秋の雲??
今週始めの月曜日(31日)に銚子へまた出かけた。
家を朝でて、霞ヶ浦沿いを東に車で走る。
出かけは天気は良かったが、まだ暑さは感じなかった。
しかし、徐々に気温が上げって行く気がしてきた。
車は東に走っていくのだが、東の地平線側からどこか夏を思わせるような雲がもくもくと湧いてくるようだ。
10月に入って、秋のイワシ雲(うろこ雲)のような高い雲が暫く上空を覆って、秋を感じたのだが、この日は何処か夏に戻ったような気になってきた。

行方市の西蓮寺付近の国道から脇には行ったところで写真を撮ってみた。
入道雲ほどではないし、地平線に近いところは薄っすらと靄がかかったようになっていた。

同じ場所から西側を振り返ると、筑波山方面は全く雲もない青空だ。
今回はいつものルートではなく息栖神社方面から利根川を渡り、小見川、笹川を走ってみようかと途中から右に曲がった。
息栖神社で少しお参りして、息栖大橋で常陸利根川を渡った。
川の東側は朝日があたってキラキラととてもきれいだ。
だけど、運転しながら写真が撮れない。
その先の小見川大橋で利根川を渡り、川沿いの空いた道路へ出た。

少し走って、川の土手に上ってみた。
利根川大橋がきれいだ。

その先に息栖大橋が見える。
橋を渡った少し左側に息栖神社がある。

この川沿いの道は、数年前に整備され、いつもガラガラだ。
今写真には車も写っているが、信号が変わったあと少しくらい後しか車は走っていない。
ここ小見川から笹川まではこの車道が整備されているが、その先はまだ出来ていない。
現在銚子の近くは国道沿いにここに通じる道が造成中だ。

東側の笹川方面を見ると、空は白い綿のような雲が広がって迫ってきていた。
今の時期、このように東から雲が湧いてくるのだろうか?

利根川の向こう岸の茨城県側にコンビナートのエントツ群が見える。
鹿島石油コンビナートの工場群だ。
神栖市の中心街にかなり近く、私も、このコンビナートも昔は仕事で何度となく行ったが、最近はこうして眺めるだけになった。
家を朝でて、霞ヶ浦沿いを東に車で走る。
出かけは天気は良かったが、まだ暑さは感じなかった。
しかし、徐々に気温が上げって行く気がしてきた。
車は東に走っていくのだが、東の地平線側からどこか夏を思わせるような雲がもくもくと湧いてくるようだ。
10月に入って、秋のイワシ雲(うろこ雲)のような高い雲が暫く上空を覆って、秋を感じたのだが、この日は何処か夏に戻ったような気になってきた。

行方市の西蓮寺付近の国道から脇には行ったところで写真を撮ってみた。
入道雲ほどではないし、地平線に近いところは薄っすらと靄がかかったようになっていた。

同じ場所から西側を振り返ると、筑波山方面は全く雲もない青空だ。
今回はいつものルートではなく息栖神社方面から利根川を渡り、小見川、笹川を走ってみようかと途中から右に曲がった。
息栖神社で少しお参りして、息栖大橋で常陸利根川を渡った。
川の東側は朝日があたってキラキラととてもきれいだ。
だけど、運転しながら写真が撮れない。
その先の小見川大橋で利根川を渡り、川沿いの空いた道路へ出た。

少し走って、川の土手に上ってみた。
利根川大橋がきれいだ。

その先に息栖大橋が見える。
橋を渡った少し左側に息栖神社がある。

この川沿いの道は、数年前に整備され、いつもガラガラだ。
今写真には車も写っているが、信号が変わったあと少しくらい後しか車は走っていない。
ここ小見川から笹川まではこの車道が整備されているが、その先はまだ出来ていない。
現在銚子の近くは国道沿いにここに通じる道が造成中だ。

東側の笹川方面を見ると、空は白い綿のような雲が広がって迫ってきていた。
今の時期、このように東から雲が湧いてくるのだろうか?

利根川の向こう岸の茨城県側にコンビナートのエントツ群が見える。
鹿島石油コンビナートの工場群だ。
神栖市の中心街にかなり近く、私も、このコンビナートも昔は仕事で何度となく行ったが、最近はこうして眺めるだけになった。
今年も残りを数えるようになりました。
私の所属している「ふるさと風の会」の11月号の印刷を先週末の土曜日に行いました。
A3用紙で5枚(A4x20頁)を毎月500部強発行を続けていて、今回が198号です。
来年1月に200号(16年8ヶ月)となり、一つの区切りを迎えます。
継続は力なりと言いますが、3年、5年、100回、10年、15年ときて、とうとう200回続けられそうです。
ただ、会員数も少なく、年々年令を重ねて自分達だけで発行していますので、それなりに苦労も多いです。
代表であった脚本家(映画監督も)白井啓治さんを含め、2人の先輩がお亡くなりになり、存続の危機を迎えたのが3年前。
なんとかやれるところまで継続。
しかし、記事を書いていただける会員にも限りがあり、来年からは年4回の季刊とすることとします。
外部からの読者投稿も受け付けておりますので、是非書いてみたいという方はお声をかけてください。
さて、今回の機関紙を配りに、つくば市北条へ。
すると、町の中心通りは通行規制で車は入れません。
手前で車を止めて、歩いて観光施設登録がされている「田村家」へ。
多くの方がお店にもおられ、「北条市」で賑わっていました。
その帰りに街外れ(大池側)にある街中華のお店「天津」さんで昼食です。
今回で2回目。結構お客さんも多く、昼間から餃子などをおかずにビールを飲んでいるお客さんなどもいたりします。
また、筑波山周辺のサイクリングに来てこのお店を訪れる人もかなりいるようです。

お店は昼の部は14:00まで。夜の部が17:30からまたはじまります。

お店はご主人と奥さんの2人で切り盛りされていました。
先月初めて訪れたときは、13:30頃で、結構ぎりぎりでした。
FBFに紹介された「野菜炒め(500円)とライス(200円)」を注文。
ライスには中華スープがついてきます。
普通なら定食とかセットメニューがあるのですが、ここでは皆さん、もう覚えていて、このように注文するのだそうです。

やはり、聞いていて良かった。おいしいです。 何か癖になりそうですね。

さて、今回は2番人気の「炒飯」(550円)です。

うん、これも「街中華」の定番ですね。
さて、来月はどうしようかな。
来年になれば、毎月ではなく3ヶ月に1度になりそうですので・・・・。
帰りに小町の里に寄って、朝日トンネルを抜けて石岡市八郷地区へ。

