fc2ブログ

里山もすっかり色づいて

 今日土曜日は12月会報の印刷日。
午後から八郷地区や旧新治村、つくば市北条などを回りました。

午後からは日も差して比較的穏やかになり、思ったよりは寒くありませんでした。

里山はどこも色とりどりのまだら模様の紅葉が見事です。

途中で何枚か写真を撮りましたので紹介します。

PC030991s.jpg

ここは朝日トンネルの土浦川の入り口付近です。
こんな山の下をトンネルが走っています。
写真左側にトンネルがあり、向こう側の出口が石岡市八郷地区です。

PC030990s.jpg

今の時期はこの辺りの山一帯が紅葉しています。

PC030988s.jpg

この山のふもとに「小町の里」があります。
最近はこの小町山などのハイキングが人気となり、ふもとの駐車場は車でいっぱいでした。

この手前の黄色い穂は刈り取った稲の後に生えてきた「ひこばえ(稲孫、穭)」が黄色く色づいたのでしょうか。
秋に田起こしすればこのような景色にはならないように思います。

PC030986s.jpg

小町の里の奥の山もきれいな模様ができています。

PC030984s.jpg

北条の近くに行ってみると、手前の小山と筑波山の対比がいとおかし(おもしろい)です。


里山の風情 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/03 18:14

東庄町散策(10) 千葉県民の森(その一) 福聚寺と鉄牛和尚

 東庄町の南東側、銚子市と旭市に近い場所に「千葉県民の森」という施設がある。
バーベキューをしたり、森の小鳥を観察したり、テニスコートなどもあるかなり広い施設です。

先週、東庄町散策としてここに行って見ました。
江戸時代に干拓で埋め立てられた「椿海」の東北部の高台にこの施設はあります。
前に紹介した大友城跡のすぐ近くにあります。
共に、この椿海と関係があったことが伺える場所です。

銚子側や旭市側からは椿海干拓後の平野部から行く事ができますが、今回は西側の東庄町側から行って見ました。

先ず、成田線の下総豊里駅から西に向かって延びている県道74号線を進みます。
豊里駅は銚子市笹本町ですが、すぐに上り坂となり下総台地へと上っていき、駅から2kmほどで東庄(とうのしょう)町に入ります。
やがて道は少し狭くなり、古い家並みがあります。
暫く行くと左側に美容室があり、その直ぐ先に「県民の森」への矢印看板があります。
そこを看板に従って左折します。
ここは県民の森の奥にある高台に建つ見晴台、城山の森に通じる道です。
曲がってから直ぐ、左へ「夏目の堰(八丁堰)」への道を左に分かれて、右の道を上っていきます。
暫く行くと切り開かれた森の中に駐車場があり、車を此処に止めて歩いて行きます。

PB280987s.jpg

歩いて直ぐの右手に変った門のお寺が建っているのが見えます。
寺の名前は「福聚寺」(禅寺)といいます。
1678年に鉄牛道機の開山による黄檗宗(おうばくしゅう)の禅寺です。
黄檗宗は江戸時代初期に日本に持ち込まれた禅宗です。どこか中国式を思わせる門ですね。

PB280992s.jpg

この寺は椿海の干拓事業に尽力した鉄牛和尚の寺で、県指定史跡の鉄牛和尚の墓があります。
鉄牛和尚とこの墓石について県教育委員会の説明には

「鉄牛和尚は、寛永5年(1628)に現在の山口県で生まれた。14歳で出家、諸所を遍歴し27歳で長崎に行き、そこで中国から渡来した木庵と隠元から教えを受け、木庵の侍者となって京都の宇治で黄檗山万福寺の創建に尽力しました。
椿海の新田干拓計画は、寛永16年(1639)頃から計画されていたものであったが、幕府の要人から重きを置かれるようになっていた鉄牛が、幕府を説得するとともに工事費用を調達し、寛文11年(1671)にこの大工事を完成させたのである。この事業により、干潟8万石といわれる良田2,741町歩が整備された。
鉄牛は、この干拓による功績により幕府から寺地を寄進され、その寺地に創建した福聚寺(ふくしゅうじ)で晩年を過ごし、同寺において元禄13年(1700)、73才で没した。遺言により境内で荼毘(だび)に付され、その場所には高さ約2mに及ぶ巨大な石塔が建てられた。この石塔は、墓石が仙台藩主伊達綱村、台座・基壇は佐倉藩主稲葉正通の寄進によるものである。」

