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東庄町散策(11) 千葉県民の森(その二) 椿海と八丁堰

 東庄(とうのしょう)町散策での県民の森の続きです。

江戸時代初期までは今の旭市から匝瑳市や銚子市北部や東庄町にかけて大きな湖が存在しました。
私も千葉県北部の散策などを始める前までは知りませんでした。
そして何度か説明看板などを現地で見て、段々イメージとして固まって行きました。

前にも書いた地図に少し加筆してあらためて下記に載せます。

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これはFlood Mapsという洪水のシュミレーションソフトですが、これで海面が現在の+5mとなったとしたらと設定した地図です。
ここに九十九里浜の内陸側に大きな湖が表示されます。
ここが昔椿海(つばきのうみ)とか太田ノ胡水とか言われた湖です。

また、小見川の町も同様に利根川部分が大きく入り込んだ湾が表示されます。
こちらは府馬の大クスで知られる高台から一望できる「麻績(おみ)千丈ヶ谷」と呼ばれた場所です。
小見川の名前もこの「麻績(おみ)」族という部族がやってきて名前となったのではないかと思われます。

さて、今回紹介の東庄町東部にある「千葉県民の森」は上の地図を見ると、この椿海(つばきのうみ)の東北部にあります。
ともに此処から高い崖や山となっており、この椿海を江戸時代に干拓して干潟八万石と言われた大きな米どころとなった平野がこの高台から見下ろす事ができます。

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昨日書いた鉄牛和尚のお寺「福聚寺」の東側には上のような看板が立っています。
Flood Mapsの地図と対比してみると一目瞭然でこの湖が現在の広大な田んぼなどに変化している事が理解できます。
そして、千葉氏の祖と言われた平良文などがこの湖を利用して高台に城を築いた事などが理解できそうです。
徳川家康が江戸に都を築いたときは殆んど人口は江戸にいなかったのですが、あっという間に人口は急増し、米も大量に調達する必要がありました。
千葉の此処も豊かになるためにこの湖を埋め立てる計画の申請が出され、着手したがなかなかうまくいかず、一時諦めかけたようです。
しかしそれを助けて干拓ができるように働きかけたのが鉄牛和尚(禅師)だそうです。

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福聚寺から続くこの干潟八万石の展望台からこの干潟が良く見下ろせます。
左手には県民の森の中心の芝生広場があり、その奥に広大な干潟を見ることが出来ます。

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またその少し左手には池が見えます。
これは八丁堰(夏目の堰)と呼ばれる灌漑用溜池です。元は椿海の一部だといいます。

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芝生広場。バーベキュー場や弓道場、テニスコートなどが近くにあります。

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八丁堰と奥が干潟八万石といわれた平野です。

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さて、この展望場所の脇に「城山の森」という看板が立っており、その脇に「沼闕(ぬまかけ)城跡」というポールが立っています。
ここも大友城と同じく東氏関連の城で東胤頼の三男「東盛胤」の居城であったと言われています。

この福聚寺や城山あたりの標高は20mほどです。
ここから下の八丁堰まで降りてみました(車で回っていけます)。

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ここはたくさんの水鳥(カモ類)の楽園のようです。
一面鴨の群れがびっしりです。
ちょっとしたとなどでいっせいに飛び立ったりします。

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白鳥も飛来するようですが、私が訪れた時はまだのようでした。

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小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/12/06 11:14
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