東庄町散策(2) 延命寺
東庄(とうのしょう)町は入口に町の看板として「相撲」と「天保水滸伝」の里という文字があちこちに書かれている。
私の興味はもう少し古代にあるが、これも町を知る上で必要と、以前に調べて書かせていただいた。
天保水滸伝は天保年間(1830~1844年)であるから、江戸も後期のことだ。
この時代は東北地方の冷害による「天保の大飢饉」が数年にわたって続いた年でもあり、米の高騰などにより各地で暴動などがおこった時期でもあった。
この飢饉の間(1833⇒1838年)に日本の人口が120万人も減った(3198万人⇒3078万人:by Wiki.)といわれている。
この笹川に縄張りを持っていた渡世の親分笹川繁蔵(岩瀬繁蔵)も江戸の千賀ノ浦 部屋に籍を置いた相撲取り(角力)だったそうだ。
ただこの角力時代は長くはなく約1年で廃業して地元に戻り任侠の一家をおこし、勢力を拡大したという。
この拡大する手段として、全国の親分たちに手紙を送って一大花会を笹川で開いたといわれている。
時期は天保13年(1842年)笹川の須賀山明神の秋に縁日の日だとされ、花会の客は各地の親分衆だけで、その収益は農民救済の名目だったという。
この須賀山明神は昨日紹介した今の諏訪大神だ。
天保水滸伝は大利根河原の飯岡助五郎一家との決闘が有名だが、飯岡助五郎も角力上がりで銚子市と旭市の市境にある飯岡漁港を中心に縄張りを持っていたが、こちらは幕府から任された十手持ちの身分。
助五郎一家が繁蔵一家を取り押さえようと乗り込んだときは、刀は使えず十手や縄のために、繁蔵側でなくなったのは平手造酒一人。
繁蔵たちは、この決闘には勝ったものの十手持ちから追われる立場となったため、暫く身を隠していたが、3年後に舞い戻った。
しかし、助五郎一家の部下3人にだまされて暗殺された。
さて、細かなな話しは昔に映画や講談などで広まったために、面白くするために尾ひれもついており、興味があればご自身でお調べください。
今日は、昨日の諏訪大神から少しのところ(歩いすぐ)にある「延命寺」の紹介です。
ここには「笹川繁蔵、平手造酒の墓、勢力富五郎の碑」がある。

笹川繁蔵が暗殺され、首や胴体は助五郎側に行ってしまって笹川にはなく、ここ延命寺に暗殺場所の土などを埋葬して供養したという。しかし助五郎により、川に流されたなどとの噂話もあったが、実際には丁寧に埋葬され、供養も続けられていたことが判明し、昭和7~8年に銚子市から笹川町に遺骨が返還され、ここに埋葬された。
前に銚子の方と笹川で調査した時の記事があるので、もし興味がおありなら以下にまとめられています。
天保水滸伝(2014年のブログまとめ) ⇒ こちら
剣豪・平手造酒(ひらてみき)は肺病を患っていたといわれ、決闘のときはかなりやせ細っていたらしい。
「止めてくれるな妙心殿」などと、講談や歌ではいわれる台詞があるが、その妙心という若い尼さんがいた寺はここではないようだ。
造酒は酒を止めて、尼寺で櫻井と言う所にある妙圓寺で療養していたとされています。
この櫻井がどのあたりなのか、この寺があったのかは良くわかりません。

さて、ではこの延命寺はいつ頃からあったのでしょうか。
案内板によれば真言宗の寺で、このように法印覚真大和尚の墓(1729年入滅)がある。
京都智積院(ちしゃくいん)、六波羅蜜寺、海住山寺とかなり有名なところを渡り歩いている。
すべて真言宗智山派で、智積院が総本山になる。
ただ詳細は良くわからない。

一方、諏訪大神の境内には「東庄町観光会館」という建物があるが、ここで天保水滸伝の資料などを配布している。
入口横に「大木戸の礎石」と書かれた看板と、その下に長い礎石が置かれている。
この大木戸という地名は、説明によれば笹川の津(港)からの荷物の運搬が盛んになり、城の防御のために大木戸を設けたことで名前がついたという。
笹川の繁蔵はこの大木戸にあった醤油と酢の醸造を営む岩瀬嘉三郎の三男だという(Wiki.)
興味はわくが、時間もないので今回はここまで。