(朝日トンネルの土浦側入口:山並みも美しい。)
トンネルを抜けて、下青柳から「ブックカフェ えんじゅ」さんに立ち寄り、野村さんとお喋りして来ました。
隣では若い女子達が茅葺屋根の修理復元や、庭の木々、池などを整備中でした。
立派な観音堂に目を見張りました。これから先が楽しみです。
風の会もまだもう少し頑張らなければなりませんね。
会の書籍も作って販売もしています。
先日市内の書店さんから注文があり、今日午後から納品します。
A3用紙で5枚(A4x20頁)を毎月500部強発行を続けていて、今回が198号です。
来年1月に200号(16年8ヶ月)となり、一つの区切りを迎えます。
継続は力なりと言いますが、3年、5年、100回、10年、15年ときて、とうとう200回続けられそうです。
ただ、会員数も少なく、年々年令を重ねて自分達だけで発行していますので、それなりに苦労も多いです。
代表であった脚本家(映画監督も)白井啓治さんを含め、2人の先輩がお亡くなりになり、存続の危機を迎えたのが3年前。
なんとかやれるところまで継続。
しかし、記事を書いていただける会員にも限りがあり、来年からは年4回の季刊とすることとします。
外部からの読者投稿も受け付けておりますので、是非書いてみたいという方はお声をかけてください。
さて、今回の機関紙を配りに、つくば市北条へ。
すると、町の中心通りは通行規制で車は入れません。
手前で車を止めて、歩いて観光施設登録がされている「田村家」へ。
多くの方がお店にもおられ、「北条市」で賑わっていました。
その帰りに街外れ(大池側)にある街中華のお店「天津」さんで昼食です。
今回で2回目。結構お客さんも多く、昼間から餃子などをおかずにビールを飲んでいるお客さんなどもいたりします。
また、筑波山周辺のサイクリングに来てこのお店を訪れる人もかなりいるようです。

お店は昼の部は14:00まで。夜の部が17:30からまたはじまります。

お店はご主人と奥さんの2人で切り盛りされていました。
先月初めて訪れたときは、13:30頃で、結構ぎりぎりでした。
FBFに紹介された「野菜炒め(500円)とライス(200円)」を注文。
ライスには中華スープがついてきます。
普通なら定食とかセットメニューがあるのですが、ここでは皆さん、もう覚えていて、このように注文するのだそうです。

やはり、聞いていて良かった。おいしいです。 何か癖になりそうですね。

さて、今回は2番人気の「炒飯」(550円)です。

うん、これも「街中華」の定番ですね。
さて、来月はどうしようかな。
来年になれば、毎月ではなく3ヶ月に1度になりそうですので・・・・。
帰りに小町の里に寄って、朝日トンネルを抜けて石岡市八郷地区へ。

(朝日トンネルの土浦側入口:山並みも美しい。)
トンネルを抜けて、下青柳から「ブックカフェ えんじゅ」さんに立ち寄り、野村さんとお喋りして来ました。
隣では若い女子達が茅葺屋根の修理復元や、庭の木々、池などを整備中でした。
立派な観音堂に目を見張りました。これから先が楽しみです。
風の会もまだもう少し頑張らなければなりませんね。
会の書籍も作って販売もしています。
先日市内の書店さんから注文があり、今日午後から納品します。
銚子の伝説、本をゲット
先週末に銚子へ行ったときに、下記の本2冊を購入しました。

「銚子の歴史と伝説」・・・銚子市郷土史談会二十周年記念誌 平成5年発行(2000円)
「銚子の伝説と奇談」・・・高森良昌 編集 平成21年 発行(500円)
どちらも自費出版をサポートしている銚子の(株)秀英社が発行している。
一般書店ではあまり扱っておらず、観光関連の施設などと、出版社で手に入るという。
今回、駅近くの出版社の辺りをうろうろし良くわからなかったので、「銚子セレクト市場」でゲットした。
市場のメインの産直や弁当などを売っている売店の奥の壁際にサンプルが置かれていて、そのサンプルを持って店内のレジへ。
そこで新しい本を出してもらえる。

興味がおありの方にわかるように、それぞれの目次を載せてきます。


まだよく読んでいないが、かなり面白そうだ。
また何か面白いことが分かれば、記事にします。

「銚子の歴史と伝説」・・・銚子市郷土史談会二十周年記念誌 平成5年発行(2000円)
「銚子の伝説と奇談」・・・高森良昌 編集 平成21年 発行(500円)
どちらも自費出版をサポートしている銚子の(株)秀英社が発行している。
一般書店ではあまり扱っておらず、観光関連の施設などと、出版社で手に入るという。
今回、駅近くの出版社の辺りをうろうろし良くわからなかったので、「銚子セレクト市場」でゲットした。
市場のメインの産直や弁当などを売っている売店の奥の壁際にサンプルが置かれていて、そのサンプルを持って店内のレジへ。
そこで新しい本を出してもらえる。

興味がおありの方にわかるように、それぞれの目次を載せてきます。


まだよく読んでいないが、かなり面白そうだ。
また何か面白いことが分かれば、記事にします。
東国三社「息栖神社」へ立ち寄る
前回銚子に出かけたのは10日ほど前。
途中で香取、鹿島両神宮とともに「東国三社」と呼ばれる息栖神社に立ち寄ってみました。
いつも平日朝は、人も少ないのですが、数組の参拝客が来ていました。
神社は初詣の注意事項などの看板が掲げられたりして、もう年末・年始に近づいているのを感じます。
ただ訪れたのは10月末日のハロウィンの日です。
また、神社の西側の通り沿いに大きな駐車場の整備が進められていました。
やはり、初詣にはかなりの人が参拝に来るのでしょうか。
いつもの神社入口の駐車場に車を止めて・・・

息栖神社に来ると先ず思い出されるのが、芭蕉の句。
「この里は 気吹戸主の 風寒し」
気吹戸主(いぶきとぬし):イザナギが黄泉の国からあわてて逃げ帰り、汚れを清めたその水の中から生まれた神
この神社を鹿島・香取神宮と直角三角形の頂点に移動させて配置した。
常陸国国府「石岡」との位置関係が気になってしょうがない(笑)



境内には菊の花が・・・

私もこの後チョコッとお参りして・・・・

立派に飾られた菊の花に気持を新たにして・・・

途中で香取、鹿島両神宮とともに「東国三社」と呼ばれる息栖神社に立ち寄ってみました。
いつも平日朝は、人も少ないのですが、数組の参拝客が来ていました。
神社は初詣の注意事項などの看板が掲げられたりして、もう年末・年始に近づいているのを感じます。
ただ訪れたのは10月末日のハロウィンの日です。
また、神社の西側の通り沿いに大きな駐車場の整備が進められていました。
やはり、初詣にはかなりの人が参拝に来るのでしょうか。
いつもの神社入口の駐車場に車を止めて・・・