と書かれていました。

PB280993s.jpg

PB280996s.jpg

黄檗宗という宗派はよくわかりませんが、本尊は十一面観音で、日本の臨済宗と同じような教義のようです。
境内には上の写真のような石柱が並べられ、観音像などが彫られています。

PB280994s.jpg

PB280997s.jpg

またお寺の隣には明るい森が広がり、散策できるエリアが広がっています。
この場所は山の上で、この下にこの鉄牛和尚が指導した椿海の干拓地が広がっています。
こちらはまた次に書きます。

小見川・東庄 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2022/12/05 20:21

東庄町散策(11) 千葉県民の森(その二) 椿海と八丁堰

 東庄(とうのしょう)町散策での県民の森の続きです。

江戸時代初期までは今の旭市から匝瑳市や銚子市北部や東庄町にかけて大きな湖が存在しました。
私も千葉県北部の散策などを始める前までは知りませんでした。
そして何度か説明看板などを現地で見て、段々イメージとして固まって行きました。

前にも書いた地図に少し加筆してあらためて下記に載せます。

tsubakinoumi.png

これはFlood Mapsという洪水のシュミレーションソフトですが、これで海面が現在の+5mとなったとしたらと設定した地図です。
ここに九十九里浜の内陸側に大きな湖が表示されます。
ここが昔椿海(つばきのうみ)とか太田ノ胡水とか言われた湖です。

また、小見川の町も同様に利根川部分が大きく入り込んだ湾が表示されます。
こちらは府馬の大クスで知られる高台から一望できる「麻績(おみ)千丈ヶ谷」と呼ばれた場所です。
小見川の名前もこの「麻績(おみ)」族という部族がやってきて名前となったのではないかと思われます。

さて、今回紹介の東庄町東部にある「千葉県民の森」は上の地図を見ると、この椿海(つばきのうみ)の東北部にあります。
ともに此処から高い崖や山となっており、この椿海を江戸時代に干拓して干潟八万石と言われた大きな米どころとなった平野がこの高台から見下ろす事ができます。

PB281002s.jpg

昨日書いた鉄牛和尚のお寺「福聚寺」の東側には上のような看板が立っています。
Flood Mapsの地図と対比してみると一目瞭然でこの湖が現在の広大な田んぼなどに変化している事が理解できます。
そして、千葉氏の祖と言われた平良文などがこの湖を利用して高台に城を築いた事などが理解できそうです。
徳川家康が江戸に都を築いたときは殆んど人口は江戸にいなかったのですが、あっという間に人口は急増し、米も大量に調達する必要がありました。
千葉の此処も豊かになるためにこの湖を埋め立てる計画の申請が出され、着手したがなかなかうまくいかず、一時諦めかけたようです。
しかしそれを助けて干拓ができるように働きかけたのが鉄牛和尚(禅師)だそうです。

PB281004s.jpg

福聚寺から続くこの干潟八万石の展望台からこの干潟が良く見下ろせます。
左手には県民の森の中心の芝生広場があり、その奥に広大な干潟を見ることが出来ます。

PB281001s.jpg

またその少し左手には池が見えます。
これは八丁堰(夏目の堰)と呼ばれる灌漑用溜池です。元は椿海の一部だといいます。

PB281003s.jpg

芝生広場。バーベキュー場や弓道場、テニスコートなどが近くにあります。

PB281000s.jpg

八丁堰と奥が干潟八万石といわれた平野です。

PB280999s.jpg

さて、この展望場所の脇に「城山の森」という看板が立っており、その脇に「沼闕(ぬまかけ)城跡」というポールが立っています。
ここも大友城と同じく東氏関連の城で東胤頼の三男「東盛胤」の居城であったと言われています。

この福聚寺や城山あたりの標高は20mほどです。
ここから下の八丁堰まで降りてみました(車で回っていけます)。

PB281017s.jpg

ここはたくさんの水鳥(カモ類)の楽園のようです。
一面鴨の群れがびっしりです。
ちょっとしたとなどでいっせいに飛び立ったりします。

PB281013s.jpg

白鳥も飛来するようですが、私が訪れた時はまだのようでした。

PB281009s.jpg

PB281008s.jpg


小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/06 11:14

豊浦について

 以前、このブログでも常陸の養蚕神社(三蚕神社)について書いたことがある。

・金色姫伝説(蚕影山神社:つくば市神郡) ⇒ こちら
・蚕養神社(日立市川尻) ⇒ こちら
・蚕霊神社(神栖市日川) ⇒ こちら

この常陸の三蚕神社と呼ばれる三箇所の神社は共に「豊浦」と名付けられた場所にあり、今は海や川に面していなくとも昔はここに金色姫を乗せた舟がインドから流れ着き、養蚕が伝わったとする昔話が存在する。

