東庄町散策(1) 諏訪大神
最近銚子へ行く途中に、千葉県東庄(とうのしょう)町を近辺を散策している。
何故か少しだけ気になっているのだ。
気になる内容は徐々に明らかにしていきたいと思うが、まずは大雑把に見ていこうと思う。
あまり時間も無く、主だった所は、前にも訪れているが、目に付いたところを2~3ヶ所まわっている。
何か見えてくるものが無いかどうか・・・・・
東庄町は平成の合併でも隣の小見川町などが佐原市と合併し、香取市になる中、独立を保っている。
訪れてみれば、あまり人口も多くは思えず、今では香取市と銚子市の間に挟まれた比較的小さな町に過ぎない。
利根川沿いを佐原、小見川方面からこの東庄町へ入ると「わが町には相撲がある」という看板が掲げられている。
この相撲は東庄町笹川にある諏訪大神(このあたりの神社は皆大神と呼ばれている)を訪れてみれば理由がわかる。

ここが諏訪大神。
創建は多くの神社が建立されたとされる大同2年(807)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に武運長久を祈願して堂宇を建立したのが始まりだとか。まあこれははっきりとはしていないが、鎌倉時代始めには社殿を改築したりしている。
ただ気になるのは、この地が東北への進出の通り道であったのではないかという事だ。
私が石岡などで感じていたこれらの征夷大将軍などの古代の通り道がこの辺りから常陸国に渡っていたとすれば、恐らく海洋ルートでやって来ていたのではないかという根拠になるのではないかとの思いが湧いている。

この(笹川)諏訪大神には境内に上の写真のような神楽殿と大きな相撲の土俵がある。
毎年夏にはここで出羽海部屋の合宿があったり、近隣の子供達の相撲大会などが行われている。
この土俵の近くに「野見宿禰」の石碑がある。
この碑は笹川繁蔵親分が天保13年(1842年)に、天保の大飢饉 で苦しんだ町を元気付けようと、各地の親分衆(国定忠治や清水次郎長など)を招いて賭博(花会)を開催したときに立てた物といわれている。
この頃の笹川の繁蔵親分と、飯岡の助五郎親分との利根川河原での決闘は、後に天保水滸伝として書物、浪曲、歌謡曲と多くの唱にも歌われたが、今では中国の水滸伝はあまり読まれる人も少なくなり、この天保水滸伝もあまり知っている人も少なくなっている。
私が気になっている一つは、この神社の「諏訪」である。
当然諏訪神社は信濃の諏訪大社の系列であろうから、出雲系といえる。
しかし、近くの香取神宮とも関係が深いようだということ。
結構このあたりも諏訪神社が多くあるのも気になっている。
この神社も昔は近くにある山の名前「須賀山」から須賀山明神と呼ばれていたとも言う。
何かもう少し調べてみたいが、気にしていると何か情報にぶつかるかもしれない。
天狗小僧寅吉も銚子に移る前は、ここにいたというし、平田篤胤も暫くこのあたりに滞在したとも言われている。
何かあるのか・・・・
まあのんびり行こう。
以前の記事:
1) 諏訪大神(2012年11月5日) ⇒ こちら
2)笹川の諏訪大神(2019年8月7日) ⇒ こちら
何故か少しだけ気になっているのだ。
気になる内容は徐々に明らかにしていきたいと思うが、まずは大雑把に見ていこうと思う。
あまり時間も無く、主だった所は、前にも訪れているが、目に付いたところを2~3ヶ所まわっている。
何か見えてくるものが無いかどうか・・・・・
東庄町は平成の合併でも隣の小見川町などが佐原市と合併し、香取市になる中、独立を保っている。
訪れてみれば、あまり人口も多くは思えず、今では香取市と銚子市の間に挟まれた比較的小さな町に過ぎない。
利根川沿いを佐原、小見川方面からこの東庄町へ入ると「わが町には相撲がある」という看板が掲げられている。
この相撲は東庄町笹川にある諏訪大神(このあたりの神社は皆大神と呼ばれている)を訪れてみれば理由がわかる。

ここが諏訪大神。
創建は多くの神社が建立されたとされる大同2年(807)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に武運長久を祈願して堂宇を建立したのが始まりだとか。まあこれははっきりとはしていないが、鎌倉時代始めには社殿を改築したりしている。
ただ気になるのは、この地が東北への進出の通り道であったのではないかという事だ。
私が石岡などで感じていたこれらの征夷大将軍などの古代の通り道がこの辺りから常陸国に渡っていたとすれば、恐らく海洋ルートでやって来ていたのではないかという根拠になるのではないかとの思いが湧いている。

この(笹川)諏訪大神には境内に上の写真のような神楽殿と大きな相撲の土俵がある。
毎年夏にはここで出羽海部屋の合宿があったり、近隣の子供達の相撲大会などが行われている。
この土俵の近くに「野見宿禰」の石碑がある。
この碑は笹川繁蔵親分が天保13年(1842年)に、天保の大飢饉 で苦しんだ町を元気付けようと、各地の親分衆(国定忠治や清水次郎長など)を招いて賭博(花会)を開催したときに立てた物といわれている。
この頃の笹川の繁蔵親分と、飯岡の助五郎親分との利根川河原での決闘は、後に天保水滸伝として書物、浪曲、歌謡曲と多くの唱にも歌われたが、今では中国の水滸伝はあまり読まれる人も少なくなり、この天保水滸伝もあまり知っている人も少なくなっている。
私が気になっている一つは、この神社の「諏訪」である。
当然諏訪神社は信濃の諏訪大社の系列であろうから、出雲系といえる。
しかし、近くの香取神宮とも関係が深いようだということ。
結構このあたりも諏訪神社が多くあるのも気になっている。
この神社も昔は近くにある山の名前「須賀山」から須賀山明神と呼ばれていたとも言う。
何かもう少し調べてみたいが、気にしていると何か情報にぶつかるかもしれない。
天狗小僧寅吉も銚子に移る前は、ここにいたというし、平田篤胤も暫くこのあたりに滞在したとも言われている。
何かあるのか・・・・
まあのんびり行こう。
以前の記事:
1) 諏訪大神(2012年11月5日) ⇒ こちら
2)笹川の諏訪大神(2019年8月7日) ⇒ こちら
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