息栖神社に来ると先ず思い出されるのが、芭蕉の句。
「この里は 気吹戸主の 風寒し」
気吹戸主(いぶきとぬし):イザナギが黄泉の国からあわてて逃げ帰り、汚れを清めたその水の中から生まれた神
この神社を鹿島・香取神宮と直角三角形の頂点に移動させて配置した。
常陸国国府「石岡」との位置関係が気になってしょうがない(笑)



境内には菊の花が・・・

私もこの後チョコッとお参りして・・・・

立派に飾られた菊の花に気持を新たにして・・・

東庄町散策(1) 諏訪大神
最近銚子へ行く途中に、千葉県東庄(とうのしょう)町を近辺を散策している。
何故か少しだけ気になっているのだ。
気になる内容は徐々に明らかにしていきたいと思うが、まずは大雑把に見ていこうと思う。
あまり時間も無く、主だった所は、前にも訪れているが、目に付いたところを2~3ヶ所まわっている。
何か見えてくるものが無いかどうか・・・・・
東庄町は平成の合併でも隣の小見川町などが佐原市と合併し、香取市になる中、独立を保っている。
訪れてみれば、あまり人口も多くは思えず、今では香取市と銚子市の間に挟まれた比較的小さな町に過ぎない。
利根川沿いを佐原、小見川方面からこの東庄町へ入ると「わが町には相撲がある」という看板が掲げられている。
この相撲は東庄町笹川にある諏訪大神(このあたりの神社は皆大神と呼ばれている)を訪れてみれば理由がわかる。

ここが諏訪大神。
創建は多くの神社が建立されたとされる大同2年(807)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に武運長久を祈願して堂宇を建立したのが始まりだとか。まあこれははっきりとはしていないが、鎌倉時代始めには社殿を改築したりしている。
ただ気になるのは、この地が東北への進出の通り道であったのではないかという事だ。
私が石岡などで感じていたこれらの征夷大将軍などの古代の通り道がこの辺りから常陸国に渡っていたとすれば、恐らく海洋ルートでやって来ていたのではないかという根拠になるのではないかとの思いが湧いている。

この(笹川)諏訪大神には境内に上の写真のような神楽殿と大きな相撲の土俵がある。
毎年夏にはここで出羽海部屋の合宿があったり、近隣の子供達の相撲大会などが行われている。
この土俵の近くに「野見宿禰」の石碑がある。
この碑は笹川繁蔵親分が天保13年(1842年)に、天保の大飢饉 で苦しんだ町を元気付けようと、各地の親分衆(国定忠治や清水次郎長など)を招いて賭博(花会)を開催したときに立てた物といわれている。
この頃の笹川の繁蔵親分と、飯岡の助五郎親分との利根川河原での決闘は、後に天保水滸伝として書物、浪曲、歌謡曲と多くの唱にも歌われたが、今では中国の水滸伝はあまり読まれる人も少なくなり、この天保水滸伝もあまり知っている人も少なくなっている。
私が気になっている一つは、この神社の「諏訪」である。
当然諏訪神社は信濃の諏訪大社の系列であろうから、出雲系といえる。
しかし、近くの香取神宮とも関係が深いようだということ。
結構このあたりも諏訪神社が多くあるのも気になっている。
この神社も昔は近くにある山の名前「須賀山」から須賀山明神と呼ばれていたとも言う。
何かもう少し調べてみたいが、気にしていると何か情報にぶつかるかもしれない。
天狗小僧寅吉も銚子に移る前は、ここにいたというし、平田篤胤も暫くこのあたりに滞在したとも言われている。
何かあるのか・・・・
まあのんびり行こう。
以前の記事:
1) 諏訪大神(2012年11月5日) ⇒ こちら
2)笹川の諏訪大神(2019年8月7日) ⇒ こちら
何故か少しだけ気になっているのだ。
気になる内容は徐々に明らかにしていきたいと思うが、まずは大雑把に見ていこうと思う。
あまり時間も無く、主だった所は、前にも訪れているが、目に付いたところを2~3ヶ所まわっている。
何か見えてくるものが無いかどうか・・・・・
東庄町は平成の合併でも隣の小見川町などが佐原市と合併し、香取市になる中、独立を保っている。
訪れてみれば、あまり人口も多くは思えず、今では香取市と銚子市の間に挟まれた比較的小さな町に過ぎない。
利根川沿いを佐原、小見川方面からこの東庄町へ入ると「わが町には相撲がある」という看板が掲げられている。
この相撲は東庄町笹川にある諏訪大神(このあたりの神社は皆大神と呼ばれている)を訪れてみれば理由がわかる。

ここが諏訪大神。
創建は多くの神社が建立されたとされる大同2年(807)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に武運長久を祈願して堂宇を建立したのが始まりだとか。まあこれははっきりとはしていないが、鎌倉時代始めには社殿を改築したりしている。
ただ気になるのは、この地が東北への進出の通り道であったのではないかという事だ。
私が石岡などで感じていたこれらの征夷大将軍などの古代の通り道がこの辺りから常陸国に渡っていたとすれば、恐らく海洋ルートでやって来ていたのではないかという根拠になるのではないかとの思いが湧いている。