私の興味はもう少し古代にあるが、これも町を知る上で必要と、以前に調べて書かせていただいた。
天保水滸伝は天保年間(1830~1844年)であるから、江戸も後期のことだ。
この時代は東北地方の冷害による「天保の大飢饉」が数年にわたって続いた年でもあり、米の高騰などにより各地で暴動などがおこった時期でもあった。
この飢饉の間(1833⇒1838年)に日本の人口が120万人も減った(3198万人⇒3078万人:by Wiki.)といわれている。
この笹川に縄張りを持っていた渡世の親分笹川繁蔵(岩瀬繁蔵)も江戸の千賀ノ浦 部屋に籍を置いた相撲取り(角力)だったそうだ。
ただこの角力時代は長くはなく約1年で廃業して地元に戻り任侠の一家をおこし、勢力を拡大したという。
この拡大する手段として、全国の親分たちに手紙を送って一大花会を笹川で開いたといわれている。
時期は天保13年(1842年)笹川の須賀山明神の秋に縁日の日だとされ、花会の客は各地の親分衆だけで、その収益は農民救済の名目だったという。
この須賀山明神は昨日紹介した今の諏訪大神だ。
天保水滸伝は大利根河原の飯岡助五郎一家との決闘が有名だが、飯岡助五郎も角力上がりで銚子市と旭市の市境にある飯岡漁港を中心に縄張りを持っていたが、こちらは幕府から任された十手持ちの身分。
助五郎一家が繁蔵一家を取り押さえようと乗り込んだときは、刀は使えず十手や縄のために、繁蔵側でなくなったのは平手造酒一人。
繁蔵たちは、この決闘には勝ったものの十手持ちから追われる立場となったため、暫く身を隠していたが、3年後に舞い戻った。
しかし、助五郎一家の部下3人にだまされて暗殺された。
さて、細かなな話しは昔に映画や講談などで広まったために、面白くするために尾ひれもついており、興味があればご自身でお調べください。
今日は、昨日の諏訪大神から少しのところ(歩いすぐ)にある「延命寺」の紹介です。
ここには「笹川繁蔵、平手造酒の墓、勢力富五郎の碑」がある。

笹川繁蔵が暗殺され、首や胴体は助五郎側に行ってしまって笹川にはなく、ここ延命寺に暗殺場所の土などを埋葬して供養したという。しかし助五郎により、川に流されたなどとの噂話もあったが、実際には丁寧に埋葬され、供養も続けられていたことが判明し、昭和7~8年に銚子市から笹川町に遺骨が返還され、ここに埋葬された。
前に銚子の方と笹川で調査した時の記事があるので、もし興味がおありなら以下にまとめられています。
天保水滸伝(2014年のブログまとめ) ⇒ こちら
剣豪・平手造酒(ひらてみき)は肺病を患っていたといわれ、決闘のときはかなりやせ細っていたらしい。
「止めてくれるな妙心殿」などと、講談や歌ではいわれる台詞があるが、その妙心という若い尼さんがいた寺はここではないようだ。
造酒は酒を止めて、尼寺で櫻井と言う所にある妙圓寺で療養していたとされています。
この櫻井がどのあたりなのか、この寺があったのかは良くわかりません。

さて、ではこの延命寺はいつ頃からあったのでしょうか。
案内板によれば真言宗の寺で、このように法印覚真大和尚の墓(1729年入滅)がある。
京都智積院(ちしゃくいん)、六波羅蜜寺、海住山寺とかなり有名なところを渡り歩いている。
すべて真言宗智山派で、智積院が総本山になる。
ただ詳細は良くわからない。

一方、諏訪大神の境内には「東庄町観光会館」という建物があるが、ここで天保水滸伝の資料などを配布している。
入口横に「大木戸の礎石」と書かれた看板と、その下に長い礎石が置かれている。
この大木戸という地名は、説明によれば笹川の津(港)からの荷物の運搬が盛んになり、城の防御のために大木戸を設けたことで名前がついたという。
笹川の繁蔵はこの大木戸にあった醤油と酢の醸造を営む岩瀬嘉三郎の三男だという(Wiki.)
興味はわくが、時間もないので今回はここまで。


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