これは前に書いたことで、この時この三箇所の地名が何故「豊浦(とようら)」になっているのかが不思議に思っていた。

今日、家にある会津八一氏の「自註鹿鳴集」の文庫本を手に取り眺めていた。
するとそこに「豊浦(とよら)にて」という箇所があった。

豊浦(とよら)にて

 ちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を
 おして たて けむ この むら の へ に


 豊浦・岡寺駅の東北3キロ。欽明天皇13年(552)百済国より献じたる仏像を、この地なる豊浦宮に安置して豊浦寺といひ、仏法最初の寺と称せらる。
かみのいむとふ・「いむ」は「忌む」。「とふ」は「といふ」の略。
日本在来の八百万の神達は、これを好みたまはざるべしといふ懸念、その頃一般に行われたり。

と書かれていました。

そうだったのかと遅咲きの知識に加えて始めて何処か納得したしだい。

豊浦宮は「とゆらのみや」と読ませているが、現在の地名は「奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)」となっている。
宮と名がつくのはここを推古天皇(女帝)が即位後しばらくの間宮殿として使っていたためという。

会津八一の説明にあるように、推古天皇より前の552年(欽明天皇13年)に百済(聖明王)から金銅仏が日本で最初にもたらされた仏像だといわれています。
欽明天皇は蘇我稲目に仏像を与えてこれを崇拝させてみたのです。蘇我馬子はこの稲目の子です。
蘇我稲目の自宅が小墾田の向原(むくはら)にあり、ここを寺に改造してこの仏像を祀ったと伝えられており、これが豊浦宮・豊浦寺(日本最古の尼寺)となり、現在は「向原寺」となっています。
豊浦寺に仏像が祀られ、仏教を広めようとしていた蘇我氏でしたが、八百万の神が日本にはあり、仏教を嫌う物部氏により、寺は焼かれ、この仏像は近くの難波の堀江に投げこまれたといわれています。

その後物部氏をやぶり、仏教を広めようと蘇我馬子が飛鳥寺を建立しました。
この豊浦宮・豊浦寺(現向原寺)が日本仏教発祥の地と言っても良いでしょう。

投げ捨てられた仏像ですが、これを拾い上げて信濃に持ち帰り祀ったと言うのが信濃善光寺の始まりといわれています。
しかし、ここの向原寺にも飛鳥の仏像が存在します。

善光寺の仏像は釈迦三尊像で実物は秘仏で殆んど拝顔することはできません。
一方この向原寺の仏像は金銅観音菩薩立像1体で、近くの難波池で1772年に首から上は発見され、胴体部分は江戸時代に造られたものといわれています。

これが1974年に厨子ごと盗難に会い、2010年にオークションに出品されていたのを寺が買い戻したといいます。
仏像は元の姿でありましたが、厨子はなくなっていたそうです。

豊浦は昔、止由良、等由良などと書いていたようですので、発音はトユラが正しいのでしょう。
只今は、トヨウラと殆んどの場所で読まれていて、全国各地にたくさん存在するようです。
また、日本に仏教が伝わったのはもう少し前という説もあり、奈良の元興寺に残された「元興寺縁起」によれば戊午年(538年)とされているようです。

地名もいろいろな歴史的な出来事に関係しているのかもしれませんね。

玄翁が打ち砕いた那須野の九尾狐の殺傷石は全国の「高田」という地名の所に飛んで行ったとも言われています。
これらもきっとその地に神楽などが伝えられているようですので、関係があるのでしょう。
南総里見八犬伝などを思い出してしまいます。