この(笹川)諏訪大神には境内に上の写真のような神楽殿と大きな相撲の土俵がある。
毎年夏にはここで出羽海部屋の合宿があったり、近隣の子供達の相撲大会などが行われている。
この土俵の近くに「野見宿禰」の石碑がある。
この碑は笹川繁蔵親分が天保13年(1842年)に、天保の大飢饉 で苦しんだ町を元気付けようと、各地の親分衆(国定忠治や清水次郎長など)を招いて賭博(花会)を開催したときに立てた物といわれている。
この頃の笹川の繁蔵親分と、飯岡の助五郎親分との利根川河原での決闘は、後に天保水滸伝として書物、浪曲、歌謡曲と多くの唱にも歌われたが、今では中国の水滸伝はあまり読まれる人も少なくなり、この天保水滸伝もあまり知っている人も少なくなっている。
私が気になっている一つは、この神社の「諏訪」である。
当然諏訪神社は信濃の諏訪大社の系列であろうから、出雲系といえる。
しかし、近くの香取神宮とも関係が深いようだということ。
結構このあたりも諏訪神社が多くあるのも気になっている。
この神社も昔は近くにある山の名前「須賀山」から須賀山明神と呼ばれていたとも言う。
何かもう少し調べてみたいが、気にしていると何か情報にぶつかるかもしれない。
天狗小僧寅吉も銚子に移る前は、ここにいたというし、平田篤胤も暫くこのあたりに滞在したとも言われている。
何かあるのか・・・・
まあのんびり行こう。
以前の記事:
1) 諏訪大神(2012年11月5日) ⇒ こちら
2)笹川の諏訪大神(2019年8月7日) ⇒ こちら
東庄町散策(2) 延命寺
東庄(とうのしょう)町は入口に町の看板として「相撲」と「天保水滸伝」の里という文字があちこちに書かれている。
私の興味はもう少し古代にあるが、これも町を知る上で必要と、以前に調べて書かせていただいた。
天保水滸伝は天保年間(1830~1844年)であるから、江戸も後期のことだ。
この時代は東北地方の冷害による「天保の大飢饉」が数年にわたって続いた年でもあり、米の高騰などにより各地で暴動などがおこった時期でもあった。
この飢饉の間(1833⇒1838年)に日本の人口が120万人も減った(3198万人⇒3078万人:by Wiki.)といわれている。
この笹川に縄張りを持っていた渡世の親分笹川繁蔵(岩瀬繁蔵)も江戸の千賀ノ浦 部屋に籍を置いた相撲取り(角力)だったそうだ。
ただこの角力時代は長くはなく約1年で廃業して地元に戻り任侠の一家をおこし、勢力を拡大したという。
この拡大する手段として、全国の親分たちに手紙を送って一大花会を笹川で開いたといわれている。
時期は天保13年(1842年)笹川の須賀山明神の秋に縁日の日だとされ、花会の客は各地の親分衆だけで、その収益は農民救済の名目だったという。
この須賀山明神は昨日紹介した今の諏訪大神だ。
天保水滸伝は大利根河原の飯岡助五郎一家との決闘が有名だが、飯岡助五郎も角力上がりで銚子市と旭市の市境にある飯岡漁港を中心に縄張りを持っていたが、こちらは幕府から任された十手持ちの身分。
助五郎一家が繁蔵一家を取り押さえようと乗り込んだときは、刀は使えず十手や縄のために、繁蔵側でなくなったのは平手造酒一人。
繁蔵たちは、この決闘には勝ったものの十手持ちから追われる立場となったため、暫く身を隠していたが、3年後に舞い戻った。
しかし、助五郎一家の部下3人にだまされて暗殺された。
さて、細かなな話しは昔に映画や講談などで広まったために、面白くするために尾ひれもついており、興味があればご自身でお調べください。
今日は、昨日の諏訪大神から少しのところ(歩いすぐ)にある「延命寺」の紹介です。
ここには「笹川繁蔵、平手造酒の墓、勢力富五郎の碑」がある。

笹川繁蔵が暗殺され、首や胴体は助五郎側に行ってしまって笹川にはなく、ここ延命寺に暗殺場所の土などを埋葬して供養したという。しかし助五郎により、川に流されたなどとの噂話もあったが、実際には丁寧に埋葬され、供養も続けられていたことが判明し、昭和7~8年に銚子市から笹川町に遺骨が返還され、ここに埋葬された。
前に銚子の方と笹川で調査した時の記事があるので、もし興味がおありなら以下にまとめられています。
天保水滸伝(2014年のブログまとめ) ⇒ こちら
剣豪・平手造酒(ひらてみき)は肺病を患っていたといわれ、決闘のときはかなりやせ細っていたらしい。
「止めてくれるな妙心殿」などと、講談や歌ではいわれる台詞があるが、その妙心という若い尼さんがいた寺はここではないようだ。
造酒は酒を止めて、尼寺で櫻井と言う所にある妙圓寺で療養していたとされています。
この櫻井がどのあたりなのか、この寺があったのかは良くわかりません。

さて、ではこの延命寺はいつ頃からあったのでしょうか。
案内板によれば真言宗の寺で、このように法印覚真大和尚の墓(1729年入滅)がある。
京都智積院(ちしゃくいん)、六波羅蜜寺、海住山寺とかなり有名なところを渡り歩いている。
すべて真言宗智山派で、智積院が総本山になる。
ただ詳細は良くわからない。

一方、諏訪大神の境内には「東庄町観光会館」という建物があるが、ここで天保水滸伝の資料などを配布している。
入口横に「大木戸の礎石」と書かれた看板と、その下に長い礎石が置かれている。
この大木戸という地名は、説明によれば笹川の津(港)からの荷物の運搬が盛んになり、城の防御のために大木戸を設けたことで名前がついたという。
笹川の繁蔵はこの大木戸にあった醤油と酢の醸造を営む岩瀬嘉三郎の三男だという(Wiki.)
興味はわくが、時間もないので今回はここまで。


私の興味はもう少し古代にあるが、これも町を知る上で必要と、以前に調べて書かせていただいた。
天保水滸伝は天保年間(1830~1844年)であるから、江戸も後期のことだ。
この時代は東北地方の冷害による「天保の大飢饉」が数年にわたって続いた年でもあり、米の高騰などにより各地で暴動などがおこった時期でもあった。
この飢饉の間(1833⇒1838年)に日本の人口が120万人も減った(3198万人⇒3078万人:by Wiki.)といわれている。
この笹川に縄張りを持っていた渡世の親分笹川繁蔵(岩瀬繁蔵)も江戸の千賀ノ浦 部屋に籍を置いた相撲取り(角力)だったそうだ。
ただこの角力時代は長くはなく約1年で廃業して地元に戻り任侠の一家をおこし、勢力を拡大したという。
この拡大する手段として、全国の親分たちに手紙を送って一大花会を笹川で開いたといわれている。
時期は天保13年(1842年)笹川の須賀山明神の秋に縁日の日だとされ、花会の客は各地の親分衆だけで、その収益は農民救済の名目だったという。
この須賀山明神は昨日紹介した今の諏訪大神だ。
天保水滸伝は大利根河原の飯岡助五郎一家との決闘が有名だが、飯岡助五郎も角力上がりで銚子市と旭市の市境にある飯岡漁港を中心に縄張りを持っていたが、こちらは幕府から任された十手持ちの身分。
助五郎一家が繁蔵一家を取り押さえようと乗り込んだときは、刀は使えず十手や縄のために、繁蔵側でなくなったのは平手造酒一人。
繁蔵たちは、この決闘には勝ったものの十手持ちから追われる立場となったため、暫く身を隠していたが、3年後に舞い戻った。
しかし、助五郎一家の部下3人にだまされて暗殺された。
さて、細かなな話しは昔に映画や講談などで広まったために、面白くするために尾ひれもついており、興味があればご自身でお調べください。
今日は、昨日の諏訪大神から少しのところ(歩いすぐ)にある「延命寺」の紹介です。
ここには「笹川繁蔵、平手造酒の墓、勢力富五郎の碑」がある。

