醤油」の創業者がいたところだと知っておられるようです。
だから「玄蕃さま」といえばこの田中玄蕃とすぐに頭に浮かぶようです。

ここで、ヒゲタ醤油のHPを見てみましょう。
○ 創業:1616(元和2年)第三代田中玄蕃が、銚子でたまりしょうゆの製造販売を開始(ヒゲタ醤油の創業)
○ 玄蕃蔵物語:ヒゲタしょうゆの醸造を、下総銚子の地で始めたのは田中玄蕃(げんば)という人である。
 元和2年(1616年)、・・・・土地の有力者であった田中玄蕃は、西の宮の真宣九郎右衛門(さなぎくろうえもん)という人にすすめられて醤油を醸造するようになったと伝えられている。
はじめは、大豆を主原料とした、「大極上々溜醤油」と称していたが、元禄時代に、第五代田中玄蕃が江戸の食味に合うように醸造法を改良(小麦の活用、米麹の利用など)して、現在の関東濃口しょうゆの基礎が出来上り、江戸庶民の食生活にヒゲタしょうゆが愛用されるようになった。銚子を母に江戸を父に育てられた関東最古の醤油蔵として、しょうゆ造りの原点にたち帰ると共に、ヒゲタの創始者に感謝し、その名を後世に伝えてゆくために、・・・第十二代濱口吉右衞門社長の提案のもとに、関連部門の担当者が集まり検討を開始したのは、平成元年(1989年)の秋であった。 製品のコンセプトは、往時の「造り」を現代の技術と設備で再現してみるということにした。(玄番蔵は毎年九月九日の重陽の節句に蔵出しされる)
と書かれていた。

ところで、この会社のHPでは第3代田中玄蕃が創業者と書かれているが、デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク によれば、田中玄蕃(初代)のページには次のように書かれている。
「江戸時代前期の醤油(しょうゆ)醸造家。
下総(しもうさ)海上郡飯沼村(千葉県銚子市)の名主。摂津西宮(兵庫県)出身の酒造家真宜(さなぎ)九郎右衛門から関西の溜(たまり)醤油の製法を伝授され,元和(げんな)2年(1616)醸造を開始。江戸本船町の真宜の支店で販売,現在のヒゲタ醤油の始祖となる。石橋源右衛門と名のっていたが,承応(じょうおう)4年(1655)田中玄蕃と改名。」

さて、これによれば石橋源右衛門という銚子の名主が醤油つくりをはじめ、1655年に「田中玄蕃」と改名したとなっている。
という事は、江戸?で田中玄蕃という名士がいて、その名前を受け継いで3代目となったのかもしれません。

戦国時代から江戸時代は、いわゆる役職をその人の名前のように呼ぶことが一般的になっていました。
たとえば吉良上野介は義央(よしひさ?)という名前であったが、一般には「上野介(こうずけのすけ)」で呼ばれ、そちらが正式な名前のようになっていたのです。
私の住んでいる茨城県石岡市は、もと常陸府中藩で、藩主は江戸の小石川にいた。水戸の松平家(徳川家)の親戚であるので常陸の領地には殆んど来ない。小石川の地元では播磨守であるので「播磨(はりま)様」と呼ばれていた。
この場所は今は「播磨坂」と呼ばれる桜の名所になっています。

このように正式に役職を任命されて、その名をつけていた人物以外にも結構昔の官職を自分の名前につけていた人々がいたらしい。
特に官職でも下部組織の役職はそのうちに任命もされないから勝手に名乗ってものあまり問題とはならなかったようだ。
さて、「玄蕃(げんば)」というのは、実は昔の役職名で 「玄」は僧侶、「蕃」は海外からの人をもてなす職をさし、遣唐使などの時代には唐からの人をもてなす役職で、当然言語は漢字文化であり、理解出来るのは僧侶に限られたのであろう。

石橋を田中としたのには、別に何か理由があったものと思うが、今のところ良くわからない。
今は分からないが、メモとして残しておけば、其の内情報も入るかもしれない。

また、天狗湯の場所を提供した「西広重源」という人物と聞いているのだが、こちらも記録では分らない。
ただ、西広家は和歌山からやって来て、銚子で金貸しから敷地を広げ、船の網元からイワシ漁、缶詰加工などで財を成して行った西広家の人物の一人ではないかと考えられます。また重源は奈良東大寺を再興した「重源(ちょうげん)上人」と同じ名前であり、これも僧侶の名前であったのかもしれません。

また長くなってしまいましたのでこの玄蕃山を少し散策した記事は次に書きます。

玄蕃山(その1)は ⇒ こちら

天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/10/18 12:41

玄蕃山(その3)

 この記事は平田篤胤が江戸時代に書いた「仙境異聞」に出てくる天狗小僧寅吉のその後を追いかけ、子孫が千葉県銚子で薬草湯の銭湯をやっていたという実話により、3年前に書いた「天狗湯を探せ」というブログの追加記事として書いています。