つらつら思うこと | コメント(2) | トラックバック(0) | 2022/12/09 12:58

小雨の銚子港

 12月に入り大分寒くなって来ました。
昨日はまた銚子まで行って来ましたが、あたりの黄葉・紅葉もほぼ終りとなり小雨が降って寒い一日でした。

そんな中、銚子漁港近くで昼食を早めにとり、港を眺めて来ました。

PC131007s.jpg

昼頃ですので、銚子漁港(駅に近い側)も舟溜りにはたくさんの漁船が並んでいました。
このような日はあまり外洋へ出ての漁もあまり出来ないのでしょうね。

PC131009s.jpg

上の写真は向かって左側が利根川(河口付近)で、右側が船溜りエリアになっています。
通常は朝帰って来た船からこの間のトラックエリアに大型トラックなどが並び、船からトラックに魚が水揚げされます。
そしてカモメなど鳥もおこぼれをねらって飛び回ります。
今日は小雨が降り、もう昼時ですからトラックなどはほとんどいません。

PC131008s.jpg

利根川の上流側に目をやると、銚子大橋が茨城県側とつながっています。
橋も近年建て替えられて、今は無料ですが建設した当初数年間は有料でした。

そのずっと前は、この橋の少し手前に船の桟橋があり、(茨城県神栖市)波崎と繋いでいました。
結構学校などの生徒の行き来もあったようです。




銚子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/14 12:04

黄葉も残りわずか?雨に人気もなし

 先月末頃に黄葉を見に訪れた行方市の西蓮寺。
昨日雨がふっていたが、銚子までの行きの道中に、見納めにと思い立ち寄る事にした。

PC130989s.jpg

多分この前の土日にはテレビで紹介されていた影響で、結構賑わったのではないかと思う。
でもこの日は辺りには誰もいません。
小雨が降り、まだ時間も朝の9時少し過ぎあたり。

PC130991s.jpg

びっしり敷き詰められたような銀杏の葉も、雨にぬれ淋しそう。

PC130994s.jpg

近くの保育園、幼稚園などの子供達の声もありません。

PC130997s.jpg

紅葉もまだ赤く色づいてきれいでしたが、こんな時に訪れる人はやはりいなかったですね。

PC130986s.jpg

雨に濡れないように木の下や、門のところで雨宿りしながら・・・・傘も差さずに足早に撮影して引き上げました。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/14 13:48

秘密の紅葉スポットへ。

もう12月も半ば。昨日は雨だったし、一日出かけており帰ったのも夜8時過ぎ。
 しかし、今日は少し風はあるが、穏やかな陽気。

午後になり、2年前に今の時期に紅葉がきれいだった秘密の場所(八郷地区)を思い出して、また訪れてみました。
今回は一人。 
もう紅葉・黄葉も終わりに近づいてきてはいてもまだ素晴らしい光景がそこにはあった。

PC140984s.jpg

PC140985s.jpg

PC140987s.jpg

PC140988s.jpg

PC140990s.jpg

PC140991s.jpg

PC140992s.jpg

PC140986s.jpg

ここには昔何かがあったことを示す看板がありますが、もうあまり読めなくなっています。
昔ここには立派な薬師堂がありました。

何故、行政(教育委員会?)は昔からここの看板を直さないのか?
もう十五年以上前から変わりません。

でもここの紅葉と竹林のコントラストの美しさは変わらずにいつまでも保たれて欲しいものです。
ですからあまり知られたくもないのですが・・・・。

PC141002s.jpg

ここからは筑波山から雪入山方面に続く山並みが見えます。

PC141003s.jpg

また、八郷地区(十三塚)の家並みが見える少し高台です。



八郷地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/14 18:25

わらべうたカレンダー

 きょう午前中に5回目のコロナワクチン注射をしてきました。

これも当初は5回目まであるなんて考えてもみなかったのですが・・・
まあ、ワクチンに抵抗のある方もおられるのは分かっていますし、実際にアレルギー反応が強く出る方もおられます。