笹川繁蔵が暗殺され、首や胴体は助五郎側に行ってしまって笹川にはなく、ここ延命寺に暗殺場所の土などを埋葬して供養したという。しかし助五郎により、川に流されたなどとの噂話もあったが、実際には丁寧に埋葬され、供養も続けられていたことが判明し、昭和7~8年に銚子市から笹川町に遺骨が返還され、ここに埋葬された。
前に銚子の方と笹川で調査した時の記事があるので、もし興味がおありなら以下にまとめられています。
天保水滸伝(2014年のブログまとめ) ⇒ こちら
剣豪・平手造酒(ひらてみき)は肺病を患っていたといわれ、決闘のときはかなりやせ細っていたらしい。
「止めてくれるな妙心殿」などと、講談や歌ではいわれる台詞があるが、その妙心という若い尼さんがいた寺はここではないようだ。
造酒は酒を止めて、尼寺で櫻井と言う所にある妙圓寺で療養していたとされています。
この櫻井がどのあたりなのか、この寺があったのかは良くわかりません。

さて、ではこの延命寺はいつ頃からあったのでしょうか。
案内板によれば真言宗の寺で、このように法印覚真大和尚の墓(1729年入滅)がある。
京都智積院(ちしゃくいん)、六波羅蜜寺、海住山寺とかなり有名なところを渡り歩いている。
すべて真言宗智山派で、智積院が総本山になる。
ただ詳細は良くわからない。

一方、諏訪大神の境内には「東庄町観光会館」という建物があるが、ここで天保水滸伝の資料などを配布している。
入口横に「大木戸の礎石」と書かれた看板と、その下に長い礎石が置かれている。
この大木戸という地名は、説明によれば笹川の津(港)からの荷物の運搬が盛んになり、城の防御のために大木戸を設けたことで名前がついたという。
笹川の繁蔵はこの大木戸にあった醤油と酢の醸造を営む岩瀬嘉三郎の三男だという(Wiki.)
興味はわくが、時間もないので今回はここまで。


東庄町散策(3) 大友城址<その1>
諏訪大神は昔は須賀山明神と呼ばれていたという。
江戸時代は神仏習合で明神様と呼ばれていたところは多い。
我が常陸国府中(現石岡)の常陸国総社宮も「六所明神」「明神様」などと呼ばれていたらしい。
この須賀山には中世の須賀山城が作られ、東氏の居城となっていたらしい。
ここには前に訪れている。
ブログ 「須賀山城跡(2014年6月)」 ⇒ こちら
ここでは、この東氏と須賀山城について以下のように書かれていた。
「千葉常胤(つねたね)及びその一族と共に、源頼朝の挙兵に尽力した東胤頼(とうのたねより)は、その功により、文治元年(1185)に東荘(とうのしょう)33郷、更に三崎荘(みさきのしょう)55郷を拝領した。
胤頼は、はじめ上代前掛城(かじろまえかけじょう)に居城したが、文治6年(1190)に、この地に須賀山城を築き、妙見尊星王(みょうけんそうせいのう)を勧請(かんじょう)し、所領の経営と祭事につとめた。
その後、隣接地に森山城を築き、建保6年(1218)森山城に移った。」
その時は、この内容が良く理解できていないとも私は書いた。
この東荘や三崎荘といった荘園名は平安時代10世紀の「倭名類聚抄」には郡名、郷名には出ていない。
ということは、鎌倉時代に各地に発達した荘園の名称だろうとWiki.で調べてみた。
○ 三崎荘(みさきのしょう)は、中世の下総国海上郡にあった荘園、海上荘ともいう。・・・・・荘域は、海上郡三前郷を中心として、横根郷、須加郷、本庄郷、船木郷などの地を含み、現在の銚子市および旭市一帯と推定される。と書かれている。
○ 東荘(とうのしょう)だが、一般的には「橘荘(たちばなのしょう)」と呼ばれていたようだ。
久安2年(1146年)8月10日の平常胤寄進状に「相馬・橘両郷」とみえ、千葉常胤が父常重から相馬郷とともに伝領した私領であったとみられる。・・・・・・・治承4年(1180年)源頼朝が房総に逃れた際、常胤の六男胤頼の進言により、藤原親通の孫親政を討ち取ったことから勢いを得て、様子見していた上総広常も参陣し治承・寿永の乱を制する。その後、胤頼に譲られ鎌倉時代を通して当荘は東氏に相伝された。とある。
これらは12世紀半ばから戦国時代ころまで発達した荘園なのだろう。
少しわかったようだが、益々混乱してきた気がしないでもない。
さて、ではもう少し時代を戻って千葉氏のルーツといわれる「平良文」が残した遺跡がこの東庄にあるというので、そちらを探して行って見た。
それは「大友城城址」です。
成田線の下総橘駅横から旭市側に続く県道267号線を道なりに進めば、途中で左に「大友城址」の案内看板があるので、この看板に従って北側から入れば迷う事はない。

ただ、城址台地の手前の民家の辺りから先は民有地で、途中で車もすれ違えないので、このあたりで車を止めて歩いて行くほうが良い。


また上り坂だが、整備もされており、歩いてもせいぜい2~3分程度で上の城址の空き地(農地、畑)に行くことができる。

上の台地はこのように平らな平地で畑が広がっている。

入口に置かれた説明看板

比較的新しい看板で、この一面の畑部分が、昔の政所(まんどころ)がおかれた「政所台」というようだ。

この政所台はいかにも長閑で住みやすかったのかもしれない。

この政所台の南端部にもう一つの説明看板がある。
こちらの説明の方が歴史的に見る人にはありがたい。
ここには「旧椿海」の北端部に位置していると書かれている。
少しこの椿海(つばきのうみ)は私のイメージしていた場所とは少し違うのだが・・・・
これは次に検証してみたい。