 天狗湯を探せ ⇒ こちら
 玄蕃山(その1) ⇒ こちら
 玄蕃山(その2) ⇒ こちら

さて、銚子の飯沼観音を見下ろせる少し高台の小山が玄蕃山と呼ばれていますが、この場所は銚子でいち早く(江戸の初期の1616年)醤油醸造を始めた田中玄蕃という人が領していた場所と言われ、ヒゲタ醤油を始めた所とみられています。

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ではここで、銚子と常陸国岩間(現笠間市)の愛宕神社との位置関係を見てみましょう。
寅吉が天狗修行をした岩間山(現愛宕山)は銚子の北西方向(戌亥=乾いぬい)にあります。
この線をさらに先へたどっていくと日光となります。ここも天狗の聖地です。

もう1カ所天狗の神社としても知られる「大杉神社」の総本山の場所を赤まるで示しています。
ここも忘れてはいけないように思います。「茨城の日光東照宮」とも呼ばれるほど凝った作りの神社です。

ヒゲタ醤油の創始者である「田中玄蕃」は江戸初期に醤油を始めるにあたってこの大杉神社を訪れたといわれています。

さて、では銚子の玄蕃山を見てみましょう。
銚子北側の国道を銚子電鉄に沿って東に進むと飯沼観音のある交差点に出ます。
ここを右に(南へ)曲がると、銚子電鉄の「観音駅」があり、この踏切を越えてすぐ「飯沼小坂下」信号があります。
ここを左に少し狭い道を曲がって、2手に道が分かれますが、右に坂を上ると左手の森が玄蕃山で右手に飯沼小学校があります。

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上の写真のような坂道の右手に飯沼小学校があり、左手には古木の生い茂った森があり、この森が玄蕃山と呼ばれていまし。
ただ昔はこの小学校辺りも玄蕃山と言われていたのではないかと思います。

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この森は結構木や草に覆われていて、中に入っていけません。
少し先へ行った辺りで入れそうな場所もありますが、藪をかき分けねばなりません。

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右手には飯沼小学校があります。
小学校からはこの森がすぐ手前で、そのすぐ北側を銚子電鉄の線路があり、線路の北側には住宅も広がっています。

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小学校の東端あたりから森へ続きそうな道があったので入ってみました。

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その入り口には福寿院と書かれた百度石(お百度詣りの標識となる石)などがありました。
これはここからどこにお参りしていたのでしょうか。
ここにお寺があったようなのですが、今は寺院というより普通の住宅と言った家が建っています。
ただここから坂を下って浅間山の方に道が続いています。

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そして、その先は森の中の道へ、線路に向かって下っていきます。

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そして、線路には小さな踏切があり、渡れるようですが、少し危険ですね。
ただこの先は住宅地で、その先に浅間山(浅間神社、愛宕神社)へ続いています。
Googleの地図には、この手前左側の森の中に「玄蕃井戸」のマークが書かれているのですが、どこから行けば・・・・・

仕方がないので、最初の方に戻って、飯沼小坂下を入って小学校への坂を上らずに、左側の住宅などの方向へ行ってみました。
ここはこの森の下側になり、少し家がありますが道も途中で途切れてしまいます。
ただ、雨の後でもありましたが、結構水が溜まりじめじめしています。
また山側の崖にはいくつもの横穴が開いています。

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このように金網でふさがれたものもありますが、草で覆われてよくわからなところも含めると7~8個くらいはあります。
後から聞いてみたところ、これらは戦時中の防空壕の跡で、線路の反対側の公園側にも昔はあったとのこと。
また、昭和20年7月の空襲の時は、皆この穴の中に逃げ込んだそうです。

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玄蕃井戸と呼ばれる遺跡はこの先にありそうなのだが、余り汚れてまで探す元気はなく引き返した。
玄蕃井戸(別名:竜の井)はヒゲタ醤油つくりに使われた水をこちらの湧水をためておき、ここから引いて使ったというレンガつくりの遺跡です。
まあ、それほど見たいわけでもないが、又暇なら探してみましょう。

浅間山のところの踏切を犬吠埼方面に渡ったすぐ先の右側に「愛宕神社」があるので、そこにも行ってみました。

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コンクリ造りの神社拝殿と、右側に小屋があります。

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神社の鳥居は拝殿の正面ではなく左側にあります。

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右側の小屋の中には神輿がしゅうのうされており、奥の壁には寄付者などのお名前の書かれた木札がびっしりと並べられていました。

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神社の神紋は三つ葉葵の徳川家のご紋でした。

こちら側の愛宕町の守り神としてあった愛宕神社を復活させて建立したのかもしれません。
ただ、これも勝手な解釈で、もう少し地元などで聞いてみなければよくわかりません。
今はただメモとして残しておくことにします。

天狗湯を探せ | コメント(3) | トラックバック(0) | 2022/10/19 11:45
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