でもそれを承知して、個人の考え方に従ってワクチンも打つことを自分では理解してきたつもりです。

ワクチンを打ってもコロナに感染するのをゼロにすることは出来ません。
少なくても感染した時の危険となるリスクは減るでしょう。

今中国ではゼロコロナ政策を転換して、この1月下旬の春節でどのようなことが起こるか、少し怖い思いがしています。

4回目の接種時は少し熱が出たりして、翌日はゆっくりのんびりしていましたが、今回はどうでしょうか?
聞く所ではあまり副反応は聞こえてきません。

丁度良いのでのんびりしていきます。

先日狭山の「池原昭治」さんの動画を見ていたら心癒され、来年度のカレンダーを購入しました。
すぐに到着して机のわきに飾っています。


来年は良いことがありますように! 
戦争や軍備増強などと心がざわつくことなどを癒してほしいと願っています。


PC120983s.jpg

PC120984s.jpg

PC120982s.jpg


近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/19 15:49

霞ヶ浦も波高し

 今年も残り少なくなって来ました。

先週金曜日に、また銚子まで出かけました。
その前夜は雨が降りましたが、当日は晴れ上がって透き通った冬の青空が広がっていました。

しかし、時々強い風も吹いていました。
こんなときの霞ヶ浦は結構波が高いのです。

途中、麻生の天王崎へ立ち寄ってみました。
ここは霞ヶ浦に少し突き出した岬となっていて筑波山も良く見える場所です。

PC230983s.jpg

やはり、風が強いと、大きく波立った湖面が見え、岸辺のコンクリートには水飛沫が叩きつけられていました。
穏やかなときは優しい表情を見せるこの湖も、風が強い日は少し怖い表情になります。

PC230984s.jpg

こんな波の高い日でも、鳥たちが湖面に止まり、波に揺られていました。

PC230985s.jpg

筑波山も遠くにかすんでいます。
昔、「香澄の里」と呼ばれたのはこのあたりなのでしょうか。
天王崎という名前も、ここの天王社(牛頭天皇)が有ったからでしょう。
今は廃仏毀釈で、天王社の名前は消え、スサノオなどを祀る神社となっています。
でも祭礼では馬を引き連れて、各家などを回っています。

PC230987s.jpg

上の写真は少し望遠で拡大したのですが、手前の波も一緒の方が距離感が出ますね。
筑波山の麓辺りを「ニイバリの洲」と呼んだとすれば、古代の人は、あそこにどんな世界を想像したのでしょうか?

PC230991s.jpg

強い風の中でも鳥たちが渡って行きます。
元気ですね。

このあと、茨城の東南端の波崎から銚子大橋を渡って、銚子へ昼前に渡ったのですが、橋の上はかなり風が強く、時々私の小さな車もフラフラ・・・
危険なほどでは有りませんでしたが、しっかりハンドルを握っていました。
風は陸側から海側に向かって、ビュー、ビュー、ビューという感じで強弱を繰り返して吹き付けていました。

まだ来年も銚子に行く事になりそうです。
さて、今度は何処を散策しようかな。

霞ケ浦の自然 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/27 14:22

大生神社へ

 銚子への途中に30分くらい時間に余裕があったので、今年最後の神社めぐりとしてどこへ行こうかと考えましたが、思いついたのは、「大生(おおう)神社」でした。

ここも何度か来てはいますが、暫く振りでのきがします。
潮来から北へ4~5km位離れていますが、元鹿島と呼ばれる何かありそうな雰囲気が漂っています。

PC230992s.jpg

この神社の参道は結構長く、車で神社の前まで行く事ができます。
木々の間を縫って神社めがけて行きます。

PC230993s.jpg

神社の前まできて、直ぐ脇の開けた場所に車を止めました。
時々この道路を通る車がありますが、神社にお参りする人の姿はありませんでした。

PC230995s.jpg

正面が神社の拝殿。左側は神楽殿でしょうか。
ここでは巫女舞が奉納されるのでしょう。

PC230996s.jpg

こちらが拝殿。昔は藁葺きだったのでしょう。いまはこのような銅版葺きです。
重厚感がある屋根です。

PC230999s.jpg

拝殿の後ろ側が本殿です。
本殿は県指定の文化財です。

PC231001s.jpg

この神社の周りは家も建て込んでなく、またかなり多くの古墳が眠っています。
昔、タケカシマなどの大和朝廷からこの地の征服に派遣された九州地方を主体とした海洋民族?の多氏たちがこの地に住んだものと思われます。


PC231005s.jpg

PC231004s.jpg

PC231007s.jpg

PC231009s.jpg

帰りに築地(ついじ)方面を通って国道50号線に出ましたが、この築地地区なども道の流れが変っていて、不思議な感覚になる場所です。ここの熱田神社なども気になる神社の一つです。

築地という名前は、土を盛り上げて作った場所なのでしょうか。
築地の熱田神社から、国道50号線へはかなり下るループ式の道路となっています。

潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/27 14:59
 | HOME |