この看板があるところから南側に道が続くが、この先に見張台(遠所台)があったらしいが、私はここで引き返した。
なにしろこの城を最初に築いたのは「平良文」であるらしいので、次回に少し地形などを検証して書いてみたい。
江戸時代は神仏習合で明神様と呼ばれていたところは多い。
我が常陸国府中(現石岡)の常陸国総社宮も「六所明神」「明神様」などと呼ばれていたらしい。
この須賀山には中世の須賀山城が作られ、東氏の居城となっていたらしい。
ここには前に訪れている。
ブログ 「須賀山城跡(2014年6月)」 ⇒ こちら
ここでは、この東氏と須賀山城について以下のように書かれていた。
「千葉常胤(つねたね)及びその一族と共に、源頼朝の挙兵に尽力した東胤頼(とうのたねより)は、その功により、文治元年(1185)に東荘(とうのしょう)33郷、更に三崎荘(みさきのしょう)55郷を拝領した。
胤頼は、はじめ上代前掛城(かじろまえかけじょう)に居城したが、文治6年(1190)に、この地に須賀山城を築き、妙見尊星王(みょうけんそうせいのう)を勧請(かんじょう)し、所領の経営と祭事につとめた。
その後、隣接地に森山城を築き、建保6年(1218)森山城に移った。」
その時は、この内容が良く理解できていないとも私は書いた。
この東荘や三崎荘といった荘園名は平安時代10世紀の「倭名類聚抄」には郡名、郷名には出ていない。
ということは、鎌倉時代に各地に発達した荘園の名称だろうとWiki.で調べてみた。
○ 三崎荘(みさきのしょう)は、中世の下総国海上郡にあった荘園、海上荘ともいう。・・・・・荘域は、海上郡三前郷を中心として、横根郷、須加郷、本庄郷、船木郷などの地を含み、現在の銚子市および旭市一帯と推定される。と書かれている。
○ 東荘(とうのしょう)だが、一般的には「橘荘(たちばなのしょう)」と呼ばれていたようだ。
久安2年(1146年)8月10日の平常胤寄進状に「相馬・橘両郷」とみえ、千葉常胤が父常重から相馬郷とともに伝領した私領であったとみられる。・・・・・・・治承4年(1180年)源頼朝が房総に逃れた際、常胤の六男胤頼の進言により、藤原親通の孫親政を討ち取ったことから勢いを得て、様子見していた上総広常も参陣し治承・寿永の乱を制する。その後、胤頼に譲られ鎌倉時代を通して当荘は東氏に相伝された。とある。
これらは12世紀半ばから戦国時代ころまで発達した荘園なのだろう。
少しわかったようだが、益々混乱してきた気がしないでもない。
さて、ではもう少し時代を戻って千葉氏のルーツといわれる「平良文」が残した遺跡がこの東庄にあるというので、そちらを探して行って見た。
それは「大友城城址」です。
成田線の下総橘駅横から旭市側に続く県道267号線を道なりに進めば、途中で左に「大友城址」の案内看板があるので、この看板に従って北側から入れば迷う事はない。

ただ、城址台地の手前の民家の辺りから先は民有地で、途中で車もすれ違えないので、このあたりで車を止めて歩いて行くほうが良い。


また上り坂だが、整備もされており、歩いてもせいぜい2~3分程度で上の城址の空き地(農地、畑)に行くことができる。

上の台地はこのように平らな平地で畑が広がっている。

入口に置かれた説明看板

比較的新しい看板で、この一面の畑部分が、昔の政所(まんどころ)がおかれた「政所台」というようだ。

この政所台はいかにも長閑で住みやすかったのかもしれない。

この政所台の南端部にもう一つの説明看板がある。
こちらの説明の方が歴史的に見る人にはありがたい。
ここには「旧椿海」の北端部に位置していると書かれている。
少しこの椿海(つばきのうみ)は私のイメージしていた場所とは少し違うのだが・・・・
これは次に検証してみたい。

この看板があるところから南側に道が続くが、この先に見張台(遠所台)があったらしいが、私はここで引き返した。
なにしろこの城を最初に築いたのは「平良文」であるらしいので、次回に少し地形などを検証して書いてみたい。
東庄町散策(4) 大友城址<その2>
さて、ここで千葉氏について調べてみよう。
なぜなら千葉氏の始まりがこの大友城にあったというのを記事で見たような・・・・・
Wiki.によると、
「桓武天皇を先祖とする桓武平氏、平良文(村岡良文)の孫・村岡忠常(平忠常)が、千葉氏の初代,千葉忠常(下総国のナンバーツー・千葉介)である。」と書かれている。
まあ、常陸国国府(現石岡)の歴史を少しかじっている人間にとっては、最初の方はなじみ深い。
このブログの「常陸国における源平合戦」などでも散々に書いてきた。
要は桓武天皇の曾孫である高望王(桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王)が臣籍降下して民間に下り、「平(たいら)姓」をもらいます。
そして、898年にまだ開拓余地のある「下総(しもふさ)国」の「下総介」として3人の息子(国香・良兼・良将)を連れてやってきます。
この3人の息子たちが下総・常陸などの豪族と手を結びながら領地を広げて行ったのです。
三男良将の息子が平将門で有名な大騒動(西暦935~940年)が起こります。
このとき国香が死に、将門も死んで騒動は治まりますが、その後、千葉県では千葉氏が興るようです。
まず、高望王の5男の平良文は、兄の国香などとは腹違いらしく、暫くしてから関東にやってきます。
やってきたのは923年で36歳の時でした。相模国の賊退治を命じられたようです。
そして武蔵国熊谷郷村岡(現埼玉県熊谷市)に居したため、村岡五郎(五郎は5男のため)を名乗り始めます。
そして、その後相模国鎌倉郡村岡(現神奈川県藤沢市村岡)へ移ったとされています。
藤沢市の村岡は恐らく村岡五郎が移り住んだので村岡という地名になったのだと推察されますが、詳細は不明です。
他にも下妻市の村岡などにも領地を持っていたようです。
その後この東庄の「大友」に城を築いたようです。
また、隣の小見川(現香取市)の阿玉台貝塚付近にも館をもっていたのでしょう。
旧小見川町とこの東庄町の境界附近に遺跡が点在しており、それぞれの行政が異なると、何処か歴史の継続も途絶えてしまうようです。
各遺跡などを現在の地図で確認してみましょう。

以前に「小見川に平良文を見る」として2013年にブログのまとめています。(⇒ こちら)
何故この地に拠点を移したのでしょうか?
今の地図では理解しがたいので、例によってFlood Mapsソフトで海面の高さを+5mとして昔の地形を想像してみましょう。

海面を5mほど高くすると、古代の地形が見えてきます。
平安・鎌倉時代頃も結構この地形で考えたほうが理解しやすいようです。
大友城は南に広がる「椿海(つばきのうみ)」の北端部の高台に築かれています。

もう少し広域に広げてみてみましょう。
椿の海は江戸時代に干拓されて、広大な農地となりました。
小見川辺りも低地いったいは今では広大な農地です。昔がどのようであったかははっきりしませんが、平良文が城もしくは館をここに置いたとすればこの地形は海洋族が常陸国を経て、蝦夷へ攻め入る拠点として良い位置だったのかもしれません。
九十九里浜の横芝光町に「屋形」という地名が残されています。
ここへは、多古町方面から栗山川という川が流れており、この川沿い一帯には、縄文時代の遺跡や丸木舟がたくさん発掘されています。
また国香の弟の平良兼は上総の介として父の平高望の後を継いでおり、この屋形あたりに館が存在したのではないかとも思われます。
東庄町は下総国になりますが、陸路をきて、横須賀から東京湾を船で渡った上総国府(市川)あたりよりも、都から海路で九十九里浜へ渡ったほうが東北方面への近道でもあったではないでしょうか。
そのため、この東庄町は東北への玄関口などとも言われているのだと思われます。
なにしろこの良文にはじまる一族は坂東平氏の祖とも言われ、各地に子孫が広大な領地を有するようになって行きます。
939年には陸奥守となり、蝦夷征伐に出かけ、翌940年に関東に戻り、上総・下総・常陸国などにかなりの領地を獲得していたようです。この940年頃にこの大友城を築き、本拠地としたようです。将門が死亡した直後です。
そのまた晩年には阿玉台貝塚近くで過ごしていて、952年に亡くなりました。
千葉氏の祖といわれるのはこの平良文(村岡五郎)の次男(平忠頼)の子「平忠常」(良文の孫)です。
平忠常は良文(村岡五郎)、忠頼(村岡次郎)の地盤を引き継ぎ、次第に勢力を強め、税も納めずに傍若無人に振舞うようになります。
上総の国府を襲撃したりして、都より平直方が鎮圧に派遣されますが、なかなか抑え切れません。
そこで、1031年に道長四天王の一人であり、河内源氏の祖といわれる源頼信(当時甲斐守)に忠常鎮圧を直方から変更します。
すると、平忠常は戦わずして、源頼信に従い降伏し、一族子孫を守ることを願い出たようです。
このため、この平忠常の子孫は守られ、各地にて生き延びていったのです。
ところで千葉介という役職があちこちで表記されていますが、国の役職にある「介(すけ)」はあるので、上総介、下総介などはあっても千葉介は存在しません。
どうやら地域のまとめ役の「権介」である「下総権介」が「千葉介」と称して、この地のナンバー2となったようです。
平忠常から数えて4代目の平常重が現在の千葉市近郊に亥鼻城(千葉城)を築き(1126年)、千葉荘を領して「千葉氏」を名乗った。
その後、千葉常胤(1118-1201)から鎌倉幕府の御家人となり名前に胤(たね)の一字を踏襲していきます。
かなり複雑ですので、ここは又別途としておきましょう。
これくらいの事がわかれば又別な機会に呼び起こされて繋がって行く事になるはずです。
なぜなら千葉氏の始まりがこの大友城にあったというのを記事で見たような・・・・・
Wiki.によると、
「桓武天皇を先祖とする桓武平氏、平良文(村岡良文)の孫・村岡忠常(平忠常)が、千葉氏の初代,千葉忠常(下総国のナンバーツー・千葉介)である。」と書かれている。
まあ、常陸国国府(現石岡)の歴史を少しかじっている人間にとっては、最初の方はなじみ深い。
このブログの「常陸国における源平合戦」などでも散々に書いてきた。
要は桓武天皇の曾孫である高望王(桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王)が臣籍降下して民間に下り、「平(たいら)姓」をもらいます。
そして、898年にまだ開拓余地のある「下総(しもふさ)国」の「下総介」として3人の息子(国香・良兼・良将)を連れてやってきます。
この3人の息子たちが下総・常陸などの豪族と手を結びながら領地を広げて行ったのです。
三男良将の息子が平将門で有名な大騒動(西暦935~940年)が起こります。
このとき国香が死に、将門も死んで騒動は治まりますが、その後、千葉県では千葉氏が興るようです。
まず、高望王の5男の平良文は、兄の国香などとは腹違いらしく、暫くしてから関東にやってきます。
やってきたのは923年で36歳の時でした。相模国の賊退治を命じられたようです。
そして武蔵国熊谷郷村岡(現埼玉県熊谷市)に居したため、村岡五郎(五郎は5男のため)を名乗り始めます。
そして、その後相模国鎌倉郡村岡(現神奈川県藤沢市村岡)へ移ったとされています。
藤沢市の村岡は恐らく村岡五郎が移り住んだので村岡という地名になったのだと推察されますが、詳細は不明です。
他にも下妻市の村岡などにも領地を持っていたようです。
その後この東庄の「大友」に城を築いたようです。
また、隣の小見川(現香取市)の阿玉台貝塚付近にも館をもっていたのでしょう。
旧小見川町とこの東庄町の境界附近に遺跡が点在しており、それぞれの行政が異なると、何処か歴史の継続も途絶えてしまうようです。
各遺跡などを現在の地図で確認してみましょう。

以前に「小見川に平良文を見る」として2013年にブログのまとめています。(⇒ こちら)
何故この地に拠点を移したのでしょうか?
今の地図では理解しがたいので、例によってFlood Mapsソフトで海面の高さを+5mとして昔の地形を想像してみましょう。

海面を5mほど高くすると、古代の地形が見えてきます。
平安・鎌倉時代頃も結構この地形で考えたほうが理解しやすいようです。
大友城は南に広がる「椿海(つばきのうみ)」の北端部の高台に築かれています。

もう少し広域に広げてみてみましょう。
椿の海は江戸時代に干拓されて、広大な農地となりました。
小見川辺りも低地いったいは今では広大な農地です。昔がどのようであったかははっきりしませんが、平良文が城もしくは館をここに置いたとすればこの地形は海洋族が常陸国を経て、蝦夷へ攻め入る拠点として良い位置だったのかもしれません。
九十九里浜の横芝光町に「屋形」という地名が残されています。
ここへは、多古町方面から栗山川という川が流れており、この川沿い一帯には、縄文時代の遺跡や丸木舟がたくさん発掘されています。
また国香の弟の平良兼は上総の介として父の平高望の後を継いでおり、この屋形あたりに館が存在したのではないかとも思われます。
東庄町は下総国になりますが、陸路をきて、横須賀から東京湾を船で渡った上総国府(市川)あたりよりも、都から海路で九十九里浜へ渡ったほうが東北方面への近道でもあったではないでしょうか。
そのため、この東庄町は東北への玄関口などとも言われているのだと思われます。
なにしろこの良文にはじまる一族は坂東平氏の祖とも言われ、各地に子孫が広大な領地を有するようになって行きます。
939年には陸奥守となり、蝦夷征伐に出かけ、翌940年に関東に戻り、上総・下総・常陸国などにかなりの領地を獲得していたようです。この940年頃にこの大友城を築き、本拠地としたようです。将門が死亡した直後です。
そのまた晩年には阿玉台貝塚近くで過ごしていて、952年に亡くなりました。
千葉氏の祖といわれるのはこの平良文(村岡五郎)の次男(平忠頼)の子「平忠常」(良文の孫)です。
平忠常は良文(村岡五郎)、忠頼(村岡次郎)の地盤を引き継ぎ、次第に勢力を強め、税も納めずに傍若無人に振舞うようになります。
上総の国府を襲撃したりして、都より平直方が鎮圧に派遣されますが、なかなか抑え切れません。
そこで、1031年に道長四天王の一人であり、河内源氏の祖といわれる源頼信(当時甲斐守)に忠常鎮圧を直方から変更します。
すると、平忠常は戦わずして、源頼信に従い降伏し、一族子孫を守ることを願い出たようです。
このため、この平忠常の子孫は守られ、各地にて生き延びていったのです。
ところで千葉介という役職があちこちで表記されていますが、国の役職にある「介(すけ)」はあるので、上総介、下総介などはあっても千葉介は存在しません。
どうやら地域のまとめ役の「権介」である「下総権介」が「千葉介」と称して、この地のナンバー2となったようです。
平忠常から数えて4代目の平常重が現在の千葉市近郊に亥鼻城(千葉城)を築き(1126年)、千葉荘を領して「千葉氏」を名乗った。
その後、千葉常胤(1118-1201)から鎌倉幕府の御家人となり名前に胤(たね)の一字を踏襲していきます。
かなり複雑ですので、ここは又別途としておきましょう。
これくらいの事がわかれば又別な機会に呼び起こされて繋がって行く事になるはずです。
東庄町散策(5) 東大社(その1)
今回の東庄(とうのしょう)町散策を始めた動機は、
1)香取市と銚子市に挟まれて、平成の合併でもどちらとも一緒にならなかった「東庄町」はいつも近くを通っていても良くわからない存在であったのでそこ氏興味がわいた。
2)常陸国の国衙に住んで、大掾氏(だいじょうし)、平国香などと当たり前のように書いたり喋ったりしているが、どうも良くわかっていないのではないか?長男国香の弟に当たる平良文について小見川を散策していて昔気になったが、こちらの東庄町にもその跡が残されているのでそれも知りたい。
3)鹿島氏が下総と交流があり、佐竹に滅ぼされたときに、子孫は下総へ逃げ、江戸期に鹿島神宮の管理者として復活を遂げているが、この逃げた先がどうもこの東荘あたりで、東氏(とうし)が平氏として臣籍関係にあったためではないかと何となく感じたため、少し調べてみたいと。
まあ、こんな漠然としたことが動機であるが・・・
東庄町には少し内陸部に入るが「東大社(とうだいしゃ)」という古い神社がある。
前に一度ここを訪れているが、あまり詳しい事はわからずじまいだった。
(前回の記事 2014年1月記事 ⇒ こちら)
あれから8~9年。 あまり進歩もしていなくて、また此処まで来てしまったという感じだ。
今回は大友城址を訪ねた後に、下総橘駅方面に戻る途中にあるので立ち寄ったもの。
まあ、訪れてみて何かそこに吹く風を感じたいと思ってはいるのだが、やはり良くわからないことが多い。


今回は神社の正面から右側に進んだ所に駐車場があるので、誰も止まっていない、だだっ広いただの広場のような駐車場に車を止めて、神社の脇の通路から神社境内に入って行った。

木々の間の小道を奥に入っていくと神社の拝殿・本殿などがキラキラ輝いた緑の葉とともに輝いていた。

神社は誰もおらず、し~んと静まりかえっていたが、どこか凛とした雰囲気が漂う。

この本殿も比較的新しく造営しなおしたのであろう。
調べてみると江戸末期の1826年(本殿)、1827年(拝殿)を造営し、昭和31年(1956年)に屋根を藁葺きから銅板葺きに直したと書かれている。

反対側に回って、本殿を眺めた。立派な本殿だ。

拝殿の龍の彫刻もすばらしい。


阿吽の狛犬。品のある格式ある狛犬である。
(石工・保立 卯正刻 昭和11年12月23日建立)
という記事を見つけましたので、昭和11年のものでしょうか。
神社の歴史や、東氏などについては次回としましょう。
1)香取市と銚子市に挟まれて、平成の合併でもどちらとも一緒にならなかった「東庄町」はいつも近くを通っていても良くわからない存在であったのでそこ氏興味がわいた。
2)常陸国の国衙に住んで、大掾氏(だいじょうし)、平国香などと当たり前のように書いたり喋ったりしているが、どうも良くわかっていないのではないか?長男国香の弟に当たる平良文について小見川を散策していて昔気になったが、こちらの東庄町にもその跡が残されているのでそれも知りたい。
3)鹿島氏が下総と交流があり、佐竹に滅ぼされたときに、子孫は下総へ逃げ、江戸期に鹿島神宮の管理者として復活を遂げているが、この逃げた先がどうもこの東荘あたりで、東氏(とうし)が平氏として臣籍関係にあったためではないかと何となく感じたため、少し調べてみたいと。
まあ、こんな漠然としたことが動機であるが・・・
東庄町には少し内陸部に入るが「東大社(とうだいしゃ)」という古い神社がある。
前に一度ここを訪れているが、あまり詳しい事はわからずじまいだった。
(前回の記事 2014年1月記事 ⇒ こちら)
あれから8~9年。 あまり進歩もしていなくて、また此処まで来てしまったという感じだ。
今回は大友城址を訪ねた後に、下総橘駅方面に戻る途中にあるので立ち寄ったもの。
まあ、訪れてみて何かそこに吹く風を感じたいと思ってはいるのだが、やはり良くわからないことが多い。


今回は神社の正面から右側に進んだ所に駐車場があるので、誰も止まっていない、だだっ広いただの広場のような駐車場に車を止めて、神社の脇の通路から神社境内に入って行った。

木々の間の小道を奥に入っていくと神社の拝殿・本殿などがキラキラ輝いた緑の葉とともに輝いていた。

神社は誰もおらず、し~んと静まりかえっていたが、どこか凛とした雰囲気が漂う。

この本殿も比較的新しく造営しなおしたのであろう。
調べてみると江戸末期の1826年(本殿)、1827年(拝殿)を造営し、昭和31年(1956年)に屋根を藁葺きから銅板葺きに直したと書かれている。

反対側に回って、本殿を眺めた。立派な本殿だ。

拝殿の龍の彫刻もすばらしい。


阿吽の狛犬。品のある格式ある狛犬である。
(石工・保立 卯正刻 昭和11年12月23日建立)
という記事を見つけましたので、昭和11年のものでしょうか。
神社の歴史や、東氏などについては次回としましょう。
東庄町散策(6) 東大社(その2) ケヤキの古木
今回は境内のケヤキの古木を紹介します。

神社のご神木は杉の木のようで、古木の杉の木があります。
しかし、こちらのケヤキと思われる古木が目に留まりました。
脇に置かれている石碑は何が書かれているか読めませんでした。

幹の半分ほどに大きな空洞が出来ています。
環境庁「日本の巨樹・巨木林 関東版(Ⅱ)」には
樹高 11m
目通り幹囲 5.0m
と書かれているそうです。
樹齢は不明だとか・・・・

今の時期ですが、葉の勢いもかなりなもので、勢い良く広がっていました。

神社のご神木は杉の木のようで、古木の杉の木があります。
しかし、こちらのケヤキと思われる古木が目に留まりました。
脇に置かれている石碑は何が書かれているか読めませんでした。

幹の半分ほどに大きな空洞が出来ています。
環境庁「日本の巨樹・巨木林 関東版(Ⅱ)」には
樹高 11m
目通り幹囲 5.0m
と書かれているそうです。
樹齢は不明だとか・・・・

今の時期ですが、葉の勢いもかなりなもので、勢い良く広がっていました。